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戯作 - Wikipedia

戯作げさく

江戸えどおこった通俗つうぞく小説しょうせつなどのもの総称そうしょう
戯作げさくしゃから転送てんそう

戯作げさく(げさく、ぎさく、けさく、きさく)とは、近世きんせい後期こうき18世紀せいき後半こうはんごろから江戸えどおこった通俗つうぞく小説しょうせつなどのもの総称そうしょうじゃれにかれたものの明治めいじ初期しょきまでかれた。戯作げさく著者ちょしゃ戯作げさくしゃという。

種類しゅるい

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戯作げさくは、洒落本しゃれぼん滑稽本こっけいぼん談義だんぎほん人情本にんじょうぼん読本とくほん草双紙くさぞうしなどにおおきくけられる。さらに草双紙くさぞうし内容ないよう形態けいたいによって赤本あかほん黒本くろもとあおほん黄表紙きびょうしごうまきけられる。

洒落本しゃれぼん

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洒落本しゃれぼんとは、ゆうしょでのあそびの様子ようすいたもの。山東さんとう京伝きょうでんの『傾城けいせいかいよんじゅうはち』などがある。

滑稽本こっけいぼん

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滑稽本こっけいぼんとは、おかしみのあるはなし式亭しきてい三馬さんば浮世うきよ風呂ふろ』、十返舎一九じっぺんしゃいっくの『東海道とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ』などが代表だいひょうてき

談義だんぎほん

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談義だんぎほんとは、滑稽こっけいさと教訓きょうくんわせっていた、滑稽本こっけいぼんのはしり。

人情本にんじょうぼん

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人情本にんじょうぼんとは、おも恋愛れんあいえがいたもの。為永ためなが春水しゅんすいの『春色しゅんしょくうめほまれ』や『春告鳥はるつげどり』などに代表だいひょうされる。

読本とくほん

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読本とくほんとは、口絵くちえ挿絵さしえもあったが、文章ぶんしょう中心ちゅうしんものであるところから読本とくほんばれた。中国ちゅうごく文学ぶんがく白話はくわ小説しょうせつから影響えいきょうけてまれた。史実しじつ取材しゅざいすることがあっても基本きほんてきフィクションであり、勧善懲悪かんぜんちょうあく思想しそうなどを中心ちゅうしんえたものであった。娯楽ごらくせいつよいが、草双紙くさぞうしなどとくら文学ぶんがくせいたかいものと認識にんしきされており、初期しょき読本とくほん知識ちしきじんそうによってかれた。印刷いんさつ技術ぎじゅつ稿料こうりょう制度せいどなど出版しゅっぱん体制たいせいととのっていたこともありおおくの読者どくしゃ獲得かくとくしたが、発行はっこう部数ぶすうなどは草双紙くさぞうしおよばない。江戸えど大坂おおさか上田うえだ秋成あきなり曲亭馬琴きょくていばきん山東さんとう京伝きょうでんといった作者さくしゃ活躍かつやくした。

代表だいひょうてき読本とくほんには、秋成あきなりの『雨月物語うげつものがたり』や馬琴ばきんの『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』などがある。

 
十返舎一九じっぺんしゃいっくの『於都さと』 1810ねん

草双紙くさぞうし

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草双紙くさぞうしとは、仮名かめい筋書すじがきがまれた物語ものがたり絵草紙えぞうし絵双紙えぞうし)またはたん絵本えほんばれることもあった。子供こどもけのものがおおかったが、次第しだい大人おとなけの洒落しゃれ滑稽こっけい内容ないようのものがかれるようになった。表紙ひょうしいろ内容ないようによって分類ぶんるいされる。

  • 赤本あかほん - 子供こどもけ。桃太郎ももたろうなどの昔話むかしばなしほか。
  • 黒本くろもと - 敵討かたきうちなどの忠義ちゅうぎ武勇ぶゆうでんなど。
  • あおほん - 少年しょうねん女性じょせいけで、芝居しばい筋書すじがきをいたもの。
  • 黄表紙きびょうし - 大人おとなけの、娯楽ごらくせいつよほん筋書すじが以上いじょうに、言葉ことば端々はしばし仕組しくまれたあそびの要素ようそくことにたのしみがあった。表紙ひょうしいろ黄色きいろだったが、当時とうじあおほん区別くべつされていなかった。後年こうねん研究けんきゅうしゃによって分類ぶんるいされた。
  • ごうまき - はなしながく、さんさつ以上いじょう分冊ぶんさつになったものをいちかんじたもの。絵入えいりだが、内容ないよう比較的ひかくてき読本とくほんちかい。草双紙くさぞうしえばごうまきのことをすこともある。

戯作げさく」の言葉ことば自体じたい中国ちゅうごくふるくからあり、その影響えいきょうから日本にっぽんでも江戸えど時代じだい以前いぜんから使つかわれていた。正当せいとう表現ひょうげんたいするパロディやかる茶化ちゃかした表現ひょうげんのことを戯作げさくぶようになった。

江戸えど時代じだい戯作げさく

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荻生おぎゅう徂徠そらいなどの影響えいきょうで、当時とうじ中国ちゅうごく文学ぶんがく口語こうご小説しょうせつ紹介しょうかい研究けんきゅうすすみ、その影響えいきょうけて読本とくほんなどがかれるようになった。また、『風流ふうりゅうこころざしどうのきでん』などをいた平賀ひらが源内げんない戯作げさくしゃわれる。初期しょき戯作げさくしゃおおくは大田おおた南畝なんぽなどの武士ぶし階級かいきゅうであった。18世紀せいき中盤ちゅうばんから洒落本しゃれぼんや、草双紙くさぞうしなかでも黄表紙きびょうしさかえた。

しかし寛政かんせい改革かいかく弾圧だんあつによってそれまでの戯作げさくかげすと、わって庶民しょみんなかから式亭しきてい三馬さんば十返舎一九じっぺんしゃいっくなどの戯作げさくしゃあらわれ、読本とくほん人情本にんじょうぼん草双紙くさぞうしではごうまきおお流通りゅうつうするようになった。さらに天保てんぽう改革かいかくによって人情本にんじょうぼん衰退すいたいすると、そのあなめるようにごうまき刊行かんこう点数てんすう増大ぞうだいした。

戯作げさくしゃ伝記でんき資料しりょう

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明治めいじ時代じだい戯作げさく文学ぶんがく

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滑稽こっけい内容ないようのものは歓迎かんげいされなくなり、一時期いちじきプロの作家さっか仮名垣魯文かながきろぶんら5にんにまで減少げんしょうした。しかし政治せいじてき背景はいけいもとにした古典こてん文芸ぶんげい復権ふっけんがあったほか新聞しんぶん連載れんさい小説しょうせつ形式けいしき活版かっぱん印刷いんさつ技術ぎじゅつなどの登場とうじょう明治めいじ10ねんごろからごうまきふたた脚光きゃっこうびるなど戯作げさく明治めいじにもつづけられていた。坪内つぼうち逍遥しょうようらが近代きんだい文学ぶんがく成立せいりつさせるためにはそれまでの戯作げさくたいする批判ひはんをする必要ひつようがあった。

関連かんれん項目こうもく

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