藤原ふじわら 遠とお量りょう(ふじわら の とおかず)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきの貴族きぞく。藤原ふじわら北きた家か、右大臣うだいじん・藤原ふじわら師し輔の四よん男なん。官位かんいは従したがえ四よん位い上じょう・大蔵おおくら卿きょう。
天徳てんとく4年ねん(960年ねん)正月しょうがつに遠とお量りょうは従したがえ五ご位い上じょうに叙じょせられたが、同時どうじに伊い尹いん・兼けん通どおり・兼けん家か・忠君ちゅうくんら兄弟きょうだいも叙位じょいを受うける。兄弟きょうだい5人にんが同時どうじに叙位じょいを受うけることは前代未聞ぜんだいみもんであり、父ちちの右大臣うだいじん・藤原ふじわら師し輔は「若わか是ぜ栄華えいが之の極ごく哉」と歓喜かんきしている[1]。その後ご、右みぎ馬頭めずを経へて、康かん保たもつ4年ねん(967年ねん)には冷泉れいせん天皇てんのうの五ご位い蔵人くろうどに補ほせられた。
備前びぜん守もりを経へて、円融えんゆう朝ちょうの天てん禄ろく3年ねん12月(973年ねん2月がつ)には昇殿しょうでんを聴される。その後ごの除目じもくで大蔵おおくら卿きょうに任にんぜられ、天てん禄ろく4年ねん(973年ねん)3月がつの石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう臨時りんじ祭さいでは祭まつり使しを務つとめた。また、宮内卿くないきょうも務つとめたという[要よう出典しゅってん]。極きょく位いは従したがえ四よん位い上じょうであった。
注記ちゅうきのないものは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。