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芋川椋三玄関番の巻 - Wikipedia

芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき

1917ねん公開こうかいされた日本にっぽんのアニメーション映画えいが

芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき』(いもかわむくぞうげんかんばんのまき)とは1917ねん4がつ公開こうかいされたとされる日本にっぽん国産こくさん最初さいしょアニメーション映画えいがである。資料しりょうによっては『芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき』となっている場合ばあいもある[1]

芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき
監督かんとく 下川しもかわ凹天
製作せいさく 下川しもかわ凹天
製作せいさく会社かいしゃ 天然色てんねんしょく活動かつどう写真しゃしん
配給はいきゅう 天然色てんねんしょく活動かつどう写真しゃしん
公開こうかい 日本の旗 1917ねん4がつ?
上映じょうえい時間じかん 不明ふめい
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
製作せいさく 不明ふめい
興行こうぎょう収入しゅうにゅう 不明ふめい
前作ぜんさく 凸坊でこぼうしん畫帖がじょう 名案めいあん失敗しっぱい1917ねん
つぎさく 茶目ちゃめぼうしん畫帖がじょう のみ夫婦ふうふ仕返しかえしのまき1917ねん
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作者さくしゃ下川しもかわ凹天(しもかわ へこてん・おうてん)。

作品さくひん内容ないよう

編集へんしゅう

資料しりょうはほとんどため、ストーリーの内容ないよう本編ほんぺん時間じかんなどまった不明ふめい。フィルムは21世紀せいき現在げんざいでも現存げんそん確認かくにんされていない。

映画えいが会社かいしゃわたなん上映じょうえいされたが、うごきがざつ作者さくしゃ下川しもかわですら満足まんぞく出来でき作品さくひんとはならなかったといわれている。[よう出典しゅってん]

芋川いもかわむくさん(いもかわむくぞう)というのは当時とうじ下川しもかわ漫画まんがとしていていたキャラクターの一人ひとりであり、それを主人公しゅじんこうにしたのはかれえがきやすかったためだとわれている。

動画どうが技法ぎほうとして黒板こくばんにチョークでひとつずつき、うごかすとき部分ぶぶんだけを移動いどうさせてえがき、移動いどうまえ部分ぶぶんしていくという方法ほうほう使つかったというせつ背景はいけい印刷いんさつした白紙はくし使つかい、人物じんぶつ重複じゅうふくするところをしろ絵具えのぐりつぶすという方法ほうほう使つかったというせつがあるが、現在げんざいフィルム・写真しゃしんなどの記録きろく一切いっさいのこっていないためくわしい技法ぎほうおよ内容ないよう不明ふめいである。ただし伝聞でんぶん資料しりょうなどによると、主人公しゅじんこう芋川いもかわむくさん中心ちゅうしんとする、たけこつながらもユーモラスなものだったといわれている。

日本にっぽんはつであることにかんしての議論ぎろん

編集へんしゅう

ほん作品さくひん劇場げきじょう公開こうかいされた日本にっぽん制作せいさくのアニメ映画えいがとしてはもっとふるいものであるとわれてきたが、確実かくじつ証拠しょうこ発見はっけんされていない。日本にっぽんはつとされてきたのは以下いかの2つの理由りゆうによる[2][3]

  • 雑誌ざっし「キネマ・レコード」の1917ねん7がつごう記事きじ和製わせいカートン、コメディをる」において、てんかつ最初さいしょ作品さくひんキネマ倶楽部くらぶにて1917ねん1がつ上場じょうじょう公開こうかい)したという記述きじゅつがあること
  • 雑誌ざっし映画えいが評論ひょうろん」1934ねん7がつごう掲載けいさいされた下川しもかわ凹天の回想かいそう記事きじ日本にっぽん最初さいしょ漫畫まんが映畫えいが製作せいさくおも」において、最初さいしょ制作せいさくした作品さくひんが『芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき』であるとべていること[4]

しかし、当時とうじ雑誌ざっし掲載けいさいされている1917ねん1がつ劇場げきじょう上映じょうえい作品さくひんリストにほん作品さくひん名前なまえ存在そんざいしないこと、作品さくひんそのものについての資料しりょうのこっていないことなどから曖昧あいまいなものとなっている。

ただ、下川しもかわ凹天の『凸坊でこぼうしん畫帖がじょう 名案めいあん失敗しっぱい』(1917ねん2がつ公開こうかい)が「だい線畫せんがトリツク(= 2つのアニメ作品さくひん)」とする記事きじ当時とうじ雑誌ざっしのこっているため、すくなくともそれ以前いぜんには最初さいしょのアニメ作品さくひん上映じょうえいされていただろうことは推測すいそくされる。

2013ねん6がつ公開こうかいされた研究けんきゅうメモ[5]では、

  • 雑誌ざっし「キネマ・レコード」の1917ねん5がつごうの「フイルム見物けんぶつ よんがつまき」という4がつ著者ちょしゃ劇場げきじょうまわって作品さくひん紹介しょうかいする記事きじにおいて、キネマ倶楽部くらぶ上映じょうえいされた「芋川いもかわむくさん 玄關番げんかんばんまき」が「てんかつだいさん線畫せんがトリツクだ」とする記述きじゅつがある
  • 1934ねん下川しもかわ凹天の回想かいそう記事きじには、作品さくひん制作せいさく当時とうじ月刊げっかん映画えいが雑誌ざっしが1つしかないと記述きじゅつするなど事実じじつ誤認ごにんられる[4]

などの理由りゆうから『芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき』はすくなくとも1917ねん1がつ公開こうかいされた作品さくひんではなく(つまり日本にっぽんはつ劇場げきじょう公開こうかい作品さくひんではない)、最新さいしん研究けんきゅうから1がつ上映じょうえいされた国産こくさんはつのアニメ作品さくひんは『凸坊でこぼうしん畫帖がじょう いもすけ猪狩いかりまき』と推測すいそくされている[6][7]。そして、『芋川いもかわむくさん玄関番げんかんばんまき』は時期じきちかいことから1917ねん4がつ28にち公開こうかいされた『茶目ちゃめぼうしん畫帖がじょう のみ夫婦ふうふ仕返しかえしのまき』とおな作品さくひんであるとする指摘してきもある。

また、ほん作品さくひん最初さいしょ作品さくひんとしながらも、『凸坊でこぼうしん畫帖がじょう 名案めいあん失敗しっぱい』を最初さいしょ作品さくひんとする可能かのうせい指摘してきしている書籍しょせきもある[8]

なお、ほん作品さくひんより10ねんまえ明治めいじ末期まっき制作せいさくされた可能かのうせいのあるアニメーションフィルム『活動かつどう写真しゃしん』が発見はっけんされているため、日本にっぽん最古さいこ国産こくさんアニメーションという場合ばあいには1917ねんほん作品さくひん該当がいとうしない[9]。ただし、このフィルムは個人こじん観賞かんしょうようものとみられ、3びょう程度ていどしかない。

製作せいさく背景はいけい

編集へんしゅう

海外かいがいより輸入ゆにゅうされたアニメーション映画えいが[10]刺激しげきけた日本にっぽん映画えいが会社かいしゃはその研究けんきゅうし、1916ねんてんかつこと天然色てんねんしょく活動かつどう写真しゃしん株式会社かぶしきがいしゃ漫画まんが下川しもかわ凹夫をむかれて研究けんきゅう開始かいしする。また、独自どくじにアニメーションの製作せいさく目指めざしていた洋画ようが北山きたやま清太郎せいたろう日活にっかつ向島むこうじま撮影さつえいしょ1917ねん1がつ参加さんかし、アニメ製作せいさく開始かいしする。また、それらのうごきを察知さっちしたとおもわれる小林こばやし商会しょうかいは、1917ねん2がつまで新聞しんぶん漫画まんがえがいていた漫画まんが幸内こうない純一じゅんいつむかれる[11]。なお、下川しもかわ幸内こうないはともに日本にっぽん近代きんだい漫画まんがちちである北澤きたざわ楽天らくてん弟子でしである。

この3しゃによる競争きょうそうとなったが、1917ねん1がつてんかつ下川しもかわ凹天の作品さくひん公開こうかいし、それが国産こくさんアニメ映画えいがだい1ごうとなった。下川しもかわつづいて3作品さくひんほど公開こうかい。そして、同年どうねん5がつ20日はつかに、日活にっかつ北山きたやま清太郎せいたろうの『さるかに合戦かっせん』を公開こうかい小林こばやし商会しょうかい同年どうねん6がつ30にち幸内こうない純一じゅんいつの『はなわ凹内名刀めいとう新刀しんとうこれかん(なまくらがたな』を公開こうかいした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ これはふる作品さくひんのため、資料しりょう記述きじゅつがまちまちなため。
  2. ^ 津堅つけん信之のぶゆき 2002.
  3. ^ 津堅つけん信之のぶゆき 2007, pp. 97–100.
  4. ^ a b 下川しもかわ凹天 (1934)ほん作品さくひんについては「だいいちかい作品さくひん芋川いもかわむくさん玄關番げんかんばんまきほんはキネマ倶楽部くらぶ封切ふうきりされました」と言及げんきゅう
  5. ^ Frederick S. Litten 2013
  6. ^ 渡辺わたなべやすし大徳だいとく哲雄てつお木村きむらさとし哉 (2017ねん1がつ1にち). “国産こくさん商業しょうぎょうアニメーション映画えいがだいいちごうかんする調査ちょうさレポート 2017/01/01 中間ちゅうかん報告ほうこく”. 2018ねん2がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん1がつ30にち閲覧えつらん
  7. ^ 渡辺わたなべやすし大徳だいとく哲雄てつお木村きむらさとし哉 (2020ねん4がつ8にち). “国産こくさん商業しょうぎょうアニメーション映画えいがだいいちごうかんする調査ちょうさレポート 2020/04/08”. 2022ねん3がつ18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん4がつ14にち閲覧えつらん
  8. ^ 山口やまぐち且訓, 渡辺わたなべやすし 1977, p. 192.
  9. ^ 松本まつもと夏樹なつき, 津堅つけん信之のぶゆき 2006.
  10. ^ 1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ東京とうきょう映画えいがかん公開こうかいされたエミール・コールによる1911ねん作品さくひんニッパールの変形へんけい』が日本にっぽん最初さいしょ封切ふうぎられたアニメーション映画えいがといわれる。その欧米おうべいのアニメーション映画えいが多数たすう輸入ゆにゅうされ、そのおおくは『凸坊でこぼうしん畫帖がじょう ○○のまきとう邦訳ほうやくされた。
  11. ^ 北山きたやま清太郎せいたろう幸内こうない純一じゅんいつ製作せいさくはじめた経緯けいい時期じきについては議論ぎろんがあるが、詳細しょうさいはそれぞれの項目こうもく参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 津堅つけん信之のぶゆき日本にっぽん初期しょきアニメーション作家さっか3にん業績ぎょうせきかんする研究けんきゅう」『アニメーション研究けんきゅうだい3かん2A、日本にっぽんアニメーション学会がっかい、2002ねん、7-20ぺーじNAID 40005244418 
  • 津堅つけん信之のぶゆき日本にっぽんはつのアニメーション作家さっか 北山きたやま清太郎せいたろう臨川りんせん書店しょてん、2007ねん 
  • 松本まつもと夏樹なつき, 津堅つけん信之のぶゆき国産こくさん最古さいこかんがえられるアニメーションフィルムの発見はっけんについて」『映像えいぞうがくだい76かん日本にっぽん映像えいぞう学会がっかい、2006ねん、86-105ぺーじNAID 40007340967 
  • 山口やまぐち且訓, 渡辺わたなべやすし ちょ、プラネット へん日本にっぽんアニメーション映画えいがゆうぶんしゃ、1977ねん 
  • 「フィルム・レコード」『キネマ・レコード』だい5かんだい45ごう、キネマ・レコードしゃ、1917ねん3がつ10日とおか、140ぺーじ 
  • 田村たむら「フイルム見物けんぶつ よんがつまき」『キネマ・レコード』だい5かんだい47ごう、キネマ・レコードしゃ、1917ねん5がつ15にち、239-240ぺーじ 
  • 和製わせいカートン、コメディをる」『キネマ・レコード』だい5かんだい49ごう、キネマ・レコードしゃ、1917ねん7がつ15にち、339ぺーじ 
  • 下川しもかわ凹天「日本にっぽん最初さいしょ漫畫まんが映畫えいが製作せいさくおも」『映畫えいが評論ひょうろんだい7ごう映畫えいが評論ひょうろんしゃ、1934ねん、39ぺーじ 
  • Frederick S. Litten (2013ねん6がつ1にち). “Some remarks on the first Japanese animation films in 1917”. 2013ねん6がつ30にち閲覧えつらん
  • 渡辺わたなべやすし大徳だいとく哲雄てつお木村きむらさとし哉 (2017ねん1がつ1にち). “国産こくさん商業しょうぎょうアニメーション映画えいがだいいちごうかんする調査ちょうさレポート”. 2017ねん3がつ5にち閲覧えつらん