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西琳寺 - Wikipedia

西琳寺さいりんじ

大阪おおさか羽曳野はびきのにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう寺院じいん

西琳寺さいりんじ(さいりんじ)は、大阪おおさか羽曳野はびきのにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう寺院じいん

西琳寺さいりんじ

本堂ほんどう
所在地しょざいち 大阪おおさか羽曳野はびきの古市ふるいち2‐3‐2
位置いち 北緯ほくい3433ふん11.41びょう 東経とうけい13536ふん47.63びょう / 北緯ほくい34.5531694 東経とうけい135.6132306 / 34.5531694; 135.6132306座標ざひょう: 北緯ほくい3433ふん11.41びょう 東経とうけい13536ふん47.63びょう / 北緯ほくい34.5531694 東経とうけい135.6132306 / 34.5531694; 135.6132306
山号さんごう 向原むかいのはるさん
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん 7世紀せいき前半ぜんはん
開基かいき 西にしあや
札所ふだしょとう 河内かわうち飛鳥あすか古寺ふるでら霊場れいじょうだい7ばん
聖徳太子しょうとくたいしれいあとだい4ばん
河内かわうち飛鳥あすか七福神しちふくじん恵比寿えびす
法人ほうじん番号ばんごう 4120105005044 ウィキデータを編集
西琳寺の位置(大阪府内)
西琳寺
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とうこころいしずえ

西琳寺さいりんじは、7世紀せいき前半ぜんはんかんこうみかど子孫しそんである渡来とらいじん王仁わに後裔こうえいである西にしあやにより創建そうけんされたとみられる[1][2]正確せいかくには、『西琳寺さいりんじぶんなが注記ちゅうき』によれば、志貴しきしま天皇てんのう20ねんおのれとし9がつ7にちに、大山上おおやまかみしょだいおもね斯高くんぶんくびおもねこころざしだか)、そのささえ弥高やたかくびおもね斯高くんあるいはささえ弥高やたかくび栴檀せんだんだかくび土師はじ長兄ちょうけいだかれん羊子ようこくびかんかいくび創建そうけんしたという。だい山上さんじょう大化たいか5ねん649ねん)に制定せいていされたじゅうきゅうかい官位かんいひとつで、のちのせいろく上下じょうげあたりに相当そうとうし、中流ちゅうりゅうかんじんである。「おのれとし」は推古天皇すいこてんのう27ねん619ねん)とかんがえられており、畿内きないでもはや時期じき寺院じいんになる[3][4]創建そうけん現在げんざいよりも一回ひとまわおおきいてらいき東西とうざい109m、南北なんぼく218m)をゆうし、難波なんばみや飛鳥あすかむす日本にっぽん最古さいこ街道かいどうである竹内たけうち街道かいどうめんしていた。境内けいだいにわかれたたかさ2mちかとう礎石そせき重量じゅうりょうは27tをえ、とういしずえとしては飛鳥あすか時代じだい最大さいだいのものである。創建そうけん伽藍がらんは、とうひがし金堂こんどう西にしはいする法起寺ほうきじしき伽藍がらん配置はいちとみられる[5]境内けいだいからは創建そうけん建物たてもの屋根やねかざっていた鴟尾しび(しび)が出土しゅつどしている[2]

てら歴史れきしかんしては『西琳寺さいりんじぶんなが注記ちゅうき』(いちめい西琳寺さいりんじ縁起えんぎ』、『つづけぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう)という文献ぶんけんがある。これは、鎌倉かまくら時代ときよぶんひさし8ねん1271ねん)、惣持そうじ叡尊えいぞんおいとされる[6])というそう当時とうじてらのこっていた古文書こもんじょ金石かねいしあやなどをもとに編纂へんさんしたものである。同書どうしょところ引の「天平てんぴょうじゅうねんじゅうがつみそ日記にっき」(天平てんぺい15ねん743ねん)という記録きろくは、西琳寺さいりんじ創建そうけん欽明天皇てんのうおつねん(欽明20ねん559ねん)のこととするが、上田うえだあつし境内けいだい出土しゅつどかわら型式けいしきへんねんとうから、干支えと一巡いちじゅんした60ねん推古天皇すいこてんのうおつねん(欽明27ねん619ねん)を実際じっさい創建そうけんねんとするせつ[5]。また、笹川ささかわ尚紀なおき西にしあやが欽明天皇てんのうちか氏族しぞくで、欽明天皇てんのう没後ぼつご50ねん前年ぜんねんにあたる推古天皇すいこてんのうおつねんに欽明天皇てんのう追善ついぜんのために創建そうけんしたとするせつ[6]

安土あづち桃山ももやま時代じだい兵火へいか明治めいじ時代じだい廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより中世ちゅうせい以前いぜん堂塔どうとうほぼすべてを喪失そうしつした。

  • 本堂ほんどう
  • 西門にしもん
  • 五輪ごりんとう

文化財ぶんかざい

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大阪おおさか指定してい文化財ぶんかざい

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  • 有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 西琳寺さいりんじ石造せきぞう五輪ごりんとう どう跌石1個いっこ石造せきぞうぞうこつ容器ようき1くち)(建造けんぞうぶつ) - 鎌倉かまくら時代じだい後期こうきさく。1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ20日はつか指定してい[7]

羽曳野はびきの指定してい文化財ぶんかざい

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  • 有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 西琳寺さいりんじあと出土しゅつど鴟尾しび考古こうこ資料しりょう) - 7世紀せいき。1996ねん平成へいせい8ねん)11月12にち指定してい[7]

関連かんれん文化財ぶんかざい

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  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう観音堂かんのんどう安置あんち) - くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい彫刻ちょうこく)。長円寺ちょうえんじ羽曳野はびきの古市ふるいち)につたわる、平安へいあん時代じだい初期しょきさくとされる仏像ぶつぞう西琳寺さいりんじからつたわったとするせつがある。1938ねん昭和しょうわ13ねん)8がつ26にち指定してい[8]

所在地しょざいち

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  • 〒583-0852 大阪おおさか羽曳野はびきの古市ふるいち2-3-2

交通こうつうアクセス

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 渡来とらいけい氏族しぞく事典じてん」『歴史れきし読本とくほんだい51かんだい3ごう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2006ねん2がつ、209ぺーじ 
  2. ^ a b 西琳寺さいりんじ羽曳野はびきのサイト)
  3. ^ 寺岡てらおかひろし播磨はりま古代こだい寺院じいんみやつこてら知識ちしき集団しゅうだん 38 : てらてら)」と「知識ちしきてら知識ちしきてら)」― 西琳寺さいりんじ河内かわうち)にみる古代こだい寺院じいん実態じったい ―」」(PDF)『むくげ通信つうしんだい272かん、むくげのかい、2015ねん9がつ27にち 
  4. ^ 荻野おぎのさんなな彦「河内かわうちこく西琳寺さいりんじ縁起えんぎ公刊こうかん」『美術びじゅつ研究けんきゅうだい79ごう、1938ねん7がつ、35-43ぺーじCRID 1050282676656313216NAID 120006481789 
  5. ^ a b 上田うえだあつし河内かわうちかわら氏族しぞく研究けんきゅう関西大学かんさいだいがく 学位がくい論文ろんぶん (文学ぶんがく) 34416おつだい409ごう、2009ねんdoi:10.32286/00000302NAID 500000484276 
  6. ^ a b 笹川ささかわ尚紀なおき「推古あさ修史しゅうしにかんする基礎きそてき考察こうさつ」(初出しょしゅつ:栄原さかえはら永遠えいえんおとこ へん律令りつりょう国家こっか論集ろんしゅう』(はなわ書房しょぼう、2010ねん)/所収しょしゅう:笹川ささかわ日本書紀にほんしょき成立せいりつ攷』(はなわ書房しょぼう、2016ねん
  7. ^ a b 大阪おおさか府内ふない指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんひょう > 羽曳野はびきの (PDF)大阪おおさかホームページ)。
  8. ^ くに指定してい/登録とうろく文化財ぶんかざい羽曳野はびきのホームページ)。

関連かんれん文献ぶんけん

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大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい河内かわうち西琳寺さいりんじ研究けんきゅうだい3ごう大阪おおさか教育きょういく委員いいんかい、1955ねんdoi:10.24484/sitereports.65387 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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