長谷部はせべ氏し(はせべうじ)は、日本にっぽんの古代こだい氏族しぞくのひとつである。
雄略天皇ゆうりゃくてんのうの部民ぶみんとして設定せっていされた御名ぎょめい入部にゅうぶである長谷部はせべが起源きげんとされる。長谷部はせべは、雄略天皇ゆうりゃくてんのうの皇居こうきょである長谷ながたに朝倉あさくら宮みやにちなみ、雄略天皇ゆうりゃくてんのうの生活せいかつの資し用ように当あてられた料地りょうちの管理かんりや皇居こうきょに出仕しゅっしして警備けいび、雑用ざつようなどの任にんに服ふくしていた人々ひとびとと考かんがえられている。
長谷部はせべ氏しの人物じんぶつとしては、源平げんぺい時代じだいから鎌倉かまくら時代じだいの武士ぶしである長谷部はせべ信連しんれんが著名ちょめいである。信連しんれんは久安ひさやす3年ねん(1147年ねん)1月がつ16日にちに遠江とおとうみ国こく長ちょう邑(現げん静岡しずおか県けん浜松はままつ市し)で、長谷部はせべ為ため連れんの子ことして生うまれ、その後ごに大和やまと国こくへ移住いじゅうし、近衛天皇このえてんのう・後白河天皇ごしらかわてんのうに仕つかえ左ひだり兵衛ひょうえ尉じょうに任にんぜられた人物じんぶつである。長氏ながうじの始祖しそにあたる[2]。
長谷部はせべ信連しんれんの子こ、良りょう連れんは備後びんご国こく上下じょうげの地頭じとう職しょくとして土着どちゃくし、応仁おうにん元年がんねん(1467年ねん)の応仁おうにんの乱らんで長谷部はせべ宗はじめ連れんは山名やまな宗全そうぜんの西にし軍ぐんに属ぞくし、その子こ種たね連れんは永えい正ただし8年ねん(1511年ねん)の船岡ふなおか山さんの戦たたかいで討死うちじにした。
戦国せんごく時代じだいに入はいり毛利もうり氏しの影響えいきょう力りょくが大おおきくなってくると、当主とうしゅの長谷部はせべ元信もとのぶは毛利もうり氏しに従したがう。天文てんもん24年ねん(1555年ねん)の厳島いつくしまの戦たたかいに長谷部はせべ元信もとのぶ・元もと連れん父子ふしも参戦さんせんし、戦功せんこうを挙あげている[3]。
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