城郭の形式は連郭式平城である。かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。
日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた(転用石)」などの伝承が残る。
- 天守
かつての天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿がうかがえる。初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であった。
現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館となっている。鉄筋コンクリート造、施工は熊谷組。
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復興天守
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内側から望む復興天守
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内側から望む復元された門
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亀石
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諏訪護国神社
二の丸三の丸は開発の手が入ったが、本丸は高島公園として整備され、本丸の石垣および北側と東側の堀が残る。
建造物としては、三の丸にあった城門が本丸に、どこの門か定かではないが温泉寺および浄光寺の山門として、それぞれ移築現存する。また、能舞台が温泉寺本堂の一部として移築されている。
長野県諏訪市高島1丁目20