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高島城 - Wikipedia

高島たかしましろ

長野ながのけん諏訪すわ高島たかしまにあった日本にっぽんしろ

高島たかしましろ(たかしまじょう)は、信濃しなのこく諏訪すわぐん高島たかしま[1]げん長野ながのけん諏訪すわ高島たかしま)にあった日本にっぽんしろ諏訪すわ浮城うきしろ島崎しまざきしろ諏訪すわ高島たかしまじょうともばれる。

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高島たかしましろ
長野ながのけん
石垣、復興隅櫓、復興天守
石垣いしがき復興ふっこうすみ復興ふっこう天守てんしゅ
別名べつめい 諏訪すわ浮城うきしろ島崎しまざきしろ諏訪すわ高島たかしまじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう 独立どくりつしき望楼ぼうろうがた3じゅう5かい1598ねんちく 現存げんそん
1970ねん RCづくり復興ふっこう
築城ちくじょうぬし 日根野ひねのだかきち
築城ちくじょうねん ぶんろく元年がんねん1592ねん
おも改修かいしゅうしゃ 諏訪すわただし
おも城主じょうしゅ 日根野ひねの諏訪すわ
はいじょうねん 明治めいじ8ねん1875ねん
遺構いこう 石垣いしがきほりもん
指定してい文化財ぶんかざい 諏訪すわ指定してい史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 天守てんしゅもんへい
位置いち 北緯ほくい362ふん23.25びょう 東経とうけい1386ふん43.27びょう / 北緯ほくい36.0397917 東経とうけい138.1120194 / 36.0397917; 138.1120194 (高島たかしましろ)座標ざひょう: 北緯ほくい362ふん23.25びょう 東経とうけい1386ふん43.27びょう / 北緯ほくい36.0397917 東経とうけい138.1120194 / 36.0397917; 138.1120194 (高島たかしましろ)
地図ちず
高島城の位置(長野県内)
高島城
高島たかしましろ
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概要がいよう

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城郭じょうかく形式けいしきれんくるわしき平城ひらじろである。かつては諏訪湖すわこした水城みずきで「諏訪すわ浮城うきしろ(すわのうきしろ)」とばれていたが、江戸えど時代じだいはじめに諏訪湖すわこ干拓かんたくおこなわれ、水城みずき面影おもかげうしなわれた。しかし、浮城うきしろ異名いみょうっていたことから日本にっぽんさんだいみずうみじょうひとつにかぞえられている。

 
高島たかしまじょう本丸ほんまるまるさんまる図解ずかい

日根野ひねのによってそう石垣いしがきみやつこで8むね、6むねもん、3じゅう天守てんしゅなどがならべられ近世きんせい城郭じょうかく体裁ていさいととのえられたが、軟弱なんじゃく地盤じばんであったため、木材もくざいいかだじょうみ、そのうえいしむなどの当時とうじ最先端さいせんたん技術ぎじゅつもちいられた。それでも石垣いしがきいたみやすく、度々たびたび補修ほしゅう工事こうじくわえる必要ひつようがあったという。7年間ねんかん短期間たんきかん築城ちくじょうしたため、かなり無理むりをしたらしく、地元じもとでは「過酷かこく労役ろうえきくるしんだ」「石材せきざい確保かくほするため、金子かねこじょう石材せきざいすべしたほか、墓石はかいし石仏いしぼとけもちいられた(転用てんようせき)」などの伝承でんしょうのこる。

高島たかしまじょう茶臼山ちゃうすやまじょう

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中世ちゅうせい諏訪すわぐん領主りょうしゅであった諏訪すわ現在げんざい諏訪すわ高島たかしまじょう北方ほっぽう位置いちする茶臼山ちゃうすざん高島たかしまじょう茶臼山ちゃうすやまじょう)をきずいて居城きょじょうとした。諏訪すわ滅亡めつぼう諏訪すわぐんには武田たけだ譜代ふだい家老がろう板垣いたがきしんかた現在げんざい茅野ちの所在しょざいする上原うえはらしろ配置はいちされ、諏訪すわ郡司ぐんじ郡代ぐんだい)となった。

天文てんもん17ねん1548ねん)には上田うえだげんたたかにおいてしんじかた戦死せんしし、天文てんもん18ねん1549ねん正月しょうがつには長坂ながさかとらぼう諏訪すわ城代じょうだいとなり、高島たかしまじょう入城にゅうじょうした。『こうしろとき』によれば、高島たかしまじょう足軽あしがる大将たいしょう山本やまもと勘助かんすけにより改修かいしゅうされたという。高島たかしまじょう城代じょうだいとらぼうのち吉田よしだ信生のぶお市川いちかわあきらぼうつとめ、天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ21にち長篠ながしのたたかあきらぼう戦死せんしすると、今福いまふく昌和まさかずつとめる。高島たかしまじょう武田たけだによる諏訪すわぐん支配しはい拠点きょてんとなった。

諏訪すわ高島たかしまじょう

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天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ武田たけだ滅亡めつぼう甲斐かいこく信濃しなの諏訪すわぐん織田おだ家臣かしんかわしり秀隆ひでたかりょうし、諏訪すわぐんには秀隆ひでたか家臣かしん弓削ゆげ重蔵しげぞう配置はいちされた。同年どうねん6がつ本能寺ほんのうじへんによる「天正てんしょうみずのえうまらん」ののち諏訪すわぐんりょうした諏訪すわよりゆきただしは、平城ひらじろ金子かねこじょう諏訪すわ中洲なかす)をきずき、あたらしい拠点きょてんとしたが、1590ねん天正てんしょう18ねん)に諏訪すわよりゆきただし武蔵むさしこく奈良梨ならなしてんふうとなり、わって日根野ひねのだかきちが、茶臼山ちゃうすやまにあったきゅう高島たかしまじょう入城にゅうじょうした。

日根野ひねの1592ねんぶんろく元年がんねん)から1598ねん慶長けいちょう3ねん)にかけて、現在げんざいである諏訪すわ湖畔こはん高島たかしまむら新城しんじょうきずいた。そのさい現住げんじゅう村人むらびと退かせ、漁業ぎょぎょうけん賦役ふえき免除めんじょけんなどの特権とっけんあたえるわりに小和田こわだ移転いてんさせた。日根野ひねの織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしした普請ふしん経験けいけんしていたことから、ゆたかけい城郭じょうかくとして築城ちくじょうし、石垣いしがききずいて天守てんしゅげた。同時どうじ上原うえはらしろ周辺しゅうへんにいた商工しょうこう業者ぎょうしゃ移住いじゅうさせ、城下町じょうかまち上諏訪かみすわ宿やど建設けんせつ開始かいしした。

1601ねん慶長けいちょう6ねん日根野ひねの下野げやこく壬生みぶはんてんふうとなり、譜代ふだい大名だいみょう諏訪すわよりゆきすいが2まん7せんせきにゅうふうふたた諏訪すわがこの領主りょうしゅとなり明治維新めいじいしんまでつづくこととなった。江戸えど時代じだい諏訪すわはん政庁せいちょうであり藩主はんしゅ居所きょしょであった。1786ねん天明てんめい6ねん)に石垣いしがきなどの補修ほしゅうおこなわれた。

寛永かんえい3ねん1626ねん)には徳川とくがわ家康いえやすろくなん松平まつだいらただしてるあずかることとなり、みなみまる増設ぞうせつし、監禁かんきん場所ばしょとした。以降いこうみなみまるは、幕府ばくふからあずかった吉良きら義周よしちかなどの流人るにん監禁かんきん場所ばしょとして使用しようされた。不要ふようののちには薬草やくそうなどの栽培さいばい場所ばしょとなったとされている。

1871ねん明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけんにより高島たかしまけんとなり、けん庁舎ちょうしゃとして利用りようされた。1875ねん明治めいじ8ねん)に天守閣てんしゅかくなどだい部分ぶぶん建造けんぞうぶつやぶ却もしくは移築いちくされ、一時いちじ石垣いしがきほりのみとなり、よく1876ねん明治めいじ9ねん高島たかしま公園こうえんとして一般いっぱん開放かいほうされ、1900ねん明治めいじ33ねん)に諏訪すわ護國ごこく神社じんじゃてられた。

現在げんざいまるさんまる宅地たくちとなり、1970ねん昭和しょうわ45ねん)には本丸ほんまる天守てんしゅもんへい復元ふくげんされ、高島たかしま公園こうえんとして整備せいびされた。

2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ6にちぞく日本にっぽん100名城めいじょう(130ばん)に選定せんていされた[2]

建物たてもの

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天守てんしゅ

かつての天守てんしゅ独立どくりつしき望楼ぼうろうがた3じゅう5かいで、明治めいじ初頭しょとう撮影さつえいされた写真しゃしんにその姿すがたがうかがえる。はつじゅう入母屋いりもやだい屋根やねとし2じゅう望楼ぼうろうがのせられた形状けいじょうで、2じゅう東西とうざいめん入母屋いりもや破風はふ出窓でまど、3じゅうにはみなみ北面ほくめんはなあたままどをもつ切妻きりづま破風はふ出窓でまど東西とうざいめんそと高欄こうらんえんもうけられた。各所かくしょはなあたままどもちいられ、屋根やね瓦葺かわらぶきではなくひのきうすいたかきであった。

現在げんざい復興ふっこう天守てんしゅまどおおきさや位置いちなどの細部さいぶことなり、屋根やねには銅板どうばんかれており、内部ないぶ資料しりょうかんとなっている。鉄筋てっきんコンクリートづくり施工しこう熊谷組くまがいぐみ

 
高島たかしま公園こうえん

まるさんまる開発かいはつはいったが、本丸ほんまる高島たかしま公園こうえんとして整備せいびされ、本丸ほんまる石垣いしがきおよび北側きたがわ東側ひがしがわほりのこる。

建造けんぞうぶつとしては、さんまるにあった城門じょうもん本丸ほんまるに、どこのもんさだかではないが温泉寺おんせんじおよび浄光寺じょうこうじ山門さんもんとして、それぞれ移築いちく現存げんそんする。また、のう舞台ぶたい温泉寺おんせんじ本堂ほんどう一部いちぶとして移築いちくされている。

所在地しょざいち交通こうつう

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長野ながのけん諏訪すわ高島たかしま1丁目ちょうめ20

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 天保てんぽう5ねん(1834ねん)、「諏方すわぐん」ともかれていた表記ひょうき諏訪すわはんにより「諏訪すわぐん」に統一とういつ。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 20 長野ながのけん
  2. ^ ぞく日本にっぽん100名城めいじょう発表はっぴょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西にしたに恭弘やすひろ へん定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん秋田あきた書店しょてん、2000ねん、103-104ぺーじISBN 4-253-00375-3 
  • 関連かんれん書籍しょせき
    • 河西かさいみなちょ 小平こだいら陽子ようこ 紙芝居かみしばい高島たかしまじょう殿とのさま』スワンこプロジェクト[1]

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  1. ^ Yoko Kodaira Web site – 小平こだいら 陽子ようこ