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カナダ侵攻しんこう作戦さくせん

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カナダ侵攻しんこう作戦さくせん

ケベック攻撃こうげきでのモントゴメリー将軍しょうぐん英語えいごばん
(ジョン・トランブル, 1786ねん)
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1775ねん6がつ - 1776ねん10月
場所ばしょシャンプレーン およセントローレンスがわ渓谷けいこく
結果けっか大陸たいりくぐん侵攻しんこう失敗しっぱい
イギリスぐん反撃はんげき
交戦こうせん勢力せいりょく
アメリカ合衆国大陸たいりくぐん
カナダじん連隊れんたい
イギリスイギリスぐん
カナダ民兵みんぺい
指導しどうしゃ指揮しきかん
フィリップ・スカイラー
リチャード・モントゴメリー 
ベネディクト・アーノルド
ジョン・サリバン
デイビッド・ウースター
ジョン・トーマス 
ガイ・カールトン
ジョン・バーゴイン
戦力せんりょく
やく10,000[1] 700から10,000以上いじょう[2]
損害そんがい
戦死せんしやく400
負傷ふしょうやく650
捕虜ほりょやく1,500
総計そうけい: 2,500
戦死せんしやく100
負傷ふしょうやく230
捕虜ほりょやく600
総計そうけい: 930
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

カナダ侵攻しんこう作戦さくせん (カナダしんこうさくせん、えい: Invasion of Canada)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう初期しょき1775ねんから1776ねんにかけて新設しんせつあいだもない大陸たいりくぐん主導しゅどうによっておこなわれた最初さいしょ作戦さくせん行動こうどうである。作戦さくせん目的もくてきはイギリスりょうケベックを軍事ぐんじ支配しはいし、フランス語ふらんすごはなカナダじん13植民しょくみんがわ革命かくめいくわわるよう説得せっとくすることだった。

大陸たいりくぐんから2つの遠征えんせいたい派遣はけんされた。1たいリチャード・モントゴメリー将軍しょうぐん指揮しきで1775ねんの8がつ下旬げじゅんタイコンデロガとりでから出発しゅっぱつし、9がつなかばにモントリオールみなみにある主要しゅよう防御ぼうぎょ地点ちてんであるセントジョンズとりで包囲ほういはじめた。11月にこのとりでとされたのちで、イギリスぐんガイ・カールトン将軍しょうぐんはモントリオールを放棄ほうきしてケベック逃亡とうぼうした。モントゴメリーはモントリオールを占領せんりょうしたときにカールトン将軍しょうぐんをもうすこしでつかまえるところだった。もう1たいベネディクト・アーノルド指揮しきマサチューセッツわん植民しょくみんケンブリッジ出発しゅっぱつし、メイン荒野あらの艱難辛苦かんなんしんくしてとおけてケベックたっした。荒野あらのとお大変たいへん行軍こうぐんのためにのこっている兵士へいしえており、物資ぶっし装備そうびけていた。

2たいは12月にケベックまえ合流ごうりゅうし、1775ねん大晦日おおみそか暴風ぼうふうゆきなかケベック強襲きょうしゅうした。この戦闘せんとうでモントゴメリーは戦死せんしし、アーノルドは負傷ふしょうしたが、まもるイギリスぐんにはほとんど損失そんしつく、大陸たいりくぐんにとって悲惨ひさん敗北はいぼくになった。そのアーノルドは無益むえき包囲ほういはじめたが、そのあいだおこなわれた情報じょうほう宣伝せんでん活動かつどうによってロイヤリスト支持しじするこえたかまり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍しょうぐん失政しっせいには大陸たいりくぐん中傷ちゅうしょうするものだけでなく支持しじするものからも不満ふまんこえがった。

イギリスぐん1776ねん5月にケベック地方ちほう戦力せんりょく補強ほきょうするために、ジョン・バーゴイン将軍しょうぐんドイツじん傭兵ようへいふくすうせんめい援軍えんぐん派遣はけんした。増援ぞうえんたカールトンは大陸たいりくぐん反撃はんげきこころみ、天然痘てんねんとうよわ組織そしきみだれていた大陸たいりくぐんを7がつにはタイコンデロガとりでまでもどした[3]一方いっぽうアーノルド指揮しき大陸たいりくぐんはイギリスぐんあゆみをおくらせることに成功せいこうし、1776ねんあいだはタイコンデロガとりでへの攻撃こうげきをできないようにした。この侵攻しんこう作戦さくせん終了しゅうりょう、バーゴインがハドソンがわ流域りゅういき支配しはい目指めざした1777ねんサラトガ方面ほうめん作戦さくせんつづいた。

作戦さくせん名前なまえ[編集へんしゅう]

大陸たいりくぐんほん軍事ぐんじ作戦さくせん目的もくてきであるイギリスりょうケベックは、1775ねん時点じてんでは「カナダ」とばれることがおおかった。たとえばだい大陸たいりく会議かいぎフィリップ・スカイラー将軍しょうぐんした侵攻しんこう作戦さくせん承認しょうにんぶんでは、もしも「カナダじんにとって不愉快ふゆかいでない」のであれば、「即座そくざにセントジョンとりで、モントリオールおよびかのくに如何いかなるところ占領せんりょうすること」、そして「カナダでは」植民しょくみんの「平和へいわ安全あんぜん促進そくしん」する「如何いかなる手段しゅだん追求ついきゅうすること」という文言もんごんがあった[4]。この作戦さくせん詳細しょうさいかた比較的ひかくてき現代げんだい歴史れきししょであっても、その表題ひょうだいにカナダを使つかっている。イギリスがケベックとんだこの領土りょうどは、フランスがフレンチ・インディアン戦争せんそう正式せいしきパリ条約じょうやくでイギリスに同地どうち割譲かつじょうする1763ねんまでは、フランスりょうカナダ植民しょくみんばれていた(フランスぐんは1760ねんにこの植民しょくみんをイギリスぐんわたしていた)[5]本稿ほんこうでは、具体ぐたいてきに「カナダ」と言及げんきゅうするものを引用いんようする場合ばあいのぞいて、この歴史れきしてき使つかわれかた現代げんだいカナダというくにかんする使つかわれかたあいだ混同こんどうけるため、同地どうちについては「ケベック」という名称めいしょう使用しようする。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1775ねんはるレキシントン・コンコードのたたか契機けいきに、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうはじまった[6]。だが戦況せんきょうはそのすぐに膠着こうちゃくし、ボストンのイギリスぐんたいする包囲ほういせんつづいた。1775ねん5がつ、イギリスぐんのタイコンデロガとりで防御ぼうぎょ手薄てうすで、しかも重火器じゅうかき大砲たいほう火薬かやく)がいてあることに気付きづいたベネディクト・アーノルドイーサン・アレンがタイコンデロガとりでとクラウンポイントとりで占領せんりょうし、セントジョンズとりで襲撃しゅうげきした[7]。これらのとりですべ当時とうじはほんのわずかな手勢てぜいまもられていた[8]。タイコンデロガとりでとクラウンポイントとりでは6がつにベンジャミン・ハインマンの指揮しきするコネチカット民兵みんぺい1,100めいによってまもられることになった[9]

大陸たいりく会議かいぎ承認しょうにん[編集へんしゅう]

フィリップ・スカイラー将軍しょうぐん

1774ねんかいしただいいち大陸たいりく会議かいぎは、10月26にちけの公式こうしき書簡しょかんで1775ねん5がつ開催かいさいされるだい会議かいぎフランスけいカナダじんくわわること、つまりケベック植民しょくみん革命かくめい参加さんかすることを招請しょうせいした[6]だい大陸たいりく会議かいぎも1775ねん5がつにそのような2度目どめ手紙てがみおくったが、どちらの手紙てがみにも実質じっしつてき反応はんのうかった[10]

タイコンデロガとりで奪取だっしゅつづいてアーノルドとアレンは、イギリスぐんがアメリカ植民しょくみん分割ぶんかつしようというこころみにたいしてタイコンデロガとりで防御ぼうぎょ拠点きょてんとする必要ひつようせい主張しゅちょうし、あわせてケベックのまもりがうすいことも指摘してきした。かれらは、1,200から1,500めい程度ていどちいさな軍隊ぐんたいでもケベック植民しょくみんからイギリスぐんすには十分じゅうぶんなことをしめして、それぞれべつにケベックにたいする遠征えんせい提案ていあんした。大陸たいりく会議かいぎ当初とうしょタイコンデロガなどのとりで放棄ほうき命令めいれい[11]、ニューヨークとコネチカットのかく植民しょくみんには基本きほんてき防衛ぼうえい目的もくてき軍隊ぐんたい物資ぶっしすようにうながしたが、ニューイングランドニューヨーク植民しょくみん一般いっぱん大衆たいしゅうからは大陸たいりく会議かいぎにその姿勢しせいえるよう抗議こうぎこえがった。このときケベック総督そうとくのガイ・カールトンがセントジョンズとりで防御ぼうぎょ強化きょうかしており、ニューヨーク植民しょくみん北部ほくぶイロコイぞくインディアンもうとしていることもあきらかになり、大陸たいりく会議かいぎはより積極せっきょくてき姿勢しせい必要ひつようであるとの決断けつだんくだした。1775ねん6月27にち大陸たいりく会議かいぎはフィリップ・スカイラー将軍しょうぐんにその地域ちいき調査ちょうさするようみとめ、適切てきせつかんがえられるならば侵略しんりゃくはじめることを承認しょうにんした[12]指揮しきけんあたえられなかったベネディクト・アーノルドはボストンにかい、ジョージ・ワシントン将軍しょうぐん説得せっとくして、アーノルドの指揮しき別働隊べつどうたいをケベックにけて派遣はけんさせることにした[13]

ケベック防衛ぼうえい準備じゅんび[編集へんしゅう]

カールトン将軍しょうぐんはセントジョンズとりで襲撃しゅうげきがあったのちに、みなみから侵略しんりゃくされる危険きけんせい痛切つうせつかんり、ボストンにいるトマス・ゲイジ将軍しょうぐんからの援軍えんぐん要請ようせいした。カールトンはモントリオールとケベック防衛ぼうえいのために地元じもと民兵みんぺいたいげにかったがほとんど成功せいこうしなかった[14]。カールトンはフランスけい住民じゅうみん自発じはつてき植民しょくみん防衛ぼうえいにあたることを期待きたいしていたが、とう住民じゅうみんだい多数たすうえいべいどちらのがわにもつかず、中立ちゅうりつであることをのぞんでいたためである[6]。イギリスがわはタイコンデロガとりで奪取だっしゅされセントジョンズとりでおそわれたことに反応はんのうして、モントリオールのみなみリシュリューがわ沿いにあるセントジョンズとりでまもために700めい部隊ぶたい派遣はけんし、シャンプレーン使つかため船舶せんぱく建造けんぞう命令めいれい[15]、またその防衛ぼうえいを援けさせるためにモホークぞくインディアンやく100めい兵士へいしとして採用さいようした。おも防御ぼうぎょはセントジョンズとりでたよっていたので、カールトン自身じしんわずか150めい正規せいきへいれただけでモントリオールの防衛ぼうえい監督かんとくした[13]。ケベック防衛ぼうえいふく総督そうとくのヘクター・クラマヘの指揮しきゆだねた[16]

インディアンの支援しえんもとめた交渉こうしょう[編集へんしゅう]

ベンジャミン・ウエストえがいたこのは、これまでガイ・ジョンソンの肖像しょうぞうかんがえられてきたが、ガイの伯父おじウィリアム・ジョンソン英語えいごについて最近さいきんかれた伝記でんきでは、この肖像しょうぞうはウィリアム・ジョンソンをえがいたものとされている[17]

ニューヨーク植民しょくみんモホークがわ流域りゅういきロイヤリストおう党派とうは)でイギリスのインディアン代理人だいりにんだったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民しょくみんのイロコイぞくきわめて親密しんみつにしていたが、パトリオット愛国あいこくしゃがわ意見いけんがニューヨークで支配しはいてきであることがあきらかになってからは、自身じしん家族かぞくあんじていた。もはやイギリスとの商売しょうばい安全あんぜんおこなうことができなくなったと確信かくしんすると、200にん追随ついずいしゃやモホークぞく支持しじしゃとうとともにニューヨークの領地りょうちはなれた。まずはオンタリオとりでかい、6月17にちにインディアン部族ぶぞく指導しどうしゃたち大半たいはんはイロコイぞくとヒューロンぞく)から、この地域ちいきでの物資ぶっし通信つうしん供給きょうきゅうせん途絶とだえさせないことと、「てきによるこまりごと」があるときはイギリスを支援しえんすることという約束やくそくけた[18]。そこからはモントリオールにかい、カールトン将軍しょうぐんや1,500めい以上いじょうのインディアンとの会談かいだんで、同様どうよう合意ごうい交渉こうしょうし、「いつでも臨戦りんせん態勢たいせいれるように」戦争せんそうおびくばった[19]。しかし、これら合意ごうい事項じこうくわわったもの大半たいはんはモホークぞくだった。イロコイ連邦れんぽうほか部族ぶぞくはこれらの協議きょうぎけ、中立ちゅうりつであろうとした。会議かいぎもモホークぞくおおくはモントリオール地域ちいきとどまった。しかし大陸たいりくぐんが1775ねんちゅう本当ほんとう侵略しんりゃく開始かいしするかが不確ふたしかにおもえたため、その大半たいはんは8がつ中旬ちゅうじゅんまでに故郷こきょうもどった[20]

大陸たいりく会議かいぎはイロコイ連邦れんぽうの6部族ぶぞく戦争せんそう局外きょくがいいておこうとしていた。1775ねん7がつ、オナイダぞく影響えいきょうりょくのあった伝道でんどうサミュエル・カークランドが、「わたしたちはあなたかた故郷こきょうまり、どちらのぐんにもくわわらず、たたかいの手斧ちょうなふかめておくことをのぞむ」という大陸たいりく会議かいぎからの声明せいめいぶんってった[19]。オナイダぞくやタスカローラぞく公式こうしきには中立ちゅうりつまもったが、オナイダぞくでは個人こじんてきにアメリカがわへの同調どうちょう表明ひょうめいしたものがおおくいた[19]。ジョンソンがモントリオールで会議かいぎひらいたというしらせをいたスカイラー将軍しょうぐんはやはりオナイダぞく影響えいきょうりょくがあったので、オールバニでの協議きょうぎかい招集しょうしゅうし、8がつなかばに開催かいさいした。この会合かいごうにはやく400にんのインディアン(おもにオナイダぞくとタスカローラぞく、さらにいくらかのモホークぞく)が参加さんかし、スカイラーとのインディアン・コミッショナーがイギリスから植民しょくみんかつ問題もんだい説明せつめいし、植民しょくみんじん自分じぶんたち権利けんりまもためたたかうこと、征服せいふく意図いとしているのではないことを強調きょうちょうした[21]あつまった酋長しゅうちょうたち中立ちゅうりつまもることに合意ごういし、モホークぞくのある酋長しゅうちょうは「これは家庭かていない問題もんだいである」として[22]、「じっとすわってあなたかたたたかっているのをる」ことにするとべた[23]。しかし、このように中立ちゅうりつ宣言せんげんする一方いっぽうで、アメリカがわからの譲歩じょうほしもし、その譲歩じょうほにはかれらインディアンの土地とちへの白人はくじん開拓かいたくしゃ侵入しんにゅうといったつづ苦情くじょうにアメリカがわ対処たいしょするという約束やくそくふくまれていた[24]

モントゴメリー遠征えんせいたい[編集へんしゅう]

リチャード・モントゴメリーじゅんしょう

侵略しんりゃく主力しゅりょく部隊ぶたいはスカイラー将軍しょうぐんひきい、シャンプレーンのぼってモントリオールとケベック襲撃しゅうげきすることになった。遠征えんせいたいはニューヨーク、コネチカットおよびニューハンプシャーかく植民しょくみんからの部隊ぶたい構成こうせいされ、セス・ワーナーのグリーン・マウンテン・ボーイズもこれにくわわり、食糧しょくりょうはニューヨークから供給きょうきゅうされることになった[25]。しかしスカイラーは過度かど慎重しんちょうで、へいあつわるのに8がつまつまでかかるなど準備じゅんび手間取てまどったため[26]、8がつなかばにはカールトン将軍しょうぐんがモントリオール郊外こうがい防衛ぼうえい陣地じんち強化きょうか[27]、イギリスぐん加担かたんしたインディアン部族ぶぞくもいるという報告ほうこくることになった[28]

セントジョンズとりでへの接近せっきん[編集へんしゅう]

スカイラーがまだインディアンと協議きょうぎしていた8がつ25にち、モントゴメリーはセントジョンズとりで建造けんぞうちゅう船舶せんぱく完成かんせい間近まぢかであるとのしらせをった。モントゴメリーはスカイラーが不在ふざいであること(さらには行動こうどう承認しょうにんする命令めいれいかったこと)を利用りようし、タイコンデロガとりであつめた兵士へいし1,200めいひきいてリシュリューかわ沿いのイル・オ・ノワにある前進ぜんしん基地きちかい、9月4にち到着とうちゃくした[29]。このとき病気びょうきになっていたスカイラーは途中とちゅうでこの部隊ぶたいいついた[26]。スカイラーはその地域ちいきでアメリカがわ支援しえんするために地元じもと民兵みんぺいたいげの準備じゅんびをしていたカナダじんジェイムズ・リビングストンに伝言でんごんおくり、モントリオールみなみ地域ちいき巡回じゅんかいするようつたえた。翌日よくじつ、この部隊ぶたいかわくだってセントジョンズとりでかい、その防御ぼうぎょ度合どあいを視察しさつし、りょうぐんども損失そんしつした簡単かんたん小競こぜいののちでイル・オ・ノワまで撤退てったいした。この小競こぜいのときイギリスぐんがわたたかったのはインディアンたち大半たいはんであったが、とりでほうからは支援しえんかったので、インディアンたちはこの紛争ふんそうから退しりぞくようになった[30]。また、オナイダぞく地域ちいきりよく到着とうちゃくしたことで、イギリスぐんたいするべつのインディアンからの援軍えんぐんさえぎられた。オナイダぞくはモホークぞく戦士せんしたいがコーナワガからセントジョンズとりでかっていたのを妨害ぼうがいした。このときモホークぞくむらにはガイ・ジョンソン、ダニエル・クラウスおよびジョセフ・ブラントらがてモホークぞく援助えんじょようとしていたが、オナイダぞくはモホークぞく自分じぶんむらもどるよう説得せっとくした。オナイダぞくはジョンソンやクラウスと直接ちょくせつうことは拒否きょひし、ブラントやモホークぞく面々めんめんにオールバニでの同意どうい事項じこう条件じょうけんについて説明せつめいした[31]結局けっきょくブラントとイギリスの代理人だいりにん支援しえん約束やくそくをとりつけることもくそのった(イギリスのより公式こうしきあつかいでは、ガイ・ジョンソンが7がつにイロコイぞくあたえたたたかいのおびは1775ねん12月にアメリカがわインディアン・コミッショナーにわたされた)[32]

捕虜ほりょになったイーサン・アレン

この最初さいしょ小競こぜいののちでスカイラーの病気びょうきおもくなり、指揮しきつづけられなくなったので、指揮しきけんをモントゴメリーにゆずった。スカイラーは数日すうじつにタイコンデロガとりでかえした[33]。モントゴメリーは、9がつ10日とおか攻撃こうげきでもへい混乱こんらんするなどして失敗しっぱいしたが、コネチカット、ニューハンプシャーおよびニューヨークからの支援しえん部隊ぶたい800ないし1,000めいとグリーン・マウンテン・ボーイズの一部いちぶ到着とうちゃくしたので、9月17にちついセントジョンズとりでとそのはたまち包囲ほうい開始かいし、モントリオールと連絡れんらくもう遮断しゃだんしてとりでかう物資ぶっし捕獲ほかくした。翌週よくしゅうイーサン・アレンは、たん地元じもと民兵みんぺい徴募ちょうぼしろという指示しじけただけだったにもかかわらずその指示しじ逸脱いつだつし、少数しょうすう部隊ぶたいでモントリオールを占拠せんきょしようとしてロングポイントのたたか捕虜ほりょになった[34]。この出来事できごとで、短期たんきてきにはイギリスぐん支援しえんする民兵みんぺい士気しきがったが、効果こうか長続ながつづきせず、そのには脱走だっそうしゃ続出ぞくしゅつした[35]

セントジョンズとりではシャンプレーン北端ほくたんにあり、リシュリューがわとおってカナダにはい要衝ようしょうだった。とりでにはチャールズ・プレストン少佐しょうさ指揮しきで300めい歩兵ほへい正規せいきぐんがおり、この植民しょくみんではもっと防御ぼうぎょかまえたまちだった。大陸たいりくぐん病気びょうき悪天候あくてんこう兵站へいたんむずかしさにわざわいされたが、迫撃はくげきほうえてとりでなかまで貫通かんつうだんてるようになった。とりで弾薬だんやく十分じゅうぶんにあったが、食糧しょくりょうなどの物資ぶっしとぼしくなった。プレストンは、2,000めい部隊ぶたいともにモントリオールに駐屯ちゅうとんしているガイ・カールトン将軍しょうぐん援軍えんぐん要請ようせいした。しかし、カールトンはケベック安全あんぜんそこなうことにすすまず、援軍えんぐんおくることを拒絶きょぜつした。この判断はんだんミスによってカールトンはモントリオールをうしない、のちにはケベックシティでかれ自身じしん包囲ほういされることになる。

10月18にち大陸たいりくぐんはイギリスぐんちいさな前哨ぜんしょう基地きちシャンブリーとりでとしたことで、プレストンを完全かんぜん孤立こりつさせた。セントジョンズとりで毎日まいにち砲撃ほうげきされ、とりでなか着実ちゃくじつ破壊はかいされていったが、プレストンはとりで守備しゅびつづけた。10月30にちにガイ・カールトンがとりで包囲ほういこうとしたこころみが失敗しっぱいし、結局けっきょく、プレストンは10週間しゅうかん包囲ほういの11月3にちに、援軍えんぐんのあてがなく、きたるべきふゆきびしさにそなえて住民じゅうみん助命じょめいのぞ降伏ごうぶくした。[36]

モントリオール占領せんりょう開始かいし[編集へんしゅう]

モントゴメリーは部隊ぶたいひきいてきたすすみ、11月8にちにセントローレンスがわにあるセントポールとう占領せんりょうし、翌日よくじつには対岸たいがんのポイントセントチャールズにわたるり、解放かいほうしゃとしてむかえられた[37]11月13にちてて抵抗ていこうけることもなくモントリオール陥落かんらくした。ガイ・カールトンはモントリオールまもれないと判断はんだんし、さらにセントジョンズ陥落かんらくしらせにかなりのかず民兵みんぺい脱走だっそうしたこともあってモントリオールから撤退てったいした[38]大陸たいりくぐん下流かりゅうがわかわわたって上陸じょうりくし、ふうのためにカールトンの戦隊せんたいぐに出発しゅっぱつできなかったので、あやうくつかまりそうになった。この戦隊せんたいがソレルのまち近付ちかづいたとき、白旗はっきかかげた1せきのボートがあらわれた。そのボートは降伏ごうぶく勧告かんこく書状しょじょうはこんできており、カールトンに降伏ごうぶくするかさもなければ下流かりゅう砲台ほうだいでその船団せんだん破壊はかいするとつたえてきた。カールトンは実際じっさいにそのような砲台ほうだいがあるかはっきりとはからなかったので、もし降伏ごうぶくしなければならなくなったときのために火薬かやく砲弾ほうだんてさせたのちで、船団せんだんひそかに発進はっしんさせるみちえらんだ(実際じっさい砲台ほうだいはあったが、その主張しゅちょうしていたほど強力きょうりょくではなかった[39])。11月19にち、イギリス戦隊せんたい降伏ごうぶくし、カールトンは平民へいみん服装ふくそうやつして[40]ケベックかってげた。捕獲ほかくしたふねにはイギリスぐんとらえていた捕虜ほりょっていた。そのなかにマサチューセッツまれでセントジョンズとりでちかくに土地とちっていた国外こくがい居住きょじゅうしゃモーゼス・ヘイズンがおり、イギリスぐん粗略そりゃくあつかわれたので、イギリスに反抗はんこうしていた。ヘイズンはモントゴメリーの軍隊ぐんたいくわわったが、元々もともとフレンチ・インディアン戦争せんそうでの戦闘せんとう体験たいけんがあり、その独立どくりつ戦争せんそうつうじてだい2カナダじん連隊れんたいひきいることになる[41]

モントゴメリーはモントリオールからケベックかうにまえ市民しみんにメッセージをはっし、大陸たいりく会議かいぎはケベックが仲間なかまはいり、大陸たいりく会議かいぎおく代表だいひょう選出せんしゅつするために植民しょくみん会議かいぎひら目的もくてきでアメリカへの同調どうちょうしゃとの討議とうぎはいることをのぞんでいることをつたえた。またスカイラー将軍しょうぐんには、外交がいこう目的もくてき大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうだん派遣はけんしてくれるよう要請ようせいする手紙てがみおくった[42]

大陸たいりくぐんのケベック遠征えんせい。このはモントゴメリーとアーノルドの遠征えんせいしめ

モントゴメリーぐん大半たいはんはモントリオール占領せんりょう徴兵ちょうへい期間きかんれてたいはなれた。モントゴメリーは捕獲ほかくしたふねやく300めい兵士へいしせて11月28にちにケベック出発しゅっぱつし、モントリオールにはデイビッド・ウースター将軍しょうぐん指揮しきやく200めいのこした[43]。モントゴメリーはケベックにかう途中とちゅうで、ジェイムズ・リビングストンがあらたに徴募ちょうぼしただい1カナダじん連隊れんたいやく200めい部隊ぶたいくわえた。

アーノルド遠征えんせいたい[編集へんしゅう]

2番目ばんめ遠征えんせいたいはベネディクト・アーノルドにひきいられた。大陸たいりく会議かいぎはアーノルドがてたカナダ侵攻しんこう計画けいかく大筋おおすじみとめたが、アーノルド自身じしんはその実行じっこう部隊ぶたいれられなかった。すげなくされたとかんじたアーノルドはマサチューセッツのケンブリッジもどり、ジョージ・ワシントンに接近せっきんして、ケベックシティを標的ひょうてきとした支援しえん部隊ぶたい東方とうほうからおくあん提案ていあんした[44]。6月のバンカーヒルのたたか以後いご、ボストンではほとんど戦闘せんとう状態じょうたいだったので、おおくの部隊ぶたい駐屯ちゅうとん任務にんむきてきており、戦闘せんとうすることをのぞんでいたこともあって、ワシントンはアーノルドの提案ていあん同意どういした。ワシントンはアーノルドを大陸たいりくぐん大佐たいさ任命にんめいし、二人ふたり守備しゅびたいまわ遠征えんせいたい志願しがんへいつのった。アーノルドは最終さいしゅうてきやく1000めいもの選出せんしゅつ[38]、ワシントンはそこにダニエル・モーガン部隊ぶたい何人なんにんかの狙撃そげきへいくわえた[45]バージニア植民しょくみんペンシルベニア植民しょくみんから開拓かいたくしゃたちは、包囲ほういせんよりもでの戦闘せんとういているとのかんがえからだった。

ケベックにけてケネベックがわさかのぼ行程こうてい20日はつかあいだに180マイル(290 km) すす必要ひつようがあった。アーノルドの遠征えんせいたいは、イギリスぐん指揮しきかんカールトンがモントリオールでスカイラーぐん対抗たいこうするのにいそがしいため、比較的ひかくてき抵抗ていこうもなくすすめるものと予測よそくしていた。アーノルドはウェスターンとりで先乗さきの部隊ぶたいおくり、物資ぶっしバトー平底ひらぞこせん)を用意よういさせた。遠征えんせいたいうみわたってウェスターンとりでまで5にち到着とうちゃくし、物資ぶっしをまとめせん準備じゅんびした。

ガーディナーストンのコルバーン造船ぞうせんしょで3日間にちかん滞在たいざいした。ここではリューベン・コルバーンがワシントンの要請ようせいこたえて15日間にちかんでバトーをつくげていたが、このバトーは乾燥かんそうした材木ざいもくられないために、したばかりのまつざいつくられていた。部隊ぶたい9月25にちにウェスターンとりではっした。そのさきは、ケネベックがわさかのぼり、またショーディエールがわくだってケベックにいたることが予定よていされていた。しかし用意よういされたバトーはオールでぐことができず、竿ざおをさしてすすむやりかただったため予定よていくるいがしょうじることとなった。コルバーンは軍隊ぐんたい同行どうこうし、バトーの修繕しゅうぜんかえしたが、かわさかのぼりまたながれのはやいショーディエールかわくだ過程かてい火薬かやくなどおおくの物資ぶっしすうにん人命じんめいうしなわれたうえ分水ぶんすいかい付近ふきん湿地しっちおお湖沼こしょう水路すいろあつまりであり、あめあらしちをけた[46]。この結果けっかロジャー・エノス中佐ちゅうさ部隊ぶたい300めいが、その物資ぶっしとも退却たいきゃくした[38]遠征えんせいたいってった地図ちずはイギリスぐん将来しょうらいてきあざむくために出版しゅっぱんした不正確ふせいかくなものだった。実際じっさい予定よていされた旅程りょていは180マイルではなく、350マイル (560 km)あった。その結果けっか物資ぶっし枯渇こかつしてしまい隊員たいいんたちは、れてったいぬくつ弾薬だんやくばこかわこけ樹皮じゅひなどをべざるをえなかった。

遠征えんせいたい11月6にちセントローレンスがわ南岸なんがん到着とうちゃくしたが、その時点じてんで1,100めいいた部隊ぶたいは600めいにまで減少げんしょうしていた。かれらは400マイル (640 km) ちかみちなきみち踏破とうはしてきていた。しかし、この時点じてんにおいてもアーノルドはまち奪取だっしゅできるとかんがえた。イギリスぐん守備しゅびへいは、アレン・マクリーン中佐ちゅうさ以下いか正規せいきぐんやく100めいと、すうひゃく装備そうび貧弱ひんじゃく民兵みんぺいであり、大陸たいりくぐん正確せいかく射撃しゃげき民兵みんぺいらしてしまえば、正規せいきぐんかず大陸たいりくぐん優位ゆういてるからだった。11月14にちエイブラハム平原へいげんいたときに、アーノルドは白旗はっきかかげた交渉こうしょうやくおくってイギリスぐん降伏ごうぶく要求ようきゅうしたがれられなかった。大陸たいりくぐん大砲たいほうく、ほとんど戦闘せんとうにはてきしていないまま、防御ぼうぎょかためたまちかいった。アーノルドは市内しないからの出撃しゅつげき計画けいかくされていることをみみにし、最近さいきんモントリオール占領せんりょうしたばかりのモントゴメリーぐんために、11月19にちにポイント・オ・トランブルまで後退こうたいした[47]。アーノルドが上流じょうりゅうかうあいだに、カールトンがかわづたいにケベックもどった[48]

12月2にち、モントゴメリーがモントリオールからかわくだり、500めい部隊ぶたいとイギリスぐんから捕獲ほかくした物資ぶっしふゆ衣類いるいってきた。この2つの部隊ぶたい合流ごうりゅうし、あらためてまち攻撃こうげきする作戦さくせんられた[49]。3にち大陸たいりくぐんふたたびエイブラハム平原へいげんち、ケベック包囲ほういはじめた[50]

ケベックのたたかいと包囲ほうい[編集へんしゅう]

ベネディクト・アーノルド、ケベックのたたかいで負傷ふしょうした

ケベック攻撃こうげき作戦さくせんてているときにトロワリビエールちかくにんでいるフランスじんクリストフ・ペリシエがモントゴメリーにうためにたずねてきた。ペリシエはアメリカがわ政治せいじてき支援しえんしており、セントモーリスで鉄工てっこうしょ経営けいえいしていた。モントゴメリーはかれ植民しょくみん会議かいぎ開催かいさいするかんがえについて議論ぎろんした。ペリシエはケベック占領せんりょうして、市民しみんたちにその安全あんぜん保障ほしょうされ自由じゆう行動こうどうできるようになるまでは、会議かいぎひらかないほうがいとった[51]2人ふたりあいだではペリシエの鉄工てっこうしょ包囲ほういせん必要ひつよう銃弾じゅうだん提供ていきょうすることで合意ごういし、それは1776ねん5がつ大陸たいりくぐん撤退てったいするまでつづいた。ペリシエはその逃亡とうぼうし、最後さいごはフランスにもどった[52]

合流ごうりゅうしケベックの包囲ほういをしていたモントゴメリーとアーノルドの部隊ぶたいであったが、実働じつどう可能かのうへいはおよそ1000めいしかおらず、さらに食糧しょくりょう不足ふそく天然痘てんねんとう、そしてふゆさむさにくるしめられていた[53]。そうしたなかおおくのへい軍隊ぐんたい在籍ざいせき期間きかんれる12月31にち目前もくぜんとした12月31にち午前ごぜん4戦闘せんとう開始かいしされた。アーノルドは自分じぶん部隊ぶたいを2けた。アーノルドが総勢そうぜい600めいひきいれてまち北側きたがわ攻撃こうげきし、モントゴメリーは300めい部隊ぶたい南側みなみがわ攻撃こうげきした。2つの攻撃こうげき部隊ぶたいはセントローレンスがわせっする1てんい、そこから防壁ぼうへきなか突入とつにゅうする手筈てはずだった。しかし、防御ぼうぎょ非常ひじょうかたちからしではちなかったうえ夜明よあまえ吹雪ふぶきがはじまっていた。モントゴメリーの部隊ぶたいかわ沿いにケープダイアモンドりょう堡のしたすすんでいたが、30めいのカナダじん民兵みんぺいもるバリケードにくわした。戦端せんたんひらかれ、最初さいしょ一斉いっせい射撃しゃげきでモントゴメリーがころされ、ほかにもおおくが死傷ししょうした。大陸たいりくぐん吹雪ふぶきなかでは使つかえないマスケットじゅうしかっていなかったので、反撃はんげきもうまくいかないまま川岸かわぎし退却たいきゃくした。

一方いっぽう、アーノルドはモントゴメリーの戦死せんし攻撃こうげき失敗しっぱいらないまま、北側きたがわのバリケードにかったが、まち防壁ぼうへきまもるイギリスぐん民兵みんぺい反撃はんげきけた。ソルト・オ・マテローというとおりにある道路どうろバリケードで、アーノルドはマスケットじゅうたまひだりくるぶし被弾ひだん後方こうほう搬送はんそうされた。アーノルドにわり副官ふっかんのダニエル・モーガンが指揮しきってこの道路どうろバリケードを突破とっぱした。しかしつぎ命令めいれいあいだに、大陸たいりくぐんとおりやちかくのいえなか民兵みんぺい攻撃こうげきにさらされ、イギリスぐん反撃はんげきでバリケードが再度さいど奪取だっしゅされたことで、モーガンとかれ部下ぶかせまとおりに孤立こりつしてしまい、モーガン部隊ぶたい降伏ごうぶくした[54]。10までにモーガン以外いがいにもまちのこされていた部隊ぶたい降伏ごうぶくし、戦闘せんとうわった。

この戦闘せんとうでアーノルドの部隊ぶたいは30めい以上いじょう死亡しぼうし(ほかにもはる雪解ゆきどに20めい以上いじょう発見はっけんされ、凍結とうけつしたかわえてげるあいだすうめいおぼれた)、モーガン以下いか426めい捕虜ほりょとなった。モントゴメリーの部隊ぶたいではすくなくとも12めいみなみ川岸かわぎし死傷ししょうした。一方いっぽう、イギリスぐん被害ひがいは、指揮しきかんガイ・カールトンによると、海軍かいぐん士官しかん1めいとフランスけいカナダじん民兵みんぺい5めい死亡しぼう正規せいきぐん兵士へいし4めい民兵みんぺい15めい負傷ふしょうだった。

アーノルドは戦闘せんとうモーゼス・ヘイズンともう一人ひとり国外こくがい居住きょじゅうしゃであるエドワード・アンティルを、モントリオールにいるデイビッド・ウースターとフィラデルフィアの大陸たいりく会議かいぎ敗北はいぼく報告ほうこく援軍えんぐん要請ようせいするために派遣はけんした[55]。 カールトンは大陸たいりくぐん追撃ついげきしないことにめ、防御ぼうぎょ工作こうさくぶつなかまるみちえらび、はるになってかわこおりければ期待きたいできる援軍えんぐんつことにした。アーノルドは兵力へいりょくが3たい1になっても効力こうりょくいケベック包囲ほういつづけたが、1776ねん3がつにモントリオールにもどり、ウースター将軍しょうぐん交代こうたいするようめいじられた。この期間きかん包囲ほういぐんきびしい冬季とうき気象きしょう条件じょうけんくるしみ、天然痘てんねんとう宿営しゅくえいしょ蔓延まんえんはじめた。これらによる損失そんしつ毎月まいつき到着とうちゃくするちいさな中隊ちゅうたい単位たんい援軍えんぐんがあっても勢力せいりょく相殺そうさいされた[56]。3月14にち下流かりゅう製材せいざい業者ぎょうしゃのジャン=バティスト・シャシュールがケベックはいって、カールトンにかわ南岸なんがんにいる200めい大陸たいりくぐん対抗たいこうする用意よういがあることをつたえた[57]。これらにくわえてさらにおおくが動員どういんされたが、前衛ぜんえい部隊ぶたいサンピエールのたたかで、かわ南岸なんがん駐屯ちゅうとんしていたアメリカ地元民じもとみん兵隊へいたい派遣はけん部隊ぶたいによって敗北はいぼくした[58]

3がつジョン・トーマス将軍しょうぐんひきいられた大陸たいりくぐん援軍えんぐん到着とうちゃくし、総勢そうぜいは3,000めいまで回復かいふくしたが、おも天然痘てんねんとうのためにその4ぶんの1はたたかえなかった。さらには、ロイヤリストの執拗しつよう情報じょうほう宣伝せんでんのために、500めいのカナダじん指揮しきしていたリビングストンとヘイズンがその兵士へいし協力きょうりょく市民しみん忠誠ちゅうせいしんについて悲観ひかんてきになった[59]

モントリオールでの不満ふまん[編集へんしゅう]

モントリオール地図ちず、1744ねん

モントゴメリー将軍しょうぐんはモントリオールをってケベックかうさい管理かんりをコネチカット出身しゅっしんのデイビッド・ウースターじゅんしょうあづけていた。ウースターは当初とうしょそこの地域ちいき社会しゃかいとまともな関係かんけいきずいていたが、地元じもと大衆たいしゅうがアメリカの軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんしていることをきらはじめるようなおおくの失政しっせいおこなった。アメリカじんいだ理想りそう大衆たいしゅう約束やくそくしたのちでロイヤリストを逮捕たいほし、アメリカがわ楯突たてつものだれでも逮捕たいほ刑罰けいばつおどすようになった[60]。またいくつかの地域ちいき社会しゃかい武装ぶそう解除かいじょさせ、地元じもと民兵みんぺい隊員たいいんにはイギリスからの任命にんめい放棄ほうきするよう強制きょうせいし、それをこばんだもの逮捕たいほされシャンブリーとりで拘禁こうきんされた[61]。このような行動こうどうは、アメリカがわ物資ぶっし労働ろうどうたいして硬貨こうかではなく紙幣しへいはらっていたという事実じじつあいまって、アメリカがわがやろうとしていること全体ぜんたいたいする地元じもと住民じゅうみん幻滅げんめつむことになった。1776ねん3がつ20日はつか、ウースターはケベック包囲ほういちゅう部隊ぶたい指揮しきるためにモントリオールをはなれ、アーノルドが到着とうちゃくする4がつ19にちまでのあいだだい2カナダじん連隊れんたいげたモーゼス・ヘイズンにモントリオールの管理かんりゆだねた[62]

4がつ29にち大陸たいりく会議かいぎからの代表だいひょうだん3にんが、フィラデルフィアからのカトリックの聖職せいしょくしゃ1にんやフランスじん出版しゅっぱんしゃ1にんともにモントリオールに到着とうちゃくした。大陸たいりく会議かいぎはこの代表だいひょうだんに、ケベックの状況じょうきょう評価ひょうかし、そこでの世論せろんをアメリカがわ誘導ゆうどうするような任務にんむてていた。代表だいひょうだんにはベンジャミン・フランクリンもいたが、すで住民じゅうみんとの関係かんけいがひどく悪化あっかしていたので、ほとんどなにもできなかった。代表だいひょうだん累積るいせきされていた住民じゅうみんへの負債ふさい解決かいけつするために硬貨こうかってきたわけでもなかった。カトリックの聖職せいしょくしゃがアメリカがわ大義たいぎにつかせようとしたが、これも失敗しっぱいした。地元じもと聖職せいしょくしゃイギリスの議会ぎかいによって成立せいりつしていたケベックほうかれらののぞむことはあたえられていると指摘してきした。出版しゅっぱんしゃのフルーリー・メスプレは新聞しんぶん発行はっこう準備じゅんびをする一方いっぽうで、代表だいひょうだんにとって事態じたい空回からまわりしはじめるまえなにかをする時間じかんかった[63]。ケベック大陸たいりくぐんがパニック状態じょうたいおちいって退却たいきゃくをしているというしらせをけたのち[64]、フランクリンと聖職せいしょくしゃは5月11にちにモントリオールをはなれ、フィラデルフィアにもどった。代表だいひょうだんほか2人ふたりサミュエル・チェイスとチャールズ・キャロルはモントリオールの南部なんぶ東部とうぶ軍事ぐんじてき状況じょうきょう分析ぶんせきし、そこが防御ぼうぎょせんこう位置いちだとかった。5月27にちかれらは大陸たいりく会議かいぎたいするこの事態じたい報告ほうこくしょき、みなみけて出発しゅっぱつした[65]

セネカぞく酋長しゅうちょうコーンプランター、イギリスがわ指示しじし、この作戦さくせんたたかった可能かのうせいがある

シーダーズ[編集へんしゅう]

モントリオールの上流じょうりゅうには、大陸たいりくぐん占領せんりょうちゅうかいさなかったイギリスぐんちいさな駐屯ちゅうとんならんでいた。はる近付ちかづくと、カユガぞく、セネカぞくおよびミシソーガぞく戦士せんしたち駐屯ちゅうとんひとつであるオスウェガッチーにあつまりはじめ、そこの指揮しきかんであるジョージ・フォスター大尉たいいにアメリカに対抗たいこうできるだけのちからあたえた[66]。フォスターはモントリオールからげてきた1人ひとりのロイヤリストのすすめでかれらを戦力せんりょくふくめた[64]。さらにウースター将軍しょうぐん上流じょうりゅうがわ物資ぶっしおくればそこのイギリスがわ使つかわれることをおそれて上流じょうりゅうのインディアンとの交易こうえき許可きょかしておらず、愛国あいこくしゃがわおよびロイヤリストがわ商人しょうにんたちにとってなやみのたねだったが、大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうだんがこの決定けっていくつがえしたので物資ぶっし上流じょうりゅうがわながはじめた[67]

モーゼス・ヘイズンは上流じょうりゅうのイギリスがわ物資ぶっしながれることを阻止そしするため、またインディアンがあつまっているといううわさ反応はんのうし、ティモシー・ベデル大佐たいさと390めい部隊ぶたいを40マイル (64 km) 上流じょうりゅうのレ・セドル(英語えいごでザ・シーダーズ)という地点ちてん派遣はけんし、そこでしがらみかこんだ防御ぼうぎょ工作こうさくぶつつくらせた[67]。フォスターはこのうごきをインディアンのスパイやロイヤリストかららされ、6月15にちにインディアン、民兵みんぺいおよび正規せいきへい混成こんせい部隊ぶたいやく250めい下流かりゅうへの行軍こうぐんはじめた。ふくすうかい戦闘せんとう(シーダーズのたたかい)のなかで、ベデルの副官ふっかんアイザック・バターフィールドが18にちたたかわずしてぜんぐん降伏ごうぶくし、援軍えんぐんとしておくられた100めいも19にち短時間たんじかん小競こぜいののち降伏ごうぶくした[68]

カンズシェーヌ[編集へんしゅう]

アーノルドはバターフィールドがつかまったというしらせをると、即座そくざにこれら捕虜ほりょ奪還だっかんのために部隊ぶたいあつはじめ、モントリオールから上流じょうりゅうのラシーンで塹壕ざんごうらせた。レ・セドルの防御ぼうぎょしがらみない捕虜ほりょいたフォスターはこのとき500めいほどになった部隊ぶたいでモントリオールに接近せっきんし、5月24にちまでにアーノルド部隊ぶたい位置いち情報じょうほうつかみ、またアーノルドがたい凌駕りょうがするような増援ぞうえん期待きたいしていることもった。フォスターの部隊ぶたいへいすうりつつあったので、セントジョンズとりで包囲ほういせん捕虜ほりょになっていたイギリスへいいまつかまえているアメリカへい交換こうかん交渉こうしょうした。カンズシェーヌで短時間たんじかん砲撃ほうげきわされたのち、アーノルドも捕虜ほりょ交換こうかんおうじ、5月27にちから30にちあいだ実施じっしされた[69]

ケベック到着とうちゃくした援軍えんぐん[編集へんしゅう]

ジョン・バーゴイン将軍しょうぐん、イギリスがわ援軍えんぐん指揮しきかん

大陸たいりくぐん[編集へんしゅう]

ウースター将軍しょうぐんは4がつ初旬しょじゅん援軍えんぐんひきいてケベック郊外こうがい大陸たいりくぐん宿営しゅくえい到着とうちゃくした。さらにみなみから少数しょうすう援軍えんぐん到着とうちゃくつづけ、4がつまつジョン・トーマス将軍しょうぐん到着とうちゃくして指揮しきいだときぜんぐんは2,000めい以上いじょうになったが、実際じっさいには天然痘てんねんとうやカナダのふゆきびしさのためにかなりっていた。5月2にちにイギリスの艦船かんせんかわのぼってくるといううわさながれたため、トーマスは5月5にち病人びょうにんトロワリヴィエールまで退しりぞかせ、のこった部隊ぶたい実行じっこうできるかぎはや撤退てったいすることにめた。そのおそく、15せきのイギリスがわ艦船かんせんがケベック下流かりゅう40リーグ (190 km) にり、かわさかのぼるための好条件こうじょうけんっているというしらせがはいった。翌日よくじつ艦船かんせんのマストを視認しにんできたときには、宿営しゅくえい退去たいきょうごきがあわただしいものになった。風向かざむきがわり、艦隊かんたいなかの3せきがケベックまでたっした[70]

イギリスぐん[編集へんしゅう]

レキシントン・コンコードのたたかいのしらせがロンドンとどいたのちフレデリック・ノース内閣ないかく反逆はんぎゃくしゃぐんたたかため外国がいこく軍隊ぐんたい支援しえん必要ひつようになると理解りかいし、きたアメリカでヨーロッパ同盟どうめいこく部隊ぶたい使つかわせてもらえるよう交渉こうしょうはじめた。ロシア帝国ていこくエカチェリーナ2せいからは拒絶きょぜつされたが、ドイツの諸侯しょこうこくからは支援しえん用意よういがあることがつたえられた。1776ねんにイギリスがげた5まんめい軍隊ぐんたいのうち、3ぶんの1ちかくはこれら諸侯しょこうこくからの兵士へいしだった。ヘッセン=カッセルかたはくりょうやヘッセン=ハーナウからの兵士へいしはヘシアンとばれるようになった[71]。5まんめいのうち、やく11,000めいはケベックでの従軍じゅうぐんおくられた[72]。ヘッセン=ハーナウとブラウンシュヴァイク=リューネブルクからの兵士へいしは1776ねん2がつアイルランドコークにむけて出帆しゅっぱんし、そこでイギリスぐんはこ輸送ゆそう船団せんだん合流ごうりゅうし、4がつ初旬しょじゅん出港しゅっこうした[73]

カールトンは大陸たいりくぐん宿営しゅくえいうごきがあることをり、到着とうちゃくした艦船かんせんからぐに援軍えんぐんろすと、正午しょうごごろには大陸たいりくぐんさぐりをれるためにやく900めい部隊ぶたい前進ぜんしんした。これを大陸たいりくぐんはまさに恐慌きょうこう状態じょうたいおちいった。カールトンたい前進ぜんしんはやめるとさんみだした撤退てったいはさらに悲惨ひさん状態じょうたいていした。カールトンはぬるいやりかたでも反逆はんぎゃくしゃぐんてるとおも[74]艦船かんせん上流じょうりゅうおくって大陸たいりくぐんいやがらせをおこなわせ、おそらくはさえぎってくれることを期待きたいして満足まんぞくしていた。カールトンは大半たいはん病人びょうにん負傷ふしょうしゃ大陸たいりくぐん兵士へいしおおつかまえたが、セントローレンスがわ南岸なんがん遺棄いきされていた分遣ぶんけんたいらえた。大陸たいりくぐんげるのにいそがしく、大砲たいほう火薬かやくなど貴重きちょう軍需ぐんじゅ物資ぶっしおおくものこしていった[74]大陸たいりくぐんは5月7にちに、ケベックからやく40マイル (64 km) 上流じょうりゅうのデシャンボーでさい結集けっしゅうした。トーマスはそこで作戦さくせん会議かいぎひらいたが、指揮しきかんたちの大半たいはん退却たいきゃく賛成さんせいした。トーマスはデシャンボーに500めいのこし、のこ部隊ぶたいはソレルにくことをめ、兵士へいしおおくがその背嚢はいのうるものもほとんどく、食糧しょくりょう数日すうじつぶんしかかったのでモントリオールに援助えんじょあお伝令でんれいおくった[75]

モントリオールにいた大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうだんはこのしらせにせっして、セントローレンスがわまもることは不可能ふかのう判断はんだんし、デシャンボーには極少きょくしょうすう部隊ぶたい派遣はけんしただけだった。トーマスはモントリオールからのしらせを6日間にちかんち、なにられなかったので、トロワリビエールにけての退却たいきゃくはじめたが、そのあいだもなくかわのイギリスかんからりた部隊ぶたいとの小競こぜいがはじまった。大陸たいりくぐんは5月15にちにトロワリヴィエールに到着とうちゃくし、そこでは病人びょうにんのこし、またかれらをまもるためのニュージャージ出身しゅっしん分遣ぶんけんたいのこした。18にちまでにのこりの部隊ぶたいはソレルでウィリアム・トンプソン指揮しき援軍えんぐん合流ごうりゅうし、21にちには大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうだんとの作戦さくせん会議かいぎたれた。トーマスはその天然痘てんねんとう発病はつびょうし、6月2にちんだ。後継こうけいはトンプソンになった[76]

カールトンの反撃はんげき[編集へんしゅう]

ガイ・カールトン

1776ねん5がつ6にち、イギリス海軍かいぐんのチャールズ・ダグラスうみじょう指揮しきするしょう戦隊せんたい補給ほきゅう物資ぶっしと3,000めい兵士へいしんでケベック開放かいほうのために到着とうちゃくした。イギリスがわ艦船かんせんがケベックシティに到着とうちゃくしたことで、大陸たいりくぐん予定よていよりはやくソレルまでの撤退てったいすることとなった[70]。しかしカールトン将軍しょうぐんはしばらくのあいだ積極せっきょくてき攻勢こうせいらず、5月22にちになってからだい47およびだい29連隊れんたいともにトロワリヴィエールにかった。レ・セドルでフォスターたいがうまく成果せいかおさめたほうせっすると、攻勢こうせいけるわりにケベックもどり、トロワリヴィエールの部隊ぶたい指揮しきはアレン・マクリーンにまかせた。ケベックでは6がつ1にち到着とうちゃくしたジョン・バーゴイン将軍しょうぐん面会めんかいした。バーゴインは大半たいはんがアイルランドからの募兵ぼへいとヘシアンからなるだい部隊ぶたい豊富ほうふ資金しきんはこんできていた[77]

トロワリヴィエール[編集へんしゅう]

ソレルに大陸たいりくぐんは、トロワリヴィエールには「わずか300めい」がいるだけとの情報じょうほうてので、ソレルからトロワリヴィエールに部隊ぶたい派遣はけんして占領せんりょうもどってこられると判断はんだんした。トンプソン将軍しょうぐんはイギリスぐん援軍えんぐん主力しゅりょく到着とうちゃくしたことをらず、またそのまち地形ちけい無視むししたままに2,000めい部隊ぶたいひきいてその湿地しっちすすみ、そこで兵力へいりょく増強ぞうきょう塹壕ざんごうかくしたイギリスぐん待伏まちぶ攻撃こうげきけた(トロワリビエールのたたか)。大陸たいりくぐんはトンプソンと上級じょうきゅう士官しかん多数たすうそして兵士へいし200めいらが捕虜ほりょとなり、遠征えんせい使つかってきた船舶せんぱくもイギリスぐん捕獲ほかくされるなどの損害そんがいし、この結果けっか大陸たいりくぐんにとってケベック地方ちほう占領せんりょうわりを暗示あんじするものになった。このときジョン・サリバン指揮しきしていた大陸たいりくぐんもソレルから撤退てったいしているが[78]、カールトンはこのときもその利点りてんけこもうとはせず、8がつには寛大かんだいにも捕虜ほりょをニューヨークにもどすことまでやった[79]

クラウンポイントへの退却たいきゃく[編集へんしゅう]

6月14にち早朝そうちょう、カールトンはついにかわ遡上そじょうしてソレルに進軍しんぐんした。そのおそ到着とうちゃくしたときには、大陸たいりくぐんがそのあさにソレルを放棄ほうきしてシャンブリーとセントジョンズにけてリシュリューがわのぼりつつあることがかった。ケベックからの後退こうたいときとはことなり、大陸たいりくぐんはいくらか秩序ちつじょだった後退こうたいおこなっていたが、カールトン艦隊かんたい到着とうちゃくによって本隊ほんたいはなれ、アーノルドの部隊ぶたい合流ごうりゅうするためにモントリオールにかった部隊ぶたいもあった[80]。カールトンはバーゴインに4,000めい部隊ぶたいひきいてリシュリューがわのぼらせだい陸軍りくぐんのちわせる一方いっぽう自分じぶんはモントリオールにかって帆走はんそうつづけた[81]

モントリオールではアーノルドが下流かりゅうこっている事態じたいらず、フォスターとの交渉こうしょうえたばかりだった。5月15にちにサリバン将軍しょうぐんからのしらせをけるために下流かりゅうのソレルにおくった伝令でんれいがカールトンの艦隊かんたい目撃もくげきし、きしのがれてぬすんだうまでモントリオールまでもどってそのしらせをつたえた[81]。アーノルドとモントリオール周辺しゅうへんにいた守備しゅびたい伝令でんれいほうけてから4あいだうち放棄ほうきし(モントリオールとそうとはしなかった)、地元じもと民兵みんぺいたいゆだねた。カールトンの艦隊かんたいは6がつ17にちにモントリオール到着とうちゃくした[82]

USS フィラデルフィアバルカーとうたたか参戦さんせんした

アーノルドの部隊ぶたいは17にちにセントジョンズちかくで本隊ほんたいいついたが[82]本隊ほんたいであるサリバンの軍隊ぐんたいたたかえる状態じょうたいではなく、簡単かんたん作戦さくせん会議かいぎによってクラウンポイントまで退却たいきゃくすることがまった。この軍隊ぐんたいはバーゴインの前衛ぜんえい部隊ぶたい到着とうちゃくする文字通もじどおりまさにその瞬間しゅんかんにセントジョンズをはなれた[83]

大陸たいりくぐん残党ざんとうは7がつ初旬しょじゅんにクラウンポイントに到着とうちゃくした。この作戦さくせん大半たいはん経験けいけんした医者いしゃであるアイザック・センターが「おそらくはどこのくに年譜ねんぷにも見出みいださせないような特異とくいくらべようも挫折ざせつくるしみの均一きんいつ連鎖れんさ」と表現ひょうげんした作戦さくせんわりだった[84]。ケベックでの敗北はいぼく決定的けっていてきとなったが[53]、イギリスぐんはまだうごいていたので、作戦さくせん完全かんぜんにはわっていなかった。

造船ぞうせん政治せいじ[編集へんしゅう]

大陸たいりくぐんはリシュリューがわとシャンプレーン撤退てったいするとき、イギリスぐんのこされた船舶せんぱく使つかえないよう、撤退てったいするごとに用心深ようじんぶかくそれらをきあるいはしずめていった。このことでイギリスぐん船舶せんぱく建造けんぞうするため数ヶ月すうかげつようすることになったが、カールトンは9月28にちにロンドンにてて報告ほうこくしょおくり、「わたしはこの艦隊かんたいもなく出帆しゅっぱんでき、戦闘せんとうられる成功せいこう期待きたいしている。」とつたえた[85]。アーノルドはイーサン・アレンとともに1775ねん5がつにタイコンデロガとりで占領せんりょうしたときちいさな海軍かいぐんつくっており、それがこのときもシャンプレーン偵察ていさつしていた。

イギリスぐんがアーノルドの戦隊せんたい対抗たいこうするために海軍かいぐんつくっているあいだに、カールトンはモントリオールの事後じご処理しょりおこなった。カールトンは、大陸たいりくぐん撤退てったいするまえのケベックにおいても、地元じもと愛国あいこくしゃがわ同調どうちょうしゃえんじた役割やくわり調査ちょうさする委員いいんかい形成けいせいしており、委員いいん田園でんえん派遣はけんしてアメリカがわ活動かつどう積極せっきょくてき参加さんかしたもの逮捕たいほした。そのなかにはロイヤリストを拘束こうそくしたものふくまれた[86]。カールトンは、モントリオールに到着とうちゃくしたときにも同様どうよう委員いいんかい設定せっていした[85]

バルカーとうたたかいでの隊形たいけいしめ地図ちず

バルカーとう[編集へんしゅう]

7がつ初旬しょじゅんホレイショ・ゲイツ将軍しょうぐん大陸たいりくぐん北部ほくぶ方面ほうめんぐん指揮しきまかされた。ゲイツはぐにぐん主力しゅりょくをタイコンデロガにうつし、クラウンポイントにはやく300めい部隊ぶたいのこした。ゲイツ将軍しょうぐん主力しゅりょく部隊ぶたいはタイコンデロガの防御ぼうぎょあつくすることに専念せんねんし、アーノルドにはクラウンポイントでアメリカ艦隊かんたい建造けんぞうする任務にんむあたえられた。なつあいだ、タイコンデロガとりで援軍えんぐんおくられ、総勢そうぜい推計すいけい1まんめいにもなった[87]

カールトンは10月7にち行軍こうぐんはじめた。9にちにはイギリス艦隊かんたいがシャンプレーン湖上こじょうかんだ。10日とおかから11にちよるはじまったバルカーとうみずうみ西海岸にしかいがん付近ふきんでのたたかいでは、イギリスぐんがアーノルドの艦隊かんたいおおきな損傷そんしょうさせ、クラウンポイントまで撤退てったいさせた。アーノルドはクラウンポイントではイギリスぐん攻撃こうげきたいしてえられないとかんがえ、さらにタイコンデロガまで後退こうたいした。イギリスぐんは10月17にちにクラウンポイントを占領せんりょうした[88]

カールトンの軍隊ぐんたいはクラウンポイントに2週間しゅうかんまり、いくらかの部隊ぶたいはタイコンデロガとりでから3マイル (5 km) のところまで進出しんしゅつし、ゲイツの軍隊ぐんたいさそそうとしたが効果こうかなく、11月2にち、ケベックで冬季とうき宿営しゅくえいおこなうためにクラウンポイントから撤退てったいした[89]

たたかいののち[編集へんしゅう]

ケベック侵攻しんこうはアメリカにとって悲惨ひさん結果けっかわったが、ケベックからの撤退てったいにおけるアーノルドの行動こうどうとシャンプレーンでの即席そくせき海軍かいぐんはイギリスぐん全面ぜんめんてき反撃はんげきを1777ねんまでおくらせることにこうがあったとされている[90]一方いっぽうカールトンは、大陸たいりくぐんのカナダからの撤退てったい徹底てっていして追撃ついげきしなかったためにバーゴインからきびしく批判ひはんされた[91]。この批判ひはんと、カールトンが本国ほんごく植民しょくみん問題もんだい担当たんとう大臣だいじん国王こくおうジョージ3せい政府せいふ戦争せんそう遂行すいこう担当たんとうしゃだったジョージ・ジャーメインきょうきらわれていたという事実じじつのために、サラトガ方面ほうめん作戦さくせん指揮しきはジョン・バーゴインにまかされることになった。このことはカールトンがケベック総督そうとくする遠因えんいんともなった[92]

ケベックやそののイギリスりょう植民しょくみん征服せいふくすることは、独立どくりつ戦争せんそうあいだ大陸たいりく会議かいぎ目標もくひょうでありつづけた。しかし当初とうしょこの遠征えんせい支持しじしていたジョージ・ワシントンが、これ以上いじょう遠征えんせいは13植民しょくみんでの主戦しゅせんせんから兵力へいりょく資源しげんをあまりにおお分散ぶんさんさせるものとして優先ゆうせん順位じゅんいひくくしてからはケベックにけての遠征えんせいはほとんど実現じつげんしなかった[93]

1783ねんパリ条約じょうやく交渉こうしょうのとき、アメリカの代表だいひょうだん戦利せんりひん一部いちぶとしてケベックすべてを要求ようきゅうしたが失敗しっぱいした。ベンジャミン・フランクリンがおも関心かんしんいていたのは1774ねんのケベックほうによってケベックの一部いちぶとされていたオハイオ領土りょうどで、この和平わへい会談かいだんではケベックのわたしを提案ていあんし、オハイオのみが割譲かつじょうされた[94]

1812ねんべいえい戦争せんそうで、アメリカは再度さいどイギリスりょうきたアメリカへの侵攻しんこう開始かいしした。このときも地元じもと民衆みんしゅうがアメリカを支持しじするものと期待きたいしていた。その侵略しんりゃく失敗しっぱいしたことはカナダの歴史れきしでも重要じゅうようなこととなされており、現代げんだいのカナダのアイデンティティがまれたとわれている[95]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大陸たいりくぐん戦力せんりょくは、なん援軍えんぐんおくられ、またおおくのもの病気びょうきになっておくかえされたりんだりしたために集計しゅうけいむずかしい。1776ねん5がつ時点じてんでの軍隊ぐんたいは5,000めい推計すいけいされたが、かなりの比率ひりつ軍務ぐんむには不適ふてきものふくまれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気びょうき徴兵ちょうへい期間きかん終了しゅうりょうのために故郷こきょうもどったものや、以前いぜん戦闘せんとう戦死せんしまたは捕虜ほりょになったもの、あるいはアーノルド遠征えんせいかえしたものふくんでいない。1776ねん6がつ、ジョン・サリバンが3,000めい以上いじょうひきいてソレルに到着とうちゃくした (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征えんせいたいが500めいうしない (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックのたたかいで400めい以上いじょう捕虜ほりょになり、すくなくとも900めいはセントジョンズとりで包囲ほういちゅう病気びょうき送還そうかんされたとすれば、10,000めいという推計すいけいはケベックにおくられた勢力せいりょくとして合理ごうりてきなものになる。ただし実働じつどう可能かのうであったへいすうはどの時点じてんにおいてもこの推計すいけいよりかなりすくなかったとかんがえられる。
  2. ^ Simeon, p. viiにれば、大陸たいりくぐん侵略しんりゃく開始かいし時点じてんでのイギリスぐん正規せいきへい700めいだった。セントジョンズとりでとケベックでは民兵みんぺい支援しえんがあったとされ、主要しゅようたたかいでは総勢そうぜいが1,800めいになっていた(Smith (1907), vol 1, pp. 342-3 and Alden, p. 209)。1776ねん6がつにチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインのひきいる援軍えんぐん到着とうちゃくし、総勢そうぜいは10,000めい民兵みんぺいさらにインディアンとなった(Smith (1907), vol 2, p. 430)。
  3. ^ ペッカム (2002) , p.55
  4. ^ Smith (1907), vol 1, p. 242
  5. ^ Kingsford (vol 5), pp. 1-10
  6. ^ a b c 木村きむら (1999), p.118
  7. ^ ペッカム (2002) , p.52
  8. ^ Kingsford (vol 5), p. 391
  9. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 182-183
  10. ^ Alden, pp. 195-198
  11. ^ Smith (1907), vol 1, p. 178
  12. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 179-242
  13. ^ a b Alden, p. 202
  14. ^ Coffin, pp. 496-497
  15. ^ Alden, p. 199
  16. ^ Lanctot, p. 53
  17. ^ O'Toole, 240, 374n2.
  18. ^ Smith (1907), vol 1, p. 293
  19. ^ a b c Glatthaar (2006), p. 91
  20. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 295-296
  21. ^ Glatthaar (2006), pp. 91-93
  22. ^ 木村きむら (1999), p.120
  23. ^ Glatthaar (2006), p. 93
  24. ^ Glatthaar (2006), p. 94
  25. ^ Lossing, pp. 227-228
  26. ^ a b ペッカム (2002) , p.53
  27. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 309-310
  28. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 291-292
  29. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 317-324.
  30. ^ Smith (1907), vol 1, p. 357
  31. ^ Glatthaar (2006), p. 97
  32. ^ Glatthaar (2006), p. 98
  33. ^ Smith (1907), vol 1, p. 335
  34. ^ Smith (1907), vol 1, p. 384
  35. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 388, 410
  36. ^ Lossing, p. 229
  37. ^ Smith (1907), vol 1, p. 474
  38. ^ a b c ペッカム (2002) , p.54
  39. ^ Stanley, pp. 67-70
  40. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 487-490
  41. ^ Everest, pp. 31-33
  42. ^ Gabriel, p. 141
  43. ^ Shelton, pp. 122-127
  44. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 398-399
  45. ^ Smith (1907), vol 1, p. 515
  46. ^ Arnold's expedition is described in detail in e.g. Smith (1903) and Desjardins (2006).
  47. ^ Simeon, p. xiv
  48. ^ Kingsford (vol 5), p. 463
  49. ^ Alden, p. 206
  50. ^ Smith (1907), vol 2, p. 98
  51. ^ Gabriel, pp. 185-186
  52. ^ Proc. RSC 1886, pp. 85-86
  53. ^ a b ペッカム (2002) , p.55
  54. ^ Smith (1907), vol 2, pp. 111-147
  55. ^ Everest, p. 35
  56. ^ Lanctot, p. 126
  57. ^ Lanctot, p. 130
  58. ^ Lanctot, pp. 131-132
  59. ^ Lanctot, p. 133
  60. ^ Stanley, p. 110
  61. ^ Stanley, p. 111
  62. ^ Stanley, pp. 112-113
  63. ^ Stanley, p. 115
  64. ^ a b Lanctot, p. 141
  65. ^ Stanley, p. 116
  66. ^ Stanley, p. 117
  67. ^ a b Stanley, p. 118
  68. ^ Stanley, pp. 119-121
  69. ^ Stanley, pp. 121-123
  70. ^ a b Smith (1907), vol 2, pp. 294-295
  71. ^ Nickerson, p. 46
  72. ^ Nickerson, p. 92
  73. ^ Ketchum, pp. 89-96
  74. ^ a b Lanctot, p. 139
  75. ^ Smith (1907), volume 2, pp. 345-346
  76. ^ Stanley, pp. 126-127
  77. ^ Stanley, pp. 126-127
  78. ^ Stanley, pp. 127-128
  79. ^ Stanley, p. 128
  80. ^ Stanley, p. 129
  81. ^ a b Stanley, p. 130
  82. ^ a b Stanley, p. 131
  83. ^ Stanley, p. 132
  84. ^ Stanley, pp. 132-133
  85. ^ a b Stanley, p. 134
  86. ^ Stanley, p. 124
  87. ^ Stanley, p. 136
  88. ^ Stanley, pp. 137-143
  89. ^ Stanley, p. 144
  90. ^ Morrissey, p. 87
  91. ^ Nickerson, p. 71
  92. ^ Nickerson, p. 102
  93. ^ Smith (1907), volume 2, pp. 459-552
  94. ^ Rideau, Roger. A Brief History of Canada. Facts on File. pp. 79 
  95. ^ Dale, p. 8

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 木村きむら和男かずお へんだい4しょう イギリス植民しょくみんとしての発展はってん」『新版しんぱん世界せかい各国かっこく23 カナダ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1999ねんISBN 978-4-634-41530-0 
  • ハワード・H・ペッカムちょ松田まつだたけし翻訳ほんやく『アメリカ独立どくりつ戦争せんそう - られざるたたかい』いろどりりゅうしゃ、2002ねんISBN 978-4882027782 

その参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bird, Harrison (1968). Attack on Quebec. Oxford University Press 
  • Codman, John (1902). Arnold's Expedition to Quebec 
  • Desjardin, Thomas A (2006). Through a Howling Wilderness: Benedict Arnold's March to Quebec, 1775. St. Martin's Press. ISBN 0-312-33904-6 
  • Hatch, Robert McConnell (1979). Thrust for Canada: The American Attempt on Quebec in 1775-1776. Houghton Mifflin. ISBN 0-395-27612-8 
  • Roberts, Kenneth Lewis (1980). March to Quebec: Journals of the Members of Arnold's Expedition. Down East Books. ISBN 9780892720835 
  • Rumilly, Robert (1970). Histoire de Montreal. Volume 2. Fides