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米窪満亮 - Wikipedia

べいくぼ満亮みつすけ

日本にっぽん労働ろうどう運動うんどう小説しょうせつ政治せいじ

べいくぼ 満亮みつすけ(よねくぼ みつすけ、1888ねん明治めいじ21ねん9月16にち[1] - 1951ねん昭和しょうわ26ねん1がつ16にち)は、日本にっぽん労働ろうどう運動うんどういえ小説しょうせつ政治せいじ日本にっぽん海員組合かいいんくみあいふく会長かいちょうて、戦後せんご日本にっぽん社会党しゃかいとう所属しょぞくし、片山かたやま内閣ないかく国務大臣こくむだいじん初代しょだい労働ろうどう大臣だいじん歴任れきにんした。小説しょうせつとしての筆名ひつめいは「べいくぼ太刀だちゆう」がある。

べいくぼよねくぼ 満亮みつすけみつすけ
生年月日せいねんがっぴ 1888ねん9月16にち
出生しゅっしょう 長野ながのけん塩尻しおじり
ぼつ年月日ねんがっぴ (1951-01-16) 1951ねん1がつ16にち(62さいぼつ
出身しゅっしんこう 旧制きゅうせい東京とうきょう高等こうとう商船しょうせん学校がっこう
げん東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく
ぜんしょく 日本郵船にっぽんゆうせん社員しゃいん
日本にっぽん海員組合かいいんくみあいふく組合くみあいちょう
日本にっぽん労働ろうどう倶楽部くらぶ書記しょきちょう
所属しょぞく政党せいとう社会しゃかい民衆みんしゅうとう→)
社会しゃかい大衆たいしゅうとう→)
勤労きんろう国民党こくみんとう→)
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん社会党しゃかいとう

内閣ないかく 片山かたやま内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1947ねん6がつ10日とおか - 1948ねん3がつ10日とおか

選挙せんきょ 兵庫ひょうごけんだい2
当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん4がつ11にち - 1951ねん1がつ26にち

日本の旗 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
選挙せんきょ 兵庫ひょうごけんだい2
当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1932ねん2がつ21にち - 1942ねん4がつ30にち
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経歴けいれき人物じんぶつ

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ちと初期しょき経歴けいれき

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1888ねん明治めいじ21ねん)9がつ16にち長野ながのけん東筑摩ひがしちくまぐん大門おおかどむらげん塩尻しおじり)に農家のうか二男じなんとしてまれる。父親ちちおや病弱びょうじゃく一家いっか生計せいけい母親ははおやささえたが、べいくぼが17さいとき母親ははおやくなる。べいくぼは、まち医師いしいえみをしながら学資がくし捻出ひねりだし、旧制きゅうせい松本まつもと中学ちゅうがく現在げんざい長野県松本深志高等学校ながのけんまつもとふかしこうとうがっこう)を卒業そつぎょうする。山国やまぐにそだうみあこがれていたこともあり、中学ちゅうがく卒業そつぎょう学資がくし貸与たいよしていた商船しょうせん学校がっこう東京とうきょう高等こうとう商船しょうせん学校がっこうきゅう東京商船大学とうきょうしょうせんだいがく現在げんざい東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく)に入学にゅうがくする。1912ねん明治めいじ45ねん)から1913ねん大正たいしょう2ねん)にかけて、練習れんしゅうせん大成たいせいまる乗船じょうせんし1ねん3ヶ月かげつおよ訓練くんれん航海こうかい世界せかい一周いっしゅうする。べいくぼは、この訓練くんれん航海こうかい毎日まいにち航海こうかい日誌にっしつづっていた。これが「大成たいせいまる世界せかい周航しゅうこう」として朝日新聞あさひしんぶん連載れんさいされる[2]。この作品さくひん夏目なつめ漱石そうせき激賞げきしょうけ、「うみのロマンス」[3]改題かいだいされて単行本たんこうぼんとして発売はつばいされたさい漱石そうせき同書どうしょ序文じょぶんせている。「うみのロマンス」はベストセラーとなり、この影響えいきょううみにあこがれる青年せいねん増加ぞうかし、商船しょうせん学校がっこう海軍兵学校かいぐんへいがっこうへの志願しがんしゃ増加ぞうかしたとわれている。

1914ねん大正たいしょう3ねん商船しょうせん学校がっこう実習じっしゅうせいとして日本郵船にっぽんゆうせん鹿島かしままる乗船じょうせんし、欧州おうしゅう航路こうろ経験けいけん。この航海こうかい朝日新聞あさひしんぶん連載れんさいするが、そのなか海員かいいん待遇たいぐう悲惨ひさんとう克明こくめいしるしたため、郵船ゆうせんから忌諱ききされてしまう[4]べいくぼ下船げせん連載れんさいを『ふねひと』として出版しゅっぱんし、そのなか船員せんいん待遇たいぐう改善かいぜんあん付与ふよするとともに、当時とうじ郵船ゆうせん社長しゃちょう近藤こんどう廉平れんぺいての献辞けんじいている。郵船ゆうせんだけでなく大阪おおさか商船しょうせん三井みつい船舶せんぱく東洋とうよう汽船きせん山下やました海運かいうんなどからも危険きけん思想しそうぬしとして忌避きひされることとなり、べいくぼまつ昌洋まさひろぎょうという規模きぼちいさなふね会社かいしゃ就職しゅうしょくし、運転うんてんまた船長せんちょうとして勤務きんむする[5]。その航海こうかい経験けいけん朝日新聞あさひしんぶん連載れんさいし、記事きじをまとめて1916ねん大正たいしょう5ねん)『マドロスの悲哀ひあい』として出版しゅっぱんべいくぼは「悲哀ひあい」に「かなしみ」とルビをり、「船乗ふなのりの悲哀ひあい(かなしみ)」として、粗食そしょくえ、不眠ふみん不休ふきゅうき、さけおんなから絶縁ぜつえんし、陸上りくじょうける享楽きょうらく没交渉ぼっこうしょうとなる、といったことをげている[6]。このほん世界せかい各地かくちおとずれる船員せんいん生活せいかつ実態じったい魅力みりょくつづったものであるが、タイトルの印象いんしょうから告発こくはつしょ誤解ごかいされている。1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると日本にっぽん空前くうぜん海運かいうん景気けいきき、べいくぼも互光商会しょうかいかれ、同社どうしゃシンガポール支店してんちょうとして採用さいようされる。しかし、大戦たいせん不景気ふけいきおとずれると、同社どうしゃ倒産とうさんする。

労働ろうどう運動うんどうから政界せいかい

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失業しつぎょうしたべいくぼは、しばらく神戸こうべ徒食としょく生活せいかつおくるが、海上かいじょう労働ろうどうしゃ待遇たいぐう改善かいぜん要求ようきゅう運動うんどうとうじる。また、草創そうそう労働ろうどうかい船長せんちょうとして国際こくさい航路こうろ活躍かつやくし、文筆ぶんぴつ海運かいうん業界ぎょうかい内幕うちまく批判ひはんしたべいくぼ見逃みのがさなかった。1919ねん大正たいしょう8ねん)ILO(国際こくさい労働ろうどう機関きかん日本にっぽん代表だいひょうとして鈴木すずき文治ぶんじらとともに国際こくさい会議かいぎ出席しゅっせきする。1921ねん大正たいしょう10ねん日本にっぽん海員かいいん組合くみあい組合くみあいちょう楢崎ならさきいの太郎たろうにより、組合くみあい機関きかん海員かいいん」の編集へんしゅう部長ぶちょうむかえられる。以後いご庶務しょむ部長ぶちょう国際こくさい部長ぶちょうて、ふく組合くみあいちょう選出せんしゅつされる。べいくぼ入会にゅうかい海員かいいん組合くみあい歓迎かんげいされ、楢崎ならさき組合くみあいちょうをはじめ、べいくぼたいしては敬意けいいはらい「さん」づけでんだという。また、べいくぼ期待きたいこたえ、組合くみあい関係かんけいする対外たいがいてき交渉こうしょういちけた。べいくぼそう同盟どうめい松岡まつおか駒吉こまきちたいして労働ろうどう組合くみあい運動うんどう一本いっぽん提唱ていしょうし、日本にっぽん労働ろうどう倶楽部くらぶとして大同団結だいどうだんけつ実現じつげんした。べいくぼ書記しょきちょう選出せんしゅつされる。日本にっぽん労働ろうどう倶楽部くらぶは、日本にっぽん労働ろうどう組合くみあい会議かいぎとなるが、1940ねん昭和しょうわ15ねん)に解散かいさんめいぜられるまでべいくぼ書記しょきちょうとして活躍かつやくした。

国際こくさい労働ろうどう運動うんどうでは、1928ねん昭和しょうわ3ねんだい11かい国際こくさい労働ろうどう会議かいぎ日本にっぽん代表だいひょうとして出席しゅっせきする。べいくぼは、なが船員せんいん生活せいかつつうじて英語えいご堪能かんのうであり、通訳つうやくなしで各国かっこく代表だいひょうわたうことができた。ジュネーヴひらかれた労働ろうどう会議かいぎ議長ぎちょうアルベール・トーマから記念きねん開会かいかいげるづち贈呈ぞうていされたが、このづちきざまれた「なんじ平和へいわほっすれば正義せいぎたがやせ」というめいのちこのんで揮毫きごうした。

1928ねん昭和しょうわ3ねん日本にっぽん最初さいしょ普通ふつう選挙せんきょとなっただい16かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょきゅう兵庫ひょうご2より社会しゃかい民衆みんしゅうとうから立候補りっこうほする。社会しゃかい民衆みんしゅうとうなどの無産むさん政党せいとうからは、べいくぼなど82めい候補者こうほしゃ立候補りっこうほしたが、当選とうせんしたのはわずか8めいで、べいくぼ落選らくせんした。1930ねん昭和しょうわ5ねんだい17かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょにも立候補りっこうほしたが落選らくせん1932ねん昭和しょうわ7ねんだい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、ぜん2かい選挙せんきょ無産むさん政党せいとう分立ぶんりつし、たがいのひょううば結果けっかになった反省はんせいって、候補者こうほしゃを30めい絞込しぼりこみ、社会しゃかい民衆みんしゅうとう労農ろうのう大衆たいしゅうとうは、合同ごうどう社会しゃかい大衆たいしゅうとう結成けっせいした。この選挙せんきょべいくぼはつ当選とうせんし、社会しゃかい大衆たいしゅうとうは37めい当選とうせんしゃ獲得かくとくした。1940ねん昭和しょうわ15ねん2がつ2にち衆議院しゅうぎいんにおいて、斎藤さいとう隆夫たかおおこなった反軍はんぐん演説えんぜつ斎藤さいとう除名じょめい契機けいきべいくぼ安部あべ磯雄いそお片山かたやまあきら西尾にしお末広すえひろ水谷みずたに長三郎ちょうさぶろうらは、勤労きんろう国民党こくみんとう結成けっせいするが、内務省ないむしょうから結社けっしゃ禁止きんし処分しょぶんける。1942ねん昭和しょうわ17ねん)「翼賛よくさん選挙せんきょ」として悪名あくめいたかだい21かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ推薦すいせん立候補りっこうほ落選らくせん余儀よぎなくされる。

初代しょだい労働ろうどう大臣だいじん

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1945ねん昭和しょうわ20ねん終戦しゅうせんむかえると、べいくぼ海員かいいん組合くみあい再建さいけん着手ちゃくしゅし、全日本ぜんにほん海員かいいん組合くみあい結成けっせいする。また、戦後せんごきゅう無産むさんとう勢力せいりょく糾合きゅうごうした日本にっぽん社会党しゃかいとう結成けっせい参加さんかする。しかし、社会党しゃかいとう当初とうしょから左右さゆう両派りょうは対立たいりつはげしく、べいくぼは、水谷みずたに長三郎ちょうさぶろう河野こうのひそからと中間なかま位置いち調停ちょうていやくてっする。1947ねん昭和しょうわ22ねんだい23かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ社会党しゃかいとうだいいちとうとなり、社会党しゃかいとう民主党みんしゅとう国民こくみん協同きょうどうとうさんとう連立れんりつによる片山かたやま内閣ないかく成立せいりつすると、べいくぼ無任所むにんしょ国務大臣こくむだいじんとして入閣にゅうかくする。さらに同年どうねん9月1にち労働省ろうどうしょう新設しんせつされると初代しょだい労働ろうどう大臣だいじん就任しゅうにんする。べいくぼ閣僚かくりょうとなっても、公用こうようしゃもちいることもなく、友人ゆうじんひらいた就任しゅうにんいわいには、いちしょう徳利とっくりをぶらげて電車でんしゃってかけつけたというエピソードがられるほど、金銭きんせんめんでは恬淡てんたんとし清廉せいれんであった。しかし、労相ろうしょうとして当時とうじ強力きょうりょくであった産別さんべつ会議かいぎ中心ちゅうしんとする労働ろうどう攻勢こうせい対処たいしょせざるをなかったのは、みずからも労働ろうどう運動うんどういたには皮肉ひにくであった。

片山かたやま内閣ないかく社会党しゃかいとう左派さは野党やとうによって、補正ほせい予算よさん否決ひけつをきっかけにたおれ、社会党しゃかいとう左右さゆう両派りょうは対立たいりつ激化げきか一途いっとをたどる。1950ねん昭和しょうわ25ねん)に分裂ぶんれつするとべいくぼ三宅みやけ正一しょういちとともに両派りょうは調停ちょうていつとめたが、不首尾ふしゅびわった。べいくぼ浅沼あさぬま稲次郎いねじろうとともに統一とういつ懇談こんだんかい結成けっせいし、一時いちじてき統一とういつ成功せいこうするかにえたが、1951ねん昭和しょうわ26ねんサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくをめぐり、左右さゆう両派りょうはふたた対立たいりつし、社会党しゃかいとう左右さゆう両派りょうは分裂ぶんれつする。同年どうねん1がつ26にち失意しついのうちに脳溢血のういっけつのため死去しきょ[7]。69さい墓地ぼち多磨たま霊園れいえんにある[8]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 衆議院しゅうぎいんだいななじゅう一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院しゅうぎいん公報こうほう附録ふろく〉、1937ねん昭和しょうわ12ねん)、6ぺーじ
  2. ^ 東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1912ねん7がつ12にち~1913ねん11月28にち
  3. ^ べいくぼ太刀だちつよしちょうみのロマンス』まことぶんどう書店しょてん 大正たいしょう3 2022ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  4. ^ べいくぼ太刀だちゆうふねひと』(まことぶんどう書店しょてん中興ちゅうこうかん書店しょてん、1914)、387ぺーじ. 2022ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  5. ^ 顧問こもんまいくぼ満亮みつすけ追悼ついとうろく』(日本にっぽん海員かいいんわきずみかい、1951)、79ぺーじ
  6. ^ べいくぼ太刀だちゆう『マドロスの悲哀ひあい』(まことぶんどう書店しょてん中興ちゅうこうかん書店しょてん、1916)、6ぺーじ
  7. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)31ぺーじ
  8. ^ 日本語にほんご べいくぼ満亮みつすけ”. 2013ねん12月28にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
  労働ろうどう大臣だいじん
初代しょだい:1947ねん - 1948ねん
次代じだい
加藤かとうかんじゅう