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長井貞広 - Wikipedia

長井ながい貞広さだひろ

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長井ながい 貞広さだひろ(ながい さだひろ)は、大江おおえせい長井ながい人物じんぶつ鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい一人ひとりずついる。

長井ながい貞広さだひろ (鎌倉かまくら時代じだい)

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長井ながい 貞広さだひろ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ
生誕せいたん ぶんひさし8ねん1271ねん
死没しぼつ げんとおる3ねん6月13にち1323ねん7がつ16にち
改名かいめい 貞広さだひろみち衍?(法名ほうみょうについては特記とっき事項じこう参照さんしょう
官位かんい 左近さこん将監しょうげん[1] したがえ[1]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ評定ひょうじょうしゅ[1]政所まんどころ執事しつじ補佐ほさひがし使
主君しゅくん 北条ほうじょう貞時さだとき北条ほうじょうだか
氏族しぞく 大江おおえせい長井ながい
父母ちちはは ちち長井ながいしゅう[1]
ははしょう
兄弟きょうだい そうしげる貞広さだひろおんな斯波しばはじめつまおんな
つま しょう
こうやすし甲斐かいまもるしたがえ[1]
特記とっき
事項じこう
法名ほうみょうについては、当時とうじ史料しりょうで「どう衍」、「どう衙」、「どうじゅん」、「どうやや」、「ほらふち」など表記ひょうき一定いっていしていない。
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長井ながい 貞広さだひろ(ながい さだひろ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき武将ぶしょう長井ながいしゅう長井ながいそうしげるおとうと[1]

ぶんひさし8ねん1271ねん)にまれ[2]、のち元服げんぷくとき執権しっけん北条ほうじょう貞時さだときよりへんいみなけて貞広さだひろ名乗なのる。のべけい元年がんねん1308ねん)9がつ[3]どう3ねん1310ねん)10がつ[4]ひがし使として上洛じょうらく、この段階だんかいではすで出家しゅっけしていたようである。正和しょうわ3ねん1314ねん)には政所まんどころ執事しつじ補佐ほさとなる[5]げんとおる3ねん1323ねん6月13にち、53さい死去しきょ[6]

尊卑そんぴぶん』に「だま風雅ふうがとう作者さくしゃ」とあり、歌人かじんでもあったようである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 尊卑そんぴぶん』、『系図けいず纂要』。
  2. ^ ぼつ年齢ねんれいからの逆算ぎゃくさんによる。
  3. ^ 歴代れきだい皇紀こうき徳治とくじ3ねん同年どうねん)9がつ3にちじょうひがし使長井ながい備前びぜん左近さこん大夫たいふ入道にゅうどうほらふち」、『つづけしょうのべけい元年がんねん9がつ2にちじょう関東かんとう使左近さこん大夫たいふ入道にゅうどうどうじゅん」。法名ほうみょうちがいはあるが、細川ほそかわ重男しげおはいずれも左近さこんはたかんであった貞広さだひろとしている(細川ほそかわ、2000ねん巻末かんまつ基礎きそひょうP.93-94)。
  4. ^ 鎌倉かまくらだい日記にっき』(生田いくたよし喜蔵よしぞうしょ蔵本ぞうほん裏書うらがきのべけい3ねんじょう長井ながい左近さこん大夫たいふ入道にゅうどう」、『もととく二年三月日吉社並叡山行幸記』(所収しょしゅう:『ぐんしょ類従るいじゅう帝王ていおう)「長井ながい左近さこん大夫たいふ入道にゅうどうやや」。法名ほうみょうことなっているが、細川ほそかわ重男しげおはその通称つうしょうから貞広さだひろ比定ひていしている(細川ほそかわ、2000ねん巻末かんまつ基礎きそひょうP.93-94)。
  5. ^ 武家ぶけ年代ねんだい正和しょうわ3ねんじょう長井ながい備前びぜん左近さこん大夫たいふ将監しょうげん入道にゅうどうどうあいふくくだりあかつき」。法名ほうみょうことなっているが、細川ほそかわ重男しげおはその通称つうしょうから貞広さだひろ比定ひていしている(細川ほそかわ、2000ねん巻末かんまつ基礎きそひょうP.93-94)。
  6. ^ 常楽じょうらく同日どうじつじょうに「長井ながいすすむかん入道にゅうどう他界たかいじゅうさんみち」とあり、細川ほそかわ重男しげおはこれを貞広さだひろ比定ひていしている(細川ほそかわ、2000ねん巻末かんまつ基礎きそひょうP.93-94)。

参考さんこう文献ぶんけん

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長井ながい貞広さだひろ (南北なんぼくあさ時代じだい)

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長井ながい貞広さだひろ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 天授てんじゅ元年がんねん/永和えいわ元年がんねん8がつ29にち1375ねん10月3にち
別名べつめい 出羽でわ掃部すけ孫太郎まごたろう頼元よりもとごうきよしおもね
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ
氏族しぞく 大江おおえせい長井ながい
父母ちちはは ちち長井ながいさだよりゆき
兄弟きょうだい 貞広さだひろ頼元よりもと
養子ようしこう
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長井ながい 貞広さだひろ(ながい さだひろ)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう備後びんご国人くにびと長井ながい5代目だいめ当主とうしゅ長井ながいさだよりゆき

北朝ほくちょう九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ了俊りょうしゅんしたが九州きゅうしゅう下向げこう九州きゅうしゅう転戦てんせんして南朝なんちょう勢力せいりょくたたかったが、水島みずしまへん今川いまがわぐん撤退てったいした最中さいちゅう南朝なんちょう反撃はんげきけ、筑後ちくご山崎やまざき戦死せんしした。建徳けんとく2ねん/おうやす4ねん1371ねん)に安芸あき国人くにびと毛利もうり元春もとはるなんこう養子ようしむかえていたため、長井ながい家督かとくこう継承けいしょうした。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 広島ひろしまけんへん広島ひろしまけん 中世ちゅうせい 通史つうしII』広島ひろしまけん、1984ねん