長井ながい 貞さだ頼よりゆき(ながい さだより)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼく朝あさ時代じだいの武将ぶしょう。備後びんご国人くにびと長井ながい氏し4代だい当主とうしゅ。
鎌倉かまくら幕府ばくふに仕つかえていたが、建たて武たけしの新政しんせい後こうは足利尊氏あしかがたかうじに従したがって活動かつどうする。備後びんご国こくの所領しょりょう以外いがいに播磨はりま国こく浦上うらかみ荘そう、越後えちご国こく社しゃ荘そう、出雲いずも国こく来らい次つぎ荘そうの地頭じとう職しょくを得えた。南朝なんちょう:正平しょうへい6年ねん/北朝ほくちょう:観かん応おう2年ねん(1351年ねん)から始はじまる観かん応おうの擾乱じょうらんで備後びんご国内こくないが混乱こんらんすると、備後びんご守護しゅご岩松いわまつ頼よりゆき宥なだめに援軍えんぐんを送おくるなど支援しえんしている。南朝なんちょう:正平しょうへい18年ねん/北朝ほくちょう:貞治さだはる2年ねん(1363年ねん)に宮みや兼けん信しんと共ともに備後びんご宮内くない合戦かっせんで足利あしかが直冬ただふゆ党とうと戦たたかい、討死うちじにした。