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小野藩 - Wikipedia

小野おのはん(おのはん)は、播磨はりまこく加東かとうぐんりょうしたはんはんちょう現在げんざい兵庫ひょうごけん小野おの西本にしほんまち小野おの陣屋じんやかれた。

外様とざま大名だいみょう一柳いちりゅうが、江戸えど時代じだい初期しょきから廃藩置県はいはんちけんまでおさめた。

はんふみ

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寛永かんえい13ねん1636ねん)、伊勢いせこく神戸こうべはんあるじ一柳いちりゅう直盛なおもり伊予いよこく西条さいじょうはん6まん8000せきあたえられた。直盛なおもり次男じなん直家なおいえがこのとき播磨はりまこく加東かとうぐんないで5000せき分与ぶんよされた。

ところが同年どうねん直盛なおもり任地にんちおもむ途中とちゅう大坂おおさかぼっすると伊予いよこくにおけるそののこりょう男子だんし3にんによって分割ぶんかつされることになった。西条さいじょうはん3まんせき長男ちょうなんちょくじゅうぎ、三男さんなんちょくよりゆき伊予いよこく小松こまつはん1まんせき分与ぶんよされている。直家なおいえには伊予いよこく宇摩うまぐんしゅうじきぐんうちの2まん3000せき分与ぶんよされ、すで播磨はりまりょうしていた5000せきとあわせて都合つごう2まん8000せき領主りょうしゅとなった。

直家なおいえ当初とうしょ伊予いよこく宇摩うまぐん川之江かわのえ現在げんざい愛媛えひめけん四国しこく中央ちゅうおう川之江かわのえ)を居所きょしょとし、陣屋じんやかまえて川之江かわのえはんだてはんした。播磨はりまこく加東かとうぐん領地りょうちぶんりょうとし、王子おうじむら敷地しきち現在げんざい小野おの敷地しきじまち大部おおぶ小学校しょうがっこう付近ふきん)に敷地しきち陣屋じんやいた[1]

小野おのはん1まんせき

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寛永かんえい19ねん1642ねん)、直家なおいえ嗣子ししぼっしたため丹波たんばこく園部そのべはんあるじ小出こいでよしちかしの2なん直次なおじちょくじゅう女婿じょせいとしてむかえ、直家なおいえ嗣子ししとして幕府ばくふねがた。しかし当時とうじ末期まっき養子ようしみとめられなかったため、伊予いよこくにあった所領しょりょう没収ぼっしゅうされて天領てんりょうとなり、のこりょう相続そうぞくというかたち直次なおじ播磨はりまこく加東かとうぐんない1まんせきあたえられた[2]

ぶんりょう支配しはいのためにつくられた敷地しきち陣屋じんや規模きぼちいさかったためか、うけたまわおう2ねん(1653ねん)に直次なおじ小野おの陣屋じんや小野おの西本にしほんまち小野おの市立しりつ小野おの小学校しょうがっこう付近ふきん)をきずいてうつっている[1]

3だいすえれい駿河するがばんのべたから6ねん1678ねん)・元禄げんろく3ねん1690ねん)の2つとめ、元禄げんろく5ねん1692ねん)にはだい番頭ばんがしらとなり、元禄げんろく16ねん1703ねん)には5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし御側おそばしゅとなった。

5だいすえさかえだいはん財政ざいせい悪化あっかし、質素しっそ倹約けんやくおもとした財政ざいせい再建さいけんおこなはん中興ちゅうこうとなった。

9だい末延すえのぶ天保てんぽう4ねん1833ねん)にはだい規模きぼ百姓ひゃくしょう一揆いっきである「加古川かこがわすじ一揆いっき」がこった。天保てんぽう7ねん1836ねん)には大国おおくに隆正たかまさ招聘しょうへい藩校はんこうかえりせいかん」を開校かいこうした。末延すえのぶ嫡子ちゃくしで10代藩主はんしゅとなった末彦すえひこ生涯しょうがい独身どくしんとおしたため、丹波たんばこく綾部あやべはんあるじ九鬼くきたかしの5なん養子ようしむかえ11だい藩主はんしゅすえとくとした。すえとくのもとで幕末ばくまつむかえ、最後さいご藩主はんしゅとなる。累代るいだい墓所はかしょ縁類えんるい黒田くろだおな東京とうきょう渋谷しぶや祥雲寺しょううんじにある。

歴代れきだい藩主はんしゅのうち、だい3だいから9だい藩主はんしゅ駿河するがばんとなっている(7だいまつあきらのみ早世そうせいのためざいばんなし)。

幕末ばくまつから明治めいじ

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1871ねん明治めいじ4ねん)、廃藩置県はいはんちけんにより小野おのけんとなった。小野おのけん同年どうねんちゅうはいされ、姫路ひめじけん飾磨しかまけん兵庫ひょうごけん編入へんにゅうされた。

1884ねん明治めいじ17ねん)、最期さいご藩主はんしゅまつとくのとき、華族かぞくれいによりすえとく子爵ししゃくじょせられた。なお、すえとくの3じょ満喜子まきこ建築けんちく近江兄弟社おうみきょうだいしゃ設立せつりつしたウィリアム・メレル・ヴォーリズつまとなっている。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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一柳いちりゅう

外様とざま 2まん8せんせき→1まんせき (1636ねん~1871ねん

  1. 直家なおいえ
  2. 直次なおじ のこりょう相続そうぞくにより1まんせき
  3. すえれい
  4. すえこん
  5. すえさかえ
  6. すええい
  7. すえあきら
  8. すえしゅう
  9. 末延すえのぶ
  10. 末彦すえひこ
  11. すえとく

幕末ばくまつ領地りょうち

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藩政はんせい資料しりょう資料しりょうかん

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小野市おのいち好古こうこかん

小野おのはん一柳いちりゅう史料しりょうは、小野おの陣屋じんやあと立地りっちする小野市おのいち好古こうこかん(1990ねん開館かいかん)に収蔵しゅうぞうされており、以下いか刊行かんこうされている。

  • 一柳いちりゅうまつさかえしる柴田しばたはじめ校訂こうてい家政かせいろく 播州ばんしゅう小野おのはんいち柳家やなぎや史料しりょう1』(小野おの市立しりつ好古こうこかん、1995ねん
  • 小野おの市立しりつ好古こうこかんへん柴田しばたいち校訂こうてい由緒ゆいしょしょ 播州ばんしゅう小野おのはんいち柳家やなぎや史料しりょう2』(小野おの市立しりつ好古こうこかん、1999ねん
  • 小野おの市立しりつ好古こうこかんへん柴田しばたいち校訂こうてい将軍しょうぐん大名だいみょう家臣かしん 播州ばんしゅう小野おのはんいち柳家やなぎや史料しりょう3』(小野おの市立しりつ好古こうこかん、2004ねん

このほか、自治体じちたい小野市おのいち』などに史料しりょう収録しゅうろくされている[3]

小野おのはんかんする独立どくりつした書籍しょせきとして、以下いかのようなものがある。

  • 藤田ふじたたかしへん福島ふくしま四郎しろう校訂こうてい小野おの旧藩きゅうはん』(小野おのはん創始そうしさんひゃくねん記念きねんかい、1937ねん
  • 小林こばやしただし小野おのはん事典じてん』(小野市おのいち文化ぶんか連盟れんめい小野おの歴史れきしかい、1990ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ a b 佐野さの充彦みつひこ「おの歴史れきし散歩さんぽ」vol.52 「城下町じょうかまち」への憧憬どうけいやまず」『広報こうほうおの』だい657かん小野おの、2014ねん12月、34ぺーじ2021ねん9がつ11にち閲覧えつらん 
  2. ^ 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいろくひゃくよん国民こくみん図書としょばん寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいよん輯』p.157、『しんてい寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか だいじゅう』p.157。
  3. ^ 兵庫ひょうご県内けんないかくはん家臣かしん一覧いちらん掲載けいさいされている資料しりょう”. 兵庫ひょうご県立けんりつ図書館としょかん. 2021ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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先代せんだい
播磨はりまこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1636ねん - 1971ねん 小野おのはん小野おのけん
次代じだい
姫路ひめじけん