アイスランド侵攻 しんこう (アイスランドしんこう、Invasion of Iceland)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん においてイギリス が、1940年 ねん 5月 がつ 10日 とおか に中立 ちゅうりつ 国 こく のアイスランド王国 おうこく へ侵攻 しんこう した軍事 ぐんじ 行動 こうどう である。作戦 さくせん 名 めい は「フォーク作戦 さくせん (Operation Fork)」。
イギリス軍 ぐん が上陸 じょうりく したレイキャヴィーク の港 みなと と街 まち
1940年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 早朝 そうちょう 、イギリス海兵 かいへい 隊 たい が中立 ちゅうりつ 国 こく であるアイスランド王国 おうこく の首都 しゅと レイキャヴィーク へ上陸 じょうりく し、侵攻 しんこう 作戦 さくせん は開始 かいし された。抵抗 ていこう もなく上陸 じょうりく した部隊 ぶたい は、速 すみ やかに通信 つうしん 網 もう を封鎖 ふうさ し、戦略 せんりゃく 上 じょう の要所 ようしょ の確保 かくほ およびドイツ人 じん 民間 みんかん 人 じん の逮捕 たいほ を行 おこな った。部隊 ぶたい は現地 げんち の輸送 ゆそう 手段 しゅだん を徴発 ちょうはつ し、クヴァールフィヨルズル (Hvalfjörður )、カルダザルネース (Kaldaðarnes )、サンドスケイズ (Sandskeið )およびアクラネース へ移動 いどう 、ドイツ軍 ぐん の反撃 はんげき 時 じ に予想 よそう される敵 てき 上陸 じょうりく ・降下 こうか 地点 ちてん の確保 かくほ を行 おこな った。数日 すうじつ のうちに対空 たいくう 砲 ほう 部隊 ぶたい がレイキャヴィークに配置 はいち され、分遣 ぶんけん 隊 たい はアークレイリ へ送 おく られた。
同日 どうじつ 夜 よる 、アイスランド王国 おうこく 政府 せいふ は、この攻撃 こうげき はアイスランドの中立 ちゅうりつ と独立 どくりつ を“甚 はなは だしく侵 おか す”ものであり、すべての損害 そんがい に対 たい する補償 ほしょう を求 もと めるという旨 むね の抗議 こうぎ 文書 ぶんしょ を提出 ていしゅつ した。それに対 たい しイギリスはその補償 ほしょう 、有益 ゆうえき な事業 じぎょう 協定 きょうてい の締結 ていけつ 、内政 ないせい 不干渉 ふかんしょう および終戦 しゅうせん 後 ご の全 ぜん 部隊 ぶたい 撤収 てっしゅう を約束 やくそく した。成 な り行 ゆ き上 じょう 、アイスランド当局 とうきょく は正式 せいしき には中立 ちゅうりつ の方針 ほうしん を維持 いじ するものの、事実 じじつ 上 じょう 侵攻 しんこう 軍 ぐん に対 たい しての協力 きょうりょく を行 おこな った。
侵攻 しんこう 軍 ぐん は746名 めい の海兵 かいへい 隊 たい からなっていたが、装備 そうび は不十分 ふじゅうぶん で、基本 きほん 的 てき な訓練 くんれん も不足 ふそく していた。彼 かれ らは作戦 さくせん には成功 せいこう したものの、10万 まん 3千 せん 平方 へいほう kmの島 しま を守備 しゅび するには明 あき らかに戦力 せんりょく 不足 ふそく だった。5月17日 にち 、4,000名 めい のイギリス陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい が到着 とうちゃく し、海兵 かいへい 隊 たい と交代 こうたい した。のちにアメリカ軍 ぐん が戦争 せんそう の残 のこ りの期間 きかん 、アイスランドを占領 せんりょう した。
アイスランド独立 どくりつ 小史 しょうし [ 編集 へんしゅう ]
500年 ねん 以上 いじょう の長 なが きにわたるデンマーク統治 とうち 時代 じだい の後 のち 、1918年 ねん にアイスランドはデンマーク と同 おな じ君主 くんしゅ (デンマーク国王 こくおう )を戴 いただ き、外交 がいこう 政策 せいさく を共有 きょうゆう (事実 じじつ 上 じょう デンマークに委任 いにん )する同君 どうくん 連合 れんごう の構成 こうせい 国 こく 「アイスランド王国 おうこく 」として独立 どくりつ した[1] 。連合 れんごう 条約 じょうやく は1942年 ねん の発効 はっこう までに修正 しゅうせい を行 おこな えることとし、合意 ごうい に達 たっ しなかった場合 ばあい にはその3年 ねん 後 ご に一方 いっぽう 的 てき に破棄 はき できるとされた[1] 。1928年 ねん までには、すべてのアイスランドの政党 せいとう の間 あいだ で、同盟 どうめい 条約 じょうやく をできる限 かぎ り速 すみ やかに破棄 はき するという方向 ほうこう で合意 ごうい していた[2] 。 新 あたら しく生 う まれたアイスランド王国 おうこく は非 ひ 武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ を宣言 せんげん した[1] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
国王 こくおう クリスチャン10世 せい は『タイム 』に対 たい し、「アイスランドにおいては、かつての君主 くんしゅ ほど不人気 ふにんき なわけではない」と語 かた ったが[3] 、ほとんどのアイスランド人 じん はデンマークからの完全 かんぜん 独立 どくりつ を熱望 ねつぼう していた。
1940年 ねん 4月 がつ 9日 にち 、ドイツ軍 ぐん はヴェーゼル演習 えんしゅう 作戦 さくせん を発動 はつどう し、ノルウェー とデンマークに侵攻 しんこう した。デンマークはその日 ひ のうちに降伏 ごうぶく ・占領 せんりょう された。4月 がつ 10日 とおか 、アルシング (アイスランド議会 ぎかい )は、デンマーク国王 こくおう クリスチャン10世 せい がもはや憲法 けんぽう 上 じょう の職務 しょくむ を遂行 すいこう することができないとし、それまでアイスランドに代 か わってデンマークが行 おこな っていたすべての責務 せきむ とともに、それらをアイスランド政府 せいふ に帰 き することを宣言 せんげん した[4] 。アイスランドは完全 かんぜん に彼 かれ らのものとなった。
4月 がつ 12日 にち 、イギリス軍 ぐん はヴァレンタイン作戦 さくせん を発動 はつどう し、デンマーク領 りょう フェロー諸島 しょとう を占領 せんりょう した。
ドイツのデンマークおよびノルウェー侵攻 しんこう を受 う けて、イギリス政府 せいふ 内 ない ではドイツ軍 ぐん が程 ほど なくアイスランドに進駐 しんちゅう しようとするのではという懸念 けねん が増大 ぞうだい した。これはイギリスの北大西洋 きたたいせいよう 支配 しはい に対 たい する重大 じゅうだい な脅威 きょうい になると考 かんが えられた。同様 どうよう に重要 じゅうよう な事案 じあん として、イギリスは北大西洋 きたたいせいよう の「GIUKギャップ 」の哨戒 しょうかい を強化 きょうか するということもあり、アイスランドに彼 かれ らの基地 きち を持 も つことを切望 せつぼう していた[5] 。
4月 がつ 9日 にち 、イギリス政府 せいふ はアイスランド政府 せいふ に書簡 しょかん を送 おく り、イギリスはアイスランドの独立 どくりつ を支援 しえん する用意 ようい があるが、それにはアイスランドに便宜 べんぎ を図 はか ってもらう必要 ひつよう があると伝 つた えた。それは“イギリスの盟友 めいゆう として参戦 さんせん する”ということだったが、アイスランド政府 せいふ はそれを拒否 きょひ した[6] 。
8
時 じ に
帰宅 きたく 。
食事 しょくじ と
仕事 しごと 。
来週 らいしゅう にアイスランド
征服 せいふく を
計画 けいかく すること。
十中八九 じっちゅうはっく 遅 おそ すぎる!
何 なん 羽 わ かのアヒルの
子 こ の
群 む れを
見 み た。
— アレクサンダー・カドーガン 、1940年 ねん 5月 がつ 4日 にち の日記 にっき の最後 さいご より[7]
ノルウェーの戦況 せんきょう は悪化 あっか し、イギリス海軍 かいぐん 本部 ほんぶ は、もはやアイスランドに基地 きち 無 な くしては済 す まないという結論 けつろん に達 たっ した。5月6日 にち 、イギリス首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル は戦時 せんじ 内閣 ないかく に状況 じょうきょう を説明 せつめい した。チャーチルは、アイスランドとの交渉 こうしょう をこれ以上 いじょう 続 つづ けるならば、ドイツがそれを知 し って先手 せんて を打 う ってくると主張 しゅちょう した。より確実 かくじつ かつ効果 こうか 的 てき な解決 かいけつ 策 さく は、事前 じぜん の通告 つうこく なしに軍隊 ぐんたい を上陸 じょうりく させ、“既成 きせい 事実 じじつ ”としてアイスランド政府 せいふ に突 つ きつけることだった。内閣 ないかく はそれに同意 どうい した[8] 。
その侵攻 しんこう は場当 ばあ たり的 てき に準備 じゅんび され[9] 、作戦 さくせん 内容 ないよう のほとんどは現地 げんち へ行 い く途上 とじょう で計画 けいかく された。侵攻 しんこう 部隊 ぶたい には数 すう 枚 まい の粗末 そまつ な地図 ちず しか与 あた えられず、その中 なか の一 ひと つに至 いた っては誰 だれ かの記憶 きおく を元 もと に描 えが かれていた。また、アイスランド語 ご に堪能 かんのう な者 もの は一人 ひとり もいなかった[10] 。
イギリス軍 ぐん の計画 けいかく では、全 ぜん 部隊 ぶたい がレイキャヴィークに上陸 じょうりく することとなった。そこで、
あらゆる抵抗 ていこう を排除 はいじょ し、現地 げんち のドイツ人 じん を監視 かんし 下 か におく。
ドイツ軍 ぐん の海 うみ からの反撃 はんげき に対応 たいおう するため港 みなと を占拠 せんきょ し、部隊 ぶたい の一部 いちぶ を隣接 りんせつ するクヴァルフィヨルズゥル に陸路 りくろ で送 おく る。
また、北欧 ほくおう 侵攻 しんこう で大 おお きな戦果 せんか を上 あ げたドイツ軍 ぐん の空挺 くうてい 部隊 ぶたい にも憂慮 ゆうりょ していたため、
とされた[11] 。
海軍 かいぐん 情報 じょうほう 部 ぶ (NID)は3つの有力 ゆうりょく な情報 じょうほう 源 げん からなんらかの抵抗 ていこう があると予想 よそう していた。現地 げんち のドイツ人 じん の何人 なんにん かは武器 ぶき を持 も っていると考 かんが えられており、抵抗 ていこう するか、さもなくばある種 しゅ のクーデター を起 お こすことさえ考 かんが えられた。さらに、ドイツ軍 ぐん 侵攻 しんこう 部隊 ぶたい が既 すで にアイスランドへの途上 とじょう にあるか、あるいはイギリス軍 ぐん 上陸 じょうりく 後 ご 直 ただ ちに出動 しゅつどう するかも知 し れなかった。また、約 やく 70名 めい の武装 ぶそう した隊員 たいいん で構成 こうせい されたレイキャヴィーク警察 けいさつ の抵抗 ていこう も予想 よそう された。偶然 ぐうぜん デンマークの巡視 じゅんし 艇 てい がレイキャヴィークにいた場合 ばあい 、デンマーク水兵 すいへい は守備 しゅび 隊 たい を支援 しえん するかも知 し れなかった[12] 。
1940年 ねん 5月3日 にち 、サリー州 しゅう ビスレー のイギリス海兵 かいへい 隊 たい 第 だい 2大隊 だいたい は、ロンドン から、目的 もくてき 地 ち も知 し らされないまま、通知 つうち から2時 じ 間 あいだ で移動 いどう を開始 かいし できるように準備 じゅんび しておけという命令 めいれい を受 う け取 と った。この大隊 だいたい は前月 ぜんげつ に編成 へんせい されたばかりの部隊 ぶたい であり、現役 げんえき の士官 しかん が核 かく となっていたが、一般 いっぱん 兵 へい は新兵 しんぺい ばかりで部分 ぶぶん 的 てき な訓練 くんれん しか受 う けていなかった[13] 。また、小銃 しょうじゅう 、拳銃 けんじゅう 、銃剣 じゅうけん といった武器 ぶき も不足 ふそく しており、海兵 かいへい 隊員 たいいん のうち50名 めい が小銃 しょうじゅう を受 う け取 と ったばかりでまだ試射 ししゃ もしていなかった。5月4日 にち 、大隊 だいたい はある程度 ていど のブレン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう 、対戦 たいせん 車 しゃ 砲 ほう および2インチ迫撃 はくげき 砲 ほう を受 う け取 と った。武器 ぶき の照準 しょうじゅん 調整 ちょうせい や習熟 しゅうじゅく に割 さ くだけの時間 じかん もなく、それらは海上 かいじょう で行 おこな わなければならなかった[14] 。
支援 しえん 火器 かき は3.7インチ山砲 さんぽう 2門 もん 、ポンポン砲 ほう 4門 もん および4インチ沿岸 えんがん 砲 ほう 2門 もん が支給 しきゅう された[14] 。火砲 かほう は海軍 かいぐん および海兵 かいへい 隊 たい の砲兵 ほうへい が受 う け持 も ったが、それまでこれら火砲 かほう を使用 しよう した経験 けいけん のある者 もの はいなかった[14] 。また、サーチライト、通信 つうしん 機器 きき および射撃 しゃげき 指揮 しき 装置 そうち も不足 ふそく していた[15] 。
ロバート・スタージェス 大佐 たいさ は部隊 ぶたい の指揮 しき を任 まか された。49歳 さい になる彼 かれ は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のガリポリの戦 たたか い やユトランド沖 おき 海戦 かいせん を戦 たたか った、高名 こうみょう な歴戦 れきせん の兵士 へいし だった[16] 。彼 かれ はハンフリー・クイル 少佐 しょうさ 指揮 しき の小規模 しょうきぼ の情報 じょうほう 部 ぶ とチャールズ・ハワード・スミス を団長 だんちょう とする外交 がいこう 使節 しせつ 団 だん を伴 ともな った[13] 。これらを除 のぞ き、侵攻 しんこう 部隊 ぶたい は746名 めい の兵 へい で構成 こうせい された[17] 。
アイスランドへの道 みち のり [ 編集 へんしゅう ]
5月6日 にち 、スタージェス部隊 ぶたい は列車 れっしゃ に乗 の りスコットランド のグリーノック へ向 む かった。自身 じしん が注意 ちゅうい を引 ひ くことを避 さ けるようにという命令 めいれい で、部隊 ぶたい を2つに分 わ け、時間 じかん をずらし、別々 べつべつ の列車 れっしゃ で移動 いどう した[18] 。しかし、列車 れっしゃ の遅 おく れによりそれぞれは同 どう 時刻 じこく にグリーノック駅 えき に到着 とうちゃく してしまい、秘匿 ひとく 行動 こうどう の努力 どりょく もわずかながら無駄 むだ になった[18] 。さらに、機密 きみつ は部隊 ぶたい が出発 しゅっぱつ する頃 ころ には洩 も れており、グリーノックに着 つ いた頃 ころ には目的 もくてき 地 ち はアイスランドだと全員 ぜんいん が知 し っていた[13] 。
本 ほん 作戦 さくせん の指揮 しき 艦 かん 重 じゅう 巡洋艦 じゅんようかん ベリック
1940
年 ねん 5
月 がつ 、
私 わたし たちは
海兵 かいへい 隊 たい をアイスランドへ
輸送 ゆそう し、アイスランドはドイツ
軍 ぐん による
占領 せんりょう を
防 ふせ ぐため5
月 がつ 10日 とおか に
占領 せんりょう されました。
多 おお くのドイツ
人民 じんみん 間 あいだ 人 じん と
技術 ぎじゅつ 者 しゃ が
捕虜 ほりょ となりイギリスへ
移送 いそう されました。アイスランドへの
航路 こうろ はすごい
荒波 あらなみ で、ほとんどの
海兵 かいへい 隊員 たいいん は
艦内 かんない 中 ちゅう の
舷門 げんもん やメス・デッキで
取 と り
乱 みだ し、
船酔 ふなよ いでへばっていました。
一人 ひとり の
不幸 ふこう な
海兵 かいへい 隊員 たいいん は
自殺 じさつ してしまいました。
— スタン・フォアマン、巡洋艦 じゅんようかん ベリック勤務 きんむ の下士官 かしかん [19]
5月7日 にち 朝 あさ 、部隊 ぶたい は、彼 かれ らをアイスランドへ運 はこ ぶ巡洋艦 じゅんようかん ベリック およびグラスゴー が停泊 ていはく するグリーノックの港 みなと へ向 む かった。乗艦 じょうかん は始 はじ まったが、数 すう 多 おお くの問題 もんだい とさまざまな遅 おく れに悩 なや まされた。結局 けっきょく 、出発 しゅっぱつ は5月8日 にち に延期 えんき されたが、それでも桟橋 さんばし に大量 たいりょう の装備 そうび 品 ひん や補給 ほきゅう 物資 ぶっし を残 のこ していかなければならなかった[20] 。
5月8日 にち 朝 あさ 4時 じ 、巡洋艦 じゅんようかん はアイスランドへ出発 しゅっぱつ した。対 たい 潜 せん 哨戒 しょうかい として駆逐 くちく 艦 かん フィアレス 、フォーチュン が随伴 ずいはん した。巡洋艦 じゅんようかん は割 わ り当 あ てられただけの兵員 へいいん を輸送 ゆそう するようには設計 せっけい されていなかったため、中 なか はすし詰 づ めの状態 じょうたい だった[10] 。天候 てんこう はかなりよかったにもかかわらず、多 おお くの海兵 かいへい 隊員 たいいん はひどい船酔 ふなよ い にかかった。航海 こうかい 中 ちゅう の時間 じかん は武器 ぶき の調整 ちょうせい や習熟 しゅうじゅく に当 あ てられた[21] 。
駆逐 くちく 艦 かん 「フィアレス」
駆逐 くちく 艦 かん 「フォーチュン」
1人 ひとり の海兵 かいへい 隊 たい 新兵 しんぺい が途中 とちゅう で自殺 じさつ したが[22] 、航海 こうかい 中 ちゅう にその他 た の問題 もんだい は起 お きなかった[15] 。
奇襲 きしゅう 効果 こうか 喪失 そうしつ [ 編集 へんしゅう ]
スーパーマリン ウォーラス はほぼどんな場所 ばしょ でも降 お りることができるという長所 ちょうしょ があったが、結局 けっきょく アイスランドでの作戦 さくせん には適 てき さないと判明 はんめい した[23] 。
アイスランド時間 じかん 5月 がつ 10日 とおか 午前 ごぜん 1時 じ 47分 ふん 、巡洋艦 じゅんようかん ベリックはカタパルト から偵察 ていさつ 機 き スーパーマリン ウォーラス を射出 しゃしゅつ した[24] 。偵察 ていさつ の第 だい 一 いち の目的 もくてき はレイキャヴィーク周辺 しゅうへん での敵 てき 潜水 せんすい 艦 かん の探索 たんさく だった。海軍 かいぐん 情報 じょうほう 部 ぶ は敵 てき 潜水 せんすい 艦 かん がアイスランド港外 こうがい で活動 かつどう していると確信 かくしん していた[24] 。ウォーラスのパイロットはレイキャヴィーク上空 じょうくう を飛行 ひこう してはならないと命 めい じられていたが、(偶然 ぐうぜん か、命令 めいれい 伝達 でんたつ ミスのどちらかによる結果 けっか )街 まち 上空 じょうくう をやかましい音 おと を立 た てながら数 すう 回 かい 旋回 せんかい してしまった[25] 。この頃 ころ のアイスランドは航空機 こうくうき を所有 しょゆう しておらず、この珍 めずら しい出来事 できごと は多 おお くの人々 ひとびと を叩 たた き起 お こし、警戒 けいかい させた[26] 。アイスランド首相 しゅしょう ヘルマン・ヨーナソン (Hermann Jónasson )もアイスランド警察 けいさつ とおなじように飛行機 ひこうき に注意 ちゅうい を向 む けた[27] 。警察 けいさつ 署長 しょちょう 代理 だいり エーイナル・アーナルズ(Einar Arnalds)は、多分 たぶん それが、予定 よてい されていた新 あたら しい大使 たいし を乗 の せたイギリス軍艦 ぐんかん から飛 と んで来 き たものだろうと思 おも っていた[27]
ドイツ領事 りょうじ ヴェルナー・ゲールラッハ (de:Werner Gerlach )もまた、飛行機 ひこうき に注意 ちゅうい を引 ひ かれた。不安 ふあん を感 かん じた彼 かれ はドイツ人 じん の同僚 どうりょう と共 とも に港 みなと へ車 くるま を走 はし らせた[28] 。彼 かれ は双眼鏡 そうがんきょう を覗 のぞ き、不安 ふあん が的中 てきちゅう したのを確認 かくにん し、急 いそ いで帰 かえ った[29] 。帰宅 きたく した彼 かれ は、書類 しょるい の焼却 しょうきゃく を手配 てはい し、アイスランド外務 がいむ 大臣 だいじん と電話 でんわ 連絡 れんらく をとろうとしたができなかった[30] 。
午前 ごぜん 3時 じ 40分 ふん 、1人 ひとり のアイスランド警察官 けいさつかん が港 みなと に小 しょう 艦隊 かんたい が近 ちか づいてくるのを発見 はっけん したが、国籍 こくせき を識別 しきべつ できなかった。彼 かれ は彼 かれ の上司 じょうし である警察 けいさつ 署長 しょちょう 代理 だいり アーナルズへ報告 ほうこく した[31] 。アイスランドの中立 ちゅうりつ 法 ほう では、3隻 せき を超 こ える交戦 こうせん 国軍 こくぐん 艦 かん が同時 どうじ に中立 ちゅうりつ 港 こう を使用 しよう することを禁 きん じていた。またそれら艦船 かんせん からのいかなる航空機 こうくうき も中立 ちゅうりつ 海域 かいいき 上空 じょうくう を飛行 ひこう することを禁 きん じられていた[32] 。接近 せっきん する艦隊 かんたい が2つの方法 ほうほう でアイスランドの中立 ちゅうりつ を侵 おか していたので、アーナルズは調査 ちょうさ に向 む かった[32] 。港 みなと に行 い った彼 かれ は自身 じしん で艦隊 かんたい を見 み て、おそらくイギリス軍 ぐん だろうと思 おも った。彼 かれ は外務省 がいむしょう と連絡 れんらく をとり、彼 かれ が艦隊 かんたい に赴 おもむ き、指揮 しき 官 かん にアイスランドの中立 ちゅうりつ を侵 おか していることを通知 つうち すべきかどうか確認 かくにん をとり[33] 、税関 ぜいかん 職員 しょくいん にボートを用意 ようい するよう命 めい じた[33] 。
一方 いっぽう 、巡洋艦 じゅんようかん ベリックでは、海兵 かいへい 隊員 たいいん が港 みなと に接岸 せつがん する駆逐 くちく 艦 かん フィアレスに乗 の り移 うつ るよう命 めい じられていた。船酔 ふなよ いと経験 けいけん 不足 ふそく のせいで作業 さぎょう は遅 おく れ、将校 しょうこう 達 たち を苛立 いらだ たせた[34] 。朝 あさ 5時 じ 直前 ちょくぜん に400名 めい の海兵 かいへい 隊員 たいいん を乗 の せたフィアレスが港 みなと へ向 む かった[35] 。港 みなと には人々 ひとびと が集 あつ まってきて小 ちい さな群集 ぐんしゅう をなし、その中 なか には税関 ぜいかん のボートを待 ま つ数 すう 名 めい の警察官 けいさつかん もいた。イギリス領事 りょうじ は侵攻 しんこう を事前 じぜん に知 し らされており、部隊 ぶたい が到着 とうちゃく した時 とき に支援 しえん するために同僚 どうりょう と共 とも に待 ま っていた。困惑 こんわく している群衆 ぐんしゅう の中 なか 、イギリス領事 りょうじ シェファードは警察官 けいさつかん に向 む かって尋 たず ねた。「すいませんが…兵士 へいし が駆逐 くちく 艦 かん から降 お りられるように群衆 ぐんしゅう を少 すこ し後 うし ろに下 さ がらせてもらえませんかね?」警察官 けいさつかん は答 こた えた。「いいですとも[35] 」。
駆逐 くちく 艦 かん フィアレスが接岸 せつがん すると、直 ただ ちに上陸 じょうりく が始 はじ まった[36] 。警察 けいさつ 署長 しょちょう 代理 だいり アーナルズは駆逐 くちく 艦 かん の艦長 かんちょう との会見 かいけん を求 もと めたが拒否 きょひ された[37] 。彼 かれ は急 いそ ぎ首相 しゅしょう に報告 ほうこく し、ヨーナソン首相 しゅしょう は彼 かれ にイギリス軍 ぐん に干渉 かんしょう しないよう、そしてアイスランド住民 じゅうみん との衝突 しょうとつ を防 ふせ ぐよう命 めい じた[37] 。
上陸 じょうりく 中 ちゅう 、現地 げんち 人 じん の何人 なんにん かはイギリス軍 ぐん の到着 とうちゃく に抗議 こうぎ した。1人 ひとり のアイスランド人 じん は海兵 かいへい 隊員 たいいん から小銃 しょうじゅう を奪 うば い取 と り、それにタバコ を詰 つ め込 こ んだ。彼 かれ はそれを海兵 かいへい 隊員 たいいん に投 な げ返 がえ し、そいつに注意 ちゅうい しろよと言 い った。1人 ひとり の将校 しょうこう が来 き てその海兵 かいへい 隊員 たいいん を叱 しか った[38] 。
レイキャヴィークでの作戦 さくせん 行動 こうどう [ 編集 へんしゅう ]
イギリス軍 ぐん は郵便 ゆうびん 局 きょく に見張 みは りを置 お き、ドアに貼 は り紙 がみ することでレイキャヴィークでの作戦 さくせん を開始 かいし した[39] 。貼 は り紙 がみ には片言 かたこと のアイスランド語 ご で、この街 まち はイギリス軍 ぐん が占領 せんりょう し、当地 とうち のドイツ人 じん に対処 たいしょ する際 さい に協力 きょうりょく を求 もと めると書 か かれていた[40] 。侵攻 しんこう のニュースがベルリンに届 とど くのを防 ふせ ぐため、Síminn (シーミン、国営 こくえい 通信 つうしん サービス会社 かいしゃ )、RÚV (ルーヴ、国営 こくえい 放送 ほうそう サービス会社 かいしゃ )および気象庁 きしょうちょう の事務所 じむしょ は速 すみ やかにイギリス軍 ぐん の支配 しはい 下 か に置 お かれた[41] 。
一方 いっぽう 、ドイツ領事館 りょうじかん の占拠 せんきょ は最 さい 優先 ゆうせん 事項 じこう に割 わ り当 あ てられていた。領事館 りょうじかん に着 つ くと、イギリス兵 へい は抵抗 ていこう の兆候 ちょうこう が見 み られなかったため安心 あんしん してドアをノックした。ドイツ領事 りょうじ ゲーラッハはドアを開 あ け、アイスランドが中立 ちゅうりつ 国 こく であることを指摘 してき し、侵攻 しんこう に対 たい して異議 いぎ を申 もう し立 た てた。彼 かれ はデンマークもまた中立 ちゅうりつ 国 こく であったことを同様 どうよう に指摘 してき された[42] 。イギリス軍 ぐん は建物 たてもの の階上 かいじょう で炎 ほのお を発見 はっけん し、大量 たいりょう の文書 ぶんしょ が領事館 りょうじかん の浴槽 よくそう で燃 も やされているのを見 み つけた。彼 かれ らは火 ひ を消 け し、相当 そうとう 数 すう の記録 きろく 文書 ぶんしょ を押収 おうしゅう した[43] 。
イギリス軍 ぐん はまた、ドイツ貨物 かもつ 船 せん 「バイア・ブランカ号 ごう 」の乗組 のりくみ 員 いん の抵抗 ていこう も予期 よき していた。バイア・ブランカ号 ごう はデンマーク海峡 かいきょう で氷山 ひょうざん と衝突 しょうとつ し、62名 めい がアイスランドのトロ とろ ール船 るせん に救助 きゅうじょ されていた。海軍 かいぐん 情報 じょうほう 部 ぶ はそのドイツ人 じん らは実 じつ はドイツ潜水 せんすい 艦 かん の予備 よび 乗組 のりくみ 員 いん だと信 しん じており、アイスランドの外 そと で活動 かつどう していると考 かんが えていた[44] 。実際 じっさい には武器 ぶき を持 も たないドイツ人 じん は何事 なにごと もなく捕 と らえられた[45] 。
イギリス軍 ぐん はドイツの侵攻 しんこう のいかなる危険 きけん にも事前 じぜん に対処 たいしょ することになっていたが、実際 じっさい に計画 けいかく されることはなかった。イギリスの侵攻 しんこう の後 のち に、ドイツはこれに介入 かいにゅう するイカロス作戦 さくせん を準備 じゅんび したが、おそらく兵站 へいたん 上 じょう の理由 りゆう により放棄 ほうき された。
その後 ご 、イギリス軍 ぐん はここの部隊 ぶたい を他 た で必要 ひつよう とし、1941年 ねん 7月 がつ 、アイスランドでの責務 せきむ をアメリカ=アイスランド防衛 ぼうえい 協定 きょうてい に基 もと づきアメリカ に移管 いかん することに同意 どうい した。イギリスはアルシングにアメリカの占領 せんりょう 軍 ぐん を承認 しょうにん するよう説得 せっとく し、アイスランドには成人 せいじん 男性 だんせい の人口 じんこう を上回 うわまわ る4万 まん の占領 せんりょう 軍 ぐん が駐留 ちゅうりゅう した(当時 とうじ のアイスランドの総 そう 人口 じんこう は約 やく 12万 まん 人 にん )。
占領 せんりょう の後 のち 、多 おお くのイギリス軍 ぐん の半円 はんえん 形 がた プレハブ兵舎 へいしゃ (ニッセン・ハット 、Nissen hut )が後 のち に残 のこ された。それは戦後 せんご の住宅 じゅうたく 不足 ふそく の折 おり に民間 みんかん の住宅 じゅうたく に使用 しよう された。
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