出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)とは、幕府の次期征夷大将軍(将軍)の選定を巡る政争。特に江戸幕府13代将軍徳川家定の後継を巡って生じた安政年間の件が著名で単に「将軍継嗣問題」と呼んだ場合、この件を指すことも多い。
江戸幕府12代将軍徳川家慶の嫡男・家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかった(脳性まひとも言われている)。そこで、家慶は水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を継いでいた徳川慶喜(一橋慶喜)を養子とする事を考えたが、老中阿部正弘の反対で思いとどまり、家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることとした。
ところが、家慶の死の直前に黒船が来航して、日本は日米和親条約締結を余儀なくされた。ところが、家慶の死後に後を継いだ家定は将軍就任後、更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり政務が満足に行えなかった。しかも、子はなくその後継者問題が急浮上した。
これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従兄弟の紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。
ところが、阿部正弘が急死すると、阿部による安政の改革に反発する譜代大名の巻き返しが始まり、「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発する大奥もこれに加担する。更に条約勅許問題を巡る開国派と攘夷派の対立も加わって事態は複雑となった(一橋派では島津斉彬は開国派、徳川斉昭は攘夷派に属し、互いに自己の外交路線実現のために一橋慶喜擁立を目指した。これは南紀派も同様であった)。
ところが、安政6年(1858年)、家定が重態となると、南紀派の譜代大名は彦根藩主井伊直弼を大老に据えて、6月に家定の名で後継者を徳川慶福とすることが発表された。これについては南紀派による画策であると言われているが、家定自身も完全に意思能力が失われていたわけではないため、本人の意向で自分の対抗馬である慶喜を嫌って個人的に気にかけていた慶福を指名したとする見方もある。いずれにしても南紀派の勝利に終わった事実は間違いなく、7月に家定が没すると、慶福は名を「家定」と改名して新しい将軍となった。
家茂を将軍とした井伊直弼は、徳川慶頼を形だけの将軍後見職に立てて、一橋派を初めとする反対派の粛清(安政の大獄)に乗り出す。だが、井伊は桜田門外の変で暗殺され、後に一橋慶喜が将軍後見職を経て家茂の死後に15代将軍に就任することになった。