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ベネディクト・アーノルド

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベネディクト・アーノルド
Benedict Arnold
ベネディクト・アーノルド(ジョン・トランブルをH・B・ホールが版画はんがにしたもののうつし)hi
生誕せいたん 1741ねん1がつ14にち
コネチカット植民しょくみんノリッジ
死没しぼつ 1801ねん6月14にち
イングランドの旗 イングランドロンドン
所属しょぞく組織そしき コネチカット民兵みんぺい
大陸たいりくぐん
イギリス陸軍りくぐん
ぐんれき 1756ねん-1759ねん(コネチカット民兵みんぺい
1775ねん-1780ねん大陸たいりくぐん
1780ねん-1781ねん(イギリス陸軍りくぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう じゅんしょう大陸たいりくぐん)、じゅんしょう(イギリス陸軍りくぐん
指揮しき フィラデルフィア軍事ぐんじ指揮しきかん、ウェストポイントとりで指揮しきかん
戦闘せんとう フレンチ・インディアン戦争せんそう
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう
*タイコンデロガとりで奪取だっしゅ
*カナダ侵攻しんこう作戦さくせん
*バルカーとうたたか
*サラトガのたたか
署名しょめい
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ベネディクト・アーノルド5せいえい: Benedict Arnold V1741ねん1がつ14にちユリウスれきでは1740ねん1がつ3にち[1][2] - 1801ねん6月14にち)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうでの大陸たいりくぐん将軍しょうぐんである。様々さまざま戦功せんこうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつおおきく寄与きよしながらも、アメリカがわ将軍しょうぐんであるときニューヨークウェストポイントとりでイギリスぐんへのその引渡ひきわたしを画策かくさくしたことでられている。この謀略ぼうりゃく未遂みすいわったのちはイギリスぐんつかえた。

アーノルドはその狡猾こうかつさと勇敢ゆうかんさで独立どくりつ戦争せんそう初期しょき頭角とうかくあらわした。その功績こうせきとしては1775ねんタイコンデロガとりで奪取だっしゅ1776ねんシャンプレーンにおけるバルカーとうたたか敗北はいぼくしながらもふせてき侵攻しんこうおくらせた戦術せんじゅつコネチカット植民しょくみんでのリッジフィールドのたたかい(こののち少将しょうしょう昇進しょうしんした)、および戦争せんそう転換てんかんてんとなった1777ねんサラトガのたたかげられる。サラトガではあし負傷ふしょうして、そのすう年間ねんかん戦歴せんれきむことができなくなった。

アーノルドはその成功せいこうにもかかわらず、昇進しょうしんでは大陸たいりく会議かいぎ見送みおくられ、そのおおくの功績こうせき将官しょうかんたち横取よこどりされた[3]おおくの政敵せいてきから汚職おしょく告発こくはつされ、大陸たいりく会議かいぎがその証言しょうげん調査ちょうさした結果けっか、アーノルドは戦争せんそう遂行すいこうのために私財しざいついやしたために借金しゃっきん背負せおった結果けっかだったことがかった。アーノルドはひどく憤懣ふんまんつのり、アメリカがフランスと同盟どうめいむすんだことに反対はんたいしていたので、1779ねん味方みかた裏切うらぎ決心けっしんをした。1780ねん7がつ、ウェストポイントとりでをイギリスぐんわたすためにそこの指揮しき官職かんしょくもとめてみとめられた。しかし、アメリカぐんがアーノルドの策略さくりゃくいた書類しょるい携行けいこうしていたイギリスぐんジョン・アンドレ少佐しょうさつかまえたために、アーノルドの策謀さくぼう露呈ろていした。アーノルドはアンドレがつかまったことをると、ハドソンがわくだってイギリス海軍かいぐんスループふねHMSバルチュア逃亡とうぼうし、おなにウェストポイントを査察ささつしアーノルドにって食事しょくじともにするために到着とうちゃくしていたジョージ・ワシントン将軍しょうぐん部隊ぶたいつかまるのをかろうじてまぬかれた。

アーノルドはイギリスぐんじゅんしょう任官にんかんされ、年金ねんきん360ポンドと総額そうがく6,000ポンド以上いじょう報奨ほうしょうきん[4]。そのはイギリスぐんの1部隊ぶたいひきいてバージニア植民しょくみんブランフォードやコネチカット植民しょくみんゴートンハイツでたたかったが、ヨークタウンの包囲ほういせん事実じじつじょう戦争せんそうわった。1782ねんふゆ、アーノルドは2人ふたりつまマーガレット・"ペギー"・シッペン・アーノルドとともロンドンわたった。イギリス国王こくおうジョージ3せいトーリーとうからは歓待かんたいされたが、ホイッグとうからは疎外そがいされた。1787ねん、アーノルドはニューブランズウィックセントジョン息子むすこのリチャードやヘンリーととも商売しょうばいみちはいったが、1791ねん永住えいじゅうするためにロンドンにもどり、その10ねんんだ。

アーノルドは味方みかた裏切うらぎったために、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではその名前なまえぐに裏切うらぎりの代名詞だいめいしにされた[5]。そののこした功績こうせき対立たいりつするめんがあることで、かれ栄誉えいよたたえるためにてられたいくつかの記念きねん曖昧あいまい性格せいかくにしている。

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アーノルドは、1741ねん1がつ14にち[1]、コネチカットのノリッジ父親ちちおやベネディクト・アーノルド3せい(1683ねん-1761ねん)と母親ははおやハンナ・ウォーターマン・キングの6にん子供こどものうち2番目ばんめ子供こどもとしてまれた。ベネディクトという名前なまえロードアイランド植民しょくみん知事ちじつとめた曾祖父そうそふと、おさなくしてったあにベネディクト4せい名前なまえちなんでいる[1]かれいもうとのハンナだけが成人せいじんし、兄弟きょうだい子供こどもとき黄熱病おうねつびょう夭折ようせつした[6]母方ははかた祖母そぼは、すくなくとも4にんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうユリシーズ・S・グラントフランクリン・ルーズベルトジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュジョージ・ウォーカー・ブッシュ)の祖先そせんにあたるジョン・ラスロップ子孫しそんである[7]

アーノルドのちち成功せいこうした実業じつぎょうであり、家庭かていはノリッジの社会しゃかい上流じょうりゅうのぼめていた。アーノルドが10さいときに、ちかくのカンタベリーにある私立しりつ学校がっこう入学にゅうがくし、くはイェール大学だいがくまで進学しんがくすることを期待きたいされていた。しかし、その2ねんにアーノルドの兄弟きょうだいたちんだことで、父親ちちおやさけおぼれるようになったために家業かぎょうかたむいていった可能かのうせいがある。アーノルドが14さいのときには私立しりつ学校がっこうはら教育きょういくくなった。父親ちちおやアルコール依存いぞんしょう健康けんこうがいしたことで、アーノルドを家業かぎょうきたえることもできなかったが、アーノルドは母親ははおや家系かけいのつながりから、彼女かのじょ従兄弟いとこでノリッジで薬局やっきょく雑貨ざっか交易こうえきいとなんで成功せいこうしていたダニエルとジョシュア・ラスロップの兄弟きょうだいところ奉公ほうこうされた[8]。ラスロップ兄弟きょうだいところでの奉公ほうこうは7年間ねんかんつづいた[9]

フレンチ・インディアン戦争せんそう[編集へんしゅう]

1755ねんに、アーノルドはたいおと魅力みりょくかんじてフランス対抗たいこうして従軍じゅうぐんするため植民しょくみん民兵みんぺいたい志願しがんしようとしたが、母親ははおやみとめようとしなかった[10]1757ねん、16さいのときに民兵みんぺいたい入隊にゅうたいし、フランスりょうカナダからの侵略しんりゃくフレンチ・インディアン戦争せんそう)にたいし、オルバニージョージみずうみ進軍しんぐんした。フランスの侵略しんりゃくウィリアム・ヘンリーとりでたたか頂点ちょうてんむかえた。ここでイギリスぐんは、ルイ・ジョセフ子爵ししゃく指揮しきのフランスぐん屈辱くつじょくてき大敗たいはいきっした。イギリスぐん降伏ごうぶくつづいて、フランスの同盟どうめいインディアンはイギリスぐん植民しょくみんぐん提示ていじした降伏ごうぶく条件じょうけんって激怒げきどした。イギリスぐん頭皮とうひ武器ぶきなどの戦利せんりひん約束やくそくしたが、なに実行じっこうされなかった。イギリスぐん捕虜ほりょとなって護送ごそうちゅうに180にん以上いじょう虐殺ぎゃくさつされた。フランス正規せいきぐんはそれをめることができなかった。このできごとは、わか多感たかんであったアーノルドにフランスにたいするわらぬにくしみをけ、かれのち人生じんせい影響えいきょうすることになった。この戦闘せんとう悲惨ひさん結果けっかみみにしたアーノルドの中隊ちゅうたいかえすことになった。アーノルドは13日間にちかんだけ従軍じゅうぐんしたことになった[11]。アーノルドが1758ねん民兵みんぺいたいから脱走だっそうしたという一般いっぱんれられているはなしがあるが[12]、これは不確ふたしかな文書ぶんしょのこされたものにもとづくものである[13]

両親りょうしん[編集へんしゅう]

1759ねん、アーノルドがとくあいしていたははくなり、まだわかかれ酒浸さけびたりのちちわかいもうと扶養ふようすることになった。ちちのアルコール依存いぞんしょうはは死後しごさらに悪化あっかした。かれ白昼はくちゅうっぱらってなん拘束こうそくまでされており、教会きょうかい聖餐せいさんしきることもめられた。ちち1761ねんくなり[9]、20さいのアーノルドは家名かめいむかしのようにげる決心けっしんをした。

独立どくりつ戦争せんそうまえ行動こうどう[編集へんしゅう]

1762ねん、ラスロップ兄弟きょうだいたすけもあり、アーノルドはニューヘイブン薬剤師やくざいし本屋ほんやとして事業じぎょう実績じっせきはじめた。アーノルドには大望たいぼうがあり、積極せっきょくてきだったので、商売しょうばい急速きゅうそく拡大かくだいした。1763ねんには、ラスロップ兄弟きょうだいからりていたかね返済へんさいし、かれちち負債ふさいのかたにはらっていた家産かさんもどした。さらに1ねん十分じゅうぶん利益りえきしてそれをはらった。1764ねん、アーノルドはニューヘイブンのわか商人しょうにんアダム・バブコックと共同きょうどう経営けいえいしゃになった。かれ家産かさんったとき利益りえき元手もとでかれらは3せき商船しょうせんい、有利ゆうり西にしインド諸島しょとう貿易ぼうえきした。このあいだいもうとのハンナをニューヘイブンにれてきて、かれ留守るすでも薬局やっきょくをやっていけるようにした。アーノルドは自分じぶんせんの1せき指揮しきすることもおおく、ニューイングランドなかケベックから西にしインド諸島しょとうまで商用しょうようたびした。それらのたびひとつでホンジュラスったとき、アーノルドはかれのことを「ばかなヤンキー、紳士しんし作法さほう外聞がいぶんらぬやつめ」とののしったイギリスの船長せんちょう決闘けっとうした[14][15]。その船長せんちょう最初さいしょ銃撃じゅうげきわしたときにきずつき、アーノルドが2はつ照準しょうじゅんわせてころすとおどしたときに謝罪しゃざいした[16]

1766ねん政治せいじ風刺ふうし漫画まんが印紙いんしほう撤廃てっぱいつたえている

1764ねん砂糖さとうほう1765ねん印紙いんしほう植民しょくみんでの商売しょうばいをひどく制限せいげんした[17]印紙いんしほう成立せいりつするとアーノルドも反対はんたいこえげる仲間なかまたちくわわるようになり、重荷おもにとなるイギリスの議会ぎかいほう執行しっこう反対はんたいするために暴力ぼうりょく使つかうことをおそれない秘密ひみつ結社けっしゃである自由じゆう息子むすこたちにもくわわることになった[18]。アーノルドは当初とうしょとく大衆たいしゅう運動うんどうくわわらずに、おおくの商人しょうにんおなじように、印紙いんしほうなど存在そんざいしていないかのように商売しょうばいつづけ、のところ法律ほうりつ無視むししてみつ貿易ぼうえき業者ぎょうしゃのようになっていた。政府せいふによってされた抑圧よくあつてき税金ぜいきんのために、おおくのニューイングランド商人しょうにん苦境くきょうまれた。アーノルド自身じしん個人こじん破産はさんちか状態じょうたいになり、16,000ポンドの借金しゃっきんかかえた。債権さいけんしゃたちはアーノルドの破産はさん状態じょうたいといううわさひろげ、アーノルドがかれらにたいして法的ほうてき措置そちるところまでった[19]1767ねん1がつ28にちよる、アーノルドとそのふね乗組のりくみいん自由じゆう息子むすこたち群衆ぐんしゅう見守みまもられて、アーノルドのみつ貿易ぼうえき当局とうきょく密告みっこくしたうたがいのあるおとこにけがをさせた。アーノルドは治安ちあんみだしたつみ告訴こくそされ50シリングの科料かりょうはらわされた。この事件じけんかんする報道ほうどうとアーノルドの見解けんかいたいする同情どうじょうひろがったことで、かるばちになった[20]

1767ねん2がつ22にち、アーノルドはニューヘイブンの保安ほあんかんともフリーメイソン会員かいいんになっていになったサミュエル・マンスフィールドのむすめマーガレットと結婚けっこんした[21]翌年よくねん長男ちょうなんのベネディクト6せいまれ[22]、1769ねんにリチャード、1772ねんにヘンリーと3にん息子むすこめぐまれたが[21]つま独立どくりつ戦争せんそう初期しょき1775ねん6月19にちくなった。これはアーノルドがタイコンデロガとりで奪取だっしゅしてそこにときだった[23]家事かじつまのマーガレットがときでも、いもうとのハンナが差配さはいしていた。アーノルドは事業じぎょう共同きょうどう経営けいえいしゃになったマンスフィールドとの関係かんけい利用りようし、その保安ほあんかんとしての地位ちい使つかって債権さいけんしゃからまもるようにさせた[24]

アーノルドは、1770ねん3月5にちボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけんこったとき西にしインド諸島しょとうにいたが、のちに「大変たいへん衝撃しょうげきだった」とき、「かみよ、大陸たいりく人間にんげんはみんなねむらされて従順じゅうじゅん自由じゆう放棄ほうきしたのか、あるいはあんな悪党あくとうたち仕返しかえしもできない哲学てつがくしゃになってしまったのか」となやんだとしるした[25]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう[編集へんしゅう]

1775ねん3がつ、ニューヘイブンの市民しみんが65めいでコネチカット防衛ぼうえいだい2中隊ちゅうたい結成けっせいした。アーノルドはその指揮しきかんである大尉たいいえらばれ、戦争せんそうそなえて訓練くんれん鍛錬たんれんをおこなった[26]レキシントン・コンコードのたたか独立どくりつ戦争せんそうはじまったというらせがニューヘイブンにとどいたのは4がつ21にちだった。アーノルドの中隊ちゅうたい翌日よくじつボストン行軍こうぐんするべく集合しゅうごうしたが、まちまさし委員いいんかい火薬かやくわたそうとはしなかった。アーノルドとデイビッド・ウースターあいだ対立たいりつなかで(このことは毎年まいとしニューヘイブンの火薬かやく再現さいげんされている)、アーノルドは年上としうえのウースターになにとしてでも火薬かやくれると主張しゅちょうしてせた。火薬かやくひらかれ、アーノルドの中隊ちゅうたい武装ぶそうできてボストンへの行軍こうぐん開始かいしした[27]

1776ねんのベネディクト・アーノルド大佐たいさ

途上とじょうでアーノルドはコネチカットの議員ぎいん民兵みんぺいたい大佐たいさであるサミュエル・ホールデン・パーソンズ大佐たいさ出会であった。二人ふたり対話たいわなかで、革命かくめいぐん大砲たいほう不足ふそくしていること、シャンプレーンのタイコンデロガとりでおおくの大砲たいほうがあること、そのとりで確保かくほするために遠征えんせいたい派遣はけんすべきことなどをはなった[28]。パーソンズはハートフォードかい、エドワード・モット大尉たいい指揮しきまかせる軍隊ぐんたい結成けっせいのため、資金しきん調達ちょうたつした。モットは、バーモント当時とうじはニューハンプシャー特許とっきょとして所有しょゆうけんめぐ論争ろんそうがあった)のベニントン活動かつどうするイーサン・アレンとそのグリーン・マウンテン・ボーイズと連携れんけいるよう指示しじされた。一方いっぽう、アーノルドとコネチカット民兵みんぺいたいマサチューセッツわん植民しょくみんケンブリッジかい、マサチューセッツ安全あんぜん委員いいんかい[29]説得せっとくし、とりで奪取だっしゅするための遠征えんせい資金しきんみとめさせた。5月3にち安全あんぜん委員いいんかいはアーノルドをマサチューセッツ民兵みんぺいたい大佐たいさ任命にんめいし、マサチューセッツで軍隊ぐんたい組織そしきすべくすうにん大尉たいいをアーノルドのしたけて派遣はけんした。大尉たいいたち兵士へいしあつめるあいだに、アーノルドは西にしかい、ウィリアムズタウンに到着とうちゃくしたときにモットとアレンの活動かつどうについてった。そこからきたてんじ、5月9にちにキャッスルトンにくと、すでにアレンの部隊ぶたい集合しゅうごうしていた。アーノルドは自分じぶん任官にんかん合法ごうほうせい主張しゅちょうすることで遠征えんせいたい指揮しきけんようとしたが、アレンのグリーン・マウンテン・ボーイズはこのとき遠征えんせいたいなかでも最大さいだい部隊ぶたいであり、アレン以外いがいだれ指揮しきでも行動こうどうすることを拒否きょひした。アレンとアーノルドのあいだ個人こじんてき交渉こうしょうによって、妥協だきょうてんとして2人ふたりあわせて遠征えんせいたいひきいることになった。

タイコンデロガとりでたたか[編集へんしゅう]

1775ねん5がつ10日とおか早暁そうぎょう攻撃こうげき実際じっさい戦闘せんとうおこなうこともなくタイコンデロガとりでちた。植民しょくみん兵士へいしはイギリスぐん守備しゅびへいほうかずおおかったことにおどろかされた[30]つづいてちかくのクラウンポイントとりでとジョージとりで占領せんりょうしたが、この2つは守備しゅびたいかずはるかにすくなかった[31]。これらの占領せんりょうつづいてアレンの兵士へいしたちとりで酒蔵さかぐらり、いくらかえない状態じょうたいになった。とりで軍需ぐんじゅ物資ぶっしをボストンにはこ可能かのうせいかんがえて在庫ざいこ調しらべたかったアーノルドは激怒げきどしたが、かれらをめるには力不足ちからぶそくだった。アーノルドの部下ぶか大尉たいいたち徴兵ちょうへいした兵士へいしたち到着とうちゃくし、捕獲ほかくしてきたスクーナーがあったので、アーノルドはモントリオールからとおくないセントジョンズとりで大胆だいたん襲撃しゅうげき実行じっこうした。このときさらにおおくの捕虜ほりょり、またシャンプレーンでは最大さいだい軍艦ぐんかん捕獲ほかくしたので、アメリカぐんによるみずうみ軍事ぐんじ支配しはい確立かくりつできた。

アーノルドはタイコンデロガとりでもどると、アレンが自分じぶん部隊ぶたい撤退てったいさせていたので、そこの指揮しきけんふるはじめた。しかし、コネチカットの兵士へいし1,000めいれたベンジャミン・ハイマン大佐たいさが6がつ到着とうちゃくし、アーノルドを部下ぶかとしてハイマンが指揮しきることをつたえた。アーノルドは革命かくめいのためにったかれ行動こうどうみとめられていないとかんじて激怒げきどし、その任務にんむ辞退じたいしてコネチカットの故郷こきょうかった[4][32]。アーノルドがおこって任務にんむ放棄ほうきするという反応はんのうをしたことは、その軍事ぐんじてき功績こうせきにもかかわらず大陸たいりく会議かいぎ代議員だいぎいんなかかれきらものしょうじさせた[23]大陸たいりく会議かいぎのアーノルドにかんする意見いけんは、アーノルドがてきだとなす2人ふたりおとこ回覧かいらんした報告ほうこくしょでさらにわるほうながれた。アレンの副官ふっかんであるジョン・ブラウンとジェイムズ・イーストンの2人ふたりがマサチューセッツとフィラデルフィアたびし、その行動こうどうについて報告ほうこくした。アーノルドの挙動きょどうかんするかれらの描写びょうしゃ正確せいかくだったが、アーノルドはかれらがおそらくアーノルドのことを中傷ちゅうしょうしたとしんじるようになり、両人りょうにんどもにその紛争ふんそうたねになった[33]

アーノルドがオールバニに到着とうちゃくすると、かれつまんだことをしらせる手紙てがみった[23]大陸たいりくぐん北方ほっぽう方面ほうめんぐんあたらしい指揮しきかん就任しゅうにんしていたフィリップ・スカイラー将軍しょうぐんとの会談かいだんにアーノルドはニューヘイブンにもどり、子供こどもたちって(このときいもうとンのハンナが世話せわしていた)、商売しょうばいもどった。このニューヘイブンにあいだ最初さいしょ痛風つうふうおそわれ、生涯しょうがいそれにくるしむことになった[34]

ケベック遠征えんせい[編集へんしゅう]

タイコンデロガとりでたときにアーノルドもアレンも、まもりがうすいイギリスりょうケベックを占領せんりょうするアイディアを大陸たいりく会議かいぎ提案ていあんしていた。7月にフィリップ・スカイラー少将しょうしょうがシャンプレーンみずうみとおってカナダに侵攻しんこうする作戦さくせんてる任務にんむあたえられた。その目的もくてきはニューヨーク北部ほくぶ攻撃こうげきできる重要じゅうよう基地きちからイギリスぐんはらうことだった。スカイラーはこの遠征えんせいたいひきいるつもりだったが、8がつ下旬げじゅん出発しゅっぱつした遠征えんせいぎょう初期しょき病気びょうきになり、リチャード・モントゴメリー将軍しょうぐんがその部隊ぶたい指揮しきかんとなった。

ジョン・モントレソールが1760ねんつくった地図ちず、アーノルドがその遠征えんせいたい使つかった

アーノルドは別働隊べつどうたい提案ていあんをした。これはメーンケネベックがわさかのぼり、ショーディエールがわくだってケベックいたるというものだった。モントリオールとケベックれれば、カナダのフランス語ふらんすごはな開拓かいたくしゃたちがイギリスにたいする革命かくめいくわわってくれるものとアーノルドはしんじていた。ジョージ・ワシントン将軍しょうぐんとスカイラーがこのあん承認しょうにんし、アーノルドをケベック攻撃こうげきたい大陸たいりくぐん大佐たいさ任命にんめいした[35]

9月19にち、1,100めい部隊ぶたいがマサチューセッツのニューベリーみなと出港しゅっこうし、9月22にち、メーンのガーディナーストンに到着とうちゃくした。そこではリューベン・コルバーン少佐しょうさまえもって200せき平底ひらぞこせんつくるよう手配てはいしていた。これらのふねはケネベックがわとデッドかわさかのぼり、ショーディールがわくだってケベックいた軍隊ぐんたいはこぶためのものだった。デッド川上かわかみりゅうから分水ぶんすいかいえてショーディール川上かわかみりゅうまでは、陸路りくろふねはこんでいくながみちのりがあった。悪天候あくてんこう不正確ふせいかく地図ちずかわながれのはやさおよび兵士へいしがボート操作そうさ不慣ふなれだったことがわされて、物資ぶっしおおうしなわれ、300めい脱落だつらくし、また200めい以上いじょうんだ。遠征えんせいゆきのこった600めいは11月にセントローレンスがわいたときまでにえのためにまたっていた[35]

イギリスぐんはアーノルドの接近せっきん察知さっちしており、セントローレンスがわ南岸なんがんにあった水上すいじょうもの(ボート、ふね砲艦ほうかんなど)の大半たいはん破壊はかいしていた。フリゲートかんリザード搭載とうさい大砲たいほうすう26もん)とスループせんハンター搭載とうさい大砲たいほうすう16もん)の2せき軍艦ぐんかん渡河とか阻止そしするためにつね哨戒しょうかいしていた。それにもかかわらず、アーノルドは十分じゅうぶんりょうふね購入こうにゅう11月11にちにケベックのある対岸たいがんわたった。しかしそこでケベックを占領せんりょうするにはかれ部隊ぶたい勢力せいりょく不足ふそくしていることに気付きづき、援軍えんぐんたのむためにモントゴメリーじゅんしょう伝令でんれいはっした[35]

一方いっぽう、リチャード・モントゴメリーじゅんしょうは8がつ下旬げじゅんやく1,700めい兵士へいしれてタイコンデロガとりでからきた発進はっしんした。かれはセントジョンズとりで包囲ほういせん成功せいこうしたのち11月13にちにモントリオールを占領せんりょうした。モントゴメリーが12月早々そうそうにアーノルドの部隊ぶたい合流ごうりゅうし、総勢そうぜいやく950めいとなった。かれらは12月31にちケベック攻撃こうげきした。しかし、カナダの総督そうとくでイギリスぐん指揮しきかんだったガイ・カールトンによって、大陸たいりくぐん惨敗ざんぱいきっした。モントゴメリーは襲撃しゅうげきひきいているときに戦死せんしし、のこった一人ひとり士官しかん(ドナルド・キャンベル大佐たいさ)が撤退てったい命令めいれいした。モントゴメリーの部隊ぶたいはケベックかべ近付ちかづくこともできなかった。反対はんたいがわにいたアーノルドの部隊ぶたい孤立こりつすることになった。この戦闘せんとう初期しょき段階だんかいでアーノルドはあし負傷ふしょうした。大陸たいりくぐんなかではもっと敢闘かんとうしたとえるダニエル・モーガンのライフルじゅう部隊ぶたい市内しない突入とつにゅうしたが、結局けっきょくめられて降伏ごうぶくした。ほかにもおおくのもの戦死せんしまたは負傷ふしょうし、なんひゃくものしゃ捕虜ほりょとなった。

ケベック総督そうとくガイ・カールトン、ケベックとバルカーとうでアーノルドと対戦たいせんした

アーノルドの指揮しきのこったのは350めいほどになり、無益むえきなケベック包囲ほういつづけた。このときにケベックまで到着とうちゃくできた功績こうせきにより、1がつなぞらえしょう昇進しょうしんされていたことをった。またモントゴメリーにいてていたジョン・ブラウン(このとき少佐しょうさ)といさかいになった。ブラウンはモントゴメリーから昇進しょうしん約束やくそくしていたらしく、それをアーノルドに請求せいきゅうした。アーノルドはタイコンデロガでけた侮辱ぶじょくをまだおぼえていたのでその昇進しょうしん拒否きょひし、ブラウンはぐに直接ちょくせつ大陸たいりく会議かいぎ申請しんせいした。アーノルドはこのことを自分じぶん権威けんいたいする脅威きょういり、ブラウンとさらにはイーストンを違法いほうにイギリスぐん士官しかんふくろ略奪りゃくだつしたとして告発こくはつした。イーストンもモントゴメリーがモントリオールを占領せんりょうしたときには従軍じゅうぐんしていたが、このときはみなみもどっていた。ブラウンがその汚名おめいそそぐために軍法ぐんぽう会議かいぎ要求ようきゅうしたとき、アーノルドは間接かんせつてき手段しゅだん使つかうことでこの二人ふたりにさらにちをけてやろうとしてこの要求ようきゅうこばんだ(結局けっきょくブラウンはアーノルドの告発こくはつたいして審問しんもんされることはなかった)[36]

アーノルドはデイビッド・ウースターじゅんしょう援軍えんぐん到着とうちゃくした1776ねんはるまでケベック包囲ほういつづけた。指揮しき交代こうたいしたアーノルドはモントリオールにって、そこの軍隊ぐんたい指揮しきった[37]

カナダからの撤退てったい[編集へんしゅう]

1776ねん5がつ大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうだんがモントリオールを訪問ほうもんしているときに、イギリスのだい艦隊かんたいがケベック到着とうちゃくはじめ、大陸たいりくぐん急遽きゅうきょケベックから撤退てったいすることになった[38]。この5月にアーノルドがソレルのまち撤退てったいするぐん指揮しきかん大陸たいりく会議かいぎ議員ぎいん作戦さくせん会議かいぎひらいているあいだはじまったイギリスぐんとインディアンによるシーダーとりで攻撃こうげきによって、アーノルドのモントリオール支配しはい困難こんなんなものになった。アーノルドはこれに対応たいおうするためにモントリオールにもどって、時宜じぎ援軍えんぐんたすけもあり、シーダーとりで守備しゅびたいつかまえていたイギリスぐんとの捕虜ほりょ交換こうかん合意ごういした[39]。この出来事できごとへの対処たいしょはな作戦さくせん会議かいぎせきで、アーノルドはだい2カナダじん連隊れんたい指揮しきかんであるモーゼス・ヘイズンはげしい応酬おうしゅうをした。このことがりょう軍法ぐんぽう会議かいぎにまでつながる一連いちれん論争ろんそうはじまりとなった[40]

アーノルドはつづいてモントリオールに駐屯ちゅうとんする大陸たいりくぐん守備しゅびたい撤退てったい準備じゅんびはじめた。大陸たいりく会議かいぎ議員ぎいん指示しじしたがって地元じもと商人しょうにんから物資ぶっし確保かくほはじめ、商人しょうにんたちのち求償きゅうしょうできるように物資ぶっし受取うけとりしょう発行はっこうした。物資ぶっし供給きょうきゅうした商人しょうにん識別しきべつするためにしるしけられた物資ぶっしは6がつ初旬しょじゅんにシャンブリーとりでけて船積ふなづみされた[41]。そこの指揮しきかんだったヘイズンは、かれっている商人しょうにんからそれらの物資ぶっし違法いほううばったものだとしんじて、物資ぶっし保管ほかん拒否きょひした(ヘイズンはちかくのセントジョンズとりで資産しさん所有しょゆうしていて商売しょうばいじょう利権りけんもあったので、モントリオールの商人しょうにんとはしたしくしていた)。

アーノルドはヘイズンの行動こうどうたいしておこったが、それをおさえる必要ひつようがあった。イギリスぐんがセントローレンスがわさかのぼって急襲きゅうしゅうし、アーノルドはつかまりそうになった。ソレルに派遣はけんした伝令でんれいからモントリオール接近せっきんしているイギリス艦船かんせん存在そんざいらされた[42]。アーノルドはイギリスぐん到着とうちゃくするまえ市内しないやそうとかんがえて、出発しゅっぱつまえ点火てんか命令めいれいし、そのセントジョンズとりでって、退却たいきゃくちゅう軍隊ぐんたい後衛こうえい合流ごうりゅうした。アーノルドは部隊ぶたいへいにシャンプレーンでイギリスぐん使つかえそうなふね焼却しょうきゃくあるいは沈船で破壊はかいするよう指示しじし、とりでちかくの工作こうさくぶつにもけさせた。アーノルドはセントジョンズとりで脱出だっしゅつするまえにイギリスぐん前衛ぜんえい視界しかいはいるまで待機たいきしたとされており、そのリシュリューがわのぼってシャンプレーンかった[4]

その1776ねんなつ使つかってみずうみ支配しはいするためにちいさな戦闘せんとうかん砲艦ほうかん船隊せんたい建造けんぞう指示しじし、イギリスぐん進行しんこうおくらせ、シャンプレーン自由じゆう接近せっきんできないようにはかった。イギリスぐんはセントジョンズでさらにおおきな船隊せんたいつくげることで対抗たいこうし、10月には進水しんすいさせた。10月なかばのバルカーとうたたかでイギリスぐんはアーノルドの船隊せんたいやぶった。しかしこのときはもうふゆはじまっており、イギリスぐん侵攻しんこうまった。アーノルドの防衛ぼうえい戦略せんりゃく成功せいこうしたとえる[4]

アーノルドは船隊せんたい建造けんぞうさせているあいだに、ヘイズンをシャンブリーでの出来事できごとかんして職務しょくむ怠慢たいまんかど逮捕たいほするようめいじた[43]。ヘイズンは政治せいじてきにコネをつくるのが上手じょうず人間にんげんだったので(だい2カナダじん連隊れんたい指揮しきする発令はつれいはケベックのたたか大陸たいりく会議かいぎ議員ぎいんまえにヘイズンが出頭しゅっとうしたのちおこなわれた)、アーノルドの告発こくはつ逆手さかてり、アーノルドが問題もんだい物資ぶっしぬす[44]物資ぶっし輸送ゆそうすることをまかされた士官しかん途中とちゅうでそれらを損壊そんかいさせた[45]として反論はんろん告発こくはつした。その士官しかんであるスコット少佐しょうさ軍法ぐんぽう会議かいぎせきていたが、(あきらかに利害りがい対立たいりつする当事とうじしゃであるにもかかわらず)証言しょうげんすることができなかった。軍法ぐんぽう会議かいぎではヘイズンを無罪むざいとし、アーノルドの逮捕たいほめいじた。この会議かいぎ主宰しゅさいしたホレイショ・ゲイツ将軍しょうぐんが、近付ちかづくイギリスぐん攻撃こうげきそなえて、アーノルドの従軍じゅうぐん是非ぜひとも必要ひつようだと主張しゅちょうして、その逮捕たいほじょうした[44]。ヘイズンの告発こくはつたいしてアーノルドが沈黙ちんもくしたことは、人々ひとびといていたアーノルドにかんする評価ひょうか裏付うらづふかまらせることになった。アーノルドに好意こういてきだったものは、理不尽りふじん告発こくはつたいする尊厳そんげんある反応はんのうだと認識にんしきし、一方いっぽうアーノルドを嫌悪けんおしていたもの現場げんばつかまれたもの反応はんのうだとなした。歴史れきしたちは、アーノルドが実際じっさい違法いほうなことにかかわっていたのかについていまなお議論ぎろんつづけている[46]大陸たいりく会議かいぎ代表だいひょうサミュエル・チェイスはアーノルドに「貴方あなた最良さいりょうとも自国じこくみんではない」と警告けいこくした[47]

11月には、タイコンデロガとりで軍隊ぐんたい大半たいはんが、ニュージャージー植民しょくみんるワシントンぐん支援しえんのためにみなみ移動いどうするようめいじられた。アーノルドはオールバニで再度さいど公式こうしき告発こくはつ直面ちょくめんした。ブラウンとヘイズンがそれぞれアーノルドの以前いぜん行動こうどうかんする告発こくはつしょ提出ていしゅつした。ヘイズンはアーノルドが以前いぜんにヘイズンにたいしてきつけた告発こくはつについて名誉めいよ棄損きそんかど告発こくはつし、ブラウンは様々さまざま小事しょうじ告発こくはつしたが、とくにアーノルドがケベックの軍隊ぐんたい意図いとてき天然痘てんねんとう流行はやらせたこと、セントジョンズ襲撃しゅうげきに「てきぐんへの逃亡とうぼうはかろうとした反逆はんぎゃく行為こうい」をおこなったという2けん特筆とくひつものだった[48]。ゲイツ将軍しょうぐんはブラウンの告発こくはつかんする審問しんもん拒否きょひし、軍法ぐんぽう会議かいぎでヘイズンにたいするアーノルドの告発こくはつは「ヘイズン大佐たいさ人格じんかくたいする中傷ちゅうしょう」となると判決はんけつしたが、罰則ばっそくさなかった[48]。1776ねんから1777ねんけてのふゆ、ブラウンはアーノルドについて「かねがこのおとこかみであり、それを十分じゅうぶんられるなら自分じぶんくに犠牲ぎせいにすることだろう」と主張しゅちょうするチラシを出版しゅっぱんした[49]

東部とうぶ方面ほうめんぐん[編集へんしゅう]

1776ねん12月8にち、イギリスぐんヘンリー・クリントン将軍しょうぐん指揮しきするだい部隊ぶたいロードアイランド植民しょくみんニューポート占領せんりょうした。ワシントンは、このときまでにゲイツと北部ほくぶぐんともにペンシルベニア植民しょくみん到着とうちゃくしていたアーノルドに、ニューイングランドにもどりロードアイランド防衛ぼうえいのための民兵みんぺいたいげるよう命令めいれいした。アーノルドはジョセフ・スペンサー少将しょうしょう指揮しきする大陸たいりくぐん東部とうぶ方面ほうめんぐんふく司令しれいかんになった。12月8にち、アーノルドはいちねん以上いじょう家族かぞくっていなかったので、ニューヘイブンで家族かぞくともいち週間しゅうかんごし、1777ねん1がつ12にちプロビデンス到着とうちゃくし、ロードアイランド防衛ぼうえいたい指揮しきった。ロードアイランドの大陸たいりくぐんは、ワシントンのトレントン攻撃こうげき部隊ぶたいいており、やく2,000めいっていた。アーノルドは追加ついか部隊ぶたいげることを公表こうひょうしたが、ほとんど応募おうぼかった。15,000めいのイギリスぐん眼前がんぜんき、防御ぼうぎょてっした。

1777ねん2がつ、ボストンでられたおう党派とうはむすめでボストンいち美女びじょともわれたベッチー・デブロアとい、真剣しんけん交際こうさいかさねた。しかし、この「天国てんごくのデブロアじょう」はアーノルドがかえしプロポーズしても拒否きょひした。彼女かのじょはまだ15さいぎなかったからだともわれている[50]。アーノルドがロードアイランドにもどると、少将しょうしょうへの昇進しょうしん大陸たいりく会議かいぎによって見送みおくられたことをった。ワシントンはアーノルドの辞任じにんもう拒否きょひし、大陸たいりく会議かいぎ議員ぎいんにこれをただすよう手紙てがみき、もしかれらが政治せいじてきうごかされた昇進しょうしん固執こしつするなら、「2人ふたりや3にん士官しかん」がうしなわれるかもしれないとつたえた[51]

イギリスぐん占領せんりょうするニューポートを攻撃こうげきする作戦さくせん棚上たなあげされたのちに、アーノルドは大陸たいりく会議かいぎやワシントンと自分じぶん将来しょうらいについてはなうためにフィラデルフィアにかい、途中とちゅうふたた家族かぞくうためにニューヘイブンにった。4月26にち、そこへ伝令でんれいて、イギリスぐんのニューヨーク最後さいごのイギリス知事ちじウィリアム・トライアン少将しょうしょうが2,000めい部隊ぶたいれてノーウォーク上陸じょうりくしたことをらせた。トライアンはロングアイランドわん沿ってフェアフィールド進軍しんぐんし、内陸ないりくはいって大陸たいりくぐんおおきな物資ぶっし倉庫そうこのあるダンベリーめた。どちらのまちつつまれた。トライアンはノーウォークのみなとにもうみから撤退てったいした。

アーノルドは急遽きゅうきょ地元じもと志願しがんへいやく100めいあつめた。かれひがしコネチカット民兵みんぺい500めいあつめたゴールド・S・シリマン少将しょうしょうとデイビッド・ウースター少将しょうしょうのコネチカット民兵みんぺい部隊ぶたい合流ごうりゅうした。この二人ふたりはコネチカット東部とうぶから500めい志願しがんへいあつめていた。アーノルドと仲間なかま士官しかんたちはそのちいさな部隊ぶたいをダンベリーのちかくにうごかして、退却たいきゃくするイギリスぐん妨害ぼうがいいやがらせをしようとした。4がつ27にち午前ごぜん11、ウースターの部隊ぶたいがタイロンの後衛こうえいとら戦闘せんとうはいった。アーノルドはリッジフィールド郊外こうがい農園のうえん移動いどうし、イギリスぐん撤退てったいめようとした。それにつづ小競こぜい(リッジフィールドのたたか)のあいだにウースターが戦死せんしした。アーノルドもかれうまたれてたおれたときにあしきずった。

フィラデルフィア[編集へんしゅう]

ダンベリーでのたたかいののち、アーノルドはフィラデルフィアへの移動いどう再開さいかいし、5月16にち到着とうちゃくした。このとき、スカイラー将軍しょうぐんもフィラデルフィアにたがぐに作戦さくせん本部ほんぶのあるオールバニーにもどった。このことでフィラデルフィア地区ちくではアーノルドの位階いかいさい上位じょういとなり、そこの指揮しきるものとおもわれた。しかし、大陸たいりく会議かいぎ政治せいじてき配慮はいりょによりペンシルベニアのあたらしく昇進しょうしんしたトマス・ミフリン少将しょうしょうほうこのんだ。アーノルドは以前いぜんにも昇進しょうしん見送みおくられていた。このことでアーノルドの不満ふまんつのった。アーノルドは7がつ11にちにそこでの任務にんむした。その直後ちょくご、ワシントン将軍しょうぐんがアーノルドに北方ほっぽう方面ほうめんぐん任務にんむくよう大陸たいりく会議かいぎ要請ようせいしてきた。このときタイコンデロガとりでがイギリスぐんちていた。このことはワシントンの指揮しきかんとしてのアーノルドにたいする信頼しんらいあらわしており、大陸たいりく会議かいぎもワシントンの要請ようせいみとめた。

サラトガ[編集へんしゅう]

General ホレイショ・ゲイツ将軍しょうぐん、サラトガで大陸たいりくぐんひきいた。 ギルバート・スチュアート、1793ねん-94ねん

1777ねんなつ独立どくりつ戦争せんそう転換てんかんてんとなった。サラトガ方面ほうめん作戦さくせんは、ニューヨーク北部ほくぶのオールバニー近辺きんぺんたたかわれた一連いちれん戦闘せんとうであり、サラトガのたたかでの大陸たいりくぐん勝利しょうりと、ジョン・バーゴインひきいるイギリスぐん10月17にち降伏ごうぶくわった。アーノルドはこれらの戦闘せんとうおおきな役割やくわりえんじた。アーノルドが1777ねん8がつにスカイラーの宿営しゅくえい到着とうちゃくすると、即座そくざ部隊ぶたいひきいてスタンウィックスとりで包囲ほういされている部隊ぶたい救出きゅうしゅつ派遣はけんされた。つづいてサラトガの2つのたたかいでは傑出けっしゅつしたはたらきをし、ホレイショ・ゲイツが2つ戦闘せんとうであるベミス高地こうちたたかまえにアーノルドを野戦やせん指揮しきかんからはずしていたにもかかわらず功績こうせきげた。ベミス高地こうちたたかいで、アーノルドはケベックのときおなあしおよび臀部でんぶした負傷ふしょうした。テレビ局てれびきょくヒストリーは、もしこのときかれ急所きゅうしょたれてんでいたら、英雄えいゆうのまま記憶きおくされ裏切うらぎものばれることはなかったであろうとコメントした。アーノルド自身じしんあしわりにむねたれていたらかったとっていた。サラトガでの挫折ざせつつづいて、補給ほきゅう物資ぶっし不足ふそくし、退路たいろたれた(おおくはアーノルドの功績こうせき)バーゴインは降伏ごうぶくするしかなかった。

歴史れきしたちはアーノルドがサラトガ方面ほうめん作戦さくせんかがやかしい結果けっか演出えんしゅつしたものであり、勇気ゆうき独創どくそうせいしめし、軍事ぐんじてき栄光えいこうつつまれたことに同意どういしている。かれ決戦けっせんとなったベミス高地こうちたたかいのとき独力どくりょくでバーゴインの脱出だっしゅつこころみを阻止そししたとわれている。しかし、かれとホレイショ・ゲイツ将軍しょうぐんとのあいだにあった確執かくしつゆえに、アーノルドはその功績こうせき自分じぶんのものにできなかった。サラトガの最終さいしゅう戦闘せんとうでの勝利しょうりにアーノルドをことができなかったのではあったが、ゲイツはアーノルドがその権限けんげんえて行動こうどう命令めいれいしたがわなかったとして非難ひなんした。アーノルドはあまりに用心深ようじんぶかくありきたりであるゲイツの軍事ぐんじ戦術せんじゅつかんして軽蔑けいべつしていることをかくさなかった。大陸たいりくぐん上級じょうきゅう士官しかんおおくもアーノルドのゲイツにたいする評価ひょうか同意どういしていた。

サラトガにある長靴ながぐつ記念きねん

サラトガ国立こくりつ歴史れきし公園こうえんにある長靴ながぐつ記念きねんはアーノルドの勝利しょうり英雄えいゆうてき行動こうどう戦闘せんとうちゅうあしきずったことを記念きねんするものである。しかし、アーノルドはのち大陸たいりくぐん裏切うらぎったために、その名前なまえく、記念きねんられている文字もじは、「大陸たいりくぐんもっと光輝ひかりかがやいた兵士へいしに...そのくにのためにはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうなか決定的けっていてき戦闘せんとうを、かれ自身じしんのために少将しょうしょうった」とされているだけである。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにある戦争せんそう記念きねんなかで、記念きねんされるもの名前なまえいのはこれだけである[52]

アーノルドはサラトガでけたきず治療ちりょうのため、オールバニの病院びょういん入院にゅういんした。かれ左足ひだりあしかなくなったが、その切断せつだんゆるさなかった。なやましい数ヶ月すうかげつのち左足ひだりあし右足みぎあしよりも2インチ (5 cm) みじかくなってのこった[53]。オールバニですうヶ月かげつごしたのち子供こどもたちちかくにいられるように、コネチカットのミドルタウン転属てんぞくになった。そこでからだ快復かいふくあいだ、ベッチー・デブロアにさらに2哀願あいがん手紙てがみおくった。最初さいしょ手紙てがみたいして彼女かのじょ断固だんことした拒否きょひつたえた。2つ手紙てがみには返事へんじなかった[54]。アーノルドは旅行りょこうできるまで快復かいふくしたときにコネチカットをって、1778ねん5がつ20日はつかにはバレーフォージ軍務ぐんむもどり、サラトガでアーノルドにつかえた兵士へいしたち乱暴らんぼう歓迎かんげいけた[55]。そこではおおくの軍人ぐんじんたちともに、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの忠誠ちゅうせいしるしとして、はじめて記録きろくされた忠誠ちゅうせい宣誓せんせいしき参加さんかした[56]

フィラデルフィアでの指揮しき[編集へんしゅう]

1778ねん6がつ、フィラデルフィアからイギリスぐん撤退てったいし、ワシントンはアーノルドをそのまち軍事ぐんじ指揮しきかん任命にんめいした[57]。このころ、アーノルドはフランスとアメリカの同盟どうめいった。フレンチ・インディアン戦争せんそうでのにが経験けいけんがあったので、かれはこの同盟どうめいつよ反対はんたいした。皮肉ひにくにもフランスおうルイ16せいをしてアメリカと同盟どうめいむす戦争せんそう協力きょうりょくすることに同意どういさせた契機けいきは、アーノルドが決定的けっていてき役割やくわりえんじたサラトガの勝利しょうりだった[58]

アメリカぐんがフィラデルフィアをもどまえであっても、アーノルドはそこの支配しはいけん変化へんか財政ざいせいてき利用りようする計画けいかくはじめていた。戦争せんそう関連かんれんする物資ぶっしうごきから利益りえきすようにかんがえた様々さまざま取引とりひきかかわり、その権限けんげんした恩恵おんけいあずかろうとした。これらの計画けいかくかならずしも合法ごうほうではなく、当時とうじはその倫理りんり高度こうどあやしげなものにられていた。その計画けいかくいくつかは政治せいじりょくをもっていたジョセフ・リードなど熱狂ねっきょうてき愛国あいこくしゃ行動こうどうさまたげられた。これらのしょう取引とりひき資本しほん必要ひつようとし、アーノルドはそれをりることがおおかった。アーノルドはペンのマンションをり、上流じょうりゅう社会しゃかいのためにかえしパーティをひらくなど贅沢ぜいたくらしぶりでその負債ふさいやした。事態じたい複雑ふくざつにしたのはアーノルドが比較的ひかくてき強力きょうりょくなペンシルベニア政府せいふ大陸たいりく会議かいぎあいだ管理かんりめんいたばさみになっていたという事実じじつであり、そのことで目的もくてきたっするため人口じんこうおおくに要求ようきゅうくっしなければならないこともおおかった[59]。リードたちはアーノルドの職分しょくぶんにおける一連いちれんのごまかしをききこんでおり、アーノルドとリードやその支持しじしゃたちあいだ言葉ことばたたかいがはじまった。1789ねん2がつまでに、アーノルドが職権しょっけん乱用らんようしているという様々さまざま告発こくはつおおやけになされた[60]。5月、アーノルドは「わたしくにのためにくしてびっこになっても、こんな感謝かんしゃしんもない仕打しうちを期待きたいしていただろうか」とワシントンにおくって完全かんぜん軍法ぐんぽう会議かいぎ要求ようきゅうした[61]軍法ぐんぽう会議かいぎ延期えんきされ(1779ねん12がつまで開廷かいていされなかった)、アーノルドは大陸たいりく会議かいぎ怠慢たいまんについて再度さいど憤懣ふんまんつのおこることになった[62]

ペギー・シッペンとむすめトーマス・ローレンス

1778ねんなつに、アーノルドはペギー・シッペンと出会であった。彼女かのじょは、おう党派とうは同調どうちょうしゃでイギリスぐんがフィラデルフィアを占領せんりょうしているときに取引とりひきおこなっていたエドワード・シッペン判事はんじむすめ陽気ようきな18さいだった[63]。ペギーはイギリスぐんがフィラデルフィアを占領せんりょうしているあいだに、イギリスぐん少佐しょうさジョン・アンドレ交際こうさいしたことがあった[64]4がつ8にち、アーノルドとペギーは結婚けっこんした[65]。ペギーとその交友こうゆうサークルは戦線せんせんをこえて愛人あいじん接触せっしょくつづける方法ほうほうつけていた。これはてきとの対話たいわきんじる軍事ぐんじほうおかしていた[66]。この通信つうしんいくつかはフィラデルフィアの商人しょうにんジョセフ・スタンスベリーをつうじておこなわれていた[67]

1779ねん5がつ初旬しょじゅんごろ、アーノルドはスタンスベリーとった。スタンスベリーはアーノルドとったのちで、「わたしは(アーノルドが)ヘンリー・クリントン将軍しょうぐんつかえるという申出もうしでしょってひそかにニューヨークへった」と証言しょうげんした[68](イギリスぐんへの証言しょうげんあきらかにあやまってその日付ひづけを6がつにしている)。これがアーノルドとクリントン将軍しょうぐんのスパイ主任しゅにんであるジョン・アンドレ少佐しょうさとの一連いちれん交渉こうしょうはじまりとなった。7月から10がつけて、二人ふたりなんもアーノルドがイギリスがわ寝返ねがえることについて交渉こうしょうし、アーノルドは軍隊ぐんたい位置いち勢力せいりょく、さらには物資ぶっし貯蔵ちょぞうしょ位置いちなど情報じょうほうをイギリスぐん提供ていきょうした。

軍法ぐんぽう会議かいぎ[編集へんしゅう]

1779ねん12月、アーノルドにたいする告発こくはつ審問しんもんする軍法ぐんぽう会議かいぎはじめられた。判事はんじせきすわったおおくのものがアーノルドの行動こうどう戦争せんそう前半ぜんはん論争ろんそうについて悪意あくいいていたという事実じじつにもかかわらず、1780ねん1がつ26にちにアーノルドはちいさな2けん告発こくはつのぞいて無罪むざいとされた[69]。アーノルドはその数ヶ月すうかげつあいだこの事実じじつ宣伝せんでんすることにつとめた。しかし、ワシントンが5月19にちまれたアーノルドの息子むすこ、エドワード・シッペン・アーノルドのことでおいをべたときから丁度ちょうど1週間しゅうかん、ワシントンはアーノルドの行動こうどうかんする非難ひなんしょ出版しゅっぱんした[70]

そう司令しれいかんはアーノルド少将しょうしょうとしてこのくにのために傑出けっしゅつしたはたらきをした士官しかん称賛しょうさん言葉ことばおく機会きかいせっしてよろこばしいかぎりである。しかし、現時点げんじてん義務ぎむかん虚心坦懐きょしんたんかいなところでは、(告発こくはつされた行動こうどうでの)かれおこないは軽率けいそつ不適切ふてきせつだったとかんがえると宣言せんげんせざるをない。 — ジョージ・ワシントンが出版しゅっぱんしたコメント, April 6, 1780[71]

ワシントンの非難ひなんしょてからあいだもなく、アーノルドの出費しゅっぴかんする大陸たいりく会議かいぎ査問さもんで、アーノルドがケベック侵攻しんこうあいだ発生はっせいした出費しゅっぴ十分じゅうぶん証明しょうめい出来できず、かれがそれらを文書ぶんしょ提出ていしゅつできなかったので、大陸たいりく会議かいぎたいして1,000ポンドほどの借金しゃっきんがあると結論けつろんけた。それら文書ぶんしょおおくはケベックからの退却たいきゃくうしなわれていた。これにおこったアーノルドは4がつ下旬げじゅんにフィラデルフィア軍事ぐんじ指揮しき官職かんしょく辞任じにんした[72]

ウェストポイント[編集へんしゅう]

アーノルドの暗号あんごうぶんひとつ、アーノルドの暗号あんごうつまのペギーがいたくだりあいだまれた
ジョン・アンドレ少佐しょうさ、イギリスぐんヘンリー・クリントン将軍しょうぐんのスパイ主任しゅにん、アーノルドの策謀さくぼうたした役割やくわりのために逮捕たいほされ絞首刑こうしゅけいにされた

秘密ひみつ対話たいわ[編集へんしゅう]

アンドレがクリントン将軍しょうぐん相談そうだんすると、クリントンはアーノルドの提案ていあん実行じっこうするためにアンドレに幅広はばひろ権限けんげんあたえた。アンドレはスタンスベリーとアーノルドにたいする指示しじしょいた[73]。この最初さいしょ手紙てがみでアーノルドが提供ていきょうする援助えんじょ情報じょうほう内容ないようかんする議論ぎろんはじまり、今後こんごどのように通信つうしんおこなうかの指示しじされた。文書ぶんしょはペギー・アーノルドがくわわっている女性じょせいのサークルをつうじてわたされるが、ペギーだけがアーノルド暗号あんごうえないインクでかれた指示しじふく文書ぶんしょ気付きづき、スタンスベリーを伝令でんれい使つかってアンドレにわたされるものとされた[74]

1779ねん7がつまでにアーノルドは情報じょうほうわたしながらそのあいだ報奨ほうしょうについて交渉こうしょうした。アーノルドははじめにかれうしなった10,000ポンドの補償ほしょうもとめた。このがくはチャールズ・リーが大陸たいりくぐん従軍じゅうぐんしたことにたいして大陸たいりく会議かいぎあたえたがくひとしかった[75]。クリントン将軍しょうぐんハドソンがわ流域りゅういき支配しはいするために作戦さくせん遂行すいこうちゅうであり、ハドソンがわまもるウェストポイントなどの防御ぼうぎょぶつかんする作戦さくせん情報じょうほう興味きょうみった。また対面たいめんしての対話たいわ主張しゅちょうするようになり、アーノルドにたかいレベルの指揮しき官職かんしょくあたえることを示唆しさした[76]。9月までに交渉こうしょう中断ちゅうだんされた[77]。さらに愛国あいこくしゃ暴徒ぼうとがロイヤリストをもとめてフィラデルフィアをさがまわっており、アーノルドとシッペン脅威きょういかんじていた。アーノルドは自分じぶんとその係累けいるい安全あんぜん確保かくほするよう大陸たいりく会議かいぎ地元じもと政府せいふもとめていたが、それも拒絶きょぜつされた[78]

ウェストポイント引渡ひきわたしの提案ていあん[編集へんしゅう]

1780ねん4がつ初旬しょじゅんにフィリップ・スカイラーがアーノルドにウェストポイントの指揮しき官職かんしょくあたえる可能かのうせい示唆しさしていた。スカイラーとワシントンのあいだのこのけんかんする議論ぎろんは6がつ初旬しょじゅんまでなん結果けっかまなかった。アーノルドはイギリスとの秘密ひみつ連絡れんらくせん再開さいかいし、スカイラーの提案ていあんとスカイラーによるウェストポイントの状態じょうたいかんする評価ひょうかつたえた。またコネチカットがわさかのぼっていくフランスとアメリカ連合れんごうによるケベック侵略しんりゃく提案ていあんかんする情報じょうほうあたえた(アーノルドはこの提案ていあんがイギリスの勢力せいりょく分散ぶんさんさせるための計略けいりゃくであることをらなかった)。6月16にち、アーノルドは自分じぶん事業じぎょう面倒めんどうるためにコネチカットの自宅じたくかえ途中とちゅうでウェストポイントを調査ちょうさし、秘密ひみつ連絡れんらくつうじてかなり詳細しょうさい報告ほうこくしょおくった[79]。コネチカットにくと自宅じたく売却ばいきゃくする手配てはいをし、ニューヨークの仲介ちゅうかいじんつうじて資産しさんロンドンうつはじめた。7がつ初旬しょじゅんまでにはフィラデルフィアにもどり、7がつ7にちにまた秘密ひみつ文書ぶんしょをクリントンにててき、ウェストポイントへの任官にんかん確保かくほされたことを示唆しさし、「防御ぼうぎょ工作こうさく...それで貴方あなたが(ウェストポイントを)無傷むきずれられる」までも提供ていきょうするといた[80]

クリントン将軍しょうぐんとアンドレ少佐しょうさ勝利しょうりしたチャールストン包囲ほういせんから6がつ18にちもどっており、即座そくざにこのしらせにびついた。クリントンはワシントンぐんとフランス艦隊かんたいがロードアイランドで合流ごうりゅうすることを心配しんぱいしており、再度さいどウェストポイントを戦略せんりゃくてき奪取だっしゅ目標もくひょう設定せっていした。アンドレはアーノルドの行動こうどう見守みまもるスパイや情報じょうほう提供ていきょうしゃっており、そのうごきを確認かくにんした。クリントンはその計画けいかく可能かのうせい興奮こうふんして、情報じょうほう作戦さくせんについて上官じょうかん報告ほうこくしたが、7がつ7にちけのアーノルドの手紙てがみ返事へんじくこととをおこたった[81]

アーノルドは7がつ7にちけの手紙てがみたいする返事へんじまえにも、クリントンにてて一連いちれん手紙てがみいた。7月11にちけの手紙てがみではイギリスがかれ信用しんようしていないようにえると苦情くじょうい、進展しんてんしなければ交渉こうしょうめるとおどした。7月12にちにも手紙てがみき、ウェストポイントをわたすという提案ていあん明白めいはくにしたが、報酬ほうしゅうは(損失そんしつぶん補償ほしょうくわえて)20,000ポンドまでげ、返書へんしょ頭金あたまきん1,000ポンドをはらうよう要求ようきゅうした。これらの手紙てがみはスタンスベリーではなく、イギリスのためにスパイをはたらいていたべつのフィラデルフィア実業じつぎょうであるサミュエル・ウォリスによって運搬うんぱんされた[82]

ウェストポイント指揮しきかん[編集へんしゅう]

ビバリー・ロビンソン大佐たいさいえ、ウェストポイントにおけるアーノルドの作戦さくせん本部ほんぶとして使つかわれた

1780ねん8がつ3にち、アーノルドはウェストポイント指揮しきかんしょくた。8月16にち、アンドレからクリントンの最終さいしゅう提案ていあんである20,000ポンドをしるした暗号あんごうぶんった。損失そんしつ補償ほしょうけずられていた。前線ぜんせんえた伝言でんごんむずかしさのために、数日すうじつあいだ双方そうほうともにその提案ていあん相手方あいてがたみとめたことをらなかった。アーノルドのその手紙てがみはワシントンぐんうごきの詳細しょうさい編成へんせいされつつあるフランスぐん援軍えんぐんかんする情報じょうほうふくまれていた。8月25にち、クリントンが条件じょうけん同意どういしたという手紙てがみをペギーが配達はいたつした[83]

ワシントンはアーノルドにウェストポイント指揮しき官職かんしょくあたえるとき、オールバニからハドソンがわくだってニューヨーク郊外こうがいのイギリスぐん前線ぜんせんまでアメリカぐん支配しはいしている流域りゅういき全体ぜんたいまたが権限けんげんあたえた。アーノルドはウェストポイントにかう途中とちゅうで、りょうぐんたいしてじゅうスパイをはたらいていることをっていたジョシュア・ヘット・スミスとの面識めんしきあらたにした。スミスはウェストポイントの西にし、ハドソンがわ西岸せいがんちかくにいえっていた[84]

フランスによるウェストポイントの地図ちず、1780ねん

アーノルドは一旦いったんウェストポイントにくと、その防御ぼうぎょ戦闘せんとうりょく体系たいけいてきよわはじめた。ハドソンがわわたしたくさり修繕しゅうぜんする必要ひつようがあったが、それを発注はっちゅうすることはかった。兵士へいしたちはアーノルドの指揮しき範囲はんいなか自由じゆう分散ぶんさんさせ(ただしウェストポイント自体じたいなかかぎった)、あるいはワシントンの要請ようせいこたえて派遣はけんした。ワシントンには物資ぶっし欠乏けつぼうについて苦情くじょうってこまらせ、「あらゆるものが不足ふそくしている」といた[85]同時どうじにウェストポイントの物資ぶっしきさせるように仕向しむけ、包囲ほういせんをやれば成功せいこうしやすくした。かれ部下ぶかたち何人なんにんかはながいだったが、必要ひつよう物資ぶっし配分はいぶんにぶつぶつ文句もんくい、最後さいごはアーノルドが私益しえきのためにやみ市場いちば物資ぶっしながしているのだと結論けつろんけた[85]

8がつ30にち、アーノルドはクリントンの条件じょうけんみ、べつ仲介ちゅうかいしゃつうじてアンドレとの会見かいけん提案ていあんする手紙てがみおくった。その仲介ちゅうかいしゃとはアーノルドが信頼しんらいるとかんがえるコネチカット議会ぎかい議員ぎいんのウィリアム・ヘロンだった。ヘロンは喜劇きげきてき展開てんかいではあるが、手紙てがみ重大じゅうだいさをらずにニューヨークにって、自身じしんがイギリスのためにスパイとしてはたら提案ていあんおこなった。そのコネチカットにかえり、アーノルドの行動こうどううたがってそれをコネチカット民兵みんぺいたいちょうわたした。パーソンズ将軍しょうぐん暗号あんごうされた手紙てがみ取引とりひきじょう通信つうしんて、それをよこいていた。4にち、アーノルドはおな内容ないよう暗号あんごうされた手紙てがみ捕虜ほりょつま奉仕ほうしつうじてニューヨークにおくった[86]最終さいしゅうてき会見かいけんは9月11にちにドブスのわたちかくでおこなわれるよう設定せっていされた。この会見かいけんは、アーノルドのせまった到着とうちゃくいてらされていなかったイギリスの砲艦ほうかんかわにいて、アーノルドのボートに砲撃ほうげきしたので中止ちゅうしされた[87]

陰謀いんぼう露呈ろてい[編集へんしゅう]

アーノルドとアンドレは9月21にちにやっとジョシュア・ヘット・スミスのいえ会見かいけんした。9月22にちあさ、バープランクスポイントの前進ぜんしん基地きち任務にんむにあたっていたジェイムズ・リビングストン大佐たいさが、アンドレをニューヨークにもどすつもりだったイギリスの艦船かんせんHMSベンチュア砲撃ほうげきした。このできごとでベンチュア川下かわしも退避たいひせざるをなかったので、アンドレは陸路りくろニューヨークにもどるしかなくなった。アーノルドはアンドレが前線ぜんせん通過つうかできるように通行つうこうしょうき、またウェストポイントにかんする作戦さくせん手渡てわたした[88]。アンドレは9月23にちにタリータウンちかくでつかまり、陰謀いんぼう露呈ろていした[89]

アーノルドはよく9がつ24にちあさ、アンドレの逮捕たいほった。ジョン・ジェイムソン大佐たいさからの伝言でんごんでアンドレがジェイムソンの監督かんとくにあり、アンドレがっていた文書ぶんしょはジョージ・ワシントンにおくったとげてきた。アーノルドはワシントンの来訪らいほうっているときにジェイムソンの伝言でんごんった。ワシントンとは朝食ちょうしょくともにする計画けいかくだった[90]。アーノルドは大急おおいそぎで川岸かわぎしかい、はしけの船頭せんどうベンチュア停泊ていはくしている川下かわしもれてくよう命令めいれいした[91]。そのあさはやく、ジョン・ボーンズの支援しえんもあって、イギリスかん乗船じょうせん出発しゅっぱつできた。その艦上かんじょうでアーノルドはワシントンにてて手紙てがみ[92]、ペギーがフィラデルフィアの家族かぞくところまで安全あんぜん移動いどうできるようたのんだ。この依頼いらいをワシントンはみとめた[93]。ワシントンはアーノルドが裏切うらぎった証拠しょうこせられたとき冷静れいせいだったと報告ほうこくされている。しかし、裏切うらぎりの程度ていど調査ちょうささせ、アンドレ少佐しょうさ運命うんめいかんしてクリントン将軍しょうぐん交渉こうしょうしたときに、アンドレとアーノルドを交換こうかんする用意よういがあることをつたえた。この提案ていあんをクリントンは拒否きょひし、アンドレは10月2にちにタッパンでスパイとして絞首刑こうしゅけいしょせられた。ワシントンはアーノルドを誘拐ゆうかいするためにニューヨークに要員よういん潜入せんにゅうさせることもした。この作戦さくせん成功せいこうしそうになったが、アーノルドが12月にバージニアにかうため事前じぜん宿所しゅくしょえていたので失敗しっぱいした[94]

アーノルドは『アメリカの住人じゅうにんてて』とだいする公開こうかい文書ぶんしょでその行動こうどう正当せいとうしようとした。この文書ぶんしょは10がつ新聞しんぶん掲載けいさいされた[95]。ワシントンにててペギーを無事ぶじおくとどけることを依頼いらいした手紙てがみで、「わたしくにたいするあいわたし現在げんざい行動こうどうてた。しかし世間せけんにはそれが矛盾むじゅんしてうつるかもしれない。世間せけん如何いかなるもの行動こうどうまさしく判断はんだんすることは滅多めったい。」といていた[92]

イギリスへの奉仕ほうし[編集へんしゅう]

独立どくりつ戦争せんそうでの従軍じゅうぐん[編集へんしゅう]

イギリスはアーノルドになぞらえしょうあたえ、すうひゃくポンドの年収ねんしゅうけたが、その陰謀いんぼう失敗しっぱいしたために6,315ポンドの報酬ほうしゅう年金ねんきん360ポンドしかはらわなかった[4]。12月にクリントンの命令めいれいで、アーノルドは1,600めい部隊ぶたいひきいてバージニア植民しょくみん遠征えんせいし、リッチモンド急襲きゅうしゅうして占領せんりょうし、バージニアちゅうあばれまわって物資ぶっし倉庫そうこ鋳造ちゅうぞうしょおよび製粉せいふんしょ破壊はかいした[96]。この行動こうどうでバージニアの民兵みんぺいたい出動しゅつどうしたので、アーノルドはバージニアのポーツマスまで退却たいきゃくし、撤収てっしゅうするか援軍えんぐんつしかなくなった。追撃ついげきするアメリカぐんなかにはラファイエット侯爵こうしゃくがおり、アーノルドをつかまえれば即座そくざ絞首刑こうしゅけいにするようワシントンから命令めいれいけていた。ウィリアム・フィリップス(サラトガではバーゴインのしたはたらいていた)がひきいる援軍えんぐんが3がつ下旬げじゅん到着とうちゃくし、フィリップスはさらにバージニアちゅう襲撃しゅうげきたいひきいてまわり、ピーターズバーグのたたかいではストイベン男爵だんしゃくやぶったが、1781ねん5月12にち黄熱病おうねつびょうんだ。アーノルドはその部隊ぶたいを5月20にちまでの短期間たんきかんひきいたが、チャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐんがその南部なんぶぐんひきいて到着とうちゃくしたので指揮しきけんわたした。ある大佐たいさはクリントンにてた手紙てがみでアーノルドについて「だれ将軍しょうぐん指揮しきってしいとねがわねばならないおおくの士官しかんがいる」とおくった[97]。コーンウォリスは海岸かいがんからとおはなれたところ恒久こうきゅうてき基地きちをおくというアーノルドが提出ていしゅつした忠告ちゅうこく無視むししたが、それを実行じっこうしておればヨークタウンでの降伏ごうぶくけられていたかもしれない[97]。アーノルドは捕虜ほりょとしてらえた士官しかんに、大陸たいりくぐんがアーノルドをらえたらどうするだろうとたずねた。その士官しかんは、「あなたの右足みぎあしってぐんそうれい埋葬まいそうします、そしてのこりのからだ絞首こうしゅだいけます。」とこたえた。

ヘンリー・クリントン将軍しょうぐん

アーノルドは6がつにニューヨークにもどると、アメリカじん戦争せんそうわらせることをいるために基本きほんてき経済けいざい目標もくひょう攻撃こうげきつづける様々さまざま提案ていあんおこなった。しかし、クリントンはアーノルドの攻撃こうげきてきなアイディアのほとんどに興味きょうみしめさなかったが、最後さいごれてコネチカットのニューロンドンこう襲撃しゅうげきすることはみとめた。9月4にち、アーノルドとペギーの2人ふたり息子むすこまれてからあいだもないに、アーノルドの1,700めい部隊ぶたいはニューロンドンを襲撃しゅうげきしてやし、グリスウォルドとりで占領せんりょうして推計すいけい50まんドルの損失そんしつあたえた.[98]。イギリスぐん損失そんしつたかく、部隊ぶたいの4ぶんの1ちかくが戦死せんしまたは負傷ふしょうとなり、クリントンがそのような勝利しょうりはこれ以上いじょう容認ようにんできないと主張しゅちょうするようなりつになった[99]

10月にコーンウォリスが降伏ごうぶくするまえであってもアーノルドはイングランドにってジャーメインきょうにこの戦争せんそうかんするかれかんがえをじかつたえたいことについて、クリントンの許可きょかもとめた[100]。コーンウォリス降伏ごうぶくしらせがニューヨークにとどくと、アーノルドはその要請ようせい再開さいかいし、今度こんどはクリントンもみとめた。1781ねん12月8にち、アーノルドは家族かぞくれてニューヨークからイングランドにけて旅立たびだった[101]。ロンドンではトーリーとうくみし、ジャーメインや国王こくおうジョージ3せい助言じょげんおこないアメリカにたいする戦争せんそう再開さいかいするようにった。下院かいんではエドマンド・バークが、「あらゆるイギリスぐん士官しかんいのちよりも大事だいじにするしん名誉めいよかん動揺どうようさせられることのないよう」政府せいふけっしてアーノルドを「イギリスぐん一部いちぶちょうに」えることのないようにという希望きぼう表明ひょうめいした[93]。アーノルドにとって不利ふりになったことに、反戦はんせんのホイッグとう議会ぎかい多数たすうとなり、ジャーメインは辞任じにんいられ、ほどなくフレデリック・ノース内閣ないかく倒壊とうかいした[102]

アーノルドは、そのクリントンにわってそう司令しれいかんとなってニューヨークにかうカールトン将軍しょうぐんとの同行どうこうもうたが、この要請ようせいらちかなかった[102]。そのすう年間ねんかん政府せいふあるいはひがしインド会社かいしゃしょくようというべつこころみはすべ失敗しっぱいし、戦時せんじ減額げんがくされた給与きゅうよ生計せいけいてるしかなくなった[103]。アーノルドの評判ひょうばんもイギリスの新聞しんぶん批判ひはんされ、とくにその愛国心あいこくしんしゅくされたアンドレ少佐しょうさ比較ひかくされたときがひどかった。あるとくきびしい批判ひはんでは、アーノルドが「ちんけな商人しょうにんで、略奪りゃくだつのために目標もくひょうえらび、そのとがめ有罪ゆうざいになったときにそれをめるもの」とっていた[102]。ジョージ・ジョンストンはひがしインド会社かいしゃがわことわときに「わたし貴方あなた行動こうどう純粋じゅんすいさに満足まんぞくするものであるが、大衆たいしゅうはそうはかんがえない。この場合ばあいには、このくにのいかなる権力けんりょくひがしインド会社かいしゃ貴方あなた目指めざ立場たちば突然とつぜんくようなことはいだろう。」としるした[104]

あたらしい事業じぎょう機会きかい[編集へんしゅう]

ローダーレールきょうトマス・ゲインズバラ

1785ねん、アーノルドと息子むすこのリチャードはニューブランズウィックしゅうセントジョン移動いどうし、西にしインド諸島しょとうとの貿易ぼうえきおこな事業じぎょう設立せつりつした。最初さいしょ商船しょうせんロード・シェフィールド到着とうちゃくしたときには、アーノルドがだましたと造船ぞうせん業者ぎょうしゃからの告発こくはついてきた。アーノルドは契約けいやく合意ごういしていた商船しょうせん引渡ひきわたしがおくれたときの損料そんりょういただけだと主張しゅちょうした[105]。その商船しょうせん最初さいしょ航海こうかいえたのち、アーノルドは1786ねん家族かぞくをセントジョンにれてくるためにロンドンにもどった。ロンドンにあいだに、かれがいないあいだにペギーがあらそっていた未払みはら負債ふさいかんする訴訟そしょうまれ、フィラデルフィアにんでいるとき負債ふさい12,000ポンドを解決かいけつするために900ポンドをはらった[106]。1787ねん家族かぞくでセントジョンに移住いじゅうし、アーノルドは一連いちれんのまずい取引とりひき些細ささい訴訟そしょう大騒おおさわぎをこした[107]もっと重大じゅうだい名誉めいよ棄損きそん訴訟そしょう以前いぜん共同きょうどう経営けいえいしゃ勝訴しょうそしたのちまち住人じゅうにんかれいえまえ、ペギーや子供こどもたちているところかれ肖像しょうぞうやした[108]。アーノルド家族かぞく1791ねん12月にセントジョンをはなれてロンドンにもどった[109]

1792ねん7がつ、ローダーデール伯爵はくしゃく貴族きぞくいんでアーノルドの名誉めいよ攻撃こうげきしたのち、アーノルドは伯爵はくしゃく決闘けっとうしたが流血りゅうけつかった[4]フランス革命かくめいこり、アーノルドはわたしかすめせん仕立したてて、危険きけんせいしたものの西にしインド諸島しょとうとの貿易ぼうえきつづけた。グアドループではイギリスのスパイ容疑ようぎでフランス当局とうきょく投獄とうごくされ、守衛しゅえい賄賂わいろわたして海上かいじょう封鎖ふうさちゅうのイギリス艦隊かんたいげることで絞首刑こうしゅけいをなんとかまぬかれた。イギリスが領有りょうゆうする諸島しょとう民兵みんぺいたいげに貢献こうけんし、土地とち所有しょゆうしゃたちからはその努力どりょく称賛しょうさんけた。アーノルドはこの仕事しごとひろ尊敬そんけいあたらしいしょくることをのぞんでいたが、そのわりに自身じしん息子むすこたちのために、アッパー・カナダ現在げんざいオンタリオしゅうレンフルーちか[110])に15,000エーカー (60 km2) の土地とち特許とっきょ[111]

アーノルドのとその評価ひょうか[編集へんしゅう]

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1801ねん1がつ、アーノルドの健康けんこう悪化あっかした[93]。1775ねん以来いらいわずらっていた痛風つうふう[34]怪我けがをしていないあしわるくなって航海こうかいにもられなくなった。怪我けがしたあしつねいたみ、つえくしてはあるけなかった。医者いしゃ浮腫ふしゅだと診断しんだんし、田園でんえんおとずれることだけが一時いちじてきにその容態ようだい改善かいぜんした。このとしの6がつ16にち幻覚げんかく症状しょうじょうが4日間にちかんつづいたのちんだ。60さいだった[93]ゆかにあるときに、「わたし戦闘せんとうたたかったこのふる制服せいふくなせてくれ。かみべつ制服せいふくけてもゆるしてくれる」とったとする伝説でんせつがあるが[112]つくばなし可能かのうせいがある[3]。アーノルドはロンドンのバタシーにあるセントメアリーズ教会きょうかいほうむられた。教区きょうく記録きろくにおける書記しょきあやまりのため、1世紀せいき教会きょうかい改修かいしゅうのときに、その遺骸いがい無縁むえんしゃ共同きょうどう墓地ぼちうつされた[113]葬列そうれつは「7だい葬送そうそうよう大型おおがたよんりん馬車ばしゃと4だい儀式ぎしきよう馬車ばしゃ」がつづいたが[93]ぐんそうれいではなかった[114]

アーノルドは負債ふさいのためにちいさくなった所領しょりょうのこし、負債ふさいはペギーが清算せいさんした[4][93]。その遺産いさん分配ぶんぱいなかに、ニューブランズウィックにとき認知にんちした庶出しょしゅつ息子むすこ、ジョン・セイジに遺贈いぞうされたものがあった[114]

悪魔あくま[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつたいするアーノルドの貢献こうけん大衆たいしゅう文化ぶんかなかでほとんど過少かしょう評価ひょうかされており、その名前なまえは19世紀せいきに「裏切うらぎり」と同義語どうぎごになった。その裏切うらぎりがおおやけになった直後ちょくごにアーノルドの悪魔あくまはじまった。聖書せいしょにある主題しゅだいがしばしば想起そうきされ、ベンジャミン・フランクリンは「ユダただ一人ひとりおとこったが、アーノルドは300まんにんった」としるし、アレクサンダー・スカメルはアーノルドの行動こうどうを「地獄じごくようくろい」と表現ひょうげんした[115]

1865ねん政治せいじ風刺ふうし漫画まんがジェファーソン・デイヴィスとアーノルドが地獄じごく様子ようすえがいている

初期しょき伝記でんき作者さくしゃはアーノルドのぜん生涯しょうがい不誠実ふせいじつ道徳どうとくてき問題もんだいのある行動こうどうえがこうとした。アーノルドにかんする最初さいしょ主要しゅよう伝記でんきは1832ねんにジャレド・スパークスが出版しゅっぱんした『ベネディクト・アーノルドの生涯しょうがい裏切うらぎり』であり、アーノルドのずるかしこ性格せいかく子供こども時代じだい経験けいけんから如何いか形成けいせいされたとされているかをしめして、とくに手厳てきびしい内容ないようになっている[116]。19世紀せいきなかばに一連いちれん道徳どうとくてき伝記でんきあらわしたジョージ・カニング・ヒルは、1865ねんのアーノルドの伝記でんきを「ベネディクト、裏切うらぎものまれは...」ではじめた[117]。ブライアン・カーソは、19世紀せいき進行しんこうするにれて、アーノルドが裏切うらぎったはなし建国けんこく物語ものがたり一部いちぶとして神話しんわちか要素ようそとなり、南北戦争なんぼくせんそうつながる党派とうはてき抗争こうそうすとふたた想起そうきされたとしるした。ワシントン・アーヴィングはその1857ねん著書ちょしょ『ジョージ・ワシントンの生涯しょうがい』のなかで、連邦れんぽう解体かいたいにたいする議論ぎろん一部いちぶ使つかい、独立どくりつみちびいたニューイングランドと南部なんぶもろしゅう一体化いったいかのみがウェストポイントをまもったことで一部いちぶ可能かのうになったと指摘してきした[118]ジェファーソン・デイヴィスなど南部なんぶ分離ぶんり主義しゅぎ指導しどうしゃたちはアーノルドと比較ひかくされることを、あんにまた明確めいかく分離ぶんりかんがかた裏切うらぎりになずらえるのこのまなかった。「ハーパーズ・ウィークリー」は1861ねんに、アメリカ連合れんごうこく指導しどうしゃたちを「すうにんおとこたちがこの巨大きょだい裏切うらぎりを指示しじしており、そのがわではベネディクト・アーノルドが聖人せいじんのようにしろかがやいている」と表現ひょうげんする記事きじ掲載けいさいした[119]

アーノルドの小説しょうせつじょうあつかいもつよ否定ひていてき調子ちょうしびている。『残酷ざんこく少年しょうねん』とだいする道徳どうとくてき子供こども物語ものがたりは19世紀せいきひろまわみされた。このなかではとりからたまごぬすみ、昆虫こんちゅうはねむしり、またそのままな残酷ざんこくさをせる少年しょうねんが、成長せいちょうして母国ぼこく裏切うらぎものになると表現ひょうげんした。この少年しょうねん正体しょうたいほん最後さいごまであきらかにされず、最後さいごまれはコネチカットしゅうのノリッジだとされ、名前なまえはベネディクト・アーノルドとかされる[120]。しかしアーノルドにかんする叙述じょじゅつすべてがつよ否定ひていてきというわけではない。19世紀せいき劇作げきさくではアーノルドの二枚舌にまいじた探求たんきゅうし、悪魔あくまするよりも理解りかいしようとしている[121]

アメリカ独立どくりつあつか小説しょうせつときとしてアーノルドを登場とうじょうさせている。アーノルドをがいして肯定こうていてきあつかっている著名ちょめいなものとしては、ケネス・ロバーツによる連作れんさくであり、アーノルドが参戦さんせんしたおおくの方面ほうめん作戦さくせん網羅もうらしている。

  • 『アランデル』(1929ねん出版しゅっぱん) - ケベックのたたかいまでの独立どくりつ戦争せんそう
  • 武器ぶきった暴徒ぼうと』(1933ねん出版しゅっぱん) - サラトガのたたかいまでの独立どくりつ戦争せんそう
  • 『オリバー・ウィズウェル』(1940ねん出版しゅっぱん) - ロイヤリストの見方みかたからの独立どくりつ戦争せんそう

家族かぞく[編集へんしゅう]

マーガレット・マンスフィールドとの結婚けっこんで、アーノルドはつぎの子供こどもたちをもうけた[122][123]

ベネディクト・アーノルド6せい(1768ねん-1795ねん)、イギリスぐん大尉たいい戦死せんし
リチャード・アーノルド(1769ねん-1847ねん
ヘンリー・アーノルド(1772ねん-1826ねん

ペギー・シッペンとの結婚けっこんで、アーノルドはつぎの子供こどもたちをもうけ、息子むすこたちはイギリスぐん活躍かつやくした。

エドワード・シッペン・アーノルド(1780ねん-1813ねん)、中尉ちゅうい
ジェイムズ・ロバートソン・アーノルド(1781ねん-1854ねん)、中将ちゅうじょう
ジョージ・アーノルド(1787ねん-1828ねん)、中佐ちゅうさ
ソフィア・マティルダ・アーノルド(1785ねん-1828ねん
ウィリアム・フィッチ・アーノルド(1794ねん-1846ねん)、大尉たいい

遺産いさん[編集へんしゅう]

サラトガのたたか記念きねんとう、ニューヨークしゅうビクトリーのサラトガ国立こくりつ歴史れきし公園こうえん

ニューヨークしゅうサラトガぐんのサラトガ国立こくりつ歴史れきし公園こうえんとして保存ほぞんされているサラトガ戦場せんじょうあと戦勝せんしょう記念きねんには、サラトガのたたかいで活躍かつやくした4にん英雄えいゆう顕彰けんしょうするかべがんがあるが、ゲイツ、スカイラーおよびモーガンのぞうがあるのみで、そのうちの1つは空白くうはくのままである。ベネディクト・アーノルドのぞうれるためだとわれる[124]

ウェストポイント陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうにわには、独立どくりつ戦争せんそう従軍じゅうぐんしたすべての将軍しょうぐん記念きねんするめいばんがある。1つのめいばんは「少将しょうしょう」という階級かいきゅうと「1740ねんまれ」としるされているだけで[2]名前なまえ[116]

アーノルドがらしたロンドンの中心ちゅうしんグロスタープレース62ばんいえ現在げんざいのこっており、アーノルドを「アメリカの愛国あいこくしゃ」と記述きじゅつしているめいばんがある[125]

イングランドのバタシーにあるセントメアリーズ教会きょうかいはアーノルドが埋葬まいそうされたところであり、1976ねんから1982ねんあいだ追加ついかされた記念きねんステンドグラスまどがある[126]

カナダのニューブランズウィックしゅう州都しゅうとフレデリクトンにあるニューブランズウィック大学だいがく職員しょくいんクラブには、ベネディクト・アーノルドの部屋へやがある。ここではアーノルド直筆じきひつ手紙てがみがくれられかべけられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Brandt (1994), p. 4
  2. ^ a b アーノルドの出生しゅっしょう記録きろくは1740ねん1がつ3にちまれたとされている(Vital Records of Norwich (1913))。ユリウスれきからグレゴリオれきへの転換てんかんで、このとしはじまりは3がつ25にちから1がつ1にちえられ、アーノルドの誕生たんじょうは1741ねん1がつ11にち記録きろくされている。
  3. ^ a b Martin (1997)
  4. ^ a b c d e f g Fahey
  5. ^ Rogets (2008)
  6. ^ Brandt (1994), pp. 5-6
  7. ^ Price (1984), pp. 38-39
  8. ^ Brandt (1994), p. 6
  9. ^ a b Brandt (1994), p. 7
  10. ^ Flexner (1953), p. 7
  11. ^ Flexner (1953), p. 8
  12. ^ Randall (1990), p. 32
  13. ^ Murphy (2007), p. 18
  14. ^ Murphy (2007), p. 38
  15. ^ Roth (1995), p. 75
  16. ^ Flexner (1953), p. 17
  17. ^ Randall (1990), p. 46
  18. ^ Randall (1990), p. 49
  19. ^ Randall (1990), pp. 52-53
  20. ^ Randall (1990), pp. 56-60
  21. ^ a b Randall (1990), p. 62
  22. ^ Brandt (1994), p. 14
  23. ^ a b c Brandt (1994), p. 38
  24. ^ Randall (1990), p. 64
  25. ^ Randall (1990), p. 68
  26. ^ Brandt (1994), p. 17-18
  27. ^ Brandt (1994), p. 18?19
  28. ^ Randall (1990), p. 85
  29. ^ Committee of Safety
  30. ^ Brandt (1994), p. 27
  31. ^ Randall (1990), p. 98
  32. ^ Dictionary of Canadian Biography Online
  33. ^ Brandt (1994), p. 29
  34. ^ a b Brandt (1994), p. 42
  35. ^ a b c Arnold's expedition is recounted in great detail in Desjardins (2006) and Smith (1903), among other sources.
  36. ^ Brandt (1994), pp. 80-81
  37. ^ Brandt (1994), pp. 82-83
  38. ^ Brandt (1994), p. 85
  39. ^ Martin (1997), p. 210
  40. ^ Brandt (1994), p. 89
  41. ^ Brandt (1994), pp. 90-91
  42. ^ Brandt (1994), p. 91
  43. ^ Brandt (1994), p. 94
  44. ^ a b Brandt (1994), p. 96
  45. ^ Brandt (1994), p. 95
  46. ^ Brandt (1994), p. 97
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  49. ^ Howe, Archibald (1908). Colonel John Brown, of Pittsfield, Massachusetts, the Brave Accuser of Benedict Arnold. Optal eBooks @ www.amazon.com (December 26, 2008). pp. 4-6. http://www.scribd.com/doc/2381381/Colonel-John-Brown-of-Pittsfield-Massachusetts-the-Brave-Accuser-of-Benedict-Arnold-by-Howe-Archibald-Murray-1848 2009ねん5がつ14にち閲覧えつらん 
  50. ^ Brandt (1994), p. 116
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

その参考さんこう図書としょ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]