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流鏑馬 - Wikipedia

流鏑馬やぶさめ

古式こしき弓馬きゅうばじゅつひと

流鏑馬やぶさめ(やぶさめ、表記ひょうき: かぶらりゅう)は、日本にっぽん古式こしき弓馬きゅうばじゅつ伝統でんとうてき騎射きしゃじゅつ)である[1][2][3][4]武家ぶけ社会しゃかいおこなわれた騎射きしゃ一種いっしゅで、馬術ばじゅつ弓術きゅうじゅつわせたもの[5]

流鏑馬やぶさめ
やぶさめ
別名べつめい 流鏑馬やぶさめしき(やぶさめしき)
競技きょうぎ形式けいしき 演武えんぶ儀式ぎしき
使用しよう武器ぶき かずゆみうま
発生はっせいこく 日本の旗 日本にっぽん
創始そうししゃ 不明ふめい
源流げんりゅう 騎射きしゃ
流派りゅうは
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疾走しっそうするうまりながら鏑矢かぶらや(かぶらや)でてきまと)をる、技術ぎじゅつであり儀式ぎしきであり競技きょうぎ[6][7][1]である。

現代げんだいでは、武田たけだりゅう小笠原おがさわらりゅうなどの流派りゅうは伝承でんしょうする流鏑馬やぶさめと、神社じんじゃ神職しんしょく氏子うじこ、または保存ほぞんかいなどにがれた流鏑馬やぶさめが、催事さいじ信仰しんこうかかわりないイベント)と神事しんじのいずれかのかたち実施じっしされている[8]

古式こしきとはべつあたらしく考案こうあんされた弓馬きゅうばじゅつ儀式ぎしきもあり、これも「流鏑馬やぶさめ」とばれている。さらには、流鏑馬やぶさめスポーツ競技きょうぎとして規格きかくしたものもあり、「流鏑馬やぶさめ」「競技きょうぎ流鏑馬やぶさめ」「スポーツ流鏑馬やぶさめ」などとばれている。

概要がいよう

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流鏑馬やぶさめ射手しゃしゅかり装束しょうぞく
(『流鏑馬やぶさめ絵巻えまきあな八幡宮はちまんぐうぞうより)

名称めいしょう

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古代こだいにおいては、「うまてき(むまゆみいさせ)」「騎射きしゃ(むまゆみ)」「(やはせむま)」とばれていた[9][10]

これが(やばせめ、やばせうま)」と変化へんかし、さらに「やぶさめ」へと転訛てんかし、そのおと変化へんかたいしてされたのがが「流鏑馬やぶさめ」および「かぶらりゅう」であったとかんがえられている[9][10]

現代げんだいでは小笠原おがさわらりゅう武田たけだりゅうはじめ「流鏑馬やぶさめ」の表記ひょうきおお使つかわれている。

流鏑馬やぶさめ起源きげん6世紀せいき中頃なかごろ552ねん)に欽明天皇てんのうくに内外ないがい戦乱せんらんおさめるため、九州きゅうしゅう豊前ぶぜん宇佐うさにおいて、神功じんぐう皇后こうごう応神天皇おうじんてんのうまつり「天下てんか平定へいてい五穀豊穣ごこくほうじょう」を祈願きがんし、もっと騎射きしゃながじたもの馬上もうえからみっつのまとさせた神事しんじはじまりとされている[11][12]

日本書紀にほんしょき天武天皇てんむてんのう9ねん682ねん)「あさ嬬にこうす。りて大山おおやまより以下いかうま長柄ながえもり長柄ながえ神社じんじゃす。乃馬てきさせたまふ」(天武天皇てんむてんのう長柄ながえ神社じんじゃ流鏑馬やぶさめもよお観覧かんらんした。)とある[13]

ぞく日本にっぽん文武ぶんぶ天皇てんのうねん698ねん三月さんがつやまこく賀茂かもさいにもろびとをあつめて騎射きしゃ(むまゆみ)することをいさむ」(京都きょうと葵祭あおいまつり人々ひとびとあつめて流鏑馬やぶさめをすることを禁止きんしする)とある[14]

流鏑馬やぶさめふく弓馬きゅうば礼法れいほうは、寛平かんぺい8ねん896ねん)に宇多天皇うだてんのうみなもとのうゆうめいじて制定せいていされ[15]、また、『ちゅう右記うき』の永長ながおさ元年がんねん1096ねん)のこうなどにしるされているように、馬上もうえにおける実戦じっせんてき弓術きゅうじゅつひとつとして平安へいあん時代じだいから存在そんざいした。

一方いっぽう出雲いずも伊波いは神社じんじゃでは康平こうへい6ねん1063ねん)に源義家みなもとのよしいえ奉納ほうのうするなど、神事しんじとしてもおこなわれていた記録きろくがある[16]

関白かんぱく藤原ふじわらただしどおりによって春日大社かすがたいしゃ若宮わかみや社殿しゃでん改築かいちくされ、のべ2ねん1136ねん)3がつ4にち春日しゅんじつもうで、若宮わかみやしゃさんちゅう右記うきゆうけん記文きぶんなが10・2・26じょう)し、9月17にちはじめて春日かすが若宮わかみやおんさいおこない、大和やまと武士たけし[ちゅう 1]によって今日きょうまで「流鏑馬やぶさめじゅう」が奉納ほうのうされつづけてきた。(ちゅう右記うき一代いちだいよう

吾妻あづまきょう』にはみなもと頼朝よりとも西行さいぎょう流鏑馬やぶさめおしえを復活ふっかつさせたとしるされている[15]鎌倉かまくら時代ときよには「しゅうきょうりゅう」とばれる技法ぎほう存在そんざいし、武士ぶしたしなみとして、また幕府ばくふ行事ぎょうじまれたこともふくめてさかんに稽古けいこ実演じつえんされた。北条ほうじょう時宗じしゅう執権しっけん時代じだいまでに、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうでは47かい流鏑馬やぶさめおさめられたとされる[15]。だが、しかし、個人こじん武勇ぶゆうたよっていた時代じだいから、兵法ひょうほう兵器へいき進化しんかして足軽あしがる鉄砲てっぽうによる集団しゅうだん戦闘せんとう時代じだいである室町むろまち時代ときよ安土あづち桃山ももやま時代じだいと、ときるにしたがい、一時いちじすたれた。

江戸えど時代じだいはいり、とおる9ねん1724ねん)、とき将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねいのちけた小笠原おがさわらりゅう20だい小笠原おがさわら常春とこはるは、小笠原おがさわら伝書でんしょ研究けんきゅうあらたな流鏑馬やぶさめ制定せいてい古式こしきともおくつとめの武士ぶしいたる流鏑馬やぶさめ笠懸かさかけ稽古けいこをつける。とおる13ねん1728ねん)、徳川とくがわ家重いえしげ世嗣せいしぎのために疱瘡ほうそう治癒ちゆ祈願きがんとしてあな八幡宮はちまんぐうきた高田馬場たかだのばば現在げんざい東京とうきょう新宿しんじゅく西早稲田にしわせださん丁目ちょうめ)にて流鏑馬やぶさめおこない、これを奉納ほうのうした(この10ねん無事ぶじ疱瘡ほうそう祈願きがん成就じょうじゅしたおり報賽ほうさいとしてふたたおこなわれ、その様子ようす絵巻えまきにしたものが『流鏑馬やぶさめ絵巻えまき』である)。こののち将軍家しょうぐんけ厄除やくよけ、誕生たんじょう祈願きがんさいなどに度々どど流鏑馬やぶさめおこなわれるようになる。

明治維新めいじいしん幕府ばくふ解体かいたい、まただい世界せかい大戦たいせん以後いごあおりをけるなどさん衰退すいたいるが、明治めいじ以降いこう継承けいしょうされつづけ、現在げんざいいたる。

現在げんざい流鏑馬やぶさめ様式ようしき多様たよう変化へんかさせつつも伝統でんとうぎ、日本にっぽん各地かくちさかんにおこなわれ、観光かんこう目玉めだまとなっている。また、スポーツ流鏑馬やぶさめという名称めいしょう競技きょうぎせいたせた馬上もうえ弓術きゅうじゅつ乗馬じょうば倶楽部くらぶなどにより新興しんこうされ各所かくしょのルールでしたしまれている。

うま疾走しっそうさせる直線ちょくせん区間くかんで、通常つうじょう2まちやく218メートル)。進行しんこう方向ほうこう左手ひだりてあいだいて3つのまとてる。馬場ばばからてきまでの距離きょりは5m前後ぜんごてきたかさは2m前後ぜんご流派りゅうは規定きていちがいにより、それぞれの距離きょりにはばらつきがある)。射手しゃしゅは、かり装束しょうぞくまとい、うま疾走しっそうさせ、連続れんぞくしてる。

騎射きしゃさんぶつ

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馬上もうえにおける弓術きゅうじゅつには、笠懸かさかけ(かさがけ)や犬追物いぬおうもの(いぬおうもの)があり、流鏑馬やぶさめわせて「騎射きしゃさんぶつ」とされる[10]てき射手しゃしゅとの距離きょりを10 - 15あいだやく18 - 27メートル)に1ついたものを「笠懸かさかけ」、竹垣たけがきかこんだ馬場ばばに150ひきいぬはなし、射手しゃしゅ36が3かれていぬるものを「犬追物いぬおうもの」という。犬追物いぬおうものでは、いぬきずつけないよう大型おおがたかぶらをつけたもちいる。

詳細しょうさい

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以下いか徳川とくがわでのれいについてべる。

馬場ばばながさ2まちである。ひろさ2つえはんほどのなかはば1つえしばるか、またはなわって、なかすないて馬走まばせとする。いちだんげることもある。両側りょうがわにはらちがある。ひだりおとこらちといい、たかさは2しゃく3すん右側みぎがわおんならちといい、たかさは2しゃく木製もくせいでもあり、はぎでもむすぶ。

てきは3箇所かしょてる。いちてきまでは48つえいちまとからてきあいだは38つえまとからさんてきあいだは37つえである。まと馬走まばせとのあいだは3つえであり、上手じょうずには5つえ、7つえなどにまとてることもある。てきかた1しゃく8すんあつさ1ふんほどのひのきばんである。てきくしながさは3しゃく5すんほどで、まとはさみ、頂点ちょうてん上下じょうげに(いわゆるダイヤがたに)てる。

射手しゃしゅ服装ふくそう水干すいかん(すいかん)、またはよろい直垂ひたたれ(よろいひたたれ)をて、すそおよびそでをくくり、こしには行縢むかばき(むかばき)をつけ、あしにものしゃくつ(ものいぐつ)をはき、ひだり小手こて(いごて)をつけ、手袋てぶくろをはめ、右手みぎてむちをとり、あたまにはあやかさ(あやいがさ)をいただく。太刀たちい、かたなし、鏑矢かぶらやすじさしたえびら(えびら)をい、ゆみならびに鏑矢かぶらや一筋ひとすじ左手ひだりてつ。

次第しだいは、射手しゃしゅしょやくともにかみはいわって馬場ばばき、馬場ばばいちとおまわり、射手しゃしゅ馬場ばばまつあつまりならび、ウマをて、しょやくはそれぞれ所定しょてい位置いちにつく。日記にっきやくて、射手しゃしゅなかから一番いちばん射手しゃしゅがこれに出向しゅっこうかってひざまずくとき、日記にっきやくは「流鏑馬やぶさめはじめませ」とせんする。このあいだ一同いちどう射手しゃしゅ下馬げばする。一番いちばん射手しゃしゅがこれをけてかえり、射手しゃしゅつたえ、一同いちどううちそろって乗馬じょうばし、馬場ばばもとき、扇形せんけいにウマをならぶ。一番いちばん射手しゃしゅがまずウマをすすめて祝詞のりとそうし、わって中啓ちゅうけいし、おうぎさばきをなし、そのままウマをし、中啓ちゅうけい前方ぜんぽうたかげ、りかけていちまとる。これをあげおうぎという。いでてきさんまとることはわらない、射手しゃしゅ次々つぎつぎわり、5でも7でも、当日とうじつ最後さいご射手しゃしゅ老練ろうれん上手じょうずものがこれにあたり、まずいちまとつがいし、ただちに右手みぎてむちり、たかげ、しずかにこれをろしてりかけまとさんてきまえにもむちげる。これをあげむちといい、はなはだ困難こんなん技術ぎじゅつである。射手しゃしゅわったものから馬場ばばもとあつまるから、全部ぜんぶ終了しゅうりょうのときはただちにして、しょやくはそれぞれの位置いちについて支度したくしょもどる。

ほうは、どうづくおよつがいに特色とくしょくがある。ウマをすとともにくらまわりといって、左右さゆうひざひらあぶみがり、身体しんたいくらと3すんくらいくようにする。これをくらをすかすという。身体しんたいまえせ、むねをそらせる。いちつがえてるけれども、さんえびらからいてつがえる。

流鏑馬やぶさめではこえける。しきにはいちてき手前てまえで「インヨーイ」とみじかふとけ、てき手前てまえで「インヨーイインヨーイ」とかぶとごえでややながけ、さんてき手前てまえでは「インヨーイインヨーイインヨーーイ」とかぶとやぶってたかながける。りゃくでは「ヤアオ」「アララインヨーイ」「ヤーアアオ」「アラアラアラアラーーッ」などとける。

日記にっきは、当日とうじつ射手しゃしゅ姓名せいめいしるし、ちゅうしるす。奉書ほうしょながりにして、みぎはし水引みずひきじてつくる。

全国ぜんこく開催かいさい行事ぎょうじ名称めいしょう概要がいよう

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東北とうほく地方ちほう

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関東かんとう地方ちほう

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だい31かい浅草あさくさ流鏑馬やぶさめ実演じつえん流儀りゅうぎ小笠原おがさわらりゅう(2013ねん

中部ちゅうぶ地方ちほう

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近畿きんき地方ちほう

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中国ちゅうごく地方ちほう

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四国しこく地方ちほう

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九州きゅうしゅう地方ちほう

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競技きょうぎ流鏑馬やぶさめ

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スポーツ流鏑馬やぶさめともばれる。乗馬じょうば倶楽部くらぶなどが主体しゅたいとなり開催かいさいされる。開催かいさい場所ばしょごとのルールで競技きょうぎせいたせて実施じっしされる。競技きょうぎ流鏑馬やぶさめ関係かんけいしゃにより、日本にっぽん伝統でんとう騎射きしゃわざ継承けいしょう発展はってん種馬たねうま存続そんぞく活用かつよう目的もくてきに、流鏑馬やぶさめ競技きょうぎ連盟れんめいが2002ねん発足ほっそくした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 興福こうふく寺領じりょう荘園しょうえんないそうかん衆徒しゅととし、春日かすが社領しゃりょう荘園しょうえんないそうかん国民こくみんとしてそれぞれ荘園しょうえん管理かんりをさせた。室町むろまち時代じだいになると、十市といち刀禰とねとする長谷川はせがわとうはし刀禰とねとする長川ながかわとう筒井つつい刀禰とねとする戌亥いぬいわきとう楢原ならはら中心ちゅうしんとしたみなみとう越智おち中心ちゅうしんとした散在さんざいとう平田ひらたとうろくとう割拠かっきょし、そのなかでも筒井つつい越智おちはし十市といちよんが「大和やまとよんいえ」とばれる勢力せいりょく成長せいちょうしていった。おんまつりがはじめられた当初とうしょから、大和やまと武士ぶしによって「流鏑馬やぶさめじゅう」が奉納ほうのうされてきた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b kb小学しょうがくこく.
  2. ^ カザフで日本にっぽん流鏑馬やぶさめ披露ひろう 乗馬じょうばさかんな中央ちゅうおうアジアではつ」『SankeiBiz』株式会社かぶしきがいしゃ産経さんけいデジタル、2017ねん8がつ14にち2021ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ KyodoNews (14 August 2017). カザフで日本にっぽん流鏑馬やぶさめ披露ひろう 乗馬じょうばさかんな中央ちゅうおうアジアではつ (動画どうが共有きょうゆうサービス). 共同通信社きょうどうつうしんしゃYouTube公式こうしきチャンネル). 2021ねん5がつ2にち閲覧えつらん収録しゅうろく時間じかん:1ふん24びょう
  4. ^ kbいずみ.
  5. ^ kb旺.
  6. ^ kb-MP.
  7. ^ kb-Brit.
  8. ^ 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 日本にっぽんごと協会きょうかい”. www.bajikyo.or.jp. 2022ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  9. ^ a b kb-Nipp.
  10. ^ a b c だいはん, 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),百科ひゃっか事典じてんマイペディア,ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん,精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん,旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん,デジタル大辞泉だいじせん,デジタル大辞泉だいじせんプラス,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん. “流鏑馬やぶさめとは”. コトバンク. 2022ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  11. ^ 武田たけだりゅう流鏑馬やぶさめ”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん 日本にっぽん古式こしき弓馬きゅうばじゅつ協会きょうかい. 2021ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  12. ^ 武田たけだりゅう鎌倉かまくら流鏑馬やぶさめ神事しんじ概説がいせつ”. 近江おうみ神宮じんぐう. 2021ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  13. ^ 長柄ながら神社じんじゃ”. 御所ごしょ地域ちいき活性かっせい推進すいしんしつ. 2021ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  14. ^ 賀茂かもさい騎射きしゃ神事しんじ”. 下鴨神社しもがもじんじゃ賀茂かも祖神そしんしゃ). 2021ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  15. ^ a b c 金子かねこ四郎しろうきょう (1992), p. 100.
  16. ^ 出雲いずも伊波いは神社じんじゃのやぶさめ (PDF) - 毛呂山もろやままちパンフレット

参考さんこう文献ぶんけん

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事典じてん
書籍しょせき、ムック
  • 文園ふみぞのしゃ編集へんしゅう編集へんしゅうへん乗馬じょうばへのみち Vol. 1 ─いま、乗馬じょうばたのしい』文園ふみぞのしゃ乗馬じょうばへのみち〉、1992ねん9がつ30にち ISBN 4-89336-068-XISBN 978-4-89336-068-7
    • 武田たけだりゅう 35だい 金子かねこ四郎しろうきょう流鏑馬やぶさめ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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