カナダ侵攻 しんこう 作戦 さくせん (カナダしんこうさくせん、英 えい : Invasion of Canada )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 初期 しょき の1775年 ねん から1776年 ねん にかけて新設 しんせつ 間 あいだ もない大陸 たいりく 軍 ぐん の主導 しゅどう によって行 おこな われた最初 さいしょ の作戦 さくせん 行動 こうどう である。作戦 さくせん の目的 もくてき はイギリス領 りょう ケベックを軍事 ぐんじ 支配 しはい し、フランス語 ふらんすご を話 はな すカナダ人 じん に13植民 しょくみん 地 ち の側 がわ で革命 かくめい に加 くわ わるよう説得 せっとく することだった。
大陸 たいりく 軍 ぐん から2つの遠征 えんせい 隊 たい が派遣 はけん された。1隊 たい はリチャード・モントゴメリー 将軍 しょうぐん の指揮 しき で1775年 ねん の8月 がつ 下旬 げじゅん にタイコンデロガ砦 とりで から出発 しゅっぱつ し、9月 がつ 半 なか ばにモントリオール の南 みなみ にある主要 しゅよう 防御 ぼうぎょ 地点 ちてん であるセントジョンズ砦 とりで の包囲 ほうい を始 はじ めた。11月にこの砦 とりで を落 お とされた後 のち で、イギリス軍 ぐん のガイ・カールトン 将軍 しょうぐん はモントリオールを放棄 ほうき してケベック市 し に逃亡 とうぼう した。モントゴメリーはモントリオールを占領 せんりょう したときにカールトン将軍 しょうぐん をもう少 すこ しで捕 つか まえるところだった。もう1隊 たい はベネディクト・アーノルド の指揮 しき でマサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち のケンブリッジ を出発 しゅっぱつ し、メイン の荒野 あらの を艱難辛苦 かんなんしんく して通 とお り抜 ぬ けてケベック市 し に達 たっ した。荒野 あらの を通 とお る大変 たいへん な行軍 こうぐん のために残 のこ っている兵士 へいし は飢 う えており、物資 ぶっし や装備 そうび も欠 か けていた。
2隊 たい は12月にケベック市 し の前 まえ で合流 ごうりゅう し、1775年 ねん の大晦日 おおみそか 、暴風 ぼうふう 雪 ゆき の中 なか でケベック市 し を強襲 きょうしゅう した。この戦闘 せんとう でモントゴメリーは戦死 せんし し、アーノルドは負傷 ふしょう したが、市 し を守 まも るイギリス軍 ぐん にはほとんど損失 そんしつ が無 な く、大陸 たいりく 軍 ぐん にとって悲惨 ひさん な敗北 はいぼく になった。その後 ご アーノルドは無益 むえき な市 し の包囲 ほうい を始 はじ めたが、その間 あいだ に行 おこな われた情報 じょうほう 宣伝 せんでん 活動 かつどう によってロイヤリスト を支持 しじ する声 こえ が高 たか まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター 将軍 しょうぐん の失政 しっせい には大陸 たいりく 軍 ぐん を中傷 ちゅうしょう する者 もの だけでなく支持 しじ する者 もの からも不満 ふまん の声 こえ が上 あ がった。
イギリス軍 ぐん は1776年 ねん 5月にケベック地方 ちほう の戦力 せんりょく を補強 ほきょう するために、ジョン・バーゴイン 将軍 しょうぐん とドイツ人 じん 傭兵 ようへい を含 ふく む数 すう 千 せん 名 めい の援軍 えんぐん を派遣 はけん した。増援 ぞうえん を得 え たカールトンは大陸 たいりく 軍 ぐん に反撃 はんげき を試 こころ み、天然痘 てんねんとう で弱 よわ り組織 そしき が乱 みだ れていた大陸 たいりく 軍 ぐん を7月 がつ にはタイコンデロガ砦 とりで まで押 お し戻 もど した[3] 。一方 いっぽう アーノルド指揮 しき 下 か の大陸 たいりく 軍 ぐん はイギリス軍 ぐん の歩 あゆ みを遅 おく らせることに成功 せいこう し、1776年 ねん の間 あいだ はタイコンデロガ砦 とりで への攻撃 こうげき をできないようにした。この侵攻 しんこう 作戦 さくせん の終了 しゅうりょう 後 ご 、バーゴインがハドソン川 がわ 流域 りゅういき の支配 しはい を目指 めざ した1777年 ねん のサラトガ方面 ほうめん 作戦 さくせん に続 つづ いた。
大陸 たいりく 軍 ぐん の本 ほん 軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の目的 もくてき 地 ち であるイギリス領 りょう ケベックは、1775年 ねん の時点 じてん では「カナダ」と呼 よ ばれることが多 おお かった。例 たと えば第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ がフィリップ・スカイラー 将軍 しょうぐん に出 だ した侵攻 しんこう 作戦 さくせん の承認 しょうにん 文 ぶん では、もしも「カナダ人 じん にとって不愉快 ふゆかい でない」のであれば、「即座 そくざ にセントジョン砦 とりで 、モントリオールおよびかの国 くに の如何 いか なる所 ところ も占領 せんりょう すること」、そして「カナダでは」植民 しょくみん 地 ち の「平和 へいわ と安全 あんぜん を促進 そくしん 」する「如何 いか なる手段 しゅだん も追求 ついきゅう すること」という文言 もんごん があった[4] 。この作戦 さくせん を詳細 しょうさい に語 かた る比較的 ひかくてき 現代 げんだい の歴史 れきし 書 しょ であっても、その表題 ひょうだい にカナダを使 つか っている。イギリスがケベックと呼 よ んだこの領土 りょうど は、フランスがフレンチ・インディアン戦争 せんそう を正式 せいしき に終 お えパリ条約 じょうやく でイギリスに同地 どうち を割譲 かつじょう する1763年 ねん までは、フランス 領 りょう カナダ植民 しょくみん 地 ち と呼 よ ばれていた(フランス軍 ぐん は1760年 ねん にこの植民 しょくみん 地 ち をイギリス軍 ぐん に明 あ け渡 わた していた)[5] 。本稿 ほんこう では、具体 ぐたい 的 てき に「カナダ」と言及 げんきゅう するものを引用 いんよう する場合 ばあい を除 のぞ いて、この歴史 れきし 的 てき な使 つか われ方 かた と現代 げんだい のカナダ という国 くに に関 かん する使 つか われ方 かた の間 あいだ の混同 こんどう を避 さ けるため、同地 どうち については「ケベック」という名称 めいしょう を使用 しよう する。
1775年 ねん の春 はる 、レキシントン・コンコードの戦 たたか い を契機 けいき に、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まった[6] 。だが戦況 せんきょう はその後 ご すぐに膠着 こうちゃく し、ボストンのイギリス軍 ぐん に対 たい する包囲 ほうい 戦 せん が続 つづ いた。1775年 ねん 5月 がつ 、イギリス軍 ぐん のタイコンデロガ砦 とりで は防御 ぼうぎょ が手薄 てうす で、しかも重火器 じゅうかき (大砲 たいほう や火薬 かやく )が置 お いてあることに気付 きづ いたベネディクト・アーノルド とイーサン・アレン がタイコンデロガ砦 とりで とクラウンポイント砦 とりで を占領 せんりょう し、セントジョンズ砦 とりで を襲撃 しゅうげき した[7] 。これらの砦 とりで は全 すべ て当時 とうじ はほんのわずかな手勢 てぜい で守 まも られていた[8] 。タイコンデロガ砦 とりで とクラウンポイント砦 とりで は6月 がつ にベンジャミン・ハインマンの指揮 しき するコネチカット民兵 みんぺい 1,100名 めい によって守 まも られることになった[9] 。
大陸 たいりく 会議 かいぎ の承認 しょうにん [ 編集 へんしゅう ]
フィリップ・スカイラー 将軍 しょうぐん
1774年 ねん に会 かい した第 だい 一 いち 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ は、10月26日 にち 付 づ けの公式 こうしき 書簡 しょかん で1775年 ねん 5月 がつ に開催 かいさい される第 だい 二 に 次 じ 会議 かいぎ にフランス系 けい カナダ人 じん も加 くわ わること、つまりケベック植民 しょくみん 地 ち も革命 かくめい に参加 さんか することを招請 しょうせい した[6] 。第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ も1775年 ねん 5月 がつ にそのような2度目 どめ の手紙 てがみ を送 おく ったが、どちらの手紙 てがみ にも実質 じっしつ 的 てき な反応 はんのう は無 な かった[10] 。
タイコンデロガ砦 とりで の奪取 だっしゅ に続 つづ いてアーノルドとアレンは、イギリス軍 ぐん がアメリカ植民 しょくみん 地 ち を分割 ぶんかつ しようという試 こころ みに対 たい してタイコンデロガ砦 とりで を防御 ぼうぎょ 拠点 きょてん とする必要 ひつよう 性 せい を主張 しゅちょう し、併 あわ せてケベックの守 まも りが薄 うす いことも指摘 してき した。彼 かれ らは、1,200から1,500名 めい 程度 ていど の小 ちい さな軍隊 ぐんたい でもケベック植民 しょくみん 地 ち からイギリス軍 ぐん を追 お い出 だ すには十分 じゅうぶん なことを示 しめ して、それぞれ別 べつ にケベックに対 たい する遠征 えんせい を提案 ていあん した。大陸 たいりく 会議 かいぎ は当初 とうしょ タイコンデロガなどの砦 とりで の放棄 ほうき を命令 めいれい し[11] 、ニューヨークとコネチカットの各 かく 植民 しょくみん 地 ち には基本 きほん 的 てき に防衛 ぼうえい の目的 もくてき で軍隊 ぐんたい と物資 ぶっし を出 だ すように促 うなが したが、ニューイングランド やニューヨーク植民 しょくみん 地 ち の一般 いっぱん 大衆 たいしゅう からは大陸 たいりく 会議 かいぎ にその姿勢 しせい を変 か えるよう抗議 こうぎ の声 こえ が上 あ がった。このときケベック総督 そうとく のガイ・カールトンがセントジョンズ砦 とりで の防御 ぼうぎょ を強化 きょうか しており、ニューヨーク植民 しょくみん 地 ち 北部 ほくぶ のイロコイ族 ぞく インディアン を巻 ま き込 こ もうとしていることも明 あき らかになり、大陸 たいりく 会議 かいぎ はより積極 せっきょく 的 てき な姿勢 しせい が必要 ひつよう であるとの決断 けつだん を下 くだ した。1775年 ねん 6月27日 にち 、大陸 たいりく 会議 かいぎ はフィリップ・スカイラー将軍 しょうぐん にその地域 ちいき を調査 ちょうさ するよう認 みと め、適切 てきせつ と考 かんが えられるならば侵略 しんりゃく を始 はじ めることを承認 しょうにん した[12] 。指揮 しき 権 けん を与 あた えられなかったベネディクト・アーノルドはボストンに向 む かい、ジョージ・ワシントン 将軍 しょうぐん を説得 せっとく して、アーノルドの指揮 しき で別働隊 べつどうたい をケベックに向 む けて派遣 はけん させることにした[13] 。
ケベック防衛 ぼうえい の準備 じゅんび [ 編集 へんしゅう ]
カールトン将軍 しょうぐん はセントジョンズ砦 とりで の襲撃 しゅうげき があった後 のち に、南 みなみ から侵略 しんりゃく される危険 きけん 性 せい を痛切 つうせつ に感 かん じ取 と り、ボストン にいるトマス・ゲイジ 将軍 しょうぐん からの援軍 えんぐん を要請 ようせい した。カールトンはモントリオールとケベック市 し の防衛 ぼうえい のために地元 じもと の民兵 みんぺい 隊 たい 立 だ ち上 あ げに取 と り掛 か かったがほとんど成功 せいこう しなかった[14] 。カールトンはフランス系 けい 住民 じゅうみん が自発 じはつ 的 てき に植民 しょくみん 地 ち の防衛 ぼうえい にあたることを期待 きたい していたが、当 とう の住民 じゅうみん の大 だい 多数 たすう は英 えい 米 べい どちらの側 がわ にもつかず、中立 ちゅうりつ であることを望 のぞ んでいたためである[6] 。イギリス側 がわ はタイコンデロガ砦 とりで が奪取 だっしゅ されセントジョンズ砦 とりで が襲 おそ われたことに反応 はんのう して、モントリオールの南 みなみ 、リシュリュー川 がわ 沿 そ いにあるセントジョンズ砦 とりで を守 まも る為 ため に700名 めい の部隊 ぶたい を派遣 はけん し、シャンプレーン湖 こ で使 つか う為 ため の船舶 せんぱく 建造 けんぞう を命令 めいれい し[15] 、またその防衛 ぼうえい を援けさせるためにモホーク族 ぞく インディアン約 やく 100名 めい も兵士 へいし として採用 さいよう した。主 おも な防御 ぼうぎょ はセントジョンズ砦 とりで に頼 たよ っていたので、カールトン自身 じしん は僅 わず か150名 めい の正規 せいき 兵 へい を連 つ れただけでモントリオールの防衛 ぼうえい を監督 かんとく した[13] 。ケベック市 し の防衛 ぼうえい は副 ふく 総督 そうとく のヘクター・クラマヘの指揮 しき に委 ゆだ ねた[16] 。
インディアンの支援 しえん を求 もと めた交渉 こうしょう [ 編集 へんしゅう ]
ベンジャミン・ウエスト の描 えが いたこの絵 え は、これまでガイ・ジョンソンの肖像 しょうぞう 画 が と考 かんが えられてきたが、ガイの伯父 おじ ウィリアム・ジョンソン (英語 えいご ) について最近 さいきん 書 か かれた伝記 でんき では、この肖像 しょうぞう 画 が はウィリアム・ジョンソンを描 えが いたものとされている[17] 。
ニューヨーク植民 しょくみん 地 ち モホーク川 がわ 流域 りゅういき に住 す むロイヤリスト (王 おう 党派 とうは )でイギリスのインディアン代理人 だいりにん だったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民 しょくみん 地 ち のイロコイ族 ぞく と極 きわ めて親密 しんみつ にしていたが、パトリオット (愛国 あいこく 者 しゃ )側 がわ の意見 いけん がニューヨークで支配 しはい 的 てき であることが明 あき らかになってからは、自身 じしん と家族 かぞく の身 み を案 あん じていた。もはやイギリスとの商売 しょうばい を安全 あんぜん に行 おこな うことができなくなったと確信 かくしん すると、200人 にん の追随 ついずい 者 しゃ やモホーク族 ぞく の支持 しじ 者 しゃ 等 とう とともにニューヨークの領地 りょうち を離 はな れた。まずはオンタリオ砦 とりで に向 む かい、6月17日 にち にインディアン部族 ぶぞく の指導 しどう 者 しゃ 達 たち (大半 たいはん はイロコイ族 ぞく とヒューロン族 ぞく )から、この地域 ちいき での物資 ぶっし と通信 つうしん の供給 きょうきゅう 線 せん を途絶 とだ えさせないことと、「敵 てき による困 こま りごと」があるときはイギリスを支援 しえん することという約束 やくそく を取 と り付 つ けた[18] 。そこからはモントリオールに向 む かい、カールトン将軍 しょうぐん や1,500名 めい 以上 いじょう のインディアンとの会談 かいだん で、同様 どうよう な合意 ごうい を交渉 こうしょう し、「いつでも臨戦 りんせん 態勢 たいせい を取 と れるように」戦争 せんそう の帯 おび を配 くば った[19] 。しかし、これら合意 ごうい 事項 じこう に加 くわ わった者 もの の大半 たいはん はモホーク族 ぞく だった。イロコイ連邦 れんぽう の他 ほか の部族 ぶぞく はこれらの協議 きょうぎ を避 さ け、中立 ちゅうりつ であろうとした。会議 かいぎ 後 ご もモホーク族 ぞく の多 おお くはモントリオール地域 ちいき に留 とど まった。しかし大陸 たいりく 軍 ぐん が1775年 ねん 中 ちゅう に本当 ほんとう に侵略 しんりゃく を開始 かいし するかが不確 ふたし かに思 おも えたため、その大半 たいはん は8月 がつ の中旬 ちゅうじゅん までに故郷 こきょう に戻 もど った[20] 。
大陸 たいりく 会議 かいぎ はイロコイ連邦 れんぽう の6部族 ぶぞく を戦争 せんそう の局外 きょくがい に置 お いておこうとしていた。1775年 ねん 7月 がつ 、オナイダ族 ぞく に影響 えいきょう 力 りょく のあった伝道 でんどう 師 し サミュエル・カークランドが、「私 わたし たちはあなた方 かた が故郷 こきょう に留 と まり、どちらの軍 ぐん にも加 くわ わらず、戦 たたか いの手斧 ちょうな を深 ふか く埋 う めておくことを望 のぞ む」という大陸 たいりく 会議 かいぎ からの声明 せいめい 文 ぶん を持 も って行 い った[19] 。オナイダ族 ぞく やタスカローラ族 ぞく は公式 こうしき には中立 ちゅうりつ を守 まも ったが、オナイダ族 ぞく では個人 こじん 的 てき にアメリカ側 がわ への同調 どうちょう を表明 ひょうめい したものが多 おお くいた[19] 。ジョンソンがモントリオールで会議 かいぎ を開 ひら いたという報 しら せを聞 き いたスカイラー将軍 しょうぐん はやはりオナイダ族 ぞく に影響 えいきょう 力 りょく があったので、オールバニ での協議 きょうぎ 会 かい を招集 しょうしゅう し、8月 がつ 半 なか ばに開催 かいさい した。この会合 かいごう には約 やく 400人 にん のインディアン(主 おも にオナイダ族 ぞく とタスカローラ族 ぞく 、さらに幾 いく らかのモホーク族 ぞく )が参加 さんか し、スカイラーと他 た のインディアン・コミッショナーがイギリスから植民 しょくみん 地 ち を分 わ かつ問題 もんだい を説明 せつめい し、植民 しょくみん 地 ち 人 じん は自分 じぶん 達 たち の権利 けんり を守 まも る為 ため に戦 たたか うこと、征服 せいふく を意図 いと しているのではないことを強調 きょうちょう した[21] 。集 あつ まった酋長 しゅうちょう 達 たち は中立 ちゅうりつ を守 まも ることに合意 ごうい し、モホーク族 ぞく のある酋長 しゅうちょう は「これは家庭 かてい 内 ない の問題 もんだい である」として[22] 、「じっと座 すわ ってあなた方 かた が戦 たたか っているのを見 み る」ことにすると述 の べた[23] 。しかし、このように中立 ちゅうりつ を宣言 せんげん する一方 いっぽう で、アメリカ側 がわ からの譲歩 じょうほ を引 ひ き出 だ しもし、その譲歩 じょうほ には彼 かれ らインディアンの土地 とち への白人 はくじん 開拓 かいたく 者 しゃ の侵入 しんにゅう といった打 う ち続 つづ く苦情 くじょう にアメリカ側 がわ が対処 たいしょ するという約束 やくそく も含 ふく まれていた[24] 。
モントゴメリー遠征 えんせい 隊 たい [ 編集 へんしゅう ]
リチャード・モントゴメリー 准 じゅん 将 しょう
侵略 しんりゃく の主力 しゅりょく 部隊 ぶたい はスカイラー将軍 しょうぐん が率 ひき い、シャンプレーン湖 こ を上 のぼ ってモントリオールとケベック市 し を襲撃 しゅうげき することになった。遠征 えんせい 隊 たい はニューヨーク、コネチカットおよびニューハンプシャー各 かく 植民 しょくみん 地 ち からの部隊 ぶたい で構成 こうせい され、セス・ワーナーのグリーン・マウンテン・ボーイズもこれに加 くわ わり、食糧 しょくりょう はニューヨークから供給 きょうきゅう されることになった[25] 。しかしスカイラーは過度 かど に慎重 しんちょう で、兵 へい を集 あつ め終 お わるのに8月 がつ 末 まつ までかかるなど準備 じゅんび に手間取 てまど ったため[26] 、8月 がつ 半 なか ばにはカールトン将軍 しょうぐん がモントリオール郊外 こうがい に防衛 ぼうえい 陣地 じんち を強化 きょうか し[27] 、イギリス軍 ぐん に加担 かたん したインディアン部族 ぶぞく もいるという報告 ほうこく を受 う け取 と ることになった[28] 。
セントジョンズ砦 とりで への接近 せっきん [ 編集 へんしゅう ]
スカイラーがまだインディアンと協議 きょうぎ していた8月 がつ 25日 にち 、モントゴメリーはセントジョンズ砦 とりで で建造 けんぞう 中 ちゅう の船舶 せんぱく が完成 かんせい 間近 まぢか であるとの報 しら せを受 う け取 と った。モントゴメリーはスカイラーが不在 ふざい であること(さらには行動 こうどう を承認 しょうにん する命令 めいれい が無 な かったこと)を利用 りよう し、タイコンデロガ砦 とりで で集 あつ めた兵士 へいし 1,200名 めい を率 ひき いてリシュリュー川 かわ 沿 ぞ いのイル・オ・ノワにある前進 ぜんしん 基地 きち に向 む かい、9月4日 にち に到着 とうちゃく した[29] 。このとき病気 びょうき になっていたスカイラーは途中 とちゅう でこの部隊 ぶたい に追 お いついた[26] 。スカイラーはその地域 ちいき でアメリカ側 がわ を支援 しえん するために地元 じもと の民兵 みんぺい 隊 たい 立 だ ち上 あ げの準備 じゅんび をしていたカナダ人 じん ジェイムズ・リビングストンに伝言 でんごん を送 おく り、モントリオール南 みなみ の地域 ちいき を巡回 じゅんかい するよう伝 つた えた。翌日 よくじつ 、この部隊 ぶたい は川 かわ を下 くだ ってセントジョンズ砦 とりで に向 む かい、その防御 ぼうぎょ の度合 どあ いを視察 しさつ し、両 りょう 軍 ぐん 共 ども に損失 そんしつ を出 だ した簡単 かんたん な小競 こぜ り合 あ いの後 のち でイル・オ・ノワまで撤退 てったい した。この小競 こぜ り合 あ いのときイギリス軍 ぐん 側 がわ で戦 たたか ったのはインディアン達 たち が大半 たいはん であったが、砦 とりで の方 ほう からは支援 しえん が無 な かったので、インディアン達 たち はこの紛争 ふんそう から身 み を退 しりぞ くようになった[30] 。また、オナイダ族 ぞく が地域 ちいき に折 お りよく到着 とうちゃく したことで、イギリス軍 ぐん に対 たい する別 べつ のインディアンからの援軍 えんぐん も遮 さえぎ られた。オナイダ族 ぞく はモホーク族 ぞく 戦士 せんし 隊 たい がコーナワガからセントジョンズ砦 とりで に向 む かっていたのを妨害 ぼうがい した。このときモホーク族 ぞく の村 むら にはガイ・ジョンソン、ダニエル・クラウスおよびジョセフ・ブラント らが来 き てモホーク族 ぞく の援助 えんじょ を得 え ようとしていたが、オナイダ族 ぞく はモホーク族 ぞく に自分 じぶん の村 むら に戻 もど るよう説得 せっとく した。オナイダ族 ぞく はジョンソンやクラウスと直接 ちょくせつ 会 あ うことは拒否 きょひ し、ブラントやモホーク族 ぞく の面々 めんめん にオールバニでの同意 どうい 事項 じこう の条件 じょうけん について説明 せつめい した[31] 。結局 けっきょく ブラントとイギリスの代理人 だいりにん は支援 しえん の約束 やくそく をとりつけることも無 な くその場 ば を去 さ った(イギリスのより公式 こうしき な扱 あつか いでは、ガイ・ジョンソンが7月 がつ にイロコイ族 ぞく に与 あた えた戦 たたか いの帯 おび は1775年 ねん 12月にアメリカ側 がわ インディアン・コミッショナーに渡 わた された)[32] 。
捕虜 ほりょ になったイーサン・アレン
この最初 さいしょ の小競 こぜ り合 あ いの後 のち でスカイラーの病気 びょうき が重 おも くなり、指揮 しき を続 つづ けられなくなったので、指揮 しき 権 けん をモントゴメリーに譲 ゆず った。スカイラーは数日 すうじつ 後 ご にタイコンデロガ砦 とりで に引 ひ き返 かえ した[33] 。モントゴメリーは、9月 がつ 10日 とおか の攻撃 こうげき でも兵 へい が混乱 こんらん するなどして失敗 しっぱい したが、コネチカット、ニューハンプシャーおよびニューヨークからの支援 しえん 部隊 ぶたい 800ないし1,000名 めい とグリーン・マウンテン・ボーイズの一部 いちぶ が到着 とうちゃく したので、9月17日 にち に遂 つい にセントジョンズ砦 とりで とその傍 はた の町 まち の包囲 ほうい を開始 かいし 、モントリオールと連絡 れんらく 網 もう を遮断 しゃだん して砦 とりで に向 む かう物資 ぶっし を捕獲 ほかく した。翌週 よくしゅう イーサン・アレンは、単 たん に地元 じもと の民兵 みんぺい を徴募 ちょうぼ しろという指示 しじ を受 う けただけだったにもかかわらずその指示 しじ を逸脱 いつだつ し、少数 しょうすう の部隊 ぶたい でモントリオールを占拠 せんきょ しようとしてロングポイントの戦 たたか い で捕虜 ほりょ になった[34] 。この出来事 できごと で、短期 たんき 的 てき にはイギリス軍 ぐん を支援 しえん する民兵 みんぺい の士気 しき が上 あ がったが、効果 こうか は長続 ながつづ きせず、その後 ご には脱走 だっそう 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ した[35] 。
セントジョンズ砦 とりで はシャンプレーン湖 こ の北端 ほくたん にあり、リシュリュー川 がわ を通 とお ってカナダに入 はい る要衝 ようしょう だった。砦 とりで にはチャールズ・プレストン少佐 しょうさ の指揮 しき で300名 めい の歩兵 ほへい 正規 せいき 軍 ぐん がおり、この植民 しょくみん 地 ち では最 もっと も防御 ぼうぎょ を構 かま えた町 まち だった。大陸 たいりく 軍 ぐん は病気 びょうき 、悪天候 あくてんこう 、兵站 へいたん の難 むずか しさに災 わざわ いされたが、迫撃 はくげき 砲 ほう を据 す えて砦 とりで の中 なか まで貫通 かんつう 弾 だん を打 う てるようになった。砦 とりで の弾薬 だんやく は十分 じゅうぶん にあったが、食糧 しょくりょう などの物資 ぶっし は乏 とぼ しくなった。プレストンは、2,000名 めい の部隊 ぶたい と共 とも にモントリオールに駐屯 ちゅうとん しているガイ・カールトン将軍 しょうぐん に援軍 えんぐん を要請 ようせい した。しかし、カールトンはケベック市 し の安全 あんぜん を損 そこ なうことに気 き が進 すす まず、援軍 えんぐん を送 おく ることを拒絶 きょぜつ した。この判断 はんだん ミスによってカールトンはモントリオールを失 うしな い、後 のち にはケベックシティで彼 かれ 自身 じしん が包囲 ほうい されることになる。
10月18日 にち 、大陸 たいりく 軍 ぐん はイギリス軍 ぐん の小 ちい さな前哨 ぜんしょう 基地 きち シャンブリー砦 とりで を落 お としたことで、プレストンを完全 かんぜん に孤立 こりつ させた。セントジョンズ砦 とりで は毎日 まいにち 砲撃 ほうげき され、砦 とりで の中 なか は着実 ちゃくじつ に破壊 はかい されていったが、プレストンは砦 とりで の守備 しゅび を続 つづ けた。10月30日 にち にガイ・カールトンが砦 とりで の包囲 ほうい を解 と こうとした試 こころ みが失敗 しっぱい し、結局 けっきょく 、プレストンは10週間 しゅうかん の包囲 ほうい 後 ご の11月3日 にち に、援軍 えんぐん のあてがなく、来 きた るべき冬 ふゆ の厳 きび しさに備 そな えて住民 じゅうみん の助命 じょめい を望 のぞ み降伏 ごうぶく した。[36] 。
モントリオール占領 せんりょう の開始 かいし [ 編集 へんしゅう ]
モントゴメリーは部隊 ぶたい を率 ひき いて北 きた に進 すす み、11月8日 にち にセントローレンス川 がわ にあるセントポール島 とう を占領 せんりょう し、翌日 よくじつ には対岸 たいがん のポイントセントチャールズに渉 わたる り、解放 かいほう 者 しゃ として迎 むか えられた[37] 。11月13日 にち 、取 と り立 た てて抵抗 ていこう を受 う けることもなくモントリオール が陥落 かんらく した。ガイ・カールトンはモントリオール市 し が守 まも れないと判断 はんだん し、さらにセントジョンズ陥落 かんらく の報 しら せにかなりの数 かず の民兵 みんぺい が脱走 だっそう したこともあってモントリオールから撤退 てったい した[38] 。大陸 たいりく 軍 ぐん が市 し の下流 かりゅう 側 がわ で川 かわ を渡 わた って上陸 じょうりく し、風 ふう のためにカールトンの戦隊 せんたい が直 す ぐに出発 しゅっぱつ できなかったので、危 あや うく捕 つか まりそうになった。この戦隊 せんたい がソレルの町 まち に近付 ちかづ いたとき、白旗 はっき を掲 かか げた1隻 せき のボートが現 あらわ れた。そのボートは降伏 ごうぶく 勧告 かんこく の書状 しょじょう を運 はこ んできており、カールトンに降伏 ごうぶく するかさもなければ下流 かりゅう の砲台 ほうだい でその船団 せんだん を破壊 はかい すると伝 つた えてきた。カールトンは実際 じっさい にそのような砲台 ほうだい があるかはっきりとは分 わ からなかったので、もし降伏 ごうぶく しなければならなくなったときのために火薬 かやく や砲弾 ほうだん を捨 す てさせた後 のち で、船団 せんだん を密 ひそ かに発進 はっしん させる道 みち を選 えら んだ(実際 じっさい に砲台 ほうだい はあったが、その主張 しゅちょう していたほど強力 きょうりょく ではなかった[39] )。11月19日 にち 、イギリス戦隊 せんたい は降伏 ごうぶく し、カールトンは平民 へいみん の服装 ふくそう に身 み を窶 やつ して[40] ケベック市 し に向 む かって逃 に げた。捕獲 ほかく した船 ふね にはイギリス軍 ぐん が捉 とら えていた捕虜 ほりょ も乗 の っていた。その中 なか にマサチューセッツ生 う まれでセントジョンズ砦 とりで 近 ちか くに土地 とち を持 も っていた国外 こくがい 居住 きょじゅう 者 しゃ モーゼス・ヘイズン がおり、イギリス軍 ぐん に粗略 そりゃく に取 と り扱 あつか われたので、イギリスに反抗 はんこう していた。ヘイズンはモントゴメリーの軍隊 ぐんたい に加 くわ わったが、元々 もともと フレンチ・インディアン戦争 せんそう での戦闘 せんとう 体験 たいけん があり、その後 ご 独立 どくりつ 戦争 せんそう を通 つう じて第 だい 2カナダ人 じん 連隊 れんたい を率 ひき いることになる[41] 。
モントゴメリーはモントリオールからケベック市 し に向 む かうに前 まえ に市民 しみん にメッセージを発 はっ し、大陸 たいりく 会議 かいぎ はケベックが仲間 なかま に入 はい り、大陸 たいりく 会議 かいぎ に送 おく る代表 だいひょう を選出 せんしゅつ するために植民 しょくみん 地 ち 会議 かいぎ を開 ひら く目的 もくてき でアメリカへの同調 どうちょう 者 しゃ との討議 とうぎ に入 はい ることを望 のぞ んでいることを伝 つた えた。またスカイラー将軍 しょうぐん には、外交 がいこう 目的 もくてき で大陸 たいりく 会議 かいぎ の代表 だいひょう 団 だん を派遣 はけん してくれるよう要請 ようせい する手紙 てがみ を送 おく った[42] 。
大陸 たいりく 軍 ぐん のケベック遠征 えんせい 。この図 ず はモントゴメリーとアーノルドの遠征 えんせい 路 ろ を示 しめ す
モントゴメリー軍 ぐん の大半 たいはん はモントリオール占領 せんりょう 後 ご に徴兵 ちょうへい 期間 きかん が切 き れて隊 たい を離 はな れた。モントゴメリーは捕獲 ほかく した船 ふね に約 やく 300名 めい の兵士 へいし を乗 の せて11月28日 にち にケベック市 し に出発 しゅっぱつ し、モントリオール市 し にはデイビッド・ウースター将軍 しょうぐん の指揮 しき で約 やく 200名 めい を残 のこ した[43] 。モントゴメリーはケベックに向 む かう途中 とちゅう で、ジェイムズ・リビングストンが新 あら たに徴募 ちょうぼ した第 だい 1カナダ人 じん 連隊 れんたい 約 やく 200名 めい を部隊 ぶたい に加 くわ えた。
アーノルド遠征 えんせい 隊 たい [ 編集 へんしゅう ]
2番目 ばんめ の遠征 えんせい 隊 たい はベネディクト・アーノルドに率 ひき いられた。大陸 たいりく 会議 かいぎ はアーノルドが立 た てたカナダ侵攻 しんこう 計画 けいかく を大筋 おおすじ で認 みと めたが、アーノルド自身 じしん はその実行 じっこう 部隊 ぶたい に組 く み入 い れられなかった。すげなくされたと感 かん じたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジ に戻 もど り、ジョージ・ワシントンに接近 せっきん して、ケベックシティを標的 ひょうてき とした支援 しえん 部隊 ぶたい を東方 とうほう から送 おく る案 あん を提案 ていあん した[44] 。6月のバンカーヒルの戦 たたか い 以後 いご 、ボストンではほとんど戦闘 せんとう が無 な い状態 じょうたい だったので、多 おお くの部隊 ぶたい が駐屯 ちゅうとん 任務 にんむ に飽 あ きてきており、戦闘 せんとう することを望 のぞ んでいた事 こと もあって、ワシントンはアーノルドの提案 ていあん に同意 どうい した。ワシントンはアーノルドを大陸 たいりく 軍 ぐん の大佐 たいさ に任命 にんめい し、二人 ふたり で守備 しゅび 隊 たい を見 み て回 まわ り遠征 えんせい 隊 たい の志願 しがん 兵 へい を募 つの った。アーノルドは最終 さいしゅう 的 てき に約 やく 1000名 めい の者 もの を選出 せんしゅつ し[38] 、ワシントンはそこにダニエル・モーガン の部隊 ぶたい と他 た に何人 なんにん かの狙撃 そげき 兵 へい を加 くわ えた[45] 。バージニア植民 しょくみん 地 ち やペンシルベニア植民 しょくみん 地 ち の荒 あ れ地 ち から来 き た開拓 かいたく 者 しゃ 達 たち は、包囲 ほうい 戦 せん よりも荒 あ れ地 ち での戦闘 せんとう に向 む いているとの考 かんが えからだった。
ケベックに向 む けてケネベック川 がわ を遡 さかのぼ る行程 こうてい は20日 はつか の間 あいだ に180マイル(290 km) 進 すす む必要 ひつよう があった。アーノルドの遠征 えんせい 隊 たい は、イギリス軍 ぐん の指揮 しき 官 かん カールトンがモントリオールでスカイラー軍 ぐん に対抗 たいこう するのに忙 いそが しいため、比較的 ひかくてき 抵抗 ていこう もなく進 すす めるものと予測 よそく していた。アーノルドはウェスターン砦 とりで に先乗 さきの り部隊 ぶたい を送 おく り、物資 ぶっし とバトー (平底 ひらぞこ 船 せん )を用意 ようい させた。遠征 えんせい 隊 たい は海 うみ を渡 わた ってウェスターン砦 とりで まで5日 にち で到着 とうちゃく し、物資 ぶっし をまとめ船 せん を準備 じゅんび した。
ガーディナーストンのコルバーン造船 ぞうせん 所 しょ で3日間 にちかん 滞在 たいざい した。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請 ようせい に応 こた えて15日間 にちかん でバトーを造 つく り上 あ げていたが、このバトーは乾燥 かんそう した材木 ざいもく が得 え られないために、切 き り出 だ したばかりの松 まつ 材 ざい で造 つく られていた。部隊 ぶたい は9月25日 にち にウェスターン砦 とりで を発 はっ した。その先 さき は、ケネベック川 がわ を遡 さかのぼ り、またショーディエール川 がわ を下 くだ ってケベックに至 いた ることが予定 よてい されていた。しかし用意 ようい されたバトーはオールで漕 こ ぐことができず、竿 ざお をさして進 すす むやり方 かた だったため予定 よてい に狂 くる いが生 しょう じることとなった。コルバーンは軍隊 ぐんたい に同行 どうこう し、バトーの修繕 しゅうぜん を繰 く り返 かえ したが、川 かわ を遡 さかのぼ りまた流 なが れの速 はや いショーディエール川 かわ を下 くだ る過程 かてい で火薬 かやく など多 おお くの物資 ぶっし と数 すう 人 にん の人命 じんめい が失 うしな われた上 うえ 、分水 ぶんすい 界 かい 付近 ふきん は湿地 しっち の多 おお い湖沼 こしょう と水路 すいろ の集 あつ まりであり、雨 あめ や嵐 あらし が追 お い打 う ちを掛 か けた[46] 。この結果 けっか ロジャー・エノス中佐 ちゅうさ の部隊 ぶたい 300名 めい が、その物資 ぶっし と共 とも に退却 たいきゃく した[38] 。遠征 えんせい 隊 たい が持 も って行 い った地図 ちず はイギリス軍 ぐん が将来 しょうらい の敵 てき を欺 あざむ くために出版 しゅっぱん した不正確 ふせいかく なものだった。実際 じっさい に予定 よてい された旅程 りょてい は180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果 けっか 、物資 ぶっし が枯渇 こかつ してしまい隊員 たいいん 達 たち は、連 つ れて行 い った犬 いぬ ・靴 くつ ・弾薬 だんやく 箱 ばこ ・皮 かわ ・苔 こけ ・樹皮 じゅひ などを食 た べざるをえなかった。
遠征 えんせい 隊 たい は11月6日 にち にセントローレンス川 がわ の南岸 なんがん に到着 とうちゃく したが、その時点 じてん で1,100名 めい いた部隊 ぶたい は600名 めい にまで減少 げんしょう していた。彼 かれ らは400マイル (640 km) 近 ちか い道 みち なき道 みち を踏破 とうは してきていた。しかし、この時点 じてん においてもアーノルドは町 まち を奪取 だっしゅ できると考 かんが えた。イギリス軍 ぐん 守備 しゅび 兵 へい は、アレン・マクリーン中佐 ちゅうさ 以下 いか の正規 せいき 軍 ぐん 約 やく 100名 めい と、数 すう 百 ひゃく の装備 そうび が貧弱 ひんじゃく な民兵 みんぺい であり、大陸 たいりく 軍 ぐん が正確 せいかく な射撃 しゃげき で民兵 みんぺい を蹴 け 散 ち らしてしまえば、正規 せいき 軍 ぐん の数 かず で大陸 たいりく 軍 ぐん が優位 ゆうい に立 た てるからだった。11月14日 にち 、エイブラハム平原 へいげん に着 つ いた時 とき に、アーノルドは白旗 はっき を掲 かか げた交渉 こうしょう 役 やく を送 おく ってイギリス軍 ぐん の降伏 ごうぶく を要求 ようきゅう したが受 う け入 い れられなかった。大陸 たいりく 軍 ぐん は大砲 たいほう も無 な く、ほとんど戦闘 せんとう には適 てき していないまま、防御 ぼうぎょ を固 かた めた町 まち に向 む かい合 あ った。アーノルドは市内 しない からの出撃 しゅつげき が計画 けいかく されていることを耳 みみ にし、最近 さいきん モントリオール市 し を占領 せんりょう したばかりのモントゴメリー軍 ぐん を待 ま つ為 ため に、11月19日 にち にポイント・オ・トランブルまで後退 こうたい した[47] 。アーノルドが上流 じょうりゅう に向 む かう間 あいだ に、カールトンが川 かわ 伝 づた いにケベック市 し に戻 もど った[48] 。
12月2日 にち 、モントゴメリーがモントリオールから川 かわ を下 くだ り、500名 めい の部隊 ぶたい とイギリス軍 ぐん から捕獲 ほかく した物資 ぶっし と冬 ふゆ の衣類 いるい を持 も ってきた。この2つの部隊 ぶたい は合流 ごうりゅう し、改 あらた めて町 まち を攻撃 こうげき する作戦 さくせん が練 ね られた[49] 。3日 にち 後 ご 、大陸 たいりく 軍 ぐん は再 ふたた びエイブラハム平原 へいげん に立 た ち、ケベック市 し 包囲 ほうい を始 はじ めた[50] 。
ケベックの戦 たたか いと包囲 ほうい [ 編集 へんしゅう ]
ベネディクト・アーノルド 、ケベックの戦 たたか いで負傷 ふしょう した
ケベック市 し 攻撃 こうげき の作戦 さくせん を立 た てているときにトロワリビエール近 ちか くに住 す んでいるフランス人 じん クリストフ・ペリシエがモントゴメリーに会 あ うために尋 たず ねてきた。ペリシエはアメリカ側 がわ を政治 せいじ 的 てき に支援 しえん しており、セントモーリスで鉄工 てっこう 所 しょ を経営 けいえい していた。モントゴメリーは彼 かれ と植民 しょくみん 地 ち 会議 かいぎ を開催 かいさい する考 かんが えについて議論 ぎろん した。ペリシエはケベック市 し を占領 せんりょう して、市民 しみん 達 たち にその安全 あんぜん が保障 ほしょう され自由 じゆう に行動 こうどう できるようになるまでは、会議 かいぎ を開 ひら かないほうが良 よ いと言 い った[51] 。2人 ふたり の間 あいだ ではペリシエの鉄工 てっこう 所 しょ が包囲 ほうい 戦 せん に必要 ひつよう な銃弾 じゅうだん を提供 ていきょう することで合意 ごうい し、それは1776年 ねん 5月 がつ に大陸 たいりく 軍 ぐん が撤退 てったい するまで続 つづ いた。ペリシエはその後 ご に逃亡 とうぼう し、最後 さいご はフランスに戻 もど った[52] 。
合流 ごうりゅう しケベックの包囲 ほうい をしていたモントゴメリーとアーノルドの部隊 ぶたい であったが、実働 じつどう 可能 かのう な兵 へい はおよそ1000名 めい しかおらず、さらに食糧 しょくりょう 不足 ふそく や天然痘 てんねんとう 、そして冬 ふゆ の寒 さむ さに苦 くる しめられていた[53] 。そうした中 なか 、多 おお くの兵 へい の軍隊 ぐんたい 在籍 ざいせき 期間 きかん が切 き れる12月31日 にち を目前 もくぜん とした12月31日 にち の午前 ごぜん 4時 じ に戦闘 せんとう が開始 かいし された。アーノルドは自分 じぶん の部隊 ぶたい を2手 て に分 わ けた。アーノルドが総勢 そうぜい 600名 めい を率 ひきい き連 つ れて町 まち の北側 きたがわ を攻撃 こうげき し、モントゴメリーは300名 めい の部隊 ぶたい で南側 みなみがわ を攻撃 こうげき した。2つの攻撃 こうげき 部隊 ぶたい はセントローレンス川 がわ に接 せっ する1点 てん で落 お ち合 あ い、そこから防壁 ぼうへき の中 なか へ突入 とつにゅう する手筈 てはず だった。しかし、防御 ぼうぎょ は非常 ひじょう に堅 かた く力 ちから 押 お しでは落 お ちなかった上 うえ 、夜明 よあ け前 まえ に吹雪 ふぶき がはじまっていた。モントゴメリーの部隊 ぶたい は川 かわ 沿 ぞ いにケープダイアモンド稜 りょう 堡の下 した を進 すす んでいたが、30名 めい のカナダ人 じん 民兵 みんぺい が籠 こ もるバリケードに出 で くわした。戦端 せんたん が開 ひら かれ、最初 さいしょ の一斉 いっせい 射撃 しゃげき でモントゴメリーが殺 ころ され、他 ほか にも多 おお くが死傷 ししょう した。大陸 たいりく 軍 ぐん は吹雪 ふぶき の中 なか では使 つか えないマスケット銃 じゅう しか持 も っていなかったので、反撃 はんげき もうまくいかないまま川岸 かわぎし を退却 たいきゃく した。
一方 いっぽう 、アーノルドはモントゴメリーの戦死 せんし と攻撃 こうげき 失敗 しっぱい を知 し らないまま、北側 きたがわ のバリケードに向 む かったが、町 まち の防壁 ぼうへき を守 まも るイギリス軍 ぐん と民兵 みんぺい の反撃 はんげき を受 う けた。ソルト・オ・マテローという名 な の通 とお りにある道路 どうろ バリケードで、アーノルドはマスケット銃 じゅう の弾 たま を左 ひだり 踝 くるぶし に被弾 ひだん し後方 こうほう に搬送 はんそう された。アーノルドに代 か わり副官 ふっかん のダニエル・モーガンが指揮 しき を執 と ってこの道路 どうろ バリケードを突破 とっぱ した。しかし次 つぎ の命令 めいれい を待 ま つ間 あいだ に、大陸 たいりく 軍 ぐん は通 とお りや近 ちか くの家 いえ の中 なか の民兵 みんぺい の攻撃 こうげき にさらされ、イギリス軍 ぐん の反撃 はんげき でバリケードが再度 さいど 奪取 だっしゅ された事 こと で、モーガンと彼 かれ の部下 ぶか が狭 せま い通 とお りに孤立 こりつ してしまい、モーガン部隊 ぶたい は降伏 ごうぶく した[54] 。10時 じ までにモーガン以外 いがい にも町 まち に取 と り残 のこ されていた部隊 ぶたい が降伏 ごうぶく し、戦闘 せんとう が終 お わった。
この戦闘 せんとう でアーノルドの部隊 ぶたい は30名 めい 以上 いじょう が死亡 しぼう し(他 ほか にも春 はる の雪解 ゆきど け後 ご に20名 めい 以上 いじょう が発見 はっけん され、凍結 とうけつ した川 かわ を越 こ えて逃 に げる間 あいだ に数 すう 名 めい が溺 おぼ れた)、モーガン以下 いか 426名 めい が捕虜 ほりょ となった。モントゴメリーの部隊 ぶたい では少 すく なくとも12名 めい が南 みなみ の川岸 かわぎし で死傷 ししょう した。一方 いっぽう 、イギリス軍 ぐん の被害 ひがい は、指揮 しき 官 かん ガイ・カールトンによると、海軍 かいぐん 士官 しかん 1名 めい とフランス系 けい カナダ人 じん 民兵 みんぺい 5名 めい の死亡 しぼう 、正規 せいき 軍 ぐん 兵士 へいし 4名 めい と民兵 みんぺい 15名 めい の負傷 ふしょう だった。
アーノルドは戦闘 せんとう 後 ご にモーゼス・ヘイズン ともう一人 ひとり の国外 こくがい 居住 きょじゅう 者 しゃ であるエドワード・アンティルを、モントリオールにいるデイビッド・ウースターとフィラデルフィアの大陸 たいりく 会議 かいぎ に敗北 はいぼく を報告 ほうこく し援軍 えんぐん を要請 ようせい するために派遣 はけん した[55] 。
カールトンは大陸 たいりく 軍 ぐん を追撃 ついげき しないことに決 き め、市 し の防御 ぼうぎょ 工作 こうさく 物 ぶつ の中 なか に留 と まる道 みち を選 えら び、春 はる になって川 かわ の氷 こおり が溶 と ければ期待 きたい できる援軍 えんぐん を待 ま つことにした。アーノルドは兵力 へいりょく 比 ひ が3対 たい 1になっても効力 こうりょく の無 な いケベック包囲 ほうい を続 つづ けたが、1776年 ねん 3月 がつ にモントリオールに戻 もど り、ウースター将軍 しょうぐん と交代 こうたい するよう命 めい じられた。この期間 きかん 包囲 ほうい 軍 ぐん は厳 きび しい冬季 とうき の気象 きしょう 条件 じょうけん に苦 くる しみ、天然痘 てんねんとう が宿営 しゅくえい 所 しょ に蔓延 まんえん し始 はじ めた。これらによる損失 そんしつ で毎月 まいつき 到着 とうちゃく する小 ちい さな中隊 ちゅうたい 単位 たんい の援軍 えんぐん があっても勢力 せいりょく は相殺 そうさい された[56] 。3月14日 にち 、市 し の下流 かりゅう に住 す む製材 せいざい 業者 ぎょうしゃ のジャン=バティスト・シャシュールがケベック市 し に入 はい って、カールトンに川 かわ の南岸 なんがん にいる200名 めい が大陸 たいりく 軍 ぐん に対抗 たいこう する用意 ようい があることを伝 つた えた[57] 。これらに加 くわ えてさらに多 おお くが動員 どういん されたが、前衛 ぜんえい 部隊 ぶたい がサンピエールの戦 たたか い で、川 かわ の南岸 なんがん に駐屯 ちゅうとん していたアメリカ寄 よ り地元民 じもとみん 兵隊 へいたい の派遣 はけん 部隊 ぶたい によって敗北 はいぼく した[58] 。
3月 がつ にジョン・トーマス 将軍 しょうぐん に率 ひき いられた大陸 たいりく 軍 ぐん の援軍 えんぐん が到着 とうちゃく し、総勢 そうぜい は3,000名 めい まで回復 かいふく したが、主 おも に天然痘 てんねんとう のためにその4分 ぶん の1は戦 たたか えなかった。さらには、ロイヤリストの執拗 しつよう な情報 じょうほう 宣伝 せんでん のために、500名 めい のカナダ人 じん を指揮 しき していたリビングストンとヘイズンがその兵士 へいし や協力 きょうりょく 市民 しみん の忠誠 ちゅうせい 心 しん について悲観 ひかん 的 てき になった[59] 。
モントリオールでの不満 ふまん [ 編集 へんしゅう ]
モントリオール の地図 ちず 、1744年 ねん
モントゴメリー将軍 しょうぐん はモントリオールを発 た ってケベック市 し に向 む かう際 さい 、市 し の管理 かんり をコネチカット出身 しゅっしん のデイビッド・ウースター准 じゅん 将 しょう の手 て に預 あづ けていた。ウースターは当初 とうしょ そこの地域 ちいき 社会 しゃかい とまともな関係 かんけい を築 きず いていたが、地元 じもと の大衆 たいしゅう がアメリカの軍隊 ぐんたい が駐屯 ちゅうとん していることを嫌 きら い始 はじ めるような多 おお くの失政 しっせい を行 おこな った。アメリカ人 じん の抱 いだ く理想 りそう を大衆 たいしゅう に約束 やくそく した後 のち でロイヤリストを逮捕 たいほ し、アメリカ側 がわ に楯突 たてつ く者 もの は誰 だれ でも逮捕 たいほ と刑罰 けいばつ で脅 おど すようになった[60] 。また幾 いく つかの地域 ちいき 社会 しゃかい を武装 ぶそう 解除 かいじょ させ、地元 じもと の民兵 みんぺい 隊員 たいいん にはイギリスからの任命 にんめい を放棄 ほうき するよう強制 きょうせい し、それを拒 こば んだ者 もの は逮捕 たいほ されシャンブリー砦 とりで に拘禁 こうきん された[61] 。このような行動 こうどう は、アメリカ側 がわ が物資 ぶっし や労働 ろうどう に対 たい して硬貨 こうか ではなく紙幣 しへい で払 はら っていたという事実 じじつ と相 あい まって、アメリカ側 がわ がやろうとしていること全体 ぜんたい に対 たい する地元 じもと 住民 じゅうみん の幻滅 げんめつ を生 う むことになった。1776年 ねん 3月 がつ 20日 はつか 、ウースターはケベック市 し 包囲 ほうい 中 ちゅう の部隊 ぶたい の指揮 しき を執 と るためにモントリオールを離 はな れ、アーノルドが到着 とうちゃく する4月 がつ 19日 にち までの間 あいだ 、第 だい 2カナダ人 じん 連隊 れんたい を立 た ち上 あ げたモーゼス・ヘイズンにモントリオールの管理 かんり を委 ゆだ ねた[62] 。
4月 がつ 29日 にち に大陸 たいりく 会議 かいぎ からの代表 だいひょう 団 だん 3人 にん が、フィラデルフィアからのカトリックの聖職 せいしょく 者 しゃ 1人 にん やフランス人 じん 出版 しゅっぱん 者 しゃ 1人 にん と共 とも にモントリオールに到着 とうちゃく した。大陸 たいりく 会議 かいぎ はこの代表 だいひょう 団 だん に、ケベックの状況 じょうきょう を評価 ひょうか し、そこでの世論 せろん をアメリカ側 がわ に誘導 ゆうどう するような任務 にんむ を宛 あ てていた。代表 だいひょう 団 だん にはベンジャミン・フランクリン もいたが、既 すで に住民 じゅうみん との関係 かんけい がひどく悪化 あっか していたので、ほとんど何 なに もできなかった。代表 だいひょう 団 だん は累積 るいせき されていた住民 じゅうみん への負債 ふさい を解決 かいけつ するために硬貨 こうか を持 も ってきたわけでもなかった。カトリックの聖職 せいしょく 者 しゃ がアメリカ側 がわ の大義 たいぎ につかせようとしたが、これも失敗 しっぱい した。地元 じもと の聖職 せいしょく 者 しゃ はイギリスの議会 ぎかい によって成立 せいりつ していたケベック法 ほう で彼 かれ らの望 のぞ むことは与 あた えられていると指摘 してき した。出版 しゅっぱん 者 しゃ のフルーリー・メスプレは新聞 しんぶん 発行 はっこう の準備 じゅんび をする一方 いっぽう で、代表 だいひょう 団 だん にとって事態 じたい が空回 からまわ りし始 はじ める前 まえ に何 なに かをする時間 じかん が無 な かった[63] 。ケベック市 し の大陸 たいりく 軍 ぐん がパニック状態 じょうたい に陥 おちい って退却 たいきゃく をしているという報 しら せを受 う けた後 のち [64] 、フランクリンと聖職 せいしょく 者 しゃ は5月11日 にち にモントリオールを離 はな れ、フィラデルフィアに戻 もど った。代表 だいひょう 団 だん の他 ほか の2人 ふたり 、サミュエル・チェイス とチャールズ・キャロルはモントリオールの南部 なんぶ と東部 とうぶ の軍事 ぐんじ 的 てき 状況 じょうきょう を分析 ぶんせき し、そこが防御 ぼうぎょ 線 せん を布 し く好 こう 位置 いち だと分 わ かった。5月27日 にち 、彼 かれ らは大陸 たいりく 会議 かいぎ に対 たい するこの事態 じたい の報告 ほうこく 書 しょ を書 か き、南 みなみ に向 む けて出発 しゅっぱつ した[65] 。
セネカ族 ぞく の酋長 しゅうちょう コーンプランター、イギリス側 がわ を指示 しじ し、この作戦 さくせん で戦 たたか った可能 かのう 性 せい がある
モントリオールの上流 じょうりゅう には、大陸 たいりく 軍 ぐん が占領 せんりょう 中 ちゅう に意 い に介 かい さなかったイギリス軍 ぐん の小 ちい さな駐屯 ちゅうとん 地 ち が並 なら んでいた。春 はる が近付 ちかづ くと、カユガ族 ぞく 、セネカ族 ぞく およびミシソーガ族 ぞく の戦士 せんし 達 たち が駐屯 ちゅうとん 地 ち の一 ひと つであるオスウェガッチーに集 あつ まり始 はじ め、そこの指揮 しき 官 かん であるジョージ・フォスター大尉 たいい にアメリカに対抗 たいこう できるだけの力 ちから を与 あた えた[66] 。フォスターはモントリオールから逃 に げてきた1人 ひとり のロイヤリストの勧 すす めで彼 かれ らを戦力 せんりょく に含 ふく めた[64] 。さらにウースター将軍 しょうぐん が上流 じょうりゅう 側 がわ に物資 ぶっし を送 おく ればそこのイギリス側 がわ に使 つか われることを恐 おそ れて上流 じょうりゅう のインディアンとの交易 こうえき を許可 きょか しておらず、愛国 あいこく 者 しゃ 側 がわ およびロイヤリスト側 がわ の商人 しょうにん 達 たち にとって悩 なや みの種 たね だったが、大陸 たいりく 会議 かいぎ の代表 だいひょう 団 だん がこの決定 けってい を覆 くつがえ したので物資 ぶっし が上流 じょうりゅう 側 がわ に流 なが れ始 はじ めた[67] 。
モーゼス・ヘイズンは上流 じょうりゅう のイギリス側 がわ へ物資 ぶっし が流 なが れることを阻止 そし するため、またインディアンが集 あつ まっているという噂 うわさ に反応 はんのう し、ティモシー・ベデル大佐 たいさ と390名 めい の部隊 ぶたい を40マイル (64 km) 上流 じょうりゅう のレ・セドル(英語 えいご でザ・シーダーズ)という地点 ちてん に派遣 はけん し、そこで柵 しがらみ で囲 かこ んだ防御 ぼうぎょ 工作 こうさく 物 ぶつ を造 つく らせた[67] 。フォスターはこの動 うご きをインディアンのスパイやロイヤリストから知 し らされ、6月15日 にち にインディアン、民兵 みんぺい および正規 せいき 兵 へい の混成 こんせい 部隊 ぶたい 約 やく 250名 めい で下流 かりゅう への行軍 こうぐん を始 はじ めた。複 ふく 数 すう 回 かい の戦闘 せんとう (シーダーズの戦 たたか い)の中 なか で、ベデルの副官 ふっかん アイザック・バターフィールドが18日 にち に戦 たたか わずして全 ぜん 軍 ぐん 降伏 ごうぶく し、他 た に援軍 えんぐん として送 おく られた100名 めい も19日 にち の短時間 たんじかん の小競 こぜ り合 あ いの後 のち で降伏 ごうぶく した[68] 。
アーノルドはバターフィールドが捕 つか まったという報 しら せを受 う け取 と ると、即座 そくざ にこれら捕虜 ほりょ 奪還 だっかん のために部隊 ぶたい を集 あつ め始 はじ め、モントリオールから直 す ぐ上流 じょうりゅう のラシーンで塹壕 ざんごう を掘 ほ らせた。レ・セドルの防御 ぼうぎょ 柵 しがらみ 内 ない に捕虜 ほりょ を留 と め置 お いたフォスターはこの時 とき 500名 めい ほどになった部隊 ぶたい でモントリオールに接近 せっきん し、5月24日 にち までにアーノルド部隊 ぶたい の位置 いち 情報 じょうほう を掴 つか み、またアーノルドが自 じ 隊 たい を凌駕 りょうが するような増援 ぞうえん を期待 きたい していることも知 し った。フォスターの部隊 ぶたい は兵 へい 数 すう が減 へ りつつあったので、セントジョンズ砦 とりで の包囲 ほうい 戦 せん で捕虜 ほりょ になっていたイギリス兵 へい と今 いま 捕 つか まえているアメリカ兵 へい の交換 こうかん を交渉 こうしょう した。カンズシェーヌで短時間 たんじかん の砲撃 ほうげき が交 か わされた後 のち 、アーノルドも捕虜 ほりょ 交換 こうかん に応 おう じ、5月27日 にち から30日 にち の間 あいだ で実施 じっし された[69] 。
ケベック市 し に到着 とうちゃく した援軍 えんぐん [ 編集 へんしゅう ]
ジョン・バーゴイン 将軍 しょうぐん 、イギリス側 がわ 援軍 えんぐん の指揮 しき 官 かん
ウースター将軍 しょうぐん は4月 がつ 初旬 しょじゅん に援軍 えんぐん を率 ひき いてケベック市 し 郊外 こうがい の大陸 たいりく 軍 ぐん 宿営 しゅくえい 地 ち に到着 とうちゃく した。さらに南 みなみ から少数 しょうすう の援軍 えんぐん が到着 とうちゃく し続 つづ け、4月 がつ 末 まつ にジョン・トーマス 将軍 しょうぐん が到着 とうちゃく して指揮 しき を引 ひ き継 つ いだ時 とき 、全 ぜん 軍 ぐん は2,000名 めい 以上 いじょう になったが、実際 じっさい には天然痘 てんねんとう やカナダの冬 ふゆ の厳 きび しさのためにかなり減 へ っていた。5月2日 にち にイギリスの艦船 かんせん が川 かわ を上 のぼ ってくるという噂 うわさ が流 なが れたため、トーマスは5月5日 にち に病人 びょうにん をトロワリヴィエール まで退 しりぞ かせ、残 のこ った部隊 ぶたい も実行 じっこう できる限 かぎ り速 はや く撤退 てったい することに決 き めた。その日 ひ 遅 おそ く、15隻 せき のイギリス側 がわ 艦船 かんせん がケベック市 し の下流 かりゅう 40リーグ (190 km) に居 お り、川 かわ を遡 さかのぼ るための好条件 こうじょうけん を待 ま っているという報 しら せが入 はい った。翌日 よくじつ に艦船 かんせん のマストを視認 しにん できたときには、宿営 しゅくえい 地 ち 退去 たいきょ の動 うご きが慌 あわただ しいものになった。風向 かざむ きが変 か わり、艦隊 かんたい の中 なか の3隻 せき がケベック市 し まで達 たっ した[70] 。
レキシントン・コンコードの戦 たたか いの報 しら せがロンドン に届 とど いた後 のち 、フレデリック・ノース の内閣 ないかく は反逆 はんぎゃく 者 しゃ 軍 ぐん と戦 たたか う為 ため に外国 がいこく 軍隊 ぐんたい の支援 しえん が必要 ひつよう になると理解 りかい し、北 きた アメリカでヨーロッパ同盟 どうめい 国 こく の部隊 ぶたい を使 つか わせてもらえるよう交渉 こうしょう を始 はじ めた。ロシア帝国 ていこく のエカチェリーナ2世 せい からは拒絶 きょぜつ されたが、ドイツの諸侯 しょこう 国 こく からは支援 しえん の用意 ようい があることが伝 つた えられた。1776年 ねん にイギリスが立 た ち上 あ げた5万 まん 名 めい の軍隊 ぐんたい のうち、3分 ぶん の1近 ちか くはこれら諸侯 しょこう 国 こく からの兵士 へいし だった。ヘッセン=カッセル方 かた 伯 はく 領 りょう やヘッセン=ハーナウからの兵士 へいし はヘシアンと呼 よ ばれるようになった[71] 。5万 まん 名 めい のうち、約 やく 11,000名 めい はケベックでの従軍 じゅうぐん に送 おく られた[72] 。ヘッセン=ハーナウとブラウンシュヴァイク=リューネブルクからの兵士 へいし は1776年 ねん 2月 がつ にアイルランド のコーク にむけて出帆 しゅっぱん し、そこでイギリス軍 ぐん を運 はこ ぶ輸送 ゆそう 船団 せんだん に合流 ごうりゅう し、4月 がつ 初旬 しょじゅん に出港 しゅっこう した[73] 。
カールトンは大陸 たいりく 軍 ぐん 宿営 しゅくえい 地 ち に動 うご きがあることを知 し り、到着 とうちゃく した艦船 かんせん から直 す ぐに援軍 えんぐん を降 お ろすと、正午 しょうご 頃 ごろ には大陸 たいりく 軍 ぐん に探 さぐ りを入 い れるために約 やく 900名 めい の部隊 ぶたい で前進 ぜんしん した。これを見 み た大陸 たいりく 軍 ぐん はまさに恐慌 きょうこう 状態 じょうたい に陥 おちい った。カールトン隊 たい が前進 ぜんしん を早 はや めると算 さん を乱 みだ した撤退 てったい はさらに悲惨 ひさん な状態 じょうたい を呈 てい した。カールトンは手 て ぬるいやり方 かた でも反逆 はんぎゃく 者 しゃ 軍 ぐん に勝 か てると思 おも い[74] 、艦船 かんせん を上流 じょうりゅう に送 おく って大陸 たいりく 軍 ぐん に嫌 いや がらせを行 おこな わせ、恐 おそ らくは行 ゆ く手 て を遮 さえぎ ってくれることを期待 きたい して満足 まんぞく していた。カールトンは大半 たいはん が病人 びょうにん か負傷 ふしょう 者 しゃ の大陸 たいりく 軍 ぐん 兵士 へいし を多 おお く捕 つか まえたが、セントローレンス川 がわ 南岸 なんがん で遺棄 いき されていた分遣 ぶんけん 隊 たい も捕 と らえた。大陸 たいりく 軍 ぐん は逃 に げるのに忙 いそが しく、大砲 たいほう や火薬 かやく など貴重 きちょう な軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし の多 おお くも残 のこ していった[74] 。大陸 たいりく 軍 ぐん は5月7日 にち に、ケベック市 し から約 やく 40マイル (64 km) 上流 じょうりゅう のデシャンボーで再 さい 結集 けっしゅう した。トーマスはそこで作戦 さくせん 会議 かいぎ を開 ひら いたが、指揮 しき 官 かん たちの大半 たいはん が退却 たいきゃく に賛成 さんせい した。トーマスはデシャンボーに500名 めい を残 のこ し、残 のこ り部隊 ぶたい はソレルに行 い くことを決 き め、兵士 へいし の多 おお くがその背嚢 はいのう に着 き るものもほとんど無 な く、食糧 しょくりょう も数日 すうじつ 分 ぶん しか無 な かったのでモントリオールに援助 えんじょ を仰 あお ぐ伝令 でんれい も送 おく った[75] 。
モントリオールにいた大陸 たいりく 会議 かいぎ 代表 だいひょう 団 だん はこの報 しら せに接 せっ して、セントローレンス川 がわ を守 まも ることは不可能 ふかのう と判断 はんだん し、デシャンボーには極少 きょくしょう 数 すう の部隊 ぶたい を派遣 はけん しただけだった。トーマスはモントリオールからの報 しら せを6日間 にちかん 待 ま ち、何 なに も得 え られなかったので、トロワリビエールに向 む けての退却 たいきゃく を始 はじ めたが、その後 ご 間 あいだ もなく川 かわ のイギリス艦 かん から降 お りた部隊 ぶたい との小競 こぜ り合 あ いが始 はじ まった。大陸 たいりく 軍 ぐん は5月15日 にち にトロワリヴィエールに到着 とうちゃく し、そこでは病人 びょうにん を残 のこ し、また彼 かれ らを守 まも るためのニュージャージ出身 しゅっしん の分遣 ぶんけん 隊 たい も残 のこ した。18日 にち までに残 のこ りの部隊 ぶたい はソレルでウィリアム・トンプソン指揮 しき 下 か の援軍 えんぐん と合流 ごうりゅう し、21日 にち には大陸 たいりく 会議 かいぎ 代表 だいひょう 団 だん との作戦 さくせん 会議 かいぎ が持 も たれた。トーマスはその日 ひ に天然痘 てんねんとう を発病 はつびょう し、6月2日 にち に死 し んだ。後継 こうけい はトンプソンになった[76] 。
ガイ・カールトン
1776年 ねん 5月 がつ 6日 にち 、イギリス海軍 かいぐん のチャールズ・ダグラス海 うみ 尉 じょう が指揮 しき する小 しょう 戦隊 せんたい が補給 ほきゅう 物資 ぶっし と3,000名 めい の兵士 へいし を積 つ んでケベック開放 かいほう のために到着 とうちゃく した。イギリス側 がわ の艦船 かんせん がケベックシティに到着 とうちゃく したことで、大陸 たいりく 軍 ぐん は予定 よてい より早 はや くソレルまでの撤退 てったい することとなった[70] 。しかしカールトン将軍 しょうぐん はしばらくの間 あいだ 積極 せっきょく 的 てき な攻勢 こうせい を採 と らず、5月22日 にち になってから第 だい 47および第 だい 29連隊 れんたい と共 とも にトロワリヴィエールに向 む かった。レ・セドルでフォスター隊 たい がうまく成果 せいか を収 おさ めた報 ほう に接 せっ すると、攻勢 こうせい を掛 か ける代 か わりにケベック市 し に戻 もど り、トロワリヴィエールの部隊 ぶたい 指揮 しき はアレン・マクリーンに任 まか せた。ケベックでは6月 がつ 1日 にち に到着 とうちゃく したジョン・バーゴイン 将軍 しょうぐん と面会 めんかい した。バーゴインは大半 たいはん がアイルランドからの募兵 ぼへい とヘシアンからなる大 だい 部隊 ぶたい と豊富 ほうふ な資金 しきん を運 はこ んできていた[77] 。
ソレルに居 い た大陸 たいりく 軍 ぐん は、トロワリヴィエール には「わずか300名 めい 」がいるだけとの情報 じょうほう を得 え てので、ソレルからトロワリヴィエールに部隊 ぶたい を派遣 はけん して占領 せんりょう し戻 もど ってこられると判断 はんだん した。トンプソン将軍 しょうぐん はイギリス軍 ぐん 援軍 えんぐん の主力 しゅりょく が到着 とうちゃく したことを知 し らず、またその町 まち の地形 ちけい も無視 むし したままに2,000名 めい の部隊 ぶたい を率 ひき いてその湿地 しっち に進 すす み、そこで兵力 へいりょく を増強 ぞうきょう し塹壕 ざんごう に身 み を隠 かく したイギリス軍 ぐん の待伏 まちぶ せ攻撃 こうげき を受 う けた(トロワリビエールの戦 たたか い )。大陸 たいりく 軍 ぐん はトンプソンと他 た 上級 じょうきゅう 士官 しかん の多数 たすう そして兵士 へいし 200名 めい らが捕虜 ほりょ となり、遠征 えんせい に使 つか ってきた船舶 せんぱく もイギリス軍 ぐん に捕獲 ほかく されるなどの損害 そんがい を出 だ し、この結果 けっか は大陸 たいりく 軍 ぐん にとってケベック地方 ちほう の占領 せんりょう の終 お わりを暗示 あんじ するものになった。このときジョン・サリバン が指揮 しき していた大陸 たいりく 軍 ぐん もソレルから撤退 てったい しているが[78] 、カールトンはこのときもその利点 りてん に付 つ けこもうとはせず、8月 がつ には寛大 かんだい にも捕虜 ほりょ をニューヨークに戻 もど すことまでやった[79] 。
クラウンポイントへの退却 たいきゃく [ 編集 へんしゅう ]
6月14日 にち の早朝 そうちょう 、カールトンはついに川 かわ を遡上 そじょう してソレルに進軍 しんぐん した。その日 ひ 遅 おそ く到着 とうちゃく した時 とき には、大陸 たいりく 軍 ぐん がその朝 あさ にソレルを放棄 ほうき してシャンブリーとセントジョンズに向 む けてリシュリュー川 がわ を上 のぼ りつつあることが分 わ かった。ケベックからの後退 こうたい の時 とき とは異 こと なり、大陸 たいりく 軍 ぐん はいくらか秩序 ちつじょ だった後退 こうたい を行 おこな っていたが、カールトン艦隊 かんたい の到着 とうちゃく によって本隊 ほんたい を離 はな れ、アーノルドの部隊 ぶたい と合流 ごうりゅう するためにモントリオールに向 む かった部隊 ぶたい もあった[80] 。カールトンはバーゴインに4,000名 めい の部隊 ぶたい を率 ひき いてリシュリュー川 がわ を上 のぼ らせ大 だい 陸軍 りくぐん の後 のち を追 お わせる一方 いっぽう 、自分 じぶん はモントリオールに向 む かって帆走 はんそう を続 つづ けた[81] 。
モントリオールではアーノルドが下流 かりゅう で起 お こっている事態 じたい を知 し らず、フォスターとの交渉 こうしょう を終 お えたばかりだった。5月15日 にち にサリバン将軍 しょうぐん からの報 しら せを受 う けるために下流 かりゅう のソレルに送 おく った伝令 でんれい がカールトンの艦隊 かんたい を目撃 もくげき し、岸 きし に逃 のが れて盗 ぬす んだ馬 うま でモントリオールまで戻 もど ってその報 しら せを伝 つた えた[81] 。アーノルドとモントリオール周辺 しゅうへん にいた守備 しゅび 隊 たい は伝令 でんれい の報 ほう を受 う けてから4時 じ 間 あいだ の内 うち に市 し を放棄 ほうき し(モントリオール市 し を焼 や き落 お とそうとはしなかった)、地元 じもと の民兵 みんぺい 隊 たい の手 て に委 ゆだ ねた。カールトンの艦隊 かんたい は6月 がつ 17日 にち にモントリオール市 し に到着 とうちゃく した[82] 。
USS フィラデルフィア 、バルカー島 とう の戦 たたか い に参戦 さんせん した
アーノルドの部隊 ぶたい は17日 にち にセントジョンズ近 ちか くで本隊 ほんたい に追 お いついたが[82] 、本隊 ほんたい であるサリバンの軍隊 ぐんたい は戦 たたか える状態 じょうたい ではなく、簡単 かんたん な作戦 さくせん 会議 かいぎ によってクラウンポイントまで退却 たいきゃく することが決 き まった。この軍隊 ぐんたい はバーゴインの前衛 ぜんえい 部隊 ぶたい が到着 とうちゃく する文字通 もじどお りまさにその瞬間 しゅんかん にセントジョンズを離 はな れた[83] 。
大陸 たいりく 軍 ぐん の残党 ざんとう は7月 がつ 初旬 しょじゅん にクラウンポイントに到着 とうちゃく した。この作戦 さくせん の大半 たいはん を経験 けいけん した医者 いしゃ であるアイザック・センターが「おそらくはどこの国 くに の年譜 ねんぷ にも見出 みいだ させないような特異 とくい で比 くら べようも無 な い挫折 ざせつ と苦 くる しみの不 ふ 均一 きんいつ な連鎖 れんさ 」と表現 ひょうげん した作戦 さくせん の終 お わりだった[84] 。ケベックでの敗北 はいぼく は決定的 けっていてき となったが[53] 、イギリス軍 ぐん はまだ動 うご いていたので、作戦 さくせん は完全 かんぜん には終 お わっていなかった。
大陸 たいりく 軍 ぐん はリシュリュー川 がわ とシャンプレーン湖 こ を撤退 てったい するとき、イギリス軍 ぐん が残 のこ された船舶 せんぱく を使 つか えないよう、撤退 てったい するごとに用心深 ようじんぶか くそれらを焼 や きあるいは沈 しず めていった。このことでイギリス軍 ぐん は船舶 せんぱく を建造 けんぞう する為 ため に数ヶ月 すうかげつ を要 よう することになったが、カールトンは9月28日 にち にロンドンに宛 あ てて報告 ほうこく 書 しょ を送 おく り、「私 わたし はこの艦隊 かんたい が間 ま もなく出帆 しゅっぱん でき、戦闘 せんとう で得 え られる成功 せいこう を期待 きたい している。」と伝 つた えた[85] 。アーノルドはイーサン・アレンと共 とも に1775年 ねん 5月 がつ にタイコンデロガ砦 とりで を占領 せんりょう した時 とき 、小 ちい さな海軍 かいぐん を作 つく っており、それがこの時 とき もシャンプレーン湖 こ を偵察 ていさつ していた。
イギリス軍 ぐん がアーノルドの戦隊 せんたい に対抗 たいこう するために海軍 かいぐん を作 つく っている間 あいだ に、カールトンはモントリオールの事後 じご 処理 しょり を行 おこな った。カールトンは、大陸 たいりく 軍 ぐん が撤退 てったい する前 まえ のケベック市 し においても、地元 じもと の愛国 あいこく 者 しゃ 側 がわ 同調 どうちょう 者 しゃ が演 えん じた役割 やくわり を調査 ちょうさ する委員 いいん 会 かい を形成 けいせい しており、委員 いいん を田園 でんえん 部 ぶ に派遣 はけん してアメリカ側 がわ の活動 かつどう に積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか した者 もの を逮捕 たいほ した。その中 なか にはロイヤリストを拘束 こうそく した者 もの も含 ふく まれた[86] 。カールトンは、モントリオールに到着 とうちゃく した時 とき にも同様 どうよう な委員 いいん 会 かい を設定 せってい した[85] 。
バルカー島 とう の戦 たたか いでの隊形 たいけい を示 しめ す地図 ちず
7月 がつ 初旬 しょじゅん にホレイショ・ゲイツ 将軍 しょうぐん が大陸 たいりく 軍 ぐん 北部 ほくぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん の指揮 しき を任 まか された。ゲイツは直 す ぐに軍 ぐん の主力 しゅりょく をタイコンデロガに移 うつ し、クラウンポイントには約 やく 300名 めい の部隊 ぶたい を残 のこ した。ゲイツ将軍 しょうぐん の主力 しゅりょく 部隊 ぶたい はタイコンデロガの防御 ぼうぎょ を厚 あつ くすることに専念 せんねん し、アーノルドにはクラウンポイントでアメリカ艦隊 かんたい を建造 けんぞう する任務 にんむ が与 あた えられた。夏 なつ の間 あいだ 、タイコンデロガ砦 とりで に援軍 えんぐん が送 おく られ、総勢 そうぜい は推計 すいけい 1万 まん 名 めい にもなった[87] 。
カールトンは10月7日 にち に行軍 こうぐん を始 はじ めた。9日 にち にはイギリス艦隊 かんたい がシャンプレーン湖上 こじょう に浮 う かんだ。10日 とおか から11日 にち の夜 よる に始 はじ まったバルカー島 とう と湖 みずうみ の西海岸 にしかいがん 付近 ふきん での戦 たたか いでは、イギリス軍 ぐん がアーノルドの艦隊 かんたい に大 おお きな損傷 そんしょう を出 だ させ、クラウンポイントまで撤退 てったい させた。アーノルドはクラウンポイントではイギリス軍 ぐん の攻撃 こうげき に対 たい して耐 た えられないと考 かんが え、さらにタイコンデロガまで後退 こうたい した。イギリス軍 ぐん は10月17日 にち にクラウンポイントを占領 せんりょう した[88] 。
カールトンの軍隊 ぐんたい はクラウンポイントに2週間 しゅうかん 留 と まり、幾 いく らかの部隊 ぶたい はタイコンデロガ砦 とりで から3マイル (5 km) の所 ところ まで進出 しんしゅつ し、ゲイツの軍隊 ぐんたい を誘 さそ い出 だ そうとしたが効果 こうか なく、11月2日 にち 、ケベックで冬季 とうき 宿営 しゅくえい を行 おこな うためにクラウンポイントから撤退 てったい した[89] 。
ケベック侵攻 しんこう はアメリカにとって悲惨 ひさん な結果 けっか に終 お わったが、ケベックからの撤退 てったい 時 じ におけるアーノルドの行動 こうどう とシャンプレーン湖 こ での即席 そくせき の海軍 かいぐん はイギリス軍 ぐん の全面 ぜんめん 的 てき な反撃 はんげき を1777年 ねん まで遅 おく らせることに功 こう があったとされている[90] 。一方 いっぽう カールトンは、大陸 たいりく 軍 ぐん のカナダからの撤退 てったい を徹底 てってい して追撃 ついげき しなかったためにバーゴインから厳 きび しく批判 ひはん された[91] 。この批判 ひはん と、カールトンが本国 ほんごく の植民 しょくみん 地 ち 問題 もんだい 担当 たんとう 大臣 だいじん で国王 こくおう ジョージ3世 せい の政府 せいふ で戦争 せんそう 遂行 すいこう の担当 たんとう 者 しゃ だったジョージ・ジャーメイン 卿 きょう に嫌 きら われていたという事実 じじつ のために、サラトガ方面 ほうめん 作戦 さくせん の指揮 しき はジョン・バーゴインに任 まか されることになった。このことはカールトンがケベック総督 そうとく を辞 じ する遠因 えんいん ともなった[92] 。
ケベックやその他 た のイギリス領 りょう 植民 しょくみん 地 ち を征服 せいふく する事 こと は、独立 どくりつ 戦争 せんそう の間 あいだ 大陸 たいりく 会議 かいぎ の目標 もくひょう であり続 つづ けた。しかし当初 とうしょ この遠征 えんせい を支持 しじ していたジョージ・ワシントン が、これ以上 いじょう の遠征 えんせい は13植民 しょくみん 地 ち での主戦 しゅせん 線 せん から兵力 へいりょく や資源 しげん をあまりに多 おお く分散 ぶんさん させるものとして優先 ゆうせん 順位 じゅんい を低 ひく くしてからはケベックに向 む けての遠征 えんせい はほとんど実現 じつげん しなかった[93] 。
1783年 ねん のパリ条約 じょうやく 交渉 こうしょう のとき、アメリカの代表 だいひょう 団 だん は戦利 せんり 品 ひん の一部 いちぶ としてケベック全 すべ てを要求 ようきゅう したが失敗 しっぱい した。ベンジャミン・フランクリンが主 おも に関心 かんしん を抱 だ いていたのは1774年 ねん のケベック法 ほう によってケベックの一部 いちぶ とされていたオハイオ領土 りょうど で、この和平 わへい 会談 かいだん ではケベックの明 あ け渡 わた しを提案 ていあん し、オハイオのみが割譲 かつじょう された[94] 。
1812年 ねん の米 べい 英 えい 戦争 せんそう で、アメリカは再度 さいど イギリス領 りょう 北 きた アメリカへの侵攻 しんこう を開始 かいし した。このときも地元 じもと の民衆 みんしゅう がアメリカを支持 しじ するものと期待 きたい していた。その侵略 しんりゃく が失敗 しっぱい したことはカナダの歴史 れきし でも重要 じゅうよう なことと見 み なされており、現代 げんだい のカナダのアイデンティティが生 う まれたと言 い われている[95] 。
^ 大陸 たいりく 軍 ぐん の戦力 せんりょく は、何 なん 度 ど も援軍 えんぐん が送 おく られ、また多 おお くの者 もの が病気 びょうき になって送 おく り返 かえ されたり死 し んだりしたために集計 しゅうけい が難 むずか しい。1776年 ねん 5月 がつ 時点 じてん での軍隊 ぐんたい は5,000名 めい と推計 すいけい されたが、かなりの比率 ひりつ で軍務 ぐんむ には不適 ふてき な者 もの が含 ふく まれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気 びょうき や徴兵 ちょうへい 期間 きかん の終了 しゅうりょう のために故郷 こきょう に戻 もど った者 もの や、以前 いぜん の戦闘 せんとう で戦死 せんし または捕虜 ほりょ になった者 もの 、あるいはアーノルド遠征 えんせい で引 ひ き返 かえ した者 もの も含 ふく んでいない。1776年 ねん 6月 がつ 、ジョン・サリバンが3,000名 めい 以上 いじょう を率 ひき いてソレルに到着 とうちゃく した (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征 えんせい 隊 たい が500名 めい を失 うしな い (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックの戦 たたか いで400名 めい 以上 いじょう が捕虜 ほりょ になり、少 すく なくとも900名 めい はセントジョンズ砦 とりで 包囲 ほうい 中 ちゅう に病気 びょうき で送還 そうかん されたとすれば、10,000名 めい という推計 すいけい はケベックに送 おく られた勢力 せいりょく として合理 ごうり 的 てき なものになる。ただし実働 じつどう 可能 かのう であった兵 へい 数 すう はどの時点 じてん においてもこの推計 すいけい よりかなり少 すく なかったと考 かんが えられる。
^ Simeon , p. viiに拠 よ れば、大陸 たいりく 軍 ぐん 侵略 しんりゃく 開始 かいし 時点 じてん でのイギリス軍 ぐん は正規 せいき 兵 へい 700名 めい だった。セントジョンズ砦 とりで とケベックでは民兵 みんぺい の支援 しえん があったとされ、主要 しゅよう な戦 たたか いでは総勢 そうぜい が1,800名 めい になっていた(Smith (1907), vol 1 , pp. 342-3 and Alden , p. 209)。1776年 ねん 6月 がつ にチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインの率 ひき いる援軍 えんぐん が到着 とうちゃく し、総勢 そうぜい は10,000名 めい と民兵 みんぺい さらにインディアンとなった(Smith (1907), vol 2 , p. 430)。
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