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野中のなかちかしこう」のはんあいだ差分さぶん

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野中のなか伝承でんしょうによれば、下剋上げこくじょう時代じだい豊前ぶぜんこく下毛しもげぐん長岩ながいわ城主じょうしゅさんまんろくせんこくりょうしていた藤原ふじわらよりゆきじゅう落城らくじょうし、浪人ろうにんとなり、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ国親くにちかつかえて、ななせんひゃくせき拝領はいりょうした。この藤原ふじわら野中のなかといわれる。藤原ふじわら名乗なのっているのは摂関せっかん藤原ふじわらきたどうけんながれであることを意識いしきしてのものであろう。野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)に居城きょじょうし、山田やまだつかえた。貞吉さだきち楠目くずめ城主じょうしゅ山田やまだつかえていたころ、にらせい往還おうかん要所ようしょめる片地かたじきゅう土佐山田とさやまだまち)のかげ山城やましろぬし現在げんざい影山かげやま)であった。1562ねん貞吉さだきちやま﨑山じゅうあいだ(はざま)にまわせた<ref name=":0">{{Cite book|author=香北かほくまち編纂へんさん委員いいんかい|title=香北かほくまち|date=H18.2.10|year=H18|accessdate=2019/2/28|publisher=香北かほくまち教育きょういく委員いいんかい|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><!-- やま﨑山おもではなく、そのおとうとやま﨑太よんろう可能かのうせいあり。 -->。
野中のなか伝承でんしょうによれば、下剋上げこくじょう時代じだい豊前ぶぜんこく下毛しもげぐん長岩ながいわ城主じょうしゅさんまんろくせんこくりょうしていた藤原ふじわらよりゆきじゅう落城らくじょうし、浪人ろうにんとなり、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ国親くにちかつかえて、ななせんひゃくせき拝領はいりょうした。この藤原ふじわら野中のなかといわれる。藤原ふじわら名乗なのっているのは摂関せっかん藤原ふじわらきたどうけんながれであることを意識いしきしてのものであろう。野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)に居城きょじょうし、山田やまだつかえた。貞吉さだきち楠目くずめ城主じょうしゅ山田やまだつかえていたころ、にらせい往還おうかん要所ようしょめる片地かたじきゅう土佐山田とさやまだまち)のかげ山城やましろぬし現在げんざい影山かげやま)であった。1562ねん貞吉さだきちやま﨑山じゅうあいだ(はざま)にまわせた<ref name=":0">{{Cite book|author=香北かほくまち編纂へんさん委員いいんかい|title=香北かほくまち|date=H18.2.10|year=H18|accessdate=2019/2/28|publisher=香北かほくまち教育きょういく委員いいんかい|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><!-- やま﨑山おもではなく、そのおとうとやま﨑太よんろう可能かのうせいあり。 -->。


長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょうによると、貞吉さだきち林田はやしだ大倉谷おおくらたに佐古藪さこやぶかげ野村のむらやく2町歩ちょうぶ開拓かいたくしたとある。貞吉さだきちには長男ちょうなん右近うこん重治しげはる(1586ねんの[[戸次とつぎがわたたかい]]で戦死せんし)、次男じなんせい頼綱よりつな(1579ねん讃岐さぬきふじじょう観音寺かんおんじ>で戦死せんし)、三男さんなん三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうよんなんさだしゅんがあった<!-- 香美かがみ史談しだんかい発起人ほっきにん上村うえむら敬介けいすけによるとつぎとおり。野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうもとおやこうおなじく長浜ながはま合戦かっせん(1560ねん)が初陣ういじんであり、その阿波あわ進出しんしゅつにおいて宍喰ししくいじゅうし、そのにおいて2ねんほどで病死びょうししているとのことである。おやこうあにのうち、右近うこん重治しげはる戸次とつぎがわたたかいにおいてにし、せい頼綱よりつなふじじょうにしたとされている。これはあやまりであり、おやこう長男ちょうなん次男じなんであろうとのことである。というのも、もしおやこう二人ふたりあにであれば、40さいだい独身どくしんのままでなくなってしまったことになる。これは当時とうじではかんがえられない。おそらく、まだ結婚けっこんしていない若者わかものにしたというのが自然しぜん見方みかたである。そのことから、おやこう長男ちょうなん次男じなんにしたという推測すいそくまれる。そうすると、おやこう大坂おおさかなつじん参戦さんせんしたというのもあやまりである。上村うえむらによるとおそらくおやこう三男さんなんおやこう参戦さんせんしたのであろうとのことである。このおやこうという人物じんぶつ美良布びらふだい川上かわかみ美良みよしぬの神社じんじゃむねさつにその発見はっけんされ、実在じつざいした人物じんぶつである。なお、土佐山田とさやまだまちうえ野中のなか美良布びらふ野中のなか野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち子孫しそんである。美良布びらふ野中のなか庄屋しょうやしょくつとめた家柄いえがらであるが、当家とうけには史料しりょうのこっていない。(2016ねん4がつ18にち上村うえむら敬介けいすけ訪問ほうもん調査ちょうさ) -->。戸次とつぎがわたたかいではしんじおやこうともに700めい土佐とさへいにした。その追悼ついとうして大鑑たいかんばんはた神社じんじゃ高知こうち長浜ながはま)に奉納ほうのうされている。大鑑たいかんばん正式せいしきには、「天正てんしょうじゅう四年丙戌年十二月十二日於豊州信親公忠死御供之衆鑑板」としょうし、そこに「野中のなか右近うこん」とこくめいされている。なお、おやこうも「野中のなかたすく左衛門さえもん」とあやまってこくめいされている。また「野中のなかただし」もあやまってこくめいされている。
長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょうによると、貞吉さだきち林田はやしだ大倉谷おおくらたに佐古藪さこやぶかげ野村のむらやく2町歩ちょうぶ開拓かいたくしたとある。貞吉さだきちには長男ちょうなん右近うこん重治しげはる(1586ねんの[[戸次とつぎがわたたかい]]で戦死せんし)、次男じなんせい頼綱よりつな(1579ねん讃岐さぬきふじじょう観音寺かんおんじ>で戦死せんし)、三男さんなん三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうよんなんさだしゅんがあった<!-- 香美かがみ史談しだんかい発起人ほっきにん上村うえむら敬介けいすけによるとつぎとおり。野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうもとおやこうおなじく長浜ながはま合戦かっせん(1560ねん)が初陣ういじんであり、その阿波あわ進出しんしゅつにおいて宍喰ししくいじゅうし、そのにおいて2ねんほどで病死びょうししているとのことである。おやこうあにのうち、右近うこん重治しげはる戸次とつぎがわたたかいにおいてにし、せい頼綱よりつなふじじょうにしたとされている。これはあやまりであり、おやこう長男ちょうなん次男じなんであろうとのことである。というのも、もしおやこう二人ふたりあにであれば、40さいだい独身どくしんのままでなくなってしまったことになる。これは当時とうじではかんがえられない。おそらく、まだ結婚けっこんしていない若者わかものにしたというのが自然しぜん見方みかたである。そのことから、おやこう長男ちょうなん次男じなんにしたという推測すいそくまれる。そうすると、おやこう大坂おおさかなつじん参戦さんせんしたというのもあやまりである。上村うえむらによるとおそらくおやこう三男さんなんおやこう参戦さんせんしたのであろうとのことである。このおやこうという人物じんぶつ美良布びらふだい川上かわかみ美良みよしぬの神社じんじゃむねさつにその発見はっけんされ、実在じつざいした人物じんぶつである。なお、土佐山田とさやまだまちうえ野中のなか美良布びらふ野中のなか野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち子孫しそんである。美良布びらふ野中のなか庄屋しょうやしょくつとめた家柄いえがらであるが、当家とうけには史料しりょうのこっていない。(2016ねん4がつ18にち上村うえむら敬介けいすけ訪問ほうもん調査ちょうさ) -->。戸次とつぎがわたたかいではしんじおやこうともに700めい土佐とさへいにした。その追悼ついとうして大鑑たいかんばんはた神社じんじゃ高知こうち長浜ながはま)に奉納ほうのうされている。大鑑たいかんばん正式せいしきには、「天正てんしょうじゅう四年丙戌年十二月十二日於豊州信親公忠死御供之衆鑑板」としょうし、そこに「野中のなか右近うこん」とこくめいされている。なお、おやこうも「野中のなかたすく左衛門さえもん」とあやまってこくめいされている。また「野中のなかただし」もあやまってこくめいされている。


長宗我部ちょうそかべ家中かちゅうにおいておやこう国政こくせい奉行ぶぎょうつとめ、若年寄わかどしよりしゅ17にん一人ひとり知行ちぎょうせんせきであった。おやこうもとおやこうに1570ねん造営ぞうえい奉行ぶぎょう任命にんめいされ、[[だい川上かわかみ美良みよしぬの神社じんじゃ]]を再建さいけんした。おやこうは1574ねん天正てんしょう2ねん)5がつ吉野よしの願成寺がんじょうじ厨子ずしをつくった<ref name=":0" />。どうてら野中のなか菩提寺ぼだいじであった。おやこう兄弟きょうだいとともに四国しこくない転戦てんせんし、戸次とつぎがわたたかい、[[豊臣とよとみ秀吉ひでよし]]の[[朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい]]にも参戦さんせんした。1588ねん天正てんしょう16ねん)3がつにら良郷よしさと検地けんち代官だいかんおやこうによってはじまりせき上野尻かみのじり下野尻しものじり分離ぶんりされた。天正てんしょう18ねんちち貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)の願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどう建立こんりゅうした。[[関ヶ原せきがはらたたかい]]では豊臣とよとみかたとして参戦さんせんし、敗戦はいせん浪人ろうにんをしたり、播磨はりまこく池田いけだ紀州きしゅう徳川とくがわつかえたり、大坂おおさか商人しょうにんをしたといわれている。大阪おおさかふゆじんなつじんにも出陣しゅつじんした。
長宗我部ちょうそかべ家中かちゅうにおいておやこう国政こくせい奉行ぶぎょうつとめ、若年寄わかどしよりしゅ17にん一人ひとり知行ちぎょうせんせきであった。おやこうもとおやこうに1570ねん造営ぞうえい奉行ぶぎょう任命にんめいされ、[[だい川上かわかみ美良みよしぬの神社じんじゃ]]を再建さいけんした。おやこうは1574ねん天正てんしょう2ねん)5がつ吉野よしの願成寺がんじょうじ厨子ずしをつくった<ref name=":0" />。どうてら野中のなか菩提寺ぼだいじであった。おやこう兄弟きょうだいとともに四国しこくない転戦てんせんし、戸次とつぎがわたたかい、[[豊臣とよとみ秀吉ひでよし]]の[[文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき|朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい]]にも参戦さんせんした。1588ねん天正てんしょう16ねん)3がつにら良郷よしさと検地けんち代官だいかんおやこうによってはじまりせき上野尻かみのじり下野尻しものじり分離ぶんりされた。天正てんしょう18ねんちち貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)の願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどう建立こんりゅうした。[[関ヶ原せきがはらたたかい]]では豊臣とよとみかたとして参戦さんせんし、敗戦はいせん浪人ろうにんをしたり、播磨はりまこく池田いけだ紀州きしゅう徳川とくがわつかえたり、大坂おおさか商人しょうにんをしたといわれている。大阪おおさかふゆじんなつじんにも出陣しゅつじんした。


野中のなか没落ぼつらくうつってきたべつてら願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどうぎ、明和めいわ年間ねんかん(1764-1772ねん)にと改称かいしょうし、現在げんざいいたっている<ref name=":0" />。なお、芳野よしの吉野よしの)の居城きょじょうあとにはしろ八幡やはた神社じんじゃっている。よんなんさだしゅん通称つうしょう源助げんすけ)は阿波あわからかえり、上野尻かみのじり庄屋しょうや任命にんめいされた。その子孫しそんいま美良布びらふきゅう香北かほくまち)に居住きょじゅうしている。山本やまもと左衛門さえもんすすむ永瀬ながせ城主じょうしゅ)にとついだ貞吉さだきちむすめ男子だんしもうけ、まご名乗なのり、かれ野中のなかもとそだてられた。のちもとおやつかえ、永野ながの根須ねずさん町歩ちょうぶたまわり、長宗我部ちょうそかべ没落ぼつらく下野げやし、農業のうぎょう従事じゅうじした。永瀬ながせ山本やまもとはその子孫しそんである。<ref name=":0" />
野中のなか没落ぼつらくうつってきたべつてら願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどうぎ、明和めいわ年間ねんかん(1764-1772ねん)にと改称かいしょうし、現在げんざいいたっている<ref name=":0" />。なお、芳野よしの吉野よしの)の居城きょじょうあとにはしろ八幡やはた神社じんじゃっている。よんなんさだしゅん通称つうしょう源助げんすけ)は阿波あわからかえり、上野尻かみのじり庄屋しょうや任命にんめいされた。その子孫しそんいま美良布びらふきゅう香北かほくまち)に居住きょじゅうしている。山本やまもと左衛門さえもんすすむ永瀬ながせ城主じょうしゅ)にとついだ貞吉さだきちむすめ男子だんしもうけ、まご名乗なのり、かれ野中のなかもとそだてられた。のちもとおやつかえ、永野ながの根須ねずさん町歩ちょうぶたまわり、長宗我部ちょうそかべ没落ぼつらく下野げやし、農業のうぎょう従事じゅうじした。永瀬ながせ山本やまもとはその子孫しそんである。<ref name=":0" />

2024ねん5がつ10日とおか (金)きん 06:39時点じてんにおけるはん

野中のなか ちかしこう(のなか ちかたか、なま没年ぼつねんしょう通称つうしょう三郎さぶろう左衛門さえもん)は、藤原ふじわらきたどうけんながれ、豊前ぶぜん宇都宮うつのみや城井しろい宇都宮うつのみや)の子孫しそんちち野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきちのときに、野中のなか土佐とさ移住いじゅうし、いちじょう山田やまだ長宗我部ちょうそかべつかえる。おやこう長宗我部ちょうそかべ家中かちゅうにおいて若年寄わかどしよりしゅ一人ひとりであり、国政こくせい奉行ぶぎょう造営ぞうえい奉行ぶぎょうつとめた。芳野よしのじょう城主じょうしゅであった。

概要がいよう

戦国せんごく時代じだいにおける野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきちとその三郎さぶろう左衛門さえもんしんこう

野中のなか伝承でんしょうによれば、下剋上げこくじょう時代じだい豊前ぶぜんこく下毛しもげぐん長岩ながいわ城主じょうしゅさんまんろくせんこくりょうしていた藤原ふじわらよりゆきじゅう落城らくじょうし、浪人ろうにんとなり、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ国親くにちかつかえて、ななせんひゃくせき拝領はいりょうした。この藤原ふじわら野中のなかといわれる。藤原ふじわら名乗なのっているのは摂関せっかん藤原ふじわらきたどうけんながれであることを意識いしきしてのものであろう。野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)に居城きょじょうし、山田やまだつかえた。貞吉さだきち楠目くずめ城主じょうしゅ山田やまだつかえていたころ、にらせい往還おうかん要所ようしょめる片地かたじきゅう土佐山田とさやまだまち)のかげ山城やましろぬし現在げんざい影山かげやま)であった。1562ねん貞吉さだきちやま﨑山じゅうあいだ(はざま)にまわせた[1]

長宗我部ちょうそかべ地検ちけんちょうによると、貞吉さだきち林田はやしだ大倉谷おおくらたに佐古藪さこやぶかげ野村のむらやく2町歩ちょうぶ開拓かいたくしたとある。貞吉さだきちには長男ちょうなん右近うこん重治しげはる(1586ねん戸次とつぎがわたたか戦死せんし)、次男じなんせい頼綱よりつな(1579ねん讃岐さぬきふじじょう観音寺かんおんじ>で戦死せんし)、三男さんなん三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうよんなんさだしゅんがあった。戸次とつぎがわたたかいではしんじおやこうともに700めい土佐とさへいにした。その追悼ついとうして大鑑たいかんばんはた神社じんじゃ高知こうち長浜ながはま)に奉納ほうのうされている。大鑑たいかんばん正式せいしきには、「天正てんしょうじゅう四年丙戌年十二月十二日於豊州信親公忠死御供之衆鑑板」としょうし、そこに「野中のなか右近うこん」とこくめいされている。なお、おやこうも「野中のなかたすく左衛門さえもん」とあやまってこくめいされている。また「野中のなかただし」もあやまってこくめいされている。

長宗我部ちょうそかべ家中かちゅうにおいておやこう国政こくせい奉行ぶぎょうつとめ、若年寄わかどしよりしゅ17にん一人ひとり知行ちぎょうせんせきであった。おやこうもとおやこうに1570ねん造営ぞうえい奉行ぶぎょう任命にんめいされ、だい川上かわかみ美良みよしぬの神社じんじゃ再建さいけんした。おやこうは1574ねん天正てんしょう2ねん)5がつ吉野よしの願成寺がんじょうじ厨子ずしをつくった[1]どうてら野中のなか菩提寺ぼだいじであった。おやこう兄弟きょうだいとともに四国しこくない転戦てんせんし、戸次とつぎがわたたかい、豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいにも参戦さんせんした。1588ねん天正てんしょう16ねん)3がつにら良郷よしさと検地けんち代官だいかんおやこうによってはじまりせき上野尻かみのじり下野尻しものじり分離ぶんりされた。天正てんしょう18ねんちち貞吉さだきち芳野よしの吉野よしの)の願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどう建立こんりゅうした。関ヶ原せきがはらたたかでは豊臣とよとみかたとして参戦さんせんし、敗戦はいせん浪人ろうにんをしたり、播磨はりまこく池田いけだ紀州きしゅう徳川とくがわつかえたり、大坂おおさか商人しょうにんをしたといわれている。大阪おおさかふゆじんなつじんにも出陣しゅつじんした。

野中のなか没落ぼつらくうつってきたべつてら願成寺がんじょうじ地蔵堂じぞうどうぎ、明和めいわ年間ねんかん(1764-1772ねん)にと改称かいしょうし、現在げんざいいたっている[1]。なお、芳野よしの吉野よしの)の居城きょじょうあとにはしろ八幡やはた神社じんじゃっている。よんなんさだしゅん通称つうしょう源助げんすけ)は阿波あわからかえり、上野尻かみのじり庄屋しょうや任命にんめいされた。その子孫しそんいま美良布びらふきゅう香北かほくまち)に居住きょじゅうしている。山本やまもと左衛門さえもんすすむ永瀬ながせ城主じょうしゅ)にとついだ貞吉さだきちむすめ男子だんしもうけ、まご名乗なのり、かれ野中のなかもとそだてられた。のちもとおやつかえ、永野ながの根須ねずさん町歩ちょうぶたまわり、長宗我部ちょうそかべ没落ぼつらく下野げやし、農業のうぎょう従事じゅうじした。永瀬ながせ山本やまもとはその子孫しそんである。[1]

野中のなか由来ゆらい子孫しそんについて

芳野よしのじょう野中のなか長岩ながいわじょうなか

野中のなか先祖せんぞ豊前ぶぜんこく下毛しもげぐん長岩ながいわ城主じょうしゅであったとされている。野中のなか九州きゅうしゅうではなかしょうした。なかけんひさ7ねん(1196ねん)に仲郷なかごう入部にゅうぶした宇都宮うつのみや重房しげふさである。重房しげふさ長岩ながいわ城主じょうしゅとして本家ほんけ宇都宮うつのみやとも豊前ぶぜん一大いちだい勢力せいりょくとなり、室町むろまち時代じだいになると豊前ぶぜん守護しゅごになった大内おおうち臣従しんじゅうしてぐんだいとなり、勢力せいりょくるうようになった。弘治こうじ3ねん(1557ねん)、大内おおうち義長よしなが毛利もうり元就もとなりほろぼされると、なか大友おおとも反旗はんきひるがえして長岩ながいわじょう籠城ろうじょうした。しかし、大友おおとも義鎮よししげめられ降伏ごうぶくした。天正てんしょう10ねん(1581ねん)に織田おだ信長のぶなが本能寺ほんのうじ横死おうしし、その豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか統一とういつ目指めざし、九州きゅうしゅう制圧せいあつして中津なかつ黒田くろだ如水じょすい長政ながまさ父子ふししん領主りょうしゅとして入部にゅうぶさせた。黒田くろだ父子ふしたいして城井しろい宇都宮うつのみやなか鎮兼は抵抗ていこうし、滅亡めつぼうさせられた。1570年代ねんだいにすでに芳野よしの城主じょうしゅ野中のなか肥後守ひごのかみ貞吉さだきち息子むすこたちはもとおやこうとともに土佐とさ統一とういつのために各地かくち転戦てんせんしていたのであるから、年代ねんだいてき齟齬そごしょうじている。

なか一族いちぞく幡多はた移住いじゅう

ここで土佐とさ幡多はたうつしたい。土佐とさ幡多はたおさめていた一条いちじょう兼定かねさだは1564ねん大友おおともよしまきむすめめとり、大友おおともむすんでいた。長宗我部ちょうそかべ元親もとちかちから台頭たいとうしてきたために兼定かねさだいもうと婿むこ安芸あきこくとら呼応こおうしてもとおやとうとしたが、よくえいろく12ねん1569ねん)にくにとらぎゃくもとおやたれてしまった。兼定かねさだ暗愚あんぐ遊興ゆうきょうにふけり、家臣かしんから信望しんぼううしなっていった。そのため長宗我部ちょうそかべ幡多はた侵攻しんこうしてきたときに一条いちじょう家臣かしんさきそうって長宗我部ちょうそかべ軍門ぐんもんった。長宗我部ちょうそかべいえによって領地りょうち蚕食さんしょくされ、しかも重臣じゅうしん土居どいはじめ無実むじつつみ殺害さつがいしたために兼定かねさだ信望しんぼううしない、さん家老がろうによって天正てんしょう元年がんねん1573ねん)9がつ隠居いんきょ強制きょうせいされ、天正てんしょう2ねん1574ねん)に豊後ぶんごこく臼杵きゅうしょ追放ついほうされ大友おおともたよった。

他方たほう追放ついほうさき豊後ぶんごでは弘治こうじ3ねん(1557ねん)、なか鎮兼が大友おおとも反旗はんきひるがえしたがぎゃく大友おおともめられ降伏ごうぶくした。さてここから推測すいそくである。1564ねんごろ大友おおとも配下はいかにあったなか一族いちぞく有力ゆうりょくしゃが、大友おおともむすんでいた一条いちじょう兼定かねさだ援護えんご部隊ぶたいとして幡多はた派遣はけんされたのではないだろうか。そしてその人物じんぶつ藤原ふじわらよりゆきじゅうではないだろうか。この派遣はけん大友おおともなか臣従しんじゅう確認かくにん弱体じゃくたいはかったものだったともかんがえられなくもない。以後いごなか一族いちぞく土佐とさうつみ、その主君しゅくん山田やまだ長宗我部ちょうそかべえていった。そして最終さいしゅうてき野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうだい長宗我部ちょうそかべ家臣かしんだんなか若年寄わかどしより地位ちいにまでのぼりつめたと推測すいそくする。ではつぎなか出自しゅつじをそのおおもとである宇都宮うつのみや歴史れきしつうじて瞥見べっけんする。

宇都宮うつのみや下野しもの宇都宮うつのみや)について

宇都宮うつのみやは、摂関せっかん藤原ふじわらきたどうけんりゅうしょうするだいぞくである。その一族いちぞくおよび分流ぶんりゅうおおく、きた奥羽おううからみなみ九州きゅうしゅうにまでひろ分布ぶんぷしている。しかし、宇都宮うつのみや出自しゅつじについては諸説しょせつあってにわかにははんがたい。宇都宮うつのみや下野げや中心ちゅうしん宇都宮うつのみや中世ちゅうせい宇都宮うつのみやは「奥州おうしゅうへの前線ぜんせん基地きち」であり、二荒ふたあら山神さんじんしゃ朝廷ちょうていかたきなすてきち、奥州おうしゅうしゃだん神社じんじゃ)だった[2]ーにしろかまえ、鎌倉かまくら御家人ごけにんれつらなり、室町むろまち時代じだいになると佐竹さたけ小山こやまなどとともに関東かんとうはちいえのひとつにかぞえられる下野げやこくきっての豪族ごうぞくとなった。

宇都宮うつのみや活動かつどう史料しりょう確認かくにんされるのは、さんだいあさつな宇都宮うつのみや倹校左衛門尉さえもんのじょう)のだいになってからである。あさつな源平げんぺい合戦かっせんのときは、はじ平家へいけかたぞくしたが、のちみなもと頼朝よりともぞくして活躍かつやくしたことで、宇都宮うつのみや検校けんぎょうしょく安堵あんどされた。このしょく神事しんじ奉仕ほうしするものであり、宇都宮うつのみや鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにんとなった。しかし、たてひさ5ねん(1194ねん)、あさつな公田くでんを押領したとして朝廷ちょうていうったえられた。事件じけん真相しんそう不明ふめいだが、あさつな土佐とさへ、まご頼綱よりつな豊後ぶんごへ、頼綱よりつなおとうとあさぎょう周防すおう流罪るざいという朝廷ちょうていによる裁定さいていくだされた。ほどなく、あさつならはゆるされて下野げや帰国きこくし、あさつな家督かとく頼綱よりつなゆずり、みずからは出家しゅっけしてだいはね退しりぞいた。

その頼綱よりつな幕府ばくふから謀叛ぼうほんうたがいをかけられた。この事件じけんは、北条ほうじょう時政ときまさ後妻ごさいまきほうが、将軍しょうぐんじつあさ殺害さつがいして女婿じょせい平賀ひらがちょうみやび将軍しょうぐんしょくけようとしたものであった。まきほう頼綱よりつな実母じつぼにあたり、この関係かんけいから頼綱よりつな陰謀いんぼう事件じけん加担かたんしたと幕府ばくふからみられて追討ついとうけたのである。これにたいし、頼綱よりつな出家しゅっけして幕府ばくふしんのないことをしめしたので、頼綱よりつな謀叛ぼうほん嫌疑けんぎはようやくにしてれた。出家しゅっけした頼綱よりつなはその幕府ばくふ出仕しゅっしし、うけたまわひさし3ねん(1221ねん)の承久じょうきゅうらんにはよりゆきぎょうときあさらが活躍かつやくした。その勲功くんこうとしてこく守護しゅごしょくあたえられ、宇都宮うつのみや地位ちい安定あんていさせることに成功せいこうした。頼綱よりつな浄土宗じょうどしゅう信仰しんこう生活せいかつはい家督かとく嫡子ちゃくしたいつなゆずった。

以後いご宇都宮うつのみやは、将軍しょうぐん近侍きんじ鎌倉かまくらばんやくしゅぶんなが6ねん(1269ねん)には引付ひきつけしゅ、ついで評定ひょうじょうしゅくわえられ、さらに引付ひきつけあたまじんつとめた。このように、宇都宮うつのみや幕府ばくふ有力ゆうりょく御家人ごけにんとして活躍かつやくした。宇都宮うつのみや学芸がくげい家柄いえがらとしても名高なだかく、とく蹴鞠けまり和歌わか両道りょうどうひいでていた。そのうち和歌わか当時とうじにあって京都きょうと歌壇かだん鎌倉かまくら歌壇かだんにまさるともおとらない宇都宮うつのみや歌壇かだん形成けいせいしていた[3]

時代じだいくだって、宇都宮うつのみや国綱くにつなぶんろく元年がんねん(1592ねん)の朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい出陣しゅつじんして、増田ますだちょうもり指揮しきした釜山ぷさんにおいて戦功せんこうをあげた。はじ国綱くにつな石田いしだ三成みつなり奏者そうしゃとして秀吉ひでよしむすびついていたが、ぶんろく2ねん(1593ねん以降いこう浅野あさの長政ながまさ奏者そうしゃとすることになった。しかし、国綱くにつな佐竹さたけ義重よししげ同様どうよう石田いしだ三成みつなりとの親交しんこう維持いじし、また、長政ながまさからその長重ながしげ嗣子ししにという提案ていあん拒否きょひしたため長政ながまさとの関係かんけい悪化あっかさせた。くわえて、浅野あさの長政ながまさによって実施じっしされた太閤たいこう検地けんち結果けっか表高おもてだかじゅうはちまんせきたいしてばいさんじゅうきゅうまんせきあまりされたため、宇都宮うつのみや所領しょりょう申告しんこく不正ふせいがあったと摘発てきはつされ、慶長けいちょう2ねん(1597ねん)9がつ突如とつじょ秀吉ひでよしいのちによって改易かいえき処分しょぶんけた。その慶長けいちょう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさいし、秀吉ひでよし戦功せんこう次第しだいによっては宇都宮うつのみや再興さいこうゆるすと約束やくそくした。国綱くにつな朝鮮ちょうせんわたって必死ひっしたたかいを展開てんかいしたが、秀吉ひでよしによって宇都宮うつのみや再興さいこうねがいはたれ、平安へいあん末期まっき以来いらい歴史れきしまくじた。江戸えど時代じだい宇都宮うつのみや水戸みと徳川とくがわつかさんせんせき知行ちぎょうする家老がろうとなり、明治維新めいじいしんいたったことがられる。

豊前ぶぜん宇都宮うつのみや鎮西ちんぜい宇都宮うつのみや)について

下野しもの宇都宮うつのみや姻戚いんせき関係かんけいにあった中原なかはらせい宇都宮うつのみや信房のぶふさ平安へいあん末期まっき宇都宮うつのみやもっとはや進出しんしゅつしたきょう武者むしゃ一人ひとりであった。京都きょうと東山ひがしやま広大こうだい寺地てらち寄進きしんするような有力ゆうりょく御家人ごけにんでもあった。源平げんぺい合戦かっせんのちみなもと頼朝よりとも各地かくち平家へいけ残党ざんとうりをおこなわせた。九州きゅうしゅう敗残はいざんへいみが予想よそうされたであった。薩南諸島しょとう海島うみしま平定へいてい鎮西ちんぜい奉行ぶぎょう天野あまのめいじられ、宇都宮うつのみや信房のぶふさらも九州きゅうしゅう下向げこうした。困難こんなんせんであったが、1188ねん信房のぶふさらが渡海とかいしまはいり、制圧せいあつしている。信房のぶふさはその恩賞おんしょうとして豊前ぶぜんこく田川たがわぐんにある伊方いかたそう地頭じとうしょくあたえられた。信房のぶふさ拠点きょてんとしたのは豊前ぶぜん国衙こくがちかなかぐん木井馬場きいばばであった。信房のぶふさはここに下野げやから宇都宮大うつのみやだい明神みょうじん勧請かんじょうした(神社じんじゃ)。1188ねんごろには鎮西ちんぜい九州きゅうしゅう古名こみょう)を十分じゅうぶん支配しはいするために信房のぶふさ九州きゅうしゅう移住いじゅうしたようである。以後いご子孫しそんたちが九州きゅうしゅうふかろした。宇都宮うつのみや18だい鎮房の時代じだいには3まんせきしょう大名だいみょうとなった。このころ本拠地ほんきょち城井しろいたに伝法寺でんぼうじ本荘ほんじょううつされていた。豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつさいしては嫡子ちゃくし朝房ともふさ島津しまつめの先鋒せんぽうになっていた。その九州きゅうしゅうこくけのさいに鎮房には伊予いよこく今治いまばりへの国替くにがえがめいじられた。これを鎮房は拒否きょひした。豊臣とよとみかた対立たいりつすることとなった宇都宮うつのみや豊前ぶぜんこく一揆いっきて、最終さいしゅうてき黒田くろだ孝高よしたか長政ながまさ親子おやこ調しらべりゃくにより、滅亡めつぼうした。[4]

豊前ぶぜん宇都宮うつのみや支流しりゅうとしてのなか

信房のぶふさおとうとである重房しげふさは、たてひさ7ねん(1196ねん)に下毛しもげぐん仲郷なかごう入部にゅうぶした。1198ねん長岩ながいわじょうきずいた。これ以降いこう重房しげふさ子孫しそんなか名乗なのり、仲郷なかごう仲郷なかごう惣地そうちあたましょく世襲せしゅうしておおきな勢力せいりょくとなった。14世紀せいきになると、なかによる宇佐うさ神領しんりょうへの侵出しんしゅつ顕著けんちょとなってくる。南北なんぼくあさ末期まっきから豊前ぶぜんこくにおいては大内おおうち影響えいきょうつよくなってくる。大内おおうちが180ねんにわたって支配しはいした豊前ぶぜんにおいてなか下毛しもげ郡代ぐんだい世襲せしゅうしていた。なか鎮兼のだいなか最後さいご当主とうしゅーになって豊後ぶんご大友おおとも豊前ぶぜん侵攻しんこうはじまった。弘治こうじ2ねん(1556ねん)に大内おおうち毛利もうりたたかっているすき大友おおとも義鎮よししげ豊前ぶぜんめてきた。鎮兼は長岩ながいわじょう籠城ろうじょうし、おわりてきにはりょうなかがわ敗北はいぼくみとめるも、大友おおともがわからは旧領きゅうりょう安堵あんどされる。その両者りょうしゃあいだには幾多いくた攻防こうぼうがあった。秀吉ひでよし九州きゅうしゅう征伐せいばつくにけで豊前ぶぜん南部なんぶろくぐん黒田くろだ孝高よしたか領地りょうちとなった((鎮西ちんぜい456))。この直後ちょくご領内りょうないしょ豪族ごうぞく一揆いっき勃発ぼっぱつした。豊前ぶぜんくに一揆いっきである。なか一揆いっき中心ちゅうしんてき存在そんざいとしてうえぐんまで進攻しんこうした。なか長岩ながいわじょう籠城ろうじょうしたが、かずにおいてまさ黒田くろだかたしろ包囲ほういし、しょたい交互こうご進軍しんぐんさせ、つい楼門ろうもんやぶった。これをみたなか鎮兼は一族いちぞくども自刃じじんした。ここになかほろびた。

宇都宮うつのみやについて

うけたまわひさし3ねん(1221ねん)、後鳥羽上皇ごとばじょうこう鎌倉かまくら幕府ばくふ討幕とうばくへいきょうにあげ、反乱はんらんこした。しかし、幕府ばくふぐんいちヶ月かげつらずで制圧せいあつ反乱はんらん鎮圧ちんあつした。この承久じょうきゅうらん宇都宮うつのみや一族いちぞく従軍じゅうぐんし、宇都宮うつのみや五代ごだい頼綱よりつなよりゆきぎょうときあさ宇治橋うじばし合戦かっせん活躍かつやくした。頼綱よりつな自身じしんへいひきいることはなかったが、一族いちぞくこうによって伊予いよこく守護しゅごしょくあたえられた。

宇都宮うつのみや豊前ぶぜん宇都宮うつのみやから豊房とよふさ仲郷なかごう豊前ぶぜん宇都宮うつのみや重房しげふさあに信房のぶふさから4代目だいめ以降いこう大津おおつ大洲おおす)を拠点きょてん戦国せんごく末期まっきまでつづく。豊房とよふさにはがなく、宇都宮うつのみやさだたいそうやすし養子ようしにして守護しゅごしょくがせた。「大洲おおす宇都宮うつのみや系図けいず」のさだたいこうに「六郎ろくろうはじめけいたい美濃みのまもる遠江とおとうみまもるしゅう宇都宮うつのみや住人じゅうにんこう京都きょうとじゅうす、法名ほうみょうはちすさとし」とある。さだたいには貞宗さだむねそうやすし二子ふたごがいて、貞宗さだむね伊予いよ守護しゅごしょくにんじられ、そうやすし伊予いよ宇都宮うつのみやだいとして家督かとくしたことになっている。おそらく、最初さいしょたいむねだいときけいおとうとであるさだたいあたえられたのであろう。さだたいのち嫡子ちゃくし貞宗さだむね継承けいしょうされ、その年代ねんだいさきしるしたようにろくからの感状かんじょうからもとおう元年がんねん(1319ねん)ごろと推定すいていされる。以後いご天正てんしょう13ねん(1585ねん)、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちかによってほろぼされるまで存続そんぞくした。直接ちょくせつかかわったかどうかは不明ふめいであるが、野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうはその出自しゅつじ遠縁とおえん名家めいかほろぼしたことになる。

キリシタンになったおやこうおいたち・・・桑名くわなタミアンあん

野中のなか貞吉さだきちにはにんむすめがいたようである。一人ひとり山本やまもと左衛門さえもんしんつまとなった。もう一人ひとりむすめしげる子供こどものいない近隣きんりん五百蔵いおろい子供こども時代じだい養女ようじょとなったと推測すいそくされる。五百蔵いおろいひだりうますすむ香北かほく五百蔵いおろい城主じょうしゅであった。長宗我部ちょうそかべさん家老がろう一人ひとりとして桑名くわな丹後たんごもり重定しげさだがいた。その長子ちょうしである桑名くわな太郎左衛門たろうざえもん親光ちかみつであるふじもとおや指示しじにより後継あとつぎのなかった五百蔵いおろいひだりうますすむ養子ようしとなり、養父ようふであるひだりうますすむ名乗なのり、その養女ようじょしげる婚姻こんいんした。1600ねん慶長けいちょう5ねん)に関ヶ原せきがはらたたかいののち長宗我部ちょうそかべ改易かいえきしてから、土佐とさ紀伊きい国田こくた旧知きゅうち浅野あさの左衛門さえもんつかえた。ひだりうますすむしげるとのあいだにはけんすすむみず也、あんきゅうつとむ出生しゅっしょうじゅん)という4にん男子だんしもうけられた。けんすすむ出生しゅっしょうねん不明ふめいだが、みず也は1605ねん田辺たなべ紀伊きいこく)にて出生しゅっしょうした。1609ねんあん出生しゅっしょうした。1614ねんきゅうつとむ出生しゅっしょうした。1615ねん大坂おおさかじんちちふじ戦死せんしした。大坂おおさか落城らくじょう母子ぼし紀伊きいから母方ははかた伯父おじ野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこうんでいた姫路ひめじうつんだ。しげる高木たかぎわたる三右衛門さんえもんとついだ。その高木たかぎ浪人ろうにんとなり、他国たこくた。あんあにであるけんすすむ父方ちちかた桑名くわなせい名乗なのって高松たかまつんでいた。けんすすむはいかなる機縁きえんからかさだかでないがキリシタンになっていた。高松たかまつ移住いじゅうした理由りゆうは、当時とうじのそのではぜん領主りょうしゅであった十河そごうがキリシタンであったことから、キリシタンに寛容かんようであり、れる素地そじがあったのではないかとかんがえられる。

あんはこのあにたよって高松たかまつにわたり、西浜にしはまんだ。新来しんらいみず也とあん長兄ちょうけいけんすすむみちびきでキリシタンとなった。あんれいめいをタミアンとつけた。国法こくほうそむいてキリシタンになっていたあんは、伯父おじ野中のなか三郎さぶろう左衛門さえもんしんこう説得せっとくによって改宗かいしゅうしたようである。そのあん土佐とさかえり、奈半利なはり奈半利なはりまち)で生業せいぎょうとした。そのあん高知こうち帯屋おびやまち高知こうち帯屋おびやまち)で医業いぎょういとなんでいた。キリシタンだとの訴人そにんがあり、次兄じけいみず也とともにあんとらえられた。帰郷ききょう15ねんして一族いちぞく迫害はくがいされ、悲惨ひさん運命うんめいをたどることになった。34さい投獄とうごくされたあんはその80さい獄死ごくしした。晩年ばんねん獄中ごくちゅう生活せいかつ寛大かんだいであり、草花くさばななどをえてたのしんでいたようである。あん一人娘ひとりむすめである「てう」は当局とうきょくによって縁組えんぐみゆるされず、廿代にじゅうだいまちにて41さい病死びょうしした。あん一族いちぞくはか高知こうち市内しないにある(高知こうち西久万にしくまだか野谷のたに通称つうしょうゴロゴロどう/西宮にしのみや神社じんじゃ西側にしがわ位置いちす)。あん信仰しんこうについては一度いちど改宗かいしゅうしているようだが、これはたん表面ひょうめんてきなものであって事実じじつ使徒しとてき信仰しんこうをもって生涯しょうがいおくったとひょうせられている。なおけんすすむ江戸えどくなるまで信仰しんこう良心りょうしん忠実ちゅうじつであったという。[5]

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b c d 香北かほくまち編纂へんさん委員いいんかい (H18.2.10). 香北かほくまち. 香北かほくまち教育きょういく委員いいんかい 
  2. ^ 中世ちゅうせい名門めいもん 宇都宮うつのみや. 下野新聞社しもつけしんぶんしゃ編集へんしゅうきょく. (2018.6.14) 
  3. ^ 市村いちむら高男たかお (2013/11/5). 中世ちゅうせい宇都宮うつのみや世界せかい. いろどりりゅうしゃ 
  4. ^ 則松のりまつ弘明ひろあき (1996.5.17). 鎮西ちんぜい宇都宮うつのみや歴史れきし改訂かいてい増補ぞうほばん. みどりみねどう 
  5. ^ 石川いしかわじゅんろう (2002). 土佐とさとキリシタン 増補ぞうほばん