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アダムズ=オニス条約じょうやく

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとスペインあいだ友好ゆうこう和解わかい境界きょうかいかんする条約じょうやく
Treaty of Amity, Settlement, and Limits Between the United States of America and His Catholic Majesty
アダムズ=オニス条約じょうやくによる国境こっきょうせんしめ地図ちず
1810ねんスペインりょうフロリダ
通称つうしょう略称りゃくしょう アダムズ=オニス条約じょうやく
大陸たいりく横断おうだん条約じょうやく
フロリダ購入こうにゅう
署名しょめい 1819ねん2がつ22にち
署名しょめい場所ばしょ ワシントンD.C.
おも内容ないよう スペインりょうであったフロリダ地域ちいき米国べいこくへの割譲かつじょうと、現在げんざいテキサスしゅう東部とうぶ米国べいこくとスペインりょう国境こっきょうせん画定かくてい
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アダムズ=オニス条約じょうやく(アダムズ=オニスじょうやく、Adams–Onís Treaty)[1]は、1819ねん2がつ22にち署名しょめいされたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくスペインの2こくあいだ条約じょうやく。それまでスペインりょうであったフロリダ地域ちいき米国べいこくへの割譲かつじょうと、現在げんざいテキサスしゅう東部とうぶ米国べいこくとスペインりょう国境こっきょうせん画定かくていしゅたる内容ないようである。

大陸たいりく横断おうだん条約じょうやく (Transcontinental Treaty)、フロリダ購入こうにゅう (Purchase of Florida) [2]フロリダ条約じょうやく (Florida Treaty) [3] などともばれる。

この条約じょうやくにより、かねてからのべい西にしあいだにおける国境こっきょう紛争ふんそう解決かいけつたが、総合そうごうてきには米国べいこく外交がいこう勝利しょうりだとかんがえられている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

この条約じょうやく締結ていけつ交渉こうしょうは、北米ほくべい大陸たいりくにおいてスペインが国境こっきょうせっする米国べいこく、および依然いぜんとして米国べいこく独立どくりつ余波よはにある英国えいこくあいだ緊張きんちょうたかまっており、またラテンアメリカのあちこちでは独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつしているという時期じきおこなわれた。

フロリダにかんして、スペインは、もはや植民しょくみんしゃ軍隊ぐんたいおくむといった領土りょうど維持いじ政策せいさくおこなうことができない状態じょうたいであり、むしろ重荷おもにとなっていた。

このためスペイン政府せいふは、この条約じょうやく締結ていけつ機会きかいにフロリダを手放てばなし、そのわりにスペインりょうテハス現在げんざいテキサスしゅう付近ふきん)のサビーンがわ沿いの境界きょうかい紛争ふんそう解決かいけつできればよいとかんがえた。

この条約じょうやくにより米国べいこくは、フロリダのスペイン領土りょうどないでスペイン政府せいふから土地とちはらげをけて居住きょじゅうしている米国べいこく国籍こくせき人々ひとびとへの権利けんり補償ほしょうとして最大さいだい500まんドルを支払しはらい、また、ルイジアナ購入こうにゅうにより米国べいこく帰属きぞくするとうったつづけてきたスペインりょうテハス(テキサス)のサビーンがわ西岸せいがん地域ちいきでの領土りょうど主張しゅちょうげたわりに、メキシコわんきしからロッキー山脈さんみゃくえて太平洋たいへいようきしたっする長大ちょうだい国境こっきょうせん画定かくていさせることができた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

条約じょうやくジェームズ・モンロー米国べいこく大統領だいとうりょう国務こくむ長官ちょうかんジョン・クィンシー・アダムズと、スペイン国王こくおうフェルナンド7せい [4]した外務がいむ大臣だいじんルイス・デ・オニスによって交渉こうしょうおこなわれた。

スペインの領土りょうど[編集へんしゅう]

スペインはながあいだ米国べいこくからのフロリダ購入こうにゅうもうれを拒否きょひつづけてきたが、1818ねんになり、フロリダを割譲かつじょうすることが得策とくさくだとかんがえられるような状況じょうきょうとなっていた。スペインは半島はんとう戦争せんそう疲弊ひへい状態じょうたいとなっており植民しょくみんでのプレゼンスと信用しんようさい構築こうちくする必要ひつようにもせまられていた。中南米ちゅうなんべい革命かくめいたちは独立どくりつ主張しゅちょうするようになっていた。米国べいこくからの移民いみんもの多数たすうめるフロリダにかんして、スペインにはさらなる投資とうしおこな意思いしはなく、むしろスペインりょう現在げんざいのメキシコ、中米ちゅうべいそのふく広大こうだい地域ちいき)と米国べいこく国境こっきょうせん心配しんぱいさきった。スペインの弱体じゃくたい軍隊ぐんたいでは、周期しゅうきてき越境えっきょうして米国べいこくりょう侵入しんにゅうし、むら農場のうじょう襲撃しゅうげきするセミノールインディアンを抑止よくしすることもできない状態じょうたいだった[5]

1819ねん時点じてんで、スペインはアメリカ大陸あめりかたいりくにおける領土りょうどうしないつつあり、西部せいぶにも反乱はんらんのうわさがあったため、交渉こうしょうせきにつかざるをない状況じょうきょうとなっていた。ジョージアしゅううち逃亡とうぼう黒人こくじん奴隷どれいアウトローインディアンなどを相手あいてたたかっただいいちセミノール戦争せんそうで、米国べいこくアンドリュー・ジャクソン将軍しょうぐんてきって当時とうじスペインりょうであったフロリダに進軍しんぐんした。さらにジャクソンは、米国べいこくりょうへのセミノールインディアンによる越境えっきょう襲撃しゅうげきに、フロリダ自体じたいしているとかんがえられる根拠こんきょがあるとして、「ネグロとりで」をはじめとするスペインのとりで攻撃こうげきして接収せっしゅうした。

ひがしフロリダを本拠ほんきょとするセミノールインディアンがジョージアの開拓かいたくしゃらを襲撃しゅうげきすることをめさせることと、逃亡とうぼう奴隷どれい避難ひなん場所ばしょ提供ていきょうすることを理由りゆうとして、米国べいこく陸軍りくぐん頻繁ひんぱんにスペイン領内りょうない侵攻しんこうするようになった。アンドリュー・ジャクソンが指揮しきたたかっただいいちセミノール戦争せんそうばれる一連いちれん戦闘せんとうもその一環いっかんであり、これによりアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくひがしフロリダを制圧せいあつこと成功せいこうしていた。国務こくむ長官ちょうかんであるジョン・クインシー・アダムズは「フロリダはもはや見捨みすてられて、合衆国がっしゅうこくのあらゆるてきから占領せんりょうされる危機ききひんした状態じょうたいにあるので、我々われわれがコントロールする必要ひつようがある」とべた[6]。スペインは英国えいこく仲介ちゅうかい依頼いらいしたがことわられた。当時とうじ大統領だいとうりょうであるジェームズ・モンロー閣僚かくりょう何人なんにんかは、フロリダに勝手かって侵攻しんこうしたジャクソンの即時そくじ更迭こうてつ主張しゅちょうしたが、アダムズはジャクソンの成功せいこう米国べいこく外交がいこうにとってはこのましいものであることがかっていた。交渉こうしょう容易よういすすんだ[5]

ルイジアナ[編集へんしゅう]

1803ねんルイジアナ購入こうにゅうさいしてのべい西にしあいだ国境こっきょうについては、両国りょうこくともに合意ごういをしていなかった。スペインはミシシッピがわ西岸せいがんおよびニューオーリンズはスペインりょうであるとかんがえていた。米国べいこく当初とうしょ購入こうにゅうした土地とちはロッキー山脈さんみゃく稜線りょうせんたっするものであると主張しゅちょうした[7]。その、サビーンがわ国境こっきょうとしてもよいと譲歩じょうほしたが、スペインはあくまでアロヨ・オンド(カルカシューがわ)が国境こっきょうであるとしてゆずらなかった。このふたつの河川かせんはさまれた地域ちいきルイジアナ中立ちゅうりつばれた。

条約じょうやく詳細しょうさい[編集へんしゅう]

条約じょうやくは1819ねん2がつ22にち、ワシントンでアダムズとオニスにより署名しょめいされた。批准ひじゅんは、米国べいこく南米なんべいにおいて勃発ぼっぱつしている革命かくめいたいして外交がいこうてき助力じょりょくしてくれることを長引ながびかせることを目的もくてきとしてスペインが批准ひじゅんせず、2ねんおくれた。米国べいこく上院じょういん条約じょうやく署名しょめい直後ちょくご全会ぜんかい一致いっち批准ひじゅんしていたが、スペインが時間じかんかせぎをおこなったので、あらためてもう一度いちど批准ひじゅんをする必要ひつようがあり、このとき反対はんたいしゃた。ヘンリー・クレイをはじめとする西部せいぶのスポークスマンらは、スペインにたいしてテキサスもあきらめさせるべきであると主張しゅちょうしたが上院じょういん否決ひけつされた。1821ねんの2がつ19にちに2度目どめ批准ひじゅん可決かけつされ、その3にちの2がつ22にち批准ひじゅんしょ交換こうかんされ正式せいしき条約じょうやく交付こうふされた。署名しょめいから2ねん経過けいかしていた[8]

ひがしフロリダの譲渡じょうと西にしフロリダのうち米国べいこく占領せんりょう紛争ふんそうとなっている部分ぶぶん放棄ほうき、スペインりょうメキシコとの境界きょうかいせん画定かくていによるテキサスがメキシコりょうであることの明確めいかくにより、ルイジアナ購入こうにゅうさい不明瞭ふめいりょうのままにされた国境こっきょう画定かくていにより、米国べいこく膨張ぼうちょう政策せいさく初期しょき段階だんかいわった。

米国べいこくはスペインからのフロリダ割譲かつじょうたいしては金銭きんせん支払しはらいをしていないが、当該とうがい居住きょじゅうする米国べいこくじんによるスペイン政府せいふたいする法的ほうてき金銭きんせん要求ようきゅう肩代かたがわりする名目めいもく最大さいだい500まんドル[9]支払しはらいをおこなうことを約束やくそくした。1795ねんべい西にしあいだむすばれたピンクニー条約じょうやく効力こうりょくがあり、スペインさん物品ぶっぴんをフロリダこうつうじて輸入ゆにゅうするさいには特恵とっけいてき関税かんぜい措置そちけることができた。

スペインりょうフロリダ(1763ねんから1783ねんまでえいりょう西にしフロリダおよびひがしフロリダ)は米国べいこくのものとなった。米国べいこくはテキサスのサビーン川西かわにしがんおよびそののスペインりょうたいする領土りょうど主張しゅちょう放棄ほうきした。

この条約じょうやくおおまかには、米国べいこくがフロリダとルイジアナをて、それ以西いせいのテキサスからカリフォルニア領土りょうどをスペインがたとえるが、実際じっさいには詳細しょうさい国境こっきょうせん画定かくていされた。あたらしい国境こっきょうせんはメキシコわんからサビーンがわ、サビーンがわ北緯ほくい32せん交差点こうさてんからはレッドかわたっするまで直線ちょくせんきたに、そこからはレッドかわ西経せいけい100せんとの交差点こうさてんまで国境こっきょうせんとなる。ここから西経せいけい100せん直線ちょくせん北上ほくじょうアーカンザスがわ交差こうさするてんからはアーカンザスがわ自体じたいがその水源すいげんまで国境こっきょうで、そこからきた北緯ほくい42せんにぶつかるてんまでは直線ちょくせん、さらにこの42せん西にし直進ちょくしん太平洋たいへいよういたるものであった。条約じょうやく締結ていけつには、アーカンソーがわ水源すいげん北緯ほくい42せん付近ふきんであろうとかんがえられていたが実際じっさいにはだれらなかった。1840年代ねんだいになってジョン・C・フレモントが、水源すいげん北緯ほくい42せんよりすうひゃくマイル南側みなみがわだと特定とくていしたため、この水源すいげんからきた直線ちょくせんむすせん国境こっきょうとした。このためこの国境こっきょうせん非公式ひこうしきには「階段かいだんじょう境界きょうかいせん (Step boundary)」とばれる。

オレゴン[編集へんしゅう]

オレゴン・カントリーたいするスペインの領土りょうど主張しゅちょうは、1493ねん教皇きょうこう勅書ちょくしょきたアメリカの西海岸にしかいがん植民しょくみんとする権利けんりがスペインにあたえられたこと、および1513ねん探検たんけんバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが “South Sea”(「みなみうみ」、太平洋たいへいよう)を発見はっけんし、それに接続せつぞくする土地とちについてスペインが領有りょうゆう宣言せんげんをしたこと、のふたつが根拠こんきょとなっていた。この250ねん以上いじょうにわたってつづ領土りょうど主張しゅちょう補強ほきょうするため、18世紀せいき後半こうはんになりスペインは現在げんざいカナダ ブリティッシュコロンビアしゅう軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんしょ交易こうえきしょもうけ、さらにアラスカでも主権しゅけん行為こういおこなっていた。このおかげでアダムズ=オニス条約じょうやくにより、米国べいこくはスペインから北緯ほくい42せん以北いほくのオレゴン・カントリーを取得しゅとくした[10]

米国べいこくにとってこの条約じょうやく(および1818ねん英国えいこくむすんだオレゴン・カントリーの共同きょうどう統治とうち合意ごうい)は、領土りょうどがミシシッピから太平洋たいへいようにかけてひろがったことを意味いみした。スペインかられば、テキサスを維持いじできたこととカリフォルニアとニューメキシコの植民しょくみん米国べいこく領土りょうどとの緩衝かんしょう地帯ちたいとなることを意味いみした。歴史れきしはこの条約じょうやくについて、米国べいこく太平洋たいへいよう経由けいゆして東洋とうよう諸国しょこくとの交易こうえき開始かいしするというアダムズの展望てんぼう現実げんじつのものとしたことは、米国べいこくにとっておおきな収穫しゅうかくだとかんがえている[11]

履行りこう[編集へんしゅう]

米国べいこく政府せいふは1821ねんから1824ねんあいだ委員いいんかい設置せっちして米国べいこくじんによるスペイン政府せいふへの権利けんり要求ようきゅう調査ちょうさ処理しょりおこなった。委員いいんかい設置せっちまえから、ダニエル・ウェブスターウィリアム・ワートふく多数たすう有名ゆうめい法律ほうりつ代理だいり請求せいきゅうおこなった。期間きかんちゅう委員いいんかいは1,859けんうったえを処理しょりし、720けん以上いじょう略奪りゃくだつ事案じあん特定とくていした。500まんドルはおおむね公平こうへい分配ぶんぱいされた[12]。この条約じょうやくによってスペイン(1821ねん以降いこうはメキシコ)とのあいだ緊張きんちょう緩和かんわされ、これにより議会ぎかいでは陸軍りくぐん予算よさん削減さくげん実施じっしされた。陸軍りくぐん長官ちょうかんジョン・カルフーンによって提出ていしゅつされた陸軍りくぐん近代きんだい予算よさん要求ようきゅう否決ひけつされた。

テキサスとオクラホマの部分ぶぶん国境こっきょうせんが19世紀せいきまで不正ふせいかくのままになったが、両国りょうこくともおおむ条約じょうやく順守じゅんしゅした。1848ねん、メキシコとのグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくにより米国べいこくはその領土りょうどさら拡大かくだいさせた。

その展開てんかい[編集へんしゅう]

条約じょうやく批准ひじゅんはスペインが1820ねん米国べいこくは1821ねん(このあいだスペインとメキシコのあいだ独立どくりつ戦争せんそう開戦かいせんされた)におこなわれた。スペインは1821ねん8がつ24にちコルドバ条約じょうやくいて最終さいしゅうてきにメキシコの独立どくりつみとめた。メキシコはアダムズ=オニス条約じょうやくにおいては当事とうじしゃではないが、1831ねんべいぼくあいだの1828ねんリミッツ条約じょうやくによりこの国境こっきょうせん追認ついにんした[13]

1830年代ねんだいちゅうごろ、米国べいこくは、メキシコが自国じこく有利ゆうりになるように、サビーンがわとネチェズがわ地図ちずじょう入替いれかえて国境こっきょうせんうごかしたと証明しょうめいした。この結果けっか、テキサスの東側ひがしがわ国境こっきょうせんは1836ねんテキサス共和きょうわこく成立せいりつまで確定かくてい状態じょうたいのままとなった。べいぼく戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくであるグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやく決着けっちゃくがつくまでつづいた。グアダルーペ・イダルゴ条約じょうやくでメキシコはアルタ・カリフォルニアと今日きょう米国べいこく南西なんせいばれている領土りょうど(1854ねんガズデン購入こうにゅうによる領土りょうどのぞく)を割譲かつじょうすることになった[14]

もうひとつの境界きょうかいせん問題もんだいはテキサスが米国べいこくいちしゅうとなったのちしょうじた。条約じょうやくではフランスが主張しゅちょうする北限ほくげんとスペインが主張しゅちょうする南限なんげんはリオロッホデナケテシュがわ(レッドがわ)であり、これが西経せいけい100子午線しごせんまでつづくものだった。これはジョン・メリッシュの1818ねん地図ちずにもしるされていた。ところがメリッシュ地図ちずの100子午線しごせん実際じっさいのそれより90マイルほどひがしにずれており、またレッドかわは100子午線しごせんたっする50マイルひがし二股ふたまたかれていた。テキサスは二股ふたまた北側きたがわ境界きょうかいだと主張しゅちょうし、米国べいこく二股ふたまた南側みなみがわだと主張しゅちょうした。1860ねんにテキサスはこの二股ふたまたはさまれた部分ぶぶんグリアぐん (Greer County) と命名めいめいして起立きりつさせた。この論争ろんそうは1896ねんになって合衆国がっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょ判決はんけつ米国べいこく政府せいふ主張しゅちょう支持しじされ、オクラホマじゅんしゅう編入へんにゅうされることになるまでつづいた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 正式せいしき名称めいしょうは「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとスペインあいだ友好ゆうこう和解わかい境界きょうかいかんする条約じょうやく ("Treaty of Amity, Settlement, and Limits Between the United States of America and His Catholic Majesty")
  2. ^ Britannica Online entry "Transcontinental Treaty
  3. ^ A History of British Columbia, p. 90, E.O.S. Scholefield, British Columbia Historical Association, Vancouver, British Columbia 1913
  4. ^ William E. Weeks, John Quincy Adams and American Global Empire (Lexington: University Press of Kentucky, 2002), 170-175.
  5. ^ a b Weeks (2002)
  6. ^ Alexander Deconde, A History of American Foreign Policy (1963) p. 127
  7. ^ Hämäläinen, Pekka (2008), The Comanche Empire, New Haven: Yale University Press, p. 156, ISBN 978-0-300-12654-9 .
  8. ^ Deconde, History of American Foreign Policy, p 128
  9. ^ The U.S. commission established to adjudicate claims considered some 1800 claims and agreed that they were worth $5,454,545.13. Since the treaty limited the payment of claims to $5 million, the commission reduced the amount paid out proportionately by 8⅓ percent.
  10. ^ Brooks (1939)
  11. ^ Howard Jones, Crucible of Power: A History of American Foreign Relations to 1913 (2009), p. 112
  12. ^ Cash, Peter Arnold (1999), “The Adams-Onís Treaty Claims Commission: Spoliation and Diplomacy, 1795-1824”, DAI (PhD dissertation U. of Memphis 1998) 59 (9): pp. 3611-A. DA9905078  Fulltext: ProQuest Dissertations & Theses.
  13. ^ The Border: Adams-Onís Treaty, PBS
  14. ^ Brooks (1939) ch 6

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]