ハラール (アムハラ語 ご :ሐረር、英語 えいご :Harar)は、エチオピア 東部 とうぶ の都市 とし で、ハラリ州 しゅう の州都 しゅうと 。
日本語 にほんご においては「ハラル 」「ハラレ 」「ハーラル 」とも表記 ひょうき されるが、「ハラール」の表記 ひょうき が現地 げんち の発音 はつおん に近 ちか い[1] 。
首都 しゅと アディスアベバ からは約 やく 523km離 はな れており、エチオピア高原 こうげん の東 ひがし の丘 おか の上 うえ にある(海抜 かいばつ 1900m)[2] 。ジュゴル と呼 よ ばれる城壁 じょうへき に囲 かこ まれたハラールの町 まち には87のモスク が存在 そんざい し、16世紀 せいき から19世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけてはイスラーム における「第 だい 4の聖地 せいち 」とも考 かんが えられていた[2] 。この歴史 れきし 的 てき 街並 まちな みは、「歴史 れきし 的 てき 城塞 じょうさい 都市 とし ハラール・ジュゴル 」の名 な で、2006年 ねん にユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された(ID1189)。
また、何 なに 世紀 せいき もの間 あいだ ハラールは、エチオピア各地 かくち 、アフリカの角 かく 、アラビア半島 はんとう などを結 むす ぶ交易 こうえき の中心 ちゅうしん 地 ち であり、港 みなと を通 つう じてそれ以外 いがい の世界 せかい に開 ひら かれていた。さらにハラールの名 な は独特 どくとく のコーヒー の名前 なまえ (ハラール・コーヒー )にもなっている。
ハラールの住民 じゅうみん はキリスト教 きりすときょう 徒 と やムスリム だが、その民族 みんぞく 構成 こうせい は多様 たよう で、アムハラ人 じん 、オロモ人 じん 、ソマリ人 じん 、グラゲ人 じん 、ティグレイ人 じん などからなる。
しかし、市内 しない で優勢 ゆうせい なのはこの街 まち の先住民 せんじゅうみん であるハラリ人 じん である。彼 かれ らは自 みずか らをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市 とし の民 みん 」)と称 しょう するセム系 けい 民族 みんぞく で、かつてはアクスム王国 おうこく の軍事 ぐんじ 的 てき 前哨 ぜんしょう 拠点 きょてん を出自 しゅつじ とする人々 ひとびと と考 かんが えられていた。ハラリ人 じん は民族 みんぞく 集団 しゅうだん を固持 こじ するよりも他 た の集団 しゅうだん と混 こん じる傾向 けいこう があり、また異 い 邦人 ほうじん にも好意 こうい 的 てき であったことから、今日 きょう の彼 かれ らの区分 くぶん は厳格 げんかく な民族 みんぞく 集団 しゅうだん の区分 くぶん というよりも、文化 ぶんか 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき な区分 くぶん に過 す ぎない。
彼 かれ らの言語 げんご であるハラリ語 ご は、クシュ語 ご が支配 しはい 的 てき な地域 ちいき にあって、セム系 けい 言語 げんご の点在 てんざい する地域 ちいき を構成 こうせい するものである。筆写 ひっしゃ には、本来 ほんらい アラビア文字 もじ が使 つか われたが、近年 きんねん ゲエズ文字 もじ も使 つか われるようになっている。
住民 じゅうみん たちからゲイ (Gey,「都市 とし 」の意 い )と呼 よ ばれていたこの街 まち は、史料 しりょう によって異 こと なるが7世紀 せいき から11世紀 せいき の間 あいだ に建造 けんぞう されたようであり、アフリカの角 かく におけるイスラームの宗教 しゅうきょう 的 てき ・文化 ぶんか 的中 てきちゅう 心地 ごこち として立 た ち現 あらわ れた。こうした背景 はいけい から、ハラールは他 た のエチオピアの都市 とし と異 こと なるアラブ風 ふう の街並 まちな みを持 も っている[4] 。14世紀 せいき のエチオピア皇帝 こうてい アムダ・セヨン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) の年代 ねんだい 記 き には、1332年 ねん に遠征 えんせい を行 おこな った記録 きろく の中 なか にハラールの名前 なまえ が現 あらわ れる[5] 。
かつてはエチオピア帝国 ていこく に臣従 しんじゅう していたアダル・スルタン国 こく の一部 いちぶ であり、アブー・バクル・イブン・ムハンマド (英語 えいご 版 ばん ) 治下 ちか の1520年 ねん にアダルの首都 しゅと となった[5] 。その後 ご 16世紀 せいき 中 なか に、「左利 ひだりき きのグラン」 (Gragn the Left-handed) の異名 いみょう を持 も つアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガーズィー (英語 えいご 版 ばん ) (アフマド・グランニュ)がハラールを拠点 きょてん に侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を仕掛 しか け領土 りょうど を拡大 かくだい し、エチオピア帝国 ていこく の存立 そんりつ をも脅 おど かした。その後継 こうけい である首長 しゅちょう ヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、町 まち の周 まわ りを5つの門 もん を持 も つ4mの城壁 じょうへき で囲 かこ んだ[5] 。「ジュゴル」と呼 よ ばれたこの壁 かべ は現在 げんざい も残 のこ り、住民 じゅうみん にとってはハラールのシンボルとなっている。
ハラールは16世紀 せいき に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。地域 ちいき の文化 ぶんか が繁栄 はんえい し、多 おお くの詩人 しじん たちが逗留 とうりゅう し謳 うた い上 あ げた。同時 どうじ にコーヒー、織物 おりもの 業 ぎょう 、籠 かご 細工 ざいく 、製本 せいほん 術 じゅつ などでも有名 ゆうめい になった[5] 。
ハラールは独立 どくりつ した都市 とし 国家 こっか としての形態 けいたい を維持 いじ し、支配 しはい 者 しゃ たちは独自 どくじ の貨幣 かへい も鋳造 ちゅうぞう した[5] 。最古 さいこ のものはイスラム暦 れき 615年 ねん (西暦 せいれき 1218年 ねん - 1219年 ねん )とも読 よ める日付 ひづけ が刻印 こくいん されているものだが、確実 かくじつ に最古 さいこ といえるものは西暦 せいれき 1789年 ねん のことになる。その後 ご 、19世紀 せいき を通 つう じて、さらに貨幣 かへい が発行 はっこう された[6] 。
ハラール滞在 たいざい 中 ちゅう のランボー
ハラールの町 まち は1875年 ねん までは何 なに とか独立 どくりつ を保 たも っていたが、その年 とし にエジプトに征服 せいふく された。東 ひがし アフリカにおける拠点 きょてん の確立 かくりつ を図 はか るエジプトはハラールに3,400人 にん の兵士 へいし を派遣 はけん し、エジプトからハラールにサトウキビ 、カボチャ 、アーモンド 、レモン 、ブドウ などの作物 さくもつ がもたらされた[2] 。1875年 ねん から1885年 ねん にかけてのエジプト占領 せんりょう 期 き に、ハラールは顕著 けんちょ な発展 はってん を遂 と げる[2] 。なお、この時期 じき 、詩人 しじん アルチュール・ランボー がハラールに滞在 たいざい しており、彼 かれ が住 す んでいた家 いえ は今 いま では記念 きねん 館 かん となっている。エジプト軍 ぐん が撤退 てったい した1885年 ねん には、東洋 とうよう 学者 がくしゃ ・探検 たんけん 家 か のリチャード・フランシス・バートン がハラールを訪 おとず れた。
エジプト軍 ぐん はハラール周辺 しゅうへん で遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ を営 いとな んでいたオロモ人 じん の攻撃 こうげき に悩 なや まされ、1880年代 ねんだい にエジプト国内 こくない の政情 せいじょう が不安定 ふあんてい になると町 まち から撤退 てったい した[2] 。1885年 ねん にハラールは束 つか の間 ま の独立 どくりつ を取 と り戻 もど したが、わずか2年 ねん 後 ご の1887年 ねん 1月 がつ 6日 にち 、シェワを拠点 きょてん とするメネリク2世 せい 治下 ちか のエチオピア帝国 ていこく に併合 へいごう された。1897年 ねん 、後 ご のエチオピア皇帝 こうてい ハイレ・セラシエ1世 せい の父 ちち メコネン・ワルダ・ミハエル (英語 えいご 版 ばん ) がハラールの知事 ちじ に就任 しゅうにん する。エチオピアへの併合 へいごう 後 ご も都市 とし 国家 こっか 時代 じだい の行政 ぎょうせい システムは機能 きのう しており、メコネンらアムハラ人 じん の知事 ちじ たちはそれを利用 りよう して統治 とうち を行 おこな っていた[5] 。メコネンはオロモ人 じん と対立 たいりつ しながらも町 まち の開発 かいはつ を進 すす め、公共 こうきょう 施設 しせつ 、道路 どうろ の建設 けんせつ に力 ちから を注 そそ いだ[2] 。1902年 ねん に建設 けんせつ されたラス・メコネン病院 びょういん は、フランス人 じん 設計 せっけい 家 か の手 て によるものである。メコネンの知事 ちじ 時代 じだい から1920年代 ねんだい 半 なか ばまでの間 あいだ 、アフリカ・アラビア半島 はんとう の交易 こうえき 路 ろ が交差 こうさ するハラールは商業 しょうぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち として繁栄 はんえい した[2] 。1906年 ねん にハラールを訪 おとず れたイタリア人 じん エンリコ・アルベルトは土着 どちゃく のイスラム教徒 きょうと と新 しん 住民 じゅうみん であるキリスト教徒 きりすときょうと が共存 きょうぞん する街 まち の様子 ようす を記録 きろく している[2] 。
その後 ご 、ハラールの商業 しょうぎょう 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい は後退 こうたい する。当初 とうしょ 、都市 とし 間 あいだ を直接 ちょくせつ 結 むす ぶことが計画 けいかく されていたアディスアベバ とジブチ 間 あいだ の鉄道 てつどう が工事 こうじ 費 ひ 縮減 しゅくげん のため、ハラールとアワッシュ川 がわ の間 あいだ で山 やま の北側 きたがわ を迂回 うかい することになったためである。この結果 けっか 、「新 あたら しいハラール」として新 しん 都市 とし ディレ・ダワ (Dire Dawa ) が1902年 ねん に建造 けんぞう された。 かつてハラールの知事 ちじ を務 つと めたハイレ・セラシエ1世 せい が皇帝 こうてい に即位 そくい した後 のち 、1930年代 ねんだい から町 まち の再 さい 開発 かいはつ が行 おこな われる。学校 がっこう 、郵便 ゆうびん 局 きょく 、ホテルが建設 けんせつ され、ハラールは商都 しょうと から行政 ぎょうせい の拠点 きょてん に役割 やくわり を変 か えていく[2] 。第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう 前 まえ は35,000人 にん 以上 いじょう がハラールに居住 きょじゅう していた[2] 。
第 だい 二 に 次 じ エチオピア戦争 せんそう 後 ご 、ハラールはイタリアに占領 せんりょう されるが、町 まち でのアムハラ人 じん の影響 えいきょう 力 りょく が拡大 かくだい しつつあることに不安 ふあん を覚 おぼ えていた先住民 せんじゅうみん たちはイタリアの進出 しんしゅつ を歓迎 かんげい した[5] 。イタリア占領 せんりょう 時 じ には重要 じゅうよう な軍事 ぐんじ 拠点 きょてん とされ、軍用 ぐんよう の建物 たてもの や発電 はつでん 所 しょ が建設 けんせつ される[2] 。
1977年 ねん から1978年 ねん にかけてエチオピアとソマリア の間 あいだ でオガデン戦争 せんそう が起 お きると、ハラールの住民 じゅうみん は国外 こくがい に亡命 ぼうめい した[5] 。1991年 ねん に民族 みんぞく 自治 じち の精神 せいしん に基 もと づく行政 ぎょうせい 区画 くかく の再編 さいへん が実施 じっし され、ハラールは州 しゅう と同等 どうとう の権限 けんげん を有 ゆう する特別 とくべつ 行政 ぎょうせい 都市 とし に指定 してい される。1995年 ねん には、ハラール市 し とその周辺 しゅうへん だけでひとつの地方 ちほう 行政 ぎょうせい 体 たい (kilil ) 「ハラリ州 しゅう 」となった。また、ディレ・ダワからハラールへの給水 きゅうすい パイプラインが現在 げんざい 建設 けんせつ 中 ちゅう である。
ハラールの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
18.9 (66)
20.0 (68)
20.5 (68.9)
21.1 (70)
21.1 (70)
20.0 (68)
18.9 (66)
18.0 (64.4)
18.9 (66)
20.0 (68)
19.4 (66.9)
19.4 (66.9)
19.68 (67.43)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
8.9 (48)
9.9 (49.8)
10.9 (51.6)
13.9 (57)
15.1 (59.2)
14.3 (57.7)
14.6 (58.3)
14.4 (57.9)
13.5 (56.3)
11.4 (52.5)
10.0 (50)
9.5 (49.1)
12.2 (53.95)
雨量 うりょう mm (inch)
12 (0.47)
30 (1.18)
55 (2.17)
97 (3.82)
126 (4.96)
99 (3.9)
145 (5.71)
121 (4.76)
94 (3.7)
42 (1.65)
28 (1.1)
9 (0.35)
858 (33.77)
出典 しゅってん :Levoyageur Weather[7]
16世紀 せいき 半 なか ばにキリスト教 きりすときょう 勢力 せいりょく の攻撃 こうげき を防 ふせ ぐために町 まち の周囲 しゅうい に円型 えんけい の城壁 じょうへき が建設 けんせつ された[4] 。城壁 じょうへき の中 なか の旧 きゅう 市街 しがい は複雑 ふくざつ な発展 はってん を遂 と げ[4] 、362もの袋小路 ふくろこうじ を持 も つに至 いた った[2] 。旧 きゅう 市街 しがい にはフェレス・マガラ広場 ひろば を中心 ちゅうしん に、110のモスクとさらに多 おお くの寺院 じいん が立 た ち並 なら んでいる。特 とく に、メドハネ・アレム大 だい 聖堂 せいどう と16世紀 せいき のジャミ・モスクなどが有名 ゆうめい である。ハラリ人 じん (アダル人 じん )が19世紀 せいき に建 た てた家 いえ はアダル・ハウスと呼 よ ばれ、観光 かんこう 名所 めいしょ になっている[2] 。ハラリ国立 こくりつ 文化 ぶんか センターの建物 たてもの は、典型 てんけい 的 てき なアダル・ハウスを再現 さいげん して建 た てられたものである。
長 なが い伝統 でんとう としてハイエナ への餌付 えづ けも行 おこな われている。もともとは一 いち 年 ねん に一 いち 晩 ばん だったのだが、1960年代 ねんだい に観光 かんこう 客 きゃく 向 む けの見世物 みせもの として、夜 よ ごとに行 おこな われるようになった。
土産物 みやげもの 用 よう の手 て 工芸 こうげい 品 ひん は人気 にんき が高 たか く、あまりの人気 にんき の高 たか さに外部 がいぶ への輸出 ゆしゅつ 販売 はんばい が禁止 きんし された[5] 。
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(2) ある期間 きかん を通 つう じてまたはある文化 ぶんか 圏 けん において、建築 けんちく 、技術 ぎじゅつ 、記念 きねん 碑 ひ 的 てき 芸術 げいじゅつ 、都市 とし 計画 けいかく 、景観 けいかん デザインの発展 はってん に関 かん し、人類 じんるい の価値 かち の重要 じゅうよう な交流 こうりゅう を示 しめ すもの。
(3) 現存 げんそん するまたは消滅 しょうめつ した文化 ぶんか 的 てき 伝統 でんとう または文明 ぶんめい の、唯一 ゆいいつ のまたは少 すく なくとも稀 まれ な証拠 しょうこ 。
(4) 人類 じんるい の歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な時代 じだい を例証 れいしょう する建築 けんちく 様式 ようしき 、建築 けんちく 物 ぶつ 群 ぐん 、技術 ぎじゅつ の集積 しゅうせき または景観 けいかん の優 すぐ れた例 れい 。
(5) ある文化 ぶんか (または複数 ふくすう の文化 ぶんか )を代表 だいひょう する伝統 でんとう 的 てき 集落 しゅうらく 、あるいは陸上 りくじょう ないし海上 かいじょう 利用 りよう の際立 きわだ った例 れい 。もしくは特 とく に不 ふ 可逆 かぎゃく 的 てき な変化 へんか の中 なか で存続 そんぞく が危 あや ぶまれている人 ひと と環境 かんきょう の関 かか わりあいの際立 きわだ った例 れい 。
^ 岡倉 おかくら 『エチオピアを知 し るための50章 しょう 』、6頁 ぺーじ
^ a b c d e f g h i j k l m 岡倉 おかくら 『エチオピアを知 し るための50章 しょう 』、140-145頁 ぺーじ
^ “City Population ”. 2016年 ねん 8月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c 鈴木 すずき 「ハラル」『世界 せかい 地名 ちめい 大 だい 事典 じてん 』7巻 かん 、1004頁 ぺーじ
^ a b c d e f g h i 藤本 ふじもと 「ハラール」『世界 せかい 地名 ちめい 大 だい 事典 じてん 』3、779-780頁 ぺーじ
^ Richard R.K. Pankhurst, An Introduction to the Economic History of Ethiopia (London: Lalibela House, 1961), p. 267.
^ “Levoyageur Weather : Djibouti ”. 2014年 ねん 2月 がつ 1日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2012年 ねん 7月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
岡倉 おかくら 登志 とし 編著 へんちょ 『エチオピアを知 し るための50章 しょう 』(エリア・スタディーズ, 明石書店 あかししょてん , 2007年 ねん 12月 がつ )
鈴木 すずき 秀夫 ひでお 「ハラル」『世界 せかい 地名 ちめい 大 だい 事典 じてん 』7巻 かん (朝倉書店 あさくらしょてん , 1973年 ねん 3月 がつ )
藤本 ふじもと 武 たけし 「ハラール」『世界 せかい 地名 ちめい 大 だい 事典 じてん 』3収録 しゅうろく (朝倉書店 あさくらしょてん , 2012年 ねん 11月)
この記事 きじ の初版 しょはん は英語 えいご 版 ばん ウィキペディアから翻訳 ほんやく されたもので、以下 いか はそこに掲 かか げられた参考 さんこう 文献 ぶんけん である。
Fritz Stuber, "Harar in Äthiopien - Hoffnungslosigkeit und Chancen der Stadterhaltung" (Harar in Ethiopia - The Hopelessness and Challenge of Urban Preservation), in: Die alte Stadt. Vierteljahreszeitschrift für Stadtgeschichte, Stadtsoziologie, Denkmalpflege und Stadtentwicklung (W. Kohlhammer Stuttgart Berlin Köln), Vol. 28, No. 4, 2001, ISSN 0170-9364, pp. 324-343, 14 ill.
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 9度 ど 18分 ふん 40秒 びょう 東経 とうけい 42度 ど 07分 ふん 40秒 びょう / 北緯 ほくい 9.31111度 ど 東経 とうけい 42.12778度 ど / 9.31111; 42.12778