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汎ヨーロッパ・ピクニック - Wikipedia

ひろしヨーロッパ・ピクニック

ハンガリーのショプロンでピクニックの開催かいさい名目めいもく亡命ぼうめいのぞひがしドイツ国民こくみん集団しゅうだん亡命ぼうめい後押あとおしした出来事できごと

ひろしヨーロッパ・ピクニック(はんヨーロッパ・ピクニック、ハンガリー: Páneurópai piknikドイツ: Paneuropäisches Picknick)は、1989ねん8がつ19にちハンガリー人民じんみん共和きょうわこくショプロンひらかれた政治せいじ集会しゅうかい西にしドイツへの亡命ぼうめいもとめる1000にんほどのひがしドイツ市民しみん参加さんかし、オーストリア国境こっきょうえて亡命ぼうめいたした。のちベルリンのかべ崩壊ほうかいへとつながる歴史れきしてき事件じけんである。ピクニック事件じけんヨーロッパ・ピクニック計画けいかくともばれる。

ピクニック開催かいさいとそれをしめすモニュメント

背景はいけい

編集へんしゅう
 
  てつのカーテン

1980年代ねんだい後半こうはんポーランドハンガリーでは民主みんしゅへの模索もさくがされはじめ、東側ひがしがわ社会しゃかい主義しゅぎこく盟主めいしゅであるソビエト連邦れんぽうでもゴルバチョフによってペレストロイカはじまっていたが、ひがしドイツ(ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく)ではいまだマルクス・レーニン主義しゅぎもとづき、最高さいこう指導しどうしゃであるホーネッカードイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう(SED)書記しょきちょう国家こっか評議ひょうぎかい議長ぎちょう)が秘密ひみつ警察けいさつシュタージ国家こっか保安ほあんしょう)をもちいて国民こくみんたいするけをつよくしていた。分断ぶんだん国家こっかであるひがしドイツでは「社会しゃかい主義しゅぎのイデオロギー」のみが国家こっかのアイデンティティであり、政治せいじ民主みんしゅ市場いちば経済けいざい導入どうにゅうといった改革かいかくによって西にしドイツとの差異さいくすことは、国家こっか存在そんざい理由りゆう消滅しょうめつ意味いみするとホーネッカーらはかんがえ、東欧とうおうせる改革かいかくなみあらがつづけていた[1]。1988ねんにはソ連それん雑誌ざっしスプートニクドイツばんロシアばん』さえも発禁はっきん処分しょぶんとし、言論げんろん統制とうせいつよめていた[2]

このよう状況じょうきょうなかで、すでハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう(MSZMP)の改革かいかく民主みんしゅすすめていたハンガリーでは、オーストリアとの国境こっきょう300kmにおよ有刺鉄線ゆうしてっせん維持いじ財政ざいせい圧迫あっぱくしていた。この国境こっきょう有刺鉄線ゆうしてっせんは、東西とうざいりょう陣営じんえいあいだひと往来おうらい阻止そしするための「てつのカーテン」の一端いったんであったが、ハンガリーでは1988ねんにはすでに国外こくがい旅行りょこう自由じゆうされ、それ以降いこうこの国境こっきょう違法いほう越境えっきょうは1年間ねんかんでハンガリーじんは10にんで、外国がいこくじんおもひがしドイツとルーマニア)が200にんから250にん程度ていどであり、有刺鉄線ゆうしてっせん維持いじ多額たがく出費しゅっぴをする必要ひつようせいがなかったのである。1989ねん3がつ3にち、ハンガリーのネーメト首相しゅしょうはゴルバチョフと会談かいだんし、「有用ゆうようせいき、違法いほう西側にしがわ脱出だっしゅつしようとするひがしドイツとルーマニアの市民しみんしとどめるためだけに役立やくだっている」と説明せつめいたいするゴルバチョフは、「我々われわれまどひらきつつあるのだ」と返答へんとう暗黙あんもく了解りょうかいあたえた[3]

5月2にち、ハンガリーはオーストリアとの国境こっきょうせん鉄条てつじょうもう撤去てっきょ開始かいしした[4]。そもそも国境こっきょう沿いの鉄条てつじょうもうはハンガリーが衛星えいせいこくなかもっとはやく1949ねんから設置せっちしたものであった[5]が、撤去てっきょ他国たこく先駆さきがけておこなわれることによっててつのカーテンあなけられたのである。よく5がつ3にち、SEDの政治せいじきょく会議かいぎでホーネッカーは「このハンガリーの連中れんちゅうは、一体いったいなにをたくらんでいるんだ!」と怒鳴どなった[6]当時とうじひがしドイツでは、旅行りょこう許可きょかせいで、当然とうぜん西側にしがわへの旅行りょこう許可きょかされなかったが、東側ひがしがわへの旅行りょこう許可きょかされる可能かのうせいたかかった。ハンガリーまでは秘密ひみつ警察けいさつにらまれることなく、合法ごうほうてき国境こっきょうえられて、ハンガリーにたどりけばオーストリア経由けいゆ西にしドイツに亡命ぼうめいできることになり、1961ねんのベルリンのかべ建設けんせつまで慢性まんせいてきつづいていた頭脳ずのう流出りゅうしゅつ再開さいかいするおそれがあったのである。ひがしドイツ指導しどうオスカー・フィッシャー英語えいごばん外相がいしょうがハンガリーの行動こうどう非難ひなんしたが、ソ連それんシェワルナゼ外相がいしょうはフィッシャー外相がいしょうに「それはひがしドイツとハンガリーの問題もんだいだ。我々われわれなにもできない」とさらりとこたえた[7]

ホーネッカーがおそれていたとおり、ひがしドイツ市民しみんおおくが西にしドイツへの亡命ぼうめいのぞんでいた。市民しみんたちは、経済けいざい状況じょうきょうへの不満ふまんもさることながら、げん指導しどう東側ひがしがわ諸国しょこくくらべて政治せいじ改革かいかくなどでおくれをっていたことに不満ふまんだったのである[8]なつ休暇きゅうかをとるための名目めいもくでハンガリーへの旅行りょこう許可きょかしょって出国しゅっこく、ハンガリー・オーストリア国境こっきょうかった。しかし、ハンガリー・オーストリア国境こっきょう開放かいほうされたといっても、通行つうこう許可きょかされるのはハンガリーのパスポートったものだけで、ひがしドイツ市民しみんがこの通行つうこう許可きょかされる可能かのうせいはほとんどなかった。このことは、かれらがハンガリー・オーストリア国境こっきょうまでってはじめてあきらかになったことであった。結果けっかとして国境こっきょう付近ふきんひがしドイツ市民しみん滞留たいりゅうし、なつわりころには国境こっきょう付近ふきんのキャンプじょうにおよそ10まんにんひがしドイツじんあつまっていた[9]

このあいだに、ひがしベルリンにある西にしドイツ常駐じょうちゅう代表だいひょうドイツばん英語えいごばんにも100にんえるひがしドイツ市民しみん西側にしがわへの出国しゅっこくのぞんでせて、8がつ8にち西にしドイツ常駐じょうちゅう代表だいひょうはその建物たてもの封鎖ふうさした。8がつ10日とおかにブダペストの、22にちにはプラハの西にしドイツ大使館たいしかんおな理由りゆうから建物たてもの封鎖ふうさした[8]

ひろしヨーロッパ・ピクニックの開催かいさい

編集へんしゅう
 
ひろしヨーロッパ・ピクニックの中心ちゅうしん人物じんぶつだったオットー・フォン・ハプスブルク

こうした状況じょうきょうなか、ハンガリーで民主みんしゅもとめる民主みんしゅフォーラム民主みんしゅもとめる勢力せいりょくは、多少たしょう強引ごういんにでもかれらを越境えっきょうさせてしまおう、とかんがえるようになった。すで共産党きょうさんとう政治せいじ勢力せいりょく活動かつどうみとめられていたハンガリーでは、こうした民主みんしゅもとめる運動うんどう活発かっぱつになっていた。

それが「ピクニック」というかたちになったのは、かる冗談じょうだんがきっかけだった。1989ねんなつオーストリア=ハンガリー帝国ていこく最後さいご皇太子こうたいしであるハプスブルク=ロートリンゲン当主とうしゅオットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェン大学だいがく講義こうぎおこなった。その、オットーを歓迎かんげいする夕食ゆうしょくかいで、デブレツェン在住ざいじゅう民主みんしゅフォーラム活動かつどうメサロシュ・フェレンツが、ハンガリーがてつのカーテンによる分断ぶんだんから解放かいほうされたことをいわおうと冗談じょうだんったところ、周囲しゅうい出席しゅっせきしゃからは様々さまざまなアイディアがてきた。

そのなかから、オーストリア・ハンガリーの国境こっきょう地帯ちたいでたきをしてバーベキュー・パーティをおこない、ハンガリーじんとオーストリアじんが、国境こっきょうのフェンスをかこんでもの交換こうかんうことで、ヨーロッパ東西とうざい分断ぶんだんするフェンスが、地理ちり歴史れきし(オーストリアとハンガリーは20世紀せいき初頭しょとうまでおな国家こっかだった)を無視むししている事実じじつ世界せかいしめそう、というあんたのである[10]

このはなし夕食ゆうしょくかいあがったが、そのときはパーティのせきでの冗談じょうだんであった。メサロシュが夕食ゆうしょくかい10日とおかに、民主みんしゅフォーラムの会議かいぎ席上せきじょうでこのはなしをしたときも、おおくの出席しゅっせきしゃ冗談じょうだんめたが、フィレプ・マリア英語えいごばんという女性じょせいは、これを本格ほんかくてき実行じっこうすることをメサロシュに提案ていあんし、2人ふたり準備じゅんびはじめた。

2人ふたりはまず、オットー・フォン・ハプスブルクと、MSZMPの改革かいかくとして民主みんしゅ主導しゅどうしていたポジュガイ・イムレハンガリーばん政治せいじ局員きょくいん支援しえん要請ようせいした。オットーはこれを受諾じゅだくし、ポジュガイもこの支援しえん要請ようせい快諾かいだくすると、ネーメト首相しゅしょうともはない「そのピクニックをたんなるピクニックではなく、もっともっとおおきな出来事できごとにしよう」とめた。すでにオーストリア国境こっきょう開放かいほうしていたかれらは、ハンガリーが共産きょうさんけんから離脱りだつすることを世界せかいにアピールする機会きかいだとおもったのである。

ネーメトはのちに「これこそ、我々われわれかかえているドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく問題もんだいたいする解決かいけつさくでした」とかたっており、ひがしドイツ政府せいふ市民しみん国外こくがい移住いじゅう制限せいげんしていることに、ある程度ていど打撃だげきあたえることまでかんがえていたことも示唆しさしている[11]

ネーメト、ポジュガイは秘密裏ひみつり慎重しんちょう計画けいかく実行じっこううつした。ハンガリー内務省ないむしょう指揮しき治安ちあん組織そしきは、内相ないしょう英語えいごばんホルヴァート・イシュトヴァーン英語えいごばん改革かいかくなので信頼しんらいできたが、ひがしドイツのシュタージ(ハンガリー国内こくないにもメンバーをおくんでいた)やMSZMPの保守ほしゅひきいるじゅん軍事ぐんじ組織そしきなどに妨害ぼうがいされないようにする必要ひつようがあったのである[12]

こうして1989ねん8がつ19にちに、ハンガリー・オーストリア国境こっきょう地帯ちたいぞくするショプロンひろしヨーロッパ・ピクニックがひらかれた。ショプロンがえらばれたのは、このまちがハンガリーからけて、オーストリアりょうむようなかたちになっており、三方さんぽうをオーストリアにかこまれていたため、比較的ひかくてきオーストリアに脱出だっしゅつしやすいとかんがえられたためである。

この集会しゅうかい厳密げんみつには2つにかれており、公的こうてき行事ぎょうじ民間みんかん行事ぎょうじの2つを同時どうじおこな形式けいしきっていた[13]。まず、公式こうしきのイベントが午後ごご2ころからはじまり、ショプロンで主催しゅさいしゃたちの記者きしゃ会見かいけんおこなわれた。その民間みんかん主催しゅさいのピクニックが開催かいさいされている場所ばしょまで、関係かんけいしゃ取材しゅざいじんはバスで移動いどうしたが、開催かいさいにはオーストリアがわから予想よそう以上いじょう人々ひとびとあつまり、主催しゅさいしゃにもかかわらず近寄ちかよれない状態じょうたいであった。

一方いっぽう、ポジュガイが手配てはいしたバスが、ショプロン郊外こうがいのホテルやキャンプからひがしドイツ市民しみんせ、ピクニックの開催かいさいまでおくとどけた。バスにはひがしドイツ市民しみん殺到さっとうし、それをハンガリーがわ西にしドイツの領事館りょうじかんのスタッフが誘導ゆうどうした。ひがしドイツ市民しみんなかには、すで西にしドイツが用意よういしたパスポートをったものもいた[13]。また、オーストリアがわにはバスがなんだい用意よういされていた。これはオーストリアがわザンクト・マルガレーテンドイツばん市長しちょうが、西にしドイツ政府せいふ要請ようせいけて手配てはいしたもので、そののうちに西にしドイツに移動いどうできるようになっていた[13]

集会しゅうかい名目めいもくとしては「ヨーロッパの将来しょうらいかんがえる集会しゅうかい」であった。会場かいじょうではブラスバンド演奏えんそうし、ものビールされ、チロル民謡みんようやハンガリー民謡みんようわせて人々ひとびとおどっていた。そこをハンガリーとオーストリアの外交がいこうかん挨拶あいさつをしてまわり、たんなる青空あおぞらしたでの祭典さいてんにしかえない様子ようすであった。ハンガリーの国境警備隊こっきょうけいびたいは、1キロメートル以内いないちかづかないようめいじられていた[13]

午後ごご3国境こっきょう検問けんもんしょ一部いちぶこわされた。そこへひがしドイツ市民しみんせたバスが到着とうちゃくし、人々ひとびとろしはじめると、ひがしドイツ市民しみんはおまつさわぎにはもくれず、一目散いちもくさん国境こっきょうかった。国境こっきょう検問けんもんしょのゲートはおおきくひらかれ、ひがしドイツ市民しみんはしってゲートをけてった。ハンガリーの国境こっきょう検問けんもんしょ国境こっきょう管理かんりかんは、これよがしにひがしドイツ市民しみんにはけ、入国にゅうこくしてくるオーストリアじんのパスポートを入念にゅうねんにチェックした。オーストリアじん旅行りょこうしゃたちは、その光景こうけい大笑おおわらいし、ひがしドイツ市民しみんとおりやすいようにみちけた。ネーメトは首相しゅしょう執務しつむしつ特設とくせつされた連絡れんらく回線かいせん使つかって、現場げんば様子ようすをモニターしていたが、ピクニックの成功せいこうけてむねをなでろした[14]

こののうちに続々ぞくぞくひがしドイツ市民しみん到着とうちゃくし、661にんがオーストリアへの越境えっきょう成功せいこうした。8月にハンガリーからオーストリアを自力じりき越境えっきょうした人々ひとびとは3000にんたっした[15]

そのハンガリー国営こくえい放送ほうそうはピクニックの様子ようす報道ほうどうしたが、600にん以上いじょうひがしドイツじん脱出だっしゅつしたことにはれなかった。当時とうじホーネッカーは急性きゅうせい胆嚢たんのうえん療養りょうよう生活せいかつはいっており、ひがしドイツ指導しどう有効ゆうこう手立てだてをこうじることが出来できなかった。治安ちあん問題もんだい担当たんとう書記しょき政権せいけんナンバー2とされていたエゴン・クレンツはピクニックの8にちまえである8がつ11にち一時いちじてき職務しょくむ復帰ふっきしたホーネッカーにたいし、出国しゅっこくしゃすう報告ほうこくし、国民こくみん大量たいりょう出国しゅっこく問題もんだいとう政治せいじきょく討議とうぎするよう進言しんげんしていた。しかし、ホーネッカーは「それで、どうするつもりかね。なんのために出国しゅっこくしゃ統計とうけいなどすのか。それがどうした。かべきずまえげた連中れんちゅうははるかにおおかったよ」とって、クレンツの進言しんげんかいさず、それどころか進言しんげんしたクレンツに長期ちょうき休暇きゅうかめいじて政権せいけん中枢ちゅうすうからとおざけていた[16]

ところが、西にしドイツのテレビの中継ちゅうけい映像えいぞうでピクニックの様子ようすていたホーネッカーは、ちゅうひがしドイツハンガリー特命とくめい全権ぜんけん大使たいしはげしく抗議こうぎし、ひがしドイツ市民しみん強制きょうせい送還そうかんするよう要求ようきゅうした[17]。しかし、ハンガリーはこれにはおうじず、あとまつりであった。この中継ちゅうけい映像えいぞうながされてから、ひがしドイツではだれもが出国しゅっこくについてくちにするようになったとわれる[9]

国境こっきょう全面ぜんめん開放かいほう

編集へんしゅう

ただ、当初とうしょ国境こっきょうちかくに滞留たいりゅうしていたひがしドイツ市民しみんおおくは、ピクニックをひがしドイツ当局とうきょく策謀さくぼうではないかとうたがい、ピクニックが終了しゅうりょうした段階だんかいでそのほとんどがハンガリーがわにとどまっていた。さらに、これ以後いご国境こっきょうひらかれていると勘違かんちがいしたさらにおおくのひがしドイツ市民しみんがハンガリーやチェコスロバキア殺到さっとうし、ブダペストプラハ西にしドイツ大使館たいしかん周辺しゅうへんにもあふれかえるようになった。これはハンガリーにとっても重大じゅうだい問題もんだいで、前年ぜんねん誕生たんじょうしたばかりの改革かいかくのネーメト政権せいけんにとって国内こくない保守ほしゅげとひがしドイツからの送還そうかん要求ようきゅう、そしてソ連それん動向どうこうながら苦慮くりょしていた。しかし、ソ連それんからは特段とくだんおおきな苦情くじょうこらなかった。ネーメトはのちに「ソ連それん許容きょよう限度げんどをテストする絶好ぜっこう機会きかいでした。」とかたっている[17]

ハンガリー政府せいふはこの時点じてんですでに西にしドイツがわ肩入かたいれしており、身柄みがら確保かくほしたひがしドイツ市民しみんをそのひそかにブダペストのキリスト教会きょうかい(ズグリゲット教会きょうかい)にあつめており、裏庭うらにわ多数たすうのテントがられて1000にんひがしドイツ市民しみんがテント生活せいかつをしていた。そして裏庭うらにわめんしたまどから西にしドイツ大使館たいしかん職員しょくいんひそかに西にしドイツへのパスポートを作成さくせいしていた[ちゅう 1]

8がつ22にち前夜ぜんや国境こっきょう付近ふきん越境えっきょうしようとしたひがしドイツじんがハンガリー国境警備隊こっきょうけいびたい射殺しゃさつされたことをけて、ネーメト首相しゅしょう事態じたい打開だかい国境こっきょうひらくしかないと決断けつだんした。8がつ25にち、ハンガリーのネーメト首相しゅしょうホルン外相がいしょう西にしドイツを訪問ほうもんコール首相しゅしょうゲンシャー外相がいしょう極秘ごくひよんしゃ会談かいだんのぞんだ。ネーメト首相しゅしょうは、ハンガリー国内こくないひがしドイツ難民なんみんについて、人道的じんどうてき理由りゆうから自由じゆう出国しゅっこくできることをみとめるとし、9がつなかばまでにオーストリア国境こっきょう開放かいほうする用意よういがあるとして、そのれとして西にしドイツに10まんから15まんにんたっするひがしドイツ市民しみんおくり、かれらが入国にゅうこくできるようにするための施設しせつなどの対処たいしょをおねがいしたい、その準備じゅんび完了かんりょう次第しだいにオーストリアへの国境こっきょう開放かいほうする方針ほうしんしめした。この提案ていあんけてコール首相しゅしょう感謝かんしゃねんつたえ、難民なんみんれセンターとその輸送ゆそう手段しゅだんいそ準備じゅんびはいることを約束やくそくした[18][19]最初さいしょはコールもゲンシャーも、どこまでしんじていいのかうたがった。ホーネッカー政権せいけん鉄槌てっついくだすようなもので、はなしがうますぎるとおもったからである。しかしこれが最善さいぜん選択せんたくだとかんがえた経過けいか説明せつめいし、これ以上いじょうさきばすと国境こっきょう警備けいびへいひがしドイツ市民しみん射殺しゃさつされる事件じけんえると予測よそくされることで、このはなししんじることになった。「ソ連それんは?」とゲンシャーがくと、「いやらない。あなたかた準備じゅんびととのったと連絡れんらくけてから連絡れんらくする。」とネーメトはこたえた[20]のちにネーメトは、コールはこのときなみだかべて、「ネーメト首相しゅしょう。ドイツ国民こくみんはあなたかたとハンガリーの勇気ゆうき永遠えいえんわすれない」とかたったとべている。

そしてこのよる、コール首相しゅしょうソ連それんのゴルバチョフに電話でんわして、ゴルバチョフの真意しんいき、ゴルバチョフは「ハンガリーじんはいいじんたちだ」[ちゅう 2]こたえてこの難民なんみん処理しょり解決かいけつ方法ほうほう黙認もくにんすることをつたえた。ハンガリーのこの決断けつだん西にしドイツのれ、ゴルバチョフの黙認もくにんは、てつのカーテンの可逆かぎゃくてき除去じょきょと、ハンガリーのワルシャワ条約じょうやく機構きこうからの離脱りだつ意味いみした[8]

8がつ31にち、ハンガリーのホルン外相がいしょうはベルリンにてひがしドイツのフィッシャー外相がいしょう会談かいだんし、ひがしドイツに帰国きこくする国民こくみん処罰しょばつしないこと、西にしへの移住いじゅう申請しんせい前向まえむきに対応たいおうすることをせまった。ホルンはさらに「15まんにん以上いじょうひがしドイツじんバラトン周辺しゅうへんでキャンプしており、帰国きこくしようとしない。ハンガリーはひがしドイツとの関係かんけいそこねたくはないが、このような"人道的じんどうてきな"状態じょうたい放置ほうちしておくことは出来できない」とべ、ハンガリーはオーストリアの国境こっきょう完全かんぜん開放かいほうするつもりだとげた。こくあいだ協定きょうていもとづき難民なんみん送還そうかん要求ようきゅうしていたフィッシャー外相がいしょうは「それは裏切うらぎりだ。あなたかた重大じゅうだい結果けっかをもたらすぞ。」と反論はんろんした。ひがしドイツはワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこく外相がいしょう会議かいぎ提案ていあんしてハンガリーに圧力あつりょくをかけることをはかったが、ポーランドは拒否きょひし、肝心かんじんソ連それん不参加ふさんかで、ソ連それん味方みかたにしなければ自分じぶんたちでできることはほとんどないことをさとらざるをなかった[21][ちゅう 3]

9がつ10日とおか、ネーメト政権せいけんがオーストリアとの国境こっきょう国境こっきょう管理かんり停止ていし全面ぜんめん開放かいほう決定けっていする。夕方ゆうがたにネーメト首相しゅしょうがテレビで公式こうしき発表はっぴょうすると[ちゅう 4]国内こくないにとどまっていたひがしドイツ市民しみんはただちに国民こくみんしゃトラバントにって国境こっきょうまで移動いどう、11にち午前ごぜん0をもってひがしドイツとの協定きょうてい[ちゅう 5]破棄はきして国境こっきょう開放かいほうし、国内こくないにいるひがしドイツ市民しみん出国しゅっこくさせた[24]。オーストリアがわひがしドイツ市民しみんをビザなしで国内こくない通過つうかさせる協定きょうてい西にしドイツとむすんでおり、ひがしドイツ市民しみん用意よういされたすうじゅうだいのバスに分乗ぶんじょうし、西にしドイツ領内りょうないはいってすぐのパッサウに建設けんせつされたすうまんにん収容しゅうようできる移民いみんセンターへ移動いどうした[25]

事件じけん余波よは

編集へんしゅう

ひがしドイツへの影響えいきょう

編集へんしゅう
 
エゴン・クレンツ(みぎ、1989ねん9がつ20日はつか

翌日よくじつ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう政治せいじきょく会議かいぎでは出席しゅっせきしゃはハンガリーの対応たいおう非難ひなんしたが、ホーネッカーがまだ療養りょうようちゅう不在ふざいだったために結局けっきょくなん対策たいさくられず、ハンガリーにたいしてなに報復ほうふくすることもできなかった。すで政治せいじ局員きょくいんあいだでも市民しみん流出りゅうしゅつつづいてひがしドイツの存立そんりつあやうくなってきていると認識にんしきはされるようになっていたが、結局けっきょくそれが討議とうぎされることもかった[26][ちゅう 6]

そうしているあいだにも、ひがしドイツ国内こくないでは医師いし電車でんしゃやバスの運転うんてんしゅ高等こうとう教育きょういくけたわか労働ろうどうしゃなどが次々つぎつぎ出国しゅっこくし、ひがしドイツのあちこちで交通こうつう機関きかん運休うんきゅう医療いりょう崩壊ほうかい工場こうじょう閉鎖へいさなどの社会しゃかいてき混乱こんらんきていた[27]。プラハの西にしドイツ大使館たいしかんでは、9がつ以降いこう毎日まいにち100にん以上いじょうひがしドイツじんしがらみえてしかけ、9がつまつにはそのかずは4000にんたっしていた[28][ちゅう 7]。この国境こっきょう開放かいほうで9がつまつまでにやく3まんにんがオーストリアにのがれた[30]

10月3にちひがしドイツ政府せいふチェコスロバキアとの国境こっきょう閉鎖へいさした。これによって、ひがしドイツ国民こくみんがチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由けいゆ出国しゅっこくすることは不可能ふかのうになった。げることが出来できなくなったひがしドイツ国民こくみん不満ふまん体制たいせい批判ひはん転化てんかさせるようになり[31]ライプツィヒ拠点きょてんにデモ(月曜げつようデモ)が激化げきかしていくことになった。ホーネッカーに事態じたい収拾しゅうしゅう出来できちからはなかった。結局けっきょく10がつ18にちにホーネッカーは退陣たいじんまれ、ついには1989ねん11月9にちベルリンのかべ崩壊ほうかいくことになる。

ハンガリーへの影響えいきょう

編集へんしゅう

ピクニックを成功せいこうさせたことは、ハンガリーの民主みんしゅ勢力せいりょく民主みんしゅ推進すいしんしていく一層いっそう自信じしんけた。またヨーロッパへの回帰かいき思考しこう一層いっそうつよまることになった。すでにいちとう独裁どくさい放棄ほうきしていたハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうも、10月23にちハンガリー社会党しゃかいとう改名かいめいし、共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいわりをげた。

民主みんしゅ達成たっせいしたハンガリーだったが、誤算ごさんもあった。ネーメトらは一連いちれん施策しさくによってハンガリーをいちはやくヨーロッパの一員いちいん復帰ふっきさせ、西側にしがわからの援助えんじょ投資とうしびこむつもりであった。しかし、このピクニックの影響えいきょうひがしドイツ、チェコスロバキアブルガリアルーマニアとドミノだおてき共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん崩壊ほうかいしてしまった結果けっか、ハンガリーがさきんじて改革かいかくしているという印象いんしょううすれてしまい、かれらがねらっていたような有利ゆうり条件じょうけん享受きょうじゅすることは出来できなかったのである[32]

ソ連それんうご

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それまで東欧とうおう共産きょうさん主義しゅぎ国家こっか政治せいじ牛耳ぎゅうじってきたソ連それんだったが、この事件じけんかんして西側にしがわ挑発ちょうはつすることも、ハンガリーに制裁せいさいくわえることもなく、事実じじつじょうりをし、なんの干渉かんしょうもしなかった。

それどころか、先述せんじゅつひがしドイツでの民主みんしゅ勢力せいりょく点火てんかしたのが、とうソ連それん最高さいこう指導しどうしゃだったとっても過言かごんではなかった。ホーネッカー退陣たいじん直前ちょくぜん10月6にちミハイル・ゴルバチョフひがしドイツ建国けんこく40周年しゅうねん記念きねん式典しきてん参加さんかした。そのさいみずからのすすめるペレストロイカした演説えんぜつをしたのにたい[33]、ホーネッカーは自国じこく社会しゃかい主義しゅぎ発展はってん自画じが自賛じさんするのみであった。ホーネッカーの演説えんぜついたゴルバチョフは軽蔑けいべつ失笑しっしょうはいじったような薄笑うすわらいをかべてSEDのとう幹部かんぶたち見渡みわたすと、舌打したうちをした[34]。これによって、ゴルバチョフがホーネッカーを否定ひていしたことがSEDの幹部かんぶたちのにもあきらかになった。これをにクレンツやギュンター・シャボフスキーらはホーネッカーの失脚しっきゃく工作こうさく[35]、10月17にちには政治せいじきょくでホーネッカーの解任かいにん動議どうぎ可決かけつされることになった。

 
上空じょうくうから撮影さつえいしたひろしヨーロッパ・ピクニック記念きねん公園こうえん

事件じけん現場げんばとなった周辺しゅうへんは「ひろしヨーロッパ・ピクニック記念きねん公園こうえん」として保全ほぜんされている。

2001ねんに、ショプロンをふくめたフェルテー/ノイジードラー文化ぶんかてき景観けいかん世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくされている。これにはひろしヨーロッパ・ピクニック公園こうえん一帯いったいふくまれている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1993ねんのNHKスペシャル番組ばんぐみ「ヨーロッパピクニック計画けいかく~こうしてベルリンのかべ崩壊ほうかいした~」で実際じっさいにズグリゲット教会きょうかいあつまったひがしドイツじん西にしドイツ大使館たいしかんからのパスポートを手渡てわた実写じっしゃ場面ばめん紹介しょうかいされている。
  2. ^ 「ネーメトはいい指導しどうしゃだ」とったというせつもある。
  3. ^ 一部いちぶ文献ぶんけんでは、ホルン外相がいしょうひがしドイツ政府せいふたいしてハンガリー国内こくないにいるひがしドイツ国民こくみん処罰しょばつしないことと、西にしドイツへの移住いじゅう許可きょか前向まえむきに対応たいおうするようせまったが、ひがしドイツ政府せいふなん反応はんのうしめさなかった、という言説げんせつがあるが[22]、「なん反応はんのうしめさなかった」というのはあやまりである。実際じっさい本文ほんぶんとおひがしドイツ政府せいふは、はっきりとハンガリーに抗議こうぎし、ワルシャワ条約じょうやく機構きこう加盟かめいこく外相がいしょうあつめようとしていた。また事前じぜんにハンガリーがわにはひがしドイツ国民こくみん処罰しょばつしないと約束やくそくしたが、ネーメト政権せいけんはこの約束やくそくまった信用しんようしなかった。
  4. ^ これはネーメト首相しゅしょうではなく、ホルン外相がいしょうよる7国営こくえいテレビのニュース番組ばんぐみなか公式こうしきあきらかにしたのが最初さいしょであるとするせつもある[23]。また1993ねんのNHKスペシャル番組ばんぐみ「ヨーロッパピクニック計画けいかく~こうしてベルリンのかべ崩壊ほうかいした~」ではこのニュース番組ばんぐみでホルン外相がいしょう西にしドイツへの出国しゅっこく方針ほうしんあきらかにする場面ばめんがある。
  5. ^ 当時とうじ欧州おうしゅう東側ひがしがわ諸国しょこく査証さしょう免除めんじょ協定きょうていむすぶと同時どうじに、相手あいてこく国民こくみん自国じこく経由けいゆ西側にしがわ逃亡とうぼうするのをふせ相互そうご義務ぎむ協定きょうていむすんでいた。
  6. ^ ハンガリーがわひがしドイツの非難ひなんたいして、1975ねんのヘルシンキ条約じょうやく署名しょめいこくとしての義務ぎむである、と反論はんろんした[23]東西とうざいヨーロッパ諸国しょこくあつまった全欧ぜんおう安保あんぽ保障ほしょう協力きょうりょく会議かいぎにおける人権じんけんおよ基本きほんてき自由じゆう尊重そんちょうするとした条約じょうやくひがしドイツも署名しょめいしていた。
  7. ^ 最終さいしゅうてきには6000にんたっしたというべつせつもある[29]

出典しゅってん

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  1. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, pp. 3–4.
  2. ^ 南塚みなみづか & 宮島みやじま, p. 106.
  3. ^ セベスチェン, pp. 372–374.
  4. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, pp. 78–79.
  5. ^ てつのカーテン」 撤去てっきょまでのみちのり”. AFPBB News (2019ねん11月7にち). 2020ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ マイヤー, p. 129.
  7. ^ セベスチェン, pp. 375–376.
  8. ^ a b c ヴィンクラー, p. 467.
  9. ^ a b クノップ, p. 251.
  10. ^ マイヤー, p. 175.
  11. ^ マイヤー, p. 177.
  12. ^ マイヤー, p. 180.
  13. ^ a b c d マイヤー, p. 181.
  14. ^ マイヤー, pp. 181–183.
  15. ^ ヴォルウルム, p. 198.
  16. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, pp. 4–5.
  17. ^ a b マイヤー, p. 184.
  18. ^ マイヤー, p. 185.
  19. ^ セベスチェン, pp. 467–469.
  20. ^ セベスチェン, pp. 467–468.
  21. ^ セベスチェン, pp. 470–471.
  22. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 81.
  23. ^ a b ジャット, p. 207.
  24. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 82.
  25. ^ マイヤー, p. 197.
  26. ^ マイヤー, pp. 205–206.
  27. ^ マイヤー, p. 206.
  28. ^ クノップ, p. 253.
  29. ^ ヴィンクラー, p. 468.
  30. ^ ヴォルウルム, p. 199.
  31. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 83.
  32. ^ マイヤー, pp. 198–199.
  33. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 8.
  34. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 9.
  35. ^ 三浦みうら & 山崎やまざき, p. 15.

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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