メノルカ島 とう 侵攻 しんこう (メノルカとうしんこう、英 えい : Invasion of Minorca )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 後半 こうはん の1781年 ねん 8月 がつ 19日 にち からフランス ・スペイン 連合 れんごう 軍 ぐん が地中海 ちちゅうかい にあるメノルカ島 とう のイギリス軍 ぐん セントフィリップ砦 とりで を包囲 ほうい し、5か月 げつ 以上 いじょう 後 ご の1782年 ねん 2月 がつ に陥落 かんらく させた戦 たたか いである。これによってスペインがフランスの同盟 どうめい 国 こく としてアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に参戦 さんせん した主 しゅ たる目的 もくてき の1つを達成 たっせい することになった。最終 さいしゅう 的 てき に1783年 ねん パリ条約 じょうやく により、メノルカ島 とう はスペインに割譲 かつじょう された。
メノルカ島 とう の東 ひがし 端 はし にはマオー 港 みなと があり、地中海 ちちゅうかい では最大 さいだい 級 きゅう に水深 すいしん のある停泊 ていはく 地 ち である。地中 ちちゅう 海岸 かいがん に拠点 きょてん を持 も たない海軍 かいぐん 国 こく にとって、メノルカ島 とう は大 おお きな戦略 せんりゃく 的 てき 価値 かち を持 も つものであり、その意味 いみ でイギリスは18世紀 せいき の大半 たいはん でこの島 しま を保持 ほじ していた。港 みなと に入 はい る狭 せま い入口 いりくち は、イギリス軍 ぐん がセントフィリップ城 じょう とよぶ砦 とりで で守 まも られていた。この名前 なまえ はスペイン語 ご のel castillo de San Felipe を翻訳 ほんやく したものだった。1756年 ねん にビング提督 ていとく が砦 とりで を占有 せんゆう するよりも自分 じぶん の艦隊 かんたい の安全 あんぜん 性 せい の方 ほう が重要 じゅうよう と判断 はんだん し(ミノルカ島 とう の海戦 かいせん )、その後 ご 銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ されて、他 た の提督 ていとく 達 たち により積極 せっきょく 的 てき に任務 にんむ を遂行 すいこう させるようになった出来事 できごと があってから、砦 とりで はその外郭 がいかく にあるサンカルロスとマールボロと呼 よ ばれる小 しょう 砦 とりで と共 とも に著 いちじる しく防御 ぼうぎょ が高 たか められた。その1756年 ねん の戦 たたか いではフランスが勝 か ったが、1763年 ねん に七 なな 年 ねん 戦争 せんそう の敗戦 はいせん を迎 むか え、メノルカ島 とう は歴史 れきし 的 てき な結 むす びつきが深 ふか く、フランスの同盟 どうめい 国 こく であるスペインへではなく、イギリスに返還 へんかん された。1779年 ねん 4月 がつ 12日 にち 、アランヘス条約 じょうやく によってスペイン政府 せいふ はフランスとの対 たい イギリス同盟 どうめい を更新 こうしん し、メノルカ島 とう を奪還 だっかん することをその主 しゅ 目標 もくひょう の一 ひと つに据 す えた。イギリスがもう一 ひと つ地中海 ちちゅうかい 出口 でぐち に所有 しょゆう する要塞 ようさい ジブラルタル を奪還 だっかん することに比 くら べれば小 ちい さな目標 もくひょう だったが、メノルカ島 とう からイギリスを排除 はいじょ すれば、そこを拠点 きょてん にして繁盛 はんじょう している私 わたし 掠 かすめ 船 せん の群 む れを排除 はいじょ できるので、これも重要 じゅうよう だった。これら私 わたし 掠 かすめ 船 せん はメノルカ島 とう 知事 ちじ のジェイムズ・マリーから免許 めんきょ を受 う け、イギリスの敵国 てきこく と商売 しょうばい をする可能 かのう 性 せい のある船舶 せんぱく を捕 つか まえていた。
1779年 ねん に行 おこな われたジブラルタル奪還 だっかん 作戦 さくせん はうまく行 い かず、スペインの軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ 達 たち は1780年 ねん 末 まつ までに、ジブラルタルを長期間 ちょうきかん 包囲 ほうい することと並行 へいこう して別 べつ の作戦 さくせん を始 はじ める必要 ひつよう があるという考 かんが えを受 う け入 い れていた。それ故 ゆえ にメノルカ島 とう 侵攻 しんこう 作戦 さくせん は1781年 ねん の初期 しょき 数 すう か月 げつ で立案 りつあん された。立案 りつあん 者 しゃ はクリヨン公爵 こうしゃく ドン・ルイス・ベルトン・デ・ロス・ブラトス(フランス人 じん で「恐怖 きょうふ を知 し らない男 おとこ 」ルイ・デス・バルベ・ド・ベルトン・ド・クリヨンの子孫 しそん )だった。クリヨンはスペインの陸軍 りくぐん 大臣 だいじん で外務 がいむ 大臣 だいじん でもあるフロリダブランカ伯爵 はくしゃく ホセ・モニーノ・イ・レドンド と共 とも に働 はたら いていたが、この二人 ふたり の関係 かんけい は幾 いく らか歪 ゆが みを生 しょう じており、クリヨンはおそらく考慮 こうりょ しておくべきほどの忠告 ちゅうこく を容 い れなかった。
1781年 ねん 6月 がつ 25日 にち 、ギシェン提督 ていとく の指揮 しき する約 やく 20隻 せき の戦闘 せんとう 艦 かん からなるフランス艦隊 かんたい がブレスト 港 みなと を出 で て沿岸 えんがん 偵察 ていさつ を行 おこな ったが、偶々地中海 ちちゅうかい に入 はい ることになった。このことでメノルカ島 とう には侵略 しんりゃく 艦隊 かんたい に対 たい する備 そな えを増 ふ やさせることになったが、イギリス軍 ぐん を欺すために目標 もくひょう に近付 ちかづ くまで同盟 どうめい スペインの艦隊 かんたい とは合流 ごうりゅう しなかった。スペインの侵略 しんりゃく 艦隊 かんたい は51隻 せき の兵員 へいいん 輸送 ゆそう 船 せん 、18隻 せき の補給 ほきゅう 船 せん 、3隻 せき の病院 びょういん 船 せん 、3隻 せき の食料 しょくりょう 運搬船 うんぱんせん 、2隻 せき の砲艦 ほうかん 、1隻 せき の消防 しょうぼう 艇 てい および13隻 せき の武装 ぶそう 護衛 ごえい 艦 かん であり、1781年 ねん 7月 がつ 23日 にち にカディス を出港 しゅっこう し、最初 さいしょ は目的 もくてき 地 ち がアメリカであるかのように西 にし に向 む かい、夜 よる に転換 てんかん して7月 がつ 25日 にち にジブラルタル下 か を通過 つうか した。地中海 ちちゅうかい では逆風 ぎゃくふう に遭 あ い、7月 がつ 29日 にち までに船団 せんだん が分裂 ぶんれつ を始 はじ め、カルタヘナ に近 ちか いラサビダ入江 いりえ で風 かざ よけをする必要 ひつよう があった。その後 ご 数日 すうじつ の間 あいだ にスペイン艦隊 かんたい はフランス艦隊 かんたい の戦闘 せんとう 艦 かん と慎重 しんちょう に合流 ごうりゅう した。合流 ごうりゅう した艦隊 かんたい は8月 がつ 5日 にち にラサビダを出発 しゅっぱつ し、24日 にち にはアリカンテ が見 み える所 ところ まで到着 とうちゃく し、17日 にち 夜 よる にはスペイン海岸 かいがん を離 はな れてフォルメンテラ島 とう に向 む かった。8月18日 にち にマヨルカ島 とう の南 みなみ 、カブレラの小島 こじま を過 す ぎるとき、パルマ から来 き た別 べつ の戦闘 せんとう 艦 かん 4隻 せき が合流 ごうりゅう した。その夜 よる 風向 かざむ きが南東 なんとう の風 ふう となり、艦隊 かんたい はマヨルカ島 とう に吹 ふ き流 なが されて座礁 ざしょう しないよう注意 ちゅうい する必要 ひつよう があったが、翌朝 よくあさ にはメノルカ島 とう が視界 しかい に入 はい った。
侵攻 しんこう 軍 ぐん の主力 しゅりょく は主 しゅ たる標的 ひょうてき であるマオー港 こう の直 す ぐ北 きた 、メスキダ湾 わん で上陸 じょうりく し、第 だい 二 に 部隊 ぶたい は港 みなと の南 なん アルコーファーで上陸 じょうりく し、島 しま に他 た に2つ在 あ るシウタデリャ とフォルネルスの港 みなと は海上 かいじょう 封鎖 ふうさ することになっていた。メスキダの部隊 ぶたい は知事 ちじ が住 す むマオーの町 まち に急行 きゅうこう し、知事 ちじ とできるだけ多 おお くのイギリス兵 へい を捕 つか まえることとされた。アルコーファーの部隊 ぶたい は郊外 こうがい の住宅 じゅうたく 地 ち ジョージタウン(現在 げんざい のエス・カステル)からセントフィリップ砦 とりで に至 いた る道路 どうろ を閉鎖 へいさ することとされた。これと同 おな じ頃 ごろ 、3番目 ばんめ の部隊 ぶたい がシウタデリャのデゴラドル海浜 かいひん で上陸 じょうりく し、島 しま を横断 おうだん する主要 しゅよう 道路 どうろ を閉鎖 へいさ することにした。最後 さいご にフォルネルスで上陸 じょうりく した分遣 ぶんけん 隊 たい がそこの小 ちい さな砲台 ほうだい を占領 せんりょう することになっていた。
この作戦 さくせん には1つの基本 きほん 的 てき な欠陥 けっかん があった。それはイギリス軍 ぐん がメノルカに近 ちか づいている大船 おおぶね 団 だん は友好 ゆうこう 的 てき な意図 いと で来 き ていると信 しん じるはずだという仮定 かてい に立 た っていたことだった。さらに風 ふう のために作戦 さくせん の修正 しゅうせい を余儀 よぎ なくされ、艦隊 かんたい の主力 しゅりょく が島 しま の北 きた ではなく南 みなみ を回 まわ ることになったために、シウタデリャでの上陸 じょうりく は一時 いちじ 的 てき に不可能 ふかのう になった。午前 ごぜん 10時半 じはん 頃 ごろ に艦隊 かんたい はメノルカ島 とう の南東 なんとう 端 はし にあるエアー島 とう を回 まわ ってマオー港 みなと への接近 せっきん を始 はじ め、一方 いっぽう アルコーファーの部隊 ぶたい は上陸 じょうりく に向 む かった。11時半 じはん を過 す ぎた頃 ころ 、艦隊 かんたい を先導 せんどう していた艦船 かんせん のサンパスクアル がセントフィリップ砦 とりで の下 した を通過 つうか し、その乗組 のりくみ 員 いん は戦闘 せんとう 態勢 たいせい に着 つ いていた(即座 そくざ の戦闘 せんとう は予測 よそく されていなかったが、これが海軍 かいぐん の伝統 でんとう だった)。最終 さいしゅう 的 てき に午後 ごご 1時 じ 頃 ごろ にサンパスクアル がメスキダに到着 とうちゃく し、艦隊 かんたい の残 のこ りも次第 しだい に追 お いついてきて、上陸 じょうりく 準備 じゅんび が始 はじ まった。午後 ごご 6時 じ 、浜辺 はまべ にスペイン旗 き が立 た てられ、祝砲 しゅくほう 23発 はつ が放 はな たれた。
イギリス軍 ぐん はメノルカ島 とう 南部 なんぶ 海岸 かいがん に哨塔を建 た てており、艦隊 かんたい が接近 せっきん するのを視認 しにん していた。急報 きゅうほう が即座 そくざ にマオーに送 おく られた。さらに島 しま の中心 ちゅうしん のトロ山 やま にあった哨塔からのより詳 くわ しい報告 ほうこく で情報 じょうほう が補 おぎな われた。正午 しょうご までにはマオー周辺 しゅうへん のイギリス軍 ぐん 関係 かんけい 者 しゃ の大半 たいはん がセントフィリップ砦 とりで の壁 かべ の中 なか に移動 いどう しており、港 みなと 入口 いりくち には鎖 くさり が固定 こてい され、狭 せま い海峡 かいきょう には小 ちい さな船 ふね が沈 しず められて、海 うみ からの侵入 しんにゅう を不可能 ふかのう にした。知事 ちじ の家族 かぞく を含 ふく め非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん はヴェネツィア 人 ひと の船 ふね に乗 の って安全 あんぜん なイタリア に出港 しゅっこう する準備 じゅんび を行 おこな い、フィレンツェ にあるイギリス軍 ぐん 護衛 ごえい 部隊 ぶたい に侵略 しんりゃく に関 かん する情報 じょうほう を伝 つた えるようにされた。その伝言 でんごん には守備 しゅび 隊 たい が「良好 りょうこう な健康 けんこう 状態 じょうたい と士気 しき 」にあり、「果敢 かかん な抵抗 ていこう 」を行 おこな うという言葉 ことば で締 し め括 くく られていた[ 1] 。この船 ふね は8月 がつ 31日 にち にリヴォルノ に到着 とうちゃく した[ 2] 。スペイン軍 ぐん がマオーの町 まち に入 はい ったとき、町 まち に残 のこ っていた住民 じゅうみん の大半 たいはん はスペイン側 がわ であり、歓呼 かんこ の声 こえ で迎 むか えられた。ジョージタウンでは152名 めい の捕虜 ほりょ が捕 と らえられ、シウタデリャとフォルネルスに派遣 はけん された部隊 ぶたい は8月 がつ 20日 はつか に約 やく 50名 めい のイギリス兵 へい を見付 みつ けただけだった。島 しま をスペイン軍 ぐん の管理 かんり 下 か に置 お く処置 しょち が取 と られた一方 いっぽう で、クリヨンとマリー知事 ちじ の間 あいだ で手紙 てがみ が取 と り交 か わされ、侵攻 しんこう 軍 ぐん は反撃 はんげき に備 そな えてその防御 ぼうぎょ を固 かた め始 はじ めた。8月23日 にち までにメノルカ島 とう には7,000名 めい 以上 いじょう のスペイン兵 へい が上陸 じょうりく しており、さらに3,000名 めい が間 ま もなく加 くわ わった。侵攻 しんこう 軍 ぐん がその地歩 ちほ を固 かた めると、艦隊 かんたい の大半 たいはん はメノルカ島 とう を離 はな れ、ギシェンは9月15日 にち にブレスト港 みなと に戻 もど った。
この侵攻 しんこう の報 しら せが約 やく 4週間 しゅうかん 後 ご にイギリス本国 ほんごく に知 し らされると、新聞 しんぶん は守備 しゅび 隊 たい が5,660名 めい 居 い ると報 ほう じたが、そのうち1,500名 めい は地元民 じもとみん 兵 へい であり、400名 めい は文民 ぶんみん 労働 ろうどう 者 しゃ だった。これら集団 しゅうだん のうち極少 きょくしょう 数 すう が砦 とりで の中 なか に入 はい ったが、イギリスがメノルカ島 とう に迎 むか え入 い れていた国際 こくさい 的 てき な事業 じぎょう 集団 しゅうだん 、すなわち北 きた アフリカ人 じん 、ユダヤ人 じん 、ギリシャ人 じん 等 ひとし は入 はい らなかった(アフリカ人 じん とユダヤ人 じん の社会 しゃかい に残 のこ っていた者 もの 達 たち は9月11日 にち にスペイン軍 ぐん によって追放 ついほう され、他 た の国 くに の者 もの 達 たち もその後 ご に追放 ついほう された)。また守備 しゅび 隊 たい の数 かず には島 しま の他所 よそ で侵略 しんりゃく 軍 ぐん に捕 つか まった者 もの も含 ふく まれていたので、砦 とりで 守備 しゅび 隊 たい の戦闘 せんとう 要員 よういん は3,000名 めい 足 た らずであり、数字 すうじ を大 おお きく報道 ほうどう したのは侵略 しんりゃく 軍 ぐん の意気 いき を落 お とすための誇張 こちょう と見 み られている。
1770年 ねん 頃 ごろ のメノルカ島 とう
間 ま もなくセントフィリップ砦 とりで を包囲 ほうい するための砲台 ほうだい 建設 けんせつ が始 はじ まり、その中 なか でも重要 じゅうよう なのが港口 こうこう とは反対 はんたい 側 がわ のラモラとジョージタウンに近 ちか いビニサイダのものだった。イギリス軍 ぐん はこれら工作 こうさく を容易 ようい にはさせなかった。その大砲 たいほう を工事 こうじ 地点 ちてん に向 む け、砦 とりで から部隊 ぶたい を出撃 しゅつげき させることもあった。その中 なか でも大 おお きなものは10月11日 にち に400名 めい (スペインの新聞 しんぶん が報道 ほうどう )ないし700名 めい の兵士 へいし が港 みなと を横切 よこぎ ってラモラに向 む かったものであり、80名 めい の兵士 へいし と8名 めい の士官 しかん を捕獲 ほかく した。スペイン部隊 ぶたい がその追撃 ついげき に派遣 はけん されたが遅 おそ すぎた。その士官 しかん 達 たち は捕虜 ほりょ になったイギリス軍 ぐん 士官 しかん と交換 こうかん されるのではない限 かぎ り、二度 にど と戦闘 せんとう には加 くわ わらないと誓約 せいやく した後 のち で解放 かいほう された。この戦闘 せんとう でイギリス兵 へい 3名 めい が戦死 せんし した。この戦闘 せんとう はイギリス軍 ぐん にとって成功 せいこう だったが、マリー知事 ちじ とその副官 ふっかん であるウィリアム・ドレイパー中将 ちゅうじょう との間 あいだ にその権限 けんげん に関 かん する議論 ぎろん があって齟齬 そご が生 しょう じ、その後 ご さらに険悪 けんあく なものになっていった。
このことが起 お こる前 まえ でもクリヨンの軍隊 ぐんたい の中 なか にはかなりの不満 ふまん の声 こえ があった。これは1775年 ねん にスペイン軍 ぐん がアルジェ のアージェル市 し 攻撃 こうげき して成功 せいこう したときの体験 たいけん と比較 ひかく したものだった。それゆえに援軍 えんぐん が命 めい じられ、偶然 ぐうぜん にもイギリス軍 ぐん の攻撃 こうげき があった翌日 よくじつ にマルセイユ からの最初 さいしょ の船 ふね がフォルネルスに到着 とうちゃく した。既 すで に島 しま に上陸 じょうりく していた10,411名 めい の軍隊 ぐんたい に、10月23日 にち には2個 こ 旅団 りょだん (フランス兵 へい 1個 いっこ 旅団 りょだん とドイツ兵 へい 1個 いっこ 旅団 りょだん )、総計 そうけい 3,886名 めい が追加 ついか された。この時 とき にはまたスペイン政府 せいふ から別 べつ の戦略 せんりゃく を試 こころ みる提案 ていあん がクリヨンに要請 ようせい されていた。メノルカから数 すう か月 げつ も掛 か かってイギリスに漏 も れ聞 き こえた報告 ほうこく の中 なか で、1782年 ねん 1月 がつ 末 まつ にロンドンの新聞 しんぶん に掲載 けいさい された2通 つう の手紙 てがみ は混乱 こんらん させるものだった。1つは1781年 ねん 10月 がつ 16日 にち 付 づ けでマリーからクリヨンに送 おく られた手紙 てがみ であり、マリーの家系 かけい は公爵 こうしゃく 家 か と同 おな じくらい高貴 こうき なものであり、元 もと クリヨン公爵 こうしゃく が国王 こくおう から裏切 うらぎ りを求 もと められたときにこれを拒 こば んだことを思 おも い出 だ させようとするものだった。もう一 いち 通 つう はクリヨンの返信 へんしん であり、クリヨン自 みずか らマリーの批判 ひはん を喜 よろこ んで受 う け入 い れることを示 しめ していた。これら交換 こうかん された手紙 てがみ のもとになったのは、クリヨンがマリーの降伏 ごうぶく と引 ひ き換 か えに50万 まん ペソ(当時 とうじ 10万 まん ポンド、或 ある る史料 しりょう では100万 まん ポンドの価値 かち があった)とスペイン軍 ぐん あるいはフランス軍 ぐん での位 い を提案 ていあん したことだった。
11月11日 にち 、包囲 ほうい 軍 ぐん の迫撃 はくげき 砲 ほう が運用 うんよう を開始 かいし された。最初 さいしょ の数日 すうじつ で砦 とりで に与 あた えた損傷 そんしょう と言 い えば小 ちい さな6ポンド砲 ほう 1門 もん の砲 ほう 架 か を壊 こわ したことだった。砦 とりで から放 はな たれた砲弾 ほうだん が迫撃 はくげき 砲 ほう の火薬 かやく 庫 こ に着弾 ちゃくだん し、迫撃 はくげき 砲 ほう 1門 もん が破壊 はかい された。砦 とりで の砲手 ほうしゅ はジョージタウンの桟橋 さんばし で荷 に 卸 おろ しをしていた補給 ほきゅう 船 せん 1隻 せき を沈 しず めることにも成功 せいこう した。この情報 じょうほう はマリーから11月12日 にち と13日 にち 付 づ けの2通 つう の手紙 てがみ で報告 ほうこく され、イングランドには12月4日 にち までにもたらされた[ 3] 。イギリス政府 せいふ からもマリー宛 あ ての手紙 てがみ が到着 とうちゃく し、守備 しゅび 隊 たい の勇気 ゆうき を称賛 しょうさん し、できるだけ早 はや く救援 きゅうえん を送 おく ることを約束 やくそく していた。実際 じっさい にはジブラルタルも包囲 ほうい されており、イギリスは1年 ねん 以上 いじょう の食糧 しょくりょう 備蓄 びちく を含 ふく め、1756年 ねん の戦 たたか い後 ご にセントフィリップ砦 とりで に成 な された慎重 しんちょう な改良 かいりょう に依存 いぞん していた。
スペイン軍 ぐん 砲兵 ほうへい による砦 とりで への砲撃 ほうげき が2か月 げつ 近 ちか く続 つづ いた後 のち の1782年 ねん 1月 がつ 6日 にち が最終 さいしゅう 攻撃 こうげき の始 はじ まりとされた。この攻撃 こうげき の初日 しょにち 、100門 もん のカノネード砲 ほう と35門 もん の迫撃 はくげき 砲 ほう から砦 とりで の外郭 がいかく に激 はげ しい砲撃 ほうげき が行 おこな われて損傷 そんしょう を与 あた えたので、マリーは全 ぜん 将兵 しょうへい を砦 とりで の内郭 ないかく まで退 しりぞ かせるしかなくなった。しかし、守備 しゅび 側 がわ を怯 ひる ませた砲撃 ほうげき によって、200門 もん のカノネード砲 ほう と40門 もん の迫撃 はくげき 砲 ほう を持 も っていた守備 しゅび 側 がわ も攻撃 こうげき 側 がわ に対 たい する砲撃 ほうげき を始 はじ めさせることになり、1月 がつ 12日 にち にはもう1隻 せき 補給 ほきゅう 船 せん を沈 しず めた。その3日 にち 後 ご 、攻撃 こうげき 側 がわ が照準 しょうじゅん を良 よ く定 さだ めた焼 しょう 夷 えびす 擲弾を重要 じゅうよう な倉庫 そうこ に命中 めいちゅう させて炎上 えんじょう させ、報復 ほうふく を果 は たした。その倉庫 そうこ には砦 とりで の物資 ぶっし の中 なか でも塩漬 しおづ け肉 にく が多 おお く保管 ほかん されており、4日間 にちかん 燃 も え続 つづ けた。この頃 ころ にマリー知事 ちじ と副 ふく 知事 ちじ のドレイパーとの関係 かんけい が完全 かんぜん に破綻 はたん しており、ある不愉快 ふゆかい な事件 じけん の後 のち で、マリーがドレイパーを解任 かいにん した。
守備 しゅび 隊 たい にとって肉 にく の喪失 そうしつ は比較的 ひかくてき 小 ちい さな問題 もんだい だった。砦 とりで は改良 かいりょう されていたが、野菜 やさい 庭園 ていえん には砲弾 ほうだん 避 さ けが施 ほどこ されていなかったので、新鮮 しんせん な野菜 やさい を手 て に入 い れる手段 しゅだん が無 な くなり、現在 げんざい ビタミン欠乏 けつぼう で生 しょう じることが分 わ かっている壊血病 かいけつびょう への対処 たいしょ が難 むずか しくなっていた。兵士 へいし 達 たち は次第 しだい に深刻 しんこく な兆候 ちょうこう を示 しめ し始 はじ め、2月 がつ の初 はじ めには、病院 びょういん に収容 しゅうよう されている者 もの の数 かず が1日 にち に50人 にん を超 こ えた。砦 とりで の複雑 ふくざつ な守 まも りを監視 かんし するためには415名 めい の兵士 へいし が必要 ひつよう だった。2月3日 にち までにどんな任務 にんむ でも遂行 すいこう できる兵士 へいし はやっと660名 めい となり、それ故 ゆえ に1日 にち の衛兵 えいへい 2シフトを賄 まかな うために必要 ひつよう な830名 めい に対 たい して、170名 めい が不足 ふそく することになった[ 4] 。660名 めい の動 うご ける兵士 へいし の中 なか で560名 めい は壊血病 かいけつびょう の兆候 ちょうこう があり、数 すう 名 めい の者 もの が哨兵 しょうへい 任務 にんむ 中 ちゅう に死亡 しぼう し、医務 いむ 担当 たんとう 士官 しかん にもその体調 たいちょう を報告 ほうこく しない道 みち を選 えら んでいた。
マリーは医療 いりょう チームから一連 いちれん の急報 きゅうほう を受 う けた後 のち の1782年 ねん 2月 がつ 4日 にち 、クリヨン公爵 こうしゃく に10か条 じょう の降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を付 つ けた文書 ぶんしょ を送 おく っていた。これは守備 しゅび 隊 たい がイギリスに戻 もど る輸送 ゆそう 船 せん をあてがわれ、その費用 ひよう はイギリス政府 せいふ が払 はら うべきものとする原則 げんそく に基 もと づいていた。クリヨンは守備 しゅび 隊 たい が戦争 せんそう 捕虜 ほりょ と宣 せん せされることに固執 こしつ する指示 しじ を受 う けていたのでこれを拒絶 きょぜつ したが、妥協 だきょう が可能 かのう であるべきことを強 つよ く示唆 しさ した。2月5日 にち 、両 りょう 軍 ぐん は最終 さいしゅう 合意 ごうい に達 たっ し、翌 よく 6日 にち には調印 ちょういん を行 おこな い、兵士 へいし 達 たち は輸送 ゆそう 船 せん を待 ま つ間 あいだ の一時 いちじ 的 てき 捕虜 ほりょ 状態 じょうたい に置 お かれることが認 みと められ、「マリーとその兵士 へいし が守備 しゅび 中 ちゅう に示 しめ した勇敢 ゆうかん さに対 たい し忠誠 ちゅうせい と勇敢 ゆうかん さに対 たい する考慮 こうりょ が払 はら われ、武器 ぶき を肩 かた に、太鼓 たいこ を鳴 な らし、火縄 ひなわ を燃 も やし、軍旗 ぐんき を掲 かか げて敵 てき 軍 ぐん の間 あいだ を行進 こうしん した後 のち に武器 ぶき と軍旗 ぐんき を降 お ろす」ことまでが取 と り決 き められた。スペイン軍 ぐん とフランス軍 ぐん の将兵 しょうへい がセントフィリップ砦 とりで からジョージタウンまでの道路 どうろ の両側 りょうがわ に並 なら ぶ中 なか を、マリーの兵士 へいし 950名 めい 程 ほど が粛々 しゅくしゅく と行進 こうしん し、ジョージタウンで守備 しゅび 隊 たい の兵士 へいし は「神 かみ のみに」降伏 ごうぶく するために武器 ぶき を置 お いた。マリーは行進 こうしん 中 ちゅう もじっと前 まえ を見据 みす えていたが、カリヨンとその副官 ふっかん のファルケンハイン男爵 だんしゃく から、フランス兵 へい とスペイン兵 へい の多 おお くがその目撃 もくげき したものに涙 なみだ を流 なが したことを聞 き いた。クリヨンとその部下 ぶか 達 たち は幾 いく つかの点 てん で合意 ごうい 点 てん 以上 いじょう のところまで行 い っており、マリーは「我々 われわれ が快復 かいふく するために貢献 こうけん するようなあらゆること」を提供 ていきょう してくれたと述 の べた[ 4] 。
1782年 ねん 2月 がつ 22日 にち 付 づ けスペインの「ハセタ・デ・マドリッド」紙 し はスペインの損失 そんしつ を戦死 せんし 184名 めい 、負傷 ふしょう 380名 めい と推計 すいけい している。包囲 ほうい 戦 せん 終了 しゅうりょう 時 じ の「ロンドン・ガゼット」紙 し の記事 きじ では、イギリス守備 しゅび 隊 たい の59名 めい が戦死 せんし していた。149名 めい の負傷 ふしょう 兵 へい を含 ふく む2,481名 めい の軍属 ぐんぞく が降伏 ごうぶく したことになるが、多 おお くの者 もの が壊血病 かいけつびょう で死亡 しぼう したことは無視 むし されているか、あるいは守備 しゅび 隊 たい の総 そう 勢力 せいりょく について当初 とうしょ 発表 はっぴょう したものにかなり誇張 こちょう された数字 すうじ が使 つか われていたかである。降伏 ごうぶく 後 ご に砦 とりで から出 で てきた者 もの の中 なか には43名 めい の文民 ぶんみん 労働 ろうどう 者 しゃ 、154名 めい の妻 つま と212人 にん の子供 こども 達 たち もいた[ 4] 。砦 とりで 自体 じたい はスペイン軍 ぐん 参謀 さんぼう の間 あいだ で検討 けんとう された後 のち 、簡単 かんたん には修復 しゅうふく できないように破壊 はかい された。クリヨンが意図 いと した類 るい の急襲 きゅうしゅう では奪取 だっしゅ できず、スペインに対抗 たいこう して使 つか うこともできないようになった。
クリヨン公爵 こうしゃく はこの成功 せいこう に続 つづ いてマオー公爵 こうしゃく の称号 しょうごう を与 あた えられ、新 あら たにジブラルタル攻略 こうりゃく の任務 にんむ を与 あた えられた。クリヨンはそこで砦 とりで を襲 おそ う大胆 だいたん な作戦 さくせん を始 はじ めた。ジェイムズ・マリー中将 ちゅうじょう は、ウィリアム・ドレイパーの告発 こくはつ により、1782年 ねん 11月に軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ に掛 か けられた。結局 けっきょく マリーは2つの罪状 ざいじょう でのみ有罪 ゆうざい とされた(そのうち重大 じゅうだい なものはその副官 ふっかん を見下 みくだ すような命令 めいれい を発 はっ したことであり、それが1月 がつ にドレイパーを解任 かいにん する引 ひ き金 がね になっていた)。1783年 ねん 1月 がつ 、マリーは譴責 けんせき 処分 しょぶん の判決 はんけつ を受 う け、その後 ご 直 す ぐに国王 こくおう ジョージ3世 せい 直 じき の仲介 ちゅうかい で、法廷 ほうてい でドレイパーが発 はっ した言葉 ことば に対 たい する謝罪 しゃざい が行 おこな われた。そうでもしなければ決闘 けっとう になっていたかもしれない[ 5] 。2月にマリーは大将 たいしょう に昇進 しょうしん したが、包囲 ほうい 戦中 せんちゅう に60歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を過 す ぎていたので、実務 じつむ に戻 もど ることはなかった。ただし、マリーは1789年 ねん に第 だい 21フュージリア連隊 れんたい の連隊 れんたい 長 ちょう になった[ 6] 。
イギリスはフランス革命 かくめい 戦争 せんそう 中 なか の1798年 ねん にメノルカ島 とう を再 さい 占領 せんりょう したが、1802年 ねん のアミアンの和 わ 約 やく 締結 ていけつ 後 ご にスペインに恒久 こうきゅう 的 てき に返還 へんかん した。
^ London Gazette, 11 September 1781 — gazettes-online.co.uk
^ London Gazette, 15 September 1781 — gazettes-online.co.uk
^ London Gazette, 4 December 1781 — gazettes-online.co.uk
^ a b c London Gazette, 26 March 1782 — gazettes-online.co.uk
^ Anderson, William The Scottish Nation (vol. 2 page 130) Edinburgh, Fullarton (1862), via Google Books — accessed 2007-12-17
^ Dictionary of National Biography entry – subscription, accessed 2007-12-16
Terrón Ponce, José L. "La reconquista de Menorca por el duque de Crillon (1781-1782)" Mahón, Museo Militar (1981) — accessed 2007-12-17