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第2バチカン公会議 - Wikipedia

だい2バチカンこう会議かいぎ(だい2バチカンこうかいぎ、ラテン語らてんご: Concilium Vaticanum Secundum1962ねん-1965ねん)は、ローマ教皇きょうこうヨハネ23せいのもとでひらかれ、いだパウロ6せいによって遂行すいこうされたカトリック教会きょうかいおおやけ会議かいぎである。

第2バチカン公会議
会議かいぎ全景ぜんけいローター・ヴァレー撮影さつえい
第2バチカン公会議
会場かいじょう風景ふうけい(L・ヴァレー撮影さつえい
第2バチカン公会議
出席しゅっせきしゃせき前列ぜんれつひだりはエメ・ジョルジュ・マルティモール (fr)(L・ヴァレー撮影さつえい
第2バチカン公会議
閉会へいかい(L・ヴァレー撮影さつえい

この会議かいぎでは、おおやけ会議かいぎ史上しじょうはじめて世界せかい大陸たいりくから投票とうひょうけん参加さんかしゃ (おおやけ会議かいぎ教父きょうふ) があつまり、まさに普遍ふへんこう会議かいぎというにふさわしいものとなった。教会きょうかい現代げんだいアジョルナメント英語えいごばん)をテーマにおおくの議論ぎろんがなされ、以後いご教会きょうかい刷新さっしん原動力げんどうりょくとなるなど、だい2バチカンこう会議かいぎ20世紀せいきのカトリック教会きょうかいにおいてもっと重要じゅうよう出来事できごとであり、現代げんだいいたるまでおおきな影響えいきょうりょくをもっている。

概要がいよう

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おおやけ会議かいぎ経緯けいい

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開会かいかいまで

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1869ねんだい1バチカンこう会議かいぎでは、カトリック教会きょうかいフランス革命かくめいによってまれた近代きんだい革命かくめい世界せかい否定ひていするというスタンスがとられた。

ピオ11せい

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1923ねん5月23にち教皇きょうこうピオ11せい枢機卿すうききょう会議かいぎで、1870ねん中断ちゅうだんされたバチカンこう会議かいぎ継続けいぞくさせるためにおおやけ会議かいぎ召集しょうしゅうすることは適切てきせつかを枢機卿すうききょうたちにうた。このピオ11せい質問しつもんたいし、枢機卿すうききょうたちはほぼ満場一致まんじょういっちおおやけ会議かいぎ反対はんたいした。とくにビヨ枢機卿すうききょうは、司教しきょうたちのふか見解けんかいちがいがあること、意見いけんがまとまらない危険きけんがあること、教会きょうかい革命かくめいこそうとしている近代きんだい主義しゅぎものたちによっておおやけ会議かいぎ操作そうさされる危険きけんがあること、伝統でんとうてきなやりかたよりも、民主みんしゅてき慣行かんこう適応てきおうする論争ろんそう宣伝せんでん活動かつどう導入どうにゅうされる危険きけんがあることを指摘してきした[1]

しかしだい1世界せかい大戦たいせん世界せかいで、もはやカトリック教会きょうかいだけが古色こしょく蒼然そうぜんとしたかたちをたもっていることは出来できなかった。とくつかさまきだい一線いっせんはたら聖職せいしょくしゃ宣教せんきょうしゃ信徒しんとたちのあいだ教会きょうかい現代げんだい必要ひつようせい痛感つうかんされていた。

ピオ12せい

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1948ねん教皇きょうこうピオ12せいは、ピオ11せいいていたおおやけ会議かいぎのアイデアを検討けんとうしていた。ルフィニ枢機卿すうききょう (en) とオッタヴィアーニ枢機卿すうききょうは、おおやけ会議かいぎあたらしい近代きんだい主義しゅぎまった異端いたん神学しんがく排斥はいせきする適切てきせつなチャンスだとかんがえた。そこでピオ12せいは65にん司教しきょうたちに打診だしんしたが、おおやけ会議かいぎはむしろ危険きけんである、教会きょうかい窮地きゅうちとすと判断はんだんし、おおやけ会議かいぎ開催かいさいかんがえを放棄ほうきした。

ヨハネ23せい

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1959ねん1がつ25にち教皇きょうこうヨハネ23せいサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラだい聖堂せいどう附属ふぞくベネディクト修道院しゅうどういんをふらりとおとずれ、17にん枢機卿すうききょうまえ突然とつぜんおおやけ会議かいぎ召集しょうしゅうすることをげた。この教皇きょうこう自身じしんくだした決断けつだんなが熟考じゅっこう結果けっかではなく「予期よきしないところにふとおとずれたはる木々きぎ芽生めばえのようにまれた[2]」。

この突然とつぜんおおやけ会議かいぎ開催かいさい発表はっぴょうおおきい混乱こんらんこした[3]おおくの枢機卿すうききょうらは、司教しきょうたちがマスメディアの圧力あつりょくける危険きけん指摘してきして、おおやけ会議かいぎ招集しょうしゅうめようとうながした。その理由りゆうは、ヨハネ23せいは、以前いぜんブルガリア教皇きょうこう使節しせつ在位ざいい:1925ねん-1934ねん)をつとめた当時とうじから「東方とうほう帰一きいつ教会きょうかい」がせい教徒きょうとらにしている帰一きいつ宣教せんきょう活動かつどう反対はんたいしており[4]あたらしいエキュメニズムかんがえていたからである。

神学しんがくしゃあいだには、カール・ラーナーイヴ・コンガールなどのように「近代きんだい社会しゃかい人類じんるい獲得かくとくした経験けいけん伝統でんとうてきなカトリック信仰しんこう調和ちょうわさせる」ことを目指めざした一団いちだんと、ヨーゼフ・ラッツィンガー(教皇きょうこうベネディクト16せい)やアンリ・ドゥ・リュバックのように「古代こだい教会きょうかい信仰しんこうにこそ現代げんだい教会きょうかい活力かつりょく源泉げんせん見出みいだされるはずだ」とするいちだんという2つのおおきなグループがまれていた。

また、だい1バチカンこう会議かいぎ本来ほんらいはなわれるはずであった教会きょうかいろん議論ぎろん(これらはひろしふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつによって中断ちゅうだん余儀よぎなくされた)をおこなうことで教会きょうかいのアイデンティティーをさい確認かくにんすることの大切たいせつさも十分じゅうぶん認識にんしきされていた。このようなながれのなかで、つなぎのろう教皇きょうこうとみなされていたヨハネ23せいおおやけ会議かいぎ召集しょうしゅう発表はっぴょうしたことは、カトリック教会きょうかいぜん世界せかいにとっておどろきと同時どうじおおきな期待きたいってむかえられた。

準備じゅんび期間きかん

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会議かいぎ準備じゅんびに2ねんついやされた。そのあいだ、まず世界中せかいじゅうカトリック教会きょうかい関係かんけいしゃからおおやけ会議かいぎ議題ぎだいかんする意見いけんしょあつめられ、つぎ教皇きょうこう任命にんめいされた10の準備じゅんび委員いいんかいがそれらを検討けんとうしたうえで、おおやけ会議かいぎ議題ぎだい草案そうあん作成さくせいした。

ぜん準備じゅんび委員いいんかい

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1959ねん5月17にち教皇きょうこうヨハネ23せいは、当時とうじ国務こくむ長官ちょうかんであったタルディーニ枢機卿すうききょう (en) を委員いいんちょうとして、ぜん準備じゅんび委員いいんかい (commissio antepraeparatoria) を任命にんめいした[5]

1960ねん6月5にち、ヨハネ23せいは、自発じはつきょうれい『スペルノ・デイ・ヌートゥ』(Superno Dei Nutu) によって、だい2バチカンこう会議かいぎの10の準備じゅんび委員いいんかい (commissiones praeconciliares) と3つの事務じむきょく[注釈ちゅうしゃく 1]設立せつりつした。同時どうじに、これらの委員いいんかいうえに120めいからる「おおやけ会議かいぎ中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい (Central Preparatory Commission for the Council)」をき、翌日よくじつ日本にっぽん土井どい辰雄たつお枢機卿すうききょうふくめる36にん中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいん任命にんめいされた。おおやけ会議かいぎ中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいは、世界せかい司教しきょうたちからの提案ていあんをもとに 10の準備じゅんび委員いいんかいによって起草きそうされた草案そうあん吟味ぎんみする責任せきにんがあった[11]中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいかく委員いいんかい顧問こもん (consultor) の人数にんずうは、その任命にんめいによってさら拡大かくだいし、1961ねん2がつまでに710にん内訳うちわけ委員いいん393にん顧問こもん317にん)にたっしていた。さら同年どうねん12がつには827にんにふくらんだ。1962ねん6がつまで中央ちゅうおう委員いいんかいおおくの会議かいぎひらき、おおやけ会議かいぎ準備じゅんびすすめていった。

すでにこの中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい内部ないぶで、対立たいりつする枢機卿すうききょうたちのたたかいがひろげられていた。つまり、けんよこしまひじりしょう (en) 長官ちょうかん代理だいりアルフレド・オッタヴィアーニ枢機卿すうききょう神学しんがく委員いいんかいとそれに協調きょうちょうする「ローマ」と、キリストしゃ一致促進事務局事務長のアウグスティノ・ベア枢機卿すうききょう (en) とその補佐ほさヤン・ウィレブラン、かれらに協調きょうちょうするリベラルであった。

中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい総会そうかい

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準備じゅんび委員いいんかい顧問こもん名簿めいぼ
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1961ねん6月15にち中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいだい1かい総会そうかいで、1960ねん6がつ指名しめいされた準備じゅんび委員いいんかい顧問こもん名簿めいぼ[14]おおやけ会議かいぎ規定きていとのあいだ矛盾むじゅんがあると告発こくはつされた[15]イヴ・コンガールアンリ・ドゥ・リュバックカール・ラーナーすくなくとも3にん教会きょうかい当局とうきょくから制裁せいさい措置そちけたことがあり、本来ほんらいなら顧問こもんになる資格しかくがなかったにもかかわらず、名簿めいぼ記載きさいされていたのである。しかし、オッタヴィアーニはこの告発こくはつげなかった。教皇きょうこうがそれをのぞんでいたのだった。

総会そうかい
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1962ねん1がつ20日はつか中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい総会そうかいで、オッタヴィアーニは自分じぶん草案そうあん純粋じゅんすいまもるべき信仰しんこう遺産いさんについて」を発表はっぴょうした。アルフリンク枢機卿すうききょう (en) は「ひとつの哲学てつがくにとらわれている」と批判ひはんした。ベアは「スコラ哲学すこらてつがくてきないいまわし」を攻撃こうげきした。そこでリエナール (en)、フリンクス (en)、アルフリンク、デフナー、ケーニッヒ、レジェーの進歩しんぽ枢機卿すうききょうとルッフィーニ、シリ、ララオナ、ブラウンの保守ほしゅ枢機卿すうききょうとのきびしい対立たいりつが、深刻しんこくしていく。

同年どうねん2がつ23にちマルセル・ルフェーブル大司教だいしきょうはこれらの対立たいりつ調停ちょうていするように、おおやけ会議かいぎが2種類しゅるい文書ぶんしょつくることを提案ていあんしている。ひとつは、保守ほしゅ使つかうスコラがくてきかつ正確せいかく表現ひょうげんで、現代げんだい誤謬ごびゅう拒否きょひする「排斥はいせきぶん(canon)」付属ふぞく草案そうあん、もうひとつは、進歩しんぽのぞむようなつかさまきてき肯定こうていてきみじか文書ぶんしょであった[16]。しかし、この提案ていあんなにもされず、そのままになった。

中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい典礼てんれいについての討議とうぎ

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中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい総会そうかいでは3がつから4がつにわたり、典礼てんれいかんして討議とうぎされた。3月27にちアンニバレ・ブニーニ神父しんぷ臨席りんせきのもと、ララオナはブニーニ草案そうあんミサ通常つうじょうぶん改革かいかく計画けいかく出席しゅっせきしゃ教父きょうふたちに説明せつめいした。ララオナはこの改革かいかく抵抗ていこうこころみたが、自分じぶん前任ぜんにんしゃであったガエタノ・チコニャーニ枢機卿すうききょう署名しょめいしていたので、やむなく説明せつめいにあたっている[注釈ちゅうしゃく 2]。この草案そうあん革新かくしんてき原則げんそくしたがって、典礼てんれい全体ぜんたい体系たいけいてき改革かいかくする計画けいかくであった。リベラルな教父きょうふたちは賞賛しょうさんした。デフナーは「中央ちゅうおう委員いいんかい提出ていしゅつされたすべての草案そうあんなかで、もっと注目ちゅうもくするにあたいするもののひとつである」と賛美さんびした。レルカノ枢機卿すうききょうもこの草案そうあん賛成さんせいした。

「ローマ」の枢機卿すうききょうたちは反対はんたいした。オッタヴィアーニは「過度かど革新かくしんおおきくもんひらきすぎる」と批判ひはんした。ゴッドフレはこの改革かいかくは「キリスト教徒きりすときょうとらに驚愕きょうがくこす革命かくめいてき改革かいかく」(オッタヴィアーニ)であり、「礼拝れいはいせいつて蔑視べっしするという意味いみはん典礼てんれいてきだ」と異議いぎとなえた。

3月30にち、アガジアニアン枢機卿すうききょうは、宣教せんきょうこくのために自国じこくミサ提案ていあんした。ルフェーブル大司教だいしきょうは「典礼てんれい典礼てんれい様式ようしきかんして、司教しきょう評議ひょうぎかい法規ほうき制定せいていすることができるという原則げんそくれられると、それがたとえ教皇きょうこう承認しょうにんをもってはじめて許可きょかされるとしても、民族みんぞくてき典礼てんれい国民こくみん典礼てんれい様式ようしきとに回帰かいきしてしまい、典礼てんれい一致いっちのための過去かこの2世紀せいきのすべての努力どりょく無駄むだになってしまい、芸術げいじゅつとグレゴリオ音楽おんがく没落ぼつらく無秩序むちつじょ状態じょうたいになる危険きけんがある」と指摘してきした[18]

スーネンス計画けいかく

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スーネンス枢機卿すうききょう (en) を中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいん指名しめいしたヨハネ23せいだが、73もの草案そうあん準備じゅんび作業さぎょうまった指針ししんしめさなかった教皇きょうこうにとっておおすぎたため、秘密裏ひみつりにその縮減しゅくげんをスーネンスにまかせた。

スーネンスは、予備よび草案そうあんすべて2つの枠組わくぐみでつくなおそうとした。教会きょうかい内部ないぶけての発言はつげんと、教会きょうかい外部がいぶけての発言はつげんという2つの領域りょういきである。このスーネンス計画けいかくは、だい2バチカンこう会議かいぎ開始かいしまえ1962ねん4がつわりには準備じゅんび完了かんりょう、5がつ中旬ちゅうじゅんには、教皇きょうこう命令めいれいでこの計画けいかく少数しょうすう有力ゆうりょく枢機卿すうききょうたち、すなわちデフナー、モンティーニ、シリ、リエナール、レルカノなどに伝達でんたつしている[19][20]。これは予備よび草案そうあん廃案はいあんにすることを意味いみし、一方いっぽう準備じゅんび委員いいんかい仕事しごとつづけさせながら、同時どうじ他方たほうでは委員いいんかいにその廃案はいあんまかせていた。

キリスト教きりすときょう一致いっち促進そくしん事務じむきょく

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「キリストきょう一致いっち促進そくしん事務じむきょく」は10の下部かぶ委員いいんかいぞくする専門せんもんらにたいして、委員いいんかいあつかった議題ぎだいかんして、エキュメニズム観点かんてん提案ていあん草案そうあん下書したがきを作成さくせいさせていた。同時どうじに、特別とくべつ草案そうあんとしてエキュメニズム、信教しんきょう自由じゆうおよびユダヤじん問題もんだいかんする草案そうあん準備じゅんびさせた。キリストきょう一致いっち促進そくしん事務じむきょくは、この3つの特別とくべつ草案そうあんをオッタヴィアーニの神学しんがく委員いいんかいおくったが、無視むしされている。

1962ねん2がつ1にちヨハネ23せい対立たいりつ関係かんけいにある草案そうあんがオッタヴィアーニの神学しんがく委員いいんかいおよびその委員いいんかいとおさないまま、直接ちょくせつ中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいがるようにさだめた。そのひとつが、信教しんきょう自由じゆうかんする草案そうあんだった。

中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいだい7かい総会そうかい

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1962ねん6月18にち最終さいしゅう総会そうかいである中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかいだい7かい総会そうかいひらかれた。

この最終さいしゅう会議かいぎの2にちまえ中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい対立たいりつ関係かんけいにある2草案そうあん討論とうろんする。ひとつは、オッタヴィアーニが直接ちょくせつ作成さくせいした神学しんがく委員いいんかいの「教会きょうかい国家こっかとの関係かんけい宗教しゅうきょうてき寛容かんよう」にかんする草案そうあん[注釈ちゅうしゃく 3]である。もうひとつはベアのキリスト教きりすときょう一致いっち促進そくしん事務じむきょくによる「信教しんきょう自由じゆう草案そうあん[注釈ちゅうしゃく 4]である。

枢機卿すうききょうたちは2つの陣営じんえいかれて激論げきろんわした。オッタヴィアーニ草案そうあん中心ちゅうしんにある関心事かんしんじはカトリック信仰しんこう保護ほごであり、しん宗教しゅうきょうにおける市民しみん全員ぜんいん一致いっち基礎きそをおいた世俗せぞく共通きょうつうぜん保全ほぜんであった。自由じゆうとは、真理しんり善徳ぜんとくのためであって、あやまりやあくのためにあるのではない。ベア草案そうあんでは、すべての場合ばあいとすべての人々ひとびと信教しんきょう自由じゆう適用てきようされるとした。イタリアけい、スペインけい、ラテン・アメリカけい教父きょうふらはオッタヴィアーニの草案そうあん賛成さんせいし、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、フランスの教父きょうふたちはベアの草案そうあん支持しじして、委員いいんかいっ2つにかれた。

この準備じゅんび委員いいんかいはほとんどが教皇きょうこうちょう職員しょくいんによって編成へんせいされていたが、かれらので73にのぼるおおやけ会議かいぎ文書ぶんしょ草案そうあん完成かんせいした。この委員いいんかいおおくの草案そうあん変更へんこうし、採用さいようにした草案そうあんもあり、教会きょうかいほう改訂かいてい委員いいんかいおくかえされたり、草案そうあん合併がっぺいしたものもあった。件数けんすう圧縮あっしゅくされ縮小しゅくしょうされ 73から 20にった[注釈ちゅうしゃく 5]

7がつ13にち草案そうあんうちおおやけ会議かいぎ討議とうぎされるべき7つが将来しょうらいおおやけ会議かいぎ教父きょうふたちに送付そうふされた。スキレベークス神父しんぷはこの草案そうあんきびしく批判ひはんしドイツけん司教しきょうたちにひろ配布はいふした。これは各国かっこくやくされてひろまれた。

7がつ20日はつか中央ちゅうおう準備じゅんび委員いいんかい職務しょくむ終了しゅうりょうした。おおやけ会議かいぎには枢機卿すうききょうだん司教しきょうだん修道しゅうどうかい長上ちょうじょう顧問こもん神学しんがくしゃだん以外いがいにも、歴史れきしじょうはじめて、オブザーバーとしてプロテスタントしょ教会きょうかい東方とうほう正教会せいきょうかい代表だいひょうしゃたちに参加さんか要請ようせいされた。実際じっさいにそれらの代表だいひょうだんがバチカンに到着とうちゃくしたことで、議題ぎだいひとつであった教会きょうかい一致いっちエキュメニズム)へけた機運きうんたかまっていった。

前述ぜんじゅつ人々ひとびとふく会議かいぎ参加さんかしゃ史上しじょう空前くうぜん規模きぼで、予定よてい参加さんかしゃじつに2908にんおよんだ。実際じっさいだい1会期かいき初日しょにち参加さんかできたのは2540にんであり、ぜん日程にってい参加さんかした人数にんずうは2100にんから2300にん前後ぜんこうになったが、それ以外いがいにも投票とうひょうけん参加さんかしゃ (おおやけ会議かいぎ教父きょうふ) が私的してき顧問こもんとして招聘しょうへいした神学しんがくしゃたちや随員ずいいんふくめると、参加さんかしゃ関係かんけいしゃ合計ごうけい膨大ぼうだいかずのぼっていた。

だい1会期かいき (Sessio Prima)

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1961ねん12月25にち制定せいてい教会きょうかい憲章けんしょう『フマネ・サルーティス』(Constitutio Apostolica "Humanae Salutis") により、だい2バチカンこう会議かいぎ開催かいさい1962ねんとされ、1962ねん2がつ2にち自発じはつきょうれい『コンシリウム・ディウ』(Motu proprio "Consilium Diu")により、開催かいさい10月11にちさだめられた[22]

開会かいかいしき

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1962ねん10がつ11にち教皇きょうこう中心ちゅうしんとした2500にん参加さんかしゃたち[注釈ちゅうしゃく 6]会場かいじょうであるサン・ピエトロだい聖堂せいどうあつまり、ヴィエンヌこう会議かいぎ以来いらい伝統でんとうてきなスタイルの儀式ぎしきによっておおやけ会議かいぎ開始かいしした。そこには世界せかい86カ国かこく政府せいふから派遣はけんされた使節しせつ参加さんかしていた。

荘厳そうごん開会かいかいしきにおいて教皇きょうこうヨハネ23せいは、だい2バチカンこう会議かいぎ目的もくてきとして、教会きょうかい信仰しんこう遺産いさん現代げんだい状況じょうきょう適合てきごうしたかたち表現ひょうげんし、信徒しんと一致いっち・キリストしゃ一致いっち世界せかい教会きょうかい一致いっちをはかることだとしつつ「世界せかい誤謬ごびゅう糾弾きゅうだんするものではなく、慈悲じひをもって世界せかい問題もんだい対処たいしょする態度たいど追求ついきゅうする」おおやけ会議かいぎとすることをいた[22]

ヨハネ23せいは、おおやけ会議かいぎ開会かいかい演説えんぜつでそのおおやけ会議かいぎ開催かいさい理由りゆう自分じぶん楽観らっかん主義しゅぎおおやけ会議かいぎ方針ほうしんをこう説明せつめいした。

「この会議かいぎのことは最初さいしょ、ほとんどおもいがけなくわたししんかんできたことで、つぎに、1959ねん1がつ25にちひじりパウロの回心かいしん祝日しゅくじつたってオスチア街道かいどうにあるひじりパウロだい聖堂せいどうで、そのまま単純たんじゅん枢機卿すうききょう各位かくいまえ発表はっぴょうされたことであります。」
日々ひび使徒しとてき任務にんむ遂行すいこうするにあたって、たびたびわたしみみとどいて不愉快ふゆかいおもうことがあります。それは信仰しんこう熱心ねっしんえていながら公平こうへい判断はんだん賢明けんめい思慮しりょいた人々ひとびとこえであります。この人々ひとびとは、人類じんるい社会しゃかい現状げんじょうては破壊はかい災難さいなんしかることが出来できず、った世紀せいきくらべて現代げんだいはただただわるほうかってしまったとかえつづけます。…… あたかもおわりがちかづいたかのように、つねにわざわいしか予告よこくしない不運ふうん預言よげんしゃわたし絶対ぜったい賛成さんせいできません。」
わたしたちのなすべきことは、ただこの高価こうかたからまもって、ひたすらふるいことを研究けんきゅうすることではありません。……この世界せかい会議かいぎだい1にめざす目標もくひょうは、教会きょうかい主要しゅようおしえのいくつかを討議とうぎすることではなく、教父きょうふ過去かこおよび現代げんだい神学しんがくしゃたちによってつたえられ、当然とうぜんここにご列席れっせき皆様みなさまっておられる事柄ことがらかえすことでもありません。……忠実ちゅうじつまもられるべき、この確固かっこ不動ふどうおしえが、現代げんだい要求ようきゅうする方法ほうほう探求たんきゅうされ、説明せつめいされなければりません。とうとぶべきおしえにふくまれている真理しんり、すなわち信仰しんこう遺産いさんそのものとこれをあらわ方法ほうほうとはおなじではありません。……おもにつかさまきてき性格せいかく教会きょうかい教導きょうどう任務にんむにもっともよく合致がっちする表現ひょうげんほうでなければならないのです。」
誤謬ごびゅうには教会きょうかいはいつも反対はんたいし、ときには断固だんことしたきびしさをもって誤謬ごびゅう断罪だんざいしましたが、現代げんだいのことについてもうしますならば、キリストの花嫁はなよめである教会きょうかいは、人々ひとびときびしくあつかうよりは、むしろいつくしみのくすりもちいていやそうとしています。断罪だんざいするよりは、自分じぶんおしえの価値かちしめしながら、現代げんだい要求ようきゅうこたえるほういとおもわれます[注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 8]。」

だい1かい総会そうかい

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だい1会期かいき(Sessio Prima:1962ねん10がつ11にち - 12月8にち)は、10月13にちだい1かい総会そうかい (prima congregatio generalis) とともひらかれた。だい1かい総会そうかいは、委員いいんかい委員いいん選挙せんきょおこなわれるはずだった。10の委員いいんかいはそれぞれ25にん委員いいんき、教皇きょうこうによる選任せんにん委員いいんちょう10にんくわえ、かく委員いいんかいの24委員いいんのうち8にんずつ合計ごうけい80にんとし、おおやけ会議かいぎ委員いいんかいごとにのこる16委員いいんずつ、すなわちけい160にん委員いいんえら予定よていであった。

世界中せかいじゅういたところからあつまった司教しきょうたちの大半たいはんたがいに初対面しょたいめんで、知己ちきがあってもわずかであった。そこでおたがいをらない司教しきょう2400にんのために、教皇きょうこうちょう特別とくべつ専門せんもん委員いいんかい委員いいんとしてだれ適任てきにんなのか提案ていあんした。

フェリチ枢機卿すうききょう参列さんれつした司教しきょうたちに完全かんぜんえら自由じゆうのこしながら、だい2バチカンこう会議かいぎ準備じゅんび委員いいんかい委員いいん名簿めいぼ配布はいふした。すでおおやけ会議かいぎ準備じゅんびたずさわってきた、経験けいけんんだ専門せんもんであり、自由じゆう適任てきにんしゃえらたすけになるという理由りゆうからであった。教皇きょうこうちょうえらんだ名簿めいぼから教父きょうふたちによってすべて選択せんたくされることがのぞましかった。事務じむ総長そうちょうのフェリチ大司教だいしきょうは、委員いいんたちの選挙せんきょはいるように教父きょうふたちに指示しじした。

しかし教皇きょうこうちょう予期よきしない出来事できごときた。おおやけ会議かいぎ初日しょにちから、おおやけ会議かいぎ教父きょうふたちのだい部分ぶぶんなに異常いじょうなことがきているとかんじたのである[28]準備じゅんび委員いいんかい教皇きょうこうちょう職員しょくいん構成こうせいし、議事ぎじ運営うんえい方法ほうほうはその提案ていあん沿ってすすむはずであったが、リールのリエナール大司教だいしきょう異議いぎとなえたからだ。リエナールがマイクを発言はつげんしようとすると、議長ぎちょうであったティスラン枢機卿すうききょうつよ制止せいしせず、マイクをったリエナールは、フェリチの名簿めいぼ司教しきょうらの自由じゆううば教皇きょうこうちょうからの圧迫あっぱくであると、おおきなこえ非難ひなんして拍手はくしゅ喝采かっさいけた。フェリチはこれにおおやけ会議かいぎ事務じむ総長そうちょうとして反対はんたいかんがえだったが、つぎに演説えんぜつしたケルンのフリンクス大司教だいしきょうがリエナールを支持しじするとさらなる拍手はくしゅ喝采かっさいけた。最初さいしょ議長ぎちょうのティスランは10月16にちまで選挙せんきょ延期えんき宣言せんげんした。この「クーデター」を計画けいかくした枢機卿すうききょうたちは、すでにラインがわ周辺しゅうへん中部ちゅうぶヨーロッパ作成さくせい候補者こうほしゃ名簿めいぼ準備じゅんびしていた。それは、リベラル名簿めいぼであった。

こうしてだい1かい総会そうかいは、わずか20ふん[注釈ちゅうしゃく 9]議事ぎじ終了しゅうりょう閉会へいかいした[注釈ちゅうしゃく 10]。オランダのある司教しきょうは、おおやけ会議かいぎ会場かいじょうから退場たいじょうしつつ友人ゆうじん司祭しさいに「わたしたちの最初さいしょ勝利しょうりだった!」とさけんだ[29]

だい2かい総会そうかい

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10月16にちだい2かい総会そうかい委員いいんかい委員いいん投票とうひょうおこなわれた。しかし投票とうひょうしても、このときの候補者こうほしゃ名簿めいぼおおやけ会議かいぎ規則きそくもとめる投票とうひょう総数そうすうの3ぶんの2の賛成さんせいひょうていない。そこで、リベラルな枢機卿すうききょうたちは、教皇きょうこうヨハネ23せい規則きそく例外れいがいみとめさせるように圧力あつりょくをかけた。論拠ろんきょ投票とうひょう総数そうすう過半数かはんすう獲得かくとくしたのであり、これはあきらかにおおやけ会議かいぎだい多数たすう意志いしであるとしている。ヨハネ23せいおおやけ会議かいぎ規定きてい無視むししてこの名簿めいぼれ、おおやけ会議かいぎ諸々もろもろ委員いいんかいのすべての委員いいんはリベラルからえらばれた。この結果けっか自分じぶんたちのてた候補者こうほしゃ109にんのうち79にん当選とうせんし、「ヨーロッパ同盟どうめい」は座席ざせきの49%をた。教皇きょうこうにより、ヨーロッパ同盟どうめい委員いいんさらに8にん指名しめいされた。典礼てんれい教育きょういく宣教せんきょう修道しゅうどう生活せいかつせんもんとしてなされてきた修道しゅうどうかい総長そうちょう評議ひょうぎかいてた候補者こうほしゃは、1人ひとり当選とうせんしなかった。初日しょにち配布はいふされた委員いいん候補こうほ名簿めいぼに100にんいたイタリアじん司教しきょうは20めいとどまった。その結果けっか委員いいんの3ぶんの2が進歩しんぽめられた。冒頭ぼうとう選挙せんきょにおいて教皇きょうこうちょうおさえて自己じこ主張しゅちょうした司教しきょうらは、おおやけ会議かいぎ指導しどうけんをますますにぎっていく。このことは「ラインかわはティベルかわながれはじめた」[注釈ちゅうしゃく 11]論評ろんぴょうされた。

以降いこうおおやけ会議かいぎではたん教皇きょうこうちょう準備じゅんび委員いいんかい提示ていじした名簿めいぼ参加さんかしゃ承認しょうにんするのではなく、参加さんかしゃたちがグループをつくって議論ぎろんわし、主体しゅたいてきはないをすすめるスタイルがつくられていく。

10月15にち委員いいん選挙せんきょ平行へいこうし、フリンクスはおおやけ会議かいぎ最初さいしょ議題ぎだいとして、リエナールとアルフリンクらの進歩しんぽによるもっと進歩しんぽてき内容ないよう、すなわち典礼てんれい討論とうろんするべきだと主張しゅちょうし、議長ぎちょうだんの10にんヨハネ23せいにそれを要求ようきゅうしに謁見えっけんしていた。

10月16にちだい2かい総会そうかいで、おおやけ会議かいぎ最初さいしょ議題ぎだいとしてもっと進歩しんぽてき草案そうあん討議とうぎされることが発表はっぴょうされた。つまり「典礼てんれいについて」であった。こうして、けんよこしまひじりしょう中心ちゅうしんに「教皇きょうこうちょうてきかんがかた予想よそう以上いじょう抵抗ていこうにあって自由じゆう前進ぜんしんはばまれたのである。しかも抵抗ていこうする司教しきょうだん支持しじあたえたのは教皇きょうこう自身じしんであった[32]。」という見方みかたをしている。

だい3かい総会そうかい

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1962ねん10月22にちだい3かい総会そうかいひらかれ「典礼てんれいについて」の草案そうあんをめぐっての議論ぎろん開始かいしした。これによって保守ほしゅ進歩しんぽ対立たいりつあきらかにされた。

保守ほしゅ」とわれたのは、事務じむ総長そうちょうのフェリチ、ルッフィーニ、オッタヴィアーニ、シリなど教皇きょうこうちょうけいのイタリアじん枢機卿すうききょうら、アイルランドのブラウン枢機卿すうききょう、スペインけい北米ほくべい南米なんべい教父きょうふたちであった。ローマのラテラン大学だいがくどう意見いけんであった。

進歩しんぽ」とわれたのは、ベルギーのスーネンス、オランダのアルフリンク、フランスのリエナール、ドイツのフリンクスやデフナー、ベアなどの中央ちゅうおうヨーロッパけい(「ヨーロッパ同盟どうめい」とばれた)や少数しょうすうきたイタリアの教父きょうふたちであった。その、オランダのスキレベークス神父しんぷやフランスのコンガール神父しんぷ、ドイツのラーナー神父しんぷなどもいた。ローマのグレゴリオ大学だいがくどう意見いけんであった[33]

意見いけん対立たいりつ

編集へんしゅう
典礼てんれいについて」をめぐる保守ほしゅ進歩しんぽ対立たいりつ
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10月22にちから11月13にちまで、典礼てんれいかんする草案そうあんについて討論とうろんおこなわれた。進歩しんぽのレジェ、アルフリンク、エルヒンガーなどの教父きょうふは、共同きょうどう司式ししきミサや、パンとぶどうしゅりょうかたちしょく[よう説明せつめい]聖体せいたい拝領はいりょう主張しゅちょうした。10月30にち総会そうかいで、保守ほしゅのオッタヴィアーニはそれに反論はんろんし、規定きていの10ふん以内いないはなしおさまらずつづけようとしたが、進歩しんぽのアルフリンク議長ぎちょうてた時間じかんえると突然とつぜん、マイクのスイッチをってしまった。屈辱くつじょくけたオッタヴィアーニはだまって自席じせきもどったが、多数たすう教父きょうふ嘲笑ちょうしょう拍手はくしゅ議長ぎちょう支持しじした[34]

啓示けいじしょ源泉げんせんについて」の草案そうあんにおける意見いけん対立たいりつ
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11月14にちからどう22にちまで、「啓示けいじしょ源泉げんせんについて」の草案そうあん討論とうろんされた。あらかじめ作成さくせいされていたこの草案そうあんは、カトリックの教義きょうぎ明確めいかくぎておりエキュメニカルな観点かんてんからのぞましくないと非難ひなんされ、初日しょにちからリエナール、フリンクス、レジェ、ケーニッヒ、リッターなどの進歩しんぽ教父きょうふ反対はんたいした。11月17にちにはデフナー枢機卿すうききょうくわわり、進歩しんぽ準備じゅんび委員いいんかいによってつくられた草案そうあん全体ぜんたい却下きゃっかし、そのわりに、すでにラーナー神父しんぷによって準備じゅんびされていた草案そうあん支持しじした。

11月20にち議長ぎちょうであった進歩しんぽのフリンクス枢機卿すうききょうは「啓示けいじしょ源泉げんせんについて」の草案そうあん討議とうぎ中断ちゅうだんおおやけ会議かいぎ投票とうひょうした。投票とうひょう結果けっか賛成さんせいは1386ひょう不賛成ふさんせいは822ひょうであり、賛成さんせい投票とうひょうは3ぶんの2の多数たすうにはおよばなかった。事務じむ総長そうちょうのフェリチは、討議とうぎ続行ぞっこうすると宣言せんげんした。しかし、教皇きょうこうヨハネ23せいは、ベアとレジェの要求ようきゅう屈服くっぷくし、おおやけ会議かいぎ規定きてい無視むしして、この草案そうあん破棄はきとなった[35]

教会きょうかいについて」の草案そうあんにおける意見いけん対立たいりつ
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12月1にちからどう7にちまでは、「教会きょうかいについて」の草案そうあんかんする討論とうろんおこなわれた。この草案そうあんは、初日しょにちからリエナール(この草案そうあんは「キリストの神秘しんぴたいをローマ教会きょうかい同一どういつしている」)、フリンクス(「ギリシア・ラテンの教父きょうふ思想しそう発露はつろがない」)、デフナー(「かみみん司教しきょうだんについての説明せつめいがない」)、ド・スメット(「勝利しょうり主義しゅぎてき法律ほうりつてき傾向けいこうつよい」)、レルカノ(「貧者ひんじゃ教会きょうかい思想しそうがほしい」)、モンティーニ(「キリストと教会きょうかいとの関係かんけい説明せつめい不十分ふじゅうぶん」)、マクシモス(「エキュメニカルな配慮はいりょりない」)などの進歩しんぽ教父きょうふ反対はんたいした。この草案そうあんは、教皇きょうこう判断はんだん決定けっていによって、票決ひょうけつされることなく廃案はいあんとなった[36]

その議事ぎじ内容ないよう
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そのほか、11月23にちからどう26にちまで「マスコミについて」の草案そうあんかんする討論とうろんおこなわれた。また11月26にちからどう30にちまで、「東方とうほう教会きょうかいとの一致いっちについて」、「聖母せいぼマリアについて」、「エキュメニズムについて」の3草案そうあんかんする討論とうろんおこなわれた。

調整ちょうせい委員いいんかい

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12月5にち教皇きょうこうヨハネ23せい準備じゅんび委員いいんかい作成さくせいした草案そうあんを、つかさまきてきなもの(ad intra 教会きょうかい内部ないぶけての信徒しんとらへの発言はつげん)と世界せかいてき意味いみがあるもの(ad extra 教会きょうかい外部がいぶ世界せかいけた発言はつげん)という観点かんてんからさい検討けんとうすることを要求ようきゅうし、調整ちょうせい委員いいんかい設置せっちした。キコニアーニ委員いいんちょうほか、リエナール、ウルバーニ、スペルマン、コンフェロニエーリ、デフナー、スーネンスのかく委員いいんからり、ほとんどが進歩しんぽめられた。

だい2バチカンこう会議かいぎ開会かいかい先立さきだつ1962ねん3がつ、ヨハネ23せい秘密裏ひみつりにスーネンスにおおすぎる草案そうあん整理せいりまかせており、スーネンス計画けいかく実行じっこうされるとおおやけ会議かいぎ開会かいかいの60にちには、準備じゅんびされた73の草案そうあん[注釈ちゅうしゃく 12]はすべて否決ひけつされられることになった。

だい1会期かいきでは、典礼てんれいしょ問題もんだい東方とうほう典礼てんれい問題もんだいなどがあつかわれた。同時どうじはなわれた啓示けいじかんする討論とうろんでは草案そうあん棄却ききゃくされ、なおしがもとめられた。だい1会期かいき結局けっきょく満足まんぞくのいく成果せいかをみることができなかったが、以後いご会期かいき運営うんえいのありかた確立かくりつされた。あらかじめ準備じゅんびされた草案そうあんすべ承認しょうにんいたらなかったというだい1会期かいき事態じたいは、ラッツィンガー神父しんぷによれば「だい1会期かいき偉大いだいな、おどろくべき、正真正銘しょうしんしょうめい肯定こうていてき結果けっか」だった。これは「準備じゅんび作業さぎょう背後はいごにあった精神せいしんたいするつよ反動はんどう」の証拠しょうこで「おおやけ会議かいぎだい1会期かいきのエポック・メイキングな特徴とくちょうである」とんでいる[38]

しん教皇きょうこう誕生たんじょう

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だい1会期かいき終了しゅうりょうつぎ会期かいきけて草案そうあん見直みなおしや議論ぎろん整理せいりすすなか、かねてからガンをわずらっていた教皇きょうこうヨハネ23せい1963ねん6月3にち会議かいぎ終結しゅうけつることなくこのった。6月21にち後継こうけい教皇きょうこうパウロ6せい選出せんしゅつされよく6月22にちのラジオ・メッセージでおおやけ会議かいぎ継続けいぞく宣言せんげんした。

教皇きょうこうだい2バチカンこう会議かいぎだい2会期かいきを1963ねん9月29にち開会かいかいすると予告よこくすると、世界せかいおおやけ会議かいぎ教父きょうふたちは様々さまざま草案そうあん研究けんきゅう再開さいかいした。8がつ26にちからどう29にちまで、ヨーロッパ同盟どうめい司教しきょうたちのイニシアティヴでドイツのフルダあつまり、だい2会期かいきすすかた準備じゅんびするフルダ会議かいぎ(Fulda Conference)がひらかれる[39]

1963ねん9月12にちけのティスランへの手紙てがみによると、だい2会期かいき開会かいかい先立さきだち、教皇きょうこうパウロ6せいつぎのことをさだめた。

  1. 定数ていすう4にん運営うんえい委員いいん moderatores の設定せってい
  2. おおやけ会議かいぎ議長ぎちょうだん拡大かくだい定数ていすうを 10にんから12にん増員ぞういん)、その職務しょくむ範囲はんいおおやけ会議かいぎ運営うんえい手続てつづきじょう課題かだい限定げんてい
  3. キリスト教きりすときょうしゃとの対話たいわ窓口まどぐちつとめる事務じむきょく設置せっち
  4. 広報こうほう委員いいんかい設置せっち一般いっぱん信徒しんと代表だいひょうおおやけ会議かいぎ参加さんかを、傍聴ぼうちょうじんとして承認しょうにん
  5. カトリック信者しんじゃ傍聴ぼうちょうじんせき増設ぞうせつ

などであった。

指名しめいされた4にん運営うんえい委員いいんは、進歩しんぽのデフナー、スーネンス、レルカノ、中道ちゅうどうのアガジャニアンであった。こうして自由じゆう主義しゅぎしゃおおやけ会議かいぎ主導しゅどうけんにぎった。この運営うんえい委員いいんかいは、教皇きょうこうちょうからの介入かいにゅう余地よちおさえる目的もくてきがあった[40]

だい2会期かいき (Sessio Secunda)

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9月29にちだい2会期かいき(Sessio Secunda 1963ねん9月29にち - 12月4にち)の冒頭ぼうとう教皇きょうこうパウロ6せい議題ぎだいおおすぎて収拾しゅうしゅうがつかなくなっただい1会期かいきわだちまないため、おおやけ会議かいぎ優先ゆうせん議題ぎだい以下いかの4つと明示めいじした。

  1. 教会きょうかいろん草案そうあん教会きょうかいろん確立かくりつ司教しきょうだん役割やくわり検討けんとう
  2. 教会きょうかい刷新さっしん現代げんだい
  3. エキュメニズム草案そうあんエキュメニズムの推進すいしん
  4. カトリック教会きょうかい現代げんだい世界せかい対話たいわ

それにもかかわらず、だい2会期かいきにおける保守ほしゅ進歩しんぽとの論争ろんそうは、教会きょうかいにおける聖母せいぼマリア地位ちい#聖母せいぼ草案そうあん)ならびに司教しきょうけんあるいは司教しきょうだん性格せいかく#司教しきょうだん草案そうあん)が焦点しょうてんになる[40]

9月30にち教会きょうかいろん草案そうあんをめぐって討論とうろん開始かいしした。

聖母せいぼ草案そうあん

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元来がんらい聖母せいぼマリアかんする草案そうあん (De Beata Maria Virgine, Matre Dei et Matre hominum) は独立どくりつした文書ぶんしょだった。一方いっぽうのオッタヴィアーニはこれを単独たんどく決議けつぎぶんとして成立せいりつさせようとしていた[注釈ちゅうしゃく 13]他方たほうだい2会期かいきまえのフルダ会議かいぎでカール・ラーナーは「エキュメニカルな観点かんてんからわる結果けっかをもたらす」ので「分裂ぶんれつ原因げんいんける平和へいわてき妥協だきょう」をもとめている。ラッツィンガー、グリルマイアー、ゼンメルロートもどう意見いけんであった[41]

9月30にちだい2会期かいきはじまるやいなや、フリンクスは聖母せいぼ草案そうあんを「過度かどなマリア信心しんじん」と批判ひはんし、短縮たんしゅく教会きょうかいろん一部いちぶ編入へんにゅうすべきという意見いけんした。10月2にちには、シルバ枢機卿すうききょうもマリアろん教会きょうかいろん一部いちぶとするべきと主張しゅちょうした。

10月3にち、デ・アリッバ枢機卿すうききょう司教しきょう60にん連名れんめいで、マリアろん単独たんどく草案そうあんとすべきだと要求ようきゅうし、やく600にん司教しきょう陳情ちんじょうしょ提出ていしゅつされた。10月24にち、サントス枢機卿すうききょうは、単独たんどく聖母せいぼ草案そうあんもとめる代表だいひょうとして審議しんぎ報告ほうこくおこない、他方たほうでケーニヒは編入へんにゅうもとめる代表だいひょうとして報告ほうこくおこなった。

10月29にち聖母せいぼ草案そうあんをめぐり単独たんどく編入へんにゅうかを投票とうひょうおこなわれ、教会きょうかいろんへの編入へんにゅう要望ようぼうする意見いけん賛成さんせい 1114 たい 反対はんたい 1074 と僅差きんさ多数たすうめた[注釈ちゅうしゃく 14][注釈ちゅうしゃく 15]

司教しきょうだん草案そうあん

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神学しんがく委員いいんかい準備じゅんびした「教会きょうかい草案そうあん」が廃案はいあんとなったのちあたらしいだい2草案そうあんをめぐる激論げきろんわされた。

10月4にちからどう16にちまで、教会きょうかい最高さいこう教導きょうどう機関きかんとしての司教しきょうだん(ordo episcoporum, collegium episcoporum) をみとめるかかが討論とうろんされ、127にん教父きょうふ発言はつげんした。教父きょうふたちは3つのかれた[45]

  • ローマけいせいつて神授しんじゅ権利けんり[よう説明せつめい]により、教皇きょうこうぜん世界せかい教会きょうかい唯一ゆいいつあたまであり、教皇きょうこうのみが最高さいこう権威けんい十全じゅうぜんたす。ペトロはキリストの代理だいりしゃ教皇きょうこう)だからこそ、使徒しとだんあたまである。司教しきょうだんおおやけ会議かいぎという例外れいがいにおいて固有こゆう行動こうどう行使こうしするのみで、ぜん教会きょうかいたいする神授しんじゅ最高さいこう権威けんいい。
  • 急進きゅうしんリベラル司教しきょうたちはひとつの団体だんたい構成こうせいし、教皇きょうこう司教しきょうだん意見いけん参照さんしょうしてはじめて決断けつだんくだすことが出来できる。
  • 穏健おんけんリベラル司教しきょうたちはひとつの団体だんたい構成こうせいし、あたまである教皇きょうこうしたがい、教皇きょうこう司教しきょうだんとは独立どくりつして別個べっこ権能けんのう行使こうしする。ペトロは司教しきょうだんあたまだからこそ、キリストの代理だいりしゃである。神授しんじゅ権利けんりにより、教会きょうかい恒常こうじょうてきおおやけ会議かいぎ状態じょうたいである。教会きょうかいは、教皇きょうこうと、教皇きょうこうともにある司教しきょうだんという2つのあたまつ。

この問題もんだい討議とうぎは、意見いけん明確めいかく対立たいりつしたままられ、議事ぎじつぎ議題ぎだいうつった。

10月14にち運営うんえい委員いいんかいのスーネンスは司教しきょうだん問題もんだいを4てんにしぼり、試験しけんてき投票とうひょう10月17にちおこなうと発表はっぴょうした。しかしフェリチ事務じむ総長そうちょう議長ぎちょうだん調整ちょうせい委員いいんかい保守ほしゅ票決ひょうけつ反対はんたいし、そのような投票とうひょう運営うんえい委員いいんかいおこなうとは、調整ちょうせい委員いいんかいたいする越権えっけん行為こういであるとなしたのである。反対はんたいにより10月17にち投票とうひょう自体じたいおこなわれなかった。

10月29にち運営うんえい委員いいんかい試験しけんてき投票とうひょう課題かだいを4てんではなくつぎの5てんあらためて発表はっぴょうし、翌日よくじつ投票とうひょう実施じっしされた。

  1. 司教しきょうひじりべつ秘跡ひせきせい[よう説明せつめい]
  2. 司教しきょう団体だんたいせい
  3. 教会きょうかい最高さいこう教導きょうどう機関きかんとしての司教しきょうだん
  4. 司教しきょうかみてき起源きげん
  5. 恒久こうきゅうてき聖職せいしょく身分みぶんとしての助祭じょさい

10月30にち試験しけんてき投票とうひょう結果けっか、5てんのいずれも3ぶんの2以上いじょうだい多数たすうた。オッタヴィアーニとブラウンは、この試験しけんてき投票とうひょう神学しんがく委員いいんかい拘束こうそくするちからがない、司教しきょうだんかんするおしえも確立かくりつされていないと反論はんろんした。

その議論ぎろん

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  • 11月14にちからどう25にちまで「マスコミ草案そうあん」を討議とうぎし、11月25にち最終さいしゅう票決ひょうけつ12月4にちに「マスコミ草案そうあん」(Inter Mirifica) を公布こうふ
  • 11月18にちからどう27にちまで、「エキュメニズム草案そうあん」にかんする討論とうろんおこなわれ、どう19にちから12月2にち使つか信教しんきょう自由じゆうかんするテキスト(「エキュメニズム草案そうあんだい5しょう)を討議とうぎ
  • 11月22にちに「典礼てんれい草案そうあん」の最終さいしゅう票決ひょうけつ12月4にちに「典礼てんれい草案そうあん」 (Sacrosanctum Concilium) を公布こうふ

委員いいん追加ついか

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11月21にち教皇きょうこうパウロ6せいは、委員いいんかい定数ていすうを25めいから30めいやすと決定けっていした。どう28にち追加ついかの5にん選挙せんきょおこなわれ、5にんともヨーロッパ同盟どうめい拡大かくだいばんである世界せかい同盟どうめい進歩しんぽ)からえらばれた。

この拡大かくだいによって司教しきょうだん意見いけんがよりよく草案そうあん反映はんえいされるようになった[46]

さまざまな議題ぎだいについて議論ぎろんはつきなかったが、この会期かいきちゅう典礼てんれい憲章けんしょう』(Sacrosanctum Concilium) と広報こうほう機関きかんかんするきょうれい[疑問ぎもんてん]の2つが一応いちおう成立せいりつたことで、このまま議論ぎろんだけでわるのではないかという参加さんかしゃ不安ふあんのぞかれた。

教皇きょうこうのコンスタンティノープル訪問ほうもん

編集へんしゅう

1964ねん初頭しょとう教皇きょうこうパウロ6せいはエキュメニズムにつとめ、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうアテナゴラス1せい訪問ほうもんした。

同年どうねん1がつ15にち調整ちょうせい委員いいんかい会合かいごう進歩しんぽのデフナーは議事ぎじ進行しんこう迅速じんそくはかるには、リベラルにとって重要じゅうよう問題もんだいのみをげ、重要じゅうようせいすくないこまかい問題もんだいは「指針ししん」(propositiones) というかたち簡単かんたんにまとめるよう提案ていあん採決さいけつされた(デフナー計画けいかく Döpfner plan)[47][48]

だい3会期かいき (Sessio Tertia)

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前回ぜんかいから1ねんだい3会期かいき(Sessio Tertia 1964ねん9月14にち - 11月21にち)には傍聴ぼうちょうじん信徒しんとまで招聘しょうへいされ、おおくの草案そうあん精力せいりょくてき検討けんとうされた。とくに、教皇きょうこう首位しゅいけんかんするだい1バチカンこう会議かいぎ決議けつぎ尊重そんちょうしつつ、司教しきょうだん団体だんたいせい指導原理しどうげんり強調きょうちょうするという方法ほうほうかんして、議論ぎろん白熱はくねつした。

司教しきょうだん主義しゅぎ

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1964ねん9月15にちだい3会期かいき冒頭ぼうとう、スタッファ大司教だいしきょうおおやけ会議かいぎ議会ぎかいそくだい6せつだい57じょうもとづき、70にん教父きょうふたちを代表だいひょうして発言はつげんもとめたが受理じゅりされなかった[49]

9月21にちから9月29にちまで、本文ほんぶん一句いっくぶしずつ表決ひょうけつされた。結果けっか賛成さんせい1624ひょう条件じょうけん賛成さんせい572ひょう(placet juxta modum)、反対はんたい42ひょうとなった。

11月7にち、スタッファ大司教だいしきょうはパウロ6せいてた手紙てがみ発言はつげん申請しんせい受理じゅり(9がつ15にち)につき手続てつづきじょう妨害ぼうがいであり、司教しきょうだん主義しゅぎ命題めいだいという「極端きょくたん形式けいしき」の利益りえきのためにローマ・カトリックけい神学しんがく沈黙ちんもくさせようとしたと告発こくはつした(スタッファ作戦さくせん Operation Staffa)。

そのあいだ、35にん枢機卿すうききょうと5にんだい修道しゅうどうかい総長そうちょうらは、パウロ6せいてた10月18にちけのメモをき、革新かくしんてきおしえにかんする「憂慮ゆうりょ」を表明ひょうめいし、草案そうあん曖昧あいまい多義たぎせいち、おおやけ会議かいぎきわめて恣意しいてき解釈かいしゃくされる危険きけんせいがあることの指摘してき、また考察こうさつのため休憩きゅうけい時間じかん熟考じゅっこう期間きかんもうけるよう要請ようせいした。草案そうあん多義たぎせい危険きけんせいふくむとはしんじがたいパウロ6せいうごかず、わりにスタッファと同調どうちょうする神学しんがくしゃたちの名前なまえ列挙れっきょするようもとめた。げられた3にん名前なまえくと、いずれもみずからがたか評価ひょうかする人々ひとびとであり、パウロ6せいはうろたえた。そのとき極端きょくたんにリベラルな教父きょうふ文章ぶんしょうおおやけ会議かいぎ曖昧あいまい文章ぶんしょう解釈かいしゃくする方便ほうべんつづった書面しょめんがパウロ6せい手元てもととどき、あざむかれたとさとった教皇きょうこうなみだしたという[50]。そこで教皇きょうこう国務こくむ長官ちょうかんかいしてオッタヴィアーニに、司教しきょうだん草案そうあん諸点しょてん表現ひょうげんをもっと正確せいかくべるようにもとめた。これが「予備よび解説かいせつてき注釈ちゅうしゃく」(Nota explicativa praevia) である。

11月14にち予備よび解説かいせつてき注釈ちゅうしゃく教父きょうふらにしめされた。この注釈ちゅうしゃく草案そうあんふくまれた内容ないよう意味いみえるかえないかで議論ぎろんこった。だい123かい総会そうかい初日しょにち11月16にちから、リベラルな教父きょうふたちが「暗黒あんこくの1週間しゅうかん」としゅうはじまった。同日どうじつ告知こくちで、おおやけ会議かいぎ事務じむ総長そうちょうペリクレ・フェリチ大司教だいしきょうから論争ろんそうおわらせるため、つぎ発表はっぴょうがされる。

教会きょうかい草案そうあんだい3しょうたいする修正しゅうせい意見いけんつぎ解説かいせつてき注釈ちゅうしゃくけ、あらかじめ最高さいこう権威けんい教皇きょうこう)から教父きょうふたちにつたえられた。だい3しょうおしえはこの注釈ちゅうしゃく意向いこう意味いみにしたがい説明せつめいし、理解りかいされなければならない[51][52][53]

この注釈ちゅうしゃくは『教会きょうかい憲章けんしょう』の一部いちぶまれることになる。

現代げんだい世界せかいにおける教会きょうかいについて

編集へんしゅう

9月30にち、リベラル起草きそうした「現代げんだい世界せかいにおける教会きょうかいについて」の草案そうあん追加ついかあらわれた。

10がつ20日はつか上程じょうてい予定よていに、「現代げんだい世界せかいにおける教会きょうかいについて」の草案そうあん草案そうあんだい13とばれた)検討けんとう上程じょうていされなかった。

10がつ20日はつかから11月10にちまで、現代げんだい世界せかいにおける教会きょうかいについてのきょうれい討論とうろんされた。ちょう自然しぜん要素ようそがないと批判ひはんされたが、もどしにはならなかった。これがのちに『現代げんだい世界せかい憲章けんしょう』となる[54]

聖母せいぼマリアについて

編集へんしゅう

1964ねん7がつ15にちけで、13めい教父きょうふたちは、請願せいがんしょ(postulatum) を教皇きょうこうパウロ6せい提出ていしゅつして、つぎのことを懇願こんがんした。

  1. 聖母せいぼマリアを「教会きょうかいはは」として宣言せんげんする
  2. ひじりつたえおしえにはんする草案そうあん廃案はいあんとする

だい3会期かいきでは、9月16にちから翌日よくじつまで、聖母せいぼマリア称号しょうごうについて議論ぎろんされた。11月18にち聖母せいぼマリアにかんする草案そうあん票決ひょうけつ[55]

だい3会期かいき提示ていじされた文章ぶんしょうでは、ぜん会期かいき終了しゅうりょうにパウロ6せい表明ひょうめいした希望きぼうにもかかわらず、「教会きょうかいはは」という称号しょうごう削除さくじょされていた。カスタン・ラコマ司教しきょうは 80にん教父きょうふ代表だいひょうしてこの称号しょうごうさい挿入そうにゅうすることを要求ようきゅうした。しかし、これは無視むしされた。

11月21にち総会そうかい最後さいご、パウロ6せいは「教会きょうかいはは(Mater Ecclesiae)」という称号しょうごう聖母せいぼマリアにあたえると、自発じはつきょうれい発表はっぴょうした。

その討論とうろん

編集へんしゅう
  • 9月30にちから10月6にちまで、啓示けいじについての草案そうあん討論とうろんされた。フラニッチ司教しきょうは、草案そうあん間違まちがいではないがひじりつたえ充満じゅうまんせいについておおきな欠陥けっかんがあると指摘してきした。デフナーは78にんドイツ語どいつごけん司教しきょうらを代表だいひょうして、啓示けいじすべ聖書せいしょなかふくまれているかかというむずかしい問題もんだいれずにうまくかくしてあると賞賛しょうさんした[56]
  • 10月7にちから10月13にちまで、信徒しんと使徒しとしょくについての草案そうあん討論とうろんされた。
  • 10月13にちからどう15にちまで、司祭しさいしょくについての草案そうあん討論とうろんされ、「指針ししん」propositiones に還元かんげんされ、もどされた。
  • 10月15にちからどう20にちまで、東方とうほう教会きょうかいについてのきょうれい討論とうろんされた。
  • 11月6にちからどう9にちまで、宣教せんきょうについての草案そうあん討論とうろんされ、「指針ししん」propositiones に還元かんげんされた。指針ししん破棄はきされ、草案そうあんさい準備じゅんびされた。
  • 11月10にちからどう12にちまで、修道しゅうどう生活せいかつについての草案そうあん討論とうろんされた。
  • 11月12にちからどう17にちまで、司祭しさい養成ようせいについての草案そうあん討論とうろんされ、指針ししん還元かんげんされた。
  • 11月17にちからどう19にちまで、キリストきょう教育きょういくについての草案そうあん討論とうろんされ、指針ししん還元かんげんされた。

会期かいきすすんでもなかなかきょうれいかたちにならないことで参加さんかしゃたちもあせりはじめたが、最終さいしゅうてきに『東方とうほうカトリックしょ教会きょうかいかんするきょうれい』、『エキュメニズムにかんするきょうれい』、『教会きょうかい憲章けんしょう』(Lumen Gentium) を成立せいりつさせることができた。『司祭しさい役務えきむ生活せいかつかんするきょうれい』などの草案そうあんはいまだに不十分ふじゅうぶんであるとしてもどされた。

だい4会期かいき (Sessio Quarta)

編集へんしゅう

おおやけ会議かいぎ1965ねんにいよいよ予定よていされた最終さいしゅうだい4会期かいき(Sessio Quarta 1965ねん9月14にち - 12月8にち)をむかえたが、依然いぜんとして11の草案そうあん決議けつぎいたらずにのこされていた。とくに「草案そうあん13」とばれた現代げんだい世界せかい教会きょうかいのありかたにかんする文章ぶんしょう重要じゅうよう案件あんけんであり、なん修正しゅうせいかさねられていたが、いまだにまとまるめどがたたなかった。『信教しんきょう自由じゆうかんする宣言せんげん』の草稿そうこう議論ぎろんかえされたが、なかなか多数たすうれられるものになっていなかった。

この会期かいき初頭しょとう教皇きょうこうパウロ6せいが、司教しきょう会議かいぎシノドス)をげることを宣言せんげんしたことがおおきなニュースとなった。シノドスは9月15にち創設そうせつされ、実際じっさい公会こうかい終了しゅうりょう各地かくちおこなわれることになり、現代げんだいいたっている。

最終さいしゅうてき啓示けいじあつかいについて紛糾ふんきゅうした『かみ啓示けいじかんする教義きょうぎ憲章けんしょう』(啓示けいじ憲章けんしょう Dei Verbum)が参加さんかしゃ賛成さんせい多数たすうによって成立せいりついたったことで、すでに議論ぎろんかさねられていた草案そうあん続々ぞくぞく成立せいりつしていった。それらは『教会きょうかいにおける司教しきょうつかさまき任務にんむかんするきょうれい』、『修道しゅうどう生活せいかつ刷新さっしん適応てきおうかんするきょうれい』、『司祭しさい養成ようせいかんするきょうれい』、『信徒しんと使徒しとしょくかんするきょうれい』、『教会きょうかい宣教せんきょう活動かつどうかんするきょうれい』、『司祭しさい役務えきむ生活せいかつかんするきょうれい』および『キリストきょうてき教育きょういくかんする宣言せんげん』、『キリストきょう以外いがいしょ宗教しゅうきょうかんする教会きょうかい態度たいどについての宣言せんげん』、『信教しんきょう自由じゆうかんする宣言せんげん』といったものであった。もっとも難産なんざんとなった憲章けんしょう現代げんだい世界せかいとのかかわりについてなにをどこまでんで表現ひょうげんするかが議論ぎろんとなった『現代げんだい世界せかい憲章けんしょう』(Gaudium et Spes)は12月になってようやく成立せいりつし、参加さんかしゃ一同いちどうむねをなでおろした。

議論ぎろんされた内容ないよう

編集へんしゅう
  • 9月21にちから10月8にちまで、現代げんだい世界せかいにおける教会きょうかいについての草案そうあん討論とうろんされた[57]
  • 10月7にちからどう12にちまで、宣教せんきょうについてのあたらしい草案そうあん討論とうろんされた。

きょうれい発布はっぷ

編集へんしゅう
  • 10月28にち、『修道しゅうどう生活せいかつ刷新さっしんについて』、『司祭しさい養成ようせいについて』、『教会きょうかいにおける司教しきょうつかさまき責務せきむについて』、『キリストきょう教育きょういくについて』が公布こうふされた。
  • 11月18にち、『啓示けいじについて』、『信徒しんと使徒しとしょくについて』が公布こうふされた。
  • 12月7にち、『信教しんきょう自由じゆうについて』、『宣教せんきょうについて』、『司祭しさい役務えきむ生活せいかつについて』、『婚姻こんいんについて』が公布こうふされた。

だい2バチカンこう会議かいぎ閉会へいかい

編集へんしゅう

12月7にちカトリック教会きょうかい正教会せいきょうかいによる1054ねん相互そうご破門はもん相互そうご解除かいじょされた。

同日どうじつ教皇きょうこうパウロ6せいおおやけ会議かいぎ閉会へいかい演説えんぜつにおいておおやけ会議かいぎ意義いぎ宣言せんげんした。

「しかし、ここでつぎのことに注意ちゅういしなければなりません。教会きょうかい特別とくべつ教導きょうどうけんによって、特別とくべつ教義きょうぎ定義ていぎしませんでしたが、おおくの問題もんだいについて、現代げんだいじん良心りょうしん基準きじゅんとなり、行動こうどう原理げんりとなる事柄ことがら権威けんいをもっておしえたのであります。そのうえ教会きょうかいは、現代げんだいじん対話たいわはじめたのであります。つね自己じこ権威けんいちから保持ほじしながら、つかさまきてきあい特有とくゆう親切しんせつ友好ゆうこうてき態度たいどをとったのであります。すべてのひと教会きょうかいみみかたむけ、教会きょうかい理解りかいすることをのぞんだのです。そのため知識ちしき階級かいきゅう人々ひとびとだけが理解りかいできるような表現ひょうげんではなく、普通ふつう一般いっぱんもちいられている表現ひょうげん使つかったのであります。さら人々ひとびとしんをひきつけ、人々ひとびと説得せっとくするために、生活せいかつ体験たいけん人々ひとびとしんびかけたのであります。すなわち、教会きょうかいはあるがままの現代げんだいじんはなしかけたのであります[58]。」

よく12月8にち教皇きょうこうはサン・ピエトロ広場ひろばおおやけ会議かいぎ終了しゅうりょう宣言せんげんし、世界せかいのあらゆる人々ひとびとにむけたメッセージを発表はっぴょう。ここに4ねんにわたっただい2バチカンこう会議かいぎまくろされた。

おおやけ会議かいぎ解釈かいしゃく

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おおやけ会議かいぎあつかった内容ないようまえに、おおやけ会議かいぎをどのように解釈かいしゃくするかという問題もんだいれなければならない。その理由りゆうは、おおやけ会議かいぎをどのように解釈かいしゃくするかに、その内容ないようゆだねられているからである。

だい2バチカンこう会議かいぎだい1にめざすべき目標もくひょうとして教会きょうかいおしえが現代げんだいじんにも理解りかいできるように「現代げんだい要求ようきゅうする方法ほうほう探求たんきゅうされ、説明せつめいされ」ること、現代げんだいじんによくつたわるようにあたらしいいいかたもちいて「つかさまきてき性格せいかく教会きょうかい教導きょうどう任務にんむにもっともよく合致がっちする表現ひょうげんほう」による説明せつめいをめざした[注釈ちゅうしゃく 16]

しかし、理解りかいしやすい説明せつめいをしたはずだったおおやけ会議かいぎは、そのただしい理解りかい仕方しかた解釈かいしゃく問題もんだいとされている。おおやけ会議かいぎの20周年しゅうねんにあたる1985ねん、ラッツィンガー枢機卿すうききょう教皇きょうこうベネディクト16せい)は、だい2バチカンこう会議かいぎまさしく理解りかいされていないとうったえてこう発言はつげんしている。

このじゅう年間ねんかん(1965~85ねん)がカトリック教会きょうかいにとって決定的けっていてき不利ふりであった、ということには議論ぎろん余地よちがない。おおやけ会議かいぎつづ結果けっかは、ヨハネ23せいやパウロ6せいはじめとするみんなの期待きたい無惨むざんにも裏切うらぎったかにえる。キリスト教徒きりすときょうとは、ふたたび、古代こだい末期まっき以来いらいかつてない少数しょうすうになってしまった。…おおやけ会議かいぎ教皇きょうこうたちや教父きょうふたちは、カトリックてきあらたな一致いっち期待きたいしていたのに、--パウロ6せい言葉ことばりてえば--自己じこ批判ひはんから自己じこ破壊はかいになりかねない不一致ふいっち直面ちょくめんした。…躍進やくしんをこそ期待きたいしたのに、結果けっかてきには衰退すいたいせつけられ、それはおおやけ会議かいぎしん精神せいしん権威けんい失墜しっついさせる自称じしょう"こう会議かいぎ精神せいしん"のごえのもとで蔓延まんえんしていった。 — 『信仰しんこうについて』、40-41ぺーじ
おおやけ会議かいぎ本来ほんらいかおしめすのは今後こんごだい仕事しごとである。 — 『信仰しんこうについて』、45ぺーじ
この「しんの」おおやけ会議かいぎたいして、実際じっさいにはしんの「はん精神せいしん」である偽称ぎしょうおおやけ会議かいぎ精神せいしん」がった。この致命ちめいてきはんおおやけ会議かいぎ精神せいしん--ドイツうとKonzils-Ungeist--によれば、すべて「あたらしいもの」、あるいはあたらしいと推定すいていされるものは、いままであったもの、あるいはいまあるものよりもつねに、なにはともあれいいものなのだ。 — 『信仰しんこうについて』、46-47ぺーじ
だい2バチカンこう会議かいぎしんときはまだていないのかもしれないし、その真正しんせい受信じゅしんはまだはじまっていないのかもしれないおおやけ会議かいぎしょ文書ぶんしょ明文めいぶん再読さいどくかならずやわたしたちにそのしん精神せいしんさい発見はっけんさせるだろう。 — 『信仰しんこうについて』、54ぺーじ

おおやけ会議かいぎ閉会へいかいして40ねん経過けいかしたのちでさえ、ベネディクト16せいだい2バチカンこう会議かいぎ真正しんせい理解りかい解釈かいしゃくについて問題もんだいにした[59]

ふさわしいおおやけ会議かいぎ理解りかいとはなにでしょうか。また、不適切ふてきせつな、あるいはあいだちがったおおやけ会議かいぎ理解りかいとはなにでしょうか。まだしなければならないことはなにでしょうか。教会きょうかいのかなりの部分ぶぶんにおいて、おおやけ会議かいぎ実施じっしがある意味いみ困難こんなんだったことをだれ否定ひていできません。偉大いだい教会きょうかい博士はかせせいバジリオは、ニケアこう会議かいぎ教会きょうかい状況じょうきょうについてつぎのようにべています。やろうとおもえば、このことばは、過去かこ40ねんあいだこったことにあてはめることができます。バジリオは、教会きょうかいかれた状況じょうきょうあらし暗闇くらやみなかおこなわれる海戦かいせんになぞらえます。「意見いけん対立たいりつし、たがいにいがみものたちのさわがしいさけごえ理解りかいえた流言りゅうげんなくさわてる混乱こんらんしたはなごえ―これが、いまやほとんど教会きょうかい全体ぜんたいたし、ぎや誤謬ごびゅうによって信仰しんこうただしいおしえをゆがめている」。
わたしたちはおおやけ会議かいぎ状況じょうきょうにこの劇的げきてき記述きじゅつをそのままあてはめたいとはおもいませんが、すべての出来事できごとのいくぶんかはこの記述きじゅつ反映はんえいされています。ここで疑問ぎもんしょうじます。なぜ、教会きょうかいおおくの部分ぶぶんにおいて、これまでおおやけ会議かいぎ実施じっしがそれほどむずかしかったのでしょうか。
この疑問ぎもんこたえるには、なによりも、おおやけ会議かいぎただしい解釈かいしゃく必要ひつようです。あるいは、今日きょう、そういってよければ、適切てきせつ解釈かいしゃくほう、すなわちおおやけ会議かいぎ解釈かいしゃく適用てきようかぎとなるただしい方法ほうほう必要ひつようです。おおやけ会議かいぎ実施じっしにおけるしょ問題もんだいは、2つのあい対立たいりつする解釈かいしゃくほうたがいに反目はんもくし、論争ろんそううことからしょうじました。

ベネディクト16せいによれば、最初さいしょ解釈かいしゃくほうは、「不連続ふれんぞく断絶だんぜつによる解釈かいしゃくほう」である。もうひとつの解釈かいしゃくほうは「改革かいかくによる解釈かいしゃくほう」である。

不連続ふれんぞく断絶だんぜつによる解釈かいしゃくほう

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不連続ふれんぞくによる解釈かいしゃくほうは、あえておおやけ会議かいぎまえ教会きょうかいおおやけ会議かいぎ教会きょうかい断絶だんぜつ帰結きけつさせ[59]」る革命かくめいてき見解けんかいる。この見解けんかいによれば、「おおやけ会議かいぎを、きゅう憲法けんぽう廃止はいしして、しん憲法けんぽう制定せいていするための憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいのようなものとかんが[59]」、これによってすべてはあたらしくなった。おおやけ会議かいぎは「あたらしい聖霊せいれい降臨こうりん」の機会きかいであって、教会きょうかい自分じぶんみにくくさせているまたみずからの使命しめいたすことをさまたげるすべてのよごれをはらった。

不連続ふれんぞくによる解釈かいしゃくほう説得せっとくりょくつようにおもわせる……特別とくべつ理由りゆう[59]」は、パウロ6せいおおやけ会議かいぎ閉会へいかい演説えんぜつである。人間にんげんかんしてはげしい議論ぎろんおこなわれてきたことが、近代きんだい特徴とくちょうであり、おおやけ会議かいぎ特別とくべつ意味いみ人間にんげんろんというテーマをげた。これらすべての問題もんだいから、あるしゅ不連続ふれんぞくしょうじる可能かのうせいがあった。実際じっさいに、ある意味いみでは不連続ふれんぞくあらわれた。パウロ6せいうように「人々ひとびとたいするかぎりないあいおおやけ会議かいぎ全体ぜんたい侵略しんりゃくした[60]かぎり、現代げんだい人々ひとびと現代げんだい世界せかいわせあたらしい教会きょうかいろんにそって、教会きょうかいあたらしくつくなおすべきである。教皇きょうこう首位しゅいけん司教しきょう権能けんのう司祭しさいしょく独身どくしん制度せいど信教しんきょう自由じゆう、エキュメニズム、かみみん役割やくわり結婚けっこんせい道徳どうとく典礼てんれいなど。「このような革新かくしんのみが、おおやけ会議かいぎしん精神せいしんあらわすものであり、この革新かくしんから、またこの革新かくしんしたがうならば、前進ぜんしんすることが可能かのうとなると、かれらはかんがえ」ている。

「この解釈かいしゃくほうは、おおやけ会議かいぎ文書ぶんしょそのものはおおやけ会議かいぎしん精神せいしんをまだ表現ひょうげんしていないといい」、「だい2バチカンこう会議かいぎ文書ぶんしょ妥協だきょう産物さんぶつ[59]」であると主張しゅちょうする。たとえばマルティニ[61]濱尾はまお文郎ふみお枢機卿すうききょう[62]がそう主張しゅちょうする。

改革かいかくによる解釈かいしゃくほう

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Papst Paul VI Foto: Lothar Wolleh
 
Konzilväter Foto: Lothar Wolleh
 
Konzilväter Foto: Lothar Wolleh

改革かいかくによる解釈かいしゃくほう最初さいしょしめしたのは、教皇きょうこうヨハネ23せいによる1962ねん10月11にちおおやけ会議かいぎ開会かいかい演説えんぜつであった。のちにこの解釈かいしゃくほうは、教皇きょうこうパウロ6せい1965ねん12月7にちったおおやけ会議かいぎ閉会へいかい演説えんぜつでもしめされた。

ベネディクト16せいは、ヨハネ23せい引用いんようしてこう[59]

おおやけ会議かいぎのぞむのは、「教義きょうぎよわめることもゆがめることもなしに、純粋じゅんすい完全かんぜんなしかたでつたえること」です。教皇きょうこうつづけてこういいます。「わたしたちのつとめは、あたかも骨董こっとう(こっとう)趣味しゅみのように、この高価こうかたからまもることだけではありません。わたしたちのつとめは、わたしたちがきている時代じだいがわたしたちにもとめている活動かつどうに、誠意せいいをもって、おそれることなくむことです」。必要ひつようなのは「教会きょうかいおしえのすべてを、完全かんぜんに、また正確せいかくまもることです」。このことは「正統せいとう教義きょうぎとの忠実ちゅうじつかつ完全かんぜん一致いっちうちしめされます。しかしながら、教義きょうぎは、さまざまな研究けんきゅう方法ほうほう現代げんだい思想しそうのさまざまな文学ぶんがくてき形態けいたいとおして研究けんきゅうされ、拡大かくだいされなければなりません。信仰しんこう遺産いさんにおける古代こだい教義きょうぎ実体じったいと、おな意味いみとメッセージをたもちつつ、その教義きょうぎ提示ていじする方法ほうほうは、べつ事柄ことがらです[63]」。

おおやけ会議かいぎあつかったテーマ

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おおやけ会議かいぎのテーマは多岐たきにわたっているが、ここではおもなものをあげる。

教会きょうかいろん

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おおやけ会議かいぎえるかたちでのもっともおおきな成果せいかとなったのが、中世ちゅうせい以来いらい懸案けんあんであった教会きょうかいろん確立かくりつである。これは『教会きょうかい憲章けんしょう』にみることができる。

だい1しょう教会きょうかいについて」では、カトリック教会きょうかい唯一ゆいいつにしてひじりであり、普遍ふへんてきなものであること、イエスがペトロにあたえた権能けんのう教皇きょうこう司教しきょうたちによっておさめられる組織そしきであるといいつつ、カトリック教会きょうかい以外いがいにもひじり真理しんり要素ようそ数多かずおお見出みいだされると補足ほそくすること独善どくぜんてき傾向けいこうけている。

だい2しょうかみみんについて」では、かみ個人こじんでなく人々ひとびとのグループをひじりせいまねいていること、そのがたがユダヤ民族みんぞくられることをしめす。また、カトリック教会きょうかいぞくさないキリスト教徒きりすときょうとたち、ユダヤきょうイスラム教いすらむきょうたちも唯一ゆいいつかみにおいてたがいにむすばれていると言明げんめいされる。

だい3しょう教会きょうかい聖職せいしょく位階いかい制度せいどとくつかさ教職きょうしょくについて」では、だい1バチカンこう会議かいぎ議論ぎろん補完ほかんするかたち教皇きょうこうしょく意味いみ司教しきょうだん団体だんたいせい原理げんりしめされる。

以下いかだい4しょう信徒しんとについて」、だい5しょう教会きょうかいにおけるきよしせいへの普遍ふへんてき召命について」、だい6しょう修道しゅうどうしゃについて」、だい7しょうたびする教会きょうかい終末しゅうまつてき性格せいかくおよび天上てんじょう教会きょうかいとの一致いっちについて」、だい8しょう「キリストと教会きょうかいとのなかにおけるかみはは処女しょじょせいマリアについて」とつづくが、とくにそのなかでそれまで聖職せいしょくしゃ司祭しさい信徒しんとよりひじりせいのレベルがたかいとみなしてきた教会きょうかいが「すべてのひとひじりせいまねかれている」という表現ひょうげんをしたことが革新かくしんてきであるといえる。とくキリスト教きりすときょうの2000ねん歴史れきしなかはじめて、信徒しんと公式こうしき文書ぶんしょなか言及げんきゅうされたことは特筆とくひつあたいする。また、だい8しょうのマリアろんかんする部分ぶぶん元来がんらい独立どくりつした文章ぶんしょうになる予定よていであったが、エキュメニズムてき観点かんてんとカトリック以外いがいのキリストきょうたいして攻撃こうげきてきになってはならないという配慮はいりょからこのなかまれた。

典礼てんれい

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このおおやけ会議かいぎのち外見がいけんてき部分ぶぶん教会きょうかいわったと人々ひとびと実感じっかんさせたのは典礼てんれい改革かいかくであった。この精神せいしんは『典礼てんれい憲章けんしょう』にくわしい。教会きょうかい典礼てんれいにおいてすべてのひと積極せっきょくてきにこれにかかわることがもとめられるとして、おおくの改革かいかく実行じっこうした。たとえばそれまでほとんどラテン語らてんごおこなわれていたミサおよび典礼てんれいしょ儀式ぎしき各国かっこくおこなわれることになった。また司教しきょう判断はんだんのもとに(ぜん世界せかい一様いちようでなく)その地域ちいき文化ぶんかざした典礼てんれいのありかた模索もさくされることになった。(典礼てんれい見直みなおしにともなって、レクイエム・ミサにおけるぞく(「いかりの」など)も廃止はいしされた。歌詞かし内容ないようがあまりにも最後さいご審判しんぱんへの不安ふあん恐怖きょうふ強調きょうちょうしすぎており、本来ほんらいキリスト教きりすときょう精神せいしんからとおいというのが理由りゆうであった。)

聖書せいしょ啓示けいじ

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カトリック教会きょうかい古代こだい以来いらい一貫いっかんして重要じゅうようしてきた「聖書せいしょひじりつたえせいなる伝承でんしょう)」を保持ほじしつつも、その現代げんだい世界せかいへの適応てきおう目指めざした。具体ぐたいてきには聖書せいしょ各国かっこくやくのさらなる研究けんきゅう推奨すいしょうされた。そして聖職せいしょくしゃ信徒しんとにとっての聖書せいしょ研究けんきゅう重要じゅうようせいあらためて認識にんしきされた。それまでのカトリック教会きょうかい聖書せいしょ研究けんきゅう聖職せいしょくしゃがすることであるとみなし、信徒しんとがすすんで研究けんきゅうすることはあまり推奨すいしょうしていなかったのである。

司教しきょうのありかたについて

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教会きょうかいにおける司教しきょう位置いちづけもあたらしい観点かんてんによってらしなおされた。とく司教しきょう団体だんたいせいというかんがかたがこのおおやけ会議かいぎ精神せいしん特徴とくちょうになっている。これは教皇きょうこう司教しきょうだんペトロ使徒しとたちのように1つとなって教会きょうかいつかさまきしていくというかんがかたである。また、おおやけ会議かいぎ以降いこうそれぞれの地域ちいき司教しきょうたちがあつまって会議かいぎひらくようになった。これがシノドスである。ただ、シノドスでの議決ぎけつについては3ぶんの2以上いじょう賛成さんせい教皇きょうこうちょう認可にんかによってはじめて有効ゆうこうせいつということがさだめられている。

おおやけ会議かいぎ影響えいきょう

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アジョルナメント(現代げんだい)をテーマにおこなわれたおおやけ会議かいぎは、教会きょうかい現代げんだい世界せかいへの適応てきおうにかけるつよ意気込いきごみをしめすことになった。この会議かいぎでの決定けってい事項じこう以降いこう、パウロ6せいによって実施じっし推進すいしんされ、ヨハネ・パウロ1せいからヨハネ・パウロ2せいへとおおやけ会議かいぎ理念りねん実践じっせんがすすめられていくことになる。

参考さんこう文献ぶんけん

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代表だいひょう執筆しっぴつしゃせいのABCじゅん
  • Alberigo, Giuseppe (1989). Jean XXIII devant l'histoire. Seuil. p. 204 (notes 17, 18) 
  • Amerio, Romano (1987). Iota Unum. NEL. p. 80. "Jean Guitton, "Paul VI secret", p123" 
  • Bugnini, Annibale (1997). La Riforma Liturgica. CLV, Roma. p. 41 
  • Caprile, SJ,, Giovanni (1968) (イタリア). Il concilio Vaticano II, Cronache del concilio Vaticano II. V. Roma: Civilta ccattolica. pp. 681-701 
  • Fouilloux, Etienne (1993). Vatican II commence. Univ. cath. de Louvain. p. 149 
  • 歴史れきしかがや教会きょうかい南山大学なんざんだいがく監修かんしゅう中央ちゅうおう出版しゅっぱんしゃおおやけ会議かいぎ解説かいせつ叢書そうしょ6〉、1969ねん、283ぺーじ 
  • (イタリア) Acta et documenta de concilio Vaticano II apparando. Polygl. Vat. series II (praeparatoira). II. p. 316 
  • Routhier, G (1994). “Le Cardinal Léger et la préparation de Vatican II”. Revue d'Histoire de l'Eglise de France (205): 301. 
  • Wiltgen, Rev. Ralph, SVD (1985). Rhine Flows into the Tiber. TAN Books 
  • (イタリア) Sacrosanctum Decumenicum Concilium Vaticanum II, Constitutiones Decreta Declarationes (『だい2バチカンこう会議かいぎ文書ぶんしょしゅう』). (1974). pp. 863-865 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 10の準備じゅんび委員いいんかいと3つの事務じむきょく内訳うちわけ委員いいんちょう事務じむ局長きょくちょうしめ[6][7][8][9][10]
  2. ^ ララオナ枢機卿すうききょう改革かいかく反対はんたいした証左しょうさ[17]
  3. ^ オッタヴィアーニ枢機卿すうききょう直接ちょくせつ作成さくせいした「教会きょうかい国家こっかとの関係かんけい宗教しゅうきょうてき寛容かんよう」にかんする草案そうあん (神学しんがく委員いいんかい草案そうあん) は本文ほんぶん 9ページと、ピオ9せいからピオ12せいまでの歴代れきだい教皇きょうこう引用いんようぶんからなる末尾まつびちゅう 14ページで構成こうせいされた。
  4. ^ ベア枢機卿すうききょう提出ていしゅつした「信教しんきょう自由じゆう草案そうあん (キリストきょう一致いっち促進そくしん事務じむきょく草稿そうこう) は、本文ほんぶん 15ページと、教会きょうかい教導きょうどうけん引用いんようまったくない5ページの末尾まつびちゅう構成こうせいされた。
  5. ^ ウィルトゲン神父しんぷは75の草案そうあん成立せいりつしていたという。

    "After two year's work, ending on the eve of the council with the dissolution of most of these bodies, a total of seventy-five schemas had been prepared. …… the seventy-five schemas were ultimately reduced to twenty. …… It was certain, however, that no other council had had a preparation "so vast, so diligently carried out, and so profound."[21]

  6. ^ だい2バチカンこう会議かいぎ開会かいかい当日とうじつには、2540にん教父きょうふ(patres concilii こう会議かいぎ参加さんかする司教しきょうらのこと)があつまったとされる[23]当時とうじ参加さんか有権者ゆうけんしゃ総数そうすうは3043にんという[24][25]
  7. ^ 沢田さわだ和夫かずおやくによる[26]
  8. ^ ヨハネ23せいは、レジェ、フリンクス、アルフリンク、スーネンス、ケーニヒ、リエナールが共同きょうどう署名しょめいした嘆願たんがんしょっていた。嘆願たんがんしょは、おおやけ会議かいぎ誤謬ごびゅう断罪だんざいしないことを要求ようきゅうしていた[27]
  9. ^ ウィルトゲン神父しんぷはミサをふくめて50ふんだったという。

    The first business meeting, including Mass, had lasted only fifty minutes.

    [29]

  10. ^ ティスランはのちに、ジャン・ギトンに、おおやけ会議かいぎひらかれるまえ自分じぶんふくめて進歩しんぽ枢機卿すうききょうたちがあつまって、ヨハネ23せいによってつくられた規則きそく拒否きょひし、だい1かい総会そうかいりをめていたとけている[30]
  11. ^

    After this election, it was not too hard to foresee which group was well enough organized to take over leadership at the Second Vatican Council. The Rhine had begun to flow into the Tiber[31]

    .
  12. ^ 1962ねん12月5にち総会そうかい配布はいふされた資料しりょうによると、準備じゅんび委員いいんかい作成さくせいした73の草案そうあんは20に削減さくげんされ、1963ねん3がつまつには調整ちょうせい委員いいんで17に縮小しゅくしょうされた[37]
  13. ^ これもあらかじめ準備じゅんびされた草案そうあんであり、聖母せいぼマリアを「すべてのせいちょう仲介ちゅうかいしゃ」という称号しょうごうんでもいた。しかしこの称号しょうごう準備じゅんび委員いいんかい会議かいぎですでに、リエナールから抗議こうぎけている。
  14. ^

    When the votes were counted, there were 1114, in favor of combining the two schemas; the required majory was only 1097. Father Rahner - and the European alliance - had won by a margin of seventeen votes[42].

  15. ^ 歴史れきしかがや教会きょうかい[43]では、投票とうひょう日付ひづけが10月30にちとなっているが、正確せいかくには10月29にち同様どうように、おおやけ会議かいぎ解説かいせつ叢書そうしょ3『自覚じかくふかめる教会きょうかい[44]も「10がつ24にち票決ひょうけつ先立さきだって」は「10がつ24にちには、票決ひょうけつ先立さきだって」とむべきである。
  16. ^ 沢田さわだ和夫かずおやくによる[26]

出典しゅってん

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  1. ^ Caprile, SJ, 1968, pp. 681–701.
  2. ^ 歴史れきしかがや教会きょうかい 1969, p. 283.
  3. ^ Alberigo 1989, p. 204 (notes 17, 18).
  4. ^ letter to Christo Morcefki英語えいご
  5. ^ O'Malley, John W, SJ (2010), What Happened at Vatican II, Harvard University Press, ISBN 978-0-674-05675-6
  6. ^ Stransky, T. The Vatican Council 1962. Wiseman Review, vol. CCXXXVI, n. 493, p. 203-216, 1962. link.
  7. ^ Kloppenburg, Boaventura. As Comissões Conciliares. In: Concílio Vaticano II: Primeira Sessão (Set.-Dez, 1962). Vol. 2, pp. 51-60. Petrópolis, Brazil: Vozes, 1963. link.
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関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう
  • おおやけ会議かいぎ文書ぶんしょ一覧いちらん
憲章けんしょう
きょうれい
  • 広報こうほう機関きかんかんするきょうれい』(Inter mirifica)
  • 東方とうほうカトリックしょ教会きょうかいかんするきょうれい』(Orientalium Ecclesiarum)英語えいご
  • 『エキュメニズムにかんするきょうれい』(Unitatis redintegratio)英語えいご
  • 教会きょうかいにおける司教しきょうつかさまき任務にんむかんするきょうれい』(Christus Dominus)英語えいご
  • 修道しゅうどう生活せいかつ刷新さっしん適応てきおうかんするきょうれい』(Perfectae Caritatis)英語えいご
  • 司祭しさい養成ようせいかんするきょうれい』(Optatam Totius)英語えいご
  • 信徒しんと使徒しとしょくかんするきょうれい』(Apostolicam Actuositatem)英語えいご
  • 教会きょうかい宣教せんきょう活動かつどうかんするきょうれい』(Ad gentes)英語えいご
  • 司祭しさい役務えきむ生活せいかつかんするきょうれい』(Presbyterorum Ordinis)英語えいご
宣言せんげん
  • 『キリストきょうてき教育きょういくかんする宣言せんげん』(Gravissimum educationis)英語えいご
  • 『キリストきょう以外いがいしょ宗教しゅうきょうかんする教会きょうかい態度たいどについての宣言せんげん』(Nostra aetate)英語えいご
  • 信教しんきょう自由じゆうかんする宣言せんげん』(Dignitatis humanae)英語えいご

関連かんれん文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 南山大学なんざんだいがく (監修かんしゅう)『だい2バチカンこう会議かいぎ公文書こうぶんしょ全集ぜんしゅう』、サンパウロ、1986ねん

外部がいぶリンク

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