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長井貞頼 - Wikipedia

長井ながい さだよりゆき(ながい さだより)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう備後びんご国人くにびと長井ながい4だい当主とうしゅ

 
長井ながいさだよりゆき
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 南朝なんちょう:正平しょうへい18ねん/北朝ほくちょう:貞治さだはる2ねん9がつ20日はつか1363ねん10月27にち[1]
別名べつめい ごうそうたけし
官位かんい 弾正だんじょう蔵人くろうど
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ
主君しゅくん 北条ほうじょうだか足利尊氏あしかがたかうじ義詮よしあきら
氏族しぞく 大江おおえせい長井ながい
父母ちちはは ちち長井ながいよりゆきしゅう はは臼井うすい
貞広さだひろ頼元よりもと
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

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鎌倉かまくら幕府ばくふつかえていたが、たてたけし新政しんせいこう足利尊氏あしかがたかうじしたがって活動かつどうする。備後びんごこく所領しょりょう以外いがい播磨はりまこく浦上うらかみそう越後えちごこくしゃそう出雲いずもこくらいつぎそう地頭じとうしょくた。南朝なんちょう:正平しょうへい6ねん/北朝ほくちょう:かんおう2ねん1351ねん)からはじまるかんおう擾乱じょうらん備後びんご国内こくない混乱こんらんすると、備後びんご守護しゅご岩松いわまつよりゆきなだめ援軍えんぐんおくるなど支援しえんしている。南朝なんちょう正平しょうへい18ねん/北朝ほくちょう貞治さだはる2ねん1363ねん)にみやけんしんとも備後びんご宮内くない合戦かっせん足利あしかが直冬ただふゆとうたたかい、討死うちじにした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 宇部うべ 通史つうしへん宇部うべ編纂へんさん委員いいんかい、1966ねん、p.262。

参考さんこう資料しりょう

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  • 広島ひろしまけんへん広島ひろしまけん 中世ちゅうせい 通史つうしII』広島ひろしまけん、1984ねん

関連かんれん項目こうもく

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