源みなもと 清延きよのぶ(みなもと の きよのぶ、延長えんちょう4年ねん(926年ねん)または延喜えんぎ12年ねん(912年ねん) - 長ちょう徳いさお2年ねん1月がつ17日にち(996年ねん2月がつ8日にち))は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきの貴族きぞく。光孝みつたか源氏げんじ、治部じぶ卿きょう・源みなもと近きん善ぜんの孫まご。内蔵ないぞう頭あたま・源みなもと宗はじめ海うみの子こ。官位かんいは従したがえ三さん位い・播磨はりま守まもる。
村上むらかみ天皇てんのうの春宮とうぐう時代じだいに春宮とうぐう坊ぼう帯刀たいとうを務つとめ、村上むらかみ朝ちょうでは左ひだり兵衛ひょうえ尉じょうに任官にんかん。円融えんゆう朝ちょうでは上総かずさ介かいとして受領じゅりょうとなり、天てん延のべ元年がんねん(973年ねん)再任さいにんされている。
一いち条じょう朝あさ初頭しょとうに伊予いよ守もりを務つとめる。永えい祚元年がんねん(989年ねん)3月がつの除目じもくで播磨はりま守まもる・藤原ふじわら景けい舒と官職かんしょくを入いれ替かわり、清延きよのぶが播磨はりま守まもるに景けい舒が伊予いよ守もりに任にんぜられ、藤原ふじわら実みのる資しにこのような任官にんかんは聞きいたことがないと評ひょうされている。翌よく永えい祚2年ねん(990年ねん)美び福ぶく門もん造営ぞうえいの功労こうろうにより従したがえ三さん位いに叙じょせられ公卿くぎょうに列れつした。
正せい暦こよみ2年ねん(991年ねん)任期にんき満了まんりょうにより播磨はりま守まもるを辞じすと官界かんかいを退しりぞき、長ちょう徳いさお元年がんねん(995年ねん)11月25日にち出家しゅっけした。最終さいしゅう官位かんいは前ぜん播磨はりま守まもる従したがえ三さん位い。翌よく長ちょう徳とく2年ねん(996年ねん)正月しょうがつ17日にち薨去こうきょ。享年きょうねん71[1]または85[2]。
注記ちゅうきのないものは『公卿くぎょう補任ほにん』による。
注記ちゅうきのないものは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。