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天洋丸級貨客船 - Wikipedia

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん

東洋とうよう汽船きせんおよび日本にっぽん郵船ゆうせん所有しょゆうしていた貨客船かきゃくせんのクラスのひと
春洋はるみまるから転送てんそう

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん(てんようまるきゅうかきゃくせん)とは、かつて東洋とうよう汽船きせんおよび日本郵船にっぽんゆうせん所有しょゆうしていた貨客船かきゃくせんのクラスのひとつ。日本にっぽんにおける貨客船かきゃくせんのクラスにおいてはじめて1まんトンをえたクラス、またタービン機関きかん使用しよう選択せんたくした最初さいしょのクラスとして、日本にっぽん船舶せんぱく史上しじょう一大いちだいマイルストーンとなっている。

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん
てんようまる
基本きほん情報じょうほう
ふねしゅ 貨客船かきゃくせん
運用うんようしゃ 東洋とうよう汽船きせん
日本郵船にっぽんゆうせん
建造けんぞうしょ 三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ
建造けんぞう 492まんえん
建造けんぞう期間きかん 1905ねん - 1911ねん
就航しゅうこう期間きかん 1908ねん - 1932ねん
計画けいかくすう 3せき
建造けんぞうすう 3せき (1せき喪失そうしつ、2せき引退いんたい)
まえきゅう 日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん
つぎきゅう 浅間あさままるきゅう貨客船かきゃくせん
要目ようもく (てんようまる)
総トン数そうとんすう 13,454トン
垂線すいせんあいだちょう 167.70 m
はば 19.20 m
喫水きっすい 11.7 m
しゅ機関きかん タービン機関きかん 33じく
19,000 軸馬力じくばりき
速力そくりょく 18.0ノット (20.7 mph; 33.3 km/h)
旅客りょかく定員ていいん 一等いっとう:249めい
とう:73めい
さんとう:600めい
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ほんきゅう実現じつげんには東洋とうよう汽船きせんひきいていた浅野あさの財閥ざいばつ創始そうししゃ浅野あさの総一郎そういちろう熱意ねついおおきく影響えいきょうしており、競合きょうごう船主せんしゅとの対抗たいこうじょう当時とうじ日本にっぽんでは前代未聞ぜんだいみもんだいプロジェクトとして浅野あさの音頭取おんどとりによって建造けんぞう実現じつげんした。てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん存在そんざい東洋とうよう汽船きせん経営けいえいにプラスになったかどうかはさておき、日本にっぽん船舶せんぱくかい、とりわけ造船ぞうせんぎょうへの影響えいきょう貢献こうけん莫大ばくだいなものがあった[1]。3せき就航しゅうこうしたが、1せき海難かいなん事故じこにより不幸ふこうにしてはやうしなわれ、のこる2せき東洋とうよう汽船きせん経営けいえいなんから日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせきうえ後継こうけい浅間あさままるきゅう貨客船かきゃくせんわるようにリタイアし、船舶せんぱく改善かいぜん助成じょせい施設しせつ解体かいたい見合みあせんとしてその生涯しょうがいまっとうした。

ほんこうでは、おも建造けんぞうまでの背景はいけい特徴とくちょうなどについて説明せつめいする。

建造けんぞうまでの背景はいけい

編集へんしゅう

1896ねん明治めいじ29ねん)6がつ創業そうぎょうした東洋とうよう汽船きせん浅野あさの財閥ざいばつ)は[2]パシフィック・メイルしゃ英語えいごばん(PMしゃ)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタルしゃOriental and Occidental)との提携ていけいによりサンフランシスコ香港ほんこんあいだ航路こうろを、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶せんぱく6せき自己じこ船舶せんぱく3せき開設かいせつする[3][4]。この航路こうろのために用意よういされたのが日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせんであり、経営けいえい比較的ひかくてき順調じゅんちょう推移すいいしていた[5]

ところが、提携ていけいさきひとつであるパシフィック・メイルしゃと、後発こうはつぐみの、ジェームズ・ジェローム・ヒルひきいるグレート・ノーザン汽船きせん会社かいしゃは、ともに1まんトンをえる大型おおがたせん建造けんぞう[6]。パシフィック・メイルしゃの「コリア」 (S.S. Korea) と「サイベリア」 (S.S. Siberia) は太平洋たいへいよう航路こうろでははじめての1まんトンちょう貨客船かきゃくせんであり、つづいて建造けんぞうされた「モンゴリア」 (S.S. Mongolia) と「マンチュリア」 (S.S. Manchuria) は1まん3せんトンきゅうに、グレート・ノーザン汽船きせん会社かいしゃの「ミネソタ」 (S.S. Minnesota) と「ダコタ」 (S.S. Dakota) にいたっては2まんトンをえるおおきさであった[7]。1まんトンちょう大型おおがたせん威力いりょくすさまじく、たとえば「亜米利加あめりかまる」はホノルルですでに確保かくほしていた船客せんきゃく40めいを「コレア」にられたほどであった[8]日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん陳腐ちんぷたりにし[9]大型おおがたせん建造けんぞう決議けつぎをしていた東洋とうよう汽船きせんではあったが、にち戦争せんそうすえがある程度ていどつかめるようになるまで計画けいかく実行じっこううつされなかった[10]。そんななか浅野あさの総一郎そういちろうはパシフィック・メイルしゃ社長しゃちょうエドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせん程度ていど船舶せんぱくでは太刀打たちうちできないだろうから、日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせんをパシフィック・メイルしゃわたすか、パシフィック・メイルしゃせんすべてを購入こうにゅうするか」という内容ないよう交渉こうしょうちかけられた[11]浅野あさの総一郎そういちろうはハリマンからのはなしをとりあえずはやりごし、りょう会戦かいせんわったあとの1904ねん9がつから大型おおがたせん建造けんぞう具体ぐたいさせ、日本海にほんかい海戦かいせん勝利しょうりした直後ちょくごの1905ねん6がつ三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ大型おおがたせん2せき建造けんぞう契約けいやくむす[10]、のちに1せき追加ついか発注はっちゅうした[12]。これがてんようまるきゅう貨客船かきゃくせんである。

一覧いちらん

編集へんしゅう
 
てんようまるようまる東洋とうよう汽船きせん
ふねめい 起工きこう 進水しんすい 竣工しゅんこう 備考びこう出典しゅってん
てんようまる 1905ねん6がつ23にち 1907ねん9がつ14にち 1908ねん4がつ22にち [13]
ようまる 1905ねん6がつ23にち 1907ねん12月7にち 1908ねん11月21にち [14]
春洋はるみまる 1907ねん8がつ16にち 1911ねん2がつ18にち 1911ねん8がつ15にち [14]

建造けんぞう

編集へんしゅう

浅野あさの総一郎そういちろう構想こうそうは、当時とうじ認識にんしきではじつ破天荒はてんこうともいうべき壮大そうだいなものであった。トン数とんすうは1まん2せんトン、使用しようする機関きかん当時とうじ日本にっぽんなん実績じっせきもなかったタービン機関きかん導入どうにゅうするという画期的かっきてきてんようまるきゅう貨客船かきゃくせん建造けんぞう計画けいかくたいして、三菱みつびしがわしりごみをするばかりであった[10]てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん発注はっちゅうまでに三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ建造けんぞうされた最大さいだい船舶せんぱく日本郵船にっぽんゆうせんの「丹後たんごまる」(7,463トン)であったが[10][15]トン数とんすうでの比較ひかくではてんようまるきゅう貨客船かきゃくせんは「丹後たんごまる」のおよそ2ばい相当そうとうした。タービン機関きかんにしても、「てんようまる」と「ようまる」が起工きこうした時点じてん日本にっぽんにおいて蒸気じょうきタービンのノウハウがまったくなく、海外かいがいてんじても北大西洋きたたいせいよう航路こうろ就航しゅうこうせんにようやく導入どうにゅうされたばかりであった[10][16]。もっとも、だいいちせんてんようまる」の建造けんぞうが3ねんちかくにおよんだため、「日本にっぽんはつ蒸気じょうきタービンせん」の称号しょうごうは、イギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズしゃ建造けんぞうされ日本にっぽん回航かいこうされた日本にっぽん鉄道てつどうの「比羅夫丸ひらふまる」(1,480トン)のものとなった。タービン機関きかん採用さいよう背景はいけいには、浅野あさの総一郎そういちろう石油せきゆ事業じぎょう懇意こんいにしていたサミュエル商会しょうかい[注釈ちゅうしゃく 1]えんふかかったこともあり[17]、そのえん使つかってカリフォルニアさん石油せきゆ調達ちょうたつ運用うんようしようと目論もくろんだふしがあった[18][注釈ちゅうしゃく 2]

三菱みつびしがわ造船ぞうせんしょ所長しょちょう荘田しょうだ平五郎へいごろう浅野あさの総一郎そういちろうって建造けんぞう計画けいかく再考さいこう具体ぐたいてきには船型せんけい縮小しゅくしょうしゅ機関きかんレシプロへの変更へんこうなどをうながしたが浅野あさの意思いしかたく、浅野あさの主張しゅちょうどおりに建造けんぞうすすめられることとなった[10][11][19]。もっとも、浅野あさの総一郎そういちろう三菱みつびしがわ負担ふたんすこしでもやわらげるべく、タービン機関きかんなどの建造けんぞう資材しざいなどを自前じまえ輸入ゆにゅうして三菱みつびしがわ提供ていきょうする配慮はいりょせた[20]だいいちせんてんようまる」のふね最終さいしゅうてきに492まんえん、そのうち造船ぞうせん奨励しょうれいほうもとづく補助ほじょきんがトンたり20えんであった[1]東洋とうよう汽船きせん輸入ゆにゅうした資材しざいやく151まん4000えんにおよび、これは当初とうしょ見積みつもられたふねの3ぶんの1にちかがくであった[20]

ふねめいについては浅野あさの総一郎そういちろうはその由来ゆらいを『えきけい』にもとめ、その一節いっせつてんげん而地」から「てん」と「」をえらんだのち、「げんよう」はくろうみ意味いみするため忌避きひして、「はる」のえらんだ[21]

特徴とくちょう

編集へんしゅう

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんでは、日本にっぽん貨客船かきゃくせんでははじめてとなる居室きょしつ寝室しんしつおよび浴室よくしつ一体化いったいかした特別とくべつしつや、飲酒いんしゅ喫煙きつえん自由じゆうなラウンジがもうけられた[22]冷房れいぼう装置そうちについても、1901ねん竣工しゅんこう貨客船かきゃくせん熊野くまのまる」(日本郵船にっぽんゆうせん、5,076トン)[23]部分ぶぶんてき装備そうびされていたサーモタンクしき装置そうち大々的だいだいてきれ、食堂しょくどう喫煙きつえんしつ読書どくしょしつなどに導入どうにゅうされた[24]船内せんないよう発電はつでんは75キロワット出力しゅつりょくのものが2装備そうびされ、自動じどうしき閉鎖へいさ装置そうちきの防水ぼうすいとびらテレフンケンしき電信でんしんなども導入どうにゅうされたが、これらも日本にっぽん最初さいしょのものであった[25][26]船内せんない装飾そうしょくは、当初とうしょは「五穀豊穣ごこくほうじょう」をイメージしたものが用意よういされ[25]最終さいしゅうてきには基本きほんアール・ヌーヴォー様式ようしきに、欄間らんまやステンドグラス、ちょうなどの工芸こうげい部門ぶもん日本にっぽん文化ぶんか基調きちょうとした装飾そうしょくほどこされることとなった[27][28]。もっとも、当時とうじ日本にっぽん家具かぐ工業こうぎょう技術ぎじゅつ裂地きれじるいのぞけば内装ないそうととのえるレベルにたっしておらず、すべてイギリスせいであった[27]。「てんようまる」の上等じょうとうしつ入口いりくちには和田わだ英作えいさくによる油絵あぶらえかかげられていた[26]ばんせんようまる」とさんばんせん春洋はるみまる」の船内せんない装飾そうしょく日本にっぽんでの設計せっけいえられ、「春洋はるみまる」の食堂しょくどうには東郷とうごう平八郎へいはちろう立像りつぞう設置せっちされていた[26]

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん特徴とくちょうひとつであるタービン機関きかんはパーソンスしき反動はんどうタービンのものであり、「てんようまる」と「ようまる」は輸入ゆにゅうひんを、「春洋はるみまる」は三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょせいのものがえられた[29][30]導入どうにゅうさいしては、パーソンスしゃから支配人しはいにんと3めい監督かんとくかん来日らいにちし、運転うんてんはもちろんのこと、監督かんとくかんかんしては就航しゅうこう機関きかんとして乗船じょうせんした[29]。ボイラーは三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょせいのスコッチ・ボイラーであったが、ライバルのタービンせんとくらべると若干じゃっかん非力ひりきであり、しかも本来ほんらい石炭せきたんきのものであって石油せきゆきの装置そうちあとでつけられたものであった[31]燃料ねんりょうあぶらようディープ・タンクは石炭せきたんえることもでき、そのためのマンホールもあらかじめ設置せっちされていた[26]

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんでの採用さいようが、日本にっぽん貨客船かきゃくせん最後さいごになったものもある。食堂しょくどうは、36にんようちょうテーブル3きゃく、8にんようしょうテーブル6きゃくが2くみけい12きゃくのテーブルが用意よういされ、200にん船客せんきゃく一斉いっせい食事しょくじがとれるようになっていた[24]。もっとも、ちょうテーブルのスタイルではマナー問題もんだいとく上座かみざ下座げざ問題もんだい続出ぞくしゅつし、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん以降いこう貨客船かきゃくせんではしょうテーブル散在さんざいしきえられた[24]。 「てんようまる」、「ようまる」と「春洋はるみまる」とでは建造けんぞう時期じきことなったことにより目立めだったちがいがある。「春洋はるみまる」は建造けんぞう時期じき後述こうじゅつ東洋とうよう汽船きせん不調ふちょうにあたっていたせいか、船内せんない装飾そうしょくいちじるしく簡素かんそされ、甲板かんぱんざい遊歩ゆうほ甲板かんぱんチーク使つかった以外いがいマツ使用しようしていた[32]。また、「てんようまる」と「ようまる」は有事ゆうじさいには仮装かそう巡洋艦じゅんようかん改装かいそうする計画けいかくがあったのか、かじあたま水線すいせんじょう露出ろしゅつしない構造こうぞうになっていたが、「春洋はるみまる」は一般いっぱん商船しょうせん同様どうようかじあたま水線すいせんじょうている構造こうぞうとなっていた[33]

てんようまるには本格ほんかくてき無線むせん設備せつび設置せっちされ、銚子ちょうし川口かわぐち夫婦ふうふはな整備せいびされた銚子ちょうし無線むせん電信でんしんきょくとのあいだ交信こうしん可能かのうであった。これが日本にっぽん最初さいしょ公衆こうしゅう通信つうしん電波でんぱ利用りようした事例じれいであり、てんようまる電波でんぱ局長きょくちょう米村よねむら嘉一郎かいちろう日本にっぽん最初さいしょ船舶せんぱく無線むせん通信つうしんとされる。なお当時とうじ日本にっぽんでは無線むせん運用うんようノウハウは皆無かいむひとしく、開設かいせつ当初とうしょ湾内わんないならばなんとか交信こうしんできたものの、わんがいると房総半島ぼうそうはんとう障害しょうがいとなって交信こうしん不可能ふかのうとなるとうのトラブルが多発たはつした。のちにノウハウが蓄積ちくせきされるとシアトルに前日ぜんじつにアメリカの無線むせんきょくからみなと気象きしょう状況じょうきょうをききとったり、洋上ようじょう日本にっぽんからおくってもらったニュースをまとめた「船内せんない新聞しんぶん」を発行はっこうすることも出来できるようになった。

就役しゅうえき

編集へんしゅう

だいいちせんてんようまる」は1908ねん明治めいじ41ねん)4がつ22にち竣工しゅんこうし、5月には横浜よこはまこう回航かいこうされて大臣だいじん貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいんりょう議員ぎいんなどすうせんにん観覧かんらんきょうされた[34]来客らいきゃく船内せんない装飾そうしょく豪華ごうかさにおどろき、東洋とうよう汽船きせん今後こんご経営けいえいあやぶむものもいたほどであった[35]。また、べつものは「東洋とうよう汽船きせんかぶりだ」とさけんだりもした[21]。11月にはばんせんようまる」が就航しゅうこうして、日本にっぽんまるきゅう貨客船かきゃくせんのうち「亜米利加あめりかまる」と「香港ほんこんまる」は南米なんべい航路こうろうつされた[30]

しかし、東洋とうよう汽船きせんはサンフランシスコ航路こうろ南米なんべい航路こうろ定期ていき航路こうろ以外いがい有力ゆうりょく航路こうろっておらず、貨物かもつ船隊せんたいそろっていなかった。実際じっさい、「てんようまる就航しゅうこう直後ちょくご創立そうりつ以来いらいはじめての赤字あかじし、1910ねん明治めいじ43ねん)に遠洋えんよう航路こうろ補助ほじょけるまでのあいだは、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん減価げんか償却しょうきゃくアメリカ移民いみん抑制よくせいさくなどになやまされて経営けいえいくるしい状況じょうきょうつづくこととなった[36]経営けいえい不振ふしんさんばんせん春洋はるみまる」の建造けんぞうおおきな影響えいきょうあたえ、建造けんぞう期間きかん間延まのびする結果けっかとなった[12]。また、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん特徴とくちょうひとつであった蒸気じょうきタービンも期待きたいしたほどの成果せいかげなかった。前述ぜんじゅつのように浅野あさの総一郎そういちろうはかねてから石油せきゆ有用ゆうようせい[12][37]、また建造けんぞう当時とうじのカリフォルニア原油げんゆ相場そうばがトンたり6.7えん日本にっぽんさん石炭せきたんがトンたり8えんだったこと、浅野あさの総一郎そういちろう取引とりひきのほかに石油せきゆ精製せいせい事業じぎょう手掛てがけていたことが蒸気じょうきタービン導入どうにゅうおおきな伏線ふくせんとなっていたが[38]、「てんようまる就航しゅうこう直後ちょくご原油げんゆ関税かんぜいげられた結果けっか、「やす原油げんゆ運航うんこうする」という浅野あさの総一郎そういちろう目論もくろみはおおきくくず結果けっかとなってしまった[26][38][注釈ちゅうしゃく 3]機関きかんそのものも発展はってん途上とじょう先行せんこうのレシプロ機関きかんにはかなわず、ライバルの「コリア」とくらべても燃料ねんりょう消費しょうひりょうが35パーセント余分よぶんにかかる結果けっかとなった[26]石炭せきたんきにえざるをなかったとはいえ完全かんぜん石炭せきたんきにはしなかったらしく、2ほん煙突えんとつからはそれぞれちがったいろけむりていた[39]おくれて竣工しゅんこうした「春洋はるみまる」のタービン機関きかんようのボイラーは、この理由りゆうによりはじめから石炭せきたんせんしょうであった[40]浅野あさの総一郎そういちろう個人こじん起因きいんしない理由りゆうもあるとはいえ、日本郵船にっぽんゆうせんいちわり配当はいとうしていたのとは対照たいしょうてき東洋とうよう汽船きせん経営けいえい危機きき株主かぶぬし不満ふまんち、株主かぶぬし総会そうかいでは浅野あさの総一郎そういちろう退陣たいじん要求ようきゅうするまでになった[41]自決じけつ要求ようきゅうするものもいた[42]経営けいえい危機ききは、浅野あさの総一郎そういちろう音頭取おんどとりで成立せいりつした遠洋えんよう航路こうろ補助ほじょほうによる補助ほじょきんにより、当面とうめんることとなる[41]

だいいち世界せかい大戦たいせん時期じきは、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんにとっては天国てんごく地獄じごく時期じきでもある。ヨーロッパの戦乱せんらんけてアジアまわりでアメリカにかう船客せんきゃく増加ぞうかし、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん一等いっとうおよびとう船室せんしつつね満員まんいんという状況じょうきょうとなった[43]。ところが、1916ねん大正たいしょう5ねん)3がつ31にち未明みめいマニラから香港ほんこんかっていた「ようまる」が霧中むちゅう航行こうこうちゅう香港ほんこんおきの担杆とう北東ほくとうはし座礁ざしょう[43][44][45]離礁りしょうできず、4がつ5にち船体せんたいれたため4がつ27にち放棄ほうきされた[46]ようまる座礁ざしょう参照さんしょう)。てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんは「てんようまる」と「春洋はるみまる」の2せき体制たいせいとなる。

1920年代ねんだいはいると東洋とうよう汽船きせん経営けいえい危機きき問題もんだい再燃さいねんし、これにくわえてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうけいふね会社かいしゃであるカナダ・パシフィック・ライン英語えいごばん(CPL)が「エンプレス・オブ・カナダ」(21,517トン)などの2まんトンちょう貨客船かきゃくせんおくむと、苦境くきょう一層いっそうふかまることとなった[47]。そのさなかに発生はっせいした1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさいでは、「春洋はるみまる」が神戸こうべから横浜よこはまへの支援しえん物資ぶっし輸送ゆそう活躍かつやく[48]。その翌年よくねん1924ねん大正たいしょう13ねん)から1925ねん大正たいしょう14ねん)にかけては「てんようまる」がしゅ機関きかんをパーソンスしきタービン機関きかんからギアード・タービン機関きかんかわそうする工事こうじけた[49]。しかし、「てんようまる」と「春洋はるみまる」のいはかくせるものではなく、さりとて東洋とうよう汽船きせんに「てんようまる」と「春洋はるみまる」の代替だいたいせん建造けんぞうする体力たいりょくはもはやのこっていなかった。進退しんたいきわまった東洋とうよう汽船きせん政府せいふ斡旋あっせんにより、1926ねん大正たいしょう15ねん)2がつサンフランシスコ航路こうろ南米なんべい航路こうろとその使用しようせんしん会社かいしゃだい東洋とうよう汽船きせん」に承継しょうけいさせて分離ぶんりし、いで3がつ11にちだい東洋とうよう汽船きせん日本郵船にっぽんゆうせん合併がっぺいされて「てんようまる」と「春洋はるみまる」も日本郵船にっぽんゆうせん移籍いせきした[50][51]。その後継こうけい浅間あさままるきゅう貨客船かきゃくせん建造けんぞう就航しゅうこうにより「てんようまる」は1930ねん昭和しょうわ5ねん)、「春洋はるみまる」は1932ねん昭和しょうわ7ねん)に引退いんたいし、船舶せんぱく改善かいぜん助成じょせい施設しせつ解体かいたい見合みあせんとして「てんようまる」は1933ねん昭和しょうわ8ねん)、「春洋はるみまる」は1936ねん昭和しょうわ11ねん)にそれぞれ解体かいたいされて姿すがたした[33]。なお、「てんようまる」のだいふねとして建造けんぞうされたのがNがた貨物かもつせんよんばんせんの「能代のしろまる」(7,189トン)[52]、「春洋はるみまる」のだいふねとして建造けんぞうされたのがAがた貨物かもつせんネームシップの「あか城丸しろまる」(7,189トン)である[53]

てんようまるきゅう貨客船かきゃくせんは「浅野あさの」とっても過言かごんではないほど浅野あさの総一郎そういちろう心血しんけつそそいだふねであり、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん横浜よこはま出帆しゅっぱんするは、浅野あさの総一郎そういちろうかなら人力車じんりきしゃ横浜よこはまこうおもむいてその船出ふなで見送みおくっていたほどであった[54]造船ぞうせん関係かんけい海外かいがいコンサルタントの三浦みうら昭男あきおが「浅野あさの総一郎そういちろう決断けつだんがTKKの経営けいえいおおきく貢献こうけんしたかどうかは疑問ぎもんのこるが」とひょうしているように[1]東洋とうよう汽船きせん航路こうろすうけっしておおくなく会社かいしゃ維持いじ安定あんていせず、つねにライバルせん会社かいしゃ脅威きょうい対峙たいじつづける状況じょうきょうであった。そういう状況じょうきょうだれよりも浅野あさの総一郎そういちろう企業きぎょう精神せいしんゆめ[55]が、日本にっぽんはじめての1まんトンちょう船舶せんぱく建造けんぞう周囲しゅうい懸念けねん反対はんたいって推進すいしんし、実現じつげんさせたとえよう。造船ぞうせんぎょう観点かんてんからても、日本にっぽんはじめての5000トンちょう貨客船かきゃくせん常陸ひたちまる」(日本郵船にっぽんゆうせん、6,172トン)を三菱みつびし長崎造船所なかざきぞうせんじょ竣工しゅんこうさせたのが1898ねん明治めいじ31ねん)のことであり、それから10ねんで「常陸ひたちまる」のばいにあたるおおきなの船舶せんぱく建造けんぞうできる技術ぎじゅつりょくったということになる。

また、てんようまるきゅう貨客船かきゃくせん日本にっぽん船舶せんぱく史上しじょうにおける位置いち一種いっしゅのターニングポイントでもあり、実際じっさいてんようまるきゅう貨客船かきゃくせん見知みしっている海事かいじ史家しか山高やまたか五郎ごろうは「どう時代じだいいち般邦せん水準すいじゅんと、てんようまるきゅうのそれをくらべてみると、その優秀ゆうしゅうぶりはじつ顕著けんちょなものがあった」と回想かいそうしている[11]山高やまたか後継こうけい浅間あさままるきゅう貨客船かきゃくせんを「事前じぜんごえおおきかったわりたいしたことがない」という趣旨しゅし評価ひょうかあたえており[56][注釈ちゅうしゃく 4]、それだけにてんようまるきゅう貨客船かきゃくせん出現しゅつげん日本にっぽん船舶せんぱくかいおおきなインパクトをあたえた。三浦みうらも、「てんようまるこそがどう時代じだい欧米おうべいのレベルにもっと近付ちかづいた客船きゃくせん」とひょうしている[1]

要目ようもく一覧いちらん

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ふねめい 総トン数そうとんすう/ (載貨さいか重量じゅうりょうトン数とんすう) 全長ぜんちょう/垂線すいせんあいだちょう かたはば かたふか おも/馬力ばりき最大さいだい 最大さいだい速力そくりょく 旅客りょかく定員ていいん 備考びこう出典しゅってん
てんようまる 13,454 トン 175.3 m Loa
167.7 m Lpp
19.2 m 11.7 m パーソンスしきタービン機関きかん33じく / ギアード・タービン機関きかん33じく(1925ねん以降いこう
19,000 馬力ばりき
20.6 ノット 一等いっとう:249めい
とう:73めい
さんとう:600めい
[39][57][58]
ようまる 13,454 トン 175.3 m Loa
167.7 m Lpp
19.2 m 11.7 m パーソンスしきタービン機関きかん33じく
19,000 馬力ばりき
20.6 ノット 一等いっとう:249めい
とう:73めい
さんとう:600めい
[59]
春洋はるみまる 13,377 トン 175.3 m Loa
167.7 m Lpp
19.2 m 11.7 m 三菱みつびしパーソンスしきタービン機関きかん33じく
19,000 馬力ばりき
20.2 ノット 一等いっとう:198めい
とう:70めい
さんとう:620めい
[60]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ライジングサン石油せきゆ、シェル石油せきゆ現在げんざい昭和シェル石油しょうわしぇるせきゆ
  2. ^ この目的もくてき建造けんぞうされたのがタンカー「紀洋のりひろまる」(9,287トン)である(#松井まつい (2006) pp.132-133)。
  3. ^ タンカー「紀洋のりひろまる」がタンカーの姿すがたをした貨客船かきゃくせん改装かいそうされたのも、この影響えいきょうひとつにある(#松井まつい (2006) pp.132-133)。
  4. ^ 山高やまたか浅間あさままるきゅう貨客船かきゃくせんたいするひく評価ひょうか背景はいけいには、「エンプレスきゅう匹敵ひってきする貨客船かきゃくせんができる」といううわさみみにしていることがかんがえられる(#山高やまたか p.215)。実際じっさい実現じつげんしなかったとはいえ1917ねん大正たいしょう6ねん)ごろに東洋とうよう汽船きせんが2まんトンちょう、20ノットの貨客船かきゃくせん建造けんぞう発表はっぴょうしている(#三浦みうら p.135)。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d #三浦みうら p.111
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参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
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  • 山高やまたか五郎ごろう図説ずせつ まる船隊せんたい史話しわ(図説ずせつ日本にっぽん海事かいじ史話しわ叢書そうしょ4)』至誠しせいどう、1981ねん 
  • 財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん経営けいえい研究所けんきゅうじょへん)『日本郵船にっぽんゆうせん株式会社かぶしきがいしゃひゃくねん日本郵船にっぽんゆうせん、1988ねん 
  • 野間のまひさし山田やまだ廸生『世界せかい艦船かんせん別冊べっさつ 日本にっぽん客船きゃくせん1 1868~1945海人あましゃ、1991ねんISBN 4-905551-38-2 
  • 野間のまひさし豪華ごうか客船きゃくせん文化ぶんか』NTT出版しゅっぱん、1993ねんISBN 4-87188-210-1 
  • 三浦みうら昭男あきおきた太平洋たいへいよう定期ていき客船きゃくせん出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ、1995ねんISBN 4-87970-051-7 
  • 松井まつい邦夫くにお日本にっぽん商船しょうせんふねめいこう海文堂かいぶんどう出版しゅっぱん、2006ねんISBN 4-303-12330-7 

関連かんれん項目こうもく

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