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アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおけるフランス

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イギリスのフリゲふりげト艦とかん交戦こうせんするフランス-アメリカ連合れんごう船隊せんたい(1779ねん9がつ23にち

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおけるフランス(アメリカどくりつせんそうにおけるフランス)では、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう前後ぜんごフランス外交がいこう変遷へんせん国内こくないへの影響えいきょうについてべる。

フランスはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう(1775ねん - 1783ねん当時とうじ財政ざいせいてき困難こんなん状況じょうきょうにあったが、この戦争せんそうヨーロッパひいては世界せかいにおけるフランスの仇敵きゅうてきであるイギリス弱体じゃくたいさせる機会きかいとしてとらえた。植民しょくみん独立どくりつだいえい帝国ていこく重大じゅうだい損害そんがいあたえ、ひるがえってアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくというあたらしいちからむことでフランスは良好りょうこう同盟どうめい関係かんけい維持いじできるとかんがえていた。

フランスはもともとカナダうしなうことになった1763ねん屈辱くつじょくてきパリ条約じょうやくたいしてイギリスに復讐ふくしゅう目論もくろんだとする歴史れきしもいるが、Dullは1975ねんに、フランスの干渉かんしょう冷静れいせい計算けいさんもとづくものであり、たんになるイギリスぎらいによるものでも、カナダ喪失そうしつ復讐ふくしゅうのためでもないとしている。フランスの参戦さんせんは、ヨーロッパ大陸たいりくにおけるフランス外交がいこう絶望ぜつぼうてき状況じょうきょう反映はんえいしていた。独立どくりつ戦争せんそうはフランスにとって悲惨ひさん失敗しっぱいであり、アメリカの独立どくりつはイギリスをよわらせることにはならなかった。サラトガのたたかはフランス参戦さんせんのきっかけをつくっただけであり、外交がいこう方針ほうしんすでけっしていた。同盟どうめいくわわったスペイン海軍かいぐん存在そんざい軍事ぐんじてき主導しゅどうりょく維持いじしていくために重要じゅうようであった。フランスは和平わへいについては悲観ひかんてきであったが、けっしてアメリカを裏切うらぎらなかった。フランス政府せいふ負債ふさいのやりくりで悲鳴ひめいげていたうえに、独立どくりつ戦争せんそうがフランスの政治せいじてきまた社会しゃかいてき秩序ちつじょ粉々こなごなにするちからはな直接ちょくせつ機会きかいフランス革命かくめい)を提供ていきょうした。

フランスは1778ねん参戦さんせんし、イギリスからの独立どくりつもとめるアメリカの勝利しょうりたすけた(実際じっさいには1783ねんのパリ条約じょうやく実現じつげんされた)。フランスの近代きんだい戦力せんりょくとしての位置付いちづけが確認かくにんされ、復讐ふくしゅうおもいも満足まんぞくされたが、戦争せんそうくに財政ざいせいには有害ゆうがいであった。フランスの都市とし直接ちょくせつ破壊はかいまぬかれたとしても、1781ねんヨークタウン包囲ほういせんのような決定的けっていてき勝利しょうりふくむイギリスぐんたいする戦争せんそうおおきな軍費ぐんぴ(10おくリーブル)を必要ひつようとした。これが脆弱ぜいじゃくだった財政ざいせいをさらに悪化あっかさせ、赤字あかじえた。さらにわるいことに、新興しんこうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく貿易ぼうえきじょう一番いちばん相手あいてこくとなるという目論見もくろみ実現じつげんしなかった。イギリスがアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく主要しゅよう貿易ぼうえきこくとしてしまった。戦前せんぜんのイギリスとアメリカの交易こうえき形態けいたいがほとんどそのままのこり、アメリカの交易こうえきだいえい帝国ていこく範囲はんいないとどまっていた。独立どくりつ戦争せんそうにフランスが参戦さんせんしたということの認識にんしきは、おもロシャンボー伯爵はくしゃくラファイエット侯爵こうしゃくのような軍人ぐんじん英雄えいゆうたたえることでしめされた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないにあったフランスのもと領土りょうどヌーベルフランス)をかえせるというのぞみもかなわなかった。

フランスの国体こくたいとしての脆弱ぜいじゃくと、絶対ぜったい王政おうせいたいする実現じつげん可能かのう代替だいたい体制たいせい見通みとおしができてきたこと、これらはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうがフランス革命かくめい影響えいきょうしたおおきな要因よういんである。

フランスの外交がいこうてき立場たちば[編集へんしゅう]

ルイ16せい外交がいこう政策せいさく担当たんとうかんにヴェルジェンヌを指名しめいした。ヴェルジェンヌは、ななねん戦争せんそうのちはイギリスへ報復ほうふくしたいというおもいがあり、このおもいを前任ぜんにんしゃのショワズールと共有きょうゆうしていた。ヴェルジェンヌはヨーロッパでは慎重しんちょう政策せいさく主導しゅどうし、ひがしプロイセンオーストリアとの平衡へいこう状態じょうたいたもっていた。とくにボヘミア継承けいしょう戦争せんそうでは参戦さんせんしなかった。ヴェルジェンヌはフランス海軍かいぐん戦力せんりょくイギリス海軍かいぐん見合みあうものにし、アメリカでの緊張きんちょう事態じたい見守みまもっていた。

1756ねんルイ15せいむすんだフランス=オーストリア同盟どうめいが、1770ねんのルイ16せいとオーストリアのマリー・アントワネットとの婚儀こんぎさい確認かくにんされた。一方いっぽうスペインとの同君どうくん連合れんごうによって大陸たいりくヨーロッパの支配しはい構造こうぞうができあがっていた。ルイ16せいとマリー・アントワネットの結婚けっこんは、ながつづいたブルボンあさハプスブルクあさとの敵対てきたい関係かんけいを、表面ひょうめんじょうだけでもわりにしていた。

フランスの意図いと[編集へんしゅう]

フランスの特権とっけん階級かいきゅう1763ねんのパリ条約じょうやく以来いらい復讐ふくしゅう夢見ゆめみていた。これをスコットランドから追放ついほうされたジャコバイト植民しょくみんわたっておおいに支持しじしていた。条約じょうやく中身なかみけたがわ立場たちばからればおだやかなものであった。フランスは実入みいりが領土りょうど大半たいはんたとえば砂糖さとう生産せいさんするサン・ドマング領有りょうゆうつづけていた。フランス=スペイン=オーストリアの同盟どうめいぐんがイギリス海軍かいぐんはいったとしても、その戦費せんぴ莫大ばくだいなものになり、各国かっこくはできるだけはや終息しゅうそくすることをもとめることになった。それゆえにパリ条約じょうやく締結ていけつされたが、フランスにとってはイギリスに復讐ふくしゅうし、決着けっちゃくいていない戦争せんそうをはっきりとわらせたいというつよ願望がんぼうのこった。

ショワズールは1763ねん以前いぜんから、攻撃こうげき速度そくど艦船かんせんかず、および敵国てきこく商船しょうせんおそ戦略せんりゃくがより重要じゅうようになるというあたらしい戦争せんそうかたち予測よそくし、海軍かいぐん近代きんだいはじめていた。フランスは快速かいそく操作性そうさせいわるちいさな艦船かんせんやして、その艦隊かんたい海賊かいぞくしていた。さらに装備そうび近代きんだいし、およそ30まんにんにまで増強ぞうきょうした軍隊ぐんたい訓練くんれんほどこした。ルイ16せいはこの近代きんだい達成たっせい相当そうとうりょう資金しきんをつぎんだ。艦隊かんたいは1762ねん規模きぼ最小さいしょうとして、その軍艦ぐんかんを67せきフリゲートを37せき増強ぞうきょうした。

アメリカにおける紛争ふんそう火種ひだね[編集へんしゅう]

ななねん戦争せんそうのち、イギリスはその経済けいざい事情じじょうから植民しょくみんにおける交易こうえきをより厳密げんみつ支配しはいする方向ほうこうすすんでいた。税率ぜいりつげられ、交易こうえき排他はいたてきになり、イギリス駐留ちゅうりゅうぐん維持いじするために特別とくべつ課税かぜい植民しょくみんもとめた。植民しょくみんじんは「代表だいひょうなくして課税かぜいなし」というほうだてあらがったが、税金ぜいきんしつけられ一連いちれん摩擦まさつぶことになった。

こうそうなかでもられた事件じけん1773ねんボストン茶会ちゃかい事件じけんである。イギリス政府せいふきょうあえひがしインド会社かいしゃすくうためにアメリカ植民しょくみんにおける紅茶こうちゃ販売はんばい独占どくせんはかったが、植民しょくみんじんはこれをこばみ、ボストンみなと停泊ていはくするふねから相当そうとうりょう紅茶こうちゃうみてたものである。イギリスが報復ほうふくのためにボストンこう封鎖ふうさしたので、ボストン市民しみん見方みかた急速きゅうそく硬化こうかした。植民しょくみんじんによるだいいち大陸たいりく会議かいぎ開催かいさいされ、武装ぶそう民兵みんぺい組織そしきあたらしい行政府ぎょうせいふつくられた。1776ねん7がつ4にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく植民しょくみん連合れんごうとイギリスからの独立どくりつ宣言せんげんしたが、まださらにそのちから強化きょうかしていく必要ひつようがあった。

強力きょうりょくイギリスぐんたいして、13植民しょくみん武器ぶきたよ友邦ゆうほうかったので、自然しぜんとフランスにかおけた。ベンジャミン・フランクリンとの交渉こうしょうにより、フランスは紛争ふんそうそのものには関心かんしんっていなかったが、反乱はんらんぐん関与かんよはじめ、1778ねん2がつからは開戦かいせんった。このときはまだイギリス海軍かいぐんにフランス1こく対抗たいこうしなければならなかった。

フランス世論せろんにおける参戦さんせん容認ようにんとその周囲しゅうい[編集へんしゅう]

13植民しょくみん独立どくりつ宣言せんげんつづいて、アメリカの反乱はんらんはフランスの民衆みんしゅうにも特権とっけん階級かいきゅうにも好意こういてきれられた。革命かくめいはイギリスの専制せんせいたいする啓蒙けいもう思想しそう具現ぐげんとして認識にんしきされた。1776ねん12月にベンジャミン・フランクリンがフランスに派遣はけんされその支持しじうったえると、民衆みんしゅう熱狂ねっきょうをもってむかれられ、おおくのフランスじんはアメリカの反乱はんらん支援しえんするためにがり、自由じゆう近代きんだい理想りそうえたランファンラファイエットのようなものたちが1776ねん志願しがんへいとなった。

フランス政府せいふ反応はんのうはややややかであった。ルイ16せい植民しょくみん救援きゅうえんしたかったが、財政ざいせい状態じょうたいゆえボーマルシェつうじて隠密おんみつ援助えんじょをするにとどまった。ヴェルジェンヌはフランスの参戦さんせん賛成さんせいであり、商業しょうぎょうてきおよび外交がいこうてき利益りえき可能かのうせい示唆しさしていた。この状況じょうきょうはフランスの分析ぶんせきによるものであり、同盟どうめいこく(スペインとオーストリア)にはすくなくとも中立ちゅうりつ保証ほしょうもとめていた。

外交がいこう財政ざいせい軍事ぐんじおよび経済けいざい担当たんとうする指導しどうしゃそうはむしろ懐疑かいぎてきであった。フランス海軍かいぐんはまだ十分じゅうぶんではなくそのような戦争せんそうたいするそなえはできていなかった。経済けいざい状態じょうたいきょうのままであり、国家こっか財政ざいせいテュルゴーのちネッケルによって赤字あかじ状態じょうたい宣告せんこくされていた。外交がいこうはたけものはヴェルジェンヌやルイ16せいほど熱心ねっしんではなく、フランスがこの問題もんだいではヨーロッパのなか特殊とくしゅであり孤立こりつしていることを強調きょうちょうしていた。当時とうじ平和へいわ経済けいざいてき繁栄はんえいうえって、復讐ふくしゅうねん自由じゆう理想りそうちいさくさせていた。

援助えんじょ開戦かいせんかの議論ぎろん[編集へんしゅう]

1776ねんはじまった秘密ひみつ武器ぶき販売はんばいによって、フランスは私的してき戦争せんそう関与かんよはじめた。ルイ16せいとヴェルジェンヌが隠密おんみつにボーマルシェにって、ポルトガル会社かいしゃ「ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー」というかくみの使つかってひゃくまんポンドちか武器ぶき弾薬だんやく許可きょかあたえた。フランスの援助えんじょはジョージ・ワシントン将軍しょうぐんがイギリスの猛攻もうこうげきえる要因よういんとなった。フランスがあつらえたアメリカのフリゲートはイギリスの商船しょうせんたいする海賊かいぞく行為こういおこなって、寄金ききんにしろきんにしろ経済けいざいてき援助えんじょ役割やくわりたし、軍事ぐんじ戦略せんりゃくの「休暇きゅうか」を利用りようしてアメリカの軍隊ぐんたい支援しえんみとめるような技術ぎじゅつてき支援しえんもあった。

アメリカの「反乱はんらんぐん」によって指名しめいされたサイラス・ディーンはイギリスに敵対心てきたいしんいだくフランスじんたすけられ、非公式ひこうしき援助えんじょった。しかし、目標もくひょうはフランスの全面ぜんめんてき参戦さんせんであった。フランクリン、ディーンおよびアーサー・リーによる代表だいひょうだんがヨーロッパ各国かっこく関与かんよもとめるロビー活動かつどうおこなった。代表だいひょうだんは13植民しょくみんとフランス、スペインの同盟どうめいによってイギリスを早期そうきやぶることができると主張しゅちょうしたが、ヴェルジェンヌは個人こじんてき願望がんぼうにもかかわらず、この提案ていあん拒否きょひした。フランクリンはフランスがヌーベルフランスを要求ようきゅうできるとうったえた。1777ねん7がつ23にち、ヴェルジェンヌは植民しょくみん全面ぜんめんてき支援しえんするかそのかんがえをてるかの議論ぎろん要求ようきゅうした。

1777ねんわりに国際こくさい関係かんけい緊張きんちょうしていたとき、オーストリアがプロイセンにたいするバイエルン継承けいしょう戦争せんそうでフランスの支援しえんもとめてきたが、フランスは拒否きょひし、オーストリアとの関係かんけいまずいものになった。この状況じょうきょうではフランスがイギリスにたいする戦争せんそうでオーストリアに支援しえんもとめることは不可能ふかのうになった。スペインにたいするはたらきかけも失敗しっぱいわった。スペインにとってはるものがなく、革命かくめい精神せいしんひろがりがラテンアメリカ植民しょくみんでのスペイン王室おうしつ正当せいとうせいたいする脅威きょういとなりつつあったからである。

フランスの参戦さんせん[編集へんしゅう]

イギリスぐんフィラデルフィアおさえていたが、サラトガのたたかにおける大陸たいりくぐん勝利しょうりはフランスの愛国あいこくしゃ熱狂ねっきょうてき支持しじしゃ希望きぼうもどさせた。イギリスぐんバーゴイン将軍しょうぐん軍隊ぐんたいやぶれ、フランスは13植民しょくみんつかもしれないとおもうようになり、植民しょくみんたいするひょうだった援助えんじょおこなうことをめた。同盟どうめいこくのスペインはなお懐疑かいぎてきであった。ヴェルジェンヌとルイ16せいは、アメリカの代表だいひょうだん、フランクリン、ディーンおよびアーサー・リーをつうじてアメリカとの同盟どうめいたいする関心かんしんがってくるという仮定かていっていた。イギリスとフランスのあいだ同盟どうめいは1763ねん無理矢理むりやりしつけられたものであり、外交がいこう危機きき突入とつにゅうした。参戦さんせん世論せろん評判ひょうばんがりつつあったラファイエットのような人気にんきのある支持しじしゃからの恩恵おんけいていた。さらに復讐ふくしゅうねんひょうてきた。

1778ねん2がつ6にち、ヴェルジェンヌとルイ16せいはベンジャミン・フランクリンと友好ゆうこう条約じょうやく調印ちょういんし、13植民しょくみん正式せいしき同盟どうめいむすぶことをめた。フランスは13植民しょくみん自立じりつした状態じょうたいにあることを認識にんしきし、双方そうほうとも勝手かって休戦きゅうせんしないこと、および植民しょくみんはアメリカにおけるフランスの権益けんえきまもることで合意ごういした。戦闘せんとうアンティル諸島しょとう開始かいしされた。

フランスが参戦さんせんすると、イギリスはフランス艦隊かんたい自国じこく海域かいいきめておくよう画策かくさくした。イギリス海峡かいきょうにおけるウェサンとう海戦かいせん決着けっちゃくかなかった。2つの艦隊かんたい結果けっかてきげた。イングランドに4まんめい部隊ぶたい上陸じょうりくさせる作戦さくせんられたが兵站へいたん問題もんだいてられた。ヨーロッパ大陸たいりくでは、オーストリアとの同盟どうめいまもられており、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう参戦さんせんしなかったとしても、外交がいこうてき支持しじられていた。

ヨーロッパのほかくに武装ぶそう中立ちゅうりつ同盟どうめいをつくり、参戦さんせんこばんでいた。フランスが単独たんどくでイギリス艦隊かんたい対抗たいこうするのをて、1780ねんオランダがフランスがわくことをめた。スペインは1779ねん支持しじ表明ひょうめいしていた。イギリスは困難こんなん立場たちばたされた。

フランスの介入かいにゅう当然とうぜんながら海上かいじょうはじまり、決着けっちゃくちゃっかないことがおおかったが、1780ねんにロシャンボー伯爵はくしゃくが6,000めい将兵しょうへいれてアメリカにわたったことで状況じょうきょう変化へんかした。6,000めいのフランスぐんすでサバンナのたたかで3,000めいのイギリスぐん対峙たいじしていたが、フランスぐん攻撃こうげきこうあせ準備じゅんびもできていなかったので結果けっかてき失敗しっぱいした。1781ねんチェサピークわん海戦かいせんでは、イギリス艦隊かんたい一部いちぶ逃避とうひさせのこりを破壊はかいしたので、チャールズ・コーンウォリスをヨークタウンで包囲ほういすることになった。コーンウォリスは約束やくそくされたイギリスぐん援兵えんぺいてもなくたされていた。コーンウォリスはりくでは大陸たいりくぐんとフランスぐんに、海上かいじょうはフランス艦隊かんたいおさえられた。同盟どうめいフランスぐん10月17にちのヨークタウンでパトリオット(愛国あいこく)が決定的けっていてき勝利しょうりるために重要じゅうよう役割やくわりえんじた。もしド・グラス提督ていとくのフランス艦隊かんたいがいなかったら、この勝利しょうりはなかった。無益むえき抵抗ていこうのちに、コーンウォリスは10月19にち正式せいしき降伏ごうぶくした。主要しゅよう戦闘せんとうわり、その小競こぜいに終始しゅうしした。しかし、イギリスが正式せいしき休戦きゅうせんするのは1783ねんのことだった。

フランスとイギリスの艦隊かんたい激突げきとつ地球ちきゅう規模きぼひろがった。アンティル諸島しょとうでは、イギリスとフランスが交互こうごにその支配しはいおこない、1782ねんセインツの海戦かいせんでイギリスが支配しはいすることになった。スペインとフランスの連合れんごう艦隊かんたいがイギリス艦隊かんたいやぶり、メノルカとう1782ねん2がつおさえた(メノルカとう侵攻しんこう)。インドではフランスと同盟どうめいしたマイソール王国おうこくがイギリスの支配しはいやぶった。フランスは1783ねんサンピエールとう・ミクロンとうをイギリスから奪取だっしゅした。しかし、フランスとスペインが共同きょうどうおこなったジブラルタル包囲ほういせん失敗しっぱいし、ジブラルタル半島はんとうはイギリスの支配しはいのこった。

アメリカ本土ほんどでの決定的けっていてき勝利しょうりのゆえに、フランスはパリでの交渉こうしょう有利ゆうりすすめることができた。

休戦きゅうせんおよび結末けつまつ[編集へんしゅう]

ヨークタウンの包囲ほういせんはじまってから、大陸たいりくぐんベンジャミン・リンカーン将軍しょうぐんはイギリスぐんとの秘密ひみつ交渉こうしょうについてフランスぐんおしえたことがなかった。交渉こうしょう直接ちょくせつロンドンとワシントンのあいだすすめられた。イギリスは13植民しょくみんたいする支配しはいあきらめ、五大ごだいみずうみからみなみミシシッピーがわからひがし領土りょうど領有りょうゆうみとめた。しかし、フランスは、アメリカとイギリスのあいだ和平わへい交渉こうしょうくわわらなかったので、フランスとアメリカのあいだ同盟どうめい関係かんけいくずれた。このためにその和平わへい協定きょうてい交渉こうしょうでフランスとスペインの影響えいきょうりょくうすれた。

1783ねんパリ条約じょうやく批准ひじゅん。イギリス代表だいひょうえがかれることをこばんだ。

1783ねん9月、パリ条約じょうやく条件じょうけん勝利しょうり宣言せんげんされた。フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地りょうち回復かいふくした。1763ねんパリ条約じょうやくと1713ねんユトレヒト条約じょうやくうしなった領土りょうどのうち、トバゴとうセントルシアセネガルがわ領域りょういきダンケルク回復かいふくし、テラ・ノヴァ漁業ぎょぎょうけん増加ぞうかした。スペインはフロリダとメノルカを回復かいふくしたが、ジブラルタルはイギリスののこった。

フランスの戦争せんそうへの介入かいにゅう遠距離えんきょりでかつ海軍かいぐん使つかったものになったので、10おくリーブル以上いじょう戦費せんぴ使つかわれた。フランスの国家こっか財政ざいせい悲惨ひさん状態じょうたいとなり、一方いっぽうでジャック・ネッケルが税率ぜいりつげずに負債ふさいはらうために借金しゃっきんかさねたため、いちじるしく景気けいき後退こうたいしていた。国家こっか財政ざいせい担当たんとうかんのカロンヌは、赤字あかじ解消かいしょうのために貴族きぞく聖職せいしょくしゃ財産ざいさん税金ぜいきんをかけることをこころみたが、解職かいしょくされ追放ついほうされるというにあった。 フランスの財政ざいせい健全けんぜんするために必要ひつよう改革かいかくは、政情せいじょう不安ふあんのゆえによわめられた。戦争せんそうちゅう貿易ぼうえきいちじるしくっていたが、1783ねんには回復かいふくしていた。 戦争せんそうはフランスの権威けんいほこりにとってきわめて重要じゅうようであり、ヨーロッパの主導しゅどうしゃとしての役割やくわり復権ふっけんさせた。しかし、フランスは多額たがく軍事ぐんじ使つかったにもかかわらず、アメリカの主要しゅよう貿易ぼうえき相手あいてこくとはならなかった。フランスの軍隊ぐんたい遠距離えんきょり遠征えんせいおこない10おくリーブル以上いじょう使つかったために、フランスの負債ふさい33おく1500まんリーブルに追加ついかされることになった。

フランス参戦さんせんのもうひとつの結果けっかといえば、啓蒙けいもう主義しゅぎほこりをあらたにたことである。これは1776ねんアメリカ独立どくりつ宣言せんげん、1783ねんアメリカの勝利しょうり、さらに1787ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう公布こうふ印象いんしょうづけられ、自由じゆう主義しゅぎ特権とっけん階級かいきゅう満足まんぞくした。しかし、ほかにもおおきな影響えいきょうがあった。ヨーロッパの保守ほしゅ主義しゅぎ神経質しんけいしつになり、貴族きぞく階級かいきゅうはその地位ちい保全ほぜんのために対策たいさくはじめた。1781ねん5月22にちのセギュール条例じょうれいでは、軍隊ぐんたい上級じょうきゅう士官しかん一般人いっぱんじん昇進しょうしんすることを制限せいげんし、貴族きぞくのために留保りゅうほした。ブルジョワジー挫折ざせつはじまった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん英語えいご[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけんフランス語ふらんすご[編集へんしゅう]

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