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毛利元春 - Wikipedia

毛利もうり元春もとはる

南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代じだい武士ぶし安芸あきこく国人くにびと

毛利もうり 元春もとはる(もうり もとはる)は、南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよ安芸あきこく国人くにびと安芸あき国吉田くによしだそう地頭じとうしょく[1]

 
毛利もうり 元春もとはる
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい - 室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん げんとおる3ねん1323ねん[1][2]
死没しぼつ しょう
改名かいめい おやはつ[1][2]元春もとはる[1]もとおもね法名ほうみょう[2]
別名べつめい しょう輔太ろう通称つうしょう[1][2]郡山こおりやま殿どのおや[2]
戒名かいみょう もとおもねだい禅定ぜんじょうもん[3]
墓所はかしょ 広島ひろしまけん安芸あき高田たかだ吉田よしだまち吉田よしだ毛利もうり歴代れきだい墓所はかしょ
官位かんい したがえ[1][2]みぎ馬頭めず[1][2]備中びっちゅうもり左近さこん将監しょうげん[1][2]けんだいすすむ[1][2]
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 足利尊氏あしかがたかうじ義詮よしあきら義満よしみつ
氏族しぞく 大江おおえせい毛利もうり
父母ちちはは ちち毛利もうりちかし[1][2]はは長井ながい三田みた入道にゅうどうむすめ[1][2]
兄弟きょうだい 元春もとはるさかただしとき[1]有富ありとみただし[1]
こうぼう[3][2]あつははもとぼう[3][2]広内ひろうち[3][2]中馬ちゅうま忠広ただひろ[4][2]福原ふくはらひろ[4][2]もとふち[4][2]
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生涯しょうがい

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祖父そふどきおや代官だいかんとして足利尊氏あしかがたかうじ一貫いっかんしてしたがった。その忠勤ちゅうきんにより、13さい元服げんぷくしたさいには、足利あしかが執事しつじ高師直こうのもろなお兄弟きょうだいやすしからいち拝領はいりょうし「おやもろちか」と名乗なのった(正平しょうへい6ねん/かんおう2ねん1351ねん)にたい没落ぼつらくして以後いご元春もとはる改名かいめい[5][6][注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]

祖父そふさだおやちちしん南朝なんちょうしたがって越後えちごこく南条なんじょうそうにて活躍かつやくし、一族いちぞく対立たいりつすることとなる。後見こうけんやくときおやはそうした争乱そうらん最中さいちゅう南朝なんちょう興国こうこく2ねん/北朝ほくちょうこよみおう4ねん1341ねん)にぼっし、安芸あき国吉田くによしだそう支配しはいもとはるぐことになった。

もとはるは19さい家督かとく相続そうぞくし「郡山こおりやま殿どの」とばれるようになった。みなみ朝方あさがた一族いちぞくてきまわしてのこった元春もとはるは、九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ了俊りょうしゅんしたがって、九州きゅうしゅう下向げこうしてきた朝方あさがたとしてたたかいをひろげることとなる。一方いっぽう敵対てきたい関係かんけいにあったちちおや衡が、九州きゅうしゅうみなみ朝方あさがた勢力せいりょく周防すおうこく大内おおうち弘世ひろよなどとむすんで、九州きゅうしゅう出陣しゅつじんちゅうもとはる領地りょうち侵攻しんこうした。

南朝なんちょうもとなか2ねん/北朝ほくちょう至徳しとく2ねん1385ねん)に嫡子ちゃくしこうぼう安芸あきこく西条さいじょうにて討死うちじにするにおよび、まごひかりぼうあとがせ、その成長せいちょうまで後見こうけんすることとなる。

もとはるだい前後ぜんごから庶子しょし派生はせいし、兄弟きょうだいさか有富ありとみ庶子しょし麻原あさはら中馬ちゅうま福原ふくはらなどがまれている。またさかから、さらにかつら光永みつながこころざしどうなどの庶流まれ、内訌ないこう協力きょうりょくかえしながら、のち戦国せんごく大名だいみょうとしての毛利もうりささえる一門いちもん家臣かしんとなっていく。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 典拠てんきょは『毛利もうり文書ぶんしょ所収しょしゅう毛利もうり元春もとはる自筆じひつごとしょあん[7]
  2. ^ このことが、たいたけしはじまる国司くにじ毛利もうり家臣かしんとなるきっかけとなったとされる[6]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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