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2010年8月27日 (金) 23:25時点における版
オランダ西インド会社(蘭:West-Indische Compagnie)は、1621年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)で設立された貿易会社。当時オランダはスペインとの間で八十年戦争を継続中であったが、中南米から流れ込む大量の銀がスペインの富の源泉となっていたことから、この資金源を叩くことが設立の狙いだった。
略歴
1621年6月に連邦議会が特許状を交付したが、この特許状で会社はアフリカ西海岸、アメリカなどとの24年間にわたる貿易独占権を認められた。オランダ東インド会社と同様に支社制がとられ、アムステルダム、ホールン、ロッテルダム、ミデルブルフ、フローニンゲンに支社が置かれた。資本金は約710万フルデンで、これは東インド会社を上回るものだった。設立目的から、会社は貿易や植民活動よりむしろ、スペインおよび当時スペインとの同君連合にあったポルトガルの艦隊を標的とした私掠船活動に力を入れていた。しかし成果は期待したようには上がらず、経営は赤字状態であった。
植民活動としては、オランダ領ブラジルの経営が挙げられる。1630年初め、会社はブラジルのペルナンブーコ州を占領し、さらに支配地域を4州へと拡大した。この占領地がオランダ領ブラジルとなり、ニーウ・ホラント(Nieuw Holland、新ホラント)と名付けられて本格的な植民事業が開始された。1636年にはオラニエ=ナッサウ家傍系(ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世の孫)のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン・マウリッツが総督として送り込まれた。しかしポルトガル人の抵抗も大きく、占領地の維持は会社の経営を大いに圧迫した。会社はサトウキビ農園の経営を目指したが、労働力不足のため、アフリカから黒人奴隷を輸入することになった。そのためにアフリカのポルトガル植民地を奪取し、大規模な奴隷貿易を展開した。
1640年にポルトガルがスペインとの同君連合を解消して独立を回復したことは、会社にとって転機となった。ポルトガルがオランダとの間に休戦条約を結び、会社はポルトガル船やポルトガル植民地に対する攻撃や侵略を行なうことができなくなったからである。1645年にはオランダ領ブラジルで大規模な反乱が起こり、オランダ人は1654年にブラジルから追放された(以後中南米のオランダの植民地はオランダ領ギアナ(現スリナム)、オランダ領アンティルのみとなった)。1648年にはヴェストファーレン条約でスペインとも講和が成立したため、スペイン船の攻撃もできなくなり、存続意義を失った会社は、1674年に2度目の特許期限が切れるとともに解散した。
ただし、同年9月に奴隷貿易会社としての新たな西インド会社が設立されている。この会社は1791年まで存続した。
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