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アタリショック - Wikipedia コンテンツにスキップ

アタリショック

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Atari VCS1977ねん)。北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちば勃興ぼっこうさせ、そして崩壊ほうかいさせた。

アタリショック英語えいご: Video game crash of 1983)とは、1982ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおける年末ねんまつ商戦しょうせん発端ほったんとする、北米ほくべいのゲーム市場いちばこった家庭かていようゲーム売上うりあげ不振ふしんのことである[1]

この崩壊ほうかいにはAtari VCS以外いがいのゲーム家庭かていようゲーム市場いちばふくまれる。パソコンゲーム市場いちばや、欧州おうしゅう日本にっぽんなど北米ほくべい以外いがいのゲーム市場いちばふくまれない。

概要がいよう

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北米ほくべいにおける家庭かていようゲームの売上うりあげだかは、1982ねん時点じてんやく32おくドル同年どうねんまつ日本円にほんえんやく7520おくえん)にたっしていたが、1985ねんには1おくドル(同年どうねんまつ日本円にほんえんやく200おくえん)にまで減少げんしょうした。北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちば崩壊ほうかいし、ゲームホビーパソコン販売はんばいしていた大手おおてメーカーのいくつかが破産はさんまれた。ゲーム市場いちば最大手さいおおてであったアタリしゃ崩壊ほうかい分割ぶんかつされた。

1980年代ねんだい後半こうはんには、ヒットさく発売はつばい新型しんがたゲーム投入とうにゅう相次あいつぎ、低迷ていめいした北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちば徐々じょじょ回復かいふくしていった。

その背景はいけいについて、1983ねん当時とうじ任天堂にんてんどう社長しゃちょう山内やまうちひろし講演こうえんかいで「新型しんがたゲーム出現しゅつげんによるAtari 2600の陳腐ちんぷアーケード・ゲーム劣化れっか移植いしょくサード・パーティー大量たいりょう駄作ださく投入とうにゅうしたことから、消費しょうひしゃがゲーム失望しつぼうあたらしいカートリッジを意欲いよくうしなったため」とかたっている。また、1984ねんにはファミコンのサードパーティーにたいして、米国べいこくゲーム市場いちば教訓きょうくんから「粗悪そあくなソフトが氾濫はんらんしないように任天堂にんてんどう承認しょうにんけたものだけをつくるように注文ちゅうもんしている 」と経済けいざいのインタビューにこたえている[2]

また、山内やまうちは1986ねんにも海外かいがいにおいて、「サードパーティーによるてい品質ひんしつゲームソフト(ぞくう「クソゲー」)の乱発らんぱつがアタリの市場いちば崩壊ほうかいまねいた」という趣旨しゅしでその原因げんいんたいする自身じしん認識にんしきべている[3]。これは後世こうせいまで業界ぎょうかい共通きょうつう認識にんしきとなっており、2010ねん当時とうじ任天堂にんてんどう社長しゃちょうである岩田いわたさとしは、「粗悪そあくなソフトが粗製そせい濫造らんぞうされたことで、おきゃくさんからの信頼しんらいうしなってしまった」と定義ていぎしている[4]。ここからてんじて、ハードやジャンルにかかわらずゲームソフト供給きょうきゅう過剰かじょう粗製そせい濫造らんぞうにより、ユーザーがゲームたいする興味きょうみ急速きゅうそくうしない、市場いちば需要じゅようおよび市場いちば規模きぼ急激きゅうげき縮退しゅくたいする現象げんしょうを「アタリショックの再来さいらい」またはたんに「アタリショック」とぶこともある。

日本にっぽんでは1996ねんNHK放送ほうそうされた『しん電子でんし立国りっこく』でげられてひろられるようになった。ただし、番組ばんぐみべられたように1982ねんクリスマス商戦しょうせんでいきなり市場いちば崩壊ほうかいしたわけではなく、以下いかしめすように1982ねんから1985ねんにかけて複雑ふくざつ経過けいかをたどった。


また、アタリショックのこった大量たいりょう不良ふりょう在庫ざいこ埋葬まいそうしたとされる「ビデオゲームの墓場はかば」が存在そんざいするという都市とし伝説でんせつがあったが、これは2014ねん真実しんじつであったことが証明しょうめいされた[5]

事象じしょう

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1977ねんにアメリカでアタリしゃから発売はつばいされたテレビゲームAtari 2600発売はつばい当初とうしょはVideo Computer Systemとばれた。以下いか一般いっぱん略称りゃくしょうVCS表記ひょうき)」は、それまでゲームのハードウェア本体ほんたい内蔵ないぞうされていたゲームソフトプログラムROMを、カートリッジおさめて外部がいぶから供給きょうきゅうできるようにし、これが爆発ばくはつてき人気にんきはくした[1]。しかし、どうゲームのブームは、発売はつばい開始かいしから5ねんほどでわる。

以下いかに、VCSとその関連かんれん商品しょうひん市場いちば辿たどった状況じょうきょうを、じゅんってしめす。

VCSの成功せいこう

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はつのサードパーティとしてActivision設立せつりつ(1979ねん)。名作めいさくおおい。

アタリしゃは、外部がいぶからソフトウェアをえられるAtari VCSを1977ねん発売はつばい当初とうしょはさっぱりれなかったが、1980ねんよりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『バトルゾーン英語えいごばん』などの人気にんきゲームが、アーケードゲームから数多かずおお移植いしょくされ、人気にんきいた。

アタリしゃ上層じょうそう対立たいりつして独立どくりつしたゲーム製作せいさくしゃたちがおこしたアクティビジョンしゃが1979ねん設立せつりつされ、家庭かていようゲーム史上しじょうはつのサードパーティとしてVCSようのソフトをリリースした。アタリは当初とうしょサードパーティをみとめず、アクティビジョンにたいして販売はんばいめの裁判さいばんこしたが、ロイヤリティ支払しはらうことで1982ねん和解わかい。サードパーティせいソフトの制作せいさく合法ごうほうであるとみとめられ、それをきっかけに多数たすうサードパーティーメーカーが参入さんにゅうした。

これによりげはさらにきゅう加速かそく、アタリにたいしてロイヤリティさえはらえば基本きほんてき何処どこだれでも・自由じゆうに・アタリしゃ関係かんけいなく、同機どうき動作どうさするソフトウェアを開発かいはつし、販売はんばいすること可能かのうになった[1]。このため、市場いちばには様々さまざまなゲームソフトが流通りゅうつうし、様々さまざまなゲームメーカーが勃興ぼっこうおおくのひとたのしまれるゲームソフトを発売はつばいしていったのである。

それらゲームソフトを再生さいせいするためのゲーム本体ほんたい売上うりあげ華々はなばなしく、出荷しゅっか台数だいすう最終さいしゅうてきに1400まんだいえた。

当時とうじVCSをはじめ、かくハードのプログラム仕様しようなどは公開こうかいされていなかったが、かくサードパーティはファーストパーティから開発かいはつしゃいたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発かいはつしていた。アタリ自身じしん競合きょうごうゲームであるマテルインテレビジョン開発かいはつしゃいて雇用こようしていたほどである(そのためマテルから産業さんぎょうスパイうたがいでうったえられた)。

粗製そせい濫造らんぞうかげ

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北米ほくべいではラリーおじさんのパッケージでお馴染なじみのシリアル食品しょくひんメーカー、クエーカーオーツがVCSに参入さんにゅう(1982ねん)。

しかし1982ねんごろより、家庭かていようゲーム市場いちば急激きゅうげき拡大かくだいられて、ゲームをつくったこともない業種ぎょうしゅのメーカーがVCSのサードパーティとして参入さんにゅうした。それらのメーカーのやとった開発かいはつしゃは、アタリやアクティビジョンなどの開発かいはつしゃとはちがってまともにゲームをつく能力のうりょくがないことから、非常ひじょうしつひくいソフトまでもが市場いちばあふかえった。極端きょくたんれいとして、VCSに参入さんにゅうしたクエーカーオーツ朝食ちょうしょくシリアルのメーカー)やピュリナペットフードのメーカー)などがられる。それらのメーカーはてい品質ひんしつゲームソフトにおおきな宣伝せんでんち、家庭かていようゲーム市場いちば全体ぜんたい信用しんようそこなわせた。

この当時とうじ、アタリしゃ発売はつばいされているゲームの内容ないよう一切いっさい把握はあくしていなかった。また、ユーザーサイドにったゲームレビュー雑誌ざっし台頭たいとうしておらず[ちゅう 1]基本きほんてきにユーザーは玩具おもちゃてん店頭てんとうで、ゲームソフトのパッケージから、中身なかみしつ推察すいさつするしかなかった[8]

こうして、ユーザーは「って自宅じたくのVCSにむまで、本当ほんとう面白おもしろいかどうかわからない」ような状況じょうきょうにまでなり、ユーザーの購買こうばい意欲いよく減退げんたいまねいた。

この一方いっぽうで、ゲームを製造せいぞう販売はんばいしていた弱小じゃくしょう製作せいさく会社かいしゃ勃興ぼっこう衰退すいたいかえし、そのはげしい新陳代謝しんちんたいしゃなかで「開発かいはつ企業きぎょう倒産とうさん」・「在庫ざいこ処分しょぶん」・「市場いちばにそれらがながれて、ゲームソフト定価ていかラインを崩壊ほうかいさせる」といった現象げんしょう多発たはつさせることとなった。つまり、倒産とうさんながれのソフトが安価あんか販売はんばいされているとなりにあって、新作しんさくソフトの販売はんばい価格かかくはいかにも高価こうかうつり、ユーザーのびかえをまねいたのである。

それにくわえて、アタリしゃ発売はつばいしたビッグタイトルにもおおきな失敗しっぱいさくがあった。たとえばアーケードの大人気おとなげタイトル『パックマン』のVCS移植いしょくばん出来できではなく、映画えいがE.T.』を題材だいざいとしたゲームは非常ひじょう評判ひょうばんわるかった。1982ねん発売はつばいされたこれらのビッグタイトルはそれなりのげがあったものの、極端きょくたん生産せいさん過剰かじょうであったため、アタリしゃにとっておおきな損失そんしつになっただけでなく、ユーザーの信用しんよううしな結果けっかにもなった[9]

生産せいさん過剰かじょう背景はいけいには、1981ねん10がつ当時とうじ売上うりあげ増大ぞうだい生産せいさんいつかないことを問題もんだいしていたアタリが、かく販売はんばい代理だいりてんたい翌年よくねんぶん一括いっかつ発注はっちゅうもとめたことがある。代理だいりてん在庫ざいこれをけるために大量たいりょう水増みずま発注はっちゅうおこない、アタリはそれを鵜呑うのみにして需要じゅよう予測よそくあやまったまま生産せいさんおこなった。そしていざ1982ねんになると発注はっちゅうおおくがキャンセルされてしまい、大量たいりょうのこりをかかえる羽目はめになったのである[10]

なお、のちアタリショック最大さいだい要因よういんにしてクソゲーの象徴しょうちょうともされることになる[独自どくじ研究けんきゅう?]『E.T.』は、アタリショックの1983ねん9がつに14だいのトラックに満載まんさいされてニューメキシコしゅうアラモゴルド砂漠さばくめられた(ビデオゲームの墓場はかば)、と当時とうじニューヨーク・タイムズ報道ほうどうされている[11]。この「ビデオゲームの墓場はかば」はアタリショックとクソゲーの象徴しょうちょうとしてなか都市とし伝説でんせつして後世こうせいかたられていたが、2014ねん4がつ当該とうがい地域ちいきで「発掘はっくつ調査ちょうさ」がおこなわれ、実際じっさいに『E.T.』が発掘はっくつされたことにより実在じつざいしたことが確認かくにんされた(詳細しょうさいについては当該とうがい項目こうもく記載きさい参照さんしょう)。

市場いちば飽和ほうわ供給きょうきゅう過剰かじょう

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マテル・インテレビジョン(1980ねん)。ほかにも多数たすうのゲーム存在そんざいした。

1983ねん当時とうじ市場いちばにはAtari 2600(VCS)のほかにも、Atari 5200バリーアストロケード、コレコ・コレコビジョンコレコジェミニエマーソン・アルカディアフェアチャイルド・チャンネルFマグナボックスオデッセイ2マテルインテレビジョンSears Tele-Games systemsTandyvisionVectrexなどのゲーム存在そんざいしており、さらにOdyssey3やAtari 7800った次世代じせだい発表はっぴょうされていた。かくゲームはそれぞれが豊富ほうふなゲームソフトのライブラリとサードパーティをかかえていたが、ソフトのラインナップをわせるために粗製そせいてい品質ひんしつゲームソフトが乱発らんぱつされ、供給きょうきゅう過剰かじょう状態じょうたいであった。

Atari VCSにかぎってうと、発売はつばいから6ねんはいったVCSはすできゅう世代せだいになりつつあるとともに、北米ほくべい普及ふきゅうしきっており、ハードてきにはこれ以上いじょうシェアをばすのはむずかしかった。すで市場いちば飽和ほうわしており、北米ほくべい市場いちばかぎられたパイをかくハードでうば状態じょうたいとなっていた。

てい価格かかくパソコンとの競争きょうそう

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コモドール64(1982ねん)。ホビーパソコンのマーケティング戦略せんりゃくは、ゲームのイメージをそこなわせた。

1970年代ねんだい後半こうはんまでは、パソコンおもにパソコン専門せんもんてんにおいて1,000あめりかドル程度ていど価格かかく流通りゅうつうしていた。これは2007ねん時点じてんにおいては、やく2,500あめりかドルに相当そうとうする。しかし1970年代ねんだい終盤しゅうばん1980年代ねんだい初頭しょとうには、カラーグラフィックス機能きのうち、サウンド機能きのう強化きょうかされた、テレビに接続せつぞくするタイプのパソコンが登場とうじょう。このようなパソコンはホームコンピュータばれ、Atari 400Atari 8001979ねん)がはつ製品せいひんであったが、すぐに各社かくしゃから競合きょうごう機種きしゅ登場とうじょうし、販売はんばい競争きょうそうはじまった。はげしい価格かかく競争きょうそうによりてい価格かかくすすみ、1982ねん10月の段階だんかいでの市場いちば小売こうり価格かかくは、VIC-20が259.95あめりかドル(当時とうじ日本円にほんえんやく7まん2せんえん)、コモドール64が595.00あめりかドル(やく16まん5せんえん)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95あめりかドル(やく4まん7せんえん)と649.95あめりかドル(やく18まんえん)、TI-99/4Aが199.95あめりかドル(やく5まん5せんえん)であった[12]

これらのホームコンピュータは、VCSよりもおおくのメモリを搭載とうさいし、グラフィックやサウンド機能きのうでもVCSを凌駕りょうがしていたため、VCSより高度こうどなゲームが実現じつげんできた。くわえて、ワープロ会計かいけい処理しょりといった、ゲーム以外いがい用途ようとにも使用しよう可能かのうであった。また、これらのパソコンのおおくは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通りゅうつうひろもちいていたものの、フロッピーディスクカセットテープのゲームも流通りゅうつうされ、これらのゲームはROMカートリッジのゲームにくらべてずっと容易よういにコピーできた。

ホームコンピュータを販売はんばいした各社かくしゃなかでも、コモドールしゃはゲームユーザーをねらったマーケッティング戦略せんりゃくり、広告こうこくにおいて、コモドール64の購入こうにゅうさいに、のホームコンピュータやゲーム下取したどりをおこなうことや、大学だいがく進学しんがく目指めざ子供こどもはゲームよりホームコンピュータを購入こうにゅうすべき、とうたった。アタリしゃマテルしゃ調査ちょうさでは、この広告こうこく戦略せんりゃくにより、両社りょうしゃ家庭かていようゲームのイメージや販売はんばいおおきなダメージがあったことが確認かくにんされている(※下取したど戦略せんりゃくは1983ねんになってからであるてんには注意ちゅうい)。

また、コモドールしゃは、のホームコンピュータ・メーカーとはことなり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具おもちゃてんなど、家庭かていようゲーム同様どうよう流通りゅうつうルートで販売はんばいした。モステクノロジーしゃという半導体はんどうたい企業きぎょう傘下さんかおさめ、MOS 6502 CPUはじめとする同社どうしゃせい半導体はんどうたい数多かずおおくコモドールしゃせいホームコンピュータに採用さいようするという垂直すいちょく統合とうごう戦略せんりゃくにより、大胆だいたんてい価格かかく実現じつげんできていた。

市場いちば崩壊ほうかい

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アタリの市場いちば崩壊ほうかい親会社おやがいしゃのワーナーをも直撃ちょくげき(1982ねん)。経営けいえい悪化あっかしたアタリは1984ねん分割ぶんかつ売却ばいきゃくされる。

こうしてむかえた1982ねんクリスマス商戦しょうせんでは、かつてないほどの莫大ばくだいかずのゲーム・ゲーム販売はんばいされることとなり、流通りゅうつう販売はんばいがわ強気つよき在庫ざいこ確保かくほ奔走ほんそうした。業界ぎょうかいでは1982年度ねんどのゲーム業界ぎょうかい市場いちば規模きぼは38おくドルにたっするとの市場いちば予測よそくで、きわめて楽観らっかんてきであった。しかし現実げんじつ前述ぜんじゅつのような状態じょうたいで、北米ほくべいゲーム市場いちばにぎっていたアタリは自社じしゃきわめて楽観らっかんてき業績ぎょうせき予測よそくたせる見込みこみが12月の時点じてんでなくなったため、12月8にち、アタリは1982年度ねんどだい4半期はんき業績ぎょうせき予測よそく下方かほう修正しゅうせい。これは投資とうし衝撃しょうげきあたえ、当時とうじのアタリしゃ親会社おやがいしゃであるワーナー・コミュニケーションズまでみ、12月8にちからよく12がつ9にちにかけて、株価かぶか大幅おおはば下落げらく誘発ゆうはつしている。マテル・コレコなどの競合きょうごう他社たしゃ、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売こうりのトイザらスなどの関連かんれん銘柄めいがらあおりをって軒並のきな株価かぶかげた。

一方いっぽう供給きょうきゅう過剰かじょう状態じょうたいであった小売こうりてんでは、店頭てんとうならべられなくなったゲームを販売元はんばいもと返品へんぴんしようとしたが、経営けいえいくるしい販売元はんばいもとにはその対価たいかとして小売こうりてん返金へんきんするキャッシュがなかった。1982ねんのクリスマス商戦しょうせんわった直後ちょくごに、のちに『スペランカー』を制作せいさくするティム・マーティンが在籍ざいせきしたGames by Apolloしゃや、クエーカーオーツ傘下さんかとしててい品質ひんしつソフトウェアを乱発らんぱつしたUS Gamesしゃふくむ、複数ふくすう中小ちゅうしょうメーカーが倒産とうさん

この1982ねんのクリスマスがアタリショックの発端ほったんとされている。ただし1982年度ねんど市場いちば規模きぼは30おくドルをえるなど市場いちば依然いぜんおおきく、この時点じてんではまだ市場いちば崩壊ほうかいえる状態じょうたいではなかった。

1983ねん全米ぜんべい小売こうりてんおおくは不良ふりょう在庫ざいこのゲームソフトを大量たいりょうかかえていた。倒産とうさんした弱小じゃくしょうメーカーのソフトはメーカーに返品へんぴんすることができなかったため、小売こうりてん在庫ざいこ処分しょぶん価格かかくでこれらのソフトを販売はんばいした。在庫ざいこ処分しょぶんではない正規せいきのソフトの価格かかくもそれにつられてげざるをなくなり、アタリも値下ねさげに追随ついずい業界ぎょうかい値下ねさげラッシュにはいった。それまで大体だいたい30ドル(やく7せんえん)だったソフトの販売はんばい価格かかく一気いっきに5ドル(やく1,200えん)にまでがり、2ドル(やく480えん)で販売はんばいされるゲームすら登場とうじょうした。

1983ねんはいっても市場いちば依然いぜん活発かっぱつで、発売はつばいタイトルも販売はんばい本数ほんすうもかなりおおかったが、1983ねん6がつまでには正規せいき価格かかくのソフト市場いちば大幅おおはば縮小しゅくしょうしており、ユーザーは在庫ざいこ処分しょぶん価格かかくのソフトをおももとめるようになっていた。ゲームがてい価格かかくしたことは当初とうしょはユーザーに歓迎かんげいされたようだが、やがてったソフトがどれもてい品質ひんしつという現実げんじつ直面ちょくめんする。そして、てい品質ひんしつなこれらのソフトにうんざりしたユーザーのおおくは、高価こうかだがクオリティのたかいソフトを見直みなおすこともなく、ゲームそのものをめてしまった。

販売はんばい価格かかくがったうえにゲームのげが一気いっきち、かくゲームメーカーの経営けいえい一気いっき悪化あっかしたが、とくにアタリを直撃ちょくげきした。アタリの経営けいえいは1983ねんだい2四半期しはんきには極端きょくたん悪化あっかしていた。赤字あかじまらないアタリのコンシューマ部門ぶもんは1984ねん分割ぶんかつ売却ばいきゃくされた。買収ばいしゅうしたのはアタリを崩壊ほうかいさせた一因いちいんであるコモドールの創業そうぎょうしゃジャック・トラミエルである。

さらに、影響えいきょうはアタリしゃ以外いがいのゲーム関連かんれん企業きぎょうにもひろおよび、アタリしゃのゲーム競合きょうごうするゲーム製造せいぞうしていたマグナボックスしゃおよコレコしゃは、本業ほんぎょうがゲームではないこともあり、市場いちば崩壊ほうかいまれるのをおそれてゲーム事業じぎょうから撤退てったいした。また、大手おおてゲームソフトメーカーであるImagicしゃは、新規しんき株式かぶしき公開こうかい断念だんねんせざるをず、このなんねんには倒産とうさんまれた。最大手さいおおてのゲームソフトメーカーであったアクティビジョンしゃは、パソコンゲーム市場いちばでの成功せいこうなどによりのこることに成功せいこうしたものの、VCSに参入さんにゅうしていたほとんどの中小ちゅうしょうゲームソフトメーカーは倒産とうさんしてしまった。

「ゲーム時代じだいわった」とかんがえた北米ほくべい小売こうり業者ぎょうしゃも、ゲームあつかいをやめてしまった。そしてこののち後述こうじゅつのアメリカばんファミリーコンピュータNES”が発売はつばいされるまで、アメリカの家庭かていようゲーム市場いちば最悪さいあく氷河期ひょうがきむかえる。

一方いっぽう、アタリショックによって倒産とうさんしたゲームメーカーの開発かいはつしゃがホビーパソコンようゲーム市場いちば参入さんにゅう北米ほくべいでNESがブームとなる1988ねんごろまで北米ほくべいホビーパソコンようゲーム市場いちば隆盛りゅうせいむかえることとなった。

NESによる復興ふっこう

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任天堂にんてんどう・NESが北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちば復興ふっこうした(1985ねん)。

1985ねん北米ほくべいばんファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売はつばいたっては、ゲーム抵抗ていこうかん小売こうり業者ぎょうしゃ説得せっとく最大さいだい障壁しょうへきとなった。日本にっぽんにおけるファミコンの販売はんばい台数だいすうは1984ねん時点じてんで44まんだい人気にんきはそれほどでもなく、日本にっぽんでもこれからはMSXのようなホビーパソコンの時代じだいるとの憶測おくそくひろがっており、ましてやホビーパソコンの販売はんばい競争きょうそうがピークをむかえていたさなかの北米ほくべい小売こうりからはまった相手あいてにされなかった[13]北米ほくべい小売こう大手おおてのトイザらスの担当たんとうしゃが「任天堂にんてんどうVS.システム」をってくれていたため、NESの北米ほくべい発売はつばいまでこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使つかえる」などの付加ふか価値かちをアピールせざるをなかった。console(ゲーム)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名めいめいされたのもそれが理由りゆうであり、小売こうり業者ぎょうしゃもとめにおうじてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲームではない」ことを納得なっとくさせたという[14]

マテルやコレコのゲームにはサードパーティを防止ぼうしするプロテクトがほどこしてあった一方いっぽうで、アタリVCSはプロテクトがほどこされておらず、ハードメーカーの許認可きょにんかなくてもサードパーティが合法ごうほうてきてい品質ひんしつゲームソフトをリリース出来できたり、また違法いほう海賊版かいぞくばん野放のばなしになったことは業界ぎょうかい教訓きょうくんとなった。アタリVCSでは、てい品質ひんしつではあってもいちおう合法ごうほうてきな「クソゲー」のほかにも、たとえば『カスターズ・リベンジ』(エロゲー)などといった違法いほうなゲームが販売はんばいされ、全米ぜんべいでニュースとなったためにアタリにまで大量たいりょう苦情くじょうて、これもVCSの評判ひょうばんとした一因いちいんとなった。アタリショックの再来さいらいふせぐため、NESではハードウェアプロテクトがきびしくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載とうさいされるようになった(アタリショック以前いぜん発売はつばいされた日本にっぽんのファミコンには搭載とうさいされていなかったため、日本にっぽんでは「ダビング」(現代げんだいでいうマジコン)などとばれる違法いほう機器きき出回でまわり、違法いほうなエロゲーもた)また、品質ひんしつてきにもきびしく管理かんりされており、NESではサードパーティせいソフトにたいして任天堂にんてんどう社内しゃないで「ロットチェック」とばれる工程こうていおこなわれ、任天堂にんてんどう制作せいさくガイドラインに適合てきごうしないソフトウェアの販売はんばいはできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規せいきばんであることと、こう品質ひんしつであることを証明しょうめいする「Original Nintendo Seal of Quality 」とかれたシールがられている。

こう品質ひんしつなゲームを保証ほしょうするためにサードパーティが年間ねんかんにリリースできるソフトのかず制限せいげんする「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社かいしゃつくって作品さくひんをリリースする会社かいしゃあらわれるなどの回避かいひれい一部いちぶにあったものの(有名ゆうめいれいでは、原作げんさくしゃが「クソ」とったNESばんメタルギア』と、これをリリースしたコナミのダミー会社かいしゃ「ウルトラゲームズ」)、結果けっかとしてはNESではてい品質ひんしつソフトウェアによる市場いちば崩壊ほうかいこらなかった。一方いっぽう海賊版かいぞくばんゲームソフトは、1980年代ねんだい後半こうはんから1990年代ねんだいにかけて東南とうなんアジアや南米なんべいおおきな問題もんだいとなったが、日本にっぽんやアメリカでは1980年代ねんだいには著作ちょさくけんほう整備せいびされていたこともあり、プロテクトチップが搭載とうさいされていない日本にっぽんばんファミコンや北米ほくべいばんアタリVCSでも懸念けねんされたほどの被害ひがいはなく、違法いほうなエロゲーもすぐに販売はんばい禁止きんしされている。

1985ねんにはファミコン(NES)のキラーソフトとして『スーパーマリオブラザーズ』が発売はつばいされ、人気にんきいた。当初とうしょ日本にっぽんせいゲームがおもだったNESも、1987ねんごろより北米ほくべいサードパーティが続々ぞくぞく参入さんにゅうし、北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちばは1988ねんに23おくドル(同年どうねんまつ日本円にほんえんやく2875おくえん)、1989ねんに50おくドル(同年どうねんまつ日本円にほんえんやく7150おくえん)にまでたっし、ようやくアタリショックからの復興ふっこうげられた。

ここまでが、今日きょうわれている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要がいようである。この名称めいしょうは「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価ひょうかについては「神話しんわ」がふくまれていることを、ファミコンの設計せっけいしゃである上村うえむら雅之まさゆき指摘してきしている[13]

その

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NESの獲得かくとくした市場いちばは5ねんでSega Genesisにうばわれた(1990ねん)。そのセガも5ねんでソニーに市場いちばうばわれた

NESにおいててい品質ひんしつゲームソフトの氾濫はんらん=アタリショックの再来さいらいふせぐためとの名目めいもく任天堂にんてんどうった強権きょうけんてきなサードパーティ管理かんり方式ほうしきは、一時いちじてきには成功せいこうしたとかんがえられ、SNESやNINTENDO 64など、その任天堂にんてんどう発売はつばいしたすべてのゲームでおおむね踏襲とうしゅうされている。しかし、その強権きょうけんてき姿勢しせいエレクトロニック・アーツテンゲンといった大手おおてサードパーティとの確執かくしつみ(とくにテンゲンとは親会社おやがいしゃのアタリをもんで裁判さいばん沙汰ざたとなった)、1990ねんにはこれらのメーカーの支持しじけたセガ・GenesisがNESやSNESにわって北米ほくべい市場いちばシェアをにぎ結果けっかとなり、そのソニープレイステーションなどが北米ほくべい市場いちば支配しはいすることとなった。

アタリはゲーム市場いちばでVCSのような人気にんきられないまま、アタリ・ジャガー最後さいごに1996ねんにゲーム市場いちばから撤退てったいした。NESの成功せいこう以降いこう北米ほくべいのゲーム市場いちばながらく日本にっぽんせいゲーム席巻せっけんし、北米ほくべいのゲーム市場いちば人気にんき北米ほくべいはつのゲームは2001ねんXboxたねばならない。

21世紀せいきはいるとアタリショックの記憶きおくうすれ、「アタリショックはかった」「ビデオゲームの墓場はかば都市とし伝説でんせつだ」などとかんがえるものあらわれている。そこで2014ねん4がつ、Xbox Entertainment Studiosの企画きかくでビデオゲームの墓場はかばかえされ、『E.T.』などのカートリッジが実際じっさい発掘はっくつされた。これにからめてアタリ関係かんけいしゃにもあらためて取材しゅざいがなされ、ザック・ペン監督かんとくによって『Atari: Game Over』として映画えいがされ、11月にXbox Liveで配信はいしんされた。発掘はっくつされた『E.T.』のうちいちほんはアタリショックの証人しょうにんとしてスミソニアン博物館はくぶつかんぐん国立こくりつアメリカ歴史れきし博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされている。

世界せかいてき影響えいきょう

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ヨーロッパ

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アタリショックとどう時期じき欧州おうしゅう流行りゅうこうしていたZX Spectrum(1982ねん)。1990年代ねんだいはじめまで人気にんきつづいた。

欧州おうしゅうへのアタリショックの影響えいきょうはほとんどなかった。Atari VCS市場いちば崩壊ほうかいによって一時いちじてき北米ほくべいゲーム市場いちば覇者はしゃとなったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ほくべいではNESが普及ふきゅうする1980年代ねんだい後半こうはんから1990ねんにかけて急激きゅうげき人気にんきらしていったが、一方いっぽう北米ほくべいゲーム市場いちばでの成功せいこう足掛あしがかりに欧州おうしゅう人気にんきはくし、欧州おうしゅうで「ゲームパソコン」として1990年代ねんだい中頃なかごろまできながらえることが出来できたのが、ある意味いみ間接かんせつてき影響えいきょうである。

1983ねん当時とうじ、VCSはアメリカからの輸入ゆにゅううこともあって高価こうかなため、当時とうじのヨーロッパではあまり普及ふきゅうしていなかった。一方いっぽう欧州おうしゅうでは1982ねんにイギリスでホビーパソコンのZX Spectrum発売はつばいされ、北米ほくべいでアタリショックがこった1983ねん時点じてんで、「ゲームようホビーパソコン」としてヨーロッパちゅう爆発ばくはつてき人気にんきていた。欧州おうしゅうではNESの発売はつばいが1987ねんおそく、しかもマーケティングが失敗しっぱいしたこともあり、1990年代ねんだいはじめまでホビーパソコンの時代じだいつづくこととなった。

1990年代ねんだい時代遅じだいおくれとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能こうせいのうで16ビットよりやすくてゲームがそろっていたため、東欧とうおうではまだまだ人気にんきだった。

日本にっぽん

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アタリショックとどう時期じき日本にっぽん流行りゅうこうしていたファミコン(1983ねん)。

日本にっぽんへのアタリショックの影響えいきょうもほとんどなかった。当時とうじ日本にっぽんはVCSはおろかゲーム自体じたい一般いっぱんひろくは普及ふきゅうしていなかった。アタリショック北米ほくべいでホビーパソコンのブームがこった結果けっか、そのそうあつさからMSX筆頭ひっとうとする日本にっぽんのパソコンメーカーによる北米ほくべいホビーパソコン市場いちばへの進出しんしゅつはばまれたのがある意味いみ間接かんせつてき影響えいきょうである[ちゅう 2]北米ほくべいでアタリショックがこっていた1983ねんには、ちょうど日本にっぽんでは家庭かていようゲーム発売はつばいブームとなり、各社かくしゃから多数たすう家庭かていようゲーム発売はつばいされている。最終さいしゅうてきにファミコンが人気にんき独占どくせんするが、この時点じてんではスーパーカセットビジョンやセガ・SG-1000なども日本にっぽんでそこそこれていた。

北米ほくべいでは1984ねんから1985ねんにかけて家庭かていようゲーム市場いちば急激きゅうげき縮小しゅくしょうしているが、日本にっぽんでは1985ねんにファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売はつばいされ、ぎゃく家庭かていようゲーム市場いちば爆発ばくはつてき拡大かくだいしている。しかし当時とうじ任天堂にんてんどう内部ないぶではアタリショックの再来さいらい非常ひじょうおそれていたことを当時とうじ任天堂にんてんどう経理けいり部長ぶちょう今西いまにしひろし証言しょうげんしており[4]、1986ねんには確立かくりつされるファミコンのきびしいライセンス制度せいど背景はいけいとなっている。北米ほくべいではアタリ以外いがい各社かくしゃすでにゲームから撤退てったいした1985ねんから1986ねんにかけて、ぎゃく任天堂にんてんどうとセガは北米ほくべい進出しんしゅつし、なかでも任天堂にんてんどうがアタリショック北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちばをほぼ独占どくせんした。

アタリショックを経験けいけんしなかった日本にっぽんでは欧米おうべいほどホビーパソコンは普及ふきゅうしなかったが、パソコンようゲーム市場いちばではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心ちゅうしん多数たすう作品さくひんまれ、それらのソフトがゲーム移植いしょくされることでゲームようソフトの多様たようせいたかまり、ゲーム価値かち一層いっそうすことになった。

それ以外いがい地域ちいき

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アタリショック発売はつばいされたAtari 2600Jr(1986ねん)。途上とじょうこくなどではこのころよりVCSの普及ふきゅうはいる。

それ以外いがい地域ちいきへの影響えいきょうもほとんどなかった。アタリショック、1985ねんには北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちばそこち、1986ねんよりNESの普及ふきゅうはじまるが、一方いっぽう1986ねんにはAtari VCSの廉価れんかばん通称つうしょう Atari 2600 Jr.)が発売はつばいされ、アジアや南米なんべいではぎゃくにこのころよりAtari VCSの普及ふきゅうはいる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ゲーム雑誌ざっし自体じたい存在そんざいした。とくに1982ねんまつから1983ねんにかけては複数ふくすう雑誌ざっし創刊そうかんされている[6]。また、『ビルボードには家庭かていようゲームソフトのセールスチャートが掲載けいさいされており、ソフト購入こうにゅう参考さんこうにすることができた[7]
  2. ^ 欧州おうしゅうせいホビーパソコンも北米ほくべい進出しんしゅつかなわなかった。また、日本にっぽんのホビーパソコンは欧州おうしゅうへは進出しんしゅつしており、シャープ・MZシリーズなどが人気にんきている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 山田やまだ真司しんじゲーム・ケータイの音楽おんがく「<特集とくしゅう>音楽おんがく制作せいさく情報処理じょうほうしょり友好ゆうこう関係かんけい」『システム/制御せいぎょ/情報じょうほうだい56かんだい5ごう、システム制御せいぎょ情報じょうほう学会がっかい、226 - 231ぺーじ、2012ねん 
  2. ^ 『アタリショックと任天堂にんてんどう』kindle個人こじん出版しゅっぱん、2020ねん 
  3. ^ "Video Games Gain In Japan, Are Due For Assault On U.S.". The Vindicator. June 20, 1986。海外かいがい記事きじなのでもと日本語にほんご不明ふめいだが、山内やまうち本人ほんにん言葉ことばとして"Atari collapsed because they gave too much freedom to third-party developers and the market was swamped with rubbish games."とある。
  4. ^ a b 社長しゃちょうく「スーパーマリオ25周年しゅうねんファミコン発売はつばい当時とうじ関係かんけいしゃへのインタビュー。当時とうじ任天堂にんてんどう内部ないぶのアタリショックへの恐怖きょうふかたられている。
  5. ^ 都市とし伝説でんせつの「E.T.」ゲーム、30ねんぶりに発掘はっくつ”. CNN (2014ねん4がつ29にち). 2014ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  6. ^ ウェブサイト「Digital Press」参照さんしょう
  7. ^ 参考さんこうとして『ビルボード』1982ねん11月20にちごう、p.26の「Top 15 Video Games」Google ブックス)。
  8. ^ 樺島かばしま榮一郎えいいちろう「コンテンツ産業さんぎょう段階だんかい発展はってん理論りろんからみるいちきゅうななはちさんねん北米ほくべいビデオ・ゲーム産業さんぎょう─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈かいしゃくするか」『コンテンツ文化ぶんか研究けんきゅうだい4ごう、コンテンツ文化ぶんか学会がっかい、24 - 42ぺーじ、2010ねん 
  9. ^ Matt Barton, Bill Loguidice (2008ねん2がつ28にち). “A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS” (英語えいご). Gamasutra. 2014ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ 藤田ふじた直樹なおき米国べいこくにおけるビデオ・ゲーム産業さんぎょう形成けいせい急激きゅうげき崩壊ほうかい ―現代げんだいビデオ・ゲーム産業さんぎょう形成けいせい過程かてい(1)―」『經濟けいざい論叢ろんそうだい162かんだい5-6ごう京都きょうと大學だいがく經濟けいざい學會がっかい、1998ねん11月、54-71ぺーじNAID 120000904860 
  11. ^ Atari Parts Are Dumpedニューヨーク・タイムズ
  12. ^ The Freeman PC Museum - PC Timeline
  13. ^ a b ファミコンのみのおやとスーパーマリオのデザイナーが登場とうじょう! - GAME Watch
  14. ^ "NES". Icons. Season 4. Episode 5010

関連かんれん項目こうもく

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ビデオゲームの墓場はかば」から発掘はっくつされた『E.T.』(2014ねん)。
  • Atari 2600 (Atari VCS)
  • NES - アタリショックで崩壊ほうかいした北米ほくべい家庭かていようゲーム市場いちば任天堂にんてんどうのNESによって復興ふっこうされた。
  • マテル・インテレビジョン - Atari VCSの競合きょうごう。アタリショックにまれて市場いちば崩壊ほうかいし、マテルはおおきな損失そんしつしたが倒産とうさんまぬかれた。
  • コレコ・コレコビジョン - Atari VCSの競合きょうごうコレコはアタリショックによる損失そんしつすくなかったが、ゲーム事業じぎょう見限みかぎって本業ほんぎょうのおもちゃ事業じぎょうんだ結果けっかキャベツはたけ人形にんぎょうブームへの過剰かじょう投資とうし原因げんいん倒産とうさんした。
  • アクティビジョン - アタリショックをった数少かずすくないサードパーティのひとつ。