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笠亭仙果 - Wikipedia

かさてい仙果せんか

1804-1868, 江戸えど時代じだい戯作げさくしゃ狂歌きょうか

かさてい 仙果せんか(りゅうてい せんか、1804ねん11月18にち文化ぶんか元年がんねん10月17にち[1]) - 1868ねん3月2にち慶応けいおう4ねん2がつ9にち))は、江戸えど時代じだい戯作げさくしゃ狂歌きょうかせい高橋たかはし[2]次房つぎふさ[2]のち広道ひろみち[2]通称つうしょう橘屋たちばなや弥太郎やたろう[2]ごうももしゃごう一堂いちどうなど[2]やなぎていしゅしゅうせいやなぎてい種彦たねひこともしょうした。

かさてい仙果せんか出生しゅっしょう

生涯しょうがい

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尾張おわりこく熱田あつた中瀬なかせまちげん名古屋なごや熱田あつた白鳥しらとり)に、質屋しちや橘屋たちばなやとしてまれる[2]熱田あつた神宮じんぐう神官しんかん磯部いそべ政春まさはる手跡しゅせき素読そどくまな[2]森高もりたかみやびまな[2]尾張おわりはん儒の鈴木すずき師事しじして和漢わかんがくおさ[2]ほんきょ大平おおひらほんきょないとおおしえもける[2]。1825ねん文政ぶんせい8ねん)『どろおおとりだい文集ぶんしゅう』を刊行かんこう[2]。1828ねん文政ぶんせい11ねん高松たかまつ中納言ちゅうなごんこうゆう歌道かどうもんはい[2]。1829ねん文政ぶんせい12ねん書翰しょかんつうじてやなぎてい種彦たねひこ門下もんかはい[2]

1831ねん天保てんぽう2ねん)『ごうぶつ端歌はうただんはつ』で種彦たねひこ門人もんじんとして戯作げさくデビュー[2]。1837ねん天保てんぽう8ねん)『一筋ひとすじどうゆき眺望ちょうぼう』ではやくも種彦たねひこ校閲こうえつめんじされて自立じりつ[2]。このころ、すでにさんせい浅草あさくさあん黒川くろかわはるむら狂歌きょうかもんはいっており[2]、のちによんだい浅草あさくさあん[2]1845ねんひろし2ねんちち破産はさんともなって江戸えどおもむき、一時いちじ狂歌きょうか目指めざすが実現じつげんせず、1847ねんひろし4ねん)に出版しゅっぱん活動かつどう再開さいかいする[2]。1848ねんからは代表だいひょうさくとなる長編ちょうへんごうまきゆきうめかおるたん いぬ草紙そうし』をがけた[2]1855ねん安政あんせい2ねん)には安政あんせい江戸えど地震じしん遭遇そうぐうし、その体験たいけんきした『なゐの日並ひなみ』は、なまず流行りゅうこうなど震災しんさい世相せそう記録きろくした資料しりょうとしてられる[よう出典しゅってん]

1856ねん安政あんせい3ねんごろからやなぎていごう意識いしきしてやなぎなどと名乗なの[2]、1858ねん安政あんせい5ねん種彦たねひこで『西行さいぎょう法師ほうし一代記いちだいき』を刊行かんこうする[2]。これにたいして種彦たねひこ一門いちもんから異義いぎとなえられたためやなぎていしゅしゅう改号かいごうし、1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)からせいやなぎてい種彦たねひこ名乗なのった[2]めい相続そうぞくにはうめもとていげんぎょ仮名垣魯文かながきろぶんせいたけていていおか援助えんじょがあったという[2]一時期いちじき高畠たかはた藍泉らんせんせい名乗なのった時期じきもあったが、かさてい仙果せんかがすでにせいとして文名ぶんめいており、高畠たかはた藍泉らんせんさんせいやなぎてい種彦たねひこあまんじた[3]

著作ちょさく活動かつどう本格ほんかくするのは1849ねんよしみなが2ねんごろであり、多作たさくであるものの、翻案ほんあん抄録しょうろくものや作者さくしゃ作品さくひん後続こうぞくさくおお[3]おもごうまきがけた[2]

作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かさてい仙果せんか(初代しょだい)』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてんだい6かん岩波書店いわなみしょてん、1985ねん2がつ、228-229ぺーじ 
  3. ^ a b 高畠たかはた藍泉らんせん時代じだい”. fumikura.net. 高木たかぎはじめ. 2022ねん8がつ21にち閲覧えつらん