灘 蓮 照
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1927 | |
1984 | |
プロ |
1947 |
44 | |
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6 | |
A | |
2022 |
経歴
1955
1982
人物
関西 本部 所属 。- 1957
年 ごろは和歌山 在住 だったが、[3]のち、京都 伏見 に移 り住 んだ[4]。京都 伏見 で将棋 道場 を開 いており、段 級 が厳 しいことで有名 だった[5]。 豪胆 な棋風 と独特 の戦法 を用 い、また日蓮宗 の僧侶 として得度 していたことなどから(これに関連 し蓮 照 と改名 している)、「荒法師 」の異名 を取 る。現代 の矢倉 の主流 戦法 である矢倉 3七 銀 戦法 は、森下 卓 によれば、昭和 40年代 に灘 蓮 照 が編 み出 した「灘 流 矢倉 」を源流 とするという(森下 『初段 に勝 つ矢倉 戦法 』創 元 社 、2003年 など)。対 振 り飛車 では、玉 頭 位取 りを得意 とした[6]。中段 玉 の力戦 も得意 としていた[7]。早 指 し将棋 を得意 とした[8]。NHK杯 で1955年度 の第 5回 から3年 連続 準 優勝 、そして1958年度 の第 8回 で優勝 した。参加 棋士 数 が少 なかったとはいえ、4年 連続 決勝 進出 は、2011年度 に羽生 善治 が4連覇 で並 ぶまで長 くNHK杯 史上 唯一 の快 記録 であった。駒 落 ち将棋 の達人 で「アマ初段 相手 に八 枚 落 ちで勝 つ自信 がある」「アマ四 段 を相手 に四 枚 落 ちで三 面 指 しを行 って全勝 した」などの逸話 があり、棋界 では花 村元 司 と並 んで有名 であった。
弟子
棋士
1950 |
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1986 |
神田 鎮雄 は師匠 ・神田 辰之助 九 段 の次男 。
昇段 履歴
主 な成績
順位 戦 A級 在籍 通算 17期
棋戦 優勝
タイトル戦 登場
在籍 クラス
A |
B |
C |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
T |
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1 |
2 |
1 |
2 | |||||||||||||||
1947 | 2 | C |
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1948 | 3 | C |
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1949 | 4 | C |
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1950 | 5 | C |
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1951 | 6 | B |
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1952 | 7 | B103 | ||||||||||||||||
1953 | 8 | A 08 | ||||||||||||||||
1954 | 9 | A 05 | ||||||||||||||||
1955 | 10 | A 06 | ||||||||||||||||
1956 | 11 | A 04 | ||||||||||||||||
1957 | 12 | A 05 | ||||||||||||||||
1958 | 13 | A 07 | ||||||||||||||||
1959 | 14 | A 07 | ||||||||||||||||
1960 | 15 | A 03 | ||||||||||||||||
1961 | 16 | A 04 | ||||||||||||||||
1962 | 17 | A 04 | ||||||||||||||||
1963 | 18 | A 08 | ||||||||||||||||
1964 | 19 | B102 | ||||||||||||||||
1965 | 20 | B105 | ||||||||||||||||
1966 | 21 | A 09 | ||||||||||||||||
1967 | 22 | B101 | ||||||||||||||||
1968 | 23 | B103 | ||||||||||||||||
1969 | 24 | A10 | ||||||||||||||||
1970 | 25 | A 01 | ||||||||||||||||
1971 | 26 | A 08 | ||||||||||||||||
1972 | 27 | A 12 | ||||||||||||||||
1973 | 28 | A 09 | ||||||||||||||||
1974 | 29 | B103 | ||||||||||||||||
1975 | 30 | B111 | ||||||||||||||||
1976 | ||||||||||||||||||
1977 | 36 | B203 | ||||||||||||||||
1978 | 37 | B218 | ||||||||||||||||
1979 | 38 | C101 | ||||||||||||||||
1980 | 39 | C103 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | C115 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | C115 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | C116 | ||||||||||||||||
著書
灘 流 矢倉 戦法 日本 将棋 連盟 昭和 49年 刊行
脚注
- ^
将棋 ペンクラブログ20151213にて引用 (将棋 世界 1995年 6月 号 、将棋 普及 指導 員 の大泉 紘一 のエッセイ「将棋 の話 あれこれ」 - ^
当初 、村山 の父 は広島 在住 の元 奨励 会員 にプロ入 りを持 ちかけたが「まだ早 い」と止 められたため、他 の筋 を当 たって森 信雄 を師匠 とした。しかし最初 に相談 を受 けた元 奨励 会員 が、親交 のあった灘 に村山 の弟子入 りを申 し込 んで許可 されていたため、灘 は村山 は自分 の弟子 に当 たると主張 した(『聖 の青春 』より)。 - ^
将棋 ペンクラブブログ20180508にて引用 (将棋 マガジン1984年 7月 号 )清水 孝 晏「思 い出 の棋士 たち・荒法師 ・灘 蓮 照 九 段 逝 く」より - ^
将棋 ペンクラブブログ20160813にて引用 (将棋 世界 1984年 7月 号 )神崎 健 二 二 段 (当時 )の「灘 先生 を偲 んで」より - ^
将棋 ペンクラブブログ20190107にて引用 (近代 将棋 1983年 7月 号 )読者 の投稿 欄 「読者 会議 」より - ^
将棋 ペンクラブログ20181129にて引用 (「近代 将棋 」1982年 7月 号 ・小林 勝 「棋界 パトロール振 り飛車 をめぐる戦法 の変遷 」 - ^
鈴木 宏彦 編著 『イメージと読 みの将棋 観 ファイナル』(日本 将棋 連盟 )P.158 - ^
加藤 治郎 ・原田 泰夫 ・田辺 忠幸 『証言 ・将棋 昭和 史 』(毎日 コミュニケーションズ)巻末 「将棋 昭和 史 年表 」(加藤 久弥 、越智 信義 )P.245 - ^ 1982
年 (第 30回 )まではタイトル戦 ではなく一般 棋戦 。 - ^ 「
名人 戦 ・順位 戦 」『日本 将棋 連盟 』。 - ^ 「
竜王 戦 」『日本 将棋 連盟 』。