イギリスのフリゲ ふりげ ート艦 とかん と交戦 こうせん するフランス-アメリカ連合 れんごう 船隊 せんたい (1779年 ねん 9月 がつ 23日 にち )
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう におけるフランス (アメリカどくりつせんそうにおけるフランス)では、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 前後 ぜんご のフランス 外交 がいこう の変遷 へんせん と国内 こくない への影響 えいきょう について述 の べる。
フランスはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう (1775年 ねん - 1783年 ねん )当時 とうじ 財政 ざいせい 的 てき に困難 こんなん な状況 じょうきょう にあったが、この戦争 せんそう をヨーロッパ ひいては世界 せかい におけるフランスの仇敵 きゅうてき であるイギリス を弱体 じゃくたい 化 か させる機会 きかい として捉 とら えた。植民 しょくみん 地 ち の独立 どくりつ は大 だい 英 えい 帝国 ていこく に重大 じゅうだい な損害 そんがい を与 あた え、翻 ひるがえ ってアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく という新 あたら しい力 ちから を生 う むことでフランスは良好 りょうこう な同盟 どうめい 関係 かんけい を維持 いじ できると考 かんが えていた。
フランスはもともとカナダ を失 うしな うことになった1763年 ねん の屈辱 くつじょく 的 てき なパリ条約 じょうやく に対 たい してイギリスに復讐 ふくしゅう を目論 もくろ んだとする歴史 れきし 家 か もいるが、Dullは1975年 ねん に、フランスの干渉 かんしょう は冷静 れいせい な計算 けいさん に基 もと づくものであり、単 たん になるイギリス嫌 ぎら いによるものでも、カナダ喪失 そうしつ の復讐 ふくしゅう のためでもないとしている。フランスの参戦 さんせん は、ヨーロッパ大陸 たいりく におけるフランス外交 がいこう の絶望 ぜつぼう 的 てき 状況 じょうきょう を反映 はんえい していた。独立 どくりつ 戦争 せんそう はフランスにとって悲惨 ひさん な失敗 しっぱい であり、アメリカの独立 どくりつ はイギリスを弱 よわ らせることにはならなかった。サラトガの戦 たたか い はフランス参戦 さんせん のきっかけを作 つく っただけであり、外交 がいこう 方針 ほうしん は既 すで に決 けっ していた。同盟 どうめい に加 くわ わったスペイン 海軍 かいぐん の存在 そんざい も軍事 ぐんじ 的 てき な主導 しゅどう 力 りょく を維持 いじ していくために重要 じゅうよう であった。フランスは和平 わへい については悲観 ひかん 的 てき であったが、決 けっ してアメリカを裏切 うらぎ らなかった。フランス政府 せいふ は負債 ふさい のやりくりで悲鳴 ひめい を上 あ げていたうえに、独立 どくりつ 戦争 せんそう がフランスの政治 せいじ 的 てき また社会 しゃかい 的 てき 秩序 ちつじょ を粉々 こなごな にする力 ちから を解 と き放 はな つ直接 ちょくせつ の機会 きかい (フランス革命 かくめい )を提供 ていきょう した。
フランスは1778年 ねん に参戦 さんせん し、イギリスからの独立 どくりつ を求 もと めるアメリカの勝利 しょうり を助 たす けた(実際 じっさい には1783年 ねん のパリ条約 じょうやく で実現 じつげん された)。フランスの近代 きんだい 戦力 せんりょく としての位置付 いちづ けが確認 かくにん され、復讐 ふくしゅう の思 おも いも満足 まんぞく されたが、戦争 せんそう は国 くに の財政 ざいせい には有害 ゆうがい であった。フランスの都市 とし は直接 ちょくせつ の破壊 はかい を免 まぬか れたとしても、1781年 ねん のヨークタウン包囲 ほうい 戦 せん のような決定的 けっていてき な勝利 しょうり を含 ふく むイギリス軍 ぐん に対 たい する戦争 せんそう は大 おお きな軍費 ぐんぴ (10億 おく リーブル)を必要 ひつよう とした。これが脆弱 ぜいじゃく だった財政 ざいせい をさらに悪化 あっか させ、赤字 あかじ が増 ふ えた。さらに悪 わる いことに、新興 しんこう のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が貿易 ぼうえき 上 じょう の一番 いちばん の相手 あいて 国 こく となるという目論見 もくろみ が実現 じつげん しなかった。イギリスがアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を主要 しゅよう 貿易 ぼうえき 国 こく としてしまった。戦前 せんぜん のイギリスとアメリカの交易 こうえき 形態 けいたい がほとんどそのまま残 のこ り、アメリカの交易 こうえき は大 だい 英 えい 帝国 ていこく の範囲 はんい 内 ない に留 とど まっていた。独立 どくりつ 戦争 せんそう にフランスが参戦 さんせん したということの認識 にんしき は、主 おも にロシャンボー伯爵 はくしゃく やラファイエット 侯爵 こうしゃく のような軍人 ぐんじん の英雄 えいゆう を称 たた えることで示 しめ された。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない にあったフランスの元 もと の領土 りょうど (ヌーベルフランス )を取 と り返 かえ せるという望 のぞ みも叶 かな わなかった。
フランスの国体 こくたい としての脆弱 ぜいじゃく 化 か と、絶対 ぜったい 王政 おうせい に対 たい する実現 じつげん 可能 かのう な代替 だいたい 体制 たいせい の見通 みとお しができてきたこと、これらはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう がフランス革命 かくめい に影響 えいきょう した大 おお きな要因 よういん である。
フランスの外交 がいこう 的 てき 立場 たちば [ 編集 へんしゅう ]
ルイ16世 せい は外交 がいこう 政策 せいさく 担当 たんとう 官 かん にヴェルジェンヌを指名 しめい した。ヴェルジェンヌは、七 なな 年 ねん 戦争 せんそう の後 のち はイギリスへ報復 ほうふく したいという想 おも いがあり、この想 おも いを前任 ぜんにん 者 しゃ のショワズールと共有 きょうゆう していた。ヴェルジェンヌはヨーロッパでは慎重 しんちょう な政策 せいさく を主導 しゅどう し、東 ひがし のプロイセン やオーストリア との平衡 へいこう 状態 じょうたい を保 たも っていた。特 とく にボヘミア継承 けいしょう 戦争 せんそう では参戦 さんせん しなかった。ヴェルジェンヌはフランス海軍 かいぐん の戦力 せんりょく をイギリス海軍 かいぐん に見合 みあ うものにし、アメリカでの緊張 きんちょう 事態 じたい を見守 みまも っていた。
1756年 ねん にルイ15世 せい が結 むす んだフランス=オーストリア同盟 どうめい が、1770年 ねん のルイ16世 せい とオーストリアのマリー・アントワネット との婚儀 こんぎ で再 さい 確認 かくにん された。一方 いっぽう 、スペイン との同君 どうくん 連合 れんごう によって大陸 たいりく ヨーロッパの支配 しはい 構造 こうぞう ができあがっていた。ルイ16世 せい とマリー・アントワネットの結婚 けっこん は、長 なが く続 つづ いたブルボン朝 あさ とハプスブルク朝 あさ との敵対 てきたい 関係 かんけい を、表面 ひょうめん 上 じょう だけでも終 お わりにしていた。
フランスの特権 とっけん 階級 かいきゅう は1763年 ねん のパリ条約 じょうやく 以来 いらい 復讐 ふくしゅう を夢見 ゆめみ ていた。これをスコットランド から追放 ついほう されたジャコバイト が植民 しょくみん 地 ち に渡 わた って大 おお いに支持 しじ していた。条約 じょうやく の中身 なかみ は負 ま けた側 がわ の立場 たちば から見 み れば穏 おだ やかなものであった。フランスは実入 みい りが良 よ い領土 りょうど の大半 たいはん 、例 たと えば砂糖 さとう を生産 せいさん するサン・ドマング の領有 りょうゆう を続 つづ けていた。フランス=スペイン=オーストリアの同盟 どうめい 軍 ぐん がイギリス海軍 かいぐん を敗 はい ったとしても、その戦費 せんぴ は莫大 ばくだい なものになり、各国 かっこく はできるだけ速 はや く終息 しゅうそく することを求 もと めることになった。それゆえにパリ条約 じょうやく は締結 ていけつ されたが、フランスにとってはイギリスに復讐 ふくしゅう し、決着 けっちゃく の付 つ いていない戦争 せんそう をはっきりと終 お わらせたいという強 つよ い願望 がんぼう が残 のこ った。
ショワズールは1763年 ねん 以前 いぜん から、攻撃 こうげき 速度 そくど 、艦船 かんせん の数 かず 、および敵国 てきこく の商船 しょうせん を襲 おそ う戦略 せんりゃく がより重要 じゅうよう になるという新 あたら しい戦争 せんそう の形 かたち を予測 よそく し、海軍 かいぐん の近代 きんだい 化 か を始 はじ めていた。フランスは快速 かいそく で操作性 そうさせいわる の良 よ い小 ちい さな艦船 かんせん を増 ふ やして、その艦隊 かんたい を海賊 かいぞく 化 か していた。さらに装備 そうび を近代 きんだい 化 か し、およそ30万 まん 人 にん にまで増強 ぞうきょう した軍隊 ぐんたい に訓練 くんれん を施 ほどこ した。ルイ16世 せい はこの近代 きんだい 化 か の達成 たっせい に相当 そうとう 量 りょう の資金 しきん をつぎ込 こ んだ。艦隊 かんたい は1762年 ねん の規模 きぼ を最小 さいしょう として、その後 ご 軍艦 ぐんかん を67隻 せき 、フリゲート を37隻 せき 増強 ぞうきょう した。
アメリカにおける紛争 ふんそう の火種 ひだね [ 編集 へんしゅう ]
七 なな 年 ねん 戦争 せんそう の後 のち 、イギリスはその経済 けいざい 事情 じじょう から植民 しょくみん 地 ち における交易 こうえき をより厳密 げんみつ に支配 しはい する方向 ほうこう に進 すす んでいた。税率 ぜいりつ が上 あ げられ、交易 こうえき は排他 はいた 的 てき になり、イギリス駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん を維持 いじ するために特別 とくべつ の課税 かぜい を植民 しょくみん 地 ち に求 もと めた。植民 しょくみん 地 ち 人 じん は「代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし 」という法 ほう を楯 だて に抗 あらが ったが、税金 ぜいきん は押 お しつけられ一連 いちれん の摩擦 まさつ を呼 よ ぶことになった。
抗 こう 争 そう の中 なか でも良 よ く知 し られた事件 じけん は1773年 ねん のボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん である。イギリス政府 せいふ が苦 く 況 きょう に喘 あえ ぐ東 ひがし インド会社 かいしゃ を救 すく うためにアメリカ植民 しょくみん 地 ち における紅茶 こうちゃ 販売 はんばい の独占 どくせん 化 か を図 はか ったが、植民 しょくみん 地 ち 人 じん はこれを拒 こば み、ボストン 港 みなと に停泊 ていはく する船 ふね から相当 そうとう 量 りょう の紅茶 こうちゃ を海 うみ に投 な げ捨 す てたものである。イギリスが報復 ほうふく のためにボストン港 こう を封鎖 ふうさ したので、ボストン市民 しみん の見方 みかた が急速 きゅうそく に硬化 こうか した。植民 しょくみん 地 ち 人 じん による第 だい 一 いち 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ が開催 かいさい され、武装 ぶそう 民兵 みんぺい 組織 そしき や新 あたら しい行政府 ぎょうせいふ が作 つく られた。1776年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は植民 しょくみん 地 ち の連合 れんごう とイギリスからの独立 どくりつ を宣言 せんげん したが、まださらにその力 ちから を強化 きょうか していく必要 ひつよう があった。
強力 きょうりょく なイギリス軍 ぐん に対 たい して、13植民 しょくみん 地 ち は武器 ぶき も頼 たよ る友邦 ゆうほう も無 な かったので、自然 しぜん とフランスに顔 かお を向 む けた。ベンジャミン・フランクリン との交渉 こうしょう により、フランスは紛争 ふんそう そのものには関心 かんしん を持 も っていなかったが、反乱 はんらん 軍 ぐん に関与 かんよ を始 はじ め、1778年 ねん 2月 がつ からは開戦 かいせん に踏 ふ み切 き った。この時 とき はまだイギリス海軍 かいぐん にフランス1国 こく で対抗 たいこう しなければならなかった。
フランス世論 せろん における参戦 さんせん 容認 ようにん とその周囲 しゅうい [ 編集 へんしゅう ]
13植民 しょくみん 地 ち の独立 どくりつ 宣言 せんげん に続 つづ いて、アメリカの反乱 はんらん はフランスの民衆 みんしゅう にも特権 とっけん 階級 かいきゅう にも好意 こうい 的 てき に受 う け入 い れられた。革命 かくめい はイギリスの専制 せんせい に対 たい する啓蒙 けいもう 思想 しそう の具現 ぐげん 化 か として認識 にんしき された。1776年 ねん 12月にベンジャミン・フランクリンがフランスに派遣 はけん されその支持 しじ を訴 うった えると、民衆 みんしゅう に熱狂 ねっきょう をもって迎 むか え入 い れられ、多 おお くのフランス人 じん はアメリカの反乱 はんらん を支援 しえん するために立 た ち上 あ がり、自由 じゆう と近代 きんだい 化 か の理想 りそう に燃 も えたランファン やラファイエット のような者 もの 達 たち が1776年 ねん に志願 しがん 兵 へい となった。
フランス政府 せいふ の反応 はんのう はやや冷 ひ ややかであった。ルイ16世 せい は植民 しょくみん 地 ち を救援 きゅうえん したかったが、財政 ざいせい 状態 じょうたい の故 ゆえ にボーマルシェ を通 つう じて隠密 おんみつ の援助 えんじょ をするに留 とど まった。ヴェルジェンヌはフランスの参戦 さんせん に賛成 さんせい であり、商業 しょうぎょう 的 てき および外交 がいこう 的 てき な利益 りえき の可能 かのう 性 せい も示唆 しさ していた。この状況 じょうきょう はフランスの分析 ぶんせき によるものであり、同盟 どうめい 国 こく (スペインとオーストリア)には少 すく なくとも中立 ちゅうりつ の保証 ほしょう を求 もと めていた。
外交 がいこう 、財政 ざいせい 、軍事 ぐんじ および経済 けいざい を担当 たんとう する指導 しどう 者 しゃ 層 そう はむしろ懐疑 かいぎ 的 てき であった。フランス海軍 かいぐん はまだ十分 じゅうぶん ではなくそのような戦争 せんそう に対 たい する備 そな えはできていなかった。経済 けいざい の状態 じょうたい は不 ふ 況 きょう のままであり、国家 こっか の財政 ざいせい はテュルゴー や後 のち にネッケル によって赤字 あかじ 状態 じょうたい を宣告 せんこく されていた。外交 がいこう 畑 はたけ の者 もの はヴェルジェンヌやルイ16世 せい ほど熱心 ねっしん ではなく、フランスがこの問題 もんだい ではヨーロッパの中 なか で特殊 とくしゅ であり孤立 こりつ していることを強調 きょうちょう していた。当時 とうじ の平和 へいわ と経済 けいざい 的 てき な繁栄 はんえい の上 うえ に立 た って、復讐 ふくしゅう の念 ねん と自由 じゆう の理想 りそう を小 ちい さくさせていた。
援助 えんじょ か開戦 かいせん かの議論 ぎろん [ 編集 へんしゅう ]
1776年 ねん に始 はじ まった秘密 ひみつ の武器 ぶき 販売 はんばい によって、フランスは私的 してき に戦争 せんそう に関与 かんよ し始 はじ めた。ルイ16世 せい とヴェルジェンヌが隠密 おんみつ にボーマルシェに会 あ って、ポルトガル の会社 かいしゃ 「ロドリク・ホルタレス・エ・コンパニー」という隠 かく れ蓑 みの を使 つか って百 ひゃく 万 まん ポンド近 ちか い武器 ぶき 弾薬 だんやく を売 う る許可 きょか を与 あた えた。フランスの援助 えんじょ はジョージ・ワシントン将軍 しょうぐん がイギリスの猛攻 もうこう 撃 げき に耐 た える要因 よういん となった。フランスが誂 あつら えたアメリカのフリゲートはイギリスの商船 しょうせん に対 たい する海賊 かいぞく 行為 こうい を行 おこな って、寄金 ききん にしろ貸 か し金 きん にしろ経済 けいざい 的 てき な援助 えんじょ の役割 やくわり を果 は たし、軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく 家 か の「休暇 きゅうか 」を利用 りよう してアメリカの軍隊 ぐんたい 支援 しえん を認 みと めるような技術 ぎじゅつ 的 てき 支援 しえん もあった。
アメリカの「反乱 はんらん 軍 ぐん 」によって指名 しめい されたサイラス・ディーン はイギリスに敵対心 てきたいしん を抱 いだ くフランス人 じん に助 たす けられ、非公式 ひこうしき の援助 えんじょ を勝 か ち取 と った。しかし、目標 もくひょう はフランスの全面 ぜんめん 的 てき な参戦 さんせん であった。フランクリン、ディーンおよびアーサー・リーによる代表 だいひょう 団 だん がヨーロッパ各国 かっこく の関与 かんよ を求 もと めるロビー活動 かつどう を行 おこな った。代表 だいひょう 団 だん は13植民 しょくみん 地 ち とフランス、スペインの同盟 どうめい によってイギリスを早期 そうき に打 う ち破 やぶ ることができると主張 しゅちょう したが、ヴェルジェンヌは個人 こじん 的 てき な願望 がんぼう にも拘 かか わらず、この提案 ていあん を拒否 きょひ した。フランクリンはフランスがヌーベルフランスを要求 ようきゅう できると訴 うった えた。1777年 ねん 7月 がつ 23日 にち 、ヴェルジェンヌは植民 しょくみん 地 ち を全面 ぜんめん 的 てき に支援 しえん するかその考 かんが えを捨 す てるかの議論 ぎろん を要求 ようきゅう した。
1777年 ねん の終 お わりに国際 こくさい 関係 かんけい が緊張 きんちょう していたとき、オーストリアがプロイセンに対 たい するバイエルン継承 けいしょう 戦争 せんそう でフランスの支援 しえん を求 もと めてきたが、フランスは拒否 きょひ し、オーストリアとの関係 かんけい は気 き まずいものになった。この状況 じょうきょう ではフランスがイギリスに対 たい する戦争 せんそう でオーストリアに支援 しえん を求 もと めることは不可能 ふかのう になった。スペインに対 たい する働 はたら きかけも失敗 しっぱい に終 お わった。スペインにとっては得 え るものがなく、革命 かくめい 精神 せいしん の広 ひろ がりがラテンアメリカ の植民 しょくみん 地 ち でのスペイン王室 おうしつ の正当 せいとう 性 せい に対 たい する脅威 きょうい となりつつあったからである。
イギリス軍 ぐん はフィラデルフィア を抑 おさ えていたが、サラトガの戦 たたか い における大陸 たいりく 軍 ぐん の勝利 しょうり はフランスの愛国 あいこく 者 しゃ や熱狂 ねっきょう 的 てき 支持 しじ 者 しゃ に希望 きぼう を取 と り戻 もど させた。イギリス軍 ぐん のバーゴイン 将軍 しょうぐん の軍隊 ぐんたい が敗 やぶ れ、フランスは13植民 しょくみん 地 ち が勝 か つかもしれないと想 おも うようになり、植民 しょくみん 地 ち に対 たい する表 ひょう だった援助 えんじょ を行 おこな うことを決 き めた。同盟 どうめい 国 こく のスペインはなお懐疑 かいぎ 的 てき であった。ヴェルジェンヌとルイ16世 せい は、アメリカの代表 だいひょう 団 だん 、フランクリン、ディーンおよびアーサー・リーを通 つう じてアメリカとの同盟 どうめい に対 たい する関心 かんしん が上 あ がってくるという仮定 かてい に立 た っていた。イギリスとフランスの間 あいだ の同盟 どうめい は1763年 ねん に無理矢理 むりやり 押 お しつけられたものであり、外交 がいこう 危機 きき に突入 とつにゅう した。参戦 さんせん 世論 せろん は評判 ひょうばん が上 あ がりつつあったラファイエットのような人気 にんき のある支持 しじ 者 しゃ からの恩恵 おんけい を得 え ていた。さらに復讐 ふくしゅう の念 ねん が表 ひょう に出 で てきた。
1778年 ねん 2月 がつ 6日 にち 、ヴェルジェンヌとルイ16世 せい はベンジャミン・フランクリンと友好 ゆうこう 条約 じょうやく に調印 ちょういん し、13植民 しょくみん 地 ち と正式 せいしき に同盟 どうめい を結 むす ぶことを決 き めた。フランスは13植民 しょくみん 地 ち が自立 じりつ した状態 じょうたい にあることを認識 にんしき し、双方 そうほう とも勝手 かって に休戦 きゅうせん しないこと、および植民 しょくみん 地 ち はアメリカにおけるフランスの権益 けんえき を守 まも ることで合意 ごうい した。戦闘 せんとう はアンティル諸島 しょとう で開始 かいし された。
フランスが参戦 さんせん すると、イギリスはフランス艦隊 かんたい を自国 じこく の海域 かいいき に止 と めておくよう画策 かくさく した。イギリス海峡 かいきょう におけるウェサン島 とう の海戦 かいせん は決着 けっちゃく が着 つ かなかった。2つの艦隊 かんたい は結果 けっか 的 てき に引 ひ き上 あ げた。イングランド に4万 まん 名 めい の部隊 ぶたい を上陸 じょうりく させる作戦 さくせん が練 ね られたが兵站 へいたん の問題 もんだい で捨 す てられた。ヨーロッパ大陸 たいりく では、オーストリアとの同盟 どうめい で守 まも られており、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に参戦 さんせん しなかったとしても、外交 がいこう 的 てき な支持 しじ は得 え られていた。
ヨーロッパの他 ほか の国 くに は武装 ぶそう 中立 ちゅうりつ 同盟 どうめい をつくり、参戦 さんせん を拒 こば んでいた。フランスが単独 たんどく でイギリス艦隊 かんたい に対抗 たいこう するのを見 み て、1780年 ねん にオランダ がフランス側 がわ に付 つ くことを決 き めた。スペインは1779年 ねん に支持 しじ を表明 ひょうめい していた。イギリスは困難 こんなん な立場 たちば に立 た たされた。
フランスの介入 かいにゅう は当然 とうぜん ながら海上 かいじょう で始 はじ まり、決着 けっちゃく の着 ちゃっ かないことが多 おお かったが、1780年 ねん にロシャンボー伯爵 はくしゃく が6,000名 めい の将兵 しょうへい を連 つ れてアメリカに渡 わた ったことで状況 じょうきょう が変化 へんか した。6,000名 めい のフランス軍 ぐん は既 すで にサバンナの戦 たたか い で3,000名 めい のイギリス軍 ぐん と対峙 たいじ していたが、フランス軍 ぐん の攻撃 こうげき が功 こう を焦 あせ り準備 じゅんび もできていなかったので結果 けっか 的 てき に失敗 しっぱい した。1781年 ねん のチェサピーク湾 わん の海戦 かいせん では、イギリス艦隊 かんたい の一部 いちぶ を逃避 とうひ させ残 のこ りを破壊 はかい したので、チャールズ・コーンウォリス をヨークタウンで包囲 ほうい することになった。コーンウォリスは約束 やくそく されたイギリス軍 ぐん の援兵 えんぺい を宛 あ てもなく待 ま たされていた。コーンウォリスは陸 りく では大陸 たいりく 軍 ぐん とフランス軍 ぐん に、海上 かいじょう はフランス艦隊 かんたい に抑 おさ えられた。同盟 どうめい フランス軍 ぐん は10月17日 にち のヨークタウンでパトリオット(愛国 あいこく 派 は )が決定的 けっていてき な勝利 しょうり を得 え るために重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じた。もしド・グラス提督 ていとく のフランス艦隊 かんたい がいなかったら、この勝利 しょうり はなかった。無益 むえき な抵抗 ていこう の後 のち に、コーンウォリスは10月19日 にち に正式 せいしき に降伏 ごうぶく した。主要 しゅよう な戦闘 せんとう は終 お わり、その後 ご は小競 こぜ り合 あ いに終始 しゅうし した。しかし、イギリスが正式 せいしき に休戦 きゅうせん するのは1783年 ねん のことだった。
フランスとイギリスの艦隊 かんたい の激突 げきとつ は地球 ちきゅう 規模 きぼ に広 ひろ がった。アンティル諸島 しょとう では、イギリスとフランスが交互 こうご にその支配 しはい を行 おこな い、1782年 ねん のセインツの海戦 かいせん でイギリスが支配 しはい することになった。スペインとフランスの連合 れんごう 艦隊 かんたい がイギリス艦隊 かんたい を破 やぶ り、メノルカ島 とう を1782年 ねん 2月 がつ に抑 おさ えた(メノルカ島 とう 侵攻 しんこう )。インド ではフランスと同盟 どうめい したマイソール王国 おうこく がイギリスの支配 しはい を打 う ち破 やぶ った。フランスは1783年 ねん にサンピエール島 とう ・ミクロン島 とう をイギリスから奪取 だっしゅ した。しかし、フランスとスペインが共同 きょうどう で行 おこな ったジブラルタル包囲 ほうい 戦 せん は失敗 しっぱい し、ジブラルタル 半島 はんとう はイギリスの支配 しはい に残 のこ った。
アメリカ本土 ほんど での決定的 けっていてき な勝利 しょうり のゆえに、フランスはパリ での交渉 こうしょう を有利 ゆうり に進 すす めることができた。
休戦 きゅうせん および結末 けつまつ [ 編集 へんしゅう ]
ヨークタウンの包囲 ほうい 戦 せん が始 はじ まってから、大陸 たいりく 軍 ぐん のベンジャミン・リンカーン 将軍 しょうぐん はイギリス軍 ぐん との秘密 ひみつ の交渉 こうしょう についてフランス軍 ぐん に教 おし えたことがなかった。交渉 こうしょう は直接 ちょくせつ ロンドン とワシントンの間 あいだ で進 すす められた。イギリスは13植民 しょくみん 地 ち に対 たい する支配 しはい を諦 あきら め、五大 ごだい 湖 みずうみ から南 みなみ とミシシッピー川 がわ から東 ひがし の領土 りょうど の領有 りょうゆう を認 みと めた。しかし、フランスは、アメリカとイギリスの間 あいだ の和平 わへい 交渉 こうしょう に加 くわ わらなかったので、フランスとアメリカの間 あいだ の同盟 どうめい 関係 かんけい が崩 くず れた。このためにその後 ご の和平 わへい 協定 きょうてい の交渉 こうしょう でフランスとスペインの影響 えいきょう 力 りょく が薄 うす れた。
1783年 ねん パリ条約 じょうやく の批准 ひじゅん 。イギリス代表 だいひょう は絵 え に描 えが かれることを拒 こば んだ。
1783年 ねん 9月、パリ条約 じょうやく で条件 じょうけん 付 つ き勝利 しょうり が宣言 せんげん された。フランスはアメリカ、アフリカ およびインドにおける領地 りょうち を回復 かいふく した。1763年 ねん パリ条約 じょうやく と1713年 ねん ユトレヒト条約 じょうやく で失 うしな った領土 りょうど のうち、トバゴ島 とう 、セントルシア 、セネガル川 がわ 領域 りょういき 、ダンケルク を回復 かいふく し、テラ・ノヴァ の漁業 ぎょぎょう 権 けん が増加 ぞうか した。スペインはフロリダ とメノルカを回復 かいふく したが、ジブラルタルはイギリスの手 て に残 のこ った。
フランスの戦争 せんそう への介入 かいにゅう は遠距離 えんきょり でかつ海軍 かいぐん を使 つか ったものになったので、10億 おく リーブル以上 いじょう の戦費 せんぴ が使 つか われた。フランスの国家 こっか 財政 ざいせい は悲惨 ひさん な状態 じょうたい となり、一方 いっぽう でジャック・ネッケルが税率 ぜいりつ を上 あ げずに負債 ふさい を払 はら うために借金 しゃっきん を重 かさ ねたため、著 いちじる しく景気 けいき も後退 こうたい していた。国家 こっか 財政 ざいせい 担当 たんとう 官 かん のカロンヌは、赤字 あかじ の解消 かいしょう のために貴族 きぞく や聖職 せいしょく 者 しゃ の財産 ざいさん に税金 ぜいきん をかけることを試 こころ みたが、解職 かいしょく され追放 ついほう されるという憂 う き目 め にあった。
フランスの財政 ざいせい を健全 けんぜん 化 か するために必要 ひつよう な改革 かいかく は、政情 せいじょう 不安 ふあん のゆえに弱 よわ められた。戦争 せんそう 中 ちゅう の貿易 ぼうえき は著 いちじる しく減 へ っていたが、1783年 ねん には回復 かいふく していた。
戦争 せんそう はフランスの権威 けんい と誇 ほこ りにとって極 きわ めて重要 じゅうよう であり、ヨーロッパの主導 しゅどう 者 しゃ としての役割 やくわり を復権 ふっけん させた。しかし、フランスは多額 たがく の軍事 ぐんじ 費 ひ を使 つか ったにも拘 かか わらず、アメリカの主要 しゅよう 貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく とはならなかった。フランスの軍隊 ぐんたい は遠距離 えんきょり 遠征 えんせい を行 おこな い10億 おく リーブル以上 いじょう を使 つか ったために、フランスの負債 ふさい 33億 おく 1500万 まん リーブルに追加 ついか されることになった。
フランス参戦 さんせん のもう一 ひと つの結果 けっか といえば、啓蒙 けいもう 主義 しゅぎ の誇 ほこ りを新 あら たに得 え たことである。これは1776年 ねん アメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん 、1783年 ねん アメリカの勝利 しょうり 、さらに1787年 ねん アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう の公布 こうふ で印象 いんしょう づけられ、自由 じゆう 主義 しゅぎ の特権 とっけん 階級 かいきゅう は満足 まんぞく した。しかし、他 ほか にも大 おお きな影響 えいきょう があった。ヨーロッパの保守 ほしゅ 主義 しゅぎ が神経質 しんけいしつ になり、貴族 きぞく 階級 かいきゅう はその地位 ちい の保全 ほぜん のために対策 たいさく を打 う ち始 はじ めた。1781年 ねん 5月22日 にち のセギュール条例 じょうれい では、軍隊 ぐんたい の上級 じょうきゅう 士官 しかん に一般人 いっぱんじん が昇進 しょうしん することを制限 せいげん し、貴族 きぞく のために留保 りゅうほ した。ブルジョワジー の挫折 ざせつ が始 はじ まった。
参考 さんこう 文献 ぶんけん (英語 えいご )[ 編集 へんしゅう ]
Samuel Flagg Bemis. The Diplomacy of the American Revolution (1935) online edition
Brown, John L. "Revolution and the Muse: the American War of Independence in Contemporary French Poetry." William and Mary Quarterly 1984 41(4): 592-614. Issn: 0043-5597 Fulltext in : Jstor
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