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禅 ZEN - Wikipedia

ぜん ZEN』(ぜん)は、2009ねん1がつ10日とおか公開こうかい日本にっぽん映画えいが鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき禅僧ぜんそうであり、曹洞宗そうとうしゅう開祖かいそである道元どうげん禅師ぜんじ生涯しょうがいえがく。大谷おおや哲夫てつお小説しょうせつえいたいらふう 道元どうげん生涯しょうがい』を原作げんさくとする。

ぜん ZEN
監督かんとく 高橋たかはしばんあきら
脚本きゃくほん 高橋たかはしばんあきら
原作げんさく 大谷おおや哲夫てつお
えいたいらふう 道元どうげん生涯しょうがい
製作せいさくそう指揮しき 大谷おおや哲夫てつお
出演しゅつえんしゃ 中村なかむら勘太郎かんたろう
内田うちだ有紀ゆき
藤原ふじわら竜也たつや
テイりゅうすすむ
高良こうら健吾けんご
安居あんきょけん一郎いちろう
村上むらかみあつし
勝村かつむら政信まさのぶ
西村にしむら雅彦まさひこ
哀川あいかわしょう
笹野ささの高史たかし
高橋たかはし惠子けいこ
音楽おんがく 宇崎竜童うざきりゅうどう
中西なかにし長谷ながたにつよし
撮影さつえい 水口みずぐち智之としゆき
編集へんしゅう 菊池きくち純一じゅんいち
製作せいさく会社かいしゃぜん ZEN」製作せいさく委員いいんかい
配給はいきゅう 角川かどかわ映画えいが
公開こうかい 日本の旗 2009ねん1がつ10日とおか
上映じょうえい時間じかん 127ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
興行こうぎょう収入しゅうにゅう 5.0おくえん[1]
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曹洞宗そうとうしゅうひらぜんおしえをいた鎌倉かまくら時代ときよそう道元どうげん禅師ぜんじ生涯しょうがいえが歴史れきしロマン。おさなころははくした道元どうげんは、人々ひとびとしんすくいとなるさとりをるため、仏道ぶつどうせいもとめる。24さいとなった道元どうげんいれそうした。しかし、このくに仏道ぶつどう役人やくにんへの賄賂わいろ横行おうこうし、腐敗ふはいきわめていた。失意しつい道元どうげんまえに、わかいころの友人ゆうじん将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも暗殺あんさつはんとして処刑しょけいされたみなもと御曹司おんぞうしみなもとこうあかつきふりふたつの青年せいねんそうあらわれる。青年せいねんそうさびえんさびえん案内あんないにより、道元どうげん最初さいしょにゅうそうしたときすずめた天童てんどうさんかえり、とき住職じゅうしょくとなっていた、如浄禅師ぜんじあいする。如浄は一目いちもく道元どうげん器量きりょう見抜みぬき、道元どうげんは如浄にせい見出みいだした。こうして、道元どうげんは如浄のもとで修行しゅぎょうむことになる。そして、あるなつ夜明よあけ、道元どうげんさとりをた。「只管ひたすらすわ(しかんたざ)」のかんがえに目覚めざめ、だいそうこくでの修行しゅぎょうより帰国きこくした道元どうげん禅師ぜんじ勢力せいりょくみだれる鎌倉かまくら時代じだい道元どうげんぜんおしえをひろめようとしていた。困窮こんきゅうする人々ひとびとにも権力けんりょくしゃにもわけへだてなく、出会であった人々ひとびとしんおしえをいていく。帰国きこくした道元どうげんは、建仁寺けんにんじをよせ、『ひろしすすむ坐禅ざぜん』の執筆しっぴつりかかる。周囲しゅうい堕落だらくしたそうたちからは孤立こりつするが、べんどう精進しょうじんする道元どうげん姿勢しせいに、共感きょうかんおぼえるものあらわれはじめていた。そのなかには、わかそうしゅんりょうもと達磨だるまむねふところ道元どうげんをたずねてそうからはるばるやってきたさびえんもいた。再会さいかいたした道元どうげんさびえんは、日本にっぽんに如浄禅師ぜんじおしえをてることを決意けついする。しかし、宗派しゅうは否定ひていした道元どうげんおしえは、比叡山ひえいざんから邪教じゃきょう烙印らくいんされてしまう。叡山えいざん僧兵そうへいおおやけじんらに圧迫あっぱくされる道元どうげんすくったのは、鎌倉かまくら幕府ばくふろく探題たんだい波多野はたの義重よししげだった。義重よししげすすめで、道元どうげんたちは洛外らくがい深草ふかくさあんよういんせる。道元どうげんしんたれたものなかに、遊女ゆうじょのおりんもいた。乳飲ちの怠惰たいだおっと松蔵まつぞうやしな希望きぼうのない日々ひびおくっていたおりんも、道元どうげんとの出会であいによってしん変化へんかかんじていた。乳飲ちのうしない、自暴自棄じぼうじきになったおりんのしんすくったのもまた、道元どうげんおしえだった。やがて、道元どうげん隆盛りゅうせいねた叡山えいざん僧兵そうへいによって深草ふかくさてられた興聖寺こうせいじ襲撃しゅうげきされる。道元どうげんふたた義重よししげすすめで、越前えちぜんこころざし此庄にうつり、だい仏寺ぶつじ(のちの永平寺えいへいじ)が建立こんりゅうされた。そこで、おりんも道元どうげん門下生もんかせいとなる。永平寺えいへいじはいった道元どうげんは、如浄禅師ぜんじおしえを実践じっせんするべく、さらに門弟もんていたちの指導しどうはげんでいた。そんななか義重よししげ永平寺えいへいじおとずれる。「執権しっけん北条ほうじょうよりゆきはこれまでの度重たびかさなるせんながしたにより、毎夜まいよ怨霊おんりょうくるしめられている。どうかぜん真髄しんずいいてときよりゆきおおやけすくってしい」というもうに、道元どうげんさびえんとも鎌倉かまくらへとおもむく。鎌倉かまくらでは、憔悴しょうすいしたときよりゆきっていた。「正伝せいでん仏法ぶっぽうとはどのようなものだ」とときよりゆきに、道元どうげんは「只管ひたすらすわ・・・ただすわり、あるがままの真実しんじつ姿すがたることこそ、さとりなのです」とかたりかけ、いけうつつきせる。「このいけつきれますか?」とたずねる道元どうげんに、ときよりゆき太刀たちき、水面すいめんはたる。しかし、波紋はもんはすぐにしずまり、水面すいめんにはもとのようにつき宿やどる。その様子ようすせた道元どうげんときよりゆきろんじる。「なにをしようともつきえることはない。おなじように怨霊おんりょうくるしみはすなわちあなたのくるしみ。この苦悩くのうをすべてれる。そのためにはおのれてて坐禅ざぜんあるのみ。煩悩ぼんのうはなち、になるのです。あなたはすくわれたいとねがいながら、なにひとつてる勇気ゆうきがないのだ!」。激昂げっこうして太刀たちときよりゆき道元どうげんさびえんしずかに坐禅ざぜんはいる。ひたすらの坐禅ざぜんに、やがてときたの太刀たちて、坐禅ざぜんくわわるのだった。ゆきふかふゆ永平寺えいへいじ。ついに道元どうげん仏法ぶっぽう追求ついきゅうした生涯しょうがいえようとしていた。参禅さんぜんかねなか僧堂そうどう坐禅ざぜんをする道元どうげんいのちててもなお、坐禅ざぜんつづける姿すがたに、そうたちはしずかになみだながす。こうして、道元どうげんは54ねん生涯しょうがいまくろした。

原作げんさく史実しじつとのちが

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映画えいがでは、中国ちゅうごくてら典座てんぞみち途上とじょう出会であったように演出えんしゅつされているが、実際じっさいふねなか出会であったようである。[よう出典しゅってん]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「2009ねん 日本にっぽん映画えいが外国がいこく映画えいが 業界ぎょうかい総決算そうけっさん 経営けいえい/製作せいさく/配給はいきゅう/興行こうぎょうのすべて」『キネマ旬報きねまじゅんぽう2010ねん平成へいせい22ねん2がつ下旬げじゅんごうキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2010ねん、173ぺーじ 

外部がいぶリンク

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