出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
|
|
6行目: |
6行目: |
|
|
|
|
|
== 歴史 == |
|
== 歴史 == |
|
岩のドームはかつての[[エルサレム神殿]]内にあり、建設は[[ウマイヤ朝]]カリフである[[アブドゥルマリク]]が[[685年]]から[[688年]]の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まる。当時、イスラム最高の聖地[[メッカ]]は[[アリー・イブン=アビー=ターリブ]]を支持する[[イブン・アッ・ズバイル]]によって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。 |
|
岩のドームはかつての[[エルサレム神殿]]内にあり、建設は[[ウマイヤ朝]]カリフである[[アブドゥルマリク]]が[[685年]]から[[688年]]の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まる。当時、イスラム最高の聖地[[メッカ]]は[[アリー・イブン=アビー=ターリブ]](第4代[[正統カリフ]]・[[アリー]])を支持する[[イブン・アッ・ズバイル]]によって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。 |
|
|
|
|
|
建物は、預言者[[ムハンマド]]が[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]](イスラー)に旅立ち、また、[[アブラハム]]が息子[[イサク]]を犠牲に捧げようとした([[イサクの燔祭]])場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、[[692年]]に完成した。外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは[[1554年]]に[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]の命によって建築家[[ミマール・スィナン]]が貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。ドーム部分は内部装飾も含めて[[11世紀]]に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。 |
|
建物は、預言者[[ムハンマド]]が[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]](イスラー)に旅立ち、また、[[アブラハム]]が息子[[イサク]]を犠牲に捧げようとした([[イサクの燔祭]])場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、[[692年]]に完成した。外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは[[1554年]]に[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]の命によって建築家[[ミマール・スィナン]]が貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。ドーム部分は内部装飾も含めて[[11世紀]]に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。 |
2011年5月30日 (月) 16:32時点における版
座標: 北緯31度46分40秒 東経35度14分08秒 / 北緯31.777878度 東経35.23544度 / 31.777878; 35.23544
岩のドーム(いわのドーム、アラビア語: قبة الصخرة Qubba al-Ṣakhra)は、東エルサレムにある、カアバ、預言者のモスクに次ぐイスラム教の第3の聖地。7世紀末に完成した集中式平面をもつ神殿である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祀っている。建設に際して刻まれた総延長240mに及ぶ碑文では、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めている。
歴史
岩のドームはかつてのエルサレム神殿内にあり、建設はウマイヤ朝カリフであるアブドゥルマリクが685年から688年の間のいつの時点かに建設を思い立ったことに始まる。当時、イスラム最高の聖地メッカはアリー・イブン=アビー=ターリブ(第4代正統カリフ・アリー)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、それが岩のドーム建設の直接の動機であったと推察される。
建物は、預言者ムハンマドが夜の旅(イスラー)に旅立ち、また、アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている「聖なる岩」を取り囲むように建設され、692年に完成した。外部は大理石と美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されているが、これは1554年にオスマン帝国のスレイマン1世の命によって建築家ミマール・スィナンが貼り直したもので、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクであった。ドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものだが、これはほぼ創建当時のままのデザインである。
信仰
イスラム教の教祖・ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅(ミウラージュ)を体験した場所とされる。クルアーンでは、マディーナ(メディナ)の預言者のモスクに住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちマッカ(メッカ)のカアバ神殿から一夜のうちに「遠隔の礼拝堂」すなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っている(17章1節)。
伝承によると、このときムハンマドは大天使ジブリール(ガブリエル)に伴われエルサレムの神殿上の岩から天馬ブラークに乗って昇天し、神アッラーフの御前に至ったのだという。
この伝承は、ムハンマドの死後から早い時期にはすでにイスラム教徒の間では事実とみなされており、神殿の丘におけるムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれた。また、丘の上には「遠隔の礼拝堂」を記念するアル=アクサー・モスク(銀のドーム)が建設され、聖地のひとつと見なされている。
この「聖なる岩」は、アブラハムが息子のイサクを神のために捧げようとした台であるともされるため、キリスト教、ユダヤ教も聖地を主張している。支持者は少ないが、岩のドームを現在の場所から取り除いた上でその場にエルサレム神殿を再建しようとする運動すら存在している。
形状
平面は2つの正方形を45度ずらして形成された八角形で、中央円形の内陣を二重の歩廊が取り囲む形式となっており、メッカのカアバを意識したことが指摘されている。
入り口は東西南北の4方向にあり、創建当時から円柱が取り付けられ、ヴォールト天井のポーチを備えていた。入り口を入ってすぐの外側の歩廊は、エンタブラチュアとイオニア式円柱によって支えられる24のアーチを備え、内側の歩廊はドームを支える4本のピアと16のアーチを支えるイオニア式円柱によって内陣部と分離している。
平面の洗練された幾何学性はシリアの初期キリスト教建築にも見られるもので、内装に見られるモザイクなどもやはりキリスト教建築からの影響をうかがうことができる。
ドーム内部のモザイク装飾は11世紀以降に何度か補修を受けているが、創建当時の意匠をほぼそのまま踏襲している。デザインはギリシア、ローマ起源のもので、後のイスラム美術特有のモティーフである幾何学的装飾はまったく見られない。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
岩のドームに
関連するカテゴリがあります。
外部リンク
Template:Link FA