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ハラール (エチオピア)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハラール
位置いち
ハラールの位置(エチオピア内)
ハラール
ハラール
ハラール (エチオピア)
ハラールの位置(アフリカ内)
ハラール
ハラール
ハラール (アフリカ)
行政ぎょうせい
くに エチオピアの旗 エチオピア
 しゅう ハラリしゅう
  ハラール
地理ちり
面積めんせき  
  市域しいき ? km2
標高ひょうこう 1,885 m
人口じんこう
人口じんこう (2012ねん現在げんざい
  市域しいき 151,977にん
その
ひとしときおび EAT (UTC+3)

ハラールアムハラ:ሐረር、英語えいご:Harar)は、エチオピア東部とうぶ都市としで、ハラリしゅう州都しゅうと日本語にほんごにおいては「ハラル」「ハラレ」「ハーラル」とも表記ひょうきされるが、「ハラール」の表記ひょうき現地げんち発音はつおんちか[1]

首都しゅとアディスアベバからはやく523kmはなれており、エチオピア高原こうげんひがしおかうえにある(海抜かいばつ1900m)[2]ジュゴルばれる城壁じょうへきかこまれたハラールのまちには87のモスク存在そんざいし、16世紀せいきから19世紀せいき前半ぜんはんにかけてはイスラームにおける「だい4の聖地せいち」ともかんがえられていた[2]。この歴史れきしてき街並まちなみは、「歴史れきしてき城塞じょうさい都市としハラール・ジュゴル」ので、2006ねんユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた(ID1189)。 また、なに世紀せいきものあいだハラールは、エチオピア各地かくちアフリカのかくアラビア半島はんとうなどをむす交易こうえき中心ちゅうしんであり、みなとつうじてそれ以外いがい世界せかいひらかれていた。さらにハラールの独特どくとくコーヒー名前なまえハラール・コーヒー)にもなっている。

人口じんこう

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住民じゅうみん

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ハラールの住民じゅうみんキリスト教きりすときょうムスリムだが、その民族みんぞく構成こうせい多様たようで、アムハラじんオロモじんソマリじんグラゲじんティグレイじんなどからなる。

しかし、市内しない優勢ゆうせいなのはこのまち先住民せんじゅうみんであるハラリじんである。かれらはみずからをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市としみん」)としょうするセムけい民族みんぞくで、かつてはアクスム王国おうこく軍事ぐんじてき前哨ぜんしょう拠点きょてん出自しゅつじとする人々ひとびとかんがえられていた。ハラリじん民族みんぞく集団しゅうだん固持こじするよりも集団しゅうだんこんじる傾向けいこうがあり、また邦人ほうじんにも好意こういてきであったことから、今日きょうかれらの区分くぶん厳格げんかく民族みんぞく集団しゅうだん区分くぶんというよりも、文化ぶんかてき社会しゃかいてき区分くぶんぎない。

かれらの言語げんごであるハラリは、クシュ支配しはいてき地域ちいきにあって、セムけい言語げんご点在てんざいする地域ちいき構成こうせいするものである。筆写ひっしゃには、本来ほんらいアラビア文字もじ使つかわれたが、近年きんねんゲエズ文字もじ使つかわれるようになっている。

歴史れきし

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住民じゅうみんたちからゲイ(Gey,「都市とし」の)とばれていたこのまちは、史料しりょうによってことなるが7世紀せいきから11世紀せいきあいだ建造けんぞうされたようであり、アフリカのかくにおけるイスラームの宗教しゅうきょうてき文化ぶんか的中てきちゅう心地ごこちとしてあらわれた。こうした背景はいけいから、ハラールはのエチオピアの都市としことなるアラブふう街並まちなみをっている[4]14世紀せいきのエチオピア皇帝こうていアムダ・セヨン1せい英語えいごばん年代ねんだいには、1332ねん遠征えんせいおこなった記録きろくなかにハラールの名前なまえあらわれる[5]

かつてはエチオピア帝国ていこく臣従しんじゅうしていたアダル・スルタンこく一部いちぶであり、アブー・バクル・イブン・ムハンマド英語えいごばん治下ちか1520ねんにアダルの首都しゅととなった[5]。その16世紀せいきなかに、「左利ひだりききのグラン」 (Gragn the Left-handed) の異名いみょうアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガーズィー英語えいごばん(アフマド・グランニュ)がハラールを拠点きょてん侵略しんりゃく戦争せんそう仕掛しか領土りょうど拡大かくだいし、エチオピア帝国ていこく存立そんりつをもおどかした。その後継こうけいである首長しゅちょうヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、まちまわりを5つのもんつ4mの城壁じょうへきかこんだ[5]。「ジュゴル」とばれたこのかべ現在げんざいのこり、住民じゅうみんにとってはハラールのシンボルとなっている。

ハラールは16世紀せいき最盛さいせいむかえた。地域ちいき文化ぶんか繁栄はんえいし、おおくの詩人しじんたちが逗留とうりゅううたげた。同時どうじにコーヒー、織物おりものぎょうかご細工ざいく製本せいほんじゅつなどでも有名ゆうめいになった[5]

ハラールは独立どくりつした都市とし国家こっかとしての形態けいたい維持いじし、支配しはいしゃたちは独自どくじ貨幣かへい鋳造ちゅうぞうした[5]最古さいこのものはイスラムれき615ねん西暦せいれき1218ねん - 1219ねん)ともめる日付ひづけ刻印こくいんされているものだが、確実かくじつ最古さいこといえるものは西暦せいれき1789ねんのことになる。その19世紀せいきつうじて、さらに貨幣かへい発行はっこうされた[6]

ハラール滞在たいざいちゅうのランボー

ハラールのまち1875ねんまではなにとか独立どくりつたもっていたが、そのとしにエジプトに征服せいふくされた。ひがしアフリカにおける拠点きょてん確立かくりつはかるエジプトはハラールに3,400にん兵士へいし派遣はけんし、エジプトからハラールにサトウキビカボチャアーモンドレモンブドウなどの作物さくもつがもたらされた[2]。1875ねんから1885ねんにかけてのエジプト占領せんりょうに、ハラールは顕著けんちょ発展はってんげる[2]。なお、この時期じき詩人しじんアルチュール・ランボーがハラールに滞在たいざいしており、かれんでいたいえいまでは記念きねんかんとなっている。エジプトぐん撤退てったいした1885ねんには、東洋とうよう学者がくしゃ探検たんけんリチャード・フランシス・バートンがハラールをおとずれた。

エジプトぐんはハラール周辺しゅうへん遊牧ゆうぼく生活せいかついとなんでいたオロモじん攻撃こうげきなやまされ、1880年代ねんだいにエジプト国内こくない政情せいじょう不安定ふあんていになるとまちから撤退てったいした[2]。1885ねんにハラールはつか独立どくりつもどしたが、わずか2ねん1887ねん1がつ6にち、シェワを拠点きょてんとするメネリク2せい治下ちかのエチオピア帝国ていこく併合へいごうされた。1897ねんのエチオピア皇帝こうていハイレ・セラシエ1せいちちメコネン・ワルダ・ミハエル英語えいごばんがハラールの知事ちじ就任しゅうにんする。エチオピアへの併合へいごう都市とし国家こっか時代じだい行政ぎょうせいシステムは機能きのうしており、メコネンらアムハラじん知事ちじたちはそれを利用りようして統治とうちおこなっていた[5]。メコネンはオロモじん対立たいりつしながらもまち開発かいはつすすめ、公共こうきょう施設しせつ道路どうろ建設けんせつちからそそいだ[2]。1902ねん建設けんせつされたラス・メコネン病院びょういんは、フランスじん設計せっけいによるものである。メコネンの知事ちじ時代じだいから1920年代ねんだいなかばまでのあいだ、アフリカ・アラビア半島はんとう交易こうえき交差こうさするハラールは商業しょうぎょう中心ちゅうしんとして繁栄はんえいした[2]。1906ねんにハラールをおとずれたイタリアじんエンリコ・アルベルトは土着どちゃくのイスラム教徒きょうとしん住民じゅうみんであるキリスト教徒きりすときょうと共存きょうぞんするまち様子ようす記録きろくしている[2]

その、ハラールの商業しょうぎょうてき重要じゅうようせい後退こうたいする。当初とうしょ都市としあいだ直接ちょくせつむすぶことが計画けいかくされていたアディスアベバジブチあいだ鉄道てつどう工事こうじ縮減しゅくげんのため、ハラールとアワッシュがわあいだやま北側きたがわ迂回うかいすることになったためである。この結果けっか、「あたらしいハラール」としてしん都市としディレ・ダワ (Dire Dawa) が1902ねん建造けんぞうされた。 かつてハラールの知事ちじつとめたハイレ・セラシエ1せい皇帝こうてい即位そくいしたのち、1930年代ねんだいからまちさい開発かいはつおこなわれる。学校がっこう郵便ゆうびんきょく、ホテルが建設けんせつされ、ハラールは商都しょうとから行政ぎょうせい拠点きょてん役割やくわりえていく[2]だいエチオピア戦争せんそうまえは35,000にん以上いじょうがハラールに居住きょじゅうしていた[2]

だいエチオピア戦争せんそう、ハラールはイタリアに占領せんりょうされるが、まちでのアムハラじん影響えいきょうりょく拡大かくだいしつつあることに不安ふあんおぼえていた先住民せんじゅうみんたちはイタリアの進出しんしゅつ歓迎かんげいした[5]。イタリア占領せんりょうには重要じゅうよう軍事ぐんじ拠点きょてんとされ、軍用ぐんよう建物たてもの発電はつでんしょ建設けんせつされる[2]

1977ねんから1978ねんにかけてエチオピアとソマリアあいだオガデン戦争せんそうきると、ハラールの住民じゅうみん国外こくがい亡命ぼうめいした[5]。1991ねん民族みんぞく自治じち精神せいしんもとづく行政ぎょうせい区画くかく再編さいへん実施じっしされ、ハラールはしゅう同等どうとう権限けんげんゆうする特別とくべつ行政ぎょうせい都市とし指定していされる。1995ねんには、ハラールとその周辺しゅうへんだけでひとつの地方ちほう行政ぎょうせいたい (kilil) 「ハラリしゅう」となった。また、ディレ・ダワからハラールへの給水きゅうすいパイプラインが現在げんざい建設けんせつちゅうである。

気候きこう

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ハラールの気候きこう
つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 とし
平均へいきん最高さいこう気温きおん °C°F 18.9
(66)
20.0
(68)
20.5
(68.9)
21.1
(70)
21.1
(70)
20.0
(68)
18.9
(66)
18.0
(64.4)
18.9
(66)
20.0
(68)
19.4
(66.9)
19.4
(66.9)
19.68
(67.43)
平均へいきん最低さいてい気温きおん °C°F 8.9
(48)
9.9
(49.8)
10.9
(51.6)
13.9
(57)
15.1
(59.2)
14.3
(57.7)
14.6
(58.3)
14.4
(57.9)
13.5
(56.3)
11.4
(52.5)
10.0
(50)
9.5
(49.1)
12.2
(53.95)
雨量うりょう mm (inch) 12
(0.47)
30
(1.18)
55
(2.17)
97
(3.82)
126
(4.96)
99
(3.9)
145
(5.71)
121
(4.76)
94
(3.7)
42
(1.65)
28
(1.1)
9
(0.35)
858
(33.77)
出典しゅってん:Levoyageur Weather[7]

観光かんこう

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16世紀せいきなかばにキリスト教きりすときょう勢力せいりょく攻撃こうげきふせぐためにまち周囲しゅうい円型えんけい城壁じょうへき建設けんせつされた[4]城壁じょうへきなかきゅう市街しがい複雑ふくざつ発展はってん[4]、362もの袋小路ふくろこうじつにいたった[2]きゅう市街しがいにはフェレス・マガラ広場ひろば中心ちゅうしんに、110のモスクとさらにおおくの寺院じいんならんでいる。とくに、メドハネ・アレムだい聖堂せいどうと16世紀せいきのジャミ・モスクなどが有名ゆうめいである。ハラリじん(アダルじん)が19世紀せいきてたいえはアダル・ハウスとばれ、観光かんこう名所めいしょになっている[2]。ハラリ国立こくりつ文化ぶんかセンターの建物たてものは、典型てんけいてきなアダル・ハウスを再現さいげんしててられたものである。

なが伝統でんとうとしてハイエナへの餌付えづけもおこなわれている。もともとはいちねんいちばんだったのだが、1960年代ねんだい観光かんこうきゃくけの見世物みせものとして、ごとにおこなわれるようになった。

土産物みやげものよう工芸こうげいひん人気にんきたかく、あまりの人気にんきたかさに外部がいぶへの輸出ゆしゅつ販売はんばい禁止きんしされた[5]

世界せかい遺産いさん

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世界遺産 歴史れきしてき城塞じょうさい都市とし
ハラール・ジュゴル
エチオピア
英名えいめい Harar Jugol, the Fortified Historic Town
ふつめい Harar Jugol, la ville historique fortifiée
面積めんせき 48ha
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (2), (3), (4), (5)
登録とうろくねん 2006ねん(ID1189)
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
ハラール (エチオピア)の位置
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (2) ある期間きかんつうじてまたはある文化ぶんかけんにおいて、建築けんちく技術ぎじゅつ記念きねんてき芸術げいじゅつ都市とし計画けいかく景観けいかんデザインの発展はってんかんし、人類じんるい価値かち重要じゅうよう交流こうりゅうしめすもの。
  • (3) 現存げんそんするまたは消滅しょうめつした文化ぶんかてき伝統でんとうまたは文明ぶんめいの、唯一ゆいいつのまたはすくなくともまれ証拠しょうこ
  • (4) 人類じんるい歴史れきしじょう重要じゅうよう時代じだい例証れいしょうする建築けんちく様式ようしき建築けんちくぶつぐん技術ぎじゅつ集積しゅうせきまたは景観けいかんすぐれたれい
  • (5) ある文化ぶんか(または複数ふくすう文化ぶんか)を代表だいひょうする伝統でんとうてき集落しゅうらく、あるいは陸上りくじょうないし海上かいじょう利用りよう際立きわだったれい。もしくはとく可逆かぎゃくてき変化へんかなか存続そんぞくあやぶまれているひと環境かんきょうかかわりあいの際立きわだったれい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 岡倉おかくら『エチオピアをるための50しょう』、6ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 岡倉おかくら『エチオピアをるための50しょう』、140-145ぺーじ
  3. ^ City Population”. 2016ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c 鈴木すずき「ハラル」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』7かん、1004ぺーじ
  5. ^ a b c d e f g h i 藤本ふじもと「ハラール」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』3、779-780ぺーじ
  6. ^ Richard R.K. Pankhurst, An Introduction to the Economic History of Ethiopia (London: Lalibela House, 1961), p. 267.
  7. ^ Levoyageur Weather : Djibouti”. 2014ねん2がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん7がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岡倉おかくら登志とし編著へんちょ『エチオピアをるための50しょう』(エリア・スタディーズ, 明石書店あかししょてん, 2007ねん12がつ
  • 鈴木すずき秀夫ひでお「ハラル」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』7かん朝倉書店あさくらしょてん, 1973ねん3がつ
  • 藤本ふじもとたけし「ハラール」『世界せかい地名ちめいだい事典じてん』3収録しゅうろく朝倉書店あさくらしょてん, 2012ねん11月)
  • この記事きじ初版しょはん英語えいごばんウィキペディアから翻訳ほんやくされたもので、以下いかはそこにかかげられた参考さんこう文献ぶんけんである。
    • Fritz Stuber, "Harar in Äthiopien - Hoffnungslosigkeit und Chancen der Stadterhaltung" (Harar in Ethiopia - The Hopelessness and Challenge of Urban Preservation), in: Die alte Stadt. Vierteljahreszeitschrift für Stadtgeschichte, Stadtsoziologie, Denkmalpflege und Stadtentwicklung (W. Kohlhammer Stuttgart Berlin Köln), Vol. 28, No. 4, 2001, ISSN 0170-9364, pp. 324-343, 14 ill.

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい918ふん40びょう 東経とうけい4207ふん40びょう / 北緯ほくい9.31111 東経とうけい42.12778 / 9.31111; 42.12778