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第10軍 (アメリカ軍) - Wikipedia

だい10ぐん(だいじゅうぐん、U.S. Tenth Army)は、かつて存在そんざいしたアメリカ陸軍りくぐん部隊ぶたいひとつで、太平洋たいへいよう戦域せんいきふくめただい世界せかい大戦たいせんぜん期間きかんにおいて、最後さいご創設そうせつされたぐんでもあった。「琉球りゅうきゅう派遣はけんたい」ともばれ、指揮しき系統けいとうじょうは「だい56任務にんむ部隊ぶたい」とも呼称こしょうされた[1][2]

だい10ぐん
創設そうせつ 1944ねん昭和しょうわ19ねん6がつ20日はつか
廃止はいし 1945ねん昭和しょうわ20ねん
所属しょぞく政体せいたい アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 方面ほうめんぐん
所在地しょざいち テキサスしゅうサム・ヒューストン基地きち英語えいごばん
編成へんせい テキサスしゅうサム・ヒューストン基地きち英語えいごばん
担当たんとう地域ちいき 沖縄おきなわ
最終さいしゅう位置いち 沖縄おきなわ
戦歴せんれき だい世界せかい大戦たいせん
沖縄おきなわせん
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初代しょだい司令しれいかんつとめたサイモン・B・バックナー・ジュニア陸軍りくぐん中将ちゅうじょう沖縄おきなわせんさい末期まっきの1945ねん6がつ18にち日本にっぽんぐん砲撃ほうげき戦死せんしし、ロイ・ガイガー海兵かいへい少将しょうしょう臨時りんじ指揮しきったあと、6月23にちジョセフ・スティルウェル陸軍りくぐん大将たいしょう指揮しき継承けいしょうした。

アメリカぐん沖縄おきなわ攻略こうりゃく計画けいかく事実じじつじょうはじまりは、1944ねん6がつマリアナ・パラオ諸島しょとうたたか前後ぜんごレイモンド・スプルーアンス海軍かいぐん大将たいしょう計画けいかく上層じょうそう進言しんげんしたところからはじまる[3]。しかしこのころ、アメリカぐんではフィリピンから台湾たいわんかう進撃しんげき計画けいかく支持しじするものおおかったため、すぐに沖縄おきなわ攻略こうりゃく計画けいかく承認しょうにんされたわけではなかった[3][4]台湾たいわん攻略こうりゃくする作戦さくせんは「コーズウェイ作戦さくせん」とばれ、1945ねんはる実施じっし予定よていされていた[5]

だい10ぐんがテキサスしゅうサム・ヒューストン基地きち編成へんせいされたのは、マリアナ諸島しょとうをめぐるたたかいの最中さいちゅうだった1944ねん6がつ20日はつかのことである[6]あいだもなく司令しれいオアフとう移転いてんする[7]だい10ぐん司令しれいかん内定ないていしていたバックナー中将ちゅうじょう着任ちゃくにんするのは9月になってからのことだったが、それまで司令しれいかんつとめていたアラスカぐん司令しれいかんのころからコーズウェイ作戦さくせん陸上りくじょう部隊ぶたい指揮しきかんにも内定ないていしており、作戦さくせん研究けんきゅうかさねていた[8]。ところが、バックナー中将ちゅうじょう研究けんきゅうすえに、「太平洋たいへいよう戦域せんいき戦力せんりょく補給ほきゅうりょく総動員そうどういんしても作戦さくせん遂行すいこうむずかしく、ルソン島るそんとう確保かくほできるならば台湾たいわん攻略こうりゃく必要ひつようはない」という結論けつろんした[9]。バックナー中将ちゅうじょう意見いけん提出ていしゅつあい前後ぜんごしてコーズウェイ作戦さくせん無益むえき示唆しさする意見いけん相次あいつぎ、太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれい長官ちょうかん戦域せんいき司令しれいかんねたチェスター・ニミッツ海軍かいぐん大将たいしょう意見いけん集約しゅうやくしたうえで、コーズウェイ作戦さくせんのもっとも強力きょうりょく支持しじしゃだった海軍かいぐん作戦さくせん部長ぶちょうけん合衆国がっしゅうこく艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんアーネスト・キング大将たいしょうにコーズウェイ作戦さくせん中止ちゅうし進言しんげんし、1944ねん12月にコーズウェイ作戦さくせんされて硫黄いおうとうとともに沖縄おきなわ攻略こうりゃく本決ほんぎまりとなった[9]。このような経緯けいいから、だい10ぐんはもともと台湾たいわん攻略こうりゃくのためのぐんとして編成へんせいされた、とっても間違まちがいではない。

1945ねん3がつまつからの「だい世界せかい大戦たいせん最後さいごたたかい」[10]沖縄おきなわせんが、7がつ2にち作戦さくせん終了しゅうりょう宣言せんげん[10]わったあとのだい10ぐんについてははっきりしない[注釈ちゅうしゃく 1]

編成へんせい指揮しき系統けいとう

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だい10ぐん主力しゅりょく部隊ぶたいジョン・リード・ホッジ陸軍りくぐん少将しょうしょうひきいるだい24軍団ぐんだん英語えいごばんとガイガー少将しょうしょうひきいるだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたいからなり、その指揮しきには予備よび部隊ぶたいふくめて7師団しだんかかえていた[11]だい24軍団ぐんだんにはだい7歩兵ほへい師団しだんだい96歩兵ほへい師団しだん英語えいごばん直属ちょくぞく部隊ぶたいとしてぞくしており、だい7歩兵ほへい師団しだんアッツとうたたかクェゼリンのたたかおよびレイテ島れいてとうたたか参戦さんせんし、だい96歩兵ほへい師団しだんもレイテでたたかった経験けいけんゆうしていた[12]だい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい中核ちゅうかくすのは、海兵かいへいたい古参こさん部隊ぶたい精鋭せいえいほこだい1海兵かいへい師団しだん[13]部隊ぶたいとしての歴史れきしあさいもののマーシャルサイパンおよびグアムでの戦闘せんとう経験けいけんしゃから構成こうせいされていただい6海兵かいへい師団しだんであった[13]だい10ぐん直属ちょくぞく師団しだんとしてはだい27歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんだい77歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんおよびだい2海兵かいへい師団しだんがあり、これらは後詰ごづめ特殊とくしゅ任務にんむ使つかわれた[14]。そのニューカレドニアにはだい81歩兵ほへい師団しだん英語えいごばんだい10ぐん全体ぜんたい後詰ごづめとして配備はいびされ[14]、また独自どくじ海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい航空こうくう部隊ぶたいおよび守備しゅびたいもあった[14]

だい10ぐん全体ぜんたい基礎きそ兵力へいりょくは、陸軍りくぐんやく102,000めいかぞえ、これに支援しえん部隊ぶたいなどやく38,000めい工事こうじなどに従事じゅうじする9,000めい随伴ずいはんしていた[6][15]海兵かいへいたいは88,000めい海軍かいぐんシービー医療いりょうはん中心ちゅうしんとする18,000めいがおり[16]だい10ぐん沖縄おきなわせん開始かいし時点じてんで182,821めい兵員へいいんゆうしていた[16]。18まん大軍たいぐんたばねるだい10ぐん司令しれいはバックナー中将ちゅうじょうをはじめ、アラスカから転戦てんせんしてきたもの、またヨーロッパの戦場せんじょうからはせさんじたもの構成こうせいされ、また海軍かいぐんおよび海兵かいへいたいから派遣はけんされた連絡れんらく将校しょうこうもいて三軍さんぐんあいだでの連携れんけいみつにするよう配慮はいりょされていた[17]。このだい10ぐん指揮しき系統けいとうじょう指揮しきするのはだい51任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんリッチモンド・K・ターナー海軍かいぐん中将ちゅうじょうであり、ニミッツ元帥げんすい[注釈ちゅうしゃく 2]、スプルーアンス大将たいしょう、ターナー中将ちゅうじょう、バックナー中将ちゅうじょうじゅん指揮しき系統けいとう整備せいびした[18]。したがって、だい10ぐん前線ぜんせんでの最高さいこう司令しれいかんであるスプルーアンス大将たいしょう責任せきにんした作戦さくせんおこなうというわけであるが、スプルーアンス大将たいしょう自身じしんは「上陸じょうりく成功せいこうすれば、以降いこうはバックナー中将ちゅうじょう沖縄おきなわ周辺しゅうへん三軍さんぐん指揮しき掌握しょうあくすべきだ」とのかんがえをっていた[19]

だい10ぐん部隊ぶたい構成こうせい

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1945ねん1がつ以降いこう編成へんせいである[14][20]。なおだい7、だい77、だい96のかく歩兵ほへい師団しだん兵力へいりょく増強ぞうきょうされていたが、定員ていいんより1,000めいすくない人数にんずうだった[21]

  • だい10ぐん司令しれい(サイモン・B・バックナー・ジュニア陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
    • だい24軍団ぐんだん(ジョン・リード・ホッジ陸軍りくぐん少将しょうしょう):南部なんぶ上陸じょうりくぐん
      • だい7歩兵ほへい師団しだんアーチボールド・V・アーノルド英語えいごばん陸軍りくぐん少将しょうしょう):兵力へいりょくやく22,000めい
      • だい96歩兵ほへい師団しだん(J・C・ブラッドレー陸軍りくぐん少将しょうしょう):兵力へいりょくやく22,000めい
    • だい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい(ロイ・ガイガー海兵かいへい少将しょうしょう):北部ほくぶ上陸じょうりくぐん
      • だい1海兵かいへい師団しだん(P・A・デルヴァル海兵かいへい少将しょうしょう):兵力へいりょく26,274めい(シービー、予備よびたい2,500めいふくむ)
      • だい6海兵かいへい師団しだんレムエル・C・シェファード・ジュニア英語えいごばん海兵かいへい少将しょうしょう):兵力へいりょく24,356めい(シービー、予備よびたい2,500めいふくむ)
    • だい27歩兵ほへい師団しだん(G・W・グライナー陸軍りくぐん少将しょうしょう):予備よび部隊ぶたい主力しゅりょく
    • だい77歩兵ほへい師団しだんアンドリュー・D・ブルース英語えいごばん陸軍りくぐん少将しょうしょう):西部せいぶ諸島しょとう上陸じょうりくたい兵力へいりょくやく22,000めい
    • だい2海兵かいへい師団しだんトーマス・E・ワトソン英語えいごばん海兵かいへい少将しょうしょう):陽動ようどう上陸じょうりく部隊ぶたい

以下いか付属ふぞく部隊ぶたいおよび予備よび部隊ぶたい

  • だい81歩兵ほへい師団しだんポール・J・ミューラー英語えいごばん陸軍りくぐん少将しょうしょう):戦域せんいき予備よび部隊ぶたいざいニューカレドニア)
  • 陸軍りくぐん予備よび部隊ぶたい(F・G・ウォーレス陸軍りくぐん少将しょうしょう
  • 琉球りゅうきゅう戦略せんりゃく航空こうくうぐん(F・P・マルケイ海兵かいへい少将しょうしょう
  • 琉球りゅうきゅう海軍かいぐん部隊ぶたい(C・H・コッブ海軍かいぐん少将しょうしょう

占領せんりょう行政ぎょうせい問題もんだい

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アメリカぐん沖縄おきなわ本島ほんとう上陸じょうりくしたのち問題もんだいひとつに、「多数たすう住民じゅうみん面倒めんどうる」があった。沖縄おきなわせんまでのあいだに、アメリカぐん数々かずかず日本にっぽんぐん拠点きょてん占領せんりょうあるいは奪回だっかいしていったが、そのほとんどが沖縄おきなわ本島ほんとうして住民じゅうみんおおくない場所ばしょで、最低さいていでも30まん以上いじょうないし50まん[22]見積みつもられていた住民じゅうみん面倒めんどうるということは、アメリカぐんにとっても太平洋たいへいよう地域ちいきにおいてははじめてのことだった[23]占領せんりょう行政ぎょうせい不可欠ふかけつであり、だい10ぐんでは戦闘せんとう部隊ぶたい指揮しきかん行政ぎょうせいかん職務しょくむねさせ、進攻しんこう度合どあいと連携れんけいして行政ぎょうせい区域くいき整備せいびする方針ほうしんてられた[23]完全かんぜん占領せんりょうあかつきには、ニミッツ元帥げんすい沖縄おきなわにおける占領せんりょう行政ぎょうせいのトップとなり、バックナー中将ちゅうじょうがニミッツ元帥げんすいわって実際じっさい占領せんりょう行政ぎょうせい仕切しきることになっていた[23]

損害そんがい

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沖縄おきなわせんつうじて、だい10ぐん戦死せんし負傷ふしょうなどわせて65,631めい損害そんがいした[24]内訳うちわけは、だい24軍団ぐんだんは34,736めいだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたいは26,724めいで、その守備しゅびたい2,636めいだい10ぐんづけ部隊ぶたい1,015めい航空こうくう部隊ぶたい520めいであり[24]、65,631めいなかにはバックナー中将ちゅうじょうおよび、1945ねん6がつ19にち戦闘せんとう指揮しきちゅう銃撃じゅうげきって戦死せんししただい96歩兵ほへい師団しだんふく団長だんちょうクラウディス・M・イーズリー陸軍りくぐんじゅんしょうふくまれている[25]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 英文えいぶんばんにおいては沖縄おきなわせんのあとのだい10ぐんについて、「ダウンフォール作戦さくせん準備じゅんびおこなっていた」、「終戦しゅうせん朝鮮半島ちょうせんはんとう進駐しんちゅうした」というような記述きじゅつとなっているが、「よう出典しゅってん」タグがられているので当該とうがい部分ぶぶん割愛かつあいした。
  2. ^ 1944ねん12月19にち以降いこう

出典しゅってん

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  1. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.31
  2. ^ #森本もりもとp.202
  3. ^ a b #ニミッツ、ポッターp.432
  4. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうpp.17-18
  5. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.18
  6. ^ a b #Rottman p.39
  7. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.34
  8. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうpp.19-20, p.34
  9. ^ a b #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうpp.19-20
  10. ^ a b #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.515
  11. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.31, pp.34-35
  12. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうpp.34-35
  13. ^ a b #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.36
  14. ^ a b c d #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.31,35
  15. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.518
  16. ^ a b #Rottman p.40
  17. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.34,36,38
  18. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうpp.32-33
  19. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.33
  20. ^ #森本もりもとpp.202-203
  21. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.35
  22. ^ #ブュエルp.525
  23. ^ a b c #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.46
  24. ^ a b #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.519
  25. ^ #沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとうp.503

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 米国べいこく陸軍りくぐんしょうへん)『沖縄おきなわ 日米にちべい最後さいご戦闘せんとう外間ほかませいよんろうわけ)、光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ、1997ねんISBN 4-7698-2152-2 
  • C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋たいへいよう海戦かいせん実松さねまつゆずる冨永とみなが謙吾けんごともやく)、恒文社こうぶんしゃ、1992ねんISBN 4-7704-0757-2 
  • 森本もりもと忠夫ただお特攻とっこう 外道げどう統率とうそつ人間にんげん条件じょうけん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1992ねんISBN 4-16-346500-6 
  • トーマス.B.ブュエル『提督ていとくスプルーアンス』小城おぎただしわけ)、学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2000ねんISBN 4-05-401144-6 
  • Rottman, Gordon (2002). Okinawa 1945: The last Battle. Osprey Publishing. ISBN 1-84176-546-5 
  • Sarantakes, Nicholas (Editor) (2004). Seven Stars, The Okinawa Battle Diaries of Simon Bolivar Buckner Jr. and Joseph Stilwell. Texas A & M University Press, College Station. ISBN 1-58544-294-1 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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