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池田満寿夫 - Wikipedia

池田いけだ満寿夫ますお

画家がか版画はんが (1934-1997)

池田いけだ 満寿夫ますお(いけだ ますお、1934ねん昭和しょうわ9ねん2がつ23にち - 1997ねん平成へいせい9ねん3月8にち)は、日本にっぽん画家がか版画はんが挿絵さしえ画家がか彫刻ちょうこく陶芸とうげい作家さっか映画えいが監督かんとくなどの従来じゅうらい芸術げいじゅつわくにとどまらず多彩たさい活躍かつやくした芸術げいじゅつエロス作家さっかといわれるように、官能かんのうてき作風さくふうおおい。しかし、多岐たきにわたる活動かつどう多才たさいさは、かえって“池田いけだ芸術げいじゅつ”のたか知名度ちめいどにふさわしい正当せいとう評価ひょうか困難こんなんにしている[1]

池田いけだ 満寿夫ますお
生誕せいたん 1934ねん2がつ23にち
満洲国の旗 まんしゅうこく 奉天ほうてん
死没しぼつ (1997-03-08) 1997ねん3月8にち(63さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 静岡しずおかけん熱海あたみ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 長野ながのきた高等こうとう学校がっこう
著名ちょめい実績じっせき 版画はんが
水彩すいさい
文学ぶんがく
代表だいひょうさくゲ海げかいささ
受賞じゅしょう

だい2かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん文部もんぶ大臣だいじんしょう
1960ねんおんな動物どうぶつたち」
だい2かいパリ青年せいねんビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん優秀ゆうしゅうしょう
1961ねんつきまつり
だい3かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん東京とうきょう都知事とちじしょう
1962ねん動物どうぶつ婚礼こんれい
だい4かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんしょう
1964ねんなつ1」
だい1かいクラクフ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょう
1966ねん楽園らくえんす」
ヴェネツィア・ビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん国際こくさい大賞たいしょう
1966ねん動物どうぶつ婚礼こんれい
だい8かいリュブリアナ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょう
1969ねんくつ裏側うらがわ
だい3かいクラクフ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょう
1970ねんゆめ
だい17かいアメリカ国内こくないばん画展がてん入賞にゅうしょう
1970ねん 「ファッション」

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう
1977ねんゲ海げかいささぐ」
公式こうしきサイト web.archive.org/web/20161022125733/http://www.ikedamasuo-museum.jp/
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

きゅうまんしゅうこく奉天ほうてん現在げんざい瀋陽しんよう)にまれ[2]戦後せんご長野ながのけん長野ながのそだつ。長野ながの市立しりつやなぎまち中学校ちゅうがっこう長野ながのきた高等こうとう学校がっこうげん長野県長野高等学校ながのけんながのこうとうがっこう定時ていじせい課程かてい卒業そつぎょう[2]高校こうこう在学ざいがくちゅう絵画かいが入選にゅうせん画家がかこころざ上京じょうきょうするが、東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく受験じゅけんに3失敗しっぱい[3]大学だいがく進学しんがく断念だんねん。このうち、1かい油絵あぶらえ志望しぼう、2かい彫刻ちょうこくだった。酒場さかば似顔絵にがおええがいて生活せいかつかせ生活せいかつおくりながら19さい自由じゆう美術家びじゅつか協会きょうかいてん入選にゅうせん。その画家がかあきらきゅうすすめで色彩しきさいどう版画はんが作製さくせいむ。この時期じき平井ひらいあおいふとし主宰しゅさい真珠しんじゅしゃから豆本まめほんのシリーズを刊行かんこう1957ねん東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入選にゅうせん1960ねんには同展どうてん文部もんぶ大臣だいじんしょう脚光きゃっこうびた[2]

1961ねんには、上野うえのにん画廊がろうはつ個展こてんひらく。1965ねんには、ニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかん日本人にっぽんじんとしてはつ個展こてんひらき、話題わだいとなる。1966ねん、32さいのとき、棟方むなかた志功しこういで版画はんがいえとしては最高さいこう権威けんいヴェネツイア・ビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん国際こくさい大賞たいしょう受賞じゅしょう池田いけだ国際こくさいてきにもだい一線いっせん芸術げいじゅつにした。版画はんがのドライポイントでは、パウル・クレーウィレム・デ・クーニングくわえ、雪舟せっしゅう水墨すいぼく影響えいきょうけていた。東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてんなどで、外国がいこくじん審査しんさいん評価ひょうかしたのは池田いけだ作品さくひんなかに“東洋とうようかげ”をたからである。

のち水彩すいさい文学ぶんがく方向ほうこうにも関心かんしんかたむく。1977ねんには『ゲ海げかいささ』で芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう。この『ゲ海げかいささぐ』は、絵画かいがうた小説しょうせつ映画えいがとマルチな分野ぶんや池田いけだ自身じしんによってあらわされ、非常ひじょう話題わだいとなった(映画えいが主演しゅえんは、のちにイタリアの国会こっかい議員ぎいんにもなったチッチョリーナことシュターッレル・イロナ)。官能かんのうてき女性じょせいえがかせたら、当代とうだいいちであったといわれる。制作せいさくした版画はんがは1000てんあまり、陶芸とうげい作品さくひんは3000てんえるとみられる。

1980年代ねんだい以降いこうは、テレビにもさかんに出演しゅつえん人気にんきクイズ番組ばんぐみ日立ひたち 世界せかい・ふしぎ発見はっけん!じゅんレギュラーなどで一般いっぱん大衆たいしゅうへの知名度ちめいどもアップし、文化ぶんかじんとしても活躍かつやくしたが、晩年ばんねん陶芸とうげい制作せいさく没頭ぼっとうしたことはあまりられていない。1965ねんはつ訪米ほうべいしたときから、米国べいこく陶芸とうげいかい第一人者だいいちにんしゃであるピーター・ヴォーコス交流こうりゅう帰国きこくの1983ねんから陶芸とうげいにも没頭ぼっとうした。の3ねんまえ制作せいさくした般若心経はんにゃしんぎょうシリーズの作品さくひん池田いけだ陶芸とうげい作品さくひんなか最高さいこう傑作けっさくといわれる。般若心経はんにゃしんぎょうという精神せいしん世界せかい平面へいめんではなく、立体りったいてき造形ぞうけいした。地蔵じぞう佛塔ぶっとう作品さくひんなどは、エロスの作家さっかといわれた池田いけだ版画はんがのイメージとはまったことなる。池田いけだ陶芸とうげい作品さくひんはあえてれるように制作せいさくしたのが特徴とくちょうであり、池田いけだ本人ほんにんは“破壊はかい美学びがく”とべている。

国際こくさいてき精力せいりょくてき創作そうさく活動かつどう展開てんかいし、多忙たぼう生活せいかつおくっていたが、1997ねん3月8にち静岡しずおかけん熱海あたみ自宅じたく外出がいしゅつさきから帰宅きたくしたパートナーの佐藤さとう出迎でむかえたさいに、愛犬あいけん9ひきびつかれて転倒てんとう搬送はんそうさき病院びょういん心不全しんふぜんにて急逝きゅうせい[4][5][6]享年きょうねん63。4月に、なが期間きかん担当たんとうしていた多摩美術大学たまびじゅつだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅから、多摩美術大学たまびじゅつだいがく教授きょうじゅ専任せんにん)への就任しゅうにん内定ないていしており、後進こうしん指導しどうにも本格ほんかくてきたろうとしていた矢先やさきだった。墓所はかしょ熱海あたみ医王寺いおうじ

19さい入籍にゅうせきした女性じょせい離婚りこんおうじなかったため、生涯しょうがい戸籍こせきじょうつまはこの女性じょせいのみで、その同居どうきょした作家さっか富岡とみおか多恵子たえこやバイオリニスト佐藤さとう陽子ようこなどは内縁ないえんつまだった。ただし、画家がかであった米国べいこくじん女性じょせいとは国外こくがい正式せいしき入籍にゅうせきしている[よう検証けんしょう]終生しゅうせいうことになる佐藤さとうとはおしどり夫婦ふうふとしてられ、池田いけだ講演こうえん佐藤さとう演奏えんそうをセットにしたもよおしなどもおこなっていた。

おも所蔵しょぞう作品さくひんは、長野ながの池田いけだ満寿夫ますお美術館びじゅつかん三重みえけん三重みえぐん菰野こものまちパラミタミュージアム熱海あたみ池田いけだ満寿夫ますお佐藤さとう陽子ようこ 創作そうさくいえ池田いけだ満寿夫ますお記念きねんかんでそれぞれ常設じょうせつ展示てんじされている。京都きょうと京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん佐藤さとう陽子ようこから寄贈きぞうされた版画はんが作品さくひん所蔵しょぞうする。広島ひろしま現代げんだい美術館びじゅつかん長野ながの県立けんりつ美術館びじゅつかん池田いけだ作品さくひんのコレクションを所有しょゆう

人物じんぶつ活動かつどう

編集へんしゅう

コラージュ・カット

編集へんしゅう

池田いけだ挿絵さしえとしても一流いちりゅうだったことはいまではわすれられている。カットるいをまとめると1000てんえるとみられる[7]コラージュ新聞紙しんぶんし雑誌ざっしぬのなどをわせてける手法しゅほうだが、池田いけだ版画はんが制作せいさくはじめるまえにコラージュを手掛てがけ、カット版画はんがなどに活用かつようするようになった[8]。1960年代ねんだい~70年代ねんだい池田いけだ作品さくひんはイラストレーターやグラフィック・デザイナーに刺激しげきあたえた。

池田いけだのカット、コラージュの全容ぜんよう一部いちぶかるのが、池田いけだちょ『コラージュ アフォリズム』(1986ねんそうじゅしゃ)である。300てんきょうのカット、コラージュを収録しゅうろく。カットや版画はんが作品さくひんると、池田いけだ作品さくひん制作せいさくにコラージュの手法しゅほう多用たようしていることがかる。コラージュは池田いけだ制作せいさく活動かつどう基本きほんてき手法しゅほうひとつとなっている。『コラージュろん』(1987ねん白水しろみずしゃ)をあらわしている。

1961ねん以降いこう岩波書店いわなみしょてん発行はっこう雑誌ざっし世界せかい』とPR図書としょ』、『朝日あさひジャーナル』、新聞しんぶん雑誌ざっしにカットをえがいていたが、芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう以降いこう出版しゅっぱんしゃ遠慮えんりょして注文ちゅうもん自体じたいすくなくなった。

国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん新館しんかんロビーに設置せっちされたタピスリー・コラージュ「てん岩戸いわと」(1986ねん)が著名ちょめいだ。天女てんにょそらがるイメージで制作せいさくされた西陣織にしじんおり使つかった「天女てんにょ乱舞らんぶA」(1987ねん池田いけだ満寿夫ますお美術館びじゅつかんくら)は親友しんゆう澁澤しぶさわ龍彦たつひこへのオマージュとして完成かんせいさせた。

油彩ゆさいとアクリル、水彩すいさい

編集へんしゅう

高校こうこう2ねんのとき、油彩ゆさいはしのある風景ふうけい」(池田いけだ満寿夫ますお美術館びじゅつかんくら)がだい1かい全日本ぜんにほん学生がくせい油絵あぶらえコンクールでアトリエしょう受賞じゅしょうした。高校こうこう卒業そつぎょう画家がか目指めざして上京じょうきょうしたが、公募こうぼてん出品しゅっぴんした油彩ゆさい作品さくひんみとめられなかった。版画はんがはじめたのちも、しばらくのあいだ油絵あぶらえ制作せいさくやく20年間ねんかん中断ちゅうだんし、80年代ねんだい以降いこうは、アクリルでまず下絵したえ原画げんがえがいてから版画はんが制作せいさくかる手法しゅほうもちいたこともあった。雑誌ざっし婦人ふじん公論こうろん』『月刊げっかん現代げんだい』の表紙ひょうしかざった女性じょせいぞうはアクリルだ。

池田いけだ油彩ゆさいは、中学ちゅうがく高校こうこう時代じだい、20だい以降いこうおおきな振幅しんぷくしめす。ユトリロヴラマンクモディリアニ佐伯さえき祐三ゆうぞう松本まつもと俊介しゅんすけにあこがれた少年しょうねん時代じだい灰色はいいろ調ちょうだったが、その原色げんしょく使用しようし、さらに、ピカソふうシュルレアリスムふう抽象ちゅうしょう などへ作風さくふううごいた[9]。アクリルの表紙ひょうし具象ぐしょうせい写実しゃじつせいつよい。

くなるやく半年はんとしまえ池田いけだ東京とうきょう新宿しんじゅく画材がざいてんで、油絵あぶらえ材料ざいりょう大量たいりょう購入こうにゅうし、「これから油絵あぶらえをしよう」とはなしていたという。死後しご熱海あたみのアトリエのイーゼルには100ごうのアクリル作品さくひん3てん未完みかんのままのこされていた。

一方いっぽう水彩すいさいには50年代ねんだいえがかれたカンディンスキーふう小品しょうひん大作たいさくうつくしさとかなしみと」(1965ねんにん画廊がろうぞう)がある。『みづゑ』表紙ひょうしや1977ねん野性やせい時代じだい新人しんじん文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうした角川書店かどかわしょてん発行はっこうの『ゲ海げかいささ』の表紙ひょうし裸婦らふ水彩すいさいフロッタージュえがかれている。

うつくしさとかなしみと」は同年どうねん制作せいさくされた松竹しょうちく映画えいがうつくしさとかなしみと』のなか登場とうじょうする。原作げんさくはノーベルしょう作家さっか川端かわばた康成やすなりで、堕胎だたいした女流じょりゅう画家がかとその弟子でし画家がかへの恋慕れんぼから画家がかもと恋人こいびとちかづくわかレズビアン女性じょせいがからむストーリーを監督かんとく篠田しのだ正浩まさひろ映像えいぞうした。池田いけだ主人公しゅじんこう女流じょりゅう画家がかえんじる八千草やちぐさかおるわりたたみ3じょうぶんえがいた。そのすうねんまえから池田いけだ交際こうさいし、池田いけだどう版画はんがたか評価ひょうかしていた篠田しのだ[10]が「地獄じごく怪物かいぶつ」の画家がかといわれるオランダのボッシュのようにと制作せいさく依頼いらい上中かみなかたたみ3じょうぶんのうち、なか部分ぶぶんのみのこり、のこりは行方ゆくえ不明ふめいである。

油絵あぶらえれなかったため、講談社こうだんしゃ絵本えほん挿絵さしえなども手掛てがけるべく努力どりょくしていたが 22さいのとき、画家がかあきらきゅう助言じょげんで、色彩しきさいどう版画はんがはじめた。当時とうじ日本にっぽんでは色彩しきさいどう版画はんが本格ほんかくてき手掛てがける作家さっかすくなく、なにとか生活せいかつしたいとおもったためである。生活せいかつかせぐため、エロティックな版画はんがしゅう制作せいさくした。

銅版どうはんのプレス当初とうしょ小学生しょうがくせい使つかうようなハガキのばいくらいのサイズしかれない機械きかい使用しよう公募こうぼてんしょうをとるたびに賞金しょうきん大型おおがたのプレス購入こうにゅうし、版画はんが作品さくひんもこれにともなってサイズがおおきくなっていった[11]

版画はんが技法ぎほうは、あきらきゅうのエッチング講習こうしゅうかい助手じょしゅをして基本きほんてきなことをまなんだが、自己流じこりゅうとおした。木版もくはん銅版どうはんシルクスクリーンリトグラフなどが現存げんそんする。とくに、ドライポイントによる銅版どうはん評価ひょうかたかい。

池田いけだ作品さくひんひろ評価ひょうかされるようになったのは、2人ふたり外国がいこくじん銅版どうはんのドライポイントをみとめられたことがきっかけである。だい2かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてんだい3かいてんで、それぞれ国際こくさい審査しんさいんのドイツじん美術びじゅつ評論ひょうろんヴィル・グローマンニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかん版画はんが部長ぶちょうウィリアム・リーバーマン評価ひょうかされ、入賞にゅうしょうした。銅版どうはんするどきずける、池田いけだのドライポイントの線描せんびょうは、パウル・クレーデ・クーニングヴォルスせんているが、雪舟せっしゅう水墨すいぼく秋冬あきふゆけい山水さんすい』のせんにも影響えいきょうけている[12]日本人にっぽんじん審査しんさいん評価ひょうかしなかったが、グローマンは「ここには東洋とうようがある。日本にっぽん能面のうめんつうじる簡潔かんけつがある」と“東洋とうようかげ”を指摘してきして絶賛ぜっさんした。このドライポイントを主軸しゅじくにした版画はんがヴェネツィア・ビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん評価ひょうかされたのである。

雪舟せっしゅう水墨すいぼく影響えいきょうがうかがえる作品さくひんとしては、だい2かいパリ青年せいねんビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょうした「おおきなおんな」やドイツの雑誌ざっし使つかったコラージュ「ムーン・フェイス」などがげられる[13]

なお、エロティックな作品さくひんのモデルは生身なまみ女性じょせいではない。裸体らたいモデルを使つかったことはほとんどなく、ファッション雑誌ざっしやポルノ雑誌ざっし利用りようして、イマジネーションをふくらませた[14]雑誌ざっし表紙ひょうし女性じょせい特定とくていのモデルはいない。

版画はんが代表だいひょうさくは、どう版画はんがやリトグラフなど内外ないがいでの受賞じゅしょう作品さくひんがまずげられる。池田いけだ自身じしん代表だいひょうさく125てん自選じせんした『池田いけだ満寿夫ますお25ねんあゆみ』(1981ねん、アートよみうり)も出版しゅっぱんされている。

  • だい2かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん文部もんぶ大臣だいじんしょうの「おんな動物どうぶつたち」「おんな肖像しょうぞう」「おんな
  • だい2かいパリ青年せいねんビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん優秀ゆうしゅうしょうの「つきまつり」「おおきなおんな」「女王じょおう
  • だい3かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん東京とうきょう都知事とちじしょうの「動物どうぶつ婚礼こんれい」「ゆめとり」「花嫁はなよめ領地りょうち
  • だい4かい東京とうきょう国際こくさい版画はんがビエンナーレてん国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんしょうの「なつ1」「わたしなにべたくない」「化粧けしょうするおんな
  • だい1かいクラクフ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょうの「楽園らくえんす」「姉妹しまいたち」「天使てんしのいる風景ふうけい
  • ヴェネツィア・ビエンナーレてん版画はんが部門ぶもん国際こくさい大賞たいしょうの「動物どうぶつ婚礼こんれい」「にわ横切よこぎ昆虫こんちゅう」「金曜日きんようびあめ」「戸口とぐちいそ貴婦人きふじんたち」「天使てんしくつ」「タエコの朝食ちょうしょく」「サイズはサイズ」「化粧けしょうするおんな」「なつ1」「なつ2」「せいなる1」「あお衣裳いしょう」「うみのスカート」「ロマンチックな風景ふうけい」「楽園らくえんす」「姉妹しまいたち」「花園はなぞのにて」「天使てんしのいる風景ふうけい」「ヴォーグからおんな」「なつゆめ」「シンデレラの広告こうこく」「バラはバラ」「Spring and Springs」「あお椅子いす」「あい瞬間しゅんかん」「Something1」「Something2」「あるしゅ関係かんけい」。

大賞たいしょう受賞じゅしょうさく28てんのうち、「バラはバラ」など10てん自分じぶんのアトリエではなく、旅先たびさきのニューヨークのホテルなどで制作せいさくした。1965ねんニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかんでの個展こてんのため、観光かんこう気分きぶん渡米とべいしたさい池田いけだヴェネツィア・ビエンナーレてん日本にっぽん代表だいひょう作家さっかえらばれた。しかし、旧作きゅうさくとともに、新作しんさく10てん出品しゅっぴんもとめられた池田いけだ困惑こんわくした。池田いけだ腐食ふしょくたよらない、ドライポイントルーレットきょ制作せいさくすすめ、現地げんち工房こうぼうりてげた[15]旅先たびさきでの不慣ふなれな制作せいさく環境かんきょうなか、チャンスを見事みごとかした。

米国べいこく日本にっぽん拠点きょてんとした制作せいさく活動かつどうでは、メゾチント技法ぎほう多用たようする詩的してき主題しゅだいかったが、突然とつぜん奔放ほんぽうなエロティシズムをし、転機てんきとなった。帰国きこくにドライポイントをふたた手掛てがける。またむねたちや琳派の空間くうかん構成こうせい意識いしきした大作たいさくリトグラフやコンピュータ・グラフィックスの原画げんがをもとにした版画はんが制作せいさくした[16]

  • だい8かいリュブリアナ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょうの「くつ裏側うらがわ」「ブダペストからの自画像じがぞう」「マリリンの半分はんぶん
  • だい3かいクラクフ国際こくさい版画はんがビエンナーレてん入賞にゅうしょうの「ゆめ
  • だい17かいアメリカ国内こくないばん画展がてん入賞にゅうしょうの「ファッション」

池田いけだしょまったくの我流がりゅうである。1964ねんには、読売新聞よみうりしんぶん連載れんさいされた小説しょうせつ子母沢しもざわひろし自伝じでんてきもののカットにくわえて題字だいじけていた。題字だいじくようになった動機どうき不明ふめいだが、1ほんせんほそく、またふと一気いっきくこと自体じたいえがくのとおなじだとかんがえていたようだ[17]白石しらいしかずこ詩集ししゅうほん題字だいじなども担当たんとうしている。

池田いけだわかいときからこの我流がりゅうしょ自信じしんっていた。晩年ばんねんになると、陶芸とうげい作品さくひん箱書はこがきとともに、たのまれてしょおおはじめた。

しょ美術びじゅつ関係かんけいについて池田いけだは『芸術げいじゅつになるほう 池田いけだ満寿夫ますお対談たいだん金田かねだ石城せきじょう』(1997ねん現代書林げんだいしょりん)のなかで、「日本にっぽん世界せかい影響えいきょうあたえたのは浮世絵うきよえしょふたつ。しょ世界せかい美術びじゅつたいして影響えいきょうあたえている。対象たいしょう主義しゅぎ全部ぜんぶしょからている。20世紀せいき世界せかい美術びじゅつあたえたしょ影響えいきょうりょく本当ほんとうすごい。ミロしょ影響えいきょうけている。1ほんせん均等きんとうくのが西欧せいおう伝統でんとうふとくしたりほそくしたりするのはしょ影響えいきょう」としている。

文学ぶんがく

編集へんしゅう

文学ぶんがくめんでの才能さいのう芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょうした小説しょうせつゲ海げかいささ』でられるが、20だいからやエッセイを発表はっぴょう美術びじゅつ評論ひょうろん手掛てがけるなどその文才ぶんさい美術びじゅつ文学ぶんがく関係かんけいしゃから注目ちゅうもくあつめていた。詩人しじん田村たむら隆一りゅういちは、池田いけだ文体ぶんたいはコラージュてきであると批評ひひょうしている[7]

少年しょうねん時代じだいから文学ぶんがくしたしんだ池田いけだは、無名むめい時代じだいには謄写版とうしゃばんりの私家版しかばん詩集ししゅう画集がしゅう発行はっこうした。『王国おうこく入口いりくちで わたしのなかの世界せかい美術びじゅつ』(1976ねん芸術げいじゅつ生活せいかつしゃ)では美術びじゅつ評論ひょうろん顔負かおまけの独創どくそうてき美術びじゅつろん展開てんかい新聞しんぶん雑誌ざっし多様たようなエッセイを発表はっぴょうしている。もり茉莉まり加藤かとういく澁澤しぶさわ龍彦たつひこ吉行よしゆき淳之介じゅんのすけ野坂のさかあきららの詩集ししゅう著作ちょさくほん装丁そうていもしている。

ベストセラーとなった『ゲ海げかいささぐ』は42さいのとき、米国べいこく滞在たいざいちゅう雑誌ざっし野性やせい時代じだい編集へんしゅうちょうさそいでまれた。『朝日あさひジャーナル連載れんさいのエッセイが好評こうひょうだったためで、個展こてん開催かいさいのため帰国きこくしたさい、ホテルに5日間にちかん缶詰かんづめとなってげた[18]。このとき池田いけだ実際じっさいにはゲ海げかいおとずれたことはなかった。1976ねん野性やせい時代じだい新人しんじん文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう翌年よくねん芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょうした。画家がか受賞じゅしょうしたのははじめてで、池田いけだは“時代じだい寵児ちょうじ”になった。

芥川賞あくたがわしょう選考せんこう委員いいんかいは3あいだ異例いれい選考せんこうとなり、吉行よしゆき淳之介じゅんのすけ池田いけだつよ推薦すいせんし、永井ながい龍男たつお結果けっか不満ふまんとし、前回ぜんかい村上むらかみりゅうあわせて芥川賞あくたがわしょうへの不満ふまん表明ひょうめいして選考せんこう委員いいん辞任じにんした。

このほかの小説しょうせつは『ミルクしょくのオレンジ』(1976ねん)、『テーブルのした婚礼こんれい』(1977ねん)など、多数たすう著作ちょさくがある。

映画えいが・テレビ

編集へんしゅう

1978ねん映画えいがゲ海げかいささ』は、同名どうめい芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう小説しょうせつとは内容ないようことなる。ローマなどでロケし、イタリア女優じょゆう出演しゅつえんした官能かんのうてき全裸ぜんらシーンがあり、話題わだいんだ。興行こうぎょう収入しゅうにゅうは16おくえんのぼ[19]。2さく映画えいがまどからローマがえる』は興行こうぎょうてきには失敗しっぱいした[ちゅう 1]脚本きゃくほん演出えんしゅつ手掛てがけたり、テレビドラマで、佐藤さとう陽子ようことともに出演しゅつえん。クイズ番組ばんぐみにも登場とうじょうし、おちゃあいだ人気にんきはくした。1992ねん12月には、ボードゲームであるオセロツクダオリジナル販売はんばい)のCMにも佐藤さとうとともに共演きょうえんした。

なお、映画えいがゲ海げかいささぐ』の主題歌しゅだいかが、ジュディ・オングうたって日本にっぽんレコード大賞たいしょう受賞じゅしょうした「せられて」とする誤解ごかいがしばしばられるが、おなねん発売はつばいされた「せられて」は女性じょせい下着したぎメーカー・ワコールのCMソングだった。ただ、楽曲がっきょく元々もともと池田いけだ意気投合いきとうごうした酒井さかい政利まさとしゲ海げかいささぐのCMソングとしてかんがえたもので[21]、ワコールのCMにはどう映画えいが主演しゅえん女優じょゆう出演しゅつえんしており、一種いっしゅのタイアップのようなかたちになっていた。

造形ぞうけい

編集へんしゅう

池田いけだ絵画かいが以外いがい立体りったい仕事しごと精力せいりょくてき手掛てがけている。なかでも晩年ばんねん陶芸とうげい作品さくひん般若心経はんにゃしんぎょうシリーズの作品さくひんぐんについては版画はんがえるとの評価ひょうかをするひとおおい。なお、これら陶芸とうげい作品さくひんについて、オブジェすえだとするひともいる。

中学ちゅうがく時代じだい池田いけだ平安へいあん時代じだい仏像ぶつぞう彫刻ちょうこく考古学こうこがく熱中ねっちゅう古紙こしから戦前せんぜん教科書きょうかしょさがし、仏像ぶつぞう寺院じいん写真しゃしんをスクラップするほどだった[22]池田いけだ東京とうきょう藝術げいじゅつ大学だいがくを3かい受験じゅけんしたが、うち2かい彫刻ちょうこくだった。版画はんがとして活動かつどうしているときでも、立体りったい仕事しごとをしたいとおもつづけ、彫刻ちょうこくのためのデッサンオブジェのイメージをひそかにそだてていた[23]陶芸とうげいより彫刻ちょうこくテラコッタほう関心かんしん重点じゅうてんいていた。

池田いけだが49さいのとき、陶芸とうげいはじめたのはその意味いみ偶然ぐうぜんではない。それ以前いぜん彫刻ちょうこく素材そざいとしてなにがいいのかをかんがえているうち、時間じかんぎていたのだ。米国べいこく滞在たいざいちゅうには実際じっさいには使用しようしなかったが、アトリエに電気でんきかまそなけている。そんな立体りったい興味きょうみいている最中さいちゅうの1983ねんさそわれて静岡しずおかけん南伊豆みなみいずまち日本にっぽんクラフトの岩殿いわどのてらかまでロクロをまわした。

陶芸とうげい世界せかい一気いっきにはまった。感性かんせいおもむきくままに芸術げいじゅつ活動かつどうをする池田いけだは、その表現ひょうげん手段しゅだんにこだわりをみせていない。版画はんがでも様々さまざま技法ぎほう挑戦ちょうせんし、年代ねんだいによって作風さくふう変化へんかしている。池田いけだ自分じぶんのイメージを表現ひょうげんできる造形ぞうけい手段しゅだんとして陶芸とうげい一番いちばんであるとおもった。池田いけだ陶芸とうげいについて「なんといってもインスピレーションときだけでどんどんかたちつくっていけるシステムがわたし興奮こうふんさせた」(1992ねん8がつ24にちづけ読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん)とその魅力みりょくかたっている。

陶芸とうげいはじめてから西洋せいよう美術びじゅつ一辺倒いっぺんとう池田いけだ芸術げいじゅつ思考しこう変化へんかきた。西欧せいおう絵画かいが彫刻ちょうこくけていた池田いけだは、日本にっぽん縄文じょうもん土器どき弥生やよい土器どきらく茶碗ちゃわん織部おりべあらためて関心かんしんいだはじめた。俵屋たわらや宗達そうたつ尾形おがた光琳こうりん影響えいきょうけ、版画はんがでも金色きんいろ銀色ぎんいろ使つかした[24]

池田いけだすえ制作せいさく方法ほうほうは、当初とうしょ若手わかて陶芸とうげいをアシスタントにやとってロクロでつぼ徳利とっくりさらなどを成形せいけいするよう指示しじ。これらをゆがめたり、つぶしたり、わせたりして完成かんせいさせた。かまはガスかま電気でんきかま使用しようしていた。

作風さくふうおおきく変化へんかするのは、1993ねん山梨やまなしけん増穂ますほまち(げん富士川ふじかわまち)、増穂ますほのぼかま太田おおた治孝はるたか主宰しゅさいない野焼のやふう焼成しょうせい可能かのうたきぎかまの「満寿夫ますお八方はっぽうかま」をつくってからである。耐火たいかつよ使つかい、たかさ1mクラスの大型おおがた作品さくひんいたじょう粘土ねんど使つかってタタラづくりの技法ぎほうびねり制作せいさくした[25]

代表だいひょうさくは「般若心経はんにゃしんぎょう」シリーズ(パラミタミュージアムくら)と「古代こだい幻視げんし」シリーズ(池田いけだ満寿夫ますお記念きねんかん展示てんじ)の作品さくひんぐんである。池田いけだ満寿夫ますお美術館びじゅつかん長野ながの松代まつだいまち)の開館かいかんわせて制作せいさくした「迷宮めいきゅう」シリーズの作品さくひんぐん富士山ふじやま様々さまざま景色けしきえがいた陶板とうはんもある。

池田いけだすえ作品さくひんぐんなか最高さいこう傑作けっさくかぞえられる般若心経はんにゃしんぎょうシリーズの作品さくひんは、2ねんがかりで般若心経はんにゃしんぎょう立体りったいてき造形ぞうけいした。たかやく1.5mもの大佛だいぶつとう6たい佛塔ぶっとう24たい地蔵じぞう42たいこころけい34てんこころけいわん276てんこころけい陶板とうはん54てん佛画ぶつが陶板とうはん30てんこころけいすえへん828てん膨大ぼうだいかずだ。ふつかおはなぜかガンダーラふつており、エロスの作家さっかといわれた池田いけだ版画はんがとは全然ぜんぜんことなる宗教しゅうきょうてき風情ふぜいかもす。佛画ぶつが陶板とうはんはドライポイントの技法ぎほう援用えんようして陶板とうはん表面ひょうめんはんかわきのとき、クギでひっかいてった。

このパラミタミュージアムは、ジャスコ・イオングループを事実じじつじょう創業そうぎょうした岡田おかだ卓也たくや実姉じっし小嶋こじま千鶴子ちづこ私費しひ建設けんせつした。池田いけだ死後しご、『池田いけだ満寿夫ますお造形ぞうけい 般若心経はんにゃしんぎょう』(1995ねん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん)を偶然ぐうぜん小嶋こじま感動かんどうして「般若心経はんにゃしんぎょう」シリーズの作品さくひんぐん購入こうにゅう展示てんじ施設しせつつくったのち岡田おかだ文化ぶんか財団ざいだん寄贈きぞうした。

池田いけだ米国べいこく陶芸とうげいかい第一人者だいいちにんしゃピーター・ヴォーコスと30ねんちか交流こうりゅうつづけた。ヴォーコスは陶芸とうげいけん彫刻ちょうこくであり、絵画かいがコラージュ版画はんがにもめるなど池田いけだ同様どうよう、マルチアーティストだった。ロクロでつぼなどをいてげたのち、ハンマーなどで作品さくひんってゆがませる手法しゅほうでもられる。前衛ぜんえいてきで、荒々あらあらしい、ようそなえない作品さくひんは、日本にっぽん日本にっぽん陶芸とうげいかいとく若手わかて陶芸とうげい作家さっか衝撃しょうげきあたえた。池田いけだニューヨーク近代きんだい美術館びじゅつかんでの個展こてん開催かいさいのため、1965ねん富岡とみおか多恵子たえこはつ訪米ほうべいしたさい、ヴォーコスにい、その交際こうさいしていたのだ。池田いけだ陶芸とうげいはじめる直前ちょくぜん、ヴォーコスの作品さくひん購入こうにゅうしている。ヴォーコスとの出会であいは池田いけだ芸術げいじゅつ活動かつどう多大ただい影響えいきょうおよぼした[26]

一方いっぽう彫刻ちょうこくについては、すえ作品さくひん制作せいさくはじめたのちブロンズ制作せいさく手掛てがけた。野外やがいかれる巨大きょだいモニュメント制作せいさくした。長野ながののブロンズせい『アポロンの水瓶みずがめ』(1989ねん)、兵庫ひょうごけん西宮にしのみや、ブロンズ『せいどう』『天馬てんば』『ラ・メール』(1991ねん)などである。だい2かいフジサンケイ・ビエンナーレ現代げんだい国際こくさい彫刻ちょうこくてんには“新人しんじん彫刻ちょうこく”として応募おうぼ、ブロンズ「さい」(1995ねん)(美ヶ原うつくしがはら高原こうげん美術館びじゅつかん)が優秀ゆうしゅうしょう受賞じゅしょうした。

交友こうゆう関係かんけい

編集へんしゅう

幅広はばひろ交友こうゆう関係かんけいっていたが、画壇がだんぞくする人々ひとびととはほとんどわなかった。

版画はんが靉嘔、イラストレーター・眞鍋まなべひろし画家がか堀内ほりうち康司こうじ写真しゃしん奈良原ならはらいちだかは、21さいのとき結成けっせいしたグループ「実在じつざいしゃ」のメンバーや協力きょうりょくしゃである。堀内ほりうち康司こうじ池田いけだ才能さいのう最初さいしょ見出みいだしたひとである。靉嘔の紹介しょうかい出会であった画家がかあきらきゅう存在そんざいおおきい。これを機縁きえん美術びじゅつ評論ひょうろん久保くぼ貞次郎ていじろうい、作品さくひん頒布はんぷかいをつくってもらった。デモクラート美術家びじゅつか協会きょうかいのときは、いずみしげる加藤かとうただし交際こうさいした。また詩人しじん美術びじゅつ評論ひょうろん瀧口たきぐち修造しゅうぞう企画きかくによるタケミヤ画廊がろうでの銅版どうはん画展がてんへの出品しゅっぴんに、画家がか加納かのうひかり野中のなかユリらとしたしくった。

2人ふたりのパートナー、詩人しじん富岡とみおか多恵子たえこらしはじめてから池田いけだ交遊こうゆう関係かんけいひろがった。詩人しじんとの交際こうさいえ、飯島いいじま耕一こういち西脇にしわき順三郎じゅんざぶろう鍵谷かぎたに幸信ゆきのぶ吉岡よしおかみのる萩原はぎはら葉子ようこらをる。とくに1963ねん、29さいのとき、東京とうきょう世田谷せたがや松原まつばらまちに18じょうあるアトリエをりてから多数たすう友人ゆうじんあつまった。詩人しじん加藤かとういく白石しらいしかずこ田村たむら隆一りゅういち舞踏ぶとう土方ひじかたたつみ作家さっか仏文ふつぶん学者がくしゃ澁澤しぶさわ龍彦たつひこ芸術げいじゅつジミー鈴木すずきらである。隣家りんか仏文ふつぶん学者がくしゃ評論ひょうろん巌谷いわや國士くにおくわわった。芸術げいじゅつろんたたかわせ、パーティーをひらいて、ときには当時とうじはやりはじめたツイストをおどり、演歌えんかうたった。年長ねんちょうしゃでは詩人しじん西脇にしわき順三郎じゅんざぶろうもり鷗外むすめ作家さっかもり茉莉まり音楽おんがく評論ひょうろん吉田よしだ秀和ひでかずらの名前なまえがる。映画えいが監督かんとく篠田しのだ正浩まさひろ、グラフィック・デザイナーの勝井かつい三雄みつお美術びじゅつ評論ひょうろん瀬木せき慎一しんいちともまじわった。

1965ねんはつ渡米とべいから、熱海あたみきょかまえた晩年ばんねんまで、版画はんが野田のだ哲也てつや彫刻ちょうこく篠田しのだ守男もりお飯田いいだよしこく井上いのうえ武吉たけよし人形にんぎょう作家さっか四谷よつやシモン芸術げいじゅつ金子かねこ國義くによし評論ひょうろん加藤かとう周一しゅういち作家さっかほり田善でんぜんまもる陶芸とうげい作家さっか伊勢崎いせさきあつし詩人しじん松永まつなが伍一ごいち、ジャーナリスト・島崎しまざき保久やすひさ作家さっか野坂のさかあきら交際こうさい範囲はんいはさらにひろがる。米国べいこく滞在たいざいちゅうには、イサム・ノグチ知遇ちぐうる。 グラフィック・デザイナーの松永まつながしん陶芸とうげい中村なかむらにしきたいら作家さっか中村なかむら真一郎しんいちろう美術びじゅつ評論ひょうろん米倉よねくらまもるらともまじわった。

版画はんが作品さくひんにもこれらの友人ゆうじんたちの肖像しょうぞう数多かずおお登場とうじょうする。土方ひじかたたつみ吉田よしだ秀和ひでかず夫婦ふうふ白石しらいしかずこ、もり茉莉まり萩原はぎはら葉子ようこ澁澤しぶさわ龍彦たつひこ、ジミー鈴木すずき西脇にしわき順三郎じゅんざぶろうで、大半たいはんは1964ねん制作せいさくされた。

晩年ばんねん池田いけだ才能さいのうみとめ、支援しえんした版画はんがなかには北川きたがわ健次けんじ清原きよはら啓子けいこ山口やまぐち啓介けいすけらがいる。

評価ひょうか

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池田いけだ版画はんが画家がか彫刻ちょうこく陶芸とうげい芥川賞あくたがわしょう作家さっか、エッセイスト、映画えいが監督かんとくと、多岐たきにわたる分野ぶんや足跡あしあとのこしたが、たか知名度ちめいどくらべその芸術げいじゅつ活動かつどうについて、生前せいぜんから正当せいとう評価ひょうかけていたとはいがたい。また、版画はんが油彩ゆさいについての本格ほんかくてき評論ひょうろん生前せいぜん死後しごもほとんどない。

小説しょうせつについても同様どうようである[27]。むしろ、芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう文壇ぶんだんからはげしい批判ひはんけた。『季刊きかん藝術げいじゅつだい47ごうの「座談ざだんかい 芸術げいじゅつとマス・メディア・II」(1978ねん10がつ)では、高名こうみょう文芸ぶんげい評論ひょうろん美術びじゅつ評論ひょうろん画廊がろうぬしら7にんが「芥川賞あくたがわしょう作家さっか是非ぜひ」を主要しゅようテーマに、あたかも「たかが画家がか芥川賞あくたがわしょうったのはけしからん」とれるような悪意あくいある批判ひはんをしている。

テレビのクイズ番組ばんぐみなどへの出演しゅつえんはじめ、マルチタレントとしての活躍かつやくぶりにたいしても美術びじゅつかいからこえにならない“反発はんぱつ”があったとられる。当時とうじ芸術げいじゅつはアトリエにこもって制作せいさくしていればいいとの感覚かんかくがあったからだ(以下いか追悼ついとう記事きじ参照さんしょう)。

陶芸とうげい作品さくひんについては美術びじゅつ評論ひょうろん林屋はやしやはれさんが2008ねんの「池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろくなか陶芸とうげいかいでははじめてたか評価ひょうかしている。

追悼ついとう記事きじ

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  • 1997ねん3がつ9にちづけ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん文化ぶんかめん阿部あべりょう宝玉ほうぎょく正彦まさひこ)によれば、「たか知名度ちめいど展覧てんらんかい人気にんきにもかかわらず、その作品さくひん出来栄できばえが正面しょうめんってろんじられることはすくなかった。あまり不平ふへいうことのないひとだったが、1人ひとりになると、画壇がだんがまともにげてくれない不満ふまんらすこともあった」。
  • 美術びじゅつ評論ひょうろん中原なかはら佑介ゆうすけは「たしかに池田いけだはマルチタレントだった。しかし、日本にっぽんでは岡本おかもと太郎たろうもそうだったけれども、多才たさい美術家びじゅつかほど美術家びじゅつかとしては信用しんようされないというムードがある。池田いけだたいする美術びじゅつかい対応たいおうにもそれがあった。このくにでは、このみち一筋ひとすじ純粋じゅんすい主義しゅぎ信用しんようされるのである」「しかし、それ以上いじょうに、こうしたマルチタレントの美術家びじゅつかがマルチタレントというだけで正当せいとう評価ひょうかされない風土ふうど不毛ふもうだとおもわざるをない」(1997ねん3がつ17にちづけ朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん)。
  • 詩人しじん松永まつなが伍一ごいちは「日本にっぽん美術びじゅつかい各種かくしゅ美術びじゅつ団体だんたい有力ゆうりょくしゃたちが牛耳ぎゅうじっている。(中略ちゅうりゃく)このみち一筋ひとすじ看板かんばんにしているからあれもやりこれもやることをけてきた。美術びじゅつ評論ひょうろんたちも(中略ちゅうりゃく)やりたいことをやりまくる池田いけだ満寿夫ますおのような旺盛おうせいあそごころ芸術げいじゅつ軽蔑けいべつしてきた」「ではピカソミロはどうなるだろう。をやり彫刻ちょうこくをやり版画はんがをやり陶器とうきをつくった。池田いけだ満寿夫ますおはそのうえ小説しょうせつき、随筆ずいひつき、浮世絵うきよえ研究けんきゅうし、脚本きゃくほんき、映画えいがをつくったから、この多才たさいぶりを美術びじゅつかい俗物ぞくぶつあつかいにしてきた。余技よぎというものがなかった。どれをても一流いちりゅうだった。美術びじゅつ批評ひひょうごうとしている連中れんちゅうはおそらく内心ないしん嫉妬しっとしていただろう」(1997ねん4がつ5にちづけ山形やまがた新聞しんぶん)。

死後しごひらかれた全国ぜんこく規模きぼ回顧かいこてん

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  • 2000ねん、「池田いけだ満寿夫ますおてん」(産経新聞さんけいしんぶんなど主催しゅさい
  • 2002ねん、「黒田くろだコレクションから 版画はんが 池田いけだ満寿夫ますお世界せかいてん」(日本経済新聞にほんけいざいしんぶんなど)
  • 2008ねん、「池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん」(毎日新聞まいにちしんぶんなど主催しゅさい

著書ちょしょ

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画集がしゅうなど

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  • 池田いけだ満寿夫ますおしゅう筑摩書房ちくましょぼう(現代げんだい版画はんが) 1970
  • ななつのリトグラフ 池田いけだ満寿夫ますおオリジナルばん画集がしゅう筑摩書房ちくましょぼう 1971
  • 池田いけだ満寿夫ますおぜん版画はんが作品さくひんしゅう美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1972
  • 池田いけだ満寿夫ますお裸婦らふ素描そびょう美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1977
  • 池田いけだ満寿夫ますおグラフィティ』潮出版社うしおしゅっぱんしゃ 1977
  • 池田いけだ満寿夫ますおぜん版画はんが美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1991

小説しょうせつなど

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  • ゲ海げかいささぐ』角川書店かどかわしょてん 1977 のち文庫ぶんこ中公ちゅうこう文庫ぶんこ  
  • 楼閣ろうかくむかって』角川書店かどかわしょてん 1978 のち文庫ぶんこ 
  • 『シナリオゲ海げかいささぐ』角川かどかわ文庫ぶんこ 1979
  • まどからローマがえる』角川書店かどかわしょてん 1979 のち文庫ぶんこ 
  • 私小説ししょうせつ わが青春せいしゅん文学ぶんがくせい遍歴へんれき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1980
  • 『ズボンのなかくも角川書店かどかわしょてん 1980
  • 『マンハッタン・ラプソディ』角川書店かどかわしょてん 1982 のち文庫ぶんこ 
  • 楽園らくえんのこちらがわ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1984 「10フランの恋人こいびと文庫ぶんこ
  • 『ふじやまげいしゃ』講談社こうだんしゃ 1985 「ロマネ・コンティ」中公ちゅうこう文庫ぶんこ 
  • おんなのいる情景じょうけい日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ 1988 のち朝日あさひ文芸ぶんげい文庫ぶんこ
  • しり天使てんし新潮社しんちょうしゃ 1991 のちちゅう公文こうぶん 
  • 乳房ちぶさ角川書店かどかわしょてん 1997

随筆ずいひつ対談たいだん評論ひょうろん

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  • わたし調書ちょうしょ美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1968 のち角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • 模倣もほう創造そうぞう 偏見へんけんのなかの日本にっぽん現代げんだい美術びじゅつ中公新書ちゅうこうしんしょ 1969 のち文庫ぶんこ 
  • わたし自身じしんのアメリカ』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1973 のち講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ 
  • 思考しこうするさかなばんまち書房しょぼう 1974 のち角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • わたし調書ちょうしょわたし技法ぎほう美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1976
  • 王国おうこく入口いりくちわたしのなかの世界せかい美術びじゅつ芸術げいじゅつ生活せいかつしゃ 1976
  • とりたちのようにわたしかたった 対談たいだんしゅう角川書店かどかわしょてん 1977
  • 日付ひづけのある自画像じがぞう講談社こうだんしゃ 1977
  • 複眼ふくがん思考しこう白水しろみずしゃ 1980
  • したしいともへの手紙てがみ新潮社しんちょうしゃ 1980
  • 葡萄色ぶどういろあい主婦しゅふ生活社せいかつしゃ 1982
  • わたしのピカソわたしのゴッホ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1983 のち文庫ぶんこ 
  • 『ハーフ・プライバシー』旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ 1983
  • 『おしり美学びがく講談社こうだんしゃ 1983
  • 池田いけだ満寿夫ますお陶芸とうげい 伝統でんとうへの挑戦ちょうせん美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 1984
  • 『されど写楽しゃらく日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい 1985
  • 『コラージュアフォリズム』そうじゅしゃ 1986
  • 『コラージュろん白水しろみずしゃ 1987
  • おんなのためのおとこ手料理てりょうり中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1987 「おとこ手料理てりょうり文庫ぶんこ 
  • 同心円どうしんえん風景ふうけい毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1987
  • 池田いけだ満寿夫ますおおくのほそみち・みちのく紀行きこう日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい 1989
  • 値段ねだん光文社こうぶんしゃ(カッパ・ホームス) 1990
  • おんな原色げんしょく図鑑ずかん』フットワーク出版しゅっぱん 1991
  • 『そこでゆめはかなえられる 人生じんせいとき大切たいせつに-アートにはなそう』青春せいしゅん出版しゅっぱんしゃ 1994
  • 般若心経はんにゃしんぎょう 池田いけだ満寿夫ますお造形ぞうけい同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 1995
  • 『しっぽのある天使てんし わが愛犬あいけん物語ものがたり文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1995 のち文庫ぶんこ 
  • 『エロチックなたびもとめりゅうどう 1996
  • 池田いけだ満寿夫ますお絵画かいがかたる』白水しろみずUブックス 1997
  • 富嶽ふがくひゃく八景はっけい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1998

共著きょうちょ

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  • 数学すうがくとエロチシズム こう中平なかひらゆう 講談社こうだんしゃ 1977.10 のち文庫ぶんこ 
  • はん美的びてき生活せいかつのすすめ 横尾よこお忠則ただのり 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 1977.9
  • おとこおんな 桐島きりしま洋子ようこ対談たいだん 講談社こうだんしゃ 1978.8 のち角川かどかわ文庫ぶんこ 
  • ひるねむりとよる目醒めざ佐藤さとう陽子ようこ 講談社こうだんしゃ 1979.8
  • エロスの美学びがく 比較ひかく文化ぶんか講義こうぎ 加藤かとう周一しゅういち対談たいだん 朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ 1981 (Lecture books)
  • しょくきさきのラブレター 佐藤さとう陽子ようこ 主婦しゅふ友社ともしゃ 1984.10
  • これが写楽しゃらく池田いけだ満寿夫ますお推理すいりドキュメント 川竹かわたけ文夫ふみお 日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい 1984.11
  • クライマックスはご一緒いっしょに いつまでも“おとこおんな"でいるためのいとかた 佐藤さとう陽子ようこ 主婦しゅふ生活社せいかつしゃ 1986
  • こういうおんなならすべてうしなってもいい 佐藤さとう陽子ようこ 青春せいしゅん出版しゅっぱんしゃ 1988.9 のち文庫ぶんこ
  • 芸術げいじゅつになるほう 金田かねだ石城せきじょう対談たいだん 現代書林げんだいしょりん 1997.1

出演しゅつえん

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テレビドラマ

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ドキュメンタリー

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  • キヤノン A-1(1981ねん)「まどからローマがえる」の撮影さつえい現場げんば舞台ぶたいとしている。
  • きむしるし 金印きんじるしわさび(1988ねん)※佐藤さとう陽子ようこ共演きょうえん
  • ツクダオリジナル「オセロ」(1992ねん)※佐藤さとう陽子ようこ共演きょうえん
  • ジョンソン「ガラスクルー・まいクルーペーパータイプ」※佐藤さとう陽子ようこ共演きょうえん
  • ミサワホームおおきな生活せいかつ。」

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく(2008ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 池田いけだ満寿夫ますお追悼ついとうぶん:「破壊はかい再生さいせい 王道おうどうあゆむ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』1997ねん3がつ9にちづけ夕刊ゆうかん瀬木せき慎一しんいちそこなわれぬ創造そうぞうてき意義いぎ」『読売新聞よみうりしんぶん』1997ねん3がつ10にちづけ夕刊ゆうかん中原なかはら佑介ゆうすけ多才たさいさが日本にっぽんでの評価ひょうかさまたげ」『朝日新聞あさひしんぶん』1997ねん3がつ17にちづけ夕刊ゆうかん松永まつなが伍一ごいちかたピカソと似通にかよう」『山形やまがた新聞しんぶん』1997ねん4がつ5にちづけ朝刊ちょうかん
  2. ^ a b c 東京とうきょうオペラシティアートギャラリー 池田いけだ満寿夫ますおられざる全貌ぜんぼうてん
  3. ^ 宮沢みやざわたけしけい池田いけだ満寿夫ますお: 流転るてん調書ちょうしょ』62ページ
  4. ^ 池田いけだ満寿夫ますおさん急死きゅうし - ウェイバックマシン(1997ねん7がつ14にちアーカイブぶん
  5. ^ 池田いけだ満寿夫ますおさん密葬みっそう - ウェイバックマシン(1997ねん7がつ14にちアーカイブぶん
  6. ^ スクープ・池田いけだ満寿夫ますお絶筆ぜっぴつ - ウェイバックマシン(1997ねん7がつ14にちアーカイブぶん
  7. ^ a b 池田いけだ満寿夫ますお池田いけだ満寿夫ますおBOOK WORK』形象けいしょうしゃ、1978ねん
  8. ^ 池田いけだ満寿夫ますお『コラージュろん白水しろみずしゃ、1987ねん
  9. ^ ほりもとあきら池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく作品さくひん解説かいせつ、2008ねん
  10. ^ 篠田しのだ正浩まさひろわたし履歴りれきしょ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』2005ねん8がつ22にちづけ朝刊ちょうかん
  11. ^ 池田いけだ満寿夫ますお金田かねだ石城せきじょう芸術げいじゅつになるほう 池田いけだ満寿夫ますお対談たいだん金田かねだ石城せきじょう現代書林げんだいしょりん、1997ねん
  12. ^ 池田いけだ満寿夫ますお複眼ふくがん思考しこう白水しろみずしゃ1980ねん
  13. ^ 浅野あさのしげるつよし池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく作品さくひん解説かいせつ、2008ねん
  14. ^ 池田いけだ満寿夫ますおわたしのピカソ わたしのゴッホ』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1983ねん
  15. ^ 西山にしやま恒彦つねひこ池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく作品さくひん解説かいせつ、2008ねん
  16. ^ 井端いばた理英子りえこ中尾なかお美穂みほ池田いけだ満寿夫ますお足跡あしあと歴史れきし」『池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく、2008ねん
  17. ^ 浜田はまだ重幸しげゆき池田いけだ満寿夫ますお線描せんびょうすみ」『池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく、2008ねん
  18. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1989ねん5がつ14にちづけ夕刊ゆうかん
  19. ^ 池田いけだ満寿夫ますお野末のずえ陳平ちんぺい野末のずえ陳平ちんぺいのおカネ対談たいだん」「週刊文春しゅうかんぶんしゅん」1985ねん1がつ24にち
  20. ^ 邦画ほうがフリーブッキングはいおさむベスト作品さくひん」『キネマ旬報きねまじゅんぽう1983ねん昭和しょうわ58ねん2がつ下旬げじゅんごうキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1983ねん、117ぺーじ 
  21. ^ 「ひとことでうと怪人かいじん」“好敵手こうてきしゅ酒井さかい政利まさとし - ZAKZAK 2007/08/02
  22. ^ 池田いけだ満寿夫ますお池田いけだ満寿夫ますお わたし調書ちょうしょ美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1968ねん池田いけだ満寿夫ますお王国おうこく入口いりくちで わたしのなかの世界せかい美術びじゅつ芸術げいじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1976ねん
  23. ^ 池田いけだ満寿夫ますお版画はんが芸術げいじゅつ』61ごう、1988ねん
  24. ^ 池田いけだ満寿夫ますお陶芸とうげい随想ずいそう」『読売新聞よみうりしんぶん』1992ねん8がつ25にちづけ夕刊ゆうかん
  25. ^ 太田おおた治孝はるたか池田いけだ満寿夫ますお増穂ますほのぼかま」『池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく、2008ねん
  26. ^ 浜田はまだ重幸しげゆき池田いけだ満寿夫ますおすえとピーター・ヴォーコス」『池田いけだ満寿夫ますお られざる全貌ぜんぼうてん図録ずろく、2008ねん
  27. ^ 中村なかむら真一郎しんいちろうほんむ」『毎日新聞まいにちしんぶん』1988ねん12月9にちづけ夕刊ゆうかん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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