ベネディクト・アーノルド5世 せい (英 えい : Benedict Arnold V 、1741年 ねん 1月 がつ 14日 にち (ユリウス暦 れき では1740年 ねん 1月 がつ 3日 にち )[1] [2] - 1801年 ねん 6月14日 にち )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう での大陸 たいりく 軍 ぐん 将軍 しょうぐん である。様々 さまざま な戦功 せんこう を挙 あ げアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ に大 おお きく寄与 きよ しながらも、アメリカ側 がわ の将軍 しょうぐん である時 とき にニューヨーク のウェストポイント 砦 とりで でイギリス軍 ぐん へのその引渡 ひきわた しを画策 かくさく したことで知 し られている。この謀略 ぼうりゃく が未遂 みすい に終 お わった後 のち はイギリス軍 ぐん に仕 つか えた。
アーノルドはその狡猾 こうかつ さと勇敢 ゆうかん さで独立 どくりつ 戦争 せんそう の初期 しょき に頭角 とうかく を現 あらわ した。その功績 こうせき としては1775年 ねん のタイコンデロガ砦 とりで 奪取 だっしゅ 、1776年 ねん にシャンプレーン湖 こ におけるバルカー島 とう の戦 たたか い で敗北 はいぼく しながらも良 よ く防 ふせ ぎ敵 てき の侵攻 しんこう を遅 おく らせた戦術 せんじゅつ 、コネチカット植民 しょくみん 地 ち でのリッジフィールドの戦 たたか い(この後 のち で少将 しょうしょう に昇進 しょうしん した)、および戦争 せんそう の転換 てんかん 点 てん となった1777年 ねん のサラトガの戦 たたか い が挙 あ げられる。サラトガでは足 あし を負傷 ふしょう して、その後 ご 数 すう 年間 ねんかん は戦歴 せんれき を積 つ むことができなくなった。
アーノルドはその成功 せいこう にも拘 かかわ らず、昇進 しょうしん では大陸 たいりく 会議 かいぎ に見送 みおく られ、その多 おお くの功績 こうせき は他 た の将官 しょうかん 達 たち に横取 よこど りされた[3] 。多 おお くの政敵 せいてき から汚職 おしょく で告発 こくはつ され、大陸 たいりく 会議 かいぎ がその証言 しょうげん を調査 ちょうさ した結果 けっか 、アーノルドは戦争 せんそう 遂行 すいこう のために私財 しざい を費 つい やしたために借金 しゃっきん を背負 せお った結果 けっか だったことが分 わ かった。アーノルドはひどく憤懣 ふんまん が募 つの り、アメリカがフランスと同盟 どうめい を結 むす んだことに反対 はんたい していたので、1779年 ねん に味方 みかた を裏切 うらぎ る決心 けっしん をした。1780年 ねん 7月 がつ 、ウェストポイント砦 とりで をイギリス軍 ぐん に渡 わた すためにそこの指揮 しき 官職 かんしょく を求 もと めて認 みと められた。しかし、アメリカ軍 ぐん がアーノルドの策略 さくりゃく を書 か いた書類 しょるい を携行 けいこう していたイギリス軍 ぐん のジョン・アンドレ 少佐 しょうさ を捕 つか まえたために、アーノルドの策謀 さくぼう が露呈 ろてい した。アーノルドはアンドレが捕 つか まったことを知 し ると、ハドソン川 がわ を下 くだ ってイギリス海軍 かいぐん のスループ 船 ふね HMSバルチュア に逃亡 とうぼう し、同 おな じ日 び にウェストポイントを査察 ささつ しアーノルドに会 あ って食事 しょくじ を共 とも にするために到着 とうちゃく していたジョージ・ワシントン 将軍 しょうぐん の部隊 ぶたい に捕 つか まるのを辛 かろ うじて免 まぬか れた。
アーノルドはイギリス軍 ぐん で准 じゅん 将 しょう に任官 にんかん され、年金 ねんきん 360ポンドと総額 そうがく 6,000ポンド以上 いじょう の報奨 ほうしょう 金 きん を得 え た[4] 。その後 ご はイギリス軍 ぐん の1部隊 ぶたい を率 ひき いてバージニア植民 しょくみん 地 ち ブランフォードやコネチカット植民 しょくみん 地 ち ゴートンハイツで戦 たたか ったが、ヨークタウンの包囲 ほうい 戦 せん で事実 じじつ 上 じょう の戦争 せんそう は終 お わった。1782年 ねん 冬 ふゆ 、アーノルドは2人 ふたり 目 め の妻 つま マーガレット・"ペギー"・シッペン・アーノルドと共 とも にロンドン に渡 わた った。イギリス国王 こくおう ジョージ3世 せい やトーリー党 とう からは歓待 かんたい されたが、ホイッグ党 とう からは疎外 そがい された。1787年 ねん 、アーノルドはニューブランズウィック のセントジョン で息子 むすこ のリチャードやヘンリーと共 とも に商売 しょうばい の道 みち に入 はい ったが、1791年 ねん に永住 えいじゅう する為 ため にロンドンに戻 もど り、その10年 ねん 後 ご に死 し んだ。
アーノルドは味方 みかた を裏切 うらぎ ったために、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ではその名前 なまえ が直 す ぐに裏切 うらぎ りの代名詞 だいめいし にされた[5] 。その遺 のこ した功績 こうせき に対立 たいりつ する面 めん があることで、彼 かれ の栄誉 えいよ を称 たた えるために立 た てられた幾 いく つかの記念 きねん 碑 ひ を曖昧 あいまい な性格 せいかく にしている。
アーノルドは、1741年 ねん 1月 がつ 14日 にち に[1] 、コネチカットのノリッジ で父親 ちちおや ベネディクト・アーノルド3世 せい (1683年 ねん -1761年 ねん )と母親 ははおや ハンナ・ウォーターマン・キングの6人 にん の子供 こども のうち2番目 ばんめ の子供 こども として生 う まれた。ベネディクトという名前 なまえ はロードアイランド植民 しょくみん 地 ち の知事 ちじ を務 つと めた曾祖父 そうそふ と、幼 おさな くして逝 い った兄 あに ベネディクト4世 せい の名前 なまえ に因 ちな んでいる[1] 。彼 かれ と妹 いもうと のハンナだけが成人 せいじん し、他 た の兄弟 きょうだい は子供 こども の時 とき に黄熱病 おうねつびょう で夭折 ようせつ した[6] 。母方 ははかた の祖母 そぼ は、少 すく なくとも4人 にん のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう (ユリシーズ・S・グラント 、フランクリン・ルーズベルト 、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ 、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ )の祖先 そせん にあたるジョン・ラスロップ の子孫 しそん である[7] 。
アーノルドの父 ちち は成功 せいこう した実業 じつぎょう 家 か であり、家庭 かてい はノリッジの社会 しゃかい で上流 じょうりゅう に上 のぼ り詰 つ めていた。アーノルドが10歳 さい の時 とき に、近 ちか くのカンタベリーにある私立 しりつ 学校 がっこう に入学 にゅうがく し、行 ゆ く行 ゆ くはイェール大学 だいがく まで進学 しんがく することを期待 きたい されていた。しかし、その2年 ねん 後 ご にアーノルドの兄弟 きょうだい 達 たち が死 し んだことで、父親 ちちおや は酒 さけ に溺 おぼ れるようになったために家業 かぎょう が傾 かたむ いていった可能 かのう 性 せい がある。アーノルドが14歳 さい のときには私立 しりつ 学校 がっこう に払 はら う教育 きょういく 費 ひ が無 な くなった。父親 ちちおや がアルコール依存 いぞん 症 しょう と健康 けんこう を害 がい したことで、アーノルドを家業 かぎょう で鍛 きた えることもできなかったが、アーノルドは母親 ははおや の家系 かけい のつながりから、彼女 かのじょ の従兄弟 いとこ でノリッジで薬局 やっきょく と雑貨 ざっか 交易 こうえき を営 いとな んで成功 せいこう していたダニエルとジョシュア・ラスロップの兄弟 きょうだい の所 ところ に奉公 ほうこう に出 だ された[8] 。ラスロップ兄弟 きょうだい の所 ところ での奉公 ほうこう は7年間 ねんかん 続 つづ いた[9] 。
フレンチ・インディアン戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
1755年 ねん に、アーノルドは鼓 こ 隊 たい の音 おと に魅力 みりょく を感 かん じてフランス に対抗 たいこう して従軍 じゅうぐん する為 ため に植民 しょくみん 地 ち の民兵 みんぺい 隊 たい に志願 しがん しようとしたが、母親 ははおや が認 みと めようとしなかった[10] 。1757年 ねん 、16歳 さい のときに民兵 みんぺい 隊 たい に入隊 にゅうたい し、フランス領 りょう カナダ からの侵略 しんりゃく (フレンチ・インディアン戦争 せんそう )に対 たい し、オルバニー とジョージ湖 みずうみ に進軍 しんぐん した。フランスの侵略 しんりゃく はウィリアム・ヘンリー砦 とりで の戦 たたか い で頂点 ちょうてん を迎 むか えた。ここでイギリス軍 ぐん は、ルイ・ジョセフ子爵 ししゃく 指揮 しき 下 か のフランス軍 ぐん に屈辱 くつじょく 的 てき な大敗 たいはい を喫 きっ した。イギリス軍 ぐん の降伏 ごうぶく に続 つづ いて、フランスの同盟 どうめい インディアン はイギリス軍 ぐん と植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん が提示 ていじ した降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を知 し って激怒 げきど した。イギリス軍 ぐん は頭皮 とうひ 、武器 ぶき などの戦利 せんり 品 ひん を約束 やくそく したが、何 なに も実行 じっこう されなかった。イギリス軍 ぐん は捕虜 ほりょ となって護送 ごそう 中 ちゅう に180人 にん 以上 いじょう が虐殺 ぎゃくさつ された。フランス正規 せいき 軍 ぐん はそれを止 と めることができなかった。このできごとは、若 わか く多感 たかん であったアーノルドにフランスに対 たい する変 か わらぬ憎 にく しみを植 う え付 つ け、彼 かれ の後 のち の人生 じんせい に影響 えいきょう することになった。この戦闘 せんとう の悲惨 ひさん な結果 けっか を耳 みみ にしたアーノルドの中隊 ちゅうたい は引 ひ き返 かえ すことになった。アーノルドは13日間 にちかん だけ従軍 じゅうぐん したことになった[11] 。アーノルドが1758年 ねん に民兵 みんぺい 隊 たい から脱走 だっそう したという一般 いっぱん に受 う け入 い れられている話 はなし があるが[12] 、これは不確 ふたし かな文書 ぶんしょ に残 のこ されたものに基 もと づくものである[13] 。
1759年 ねん 、アーノルドが特 とく に愛 あい していた母 はは が亡 な くなり、まだ若 わか い彼 かれ が酒浸 さけびた りの父 ちち と若 わか い妹 いもうと を扶養 ふよう することになった。父 ちち のアルコール依存 いぞん 症 しょう は母 はは の死後 しご さらに悪化 あっか した。彼 かれ は白昼 はくちゅう 酔 よ っぱらって何 なん 度 ど か拘束 こうそく までされており、教会 きょうかい の聖餐 せいさん 式 しき に出 で ることも止 と められた。父 ちち は1761年 ねん に亡 な くなり[9] 、20歳 さい のアーノルドは家名 かめい を昔 むかし のように上 あ げる決心 けっしん をした。
独立 どくりつ 戦争 せんそう 前 まえ の行動 こうどう [ 編集 へんしゅう ]
1762年 ねん 、ラスロップ兄弟 きょうだい の助 たす けもあり、アーノルドはニューヘイブン で薬剤師 やくざいし と本屋 ほんや として事業 じぎょう の実績 じっせき を上 あ げ始 はじ めた。アーノルドには大望 たいぼう があり、積極 せっきょく 的 てき だったので、商売 しょうばい は急速 きゅうそく に拡大 かくだい した。1763年 ねん には、ラスロップ兄弟 きょうだい から借 か りていた金 かね を返済 へんさい し、彼 かれ の父 ちち が負債 ふさい のかたに売 う り払 はら っていた家産 かさん を取 と り戻 もど した。さらに1年 ねん 後 ご 、十分 じゅうぶん な利益 りえき を出 だ してそれを売 う り払 はら った。1764年 ねん 、アーノルドはニューヘイブンの若 わか い商人 しょうにん アダム・バブコックと共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ になった。彼 かれ の家産 かさん を売 う った時 とき に得 え た利益 りえき を元手 もとで に彼 かれ らは3隻 せき の商船 しょうせん を買 か い、有利 ゆうり な西 にし インド諸島 しょとう 貿易 ぼうえき に乗 の り出 だ した。この間 あいだ 、妹 いもうと のハンナをニューヘイブンに連 つ れてきて、彼 かれ が留守 るす でも薬局 やっきょく をやっていけるようにした。アーノルドは自分 じぶん の持 も ち船 せん の1隻 せき を指揮 しき することも多 おお く、ニューイングランド 中 なか やケベック から西 にし インド諸島 しょとう まで商用 しょうよう で旅 たび した。それらの旅 たび の一 ひと つでホンジュラス に行 い ったとき、アーノルドは彼 かれ のことを「ばかなヤンキー、紳士 しんし の作法 さほう も外聞 がいぶん も知 し らぬ奴 やつ め」と罵 ののし ったイギリスの船長 せんちょう と決闘 けっとう した[14] [15] 。その船長 せんちょう は最初 さいしょ の銃撃 じゅうげき を交 か わしたときに傷 きず つき、アーノルドが2発 はつ 目 め の照準 しょうじゅん を合 あ わせて殺 ころ すと脅 おど したときに謝罪 しゃざい した[16] 。
1766年 ねん の政治 せいじ 風刺 ふうし 漫画 まんが 、印紙 いんし 法 ほう の撤廃 てっぱい を伝 つた えている
1764年 ねん の砂糖 さとう 法 ほう と1765年 ねん の印紙 いんし 法 ほう は植民 しょくみん 地 ち での商売 しょうばい をひどく制限 せいげん した[17] 。印紙 いんし 法 ほう が成立 せいりつ するとアーノルドも反対 はんたい の声 こえ を上 あ げる仲間 なかま 達 たち に加 くわ わるようになり、重荷 おもに となるイギリスの議会 ぎかい の法 ほう の執行 しっこう に反対 はんたい するために暴力 ぼうりょく を使 つか うことを恐 おそ れない秘密 ひみつ 結社 けっしゃ である自由 じゆう の息子 むすこ 達 たち にも加 くわ わることになった[18] 。アーノルドは当初 とうしょ 特 とく に大衆 たいしゅう 運動 うんどう に加 くわ わらずに、多 おお くの商人 しょうにん と同 おな じように、印紙 いんし 法 ほう など存在 そんざい していないかのように商売 しょうばい を続 つづ け、実 み のところ法律 ほうりつ を無視 むし して密 みつ 貿易 ぼうえき 業者 ぎょうしゃ のようになっていた。政府 せいふ によって課 か された抑圧 よくあつ 的 てき な税金 ぜいきん のために、多 おお くのニューイングランド商人 しょうにん が苦境 くきょう に追 お い込 こ まれた。アーノルド自身 じしん も個人 こじん 破産 はさん に近 ちか い状態 じょうたい になり、16,000ポンドの借金 しゃっきん を抱 かか えた。債権 さいけん 者 しゃ 達 たち はアーノルドの破産 はさん 状態 じょうたい という噂 うわさ を広 ひろ げ、アーノルドが彼 かれ らに対 たい して法的 ほうてき な措置 そち を取 と るところまで行 い った[19] 。1767年 ねん 1月 がつ 28日 にち の夜 よる 、アーノルドとその船 ふね の乗組 のりくみ 員 いん が自由 じゆう の息子 むすこ 達 たち の群衆 ぐんしゅう に見守 みまも られて、アーノルドの密 みつ 貿易 ぼうえき を当局 とうきょく に密告 みっこく した疑 うたが いのある男 おとこ にけがをさせた。アーノルドは治安 ちあん を乱 みだ した罪 つみ で告訴 こくそ され50シリングの科料 かりょう を払 はら わされた。この事件 じけん に関 かん する報道 ほうどう とアーノルドの見解 けんかい に対 たい する同情 どうじょう が拡 ひろ がったことで、軽 かる い罰 ばち になった[20] 。
1767年 ねん 2月 がつ 22日 にち 、アーノルドはニューヘイブンの保安 ほあん 官 かん で共 とも にフリーメイソン の会員 かいいん になって知 し り合 あ いになったサミュエル・マンスフィールドの娘 むすめ マーガレットと結婚 けっこん した[21] 。翌年 よくねん に長男 ちょうなん のベネディクト6世 せい が生 う まれ[22] 、1769年 ねん にリチャード、1772年 ねん にヘンリーと3人 にん の息子 むすこ に恵 めぐ まれたが[21] 、妻 つま は独立 どくりつ 戦争 せんそう 初期 しょき の1775年 ねん 6月19日 にち に亡 な くなった。これはアーノルドがタイコンデロガ砦 とりで を奪取 だっしゅ してそこに居 い た時 とき だった[23] 。家事 かじ は妻 つま のマーガレットが居 い た時 とき でも、妹 いもうと のハンナが差配 さはい していた。アーノルドは事業 じぎょう の共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ になったマンスフィールドとの関係 かんけい を利用 りよう し、その保安 ほあん 官 かん としての地位 ちい を使 つか って債権 さいけん 者 しゃ から守 まも るようにさせた[24] 。
アーノルドは、1770年 ねん 3月5日 にち にボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん が起 お こったとき西 にし インド諸島 しょとう にいたが、後 のち に「大変 たいへん な衝撃 しょうげき だった」と書 か き、「神 かみ よ、大陸 たいりく の人間 にんげん はみんな眠 ねむ らされて従順 じゅうじゅん に自由 じゆう を放棄 ほうき したのか、あるいはあんな悪党 あくとう 達 たち に仕返 しかえ しもできない哲学 てつがく 者 しゃ になってしまったのか」と悩 なや んだと記 しる した[25] 。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
1775年 ねん 3月 がつ 、ニューヘイブンの市民 しみん が65名 めい でコネチカット防衛 ぼうえい 第 だい 2中隊 ちゅうたい を結成 けっせい した。アーノルドはその指揮 しき 官 かん である大尉 たいい に選 えら ばれ、戦争 せんそう に備 そな えて訓練 くんれん ・鍛錬 たんれん をおこなった[26] 。レキシントン・コンコードの戦 たたか い で独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まったという知 し らせがニューヘイブンに届 とど いたのは4月 がつ 21日 にち だった。アーノルドの中隊 ちゅうたい は翌日 よくじつ ボストン に行軍 こうぐん するべく集合 しゅうごう したが、町 まち 政 まさし 委員 いいん 会 かい は火薬 かやく を渡 わた そうとはしなかった。アーノルドとデイビッド・ウースター の間 あいだ の対立 たいりつ の中 なか で(このことは毎年 まいとし ニューヘイブンの火薬 かやく 庫 こ の日 ひ に再現 さいげん されている)、アーノルドは年上 としうえ のウースターに何 なに としてでも火薬 かやく を手 て に入 い れると主張 しゅちょう して説 と き伏 ふ せた。火薬 かやく 庫 こ が開 ひら かれ、アーノルドの中隊 ちゅうたい は武装 ぶそう できてボストンへの行軍 こうぐん を開始 かいし した[27] 。
1776年 ねん のベネディクト・アーノルド大佐 たいさ
途上 とじょう でアーノルドはコネチカットの議員 ぎいん で民兵 みんぺい 隊 たい の大佐 たいさ であるサミュエル・ホールデン・パーソンズ大佐 たいさ に出会 であ った。二人 ふたり の対話 たいわ の中 なか で、革命 かくめい 軍 ぐん に大砲 たいほう が不足 ふそく していること、シャンプレーン湖 こ のタイコンデロガ砦 とりで に多 おお くの大砲 たいほう があること、その砦 とりで を確保 かくほ するために遠征 えんせい 隊 たい を派遣 はけん すべきことなどを話 はな し合 あ った[28] 。パーソンズはハートフォード に向 む かい、エドワード・モット大尉 たいい に指揮 しき を任 まか せる軍隊 ぐんたい 結成 けっせい のため、資金 しきん を調達 ちょうたつ した。モットは、バーモント (当時 とうじ はニューハンプシャー特許 とっきょ 地 ち として所有 しょゆう 権 けん を巡 めぐ る論争 ろんそう があった)のベニントン で活動 かつどう するイーサン・アレン とそのグリーン・マウンテン・ボーイズと連携 れんけい を取 と るよう指示 しじ された。一方 いっぽう 、アーノルドとコネチカット民兵 みんぺい 隊 たい はマサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち のケンブリッジ に向 む かい、マサチューセッツ安全 あんぜん 委員 いいん 会 かい [29] を説得 せっとく し、砦 とりで を奪取 だっしゅ するための遠征 えんせい 資金 しきん を認 みと めさせた。5月3日 にち 、安全 あんぜん 委員 いいん 会 かい はアーノルドをマサチューセッツ民兵 みんぺい 隊 たい の大佐 たいさ に任命 にんめい し、マサチューセッツで軍隊 ぐんたい を組織 そしき すべく数 すう 人 にん の大尉 たいい をアーノルドの下 した に付 つ けて派遣 はけん した。大尉 たいい 達 たち が兵士 へいし を集 あつ める間 あいだ に、アーノルドは西 にし に向 む かい、ウィリアムズタウンに到着 とうちゃく したときにモットとアレンの活動 かつどう について知 し った。そこから北 きた に転 てん じ、5月9日 にち にキャッスルトンに着 つ くと、既 すで にアレンの部隊 ぶたい が集合 しゅうごう していた。アーノルドは自分 じぶん の任官 にんかん の合法 ごうほう 性 せい を主張 しゅちょう することで遠征 えんせい 隊 たい の指揮 しき 権 けん を得 え ようとしたが、アレンのグリーン・マウンテン・ボーイズはこのとき遠征 えんせい 隊 たい の中 なか でも最大 さいだい の部隊 ぶたい であり、アレン以外 いがい の誰 だれ の指揮 しき 下 か でも行動 こうどう することを拒否 きょひ した。アレンとアーノルドの間 あいだ の個人 こじん 的 てき な交渉 こうしょう によって、妥協 だきょう 点 てん として2人 ふたり が併 あわ せて遠征 えんせい 隊 たい を率 ひき いることになった。
タイコンデロガ砦 とりで の戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
1775年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、早暁 そうぎょう の攻撃 こうげき で実際 じっさい の戦闘 せんとう を行 おこな うこともなくタイコンデロガ砦 とりで が落 お ちた。植民 しょくみん 地 ち の兵士 へいし はイギリス軍 ぐん の守備 しゅび 兵 へい の方 ほう が数 かず が多 おお かったことに驚 おどろ かされた[30] 。続 つづ いて近 ちか くのクラウンポイント砦 とりで とジョージ砦 とりで を占領 せんりょう したが、この2つは守備 しゅび 隊 たい の数 かず が遥 はる かに少 すく なかった[31] 。これらの占領 せんりょう に続 つづ いてアレンの兵士 へいし 達 たち が砦 とりで の酒蔵 さかぐら に押 お し入 い り、幾 いく らか手 て に負 お えない状態 じょうたい になった。砦 とりで の軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし をボストンに運 はこ ぶ可能 かのう 性 せい を考 かんが えて在庫 ざいこ を調 しら べたかったアーノルドは激怒 げきど したが、彼 かれ らを止 と めるには力不足 ちからぶそく だった。アーノルドの部下 ぶか の大尉 たいい 達 たち が徴兵 ちょうへい した兵士 へいし 達 たち が到着 とうちゃく し、捕獲 ほかく してきたスクーナー があったので、アーノルドはモントリオール から遠 とお くないセントジョンズ砦 とりで に大胆 だいたん な襲撃 しゅうげき を実行 じっこう した。このときさらに多 おお くの捕虜 ほりょ を取 と り、またシャンプレーン湖 こ では最大 さいだい の軍艦 ぐんかん を捕獲 ほかく したので、アメリカ軍 ぐん による湖 みずうみ の軍事 ぐんじ 支配 しはい を確立 かくりつ できた。
アーノルドはタイコンデロガ砦 とりで に戻 もど ると、アレンが自分 じぶん の部隊 ぶたい を撤退 てったい させていたので、そこの指揮 しき 権 けん を揮 ふる い始 はじ めた。しかし、コネチカットの兵士 へいし 1,000名 めい を連 つ れたベンジャミン・ハイマン大佐 たいさ が6月 がつ に到着 とうちゃく し、アーノルドを部下 ぶか としてハイマンが指揮 しき を執 と ることを伝 つた えた。アーノルドは革命 かくめい のために行 い った彼 かれ の行動 こうどう が認 みと められていないと感 かん じて激怒 げきど し、その任務 にんむ を辞退 じたい してコネチカットの故郷 こきょう に向 む かった[4] [32] 。アーノルドが怒 おこ って任務 にんむ を放棄 ほうき するという反応 はんのう をしたことは、その軍事 ぐんじ 的 てき 功績 こうせき にも拘 かかわ らず大陸 たいりく 会議 かいぎ の代議員 だいぎいん の中 なか に彼 かれ を嫌 きら う者 もの を生 しょう じさせた[23] 。大陸 たいりく 会議 かいぎ のアーノルドに関 かん する意見 いけん は、アーノルドが敵 てき だと見 み なす2人 ふたり の男 おとこ が回覧 かいらん した報告 ほうこく 書 しょ でさらに悪 わる い方 ほう に流 なが れた。アレンの副官 ふっかん であるジョン・ブラウンとジェイムズ・イーストンの2人 ふたり がマサチューセッツとフィラデルフィア に旅 たび し、その行動 こうどう について報告 ほうこく した。アーノルドの挙動 きょどう に関 かん する彼 かれ らの描写 びょうしゃ は正確 せいかく だったが、アーノルドは彼 かれ らが恐 おそ らくアーノルドのことを中傷 ちゅうしょう したと信 しん じるようになり、両人 りょうにん 共 ども にその後 ご の紛争 ふんそう の種 たね になった[33] 。
アーノルドがオールバニに到着 とうちゃく すると、彼 かれ の妻 つま が死 し んだことを報 しら せる手紙 てがみ を受 う け取 と った[23] 。大陸 たいりく 軍 ぐん 北方 ほっぽう 方面 ほうめん 軍 ぐん の新 あたら しい指揮 しき 官 かん に就任 しゅうにん していたフィリップ・スカイラー 将軍 しょうぐん との会談 かいだん 後 ご にアーノルドはニューヘイブンに戻 もど り、子供 こども 達 たち に会 あ って(この時 とき は妹 いもうと ンのハンナが世話 せわ していた)、商売 しょうばい に戻 もど った。このニューヘイブンに居 い る間 あいだ に最初 さいしょ の痛風 つうふう に襲 おそ われ、生涯 しょうがい それに苦 くる しむことになった[34] 。
タイコンデロガ砦 とりで に居 い たときにアーノルドもアレンも、守 まも りが薄 うす いイギリス領 りょう ケベックを占領 せんりょう するアイディアを大陸 たいりく 会議 かいぎ に提案 ていあん していた。7月にフィリップ・スカイラー少将 しょうしょう がシャンプレーン湖 みずうみ を通 とお ってカナダに侵攻 しんこう する作戦 さくせん を立 た てる任務 にんむ を与 あた えられた。その目的 もくてき はニューヨーク北部 ほくぶ を攻撃 こうげき できる重要 じゅうよう な基地 きち からイギリス軍 ぐん を追 お い払 はら うことだった。スカイラーはこの遠征 えんせい 隊 たい を率 ひき いるつもりだったが、8月 がつ 下旬 げじゅん に出発 しゅっぱつ した遠征 えんせい 行 ぎょう の初期 しょき に病気 びょうき になり、リチャード・モントゴメリー 将軍 しょうぐん がその部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん となった。
ジョン・モントレソールが1760年 ねん に作 つく った地図 ちず 、アーノルドがその遠征 えんせい 隊 たい で使 つか った
アーノルドは別働隊 べつどうたい の提案 ていあん をした。これはメーン のケネベック川 がわ を遡 さかのぼ り、ショーディエール川 がわ を下 くだ ってケベック市 し に至 いた るというものだった。モントリオールとケベック市 し を手 て に入 い れれば、カナダのフランス語 ふらんすご を話 はな す開拓 かいたく 者 しゃ 達 たち がイギリスに対 たい する革命 かくめい に加 くわ わってくれるものとアーノルドは信 しん じていた。ジョージ・ワシントン 将軍 しょうぐん とスカイラーがこの案 あん を承認 しょうにん し、アーノルドをケベック市 し 攻撃 こうげき 隊 たい の大陸 たいりく 軍 ぐん 大佐 たいさ に任命 にんめい した[35] 。
9月19日 にち 、1,100名 めい の部隊 ぶたい がマサチューセッツのニューベリー港 みなと を出港 しゅっこう し、9月22日 にち 、メーンのガーディナーストンに到着 とうちゃく した。そこではリューベン・コルバーン少佐 しょうさ に前 まえ もって200隻 せき の平底 ひらぞこ 船 せん を造 つく るよう手配 てはい していた。これらの船 ふね はケネベック川 がわ とデッド川 かわ を遡 さかのぼ り、ショーディール川 がわ を下 くだ ってケベック市 し に至 いた る軍隊 ぐんたい を運 はこ ぶためのものだった。デッド川上 かわかみ 流 りゅう から分水 ぶんすい 界 かい を超 こ えてショーディール川上 かわかみ 流 りゅう までは、陸路 りくろ で船 ふね を運 はこ んでいく長 なが い道 みち のりがあった。悪天候 あくてんこう 、不正確 ふせいかく な地図 ちず 、川 かわ の流 なが れの速 はや さおよび兵士 へいし がボート操作 そうさ に不慣 ふな れだったことが組 く み合 あ わされて、物資 ぶっし が多 おお く失 うしな われ、300名 めい が脱落 だつらく し、また200名 めい 以上 いじょう が死 し んだ。遠征 えんせい 行 ゆき で残 のこ った600名 めい は11月にセントローレンス川 がわ に着 つ いた時 とき までに飢 う えのためにまた減 へ っていた[35] 。
イギリス軍 ぐん はアーノルドの接近 せっきん を察知 さっち しており、セントローレンス川 がわ の南岸 なんがん にあった水上 すいじょう の乗 の り物 もの (ボート、船 ふね 、砲艦 ほうかん など)の大半 たいはん を破壊 はかい していた。フリゲート 艦 かん リザード (搭載 とうさい 大砲 たいほう 数 すう 26門 もん )とスループ船 せん ハンター (搭載 とうさい 大砲 たいほう 数 すう 16門 もん )の2隻 せき の軍艦 ぐんかん が渡河 とか を阻止 そし するために常 つね に哨戒 しょうかい していた。それにも拘 かか わらず、アーノルドは十分 じゅうぶん な量 りょう の船 ふね を購入 こうにゅう し11月11日 にち にケベック市 し のある対岸 たいがん に渡 わた った。しかしそこでケベックを占領 せんりょう するには彼 かれ の部隊 ぶたい の勢力 せいりょく が不足 ふそく していることに気付 きづ き、援軍 えんぐん を頼 たの むためにモントゴメリー准 じゅん 将 しょう に伝令 でんれい を発 はっ した[35] 。
一方 いっぽう 、リチャード・モントゴメリー准 じゅん 将 しょう は8月 がつ 下旬 げじゅん に約 やく 1,700名 めい の兵士 へいし を連 つ れてタイコンデロガ砦 とりで から北 きた に発進 はっしん した。彼 かれ はセントジョンズ砦 とりで の包囲 ほうい 戦 せん に成功 せいこう した後 のち 、11月13日 にち にモントリオールを占領 せんりょう した。モントゴメリーが12月早々 そうそう にアーノルドの部隊 ぶたい と合流 ごうりゅう し、総勢 そうぜい で約 やく 950名 めい となった。彼 かれ らは12月31日 にち にケベック市 し を攻撃 こうげき した。しかし、カナダの総督 そうとく でイギリス軍 ぐん の指揮 しき 官 かん だったガイ・カールトン によって、大陸 たいりく 軍 ぐん は惨敗 ざんぱい を喫 きっ した。モントゴメリーは襲撃 しゅうげき を率 ひき いているときに戦死 せんし し、残 のこ った一人 ひとり の士官 しかん (ドナルド・キャンベル大佐 たいさ )が撤退 てったい を命令 めいれい した。モントゴメリーの部隊 ぶたい はケベック市 し の壁 かべ に近付 ちかづ くこともできなかった。市 し の反対 はんたい 側 がわ にいたアーノルドの部隊 ぶたい は孤立 こりつ することになった。この戦闘 せんとう の初期 しょき 段階 だんかい でアーノルドは足 あし を負傷 ふしょう した。大陸 たいりく 軍 ぐん の中 なか では最 もっと も敢闘 かんとう したと言 い えるダニエル・モーガン のライフル銃 じゅう 部隊 ぶたい が市内 しない に突入 とつにゅう したが、結局 けっきょく は追 お い詰 つ められて降伏 ごうぶく した。他 ほか にも多 おお くの者 もの が戦死 せんし または負傷 ふしょう し、何 なん 百 ひゃく もの者 しゃ が捕虜 ほりょ となった。
ケベック総督 そうとく のガイ・カールトン 、ケベックとバルカー島 とう でアーノルドと対戦 たいせん した
アーノルドの指揮 しき 下 か に残 のこ ったのは350名 めい ほどになり、無益 むえき なケベック市 し の包囲 ほうい を続 つづ けた。このときにケベック市 し まで到着 とうちゃく できた功績 こうせき により、1月 がつ に准 なぞらえ 将 しょう に昇進 しょうしん されていたことを知 し った。またモントゴメリーに付 つ いて来 き ていたジョン・ブラウン(この時 とき は少佐 しょうさ )と諍 いさか いになった。ブラウンはモントゴメリーから昇進 しょうしん を約束 やくそく していたらしく、それをアーノルドに請求 せいきゅう した。アーノルドはタイコンデロガで受 う けた侮辱 ぶじょく をまだ覚 おぼ えていたのでその昇進 しょうしん を拒否 きょひ し、ブラウンは直 す ぐに直接 ちょくせつ 大陸 たいりく 会議 かいぎ に申請 しんせい した。アーノルドはこのことを自分 じぶん の権威 けんい に対 たい する脅威 きょうい と取 と り、ブラウンとさらにはイーストンを違法 いほう にイギリス軍 ぐん 士官 しかん の袋 ふくろ を略奪 りゃくだつ したとして告発 こくはつ した。イーストンもモントゴメリーがモントリオールを占領 せんりょう した時 とき には従軍 じゅうぐん していたが、このときは南 みなみ に戻 もど っていた。ブラウンがその汚名 おめい を雪 そそ ぐために軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ を要求 ようきゅう したとき、アーノルドは間接 かんせつ 的 てき な手段 しゅだん を使 つか うことでこの二人 ふたり にさらに追 お い討 う ちを掛 か けてやろうとしてこの要求 ようきゅう を拒 こば んだ(結局 けっきょく ブラウンはアーノルドの告発 こくはつ に対 たい して審問 しんもん されることはなかった)[36] 。
アーノルドはデイビッド・ウースター 准 じゅん 将 しょう の援軍 えんぐん が到着 とうちゃく した1776年 ねん の春 はる までケベック市 し の包囲 ほうい を続 つづ けた。指揮 しき を交代 こうたい したアーノルドはモントリオールに行 い って、そこの軍隊 ぐんたい 指揮 しき を執 と った[37] 。
1776年 ねん 5月 がつ 、大陸 たいりく 会議 かいぎ の代表 だいひょう 団 だん がモントリオールを訪問 ほうもん しているときに、イギリスの大 だい 艦隊 かんたい がケベック市 し に到着 とうちゃく し始 はじ め、大陸 たいりく 軍 ぐん は急遽 きゅうきょ ケベック市 し から撤退 てったい することになった[38] 。この5月にアーノルドがソレルの町 まち で撤退 てったい する軍 ぐん の指揮 しき 官 かん や大陸 たいりく 会議 かいぎ の議員 ぎいん と作戦 さくせん 会議 かいぎ を開 ひら いている間 あいだ に始 はじ まったイギリス軍 ぐん とインディアンによるシーダー砦 とりで 攻撃 こうげき によって、アーノルドのモントリオール支配 しはい は困難 こんなん なものになった。アーノルドはこれに対応 たいおう するためにモントリオールに戻 もど って、時宜 じぎ 良 よ く得 え た援軍 えんぐん の助 たす けもあり、シーダー砦 とりで の守備 しゅび 隊 たい を捕 つか まえていたイギリス軍 ぐん との捕虜 ほりょ 交換 こうかん に合意 ごうい した[39] 。この出来事 できごと への対処 たいしょ を話 はな し合 あ う作戦 さくせん 会議 かいぎ の席 せき で、アーノルドは第 だい 2カナダ人 じん 連隊 れんたい の指揮 しき 官 かん であるモーゼス・ヘイズン と激 はげ しい応酬 おうしゅう をした。このことが両 りょう 名 な の軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にまで繋 つな がる一連 いちれん の論争 ろんそう の始 はじ まりとなった[40] 。
アーノルドは続 つづ いてモントリオールに駐屯 ちゅうとん する大陸 たいりく 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい の撤退 てったい 準備 じゅんび を始 はじ めた。大陸 たいりく 会議 かいぎ 議員 ぎいん の指示 しじ に従 したが って地元 じもと の商人 しょうにん から物資 ぶっし の確保 かくほ を始 はじ め、商人 しょうにん 達 たち が後 のち に求償 きゅうしょう できるように物資 ぶっし の受取 うけとり 証 しょう を発行 はっこう した。物資 ぶっし を供給 きょうきゅう した商人 しょうにん を識別 しきべつ するために印 しるし が付 つ けられた物資 ぶっし は6月 がつ 初旬 しょじゅん にシャンブリー砦 とりで に向 む けて船積 ふなづ みされた[41] 。そこの指揮 しき 官 かん だったヘイズンは、彼 かれ の知 し っている商人 しょうにん からそれらの物資 ぶっし を違法 いほう に奪 うば ったものだと信 しん じて、物資 ぶっし の保管 ほかん を拒否 きょひ した(ヘイズンは近 ちか くのセントジョンズ砦 とりで に資産 しさん を所有 しょゆう していて商売 しょうばい 上 じょう の利権 りけん もあったので、モントリオールの商人 しょうにん とは親 した しくしていた)。
アーノルドはヘイズンの行動 こうどう に対 たい して怒 おこ ったが、それを抑 おさ える必要 ひつよう があった。イギリス軍 ぐん がセントローレンス川 がわ を遡 さかのぼ って急襲 きゅうしゅう し、アーノルドは捕 つか まりそうになった。ソレルに派遣 はけん した伝令 でんれい からモントリオール市 し に接近 せっきん しているイギリス艦船 かんせん の存在 そんざい を知 し らされた[42] 。アーノルドはイギリス軍 ぐん が到着 とうちゃく する前 まえ に市内 しない を燃 も やそうと考 かんが えて、出発 しゅっぱつ 前 まえ に点火 てんか を命令 めいれい し、その後 ご セントジョンズ砦 とりで に行 い って、退却 たいきゃく 中 ちゅう の軍隊 ぐんたい の後衛 こうえい に合流 ごうりゅう した。アーノルドは部隊 ぶたい 兵 へい にシャンプレーン湖 こ でイギリス軍 ぐん が使 つか えそうな船 ふね を焼却 しょうきゃく あるいは沈船で破壊 はかい するよう指示 しじ し、砦 とりで や近 ちか くの工作 こうさく 物 ぶつ にも火 ひ を点 つ けさせた。アーノルドはセントジョンズ砦 とりで を脱出 だっしゅつ する前 まえ にイギリス軍 ぐん の前衛 ぜんえい が視界 しかい に入 はい るまで待機 たいき したとされており、その後 ご リシュリュー川 がわ を上 のぼ ってシャンプレーン湖 こ に向 む かった[4] 。
その後 ご 1776年 ねん の夏 なつ を使 つか って湖 みずうみ を支配 しはい するために小 ちい さな戦闘 せんとう 艦 かん と砲艦 ほうかん の船隊 せんたい 建造 けんぞう を指示 しじ し、イギリス軍 ぐん の進行 しんこう を遅 おく らせ、シャンプレーン湖 こ に自由 じゆう に接近 せっきん できないように図 はか った。イギリス軍 ぐん はセントジョンズでさらに大 おお きな船隊 せんたい を造 つく り上 あ げることで対抗 たいこう し、10月には進水 しんすい させた。10月半 なか ばのバルカー島 とう の戦 たたか い でイギリス軍 ぐん はアーノルドの船隊 せんたい を打 う ち破 やぶ った。しかしこの時 とき はもう冬 ふゆ が始 はじ まっており、イギリス軍 ぐん の侵攻 しんこう が止 と まった。アーノルドの防衛 ぼうえい 戦略 せんりゃく は成功 せいこう したと言 い える[4] 。
アーノルドは船隊 せんたい を建造 けんぞう させている間 あいだ に、ヘイズンをシャンブリーでの出来事 できごと に関 かん して職務 しょくむ 怠慢 たいまん の廉 かど で逮捕 たいほ するよう命 めい じた[43] 。ヘイズンは政治 せいじ 的 てき にコネを作 つく るのが上手 じょうず な人間 にんげん だったので(第 だい 2カナダ人 じん 連隊 れんたい を指揮 しき する発令 はつれい はケベックの戦 たたか い後 ご に大陸 たいりく 会議 かいぎ 議員 ぎいん の前 まえ にヘイズンが出頭 しゅっとう した後 のち に行 おこな われた)、アーノルドの告発 こくはつ を逆手 さかて に取 と り、アーノルドが問題 もんだい の物資 ぶっし を盗 ぬす み[44] 、物資 ぶっし を輸送 ゆそう することを任 まか された士官 しかん が途中 とちゅう でそれらを損壊 そんかい させた[45] として反論 はんろん 告発 こくはつ した。その士官 しかん であるスコット少佐 しょうさ は軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ の席 せき に出 で ていたが、(明 あき らかに利害 りがい の対立 たいりつ する当事 とうじ 者 しゃ であるにも拘 かかわ らず)証言 しょうげん することができなかった。軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ ではヘイズンを無罪 むざい とし、アーノルドの逮捕 たいほ を命 めい じた。この会議 かいぎ を主宰 しゅさい したホレイショ・ゲイツ 将軍 しょうぐん が、近付 ちかづ くイギリス軍 ぐん の攻撃 こうげき に備 そな えて、アーノルドの従軍 じゅうぐん が是非 ぜひ とも必要 ひつよう だと主張 しゅちょう して、その逮捕 たいほ 状 じょう を取 と り消 け した[44] 。ヘイズンの告発 こくはつ に対 たい してアーノルドが沈黙 ちんもく したことは、人々 ひとびと が抱 だ いていたアーノルドに関 かん する評価 ひょうか を裏付 うらづ け深 ふか まらせることになった。アーノルドに好意 こうい 的 てき だった者 もの は、理不尽 りふじん な告発 こくはつ に対 たい する尊厳 そんげん ある無 む 反応 はんのう だと認識 にんしき し、一方 いっぽう アーノルドを嫌悪 けんお していた者 もの は現場 げんば を掴 つか まれた者 もの の反応 はんのう だと見 み なした。歴史 れきし 家 か 達 たち は、アーノルドが実際 じっさい に違法 いほう なことに関 かか わっていたのかについて今 いま なお議論 ぎろん を続 つづ けている[46] 。大陸 たいりく 会議 かいぎ 代表 だいひょう のサミュエル・チェイス はアーノルドに「貴方 あなた の最良 さいりょう の友 とも は自国 じこく の民 みん ではない」と警告 けいこく した[47] 。
11月には、タイコンデロガ砦 とりで に居 い た軍隊 ぐんたい の大半 たいはん が、ニュージャージー植民 しょくみん 地 ち に居 い るワシントン軍 ぐん の支援 しえん のために南 みなみ に移動 いどう するよう命 めい じられた。アーノルドはオールバニで再度 さいど 公式 こうしき の告発 こくはつ に直面 ちょくめん した。ブラウンとヘイズンがそれぞれアーノルドの以前 いぜん の行動 こうどう に関 かん する告発 こくはつ 書 しょ を提出 ていしゅつ した。ヘイズンはアーノルドが以前 いぜん にヘイズンに対 たい して突 つ きつけた告発 こくはつ について名誉 めいよ 棄損 きそん の廉 かど で告発 こくはつ し、ブラウンは様々 さまざま な小事 しょうじ で告発 こくはつ したが、特 とく にアーノルドがケベックの軍隊 ぐんたい に意図 いと 的 てき に天然痘 てんねんとう を流行 はや らせたこと、セントジョンズ襲撃 しゅうげき 時 じ に「敵 てき 軍 ぐん への逃亡 とうぼう を図 はか ろうとした反逆 はんぎゃく 行為 こうい 」を行 おこな ったという2件 けん が特筆 とくひつ ものだった[48] 。ゲイツ将軍 しょうぐん はブラウンの告発 こくはつ に関 かん する審問 しんもん を拒否 きょひ し、軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ でヘイズンに対 たい するアーノルドの告発 こくはつ は「ヘイズン大佐 たいさ の人格 じんかく に対 たい する中傷 ちゅうしょう 」となると判決 はんけつ したが、罰則 ばっそく は科 か さなかった[48] 。1776年 ねん から1777年 ねん に掛 か けての冬 ふゆ 、ブラウンはアーノルドについて「金 かね がこの男 おとこ の神 かみ であり、それを十分 じゅうぶん に得 え られるなら自分 じぶん の国 くに も犠牲 ぎせい にすることだろう」と主張 しゅちょう するチラシを出版 しゅっぱん した[49] 。
東部 とうぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん [ 編集 へんしゅう ]
1776年 ねん 12月8日 にち 、イギリス軍 ぐん のヘンリー・クリントン 将軍 しょうぐん の指揮 しき する大 だい 部隊 ぶたい がロードアイランド植民 しょくみん 地 ち のニューポート を占領 せんりょう した。ワシントンは、この時 とき までにゲイツと北部 ほくぶ 軍 ぐん と共 とも にペンシルベニア植民 しょくみん 地 ち に到着 とうちゃく していたアーノルドに、ニューイングランドに戻 もど りロードアイランド防衛 ぼうえい のための民兵 みんぺい 隊 たい を立 た ち上 あ げるよう命令 めいれい した。アーノルドはジョセフ・スペンサー 少将 しょうしょう が指揮 しき する大陸 たいりく 軍 ぐん 東部 とうぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん の副 ふく 司令 しれい 官 かん になった。12月8日 にち 、アーノルドは一 いち 年 ねん 以上 いじょう も家族 かぞく に会 あ っていなかったので、ニューヘイブンで家族 かぞく と共 とも に一 いち 週間 しゅうかん を過 す ごし、1777年 ねん 1月 がつ 12日 にち にプロビデンス に到着 とうちゃく し、ロードアイランド防衛 ぼうえい 隊 たい の指揮 しき を執 と った。ロードアイランドの大陸 たいりく 軍 ぐん は、ワシントンのトレントン攻撃 こうげき に部隊 ぶたい を割 さ いており、約 やく 2,000名 めい に減 へ っていた。アーノルドは追加 ついか 部隊 ぶたい を立 た ち上 あ げることを公表 こうひょう したが、ほとんど応募 おうぼ は無 な かった。15,000名 めい のイギリス軍 ぐん を眼前 がんぜん に置 お き、防御 ぼうぎょ に徹 てっ した。
1777年 ねん 2月 がつ 、ボストンで良 よ く知 し られた王 おう 党派 とうは の娘 むすめ でボストン一 いち の美女 びじょ とも言 い われたベッチー・デブロアと知 し り合 あ い、真剣 しんけん な交際 こうさい を重 かさ ねた。しかし、この「天国 てんごく のデブロア嬢 じょう 」はアーノルドが繰 く り返 かえ しプロポーズしても拒否 きょひ した。彼女 かのじょ はまだ15歳 さい に過 す ぎなかったからだとも言 い われている[50] 。アーノルドがロードアイランドに戻 もど ると、少将 しょうしょう への昇進 しょうしん が大陸 たいりく 会議 かいぎ によって見送 みおく られたことを知 し った。ワシントンはアーノルドの辞任 じにん の申 もう し出 で を拒否 きょひ し、大陸 たいりく 会議 かいぎ 議員 ぎいん にこれを正 ただ すよう手紙 てがみ を書 か き、もし彼 かれ らが政治 せいじ 的 てき に動 うご かされた昇進 しょうしん に固執 こしつ するなら、「2人 ふたり や3人 にん の良 よ い士官 しかん 」が失 うしな われるかもしれないと伝 つた えた[51] 。
イギリス軍 ぐん が占領 せんりょう するニューポートを攻撃 こうげき する作戦 さくせん が棚上 たなあ げされた後 のち に、アーノルドは大陸 たいりく 会議 かいぎ やワシントンと自分 じぶん の将来 しょうらい について話 はな し合 あ うためにフィラデルフィアに向 む かい、途中 とちゅう で再 ふたた び家族 かぞく に会 あ うためにニューヘイブンに立 た ち寄 よ った。4月26日 にち 、そこへ伝令 でんれい が来 き て、イギリス軍 ぐん のニューヨーク最後 さいご のイギリス知事 ちじ ウィリアム・トライアン少将 しょうしょう が2,000名 めい の部隊 ぶたい を連 つ れてノーウォーク に上陸 じょうりく したことを知 し らせた。トライアンはロングアイランド湾 わん に沿 そ ってフェアフィールド に進軍 しんぐん し、内陸 ないりく に入 はい って大陸 たいりく 軍 ぐん の大 おお きな物資 ぶっし 倉庫 そうこ のあるダンベリー を攻 せ めた。どちらの町 まち も火 ひ に包 つつ まれた。トライアンはノーウォークの港 みなと にも火 ひ を付 つ け海 うみ から撤退 てったい した。
アーノルドは急遽 きゅうきょ 地元 じもと の志願 しがん 兵 へい 約 やく 100名 めい を集 あつ めた。彼 かれ は東 ひがし コネチカット民兵 みんぺい 500名 めい を集 あつ めたゴールド・S・シリマン少将 しょうしょう とデイビッド・ウースター少将 しょうしょう のコネチカット民兵 みんぺい 部隊 ぶたい に合流 ごうりゅう した。この二人 ふたり はコネチカット東部 とうぶ から500名 めい の志願 しがん 兵 へい を集 あつ めていた。アーノルドと仲間 なかま の士官 しかん 達 たち はその小 ちい さな部隊 ぶたい をダンベリーの近 ちか くに動 うご かして、退却 たいきゃく するイギリス軍 ぐん を妨害 ぼうがい し嫌 いや がらせをしようとした。4月 がつ 27日 にち 午前 ごぜん 11時 じ 、ウースターの部隊 ぶたい がタイロンの後衛 こうえい を捉 とら え戦闘 せんとう に入 はい った。アーノルドはリッジフィールド 郊外 こうがい の農園 のうえん に移動 いどう し、イギリス軍 ぐん の撤退 てったい を止 と めようとした。それに続 つづ く小競 こぜ り合 あ い(リッジフィールドの戦 たたか い )の間 あいだ にウースターが戦死 せんし した。アーノルドも彼 かれ の馬 うま が撃 う たれて倒 たお れたときに足 あし に傷 きず を負 お った。
ダンベリーでの戦 たたか いの後 のち 、アーノルドはフィラデルフィアへの移動 いどう を再開 さいかい し、5月16日 にち に到着 とうちゃく した。この時 とき 、スカイラー将軍 しょうぐん もフィラデルフィアに居 い たが直 す ぐに作戦 さくせん 本部 ほんぶ のあるオールバニーに戻 もど った。このことでフィラデルフィア地区 ちく ではアーノルドの位階 いかい が最 さい 上位 じょうい となり、そこの指揮 しき を執 と るものと思 おも われた。しかし、大陸 たいりく 会議 かいぎ は政治 せいじ 的 てき 配慮 はいりょ によりペンシルベニアの新 あたら しく昇進 しょうしん したトマス・ミフリン 少将 しょうしょう の方 ほう を好 この んだ。アーノルドは以前 いぜん にも昇進 しょうしん を見送 みおく られていた。このことでアーノルドの不満 ふまん は募 つの った。アーノルドは7月 がつ 11日 にち にそこでの任務 にんむ を辞 じ した。その直後 ちょくご 、ワシントン将軍 しょうぐん がアーノルドに北方 ほっぽう 方面 ほうめん 軍 ぐん の任務 にんむ に就 つ くよう大陸 たいりく 会議 かいぎ に要請 ようせい してきた。このときタイコンデロガ砦 とりで がイギリス軍 ぐん の手 て に落 お ちていた。このことはワシントンの指揮 しき 官 かん としてのアーノルドに対 たい する信頼 しんらい を表 あらわ しており、大陸 たいりく 会議 かいぎ もワシントンの要請 ようせい を認 みと めた。
General ホレイショ・ゲイツ 将軍 しょうぐん 、サラトガで大陸 たいりく 軍 ぐん を率 ひき いた。 ギルバート・スチュアート画 が 、1793年 ねん -94年 ねん
1777年 ねん の夏 なつ は独立 どくりつ 戦争 せんそう の転換 てんかん 点 てん となった。サラトガ方面 ほうめん 作戦 さくせん は、ニューヨーク北部 ほくぶ のオールバニー近辺 きんぺん で戦 たたか われた一連 いちれん の戦闘 せんとう であり、サラトガの戦 たたか い での大陸 たいりく 軍 ぐん の勝利 しょうり と、ジョン・バーゴイン 率 ひき いるイギリス軍 ぐん の10月17日 にち の降伏 ごうぶく で終 お わった。アーノルドはこれらの戦闘 せんとう で大 おお きな役割 やくわり を演 えん じた。アーノルドが1777年 ねん 8月 がつ にスカイラーの宿営 しゅくえい 地 ち に到着 とうちゃく すると、即座 そくざ に部隊 ぶたい を率 ひき いてスタンウィックス砦 とりで で包囲 ほうい されている部隊 ぶたい の救出 きゅうしゅつ に派遣 はけん された。続 つづ いてサラトガの2つの戦 たたか いでは傑出 けっしゅつ した働 はたら きをし、ホレイショ・ゲイツが2つ目 め の戦闘 せんとう であるベミス高地 こうち の戦 たたか い の前 まえ にアーノルドを野戦 やせん 指揮 しき 官 かん から外 はず していたにも拘 かかわ らず功績 こうせき を挙 あ げた。ベミス高地 こうち の戦 たたか いで、アーノルドはケベックの時 とき と同 おな じ足 あし および臀部 でんぶ の下 した を負傷 ふしょう した。テレビ局 てれびきょく のヒストリー は、もしこの時 とき 彼 かれ が急所 きゅうしょ を撃 う たれて死 し んでいたら、英雄 えいゆう のまま記憶 きおく され裏切 うらぎ り者 もの と呼 よ ばれることはなかったであろうとコメントした。アーノルド自身 じしん 足 あし の代 か わりに胸 むね を撃 う たれていたら良 よ かったと言 い っていた。サラトガでの挫折 ざせつ に続 つづ いて、補給 ほきゅう 物資 ぶっし が不足 ふそく し、退路 たいろ を断 た たれた(多 おお くはアーノルドの功績 こうせき )バーゴインは降伏 ごうぶく するしかなかった。
歴史 れきし 家 か 達 たち はアーノルドがサラトガ方面 ほうめん 作戦 さくせん の輝 かがや かしい結果 けっか を演出 えんしゅつ した者 もの であり、勇気 ゆうき と独創 どくそう 性 せい を示 しめ し、軍事 ぐんじ 的 てき 栄光 えいこう に包 つつ まれたことに同意 どうい している。彼 かれ は決戦 けっせん となったベミス高地 こうち の戦 たたか いの時 とき に独力 どくりょく でバーゴインの脱出 だっしゅつ の試 こころ みを阻止 そし したと言 い われている。しかし、彼 かれ とホレイショ・ゲイツ将軍 しょうぐん との間 あいだ にあった確執 かくしつ の故 ゆえ に、アーノルドはその功績 こうせき を自分 じぶん のものにできなかった。サラトガの最終 さいしゅう 戦闘 せんとう での勝利 しょうり にアーノルドを欠 か く事 こと ができなかったのではあったが、ゲイツはアーノルドがその権限 けんげん を超 こ えて行動 こうどう し命令 めいれい に従 したが わなかったとして非難 ひなん した。アーノルドはあまりに用心深 ようじんぶか くありきたりであるゲイツの軍事 ぐんじ 戦術 せんじゅつ に関 かん して軽蔑 けいべつ していることを隠 かく さなかった。大陸 たいりく 軍 ぐん の上級 じょうきゅう 士官 しかん の多 おお くもアーノルドのゲイツに対 たい する評価 ひょうか に同意 どうい していた。
サラトガにある長靴 ながぐつ 記念 きねん 碑 ひ
サラトガ国立 こくりつ 歴史 れきし 公園 こうえん にある長靴 ながぐつ 記念 きねん 碑 ひ はアーノルドの勝利 しょうり 、英雄 えいゆう 的 てき 行動 こうどう と戦闘 せんとう 中 ちゅう に足 あし に傷 きず を負 お ったことを記念 きねん するものである。しかし、アーノルドは後 のち に大陸 たいりく 軍 ぐん を裏切 うらぎ ったために、その名前 なまえ は無 な く、記念 きねん 碑 ひ に彫 ほ られている文字 もじ は、「大陸 たいりく 軍 ぐん で最 もっと も光輝 ひかりかがや いた兵士 へいし に...その国 くに のためにはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の中 なか で決定的 けっていてき な戦闘 せんとう を、彼 かれ 自身 じしん のために少将 しょうしょう の位 い を勝 か ち取 と った」とされているだけである。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく にある戦争 せんそう 記念 きねん 碑 ひ の中 なか で、記念 きねん される者 もの の名前 なまえ が無 な いのはこれだけである[52] 。
アーノルドはサラトガで受 う けた傷 きず の治療 ちりょう のため、オールバニの病院 びょういん に入院 にゅういん した。彼 かれ の左足 ひだりあし は利 き かなくなったが、その切断 せつだん は許 ゆる さなかった。悩 なや ましい数ヶ月 すうかげつ の後 のち 、左足 ひだりあし は右足 みぎあし よりも2インチ (5 cm) 短 みじか くなって残 のこ った[53] 。オールバニで数 すう ヶ月 かげつ 過 す ごした後 のち 、子供 こども 達 たち の近 ちか くにいられるように、コネチカットのミドルタウン に転属 てんぞく になった。そこで体 からだ の快復 かいふく を待 ま つ間 あいだ 、ベッチー・デブロアにさらに2度 ど 哀願 あいがん の手紙 てがみ を送 おく った。最初 さいしょ の手紙 てがみ に対 たい して彼女 かのじょ は断固 だんこ とした拒否 きょひ を伝 つた えた。2つ目 め の手紙 てがみ には返事 へんじ も来 こ なかった[54] 。アーノルドは旅行 りょこう できるまで快復 かいふく したときにコネチカットを発 た って、1778年 ねん 5月 がつ 20日 はつか にはバレーフォージ で軍務 ぐんむ に戻 もど り、サラトガでアーノルドに仕 つか えた兵士 へいし 達 たち の乱暴 らんぼう な歓迎 かんげい を受 う けた[55] 。そこでは他 た の多 おお くの軍人 ぐんじん 達 たち と共 とも に、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく への忠誠 ちゅうせい の印 しるし として、初 はじ めて記録 きろく された忠誠 ちゅうせい 宣誓 せんせい 式 しき に参加 さんか した[56] 。
フィラデルフィアでの指揮 しき [ 編集 へんしゅう ]
1778年 ねん 6月 がつ 、フィラデルフィアからイギリス軍 ぐん が撤退 てったい し、ワシントンはアーノルドをその町 まち の軍事 ぐんじ 指揮 しき 官 かん に任命 にんめい した[57] 。この頃 ころ 、アーノルドはフランス とアメリカの同盟 どうめい を知 し った。フレンチ・インディアン戦争 せんそう での苦 にが い経験 けいけん があったので、かれはこの同盟 どうめい に強 つよ く反対 はんたい した。皮肉 ひにく にもフランス王 おう ルイ16世 せい をしてアメリカと同盟 どうめい を結 むす び戦争 せんそう に協力 きょうりょく することに同意 どうい させた契機 けいき は、アーノルドが決定的 けっていてき な役割 やくわり を演 えん じたサラトガの勝利 しょうり だった[58] 。
アメリカ軍 ぐん がフィラデルフィアを取 と り戻 もど す前 まえ であっても、アーノルドはそこの支配 しはい 権 けん の変化 へんか を財政 ざいせい 的 てき に利用 りよう する計画 けいかく を始 はじ めていた。戦争 せんそう に関連 かんれん する物資 ぶっし の動 うご きから利益 りえき を生 う み出 だ すように考 かんが えた様々 さまざま な取引 とりひき に関 かか わり、その権限 けんげん の下 した で恩恵 おんけい に与 あずか ろうとした。これらの計画 けいかく は必 かなら ずしも合法 ごうほう ではなく、当時 とうじ はその倫理 りんり が高度 こうど に怪 あや しげなものに見 み られていた。その計画 けいかく の幾 いく つかは政治 せいじ 力 りょく をもっていたジョセフ・リードなど熱狂 ねっきょう 的 てき な愛国 あいこく 者 しゃ の行動 こうどう で妨 さまた げられた。これらの商 しょう 取引 とりひき は資本 しほん を必要 ひつよう とし、アーノルドはそれを借 か りることが多 おお かった。アーノルドはペンのマンションを借 か り、上流 じょうりゅう 社会 しゃかい のために繰 く り返 かえ しパーティを開 ひら くなど贅沢 ぜいたく な暮 く らしぶりでその負債 ふさい を増 ふ やした。事態 じたい を複雑 ふくざつ にしたのはアーノルドが比較的 ひかくてき 強力 きょうりょく なペンシルベニア政府 せいふ と大陸 たいりく 会議 かいぎ の間 あいだ に管理 かんり 面 めん で板 いた ばさみになっていたという事実 じじつ であり、そのことで目的 もくてき を達 たっ する為 ため に人口 じんこう の多 おお い邦 くに の要求 ようきゅう に屈 くっ しなければならないことも多 おお かった[59] 。リード達 たち はアーノルドの職分 しょくぶん における一連 いちれん のごまかしをき込 きこ んでおり、アーノルドとリードやその支持 しじ 者 しゃ 達 たち の間 あいだ に言葉 ことば の戦 たたか いが始 はじ まった。1789年 ねん 2月 がつ までに、アーノルドが職権 しょっけん を乱用 らんよう しているという様々 さまざま な告発 こくはつ が公 おおやけ になされた[60] 。5月、アーノルドは「私 わたし は国 くに のために尽 つ くしてびっこになっても、こんな感謝 かんしゃ の心 しん もない仕打 しう ちを期待 きたい していただろうか」とワシントンに書 か き送 おく って完全 かんぜん な軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ を要求 ようきゅう した[61] 。軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ は延期 えんき され(1779年 ねん 12月 がつ まで開廷 かいてい されなかった)、アーノルドは大陸 たいりく 会議 かいぎ の怠慢 たいまん について再度 さいど 憤懣 ふんまん が募 つの り怒 おこ ることになった[62] 。
ペギー・シッペンと娘 むすめ 、トーマス・ローレンス 画 が
1778年 ねん の夏 なつ に、アーノルドはペギー・シッペンと出会 であ った。彼女 かのじょ は、王 おう 党派 とうは の同調 どうちょう 者 しゃ でイギリス軍 ぐん がフィラデルフィアを占領 せんりょう しているときに取引 とりひき を行 おこな っていたエドワード・シッペン判事 はんじ の娘 むすめ で陽気 ようき な18歳 さい だった[63] 。ペギーはイギリス軍 ぐん がフィラデルフィアを占領 せんりょう している間 あいだ に、イギリス軍 ぐん の少佐 しょうさ ジョン・アンドレ と交際 こうさい したことがあった[64] 。4月 がつ 8日 にち 、アーノルドとペギーは結婚 けっこん した[65] 。ペギーとその交友 こうゆう サークルは戦線 せんせん をこえて愛人 あいじん と接触 せっしょく を続 つづ ける方法 ほうほう を見 み つけていた。これは敵 てき との対話 たいわ を禁 きん じる軍事 ぐんじ 法 ほう を犯 おか していた[66] 。この通信 つうしん の幾 いく つかはフィラデルフィアの商人 しょうにん ジョセフ・スタンスベリーを通 つう じて行 おこな われていた[67] 。
1779年 ねん 5月 がつ 初旬 しょじゅん 頃 ごろ 、アーノルドはスタンスベリーと会 あ った。スタンスベリーはアーノルドと会 あ った後 のち で、「私 わたし は(アーノルドが)ヘンリー・クリントン将軍 しょうぐん に仕 つか えるという申出 もうしで 書 しょ を持 も って密 ひそ かにニューヨークへ行 い った」と証言 しょうげん した[68] (イギリス軍 ぐん への証言 しょうげん は明 あき らかに誤 あやま ってその日付 ひづけ を6月 がつ にしている)。これがアーノルドとクリントン将軍 しょうぐん のスパイ主任 しゅにん であるジョン・アンドレ少佐 しょうさ との一連 いちれん の交渉 こうしょう の始 はじ まりとなった。7月から10月 がつ に掛 か けて、二人 ふたり は何 なん 度 ど もアーノルドがイギリス側 がわ に寝返 ねがえ ることについて交渉 こうしょう し、アーノルドは軍隊 ぐんたい の位置 いち や勢力 せいりょく 、さらには物資 ぶっし 貯蔵 ちょぞう 所 しょ の位置 いち など情報 じょうほう をイギリス軍 ぐん に提供 ていきょう した。
1779年 ねん 12月、アーノルドに対 たい する告発 こくはつ を審問 しんもん する軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ が始 はじ められた。判事 はんじ 席 せき に座 すわ った多 おお くの者 もの がアーノルドの行動 こうどう や戦争 せんそう 前半 ぜんはん の論争 ろんそう について悪意 あくい を抱 だ いていたという事実 じじつ にも拘 かかわ らず、1780年 ねん 1月 がつ 26日 にち にアーノルドは小 ちい さな2件 けん の告発 こくはつ を除 のぞ いて無罪 むざい とされた[69] 。アーノルドはその後 ご の数ヶ月 すうかげつ 間 あいだ この事実 じじつ を宣伝 せんでん することに努 つと めた。しかし、ワシントンが5月19日 にち に生 う まれたアーノルドの息子 むすこ 、エドワード・シッペン・アーノルドのことでおいを述 の べた時 とき から丁度 ちょうど 1週間 しゅうかん 後 ご 、ワシントンはアーノルドの行動 こうどう に関 かん する非難 ひなん 書 しょ を出版 しゅっぱん した[70] 。
総 そう 司令 しれい 官 かん はアーノルド
少将 しょうしょう としてこの
国 くに のために
傑出 けっしゅつ した
働 はたら きをした
士官 しかん に
称賛 しょうさん の
言葉 ことば を
送 おく る
機会 きかい に
接 せっ して
喜 よろこ ばしい
限 かぎ りである。しかし、
現時点 げんじてん で
義務 ぎむ 感 かん と
虚心坦懐 きょしんたんかい なところでは、(
告発 こくはつ された
行動 こうどう での)
彼 かれ の
行 おこな いは
軽率 けいそつ で
不適切 ふてきせつ だったと
考 かんが えると
宣言 せんげん せざるを
得 え ない。
— ジョージ・ワシントンが出版 しゅっぱん したコメント, April 6, 1780[71]
ワシントンの非難 ひなん 書 しょ が出 で てから間 あいだ もなく、アーノルドの出費 しゅっぴ に関 かん する大陸 たいりく 会議 かいぎ の査問 さもん で、アーノルドがケベック侵攻 しんこう の間 あいだ に発生 はっせい した出費 しゅっぴ を十分 じゅうぶん に証明 しょうめい 出来 でき ず、彼 かれ がそれらを文書 ぶんしょ で提出 ていしゅつ できなかったので、大陸 たいりく 会議 かいぎ に対 たい して1,000ポンドほどの借金 しゃっきん があると結論 けつろん 付 つ けた。それら文書 ぶんしょ の多 おお くはケベックからの退却 たいきゃく 時 じ に失 うしな われていた。これに怒 おこ ったアーノルドは4月 がつ 下旬 げじゅん にフィラデルフィア軍事 ぐんじ 指揮 しき 官職 かんしょく を辞任 じにん した[72] 。
アーノルドの暗号 あんごう 文 ぶん の一 ひと つ、アーノルドの暗号 あんごう は妻 つま のペギーが書 か いた行 くだり の間 あいだ に埋 う め込 こ まれた
ジョン・アンドレ 少佐 しょうさ 、イギリス軍 ぐん ヘンリー・クリントン 将軍 しょうぐん のスパイ主任 しゅにん 、アーノルドの策謀 さくぼう で果 は たした役割 やくわり のために逮捕 たいほ され絞首刑 こうしゅけい にされた
アンドレがクリントン将軍 しょうぐん と相談 そうだん すると、クリントンはアーノルドの提案 ていあん を実行 じっこう するためにアンドレに幅広 はばひろ い権限 けんげん を与 あた えた。アンドレはスタンスベリーとアーノルドに対 たい する指示 しじ 書 しょ を書 か いた[73] 。この最初 さいしょ の手紙 てがみ でアーノルドが提供 ていきょう する援助 えんじょ と情報 じょうほう の内容 ないよう に関 かん する議論 ぎろん が始 はじ まり、今後 こんご どのように通信 つうしん を行 おこな うかの指示 しじ が出 だ された。文書 ぶんしょ はペギー・アーノルドが加 くわ わっている女性 じょせい のサークルを通 つう じて渡 わた されるが、ペギーだけがアーノルド暗号 あんごう と見 み えないインクで書 か かれた指示 しじ を含 ふく む文書 ぶんしょ に気付 きづ き、スタンスベリーを伝令 でんれい に使 つか ってアンドレに渡 わた されるものとされた[74] 。
1779年 ねん 7月 がつ までにアーノルドは情報 じょうほう を渡 わた しながらその間 あいだ に報奨 ほうしょう について交渉 こうしょう した。アーノルドは初 はじ めに彼 かれ の失 うしな った10,000ポンドの補償 ほしょう を求 もと めた。この額 がく はチャールズ・リーが大陸 たいりく 軍 ぐん に従軍 じゅうぐん したことに対 たい して大陸 たいりく 会議 かいぎ が与 あた えた額 がく に等 ひと しかった[75] 。クリントン将軍 しょうぐん はハドソン川 がわ 流域 りゅういき を支配 しはい するために作戦 さくせん を遂行 すいこう 中 ちゅう であり、ハドソン川 がわ を守 まも るウェストポイントなどの防御 ぼうぎょ 物 ぶつ に関 かん する作戦 さくせん や情報 じょうほう に興味 きょうみ を持 も った。また対面 たいめん しての対話 たいわ を主張 しゅちょう するようになり、アーノルドに高 たか いレベルの指揮 しき 官職 かんしょく を与 あた えることを示唆 しさ した[76] 。9月までに交渉 こうしょう は中断 ちゅうだん された[77] 。さらに愛国 あいこく 者 しゃ の暴徒 ぼうと がロイヤリストを求 もと めてフィラデルフィアを探 さが し回 まわ っており、アーノルドとシッペン家 か は脅威 きょうい を感 かん じていた。アーノルドは自分 じぶん とその係累 けいるい の安全 あんぜん を確保 かくほ するよう大陸 たいりく 会議 かいぎ と地元 じもと 政府 せいふ に求 もと めていたが、それも拒絶 きょぜつ された[78] 。
ウェストポイント引渡 ひきわた しの提案 ていあん [ 編集 へんしゅう ]
1780年 ねん 4月 がつ 初旬 しょじゅん にフィリップ・スカイラーがアーノルドにウェストポイントの指揮 しき 官職 かんしょく を与 あた える可能 かのう 性 せい を示唆 しさ していた。スカイラーとワシントンの間 あいだ のこの件 けん に関 かん する議論 ぎろん は6月 がつ 初旬 しょじゅん まで何 なん の結果 けっか も生 う まなかった。アーノルドはイギリスとの秘密 ひみつ の連絡 れんらく 線 せん を再開 さいかい し、スカイラーの提案 ていあん とスカイラーによるウェストポイントの状態 じょうたい に関 かん する評価 ひょうか を伝 つた えた。またコネチカット川 がわ を遡 さかのぼ っていくフランスとアメリカ連合 れんごう によるケベック侵略 しんりゃく の提案 ていあん に関 かん する情報 じょうほう も与 あた えた(アーノルドはこの提案 ていあん がイギリスの勢力 せいりょく を分散 ぶんさん させるための計略 けいりゃく であることを知 し らなかった)。6月16日 にち 、アーノルドは自分 じぶん の事業 じぎょう の面倒 めんどう を見 み るためにコネチカットの自宅 じたく に帰 かえ る途中 とちゅう でウェストポイントを調査 ちょうさ し、秘密 ひみつ の連絡 れんらく 路 ろ を通 つう じてかなり詳細 しょうさい の報告 ほうこく 書 しょ を送 おく った[79] 。コネチカットに着 つ くと自宅 じたく を売却 ばいきゃく する手配 てはい をし、ニューヨークの仲介 ちゅうかい 人 じん を通 つう じて資産 しさん をロンドン に移 うつ し始 はじ めた。7月 がつ 初旬 しょじゅん までにはフィラデルフィアに戻 もど り、7月 がつ 7日 にち にまた秘密 ひみつ 文書 ぶんしょ をクリントンに宛 あ てて書 か き、ウェストポイントへの任官 にんかん が確保 かくほ されたことを示唆 しさ し、「防御 ぼうぎょ 工作 こうさく の絵 え ...それで貴方 あなた が(ウェストポイントを)無傷 むきず で手 て に入 い れられる」までも提供 ていきょう すると書 か いた[80] 。
クリントン将軍 しょうぐん とアンドレ少佐 しょうさ は勝利 しょうり したチャールストン包囲 ほうい 戦 せん から6月 がつ 18日 にち に戻 もど っており、即座 そくざ にこの報 しら せに飛 と びついた。クリントンはワシントン軍 ぐん とフランス艦隊 かんたい がロードアイランドで合流 ごうりゅう することを心配 しんぱい しており、再度 さいど ウェストポイントを戦略 せんりゃく 的 てき 奪取 だっしゅ 目標 もくひょう に設定 せってい した。アンドレはアーノルドの行動 こうどう を見守 みまも るスパイや情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ を持 も っており、その動 うご きを確認 かくにん した。クリントンはその計画 けいかく の可能 かのう 性 せい に興奮 こうふん して、情報 じょうほう 作戦 さくせん について上官 じょうかん に報告 ほうこく したが、7月 がつ 7日 にち 付 づ けのアーノルドの手紙 てがみ に返事 へんじ を書 か くこととを怠 おこた った[81] 。
アーノルドは7月 がつ 7日 にち 付 づ けの手紙 てがみ に対 たい する返事 へんじ を受 う け取 と る前 まえ にも、クリントンに当 あ てて一連 いちれん の手紙 てがみ を書 か いた。7月11日 にち 付 づ けの手紙 てがみ ではイギリスが彼 かれ を信用 しんよう していないように見 み えると苦情 くじょう を言 い い、進展 しんてん しなければ交渉 こうしょう を止 と めると脅 おど した。7月12日 にち にも手紙 てがみ を書 か き、ウェストポイントを引 ひ き渡 わた すという提案 ていあん を明白 めいはく にしたが、報酬 ほうしゅう は(損失 そんしつ 分 ぶん の補償 ほしょう に加 くわ えて)20,000ポンドまで競 せ り上 あ げ、返書 へんしょ で頭金 あたまきん 1,000ポンドを払 はら うよう要求 ようきゅう した。これらの手紙 てがみ はスタンスベリーではなく、イギリスのためにスパイを働 はたら いていた別 べつ のフィラデルフィア実業 じつぎょう 家 か であるサミュエル・ウォリスによって運搬 うんぱん された[82] 。
ウェストポイント指揮 しき 官 かん [ 編集 へんしゅう ]
ビバリー・ロビンソン大佐 たいさ の家 いえ 、ウェストポイントにおけるアーノルドの作戦 さくせん 本部 ほんぶ として使 つか われた
1780年 ねん 8月 がつ 3日 にち 、アーノルドはウェストポイント指揮 しき 官 かん の職 しょく を得 え た。8月16日 にち 、アンドレからクリントンの最終 さいしゅう 提案 ていあん である20,000ポンドを記 しる した暗号 あんごう 文 ぶん を受 う け取 と った。損失 そんしつ 補償 ほしょう は削 けず られていた。前線 ぜんせん を越 こ えた伝言 でんごん を受 う け取 と る難 むずか しさのために、数日 すうじつ 間 あいだ は双方 そうほう 共 とも にその提案 ていあん を相手方 あいてがた が認 みと めたことを知 し らなかった。アーノルドのその後 ご の手紙 てがみ はワシントン軍 ぐん の動 うご きの詳細 しょうさい や編成 へんせい されつつあるフランス軍 ぐん の援軍 えんぐん に関 かん する情報 じょうほう が含 ふく まれていた。8月25日 にち 、クリントンが条件 じょうけん に同意 どうい したという手紙 てがみ をペギーが配達 はいたつ した[83] 。
ワシントンはアーノルドにウェストポイント指揮 しき 官職 かんしょく を与 あた える時 とき 、オールバニからハドソン川 がわ を下 くだ ってニューヨーク市 し 郊外 こうがい のイギリス軍 ぐん 前線 ぜんせん までアメリカ軍 ぐん が支配 しはい している流域 りゅういき 全体 ぜんたい に跨 またが る権限 けんげん も与 あた えた。アーノルドはウェストポイントに向 む かう途中 とちゅう で、両 りょう 軍 ぐん に対 たい して二 に 重 じゅう スパイを働 はたら いていることを知 し っていたジョシュア・ヘット・スミスとの面識 めんしき を新 あら たにした。スミスはウェストポイントの直 す ぐ西 にし 、ハドソン川 がわ の西岸 せいがん 近 ちか くに家 いえ を持 も っていた[84] 。
フランスによるウェストポイントの地図 ちず 、1780年 ねん
アーノルドは一旦 いったん ウェストポイントに落 お ち着 つ くと、その防御 ぼうぎょ と戦闘 せんとう 力 りょく を体系 たいけい 的 てき に弱 よわ め始 はじ めた。ハドソン川 がわ に渡 わた した鎖 くさり を修繕 しゅうぜん する必要 ひつよう があったが、それを発注 はっちゅう することは無 な かった。兵士 へいし 達 たち はアーノルドの指揮 しき 範囲 はんい の中 なか で自由 じゆう に分散 ぶんさん させ(ただしウェストポイント自体 じたい の中 なか に限 かぎ った)、あるいはワシントンの要請 ようせい に応 こた えて派遣 はけん した。ワシントンには物資 ぶっし の欠乏 けつぼう について苦情 くじょう を言 い って困 こま らせ、「あらゆるものが不足 ふそく している」と書 か いた[85] 。同時 どうじ にウェストポイントの物資 ぶっし を尽 つ きさせるように仕向 しむ け、包囲 ほうい 戦 せん をやれば成功 せいこう しやすくした。彼 かれ の部下 ぶか 達 たち の何人 なんにん かは長 なが い付 つ き合 あ いだったが、不 ふ 必要 ひつよう な物資 ぶっし の配分 はいぶん にぶつぶつ文句 もんく を言 い い、最後 さいご はアーノルドが私益 しえき のために闇 やみ 市場 いちば に物資 ぶっし を流 なが しているのだと結論 けつろん 付 つ けた[85] 。
8月 がつ 30日 にち 、アーノルドはクリントンの条件 じょうけん を飲 の み、別 べつ の仲介 ちゅうかい 者 しゃ を通 つう じてアンドレとの会見 かいけん を提案 ていあん する手紙 てがみ を送 おく った。その仲介 ちゅうかい 者 しゃ とはアーノルドが信頼 しんらい に足 た ると考 かんが えるコネチカット議会 ぎかい 議員 ぎいん のウィリアム・ヘロンだった。ヘロンは喜劇 きげき 的 てき な展開 てんかい ではあるが、手紙 てがみ の重大 じゅうだい さを知 し らずにニューヨークに行 い って、自身 じしん がイギリスのためにスパイとして働 はたら く提案 ていあん を行 おこな った。その後 ご コネチカットに持 も ち帰 かえ り、アーノルドの行動 こうどう を疑 うたが ってそれをコネチカット民兵 みんぺい 隊 たい の長 ちょう に渡 わた した。パーソンズ将軍 しょうぐん は暗号 あんごう 化 か された手紙 てがみ を取引 とりひき 上 じょう の通信 つうしん と見 み て、それを横 よこ に置 お いていた。4日 にち 後 ご 、アーノルドは同 おな じ内容 ないよう の暗号 あんごう 化 か された手紙 てがみ を捕虜 ほりょ の妻 つま の奉仕 ほうし を通 つう じてニューヨークに送 おく った[86] 。最終 さいしゅう 的 てき に会見 かいけん は9月11日 にち にドブスの渡 わた し場 ば 近 ちか くで行 おこな われるよう設定 せってい された。この会見 かいけん は、アーノルドの差 さ し迫 せま った到着 とうちゃく に付 つ いて知 し らされていなかったイギリスの砲艦 ほうかん が川 かわ にいて、アーノルドのボートに砲撃 ほうげき したので中止 ちゅうし された[87] 。
アーノルドとアンドレは9月21日 にち にやっとジョシュア・ヘット・スミスの家 いえ で会見 かいけん した。9月22日 にち の朝 あさ 、バープランクスポイントの前進 ぜんしん 基地 きち 任務 にんむ にあたっていたジェイムズ・リビングストン大佐 たいさ が、アンドレをニューヨークに連 つ れ戻 もど すつもりだったイギリスの艦船 かんせん HMSベンチュア を砲撃 ほうげき した。このできごとでベンチュア が川下 かわしも に退避 たいひ せざるを得 え なかったので、アンドレは陸路 りくろ ニューヨークに戻 もど るしかなくなった。アーノルドはアンドレが前線 ぜんせん を通過 つうか できるように通行 つうこう 証 しょう を書 か き、またウェストポイントに関 かん する作戦 さくせん も手渡 てわた した[88] 。アンドレは9月23日 にち にタリータウン近 ちか くで捕 つか まり、陰謀 いんぼう が露呈 ろてい した[89] 。
アーノルドは翌 よく 9月 がつ 24日 にち の朝 あさ 、アンドレの逮捕 たいほ を知 し った。ジョン・ジェイムソン大佐 たいさ からの伝言 でんごん でアンドレがジェイムソンの監督 かんとく 下 か にあり、アンドレが持 も っていた文書 ぶんしょ はジョージ・ワシントンに送 おく ったと告 つ げてきた。アーノルドはワシントンの来訪 らいほう を待 ま っている時 とき にジェイムソンの伝言 でんごん を受 う け取 と った。ワシントンとは朝食 ちょうしょく を共 とも にする計画 けいかく だった[90] 。アーノルドは大急 おおいそ ぎで川岸 かわぎし に向 む かい、はしけの船頭 せんどう にベンチュア が停泊 ていはく している川下 かわしも に連 つ れて行 い くよう命令 めいれい した[91] 。その朝 あさ 早 はや く、ジョン・ボーンズの支援 しえん もあって、イギリス艦 かん に乗船 じょうせん し出発 しゅっぱつ できた。その艦上 かんじょう でアーノルドはワシントンに当 あ てて手紙 てがみ を書 か き[92] 、ペギーがフィラデルフィアの家族 かぞく の所 ところ まで安全 あんぜん に移動 いどう できるよう頼 たの んだ。この依頼 いらい をワシントンは認 みと めた[93] 。ワシントンはアーノルドが裏切 うらぎ った証拠 しょうこ を見 み せられた時 とき 冷静 れいせい だったと報告 ほうこく されている。しかし、裏切 うらぎ りの程度 ていど を調査 ちょうさ させ、アンドレ少佐 しょうさ の運命 うんめい に関 かん してクリントン将軍 しょうぐん と交渉 こうしょう した時 とき に、アンドレとアーノルドを交換 こうかん する用意 ようい があることを伝 つた えた。この提案 ていあん をクリントンは拒否 きょひ し、アンドレは10月2日 にち にタッパンでスパイとして絞首刑 こうしゅけい に処 しょ せられた。ワシントンはアーノルドを誘拐 ゆうかい する為 ため にニューヨークに要員 よういん を潜入 せんにゅう させることもした。この作戦 さくせん は成功 せいこう しそうになったが、アーノルドが12月にバージニアに向 む かう為 ため に事前 じぜん に宿所 しゅくしょ を変 か えていたので失敗 しっぱい した[94] 。
アーノルドは『アメリカの住人 じゅうにん に宛 あ てて』と題 だい する公開 こうかい 文書 ぶんしょ でその行動 こうどう を正当 せいとう 化 か しようとした。この文書 ぶんしょ は10月 がつ に新聞 しんぶん に掲載 けいさい された[95] 。ワシントンに宛 あ ててペギーを無事 ぶじ に送 おく り届 とど けることを依頼 いらい した手紙 てがみ で、「私 わたし の国 くに に対 たい する愛 あい が私 わたし の現在 げんざい の行動 こうどう を駆 か り立 た てた。しかし世間 せけん にはそれが矛盾 むじゅん して映 うつ るかもしれない。世間 せけん は如何 いか なる者 もの の行動 こうどう も正 まさ しく判断 はんだん することは滅多 めった に無 な い。」と書 か いていた[92] 。
独立 どくりつ 戦争 せんそう での従軍 じゅうぐん [ 編集 へんしゅう ]
イギリスはアーノルドに准 なぞらえ 将 しょう の位 い を与 あた え、数 すう 百 ひゃく ポンドの年収 ねんしゅう を付 つ けたが、その陰謀 いんぼう が失敗 しっぱい したために6,315ポンドの報酬 ほうしゅう と年金 ねんきん 360ポンドしか払 はら わなかった[4] 。12月にクリントンの命令 めいれい で、アーノルドは1,600名 めい の部隊 ぶたい を率 ひき いてバージニア植民 しょくみん 地 ち に遠征 えんせい し、リッチモンド を急襲 きゅうしゅう して占領 せんりょう し、バージニア中 ちゅう を暴 あば れまわって物資 ぶっし 倉庫 そうこ 、鋳造 ちゅうぞう 所 しょ および製粉 せいふん 所 しょ を破壊 はかい した[96] 。この行動 こうどう でバージニアの民兵 みんぺい 隊 たい が出動 しゅつどう したので、アーノルドはバージニアのポーツマス まで退却 たいきゃく し、撤収 てっしゅう するか援軍 えんぐん を待 ま つしかなくなった。追撃 ついげき するアメリカ軍 ぐん の中 なか にはラファイエット 侯爵 こうしゃく がおり、アーノルドを捕 つか まえれば即座 そくざ に絞首刑 こうしゅけい にするようワシントンから命令 めいれい を受 う けていた。ウィリアム・フィリップス(サラトガではバーゴインの下 した で働 はたら いていた)が率 ひき いる援軍 えんぐん が3月 がつ 下旬 げじゅん に到着 とうちゃく し、フィリップスはさらにバージニア中 ちゅう の襲撃 しゅうげき 隊 たい を率 ひき いて廻 まわ り、ピーターズバーグの戦 たたか いではストイベン男爵 だんしゃく を破 やぶ ったが、1781年 ねん 5月12日 にち に黄熱病 おうねつびょう で死 し んだ。アーノルドはその部隊 ぶたい を5月20日 にち までの短期間 たんきかん 率 ひき いたが、チャールズ・コーンウォリス将軍 しょうぐん がその南部 なんぶ 軍 ぐん を率 ひき いて到着 とうちゃく したので指揮 しき 権 けん を渡 わた した。ある大佐 たいさ はクリントンに宛 あ てた手紙 てがみ でアーノルドについて「誰 だれ か他 た の将軍 しょうぐん に指揮 しき を執 と って欲 ほ しいと願 ねが わねばならない多 おお くの士官 しかん がいる」と書 か き送 おく った[97] 。コーンウォリスは海岸 かいがん から遠 とお く離 はな れた所 ところ に恒久 こうきゅう 的 てき な基地 きち をおくというアーノルドが提出 ていしゅつ した忠告 ちゅうこく を無視 むし したが、それを実行 じっこう しておればヨークタウンでの降伏 ごうぶく は避 さ けられていたかもしれない[97] 。アーノルドは捕虜 ほりょ として捕 と らえた士官 しかん に、大陸 たいりく 軍 ぐん がアーノルドを捕 と らえたらどうするだろうと尋 たず ねた。その士官 しかん は、「あなたの右足 みぎあし を切 き り取 と って軍 ぐん 葬 そう の礼 れい で埋葬 まいそう します、そして残 のこ りの体 からだ を絞首 こうしゅ 台 だい に掛 か けます。」と答 こた えた。
ヘンリー・クリントン 将軍 しょうぐん
アーノルドは6月 がつ にニューヨークに戻 もど ると、アメリカ人 じん に戦争 せんそう を終 お わらせることを強 し いるために基本 きほん 的 てき に経済 けいざい 目標 もくひょう を攻撃 こうげき し続 つづ ける様々 さまざま な提案 ていあん を行 おこな った。しかし、クリントンはアーノルドの攻撃 こうげき 的 てき なアイディアのほとんどに興味 きょうみ を示 しめ さなかったが、最後 さいご は折 お れてコネチカットのニューロンドン港 こう を襲撃 しゅうげき することは認 みと めた。9月4日 にち 、アーノルドとペギーの2人 ふたり 目 め の息子 むすこ が生 う まれてから間 あいだ もない日 ひ に、アーノルドの1,700名 めい の部隊 ぶたい はニューロンドンを襲撃 しゅうげき して燃 も やし、グリスウォルド砦 とりで を占領 せんりょう して推計 すいけい 50万 まん ドルの損失 そんしつ を与 あた えた.[98] 。イギリス軍 ぐん の損失 そんしつ も高 たか く、部隊 ぶたい の4分 ぶん の1近 ちか くが戦死 せんし または負傷 ふしょう となり、クリントンがそのような勝利 しょうり はこれ以上 いじょう 容認 ようにん できないと主張 しゅちょう するような率 りつ になった[99] 。
10月にコーンウォリスが降伏 ごうぶく する前 まえ であってもアーノルドはイングランドに行 い ってジャーメイン卿 きょう にこの戦争 せんそう に関 かん する彼 かれ の考 かんが えを直 じか に伝 つた えたいことについて、クリントンの許可 きょか を求 もと めた[100] 。コーンウォリス降伏 ごうぶく の報 しら せがニューヨークに届 とど くと、アーノルドはその要請 ようせい を再開 さいかい し、今度 こんど はクリントンも認 みと めた。1781年 ねん 12月8日 にち 、アーノルドは家族 かぞく を連 つ れてニューヨークからイングランドに向 む けて旅立 たびだ った[101] 。ロンドンではトーリー党 とう に与 くみ し、ジャーメインや国王 こくおう ジョージ3世 せい に助言 じょげん を行 おこな いアメリカに対 たい する戦争 せんそう を再開 さいかい するように言 い った。下院 かいん ではエドマンド・バークが、「あらゆるイギリス軍 ぐん 士官 しかん が命 いのち よりも大事 だいじ にする真 しん の名誉 めいよ 感 かん が動揺 どうよう させられることのないよう」政府 せいふ は決 けっ してアーノルドを「イギリス軍 ぐん の一部 いちぶ の長 ちょう に」据 す えることのないようにという希望 きぼう を表明 ひょうめい した[93] 。アーノルドにとって不利 ふり になったことに、反戦 はんせん 派 は のホイッグ党 とう が議会 ぎかい で多数 たすう となり、ジャーメインは辞任 じにん を強 し いられ、程 ほど なくフレデリック・ノース の内閣 ないかく も倒壊 とうかい した[102] 。
アーノルドは、その後 ご クリントンに代 か わって総 そう 司令 しれい 官 かん となってニューヨークに向 む かうカールトン将軍 しょうぐん との同行 どうこう を申 もう し出 で たが、この要請 ようせい は埒 らち が明 あ かなかった[102] 。その後 ご の数 すう 年間 ねんかん 、政府 せいふ あるいは東 ひがし インド会社 かいしゃ に職 しょく を得 え ようという別 べつ の試 こころ みは全 すべ て失敗 しっぱい し、非 ひ 戦時 せんじ の減額 げんがく された給与 きゅうよ で生計 せいけい を立 た てるしかなくなった[103] 。アーノルドの評判 ひょうばん もイギリスの新聞 しんぶん で批判 ひはん され、特 とく にその愛国心 あいこくしん を祝 しゅく されたアンドレ少佐 しょうさ と比較 ひかく された時 とき がひどかった。ある特 とく に厳 きび しい批判 ひはん では、アーノルドが「ちんけな商人 しょうにん で、略奪 りゃくだつ のために目標 もくひょう を選 えら び、その咎 とがめ で有罪 ゆうざい になったときにそれを辞 や める者 もの 」と言 い っていた[102] 。ジョージ・ジョンストンは東 ひがし インド会社 かいしゃ の側 がわ を断 ことわ る時 とき に「私 わたし は貴方 あなた の行動 こうどう の純粋 じゅんすい さに満足 まんぞく するものであるが、大衆 たいしゅう はそうは考 かんが えない。この場合 ばあい には、この国 くに のいかなる権力 けんりょく も東 ひがし インド会社 かいしゃ で貴方 あなた が目指 めざ す立場 たちば に突然 とつぜん 置 お くようなことは無 な いだろう。」と記 しる した[104] 。
新 あたら しい事業 じぎょう 機会 きかい [ 編集 へんしゅう ]
ローダーレール卿 きょう 、トマス・ゲインズバラ 画 が
1785年 ねん 、アーノルドと息子 むすこ のリチャードはニューブランズウィック州 しゅう セントジョン に移動 いどう し、西 にし インド諸島 しょとう との貿易 ぼうえき を行 おこな う事業 じぎょう を設立 せつりつ した。最初 さいしょ の商船 しょうせん ロード・シェフィールド が到着 とうちゃく したときには、アーノルドが騙 だま したと言 い う造船 ぞうせん 業者 ぎょうしゃ からの告発 こくはつ も付 つ いてきた。アーノルドは契約 けいやく で合意 ごうい していた商船 しょうせん の引渡 ひきわた しが遅 おく れたときの損料 そんりょう を引 ひ いただけだと主張 しゅちょう した[105] 。その商船 しょうせん が最初 さいしょ の航海 こうかい を終 お えた後 のち 、アーノルドは1786年 ねん に家族 かぞく をセントジョンに連 つ れてくるためにロンドンに戻 もど った。ロンドンに居 い る間 あいだ に、彼 かれ がいない間 あいだ にペギーが争 あらそ っていた未払 みはら い負債 ふさい に関 かん する訴訟 そしょう に巻 ま き込 こ まれ、フィラデルフィアに住 す んでいる時 とき の負債 ふさい 12,000ポンドを解決 かいけつ するために900ポンドを払 はら った[106] 。1787年 ねん に家族 かぞく でセントジョンに移住 いじゅう し、アーノルドは一連 いちれん のまずい取引 とりひき や些細 ささい な訴訟 そしょう で大騒 おおさわ ぎを起 お こした[107] 。最 もっと も重大 じゅうだい な名誉 めいよ 棄損 きそん の訴訟 そしょう で以前 いぜん の共同 きょうどう 経営 けいえい 者 しゃ に勝訴 しょうそ した後 のち 、町 まち の住人 じゅうにん が彼 かれ の家 いえ の前 まえ 、ペギーや子供 こども 達 たち が見 み ている所 ところ で彼 かれ の肖像 しょうぞう を燃 も やした[108] 。アーノルド家 か の家族 かぞく は1791年 ねん 12月にセントジョンを離 はな れてロンドンに戻 もど った[109] 。
1792年 ねん 7月 がつ 、ローダーデール伯爵 はくしゃく が貴族 きぞく 院 いん でアーノルドの名誉 めいよ を攻撃 こうげき した後 のち 、アーノルドは伯爵 はくしゃく と決闘 けっとう したが流血 りゅうけつ は無 な かった[4] 。フランス革命 かくめい が起 お こり、アーノルドは私 わたし 掠 かすめ 船 せん を仕立 した てて、危険 きけん 性 せい は増 ま したものの西 にし インド諸島 しょとう との貿易 ぼうえき を続 つづ けた。グアドループ ではイギリスのスパイ容疑 ようぎ でフランス当局 とうきょく に投獄 とうごく され、守衛 しゅえい に賄賂 わいろ を渡 わた して海上 かいじょう 封鎖 ふうさ 中 ちゅう のイギリス艦隊 かんたい に逃 に げることで絞首刑 こうしゅけい をなんとか免 まぬか れた。イギリスが領有 りょうゆう する諸島 しょとう で民兵 みんぺい 隊 たい の立 た ち上 あ げに貢献 こうけん し、土地 とち の所有 しょゆう 者 しゃ 達 たち からはその努力 どりょく に称賛 しょうさん を受 う けた。アーノルドはこの仕事 しごと で広 ひろ く尊敬 そんけい と新 あたら しい職 しょく を得 え ることを望 のぞ んでいたが、その代 か わりに自身 じしん と息子 むすこ 達 たち のために、アッパー・カナダ (現在 げんざい のオンタリオ州 しゅう レンフルー 近 ちか く[110] )に15,000エーカー (60 km2 ) の土地 とち 特許 とっきょ を得 え た[111] 。
アーノルドの死 し とその後 ご の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
1801年 ねん 1月 がつ 、アーノルドの健康 けんこう が悪化 あっか した[93] 。1775年 ねん 以来 いらい 患 わずら っていた痛風 つうふう で[34] 、怪我 けが をしていない足 あし が悪 わる くなって航海 こうかい にも出 で られなくなった。怪我 けが した足 あし は常 つね に痛 いた み、杖 つえ 無 な くしては歩 ある けなかった。医者 いしゃ は浮腫 ふしゅ だと診断 しんだん し、田園 でんえん 部 ぶ を訪 おとず れることだけが一時 いちじ 的 てき にその容態 ようだい を改善 かいぜん した。この年 とし の6月 がつ 16日 にち 、幻覚 げんかく 症状 しょうじょう が4日間 にちかん 続 つづ いた後 のち で死 し んだ。60歳 さい だった[93] 。死 し の床 ゆか にあるときに、「私 わたし の戦闘 せんとう を戦 たたか ったこの古 ふる い制服 せいふく で死 し なせてくれ。神 かみ は別 べつ の制服 せいふく を着 つ けても許 ゆる してくれる」と言 い ったとする伝説 でんせつ があるが[112] 、作 つく り話 ばなし の可能 かのう 性 せい がある[3] 。アーノルドはロンドンのバタシー にあるセントメアリーズ教会 きょうかい に葬 ほうむ られた。教区 きょうく 記録 きろく における書記 しょき の誤 あやま りのため、1世紀 せいき 後 ご の教会 きょうかい 改修 かいしゅう のときに、その遺骸 いがい は無縁 むえん 者 しゃ 共同 きょうどう 墓地 ぼち に移 うつ された[113] 。葬列 そうれつ は「7台 だい の葬送 そうそう 用 よう 大型 おおがた 四 よん 輪 りん 馬車 ばしゃ と4台 だい の儀式 ぎしき 用 よう 馬車 ばしゃ 」が続 つづ いたが[93] 、軍 ぐん 葬 そう の礼 れい ではなかった[114] 。
アーノルドは負債 ふさい のために小 ちい さくなった所領 しょりょう を残 のこ し、負債 ふさい はペギーが清算 せいさん した[4] [93] 。その遺産 いさん 分配 ぶんぱい の中 なか に、ニューブランズウィックに居 い た時 とき に認知 にんち した庶出 しょしゅつ の息子 むすこ 、ジョン・セイジに遺贈 いぞう されたものがあった[114] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の独立 どくりつ に対 たい するアーノルドの貢献 こうけん は大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の中 なか でほとんど過少 かしょう に評価 ひょうか されており、その名前 なまえ は19世紀 せいき に「裏切 うらぎ り」と同義語 どうぎご になった。その裏切 うらぎ りが公 おおやけ になった直後 ちょくご にアーノルドの悪魔 あくま 化 か が始 はじ まった。聖書 せいしょ にある主題 しゅだい がしばしば想起 そうき され、ベンジャミン・フランクリン は「ユダ は只 ただ 一人 ひとり の男 おとこ を売 う ったが、アーノルドは300万 まん 人 にん を売 う った」と記 しる し、アレクサンダー・スカメルはアーノルドの行動 こうどう を「地獄 じごく の様 よう に黒 くろ い」と表現 ひょうげん した[115] 。
1865年 ねん の政治 せいじ 風刺 ふうし 漫画 まんが 、ジェファーソン・デイヴィス とアーノルドが地獄 じごく に居 い る様子 ようす を描 えが いている
初期 しょき の伝記 でんき 作者 さくしゃ はアーノルドの全 ぜん 生涯 しょうがい を不誠実 ふせいじつ で道徳 どうとく 的 てき に問題 もんだい のある行動 こうどう で描 えが こうとした。アーノルドに関 かん する最初 さいしょ で主要 しゅよう な伝記 でんき は1832年 ねん にジャレド・スパークスが出版 しゅっぱん した『ベネディクト・アーノルドの生涯 しょうがい と裏切 うらぎ り』であり、アーノルドの狡 ずる 賢 かしこ い性格 せいかく が子供 こども 時代 じだい の経験 けいけん から如何 いか に形成 けいせい されたとされているかを示 しめ して、とくに手厳 てきび しい内容 ないよう になっている[116] 。19世紀 せいき 半 なか ばに一連 いちれん の道徳 どうとく 的 てき 伝記 でんき を著 あらわ したジョージ・カニング・ヒルは、1865年 ねん のアーノルドの伝記 でんき を「ベネディクト、裏切 うらぎ り者 もの 、生 う まれは...」で始 はじ めた[117] 。ブライアン・カーソは、19世紀 せいき が進行 しんこう するに連 つ れて、アーノルドが裏切 うらぎ った話 はなし は建国 けんこく 物語 ものがたり の一部 いちぶ として神話 しんわ に近 ちか い要素 ようそ となり、南北戦争 なんぼくせんそう に繋 つな がる党派 とうは 的 てき 抗争 こうそう が増 ま すと再 ふたた び想起 そうき されたと記 しる した。ワシントン・アーヴィング はその1857年 ねん の著書 ちょしょ 『ジョージ・ワシントンの生涯 しょうがい 』の中 なか で、連邦 れんぽう の解体 かいたい にたいする議論 ぎろん の一部 いちぶ に使 つか い、独立 どくりつ に導 みちび いたニューイングランドと南部 なんぶ 諸 もろ 州 しゅう の一体化 いったいか のみがウェストポイントを守 まも ったことで一部 いちぶ 可能 かのう になったと指摘 してき した[118] 。ジェファーソン・デイヴィス など南部 なんぶ 分離 ぶんり 主義 しゅぎ 指導 しどう 者 しゃ 達 たち はアーノルドと比較 ひかく されることを、暗 あん にまた明確 めいかく に分離 ぶんり の考 かんが え方 かた を裏切 うらぎ りに擬 なずら えるの好 この まなかった。「ハーパーズ・ウィークリー」紙 し は1861年 ねん に、アメリカ連合 れんごう 国 こく の指導 しどう 者 しゃ 達 たち を「数 すう 人 にん の男 おとこ 達 たち がこの巨大 きょだい な裏切 うらぎ りを指示 しじ しており、その側 がわ ではベネディクト・アーノルドが聖人 せいじん のように白 しろ く輝 かがや いている」と表現 ひょうげん する記事 きじ を掲載 けいさい した[119] 。
アーノルドの小説 しょうせつ 上 じょう の扱 あつか いも強 つよ く否定 ひてい 的 てき 調子 ちょうし を帯 お びている。『残酷 ざんこく な少年 しょうねん 』と題 だい する道徳 どうとく 的 てき 子供 こども 向 む け物語 ものがたり は19世紀 せいき に広 ひろ く回 まわ し読 よ みされた。この中 なか では鳥 とり の巣 す から卵 たまご を盗 ぬす み、昆虫 こんちゅう の羽 はね を毟 むし り、またその他 た 気 き ままな残酷 ざんこく さを見 み せる少年 しょうねん が、成長 せいちょう して母国 ぼこく を裏切 うらぎ る者 もの になると表現 ひょうげん した。この少年 しょうねん の正体 しょうたい は本 ほん の最後 さいご まで明 あき らかにされず、最後 さいご に生 う まれはコネチカット州 しゅう のノリッジだとされ、名前 なまえ はベネディクト・アーノルドと明 あ かされる[120] 。しかしアーノルドに関 かん する叙述 じょじゅつ の全 すべ てが強 つよ く否定 ひてい 的 てき というわけではない。19世紀 せいき の劇作 げきさく ではアーノルドの二枚舌 にまいじた を探求 たんきゅう し、悪魔 あくま 化 か するよりも理解 りかい しようとしている[121] 。
アメリカ独立 どくりつ を扱 あつか う小説 しょうせつ は時 とき としてアーノルドを登場 とうじょう させている。アーノルドを概 がい して肯定 こうてい 的 てき に扱 あつか っている著名 ちょめい なものとしては、ケネス・ロバーツによる連作 れんさく であり、アーノルドが参戦 さんせん した多 おお くの方面 ほうめん 作戦 さくせん を網羅 もうら している。
『アランデル』(1929年 ねん 出版 しゅっぱん ) - ケベックの戦 たたか いまでの独立 どくりつ 戦争 せんそう
『武器 ぶき を持 も った暴徒 ぼうと 』(1933年 ねん 出版 しゅっぱん ) - サラトガの戦 たたか いまでの独立 どくりつ 戦争 せんそう
『オリバー・ウィズウェル』(1940年 ねん 出版 しゅっぱん ) - ロイヤリストの見方 みかた からの独立 どくりつ 戦争 せんそう
マーガレット・マンスフィールドとの結婚 けっこん で、アーノルドはつぎの子供 こども 達 たち をもうけた[122] [123] 。
ベネディクト・アーノルド6世 せい (1768年 ねん -1795年 ねん )、イギリス軍 ぐん の大尉 たいい 、戦死 せんし
リチャード・アーノルド(1769年 ねん -1847年 ねん )
ヘンリー・アーノルド(1772年 ねん -1826年 ねん )
ペギー・シッペンとの結婚 けっこん で、アーノルドはつぎの子供 こども 達 たち をもうけ、息子 むすこ 達 たち はイギリス軍 ぐん で活躍 かつやく した。
エドワード・シッペン・アーノルド(1780年 ねん -1813年 ねん )、中尉 ちゅうい
ジェイムズ・ロバートソン・アーノルド(1781年 ねん -1854年 ねん )、中将 ちゅうじょう
ジョージ・アーノルド(1787年 ねん -1828年 ねん )、中佐 ちゅうさ
ソフィア・マティルダ・アーノルド(1785年 ねん -1828年 ねん )
ウィリアム・フィッチ・アーノルド(1794年 ねん -1846年 ねん )、大尉 たいい
サラトガの戦 たたか い記念 きねん 塔 とう 、ニューヨーク州 しゅう ビクトリーのサラトガ国立 こくりつ 歴史 れきし 公園 こうえん
ニューヨーク州 しゅう サラトガ郡 ぐん のサラトガ国立 こくりつ 歴史 れきし 公園 こうえん として保存 ほぞん されているサラトガ戦場 せんじょう 跡 あと に立 た つ戦勝 せんしょう 記念 きねん 碑 ひ には、サラトガの戦 たたか いで活躍 かつやく した4人 にん の英雄 えいゆう を顕彰 けんしょう する壁 かべ 龕 がん があるが、ゲイツ、スカイラーおよびモーガンの像 ぞう があるのみで、その内 うち の1つは空白 くうはく のままである。ベネディクト・アーノルドの像 ぞう を入 い れるためだと言 い われる[124] 。
ウェストポイント の陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう の庭 にわ には、独立 どくりつ 戦争 せんそう で従軍 じゅうぐん した全 すべ ての将軍 しょうぐん を記念 きねん する銘 めい 盤 ばん がある。1つの銘 めい 盤 ばん は「少将 しょうしょう 」という階級 かいきゅう と「1740年 ねん 生 う まれ」と記 しる されているだけで[2] 、名前 なまえ は無 な い[116] 。
アーノルドが暮 く らしたロンドンの中心 ちゅうしん グロスタープレース62番 ばん の家 いえ は現在 げんざい も残 のこ っており、アーノルドを「アメリカの愛国 あいこく 者 しゃ 」と記述 きじゅつ している銘 めい 盤 ばん がある[125] 。
イングランドのバタシーにあるセントメアリーズ教会 きょうかい はアーノルドが埋葬 まいそう された所 ところ であり、1976年 ねん から1982年 ねん の間 あいだ に追加 ついか された記念 きねん ステンドグラス窓 まど がある[126] 。
カナダのニューブランズウィック州 しゅう の州都 しゅうと フレデリクトン にあるニューブランズウィック大学 だいがく の職員 しょくいん クラブには、ベネディクト・アーノルドの部屋 へや がある。ここではアーノルド直筆 じきひつ の手紙 てがみ が額 がく に入 い れられ壁 かべ に掛 か けられている。
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その他 た の参考 さんこう 図書 としょ [ 編集 へんしゅう ]
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