(Translated by https://www.hiragana.jp/)
グレートブリッジの戦い - Wikipedia コンテンツにスキップ

グレートブリッジのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
グレートブリッジのたたか
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1775ねん12月9にち
場所ばしょバージニアグレートブリッジ
結果けっか大陸たいりくぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大陸たいりくぐんおよび民兵みんぺい イギリスぐん正規せいきへいおよびロイヤリスト民兵みんぺい
指導しどうしゃ指揮しきかん
ウィリアム・ウッドフォード ダンモアきょう
戦力せんりょく
861めい 409めい
損害そんがい
傷者しょうしゃ1めい 死傷ししょうしゃ102めい
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

グレートブリッジのたたかえい:Battle of Great Bridge)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうなか1775ねん12月9にちに、バージニアグレートブリッジ地域ちいきおこなわれた戦闘せんとうである。この戦闘せんとう大陸たいりくぐん勝利しょうりしたことで、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう初期しょきのバージニア植民しょくみんではダンモアきょうなどイギリス政府せいふ残党ざんとう排除はいじょすることができた。戦闘せんとう当時とうじロイヤリスト拠点きょてんであったノーフォーク占領せんりょう破壊はかいされ、大陸たいりくぐんはバージニアを支配しはいした[1]

背景はいけい

[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ宣言せんげん先立さきだつこと7ヶ月かげつ1775ねん12月9にち、グレートブリッジのたたかいでバージニア植民しょくみんにいたイギリスぐん完敗かんぱいし、当時とうじだい2のバンカーヒルのたたかばれた。3週間しゅうかん1776ねん1がつ1にち大陸たいりくぐんによるノーフォーク占領せんりょうつながり、ノーフォークは砲撃ほうげき完全かんぜん破壊はかいされた。バージニア植民しょくみんにおけるイギリスの支配しはいわった。

バージニア植民しょくみん総督そうとくダンモアきょうウィリアムズバーグから撤退てったいしたが、ノーフォークは「ロイヤリストの」とかんがえられ、パトリオット(愛国あいこくしゃ)のプランテーションを略奪りゃくだつし、奴隷どれいたち味方みかた印刷所いんさつしょ確保かくほすることで、反乱はんらんぐんたいして攻勢こうせいられるとかんがえた。まだ1個いっこ連隊れんたい数個すうこ大隊だいたいっていたダンモアきょう11月30にちに「我々われわれはこの植民しょくみん倫理りんりかんもどさせるべきと本当ほんとうしんじている」ときした。

一方いっぽう大陸たいりくぐんそう司令しれいかんジョージ・ワシントンは、ダンモアきょうを「即座そくざつぶして」その軍勢ぐんぜいおおきくしないようにすべきと主張しゅちょうした。ニューイングランドから大陸たいりく会議かいぎ議長ぎちょうあてに「わたし命令めいれいするつもりはない。わたし自由じゆう意見いけんべることはゆるしてくれるとおもう。アメリカの運命うんめいはこのふゆにノーフォークをわたさせるかかにおおいにかっているというのがわたし意見いけんだ」とおくった。

戦闘せんとう

[編集へんしゅう]

当時とうじの「バージニア・ガゼット」の証言しょうげんによれば、ダンモアきょうケンプス・ランディング反乱はんらんしゃやぶったのちで、10マイル (16 km)みなみ、エリザベスがわみなみりゅうにあるグレートブリッジに移動いどうした。グレートブリッジはカロライナから砂利じゃり、タール・カリウムおよびテレビン油てれびんゆちかくのノーフォークに出荷しゅっか船積ふなづみする場所ばしょであった。ダンモアきょう反乱はんらんおおきくなるのにおうじて、北岸ほくがん(ノーフォークがわ)に防御ぼうぎょしがらみもうけ、はし床板とこいたはずし、対岸たいがんいえ5,6けん破壊はかいしたうえに、はしつづせま土手どてどうに12ポンドほう2もんいて防御ぼうぎょかためた。

だい2バージニア連隊れんたい指揮しきっていたウィリアム・ウッドフォード大佐たいさは、植民しょくみん西部せいぶにあるフォーキアオーガスタおよびカルペパーかくぐんからの民兵みんぺい、およびプリンセスアンおよびノーフォークかくぐん志願しがんへいをグレートブリッジにあつめた。ウッドフォードはカロライナのベイル大佐たいさしたに「正規せいきへい民兵みんぺいおよび志願しがんへい」からなる250めい部隊ぶたい到着とうちゃくしたと報告ほうこくした。バージニア・ガゼットは「ダンモアきょう横柄おうへい乱暴らんぼう行為こういいたノースカロライナの郷士ごうし志願しがんへい150めいがバージニアに行軍こうぐんしてきた」とつたえた。

ダンモアきょうてき勢力せいりょくについてあやまった情報じょうほうあたえられ、ノーフォークにいたオッターごう水兵すいへいに「60めいまちおとこ」をくわえてグレートブリッジを急襲きゅうしゅうさせるためにおくった。12月9にち早朝そうちょう、バージニアじん起床きしょう合図あいずらすとともに、イギリスぐんチャールズ・フォーダイス大尉たいいが60めいの擲弾へいと1たい正規せいきへいおよ民兵みんぺいひきいてはしわたった。しまえられた2もん大砲たいほうたすけをりて、フォーダイスはパトリオットの防塞ぼうさい攻勢こうせいけた。パトリオットのトラビス中尉ちゅういはイギリスぐんやく120めいが50ヤード (45 m)に近付ちかづくまで発砲はっぽうするなと部下ぶか命令めいれいした。防塞ぼうさいからの攻撃こうげきかったのでイギリスぐん防塞ぼうさい放棄ほうきされているとしんみ、フォーダイスはその帽子ぼうしって「今日きょうぐんちだ」とさけび、防塞ぼうさいかって突進とっしんした。フォーダイスとその部下ぶかがパトリオットの陣地じんち近付ちかづくと、やく80めいのパトリオットががり、ねらいをさだ近付ちかづてきけて壊滅かいめつてき一斉いっせい射撃しゃげきはなった。フォーダイスは胸壁きょうへきからほんの15あいだに14はつ弾丸だんがんけてたおれた。おおくのイギリスへいたおされのこったもの混乱こんらんなか退却たいきゃくした。はしところにあったイギリスぐん大砲たいほうはなつづけたが、パトリオット胸壁きょうへき援軍えんぐん側面そくめんからの十字砲火じゅうじほうかによってイギリスぐんはそれ以上いじょう前進ぜんしんができなかった。やく25分間ふんかん戦闘せんとうで、ノーフォークちかくに集合しゅうごうしたパトリオットをたたこうというダンモアのこころみは徹底的てっていてきけられた。

イギリスへいきずついたり戦死せんししたものしまからはこすための「休戦きゅうせん」につづいて、イギリスぐんよるあいだしてノーフォークのふねもどった。何人なんにんかの負傷ふしょうしたイギリスへいはパトリオットに手当てあてされ、フォーダイスの遺体いたい戦場せんじょうちかくにパトリオットのによってぐんそうれいほうむられた。イギリスぐん損失そんしつは、ダンモアの「公式こうしき報告ほうこくで62めい死傷ししょうから、逃亡とうぼうしたパトリオットの報告ほうこくの102めいまでかれている。パトリオットは1めい親指おやゆび軽傷けいしょうっただけだった。

戦闘せんとうのち

[編集へんしゅう]

バージニア植民しょくみんでのイギリス王室おうしつ支配しはいわった。完敗かんぱいであった。イギリスぐん損失そんしつは102めい死傷ししょう報告ほうこくされ、フォーダイスの擲弾へいのうちのこったのは11めいのみであった。アメリカへい1人ひとり負傷ふしょうした。

イギリスぐんはノーフォークに撤退てったいした。ジョージ・ワシントンがニューイングランドから大陸たいりく会議かいぎあて手紙てがみいたときまでに、ウッドフォード大佐たいさはウィリアムズバーグの植民しょくみん会議かいぎ議長ぎちょうエドマンド・ペンドルトンてに、かれロバート・ハウ大佐たいさとで1,725めいへいひきいてノーフォークを完全かんぜん支配しはいし、ロイヤリストとその家族かぞくみなとにあるダンモアのふねオッターごうげたと報告ほうこくした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ ダンモアきょうっていたイギリスせんから砲撃ほうげきおこなわれ、ノーフォークのセントポール教会きょうかい南東なんとうかべのこっていたロイヤリスト残党ざんとう逃亡とうぼうたすけた。