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米ソデタント - Wikipedia

べいソデタント(べいそデタント)は、冷戦れいせん体制たいせいの1960年代ねんだいまつから1970年代ねんだいまつにいたるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽう政治せいじ対話たいわおこなわれるようになった期間きかんす。

会談かいだんおこなソ連それんレオニード・ブレジネフ共産党きょうさんとう書記しょきちょうひだり)とアメリカのリチャード・ニクソン大統領だいとうりょうみぎ)。

背景はいけい

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1940年代ねんだい後半こうはん顕在けんざいし、地球ちきゅう規模きぼ拡大かくだいしたべいソの対立たいりつじょうきょうは、1958ねんベルリン危機ききドイツばん1961ねんベルリン危機きき英語えいごばんおよ1962ねんキューバ危機きき頂点ちょうてんたっし、かく戦争せんそう寸前すんぜんにまでいたった。

そのべいソはかく戦争せんそう防止ぼうし共通きょうつう利益りえき見出みいだすようになり、ヨーロッパにおける相互そうご勢力せいりょくけん尊重そんちょうするようになった。それと同時どうじ相互そうご陣営じんえい内部ないぶにおいても、フランス西にしドイツ独自どくじ外交がいこうちゅう対立たいりつ表面ひょうめん象徴しょうちょうされるような中心ちゅうしんうごきがられ、冷戦れいせん初期しょき対立たいりつとはことなる状況じょうきょうまれてきた。またアメリカとソ連それん軍事ぐんじりょくがほぼ対等たいとうになったこともデタント到来とうらい一因いちいんとなった。

デタントの概念がいねん

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デタントは、おおきくべいソデタントとヨーロッパのデタントにけることができる(外交がいこう用語ようごとしてのデタントについてはデタント参照さんしょう)。

べいソ・デタント

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リチャード・ニクソンレオニード・ブレジネフあいだで、軍備ぐんび管理かんり協定きょうてい締結ていけつされた。

ヨーロッパ・デタント

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西にしドイツのヴィリー・ブラント首相しゅしょう東方とうほう政策せいさくすすめた。また1975ねん全欧ぜんおう安全あんぜん保障ほしょう協力きょうりょく会議かいぎ(CSCE)が開催かいさいされ、ヘルシンキ宣言せんげん採択さいたくされた。

デタントの背景はいけい

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デタントの推進すいしんにはべい両国りょうこく逼迫ひっぱくした内政ないせい外政がいせい事情じじょうおおきく関係かんけいしていた。ソ連それん主導しゅどうでデタントをすすめることになった背景はいけいには、ソ連それんをはじめとする東側ひがしがわ諸国しょこく農業のうぎょう政策せいさく失敗しっぱい効率こうりつ食糧しょくりょう流通りゅうつう年間ねんかん3,000まんトンの小麦こむぎ流通りゅうつう過程かていうしなわれていた)により食糧しょくりょう自給じきゅう不可能ふかのうになり、アメリカとの良好りょうこう関係かんけい維持いじする必要ひつようせまられたことがおおきい[1]

1962ねんカナダからの穀物こくもつ緊急きんきゅう輸入ゆにゅう皮切かわきりに、ソ連それんはアメリカの穀物こくもつメジャーから穀物こくもつけをおこない、1972ねん以来いらいソ連それんによる穀物こくもつ輸入ゆにゅういちじるしい増加ぞうかは、ソ連それん貿易ぼうえき収支しゅうし悪化あっかさせるおおきな原因げんいんとなっていた。小麦こむぎ大麦おおむぎライ麦らいむぎ生産せいさんりょう世界一せかいいちにもかかわらず、オイルショック外貨がいか国際こくさい市場いちば大量たいりょう穀物こくもつけをおこなって高騰こうとうさせたことからソ連それんだい穀物こくもつ強盗ごうとう英語えいごばんばれた[2][3]

またアメリカでもジョン・F・ケネディ政権せいけんによりはじめられ、その泥沼どろぬま一途いっとをたどったベトナム戦争せんそうによりふくらんだ軍事ぐんじ出費しゅっぴ増加ぞうかおさえる必要ひつようがあったことと、1969ねん就任しゅうにんしたニクソン大統領だいとうりょうがベトナム戦争せんそうからの早期そうき撤退てったい公約こうやくとしており、その実現じつげんのためにはきたベトナム政権せいけん支援しえんしていたソ連それんとの関係かんけい改善かいぜん必要ひつようだったという背景はいけいがあった。

実際じっさいだいいち戦略せんりゃく兵器へいき制限せいげん交渉こうしょう開始かいしされた1969ねん4がつには、北朝鮮きたちょうせん近海きんかいアメリカ海軍かいぐん偵察ていさつ撃墜げきついされる事件じけん発生はっせいし、31にん搭乗とうじょういん死亡しぼうした。この事件じけん報復ほうふくのためにニクソン政権せいけんないでは戦術せんじゅつ核兵器かくへいき北朝鮮きたちょうせん基地きち攻撃こうげきすることも検討けんとうされたが、当時とうじデタント推進すいしんさい優先ゆうせんしていたニクソン大統領だいとうりょう北東ほくとうアジアにおけるあらたな戦争せんそうまねくことをけるために、北朝鮮きたちょうせんきむ日成いるそん政権せいけんたいする報復ほうふくおこなわなかった[4]

デタントの崩壊ほうかい

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1970年代ねんだい後半こうはんになると、アメリカ国内こくないでデタント政策せいさくたいする批判ひはんたかまった。そして1979ねんソ連それんのアフガニスタン侵攻しんこうにより、デタントは崩壊ほうかいする。しかしブレジネフ政権せいけん経済けいざい停滞ていたいつづき、北米ほくべい(アメリカとカナダ)からの穀物こくもつ輸入ゆにゅうなしには国民こくみんべさせられなくなっていたソ連それん疲弊ひへいし、デタント初期しょきのようなべいソの均衡きんこう関係かんけいはもはや崩壊ほうかいしていた。ソ連それんにはアメリカとの軍備ぐんび拡張かくちょう競争きょうそう体力たいりょくはすでになく、1950年代ねんだいから1960年代ねんだい初期しょきのような全面ぜんめん戦争せんそう危機きき再来さいらいしなかった(冷戦れいせん#しん冷戦れいせん(1979ねん-1985ねん)。

1985ねんゴルバチョフ書記しょきちょう就任しゅうにんし、「ペレストロイカ」に代表だいひょうされるソ連それんなおしをはかった。このなおしにおいて、ゴルバチョフ書記しょきちょう外交がいこうめんではアフガニスタン撤退てったいをはじめとする冷戦れいせん拡大かくだい延長えんちょうではなく終結しゅうけつけた政策せいさくった。最終さいしゅうてきにはなおしのまりによるソ連それん崩壊ほうかいにより、冷戦れいせん終結しゅうけつした。

ソ連それん崩壊ほうかいのロシアとアメリカの関係かんけい

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1991ねん12月にソビエト連邦れんぽう解体かいたいロシアきゅうソ連それん国際こくさいてき権利けんりいだもののその軍事ぐんじりょく低下ていかし、またロシア国内こくない経済けいざい事情じじょう悪化あっかもあり、両国りょうこくあいだにかつてのような緊張きんちょう関係かんけいくなった。

しかし2000年代ねんだい後半こうはんはいってアメリカが推進すいしんする東欧とうおうMD問題もんだいや、ロシアのかかげる「つよいロシア」復活ふっかつけた資源しげん外交がいこうなどで、べい両国りょうこく緊張きんちょうしている。

ちをかけるかのように、2008ねんみなみオセチア紛争ふんそうによりべい関係かんけい悪化あっかし、ふたたびかつての冷戦れいせんよう状態じょうたい突入とつにゅうしたとの見方みかたがある(しん冷戦れいせん)。

しかし2009ねんにアメリカで発足ほっそくしたオバマ政権せいけんべいあいだ最大さいだい懸案けんあんになっていた東欧とうおうミサイル防衛ぼうえい構想こうそう中止ちゅうし決定けっていし、両国りょうこく緊張きんちょう関係かんけいおおきく緩和かんわされた。ただしこれも見方みかたによっては冷戦れいせん時代じだいのデタントとおなじようなものであって、アメリカの政権せいけんわったり、あるいはロシアの行動こうどう次第しだいふたた関係かんけい緊張きんちょうする可能かのうせいもある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 穀物こくもつ利用りようのロス3000まんトン[リンク]
  2. ^ Hamilton, Martha M. (1972). The Great American Grain Robbery & Other Stories. Washington, D.C.: Agribusiness Accountability Project. pp. 313 
  3. ^ Trager, James (1975). The Great Grain Robbery. New York: Ballantine. pp. 233. ISBN 0345241509 
  4. ^ 北朝鮮きたちょうせんへのかく攻撃こうげき検討けんとうべい公文書こうぶんしょ偵察ていさつ撃墜げきついけニクソン政権せいけん. 時事通信じじつうしん. (2010ねん6がつ24にち). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010062400278 [リンク]

関連かんれん項目こうもく

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