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アダル・スルタンこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アダル・スルタンこく。1500ねんごろ
ソマリアのゼイラにあるアダル・スルタンこく遺跡いせき

アダル・スルタンこくソマリ: Adaal, ゲエズ文字もじ: አዳል ʾAdāl, アラビア: عدل‎, 1415ねんごろ - 1559ねんごろ)は、スルターン統治とうちするイスラーム教徒きょうと王国おうこくで、今日きょうソマリア北部ほくぶジブチ南部なんぶエチオピアソマリしゅうオロミアしゅうアファールしゅうのあたりにあった。中心ちゅうしん都市としいまはエチオピアのハラールのあたり[1]

建国けんこく背景はいけい

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民族みんぞく

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アダル・スルタンこくかんする記述きじゅつは、エチオピアの歴史れきしやアラブじん旅行りょこう時々ときどきてくる程度ていどであり、どの民族みんぞくによるくにであるかさえ正確せいかくにはかっていない。ただし、アダル・スルタンこくができるまえにこのあたりにモロッコ旅行りょこうイブン=バットゥータによると、のアダル・スルタンこく主要しゅよう都市としのひとつとなるゼイラんでいたのは黒人こくじんであることから、住民じゅうみんソマリぞくであった可能かのうせいたかい。ただし16世紀せいきはじめに活躍かつやくしたアダルの軍人ぐんじんアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーはソマリぞくともオロモじんともわれており[2]かならずしもソマリぞくだけのくにともえない。その言語げんご現地げんちアラビア両方りょうほう使つかわれていた。また、おおくのイスラーム教徒きょうと集団しゅうだんは、集団しゅうだん創始そうししゃ聖地せいちメッカ出身しゅっしんであるとの伝承でんしょうっており[3]、アラブけい住民じゅうみんがいた可能かのうせいたかい。

地理ちりてき状況じょうきょう

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キリスト教きりすときょうこくであるエチオピアとイスラーム勢力せいりょくとのあいだでは13世紀せいき以降いこうあらそいがつづいた。これには複雑ふくざつ事情じじょうがある。まず、エチオピアはふるくは北方ほっぽうアクスム根拠地こんきょちがあってダフラク諸島しょとう経由けいゆ輸出ゆしゅつおこなっていたが、13世紀せいき以降いこう拠点きょてんをシェワにうつし、港湾こうわん都市としゼイラ使つかって貿易ぼうえきをしていた。このルートでは物品ぶっぴん輸送ゆそうをイスラームけい住民じゅうみんゆだねざるをず、両者りょうしゃ共存きょうぞん関係かんけいにあった。一方いっぽう、エチオピア皇帝こうていはイスラームしょ都市としから土地とちうばってキリスト教会きょうかい寄進きしんしたため、本来ほんらいなら人心じんしんるための手段しゅだんであるはずのキリスト教きりすときょうが、いわば帝国ていこく手先てさき格好かっこうになってしまい、これらの土地とち住民じゅうみんがキリスト教化きょうかすることはついになかった[3]両者りょうしゃはしばらくは共存きょうぞんかたちっていたが、15世紀せいきのエチオピア皇帝こうていザラ・ヤコブ英語えいごばん強大きょうだい王権おうけん使つかって周辺しゅうへん勢力せいりょく武力ぶりょくしたがえたため、一方いっぽうでエチオピア帝国ていこく疲弊ひへいしてしまい、一方いっぽうでイスラーム勢力せいりょくはエチオピアへの抵抗ていこうジハード正義せいぎたたかい)と位置いちづけてしまい、対立たいりつ決定的けっていてきとなった。結局けっきょく規模きぼ大小だいしょうはあるにせよ、17世紀せいきにエチオピアが鎖国さこくするまで両者りょうしゃあらそいはつづいた[3]

アダル・スルタン国の位置(エチオピア内)
シェワ
シェワ
イファト
イファト
ゼイラ
ゼイラ
ダワロ
ダワロ
アクスム
アクスム
タナ湖
タナみずうみ
ハラール
ハラール
アダル
アダル
関連かんれん地図ちず国境こっきょう現在げんざいのもの)

歴史れきし

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13世紀せいき建国けんこくしたエチオピア帝国ていこくシェワ英語えいごばん首都しゅととし、その東部とうぶにあるイファトを中心ちゅうしんとするイスラーム地域ちいき属国ぞっこくとしていた。しかし、たびたび反乱はんらんかえすため、エチオピア皇帝こうていは15世紀せいきはじめにイファトのスルタンであったワラシュマ英語えいごばん当主とうしゅサアド・アドディン英語えいごばんころし、ワラシュマイエメンへと逃亡とうぼうした。

しかし、エチオピアは紅海こうかい経由けいゆでの貿易ぼうえきのためにイスラーム商人しょうにんたすけをりざるをず、いつのまにかワラシュマもどって、アダルを中心ちゅうしんとするくにつくった。これがアダル・スルタンこくである。ただし、強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっかというわけではなく、いくつかの部族ぶぞくをワラシュマりまとめるといういわば連邦れんぽうせい国家こっかであった。

15世紀せいきのエチオピア皇帝こうていザラ・ヤコブ英語えいごばん強大きょうだい王権おうけんち、周辺しゅうへん敵対てきたい勢力せいりょくおおくを武力ぶりょくしたがえた。アダルともまた戦闘せんとうになり、1445ねんにダワロでアダルのぐんやぶって当主とうしゅバドレイ・イブン・サアド・アドディン英語えいごばんころし、以後いごふたた属国ぞっこくとした。ただし、ワラシュマによる統治とうち当主とうしゅムハンマド・イブン・バトレイ英語えいごばんにすることでつづみとめた[2]

1468ねんにエチオピア皇帝こうていザラ・ヤコブがぬと、帝位ていいは20さいバエダ・マリアム1せい英語えいごばんいだ。バエダ・マリアムは周辺しゅうへんたいして懐柔かいじゅう政策せいさくったため、武力ぶりょくおさえられていた周辺しゅうへん諸国しょこくはかえって反乱はんらんこし、バエダ・マリアムの治世ちせいにエチオピアぐんはアダルのぐん大敗たいはいしている。さらにはバエダ・マリアムが、治世ちせいわずか10ねんんでしまい、後継こうけいしゃあらそいの結果けっか帝位ていいはわずか7さいエスケンデル英語えいごばんぐなどの混乱こんらんがあって、エチオピアの影響えいきょうりょくおおきく低下ていかした[3]。しかしながら、全体ぜんたいとしてはエチオピアとアダルとのあらそいがすくない時期じきであった[4]

1527ねんころイマーム宗教しゅうきょう指導しどうしゃ)で軍人ぐんじんアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジーがスルターンにわってアダルを支配しはいし、エチオピアとの戦争せんそうになった。アダルがわオスマン帝国ていこくからマスケットじゅう調達ちょうたつ[5]、エチオピアはポルトガルから助力じょりょくてのたたかいとなった。緒戦しょせん圧倒的あっとうてきにアダルに優位ゆういすすみ、1529ねん皇帝こうていダウィト2せい英語えいごばんみずかひきいるエチオピアぐんシムブラ・クレのたたか英語えいごばんやぶり、エチオピア高原こうげん支配しはいけんにぎった[4]。ようやく1542ねんになってポルトガルからの援軍えんぐん到着とうちゃくしたが、8がつのウォフラのたたかいでポルトガルぐん大敗たいはいし、ぐん司令しれいかんだったクリストヴァン・ダ・ガマ英語えいごばんらえられて処刑しょけいされた[2]。それでもよく1543ねん2がつ21にちにポルトガル・エチオピア連合れんごうぐんタナみずうみ周辺しゅうへんワイナ・ダガのたたか英語えいごばんでアダルぐんやぶり、アフメド・イブラヒム・ガジは戦死せんしした。さらに1559ねん、アダルはオロモのぐんにも敗退はいたいしておおきく弱体じゃくたいした[2]

このたたかいののち、エチオピア帝国ていこくもまた国力こくりょくち、エチオピア高原こうげんではオロモじん勢力せいりょく徐々じょじょつよまっていった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ britannica.com
  2. ^ a b c d 岡倉おかくら:1999
  3. ^ a b c d ユネスコ:1992
  4. ^ a b 川田かわた:2009
  5. ^ Mohamed:2001

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Herausgegeben von Uhlig, Siegbert (1999). Encyclopaedia Aethiopica. Wiesbaden, Germany: Harrassowitz Verlag. ISBN 978-3-447-04746-3 
  • Mohamed Diriye Abdullahi (2001). Culture and Customs of Somalia. Westport, CT: Greenwood Press. ISBN 978-0313361371 
  • 川田かわたじゅんみやつこ へん『アフリカ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2009ねんISBN 978-4-634-41400-6 
  • 『ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かん同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん、1992ねんISBN 4-8104-1096-X 
  • 岡倉おかくら登志とし『エチオピアの歴史れきし明石書店あかししょてん、1999ねんISBN 4-7503-1206-1 
  • britannica.com Adal