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メノルカとう侵攻しんこう

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メノルカとう侵攻しんこう

メノルカとう位置いち
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1781ねん8がつ19にち - 1782ねん2がつ5にち
場所ばしょ地中海ちちゅうかいバレアレス諸島しょとうメノルカとう
結果けっか:フランス・スペイン連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
スペインスペインぐん
フランス王国フランスぐん
イギリスイギリスぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
スペイン デ・クリヨン公爵こうしゃく イギリス ジェイムズ・マリー
戦力せんりょく
~14,000 ~3,000
損害そんがい
戦死せんし184めい
負傷ふしょう380めい
戦死せんし59めい戦病死せんびょうしのぞく)
負傷ふしょう149めい
捕虜ほりょ2,481めい
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

メノルカとう侵攻しんこう (メノルカとうしんこう、えい: Invasion of Minorca)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう後半こうはん1781ねん8がつ19にちからフランススペイン連合れんごうぐん地中海ちちゅうかいにあるメノルカとうイギリスぐんセントフィリップとりで包囲ほういし、5かげつ以上いじょうの1782ねん2がつ陥落かんらくさせたたたかいである。これによってスペインがフランスの同盟どうめいこくとしてアメリカ独立どくりつ戦争せんそう参戦さんせんしたしゅたる目的もくてきの1つを達成たっせいすることになった。最終さいしゅうてきに1783ねんパリ条約じょうやくにより、メノルカとうはスペインに割譲かつじょうされた。

背景はいけい

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メノルカとうひがしはしにはマオーみなとがあり、地中海ちちゅうかいでは最大さいだいきゅう水深すいしんのある停泊ていはくである。地中ちちゅう海岸かいがん拠点きょてんたない海軍かいぐんこくにとって、メノルカとうおおきな戦略せんりゃくてき価値かちつものであり、その意味いみでイギリスは18世紀せいき大半たいはんでこのしま保持ほじしていた。みなとはいせま入口いりくちは、イギリスぐんがセントフィリップじょうとよぶとりでまもられていた。この名前なまえはスペインel castillo de San Felipe翻訳ほんやくしたものだった。1756ねんビング提督ていとくとりで占有せんゆうするよりも自分じぶん艦隊かんたい安全あんぜんせいほう重要じゅうよう判断はんだんし(ミノルカとう海戦かいせん)、その銃殺じゅうさつけいしょされて、提督ていとくたちにより積極せっきょくてき任務にんむ遂行すいこうさせるようになった出来事できごとがあってから、とりではその外郭がいかくにあるサンカルロスとマールボロとばれるしょうとりでともいちじるしく防御ぼうぎょたかめられた。その1756ねんたたかいではフランスがったが、1763ねんななねん戦争せんそう敗戦はいせんむかえ、メノルカとう歴史れきしてきむすびつきがふかく、フランスの同盟どうめいこくであるスペインへではなく、イギリスに返還へんかんされた。1779ねん4がつ12にち、アランヘス条約じょうやくによってスペイン政府せいふはフランスとのたいイギリス同盟どうめい更新こうしんし、メノルカとう奪還だっかんすることをそのしゅ目標もくひょうひとつにえた。イギリスがもうひと地中海ちちゅうかい出口でぐち所有しょゆうする要塞ようさいジブラルタル奪還だっかんすることにくらべればちいさな目標もくひょうだったが、メノルカとうからイギリスを排除はいじょすれば、そこを拠点きょてんにして繁盛はんじょうしているわたしかすめせんれを排除はいじょできるので、これも重要じゅうようだった。これらわたしかすめせんはメノルカとう知事ちじのジェイムズ・マリーから免許めんきょけ、イギリスの敵国てきこく商売しょうばいをする可能かのうせいのある船舶せんぱくつかまえていた。

奪還だっかんのための作戦さくせん

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1779ねんおこなわれたジブラルタル奪還だっかん作戦さくせんはうまくかず、スペインの軍事ぐんじ指導しどうしゃたちは1780ねんまつまでに、ジブラルタルを長期間ちょうきかん包囲ほういすることと並行へいこうしてべつ作戦さくせんはじめる必要ひつようがあるというかんがえをれていた。それゆえにメノルカとう侵攻しんこう作戦さくせんは1781ねん初期しょきすうげつ立案りつあんされた。立案りつあんしゃはクリヨン公爵こうしゃくドン・ルイス・ベルトン・デ・ロス・ブラトス(フランスじんで「恐怖きょうふらないおとこ」ルイ・デス・バルベ・ド・ベルトン・ド・クリヨンの子孫しそん)だった。クリヨンはスペインの陸軍りくぐん大臣だいじん外務がいむ大臣だいじんでもあるフロリダブランカ伯爵はくしゃくホセ・モニーノ・イ・レドンドともはたらいていたが、この二人ふたり関係かんけいいくらかゆがみをしょうじており、クリヨンはおそらく考慮こうりょしておくべきほどの忠告ちゅうこくれなかった。

侵略しんりゃく艦隊かんたい

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1781ねん6がつ25にち、ギシェン提督ていとく指揮しきするやく20せき戦闘せんとうかんからなるフランス艦隊かんたいブレストみなと沿岸えんがん偵察ていさつおこなったが、偶々地中海ちちゅうかいはいることになった。このことでメノルカとうには侵略しんりゃく艦隊かんたいたいするそなえをやさせることになったが、イギリスぐんを欺すために目標もくひょう近付ちかづくまで同盟どうめいスペインの艦隊かんたいとは合流ごうりゅうしなかった。スペインの侵略しんりゃく艦隊かんたいは51せき兵員へいいん輸送ゆそうせん、18せき補給ほきゅうせん、3せき病院びょういんせん、3せき食料しょくりょう運搬船うんぱんせん、2せき砲艦ほうかん、1せき消防しょうぼうていおよび13せき武装ぶそう護衛ごえいかんであり、1781ねん7がつ23にちカディス出港しゅっこうし、最初さいしょ目的もくてきがアメリカであるかのように西にしかい、よる転換てんかんして7がつ25にちにジブラルタル通過つうかした。地中海ちちゅうかいでは逆風ぎゃくふうい、7がつ29にちまでに船団せんだん分裂ぶんれつはじめ、カルタヘナちかいラサビダ入江いりえかざよけをする必要ひつようがあった。その数日すうじつあいだにスペイン艦隊かんたいはフランス艦隊かんたい戦闘せんとうかん慎重しんちょう合流ごうりゅうした。合流ごうりゅうした艦隊かんたいは8がつ5にちにラサビダを出発しゅっぱつし、24にちにはアリカンテえるところまで到着とうちゃくし、17にちよるにはスペイン海岸かいがんはなれてフォルメンテラとうかった。8月18にちマヨルカとうみなみ、カブレラの小島こじまぎるとき、パルマからべつ戦闘せんとうかん4せき合流ごうりゅうした。そのよる風向かざむきが南東なんとうふうとなり、艦隊かんたいはマヨルカとうながされて座礁ざしょうしないよう注意ちゅういする必要ひつようがあったが、翌朝よくあさにはメノルカとう視界しかいはいった。

侵攻しんこう作戦さくせん

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侵攻しんこうぐん主力しゅりょくしゅたる標的ひょうてきであるマオーこうきた、メスキダわん上陸じょうりくし、だい部隊ぶたいみなとなんアルコーファーで上陸じょうりくし、しまに2つシウタデリャとフォルネルスのみなと海上かいじょう封鎖ふうさすることになっていた。メスキダの部隊ぶたい知事ちじむマオーのまち急行きゅうこうし、知事ちじとできるだけおおくのイギリスへいつかまえることとされた。アルコーファーの部隊ぶたい郊外こうがい住宅じゅうたくジョージタウン(現在げんざいのエス・カステル)からセントフィリップとりでいた道路どうろ閉鎖へいさすることとされた。これとおなごろ、3番目ばんめ部隊ぶたいがシウタデリャのデゴラドル海浜かいひん上陸じょうりくし、しま横断おうだんする主要しゅよう道路どうろ閉鎖へいさすることにした。最後さいごにフォルネルスで上陸じょうりくした分遣ぶんけんたいがそこのちいさな砲台ほうだい占領せんりょうすることになっていた。

実際じっさい侵攻しんこう

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この作戦さくせんには1つの基本きほんてき欠陥けっかんがあった。それはイギリスぐんがメノルカにちかづいている大船おおぶねだん友好ゆうこうてき意図いとているとしんじるはずだという仮定かていっていたことだった。さらにふうのために作戦さくせん修正しゅうせい余儀よぎなくされ、艦隊かんたい主力しゅりょくしまきたではなくみなみまわることになったために、シウタデリャでの上陸じょうりく一時いちじてき不可能ふかのうになった。午前ごぜん10時半じはんごろ艦隊かんたいはメノルカとう南東なんとうはしにあるエアーとうまわってマオーみなとへの接近せっきんはじめ、一方いっぽうアルコーファーの部隊ぶたい上陸じょうりくかった。11時半じはんぎたころ艦隊かんたい先導せんどうしていた艦船かんせんサンパスクアルがセントフィリップとりでした通過つうかし、その乗組のりくみいん戦闘せんとう態勢たいせいいていた(即座そくざ戦闘せんとう予測よそくされていなかったが、これが海軍かいぐん伝統でんとうだった)。最終さいしゅうてき午後ごご1ごろサンパスクアルがメスキダに到着とうちゃくし、艦隊かんたいのこりも次第しだいいついてきて、上陸じょうりく準備じゅんびはじまった。午後ごご6浜辺はまべにスペインてられ、祝砲しゅくほう23はつはなたれた。

イギリスぐんはメノルカとう南部なんぶ海岸かいがんに哨塔をてており、艦隊かんたい接近せっきんするのを視認しにんしていた。急報きゅうほう即座そくざにマオーにおくられた。さらにしま中心ちゅうしんのトロやまにあった哨塔からのよりくわしい報告ほうこく情報じょうほうおぎなわれた。正午しょうごまでにはマオー周辺しゅうへんのイギリスぐん関係かんけいしゃ大半たいはんがセントフィリップとりでかべなか移動いどうしており、みなと入口いりくちにはくさり固定こていされ、せま海峡かいきょうにはちいさなふねしずめられて、うみからの侵入しんにゅう不可能ふかのうにした。知事ちじ家族かぞくふく戦闘せんとういんヴェネツィアひとふねって安全あんぜんイタリア出港しゅっこうする準備じゅんびおこない、フィレンツェにあるイギリスぐん護衛ごえい部隊ぶたい侵略しんりゃくかんする情報じょうほうつたえるようにされた。その伝言でんごんには守備しゅびたいが「良好りょうこう健康けんこう状態じょうたい士気しき」にあり、「果敢かかん抵抗ていこう」をおこなうという言葉ことばくくられていた[1]。このふねは8がつ31にちリヴォルノ到着とうちゃくした[2]。スペインぐんがマオーのまちはいったとき、まちのこっていた住民じゅうみん大半たいはんはスペインがわであり、歓呼かんここえむかえられた。ジョージタウンでは152めい捕虜ほりょらえられ、シウタデリャとフォルネルスに派遣はけんされた部隊ぶたいは8がつ20日はつかやく50めいのイギリスへい見付みつけただけだった。しまをスペインぐん管理かんり処置しょちられた一方いっぽうで、クリヨンとマリー知事ちじあいだ手紙てがみわされ、侵攻しんこうぐん反撃はんげきそなえてその防御ぼうぎょかたはじめた。8月23にちまでにメノルカとうには7,000めい以上いじょうのスペインへい上陸じょうりくしており、さらに3,000めいもなくくわわった。侵攻しんこうぐんがその地歩ちほかためると、艦隊かんたい大半たいはんはメノルカとうはなれ、ギシェンは9月15にちにブレストみなともどった。

この侵攻しんこうしらせがやく4週間しゅうかんにイギリス本国ほんごくらされると、新聞しんぶん守備しゅびたいが5,660めいるとほうじたが、そのうち1,500めい地元民じもとみんへいであり、400めい文民ぶんみん労働ろうどうしゃだった。これら集団しゅうだんのうち極少きょくしょうすうとりでなかはいったが、イギリスがメノルカとうむかれていた国際こくさいてき事業じぎょう集団しゅうだん、すなわちきたアフリカじんユダヤじんギリシャじんひとしはいらなかった(アフリカじんとユダヤじん社会しゃかいのこっていたものたちは9月11にちにスペインぐんによって追放ついほうされ、くにものたちもその追放ついほうされた)。また守備しゅびたいかずにはしま他所よそ侵略しんりゃくぐんつかまったものふくまれていたので、とりで守備しゅびたい戦闘せんとう要員よういんは3,000めいらずであり、数字すうじおおきく報道ほうどうしたのは侵略しんりゃくぐん意気いきとすための誇張こちょうられている。

包囲ほういせん開始かいし

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1770ねんごろのメノルカとう

もなくセントフィリップとりで包囲ほういするための砲台ほうだい建設けんせつはじまり、そのなかでも重要じゅうようなのが港口こうこうとは反対はんたいがわのラモラとジョージタウンにちかいビニサイダのものだった。イギリスぐんはこれら工作こうさく容易よういにはさせなかった。その大砲たいほう工事こうじ地点ちてんけ、とりでから部隊ぶたい出撃しゅつげきさせることもあった。そのなかでもおおきなものは10月11にちに400めい(スペインの新聞しんぶん報道ほうどう)ないし700めい兵士へいしみなと横切よこぎってラモラにかったものであり、80めい兵士へいしと8めい士官しかん捕獲ほかくした。スペイン部隊ぶたいがその追撃ついげき派遣はけんされたがおそすぎた。その士官しかんたち捕虜ほりょになったイギリスぐん士官しかん交換こうかんされるのではないかぎり、二度にど戦闘せんとうにはくわわらないと誓約せいやくしたのち解放かいほうされた。この戦闘せんとうでイギリスへい3めい戦死せんしした。この戦闘せんとうはイギリスぐんにとって成功せいこうだったが、マリー知事ちじとその副官ふっかんであるウィリアム・ドレイパー中将ちゅうじょうとのあいだにその権限けんげんかんする議論ぎろんがあって齟齬そごしょうじ、そのさらに険悪けんあくなものになっていった。

このことがこるまえでもクリヨンの軍隊ぐんたいなかにはかなりの不満ふまんこえがあった。これは1775ねんにスペインぐんアルジェのアージェル攻撃こうげきして成功せいこうしたときの体験たいけん比較ひかくしたものだった。それゆえに援軍えんぐんめいじられ、偶然ぐうぜんにもイギリスぐん攻撃こうげきがあった翌日よくじつマルセイユからの最初さいしょふねがフォルネルスに到着とうちゃくした。すでしま上陸じょうりくしていた10,411めい軍隊ぐんたいに、10月23にちには2旅団りょだん(フランスへい1個いっこ旅団りょだんとドイツへい1個いっこ旅団りょだん)、総計そうけい3,886めい追加ついかされた。このときにはまたスペイン政府せいふからべつ戦略せんりゃくこころみる提案ていあんがクリヨンに要請ようせいされていた。メノルカからすうげつかってイギリスにこえた報告ほうこくなかで、1782ねん1がつまつにロンドンの新聞しんぶん掲載けいさいされた2つう手紙てがみ混乱こんらんさせるものだった。1つは1781ねん10がつ16にちけでマリーからクリヨンにおくられた手紙てがみであり、マリーの家系かけい公爵こうしゃくおなじくらい高貴こうきなものであり、もとクリヨン公爵こうしゃく国王こくおうから裏切うらぎりをもとめられたときにこれをこばんだことをおもさせようとするものだった。もういちつうはクリヨンの返信へんしんであり、クリヨンみずからマリーの批判ひはんよろこんでれることをしめしていた。これら交換こうかんされた手紙てがみのもとになったのは、クリヨンがマリーの降伏ごうぶくえに50まんペソ(当時とうじ10まんポンド、ある史料しりょうでは100まんポンドの価値かちがあった)とスペインぐんあるいはフランスぐんでの提案ていあんしたことだった。

だい砲撃ほうげき

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11月11にち包囲ほういぐん迫撃はくげきほう運用うんよう開始かいしされた。最初さいしょ数日すうじつとりであたえた損傷そんしょうえばちいさな6ポンドほう1もんほうこわしたことだった。とりでからはなたれた砲弾ほうだん迫撃はくげきほう火薬かやく着弾ちゃくだんし、迫撃はくげきほう1もん破壊はかいされた。とりで砲手ほうしゅはジョージタウンの桟橋さんばしおろしをしていた補給ほきゅうせん1せきしずめることにも成功せいこうした。この情報じょうほうはマリーから11月12にちと13にちけの2つう手紙てがみ報告ほうこくされ、イングランドには12月4にちまでにもたらされた[3]。イギリス政府せいふからもマリーての手紙てがみ到着とうちゃくし、守備しゅびたい勇気ゆうき称賛しょうさんし、できるだけはや救援きゅうえんおくることを約束やくそくしていた。実際じっさいにはジブラルタルも包囲ほういされており、イギリスは1ねん以上いじょう食糧しょくりょう備蓄びちくふくめ、1756ねんたたかにセントフィリップとりでされた慎重しんちょう改良かいりょう依存いぞんしていた。

スペインぐん砲兵ほうへいによるとりでへの砲撃ほうげきが2かげつちかつづいたのちの1782ねん1がつ6にち最終さいしゅう攻撃こうげきはじまりとされた。この攻撃こうげき初日しょにち、100もんのカノネードほうと35もん迫撃はくげきほうからとりで外郭がいかくはげしい砲撃ほうげきおこなわれて損傷そんしょうあたえたので、マリーはぜん将兵しょうへいとりで内郭ないかくまで退しりぞかせるしかなくなった。しかし、守備しゅびがわひるませた砲撃ほうげきによって、200もんのカノネードほうと40もん迫撃はくげきほうっていた守備しゅびがわ攻撃こうげきがわたいする砲撃ほうげきはじめさせることになり、1がつ12にちにはもう1せき補給ほきゅうせんしずめた。その3にち攻撃こうげきがわ照準しょうじゅんさだめたしょうえびす擲弾を重要じゅうよう倉庫そうこ命中めいちゅうさせて炎上えんじょうさせ、報復ほうふくたした。その倉庫そうこにはとりで物資ぶっしなかでも塩漬しおづにくおお保管ほかんされており、4日間にちかんつづけた。このころにマリー知事ちじふく知事ちじのドレイパーとの関係かんけい完全かんぜん破綻はたんしており、ある不愉快ふゆかい事件じけんのちで、マリーがドレイパーを解任かいにんした。

かみによる敗北はいぼく

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守備しゅびたいにとってにく喪失そうしつ比較的ひかくてきちいさな問題もんだいだった。とりで改良かいりょうされていたが、野菜やさい庭園ていえんには砲弾ほうだんけがほどこされていなかったので、新鮮しんせん野菜やさいれる手段しゅだんくなり、現在げんざいビタミン欠乏けつぼうしょうじることがかっている壊血病かいけつびょうへの対処たいしょむずかしくなっていた。兵士へいしたち次第しだい深刻しんこく兆候ちょうこうしめはじめ、2がつはじめには、病院びょういん収容しゅうようされているものかずが1にちに50にんえた。とりで複雑ふくざつまもりを監視かんしするためには415めい兵士へいし必要ひつようだった。2月3にちまでにどんな任務にんむでも遂行すいこうできる兵士へいしはやっと660めいとなり、それゆえに1にち衛兵えいへい2シフトをまかなうために必要ひつような830めいたいして、170めい不足ふそくすることになった[4]。660めいうごける兵士へいしなかで560めい壊血病かいけつびょう兆候ちょうこうがあり、すうめいもの哨兵しょうへい任務にんむちゅう死亡しぼうし、医務いむ担当たんとう士官しかんにもその体調たいちょう報告ほうこくしないみちえらんでいた。

マリーは医療いりょうチームから一連いちれん急報きゅうほうけたのちの1782ねん2がつ4にち、クリヨン公爵こうしゃくに10かじょう降伏ごうぶく条件じょうけんけた文書ぶんしょおくっていた。これは守備しゅびたいがイギリスにもど輸送ゆそうせんをあてがわれ、その費用ひようはイギリス政府せいふはらうべきものとする原則げんそくもとづいていた。クリヨンは守備しゅびたい戦争せんそう捕虜ほりょせんせされることに固執こしつする指示しじけていたのでこれを拒絶きょぜつしたが、妥協だきょう可能かのうであるべきことをつよ示唆しさした。2月5にちりょうぐん最終さいしゅう合意ごういたっし、よく6にちには調印ちょういんおこない、兵士へいしたち輸送ゆそうせんあいだ一時いちじてき捕虜ほりょ状態じょうたいかれることがみとめられ、「マリーとその兵士へいし守備しゅびちゅうしめした勇敢ゆうかんさにたい忠誠ちゅうせい勇敢ゆうかんさにたいする考慮こうりょはらわれ、武器ぶきかたに、太鼓たいこらし、火縄ひなわやし、軍旗ぐんきかかげててきぐんあいだ行進こうしんしたのち武器ぶき軍旗ぐんきろす」ことまでがめられた。スペインぐんとフランスぐん将兵しょうへいがセントフィリップとりでからジョージタウンまでの道路どうろ両側りょうがわならなかを、マリーの兵士へいし950めいほど粛々しゅくしゅく行進こうしんし、ジョージタウンで守備しゅびたい兵士へいしは「かみのみに」降伏ごうぶくするために武器ぶきいた。マリーは行進こうしんちゅうもじっとまえ見据みすえていたが、カリヨンとその副官ふっかんのファルケンハイン男爵だんしゃくから、フランスへいとスペインへいおおくがその目撃もくげきしたものになみだながしたことをいた。クリヨンとその部下ぶかたちいくつかのてん合意ごういてん以上いじょうのところまでっており、マリーは「我々われわれ快復かいふくするために貢献こうけんするようなあらゆること」を提供ていきょうしてくれたとべた[4]

戦闘せんとうのち

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1782ねん2がつ22にちけスペインの「ハセタ・デ・マドリッド」はスペインの損失そんしつ戦死せんし184めい負傷ふしょう380めい推計すいけいしている。包囲ほういせん終了しゅうりょうの「ロンドン・ガゼット」記事きじでは、イギリス守備しゅびたいの59めい戦死せんししていた。149めい負傷ふしょうへいふくむ2,481めい軍属ぐんぞく降伏ごうぶくしたことになるが、おおくのもの壊血病かいけつびょう死亡しぼうしたことは無視むしされているか、あるいは守備しゅびたいそう勢力せいりょくについて当初とうしょ発表はっぴょうしたものにかなり誇張こちょうされた数字すうじ使つかわれていたかである。降伏ごうぶくとりでからてきたものなかには43めい文民ぶんみん労働ろうどうしゃ、154めいつまと212にん子供こどもたちもいた[4]とりで自体じたいはスペインぐん参謀さんぼうあいだ検討けんとうされたのち簡単かんたんには修復しゅうふくできないように破壊はかいされた。クリヨンが意図いとしたるい急襲きゅうしゅうでは奪取だっしゅできず、スペインに対抗たいこうして使つかうこともできないようになった。

クリヨン公爵こうしゃくはこの成功せいこうつづいてマオー公爵こうしゃく称号しょうごうあたえられ、あらたにジブラルタル攻略こうりゃく任務にんむあたえられた。クリヨンはそこでとりでおそ大胆だいたん作戦さくせんはじめた。ジェイムズ・マリー中将ちゅうじょうは、ウィリアム・ドレイパーの告発こくはつにより、1782ねん11月に軍法ぐんぽう会議かいぎけられた。結局けっきょくマリーは2つの罪状ざいじょうでのみ有罪ゆうざいとされた(そのうち重大じゅうだいなものはその副官ふっかん見下みくだすような命令めいれいはっしたことであり、それが1がつにドレイパーを解任かいにんするがねになっていた)。1783ねん1がつ、マリーは譴責けんせき処分しょぶん判決はんけつけ、そのぐに国王こくおうジョージ3せいじき仲介ちゅうかいで、法廷ほうていでドレイパーがはっした言葉ことばたいする謝罪しゃざいおこなわれた。そうでもしなければ決闘けっとうになっていたかもしれない[5]。2月にマリーは大将たいしょう昇進しょうしんしたが、包囲ほうい戦中せんちゅうに60さい誕生たんじょうぎていたので、実務じつむもどることはなかった。ただし、マリーは1789ねんだい21フュージリア連隊れんたい連隊れんたいちょうになった[6]

イギリスはフランス革命かくめい戦争せんそうなかの1798ねんにメノルカとうさい占領せんりょうしたが、1802ねんアミアンのやく締結ていけつにスペインに恒久こうきゅうてき返還へんかんした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ London Gazette, 11 September 1781 — gazettes-online.co.uk
  2. ^ London Gazette, 15 September 1781 — gazettes-online.co.uk
  3. ^ London Gazette, 4 December 1781 — gazettes-online.co.uk
  4. ^ a b c London Gazette, 26 March 1782 — gazettes-online.co.uk
  5. ^ Anderson, William The Scottish Nation (vol. 2 page 130) Edinburgh, Fullarton (1862), via Google Books — accessed 2007-12-17
  6. ^ Dictionary of National Biography entry – subscription, accessed 2007-12-16

参考さんこう文献ぶんけん

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Terrón Ponce, José L. "La reconquista de Menorca por el duque de Crillon (1781-1782)" Mahón, Museo Militar (1981) — accessed 2007-12-17

その史料しりょう

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