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ホワイト・プレインズのたたか

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ホワイト・プレインズのたたか

ホワイト・プレインズのたたか戦場せんじょう史跡しせき
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1776ねん10月28にち
場所ばしょニューヨークしゅうホワイトプレインズ
結果けっか:グレートブリテン王国おうこくぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
13植民しょくみん大陸たいりくぐん グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
ヘッセン州 ヘッセン=カッセル
指導しどうしゃ指揮しきかん
アメリカ合衆国 ジョージ・ワシントン
アメリカ合衆国 アレクサンダー・マクドウガル
アメリカ合衆国 ジョセフ・スペンサー
グレートブリテン王国の旗 アレクサンダー・レスリー
戦力せんりょく
マクドウガルたい:1,600
スペンサーたい:1,500[1]
4,000-7,500[2]
損害そんがい
マクドウガルたい戦死せんし:28
負傷ふしょう:126
捕虜ほりょ:16[3]
スペンサーたい戦死せんし:22
負傷ふしょう:23
捕虜ほりょ:1[4]
戦死せんし:47
負傷ふしょう:182
捕虜ほりょ:4[4]
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

ホワイト・プレインズのたたかえい: Battle Of White Plains)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうニューヨーク・ニュージャージー方面ほうめん作戦さくせんなかおこなわれた戦闘せんとうである。1776ねん10月28にちに、ニューヨークしゅうホワイトプレインズちかくでおこなわれた。

ロングアイランドのたたか大敗たいはいきっしたジョージ・ワシントン将軍しょうぐんひきいる大陸たいりくぐんが、ニューヨークからきた後退こうたいしたことにつづいて、ウィリアム・ハウ将軍しょうぐんひきいるグレートブリテン王国おうこく(イギリス)ぐんが、ワシントンぐん逃亡とうぼうルートを遮断しゃだんするためにウェストチェスターぐん上陸じょうりくした。このうごきに危険きけんかんじたワシントンはさらに後退こうたいしホワイト・プレインズのむら防御ぼうぎょ陣地じんち構築こうちくしたが、土地とち高台たかだいをしっかりと支配しはいすることができないでいた。ハウの軍隊ぐんたいむらちかおかからワシントンぐんした。ワシントンはこの敗退はいたいによってさらにきた軍隊ぐんたい後退こうたいさせた。

そのイギリスぐんうごきによって、ワシントンぐんニュージャージーえてペンシルベニアまで退却たいきゃくした。1776ねんまった12月26にち、ワシントンはトレントンのたたかでドイツじん傭兵ようへい旅団りょだん急襲きゅうしゅうした。

会戦かいせんまでの経過けいか[編集へんしゅう]

イギリスぐんのハウ将軍しょうぐんは1776ねん3がつボストンわたしたのちノバスコシアハリファックスさい結集けっしゅうし、6がつにはニューヨーク支配しはいするための作戦さくせん出発しゅっぱつした[5]。この作戦さくせんは7がつ初旬しょじゅんスタテンとうへの無抵抗むていこう上陸じょうりくはじまった。イギリスぐんは8がつ22にちにはやはり抵抗ていこうわずにロングアイランド上陸じょうりくした。しかしそのきたにはワシントンの大陸たいりくぐんがそこそこの防御ぼうぎょかまえていた[6]

8がつ27にちのロングアイランドのたたかいでやぶれたワシントンは、8がつ29にちから30にちにかけてのよるにヨークとう現在げんざいマンハッタンしま)に9,000めいぜんぐんとも脱出だっしゅつした[7]。ハウは9月15にちにマンハッタンとう上陸じょうりくしてそのったが、翌日よくじつハーレムハイツのたたかでは敗北はいぼくきっした。そのイギリスぐん一部いちぶブロンクスのスログズネックで上陸じょうりく失敗しっぱいしたのち、10月18にちにはペルズポイントでいくらかの抵抗ていこういながらも上陸じょうりく成功せいこうし、この部隊ぶたいとマンハッタンとうにいる本隊ほんたいおよびハドソンがわ支配しはいするイギリス海軍かいぐんとでワシントンぐん包囲ほういしてしまうためのみさおぐん開始かいしした[8]。ハウはニューロシェル宿営しゅくえいとしたが、その前衛ぜんえいたい大陸たいりくぐん小勢こぜいまもっている補給ほきゅう基地きちのあるホワイト・プレインズからわずか7マイル (11 km) のママロネックちかくにすすんでいた[9]

前哨ぜんしょうせん[編集へんしゅう]

10がつ20日はつか、ワシントンはハーレムハイツにいた陣地じんちからルーファス・パットナム大佐たいさ偵察ていさつ任務にんむ派遣はけんした。パットナムはイギリスぐん全体ぜんたい配置はいちつかみ、自軍じぐん補給ほきゅう基地きちたいする危険きけんせい認識にんしきした[9]。そのよる報告ほうこくけたワシントンは即座そくざにパットナムを派遣はけんして、もっと北側きたがわ陣取じんどっていたウィリアム・アレクサンダー将軍しょうぐん(スターリングきょう)にホワイト・プレインズに部隊ぶたいうごかす命令めいれいつたえさせた。スターリングたいは10月21にち午前ごぜん9にホワイト・プレインズに到着とうちゃくし、そののうちに部隊ぶたい続々ぞくぞく到着とうちゃくした[10]。ワシントンはその軍隊ぐんたい大半たいはんをホワイト・プレインズまで退しりぞかせるとめており[11]、マンハッタンとうのワシントンとりでにはナサニエル・グリーン将軍しょうぐんに1,200めい部隊ぶたいけてまもらせた[11]。ハウの軍隊ぐんたいゆるりと前進ぜんしんし、中央ちゅうおう右翼うよくはニューロシェルからホワイト・プレインズにいた道路どうろすすみ、ロイヤリストの部隊ぶたいがママロネックを占領せんりょうしていた。そのよる、スターリングきょう配下はいかのジョン・ハスレットが指揮しきする分遣ぶんけんたいがこのロイヤリスト部隊ぶたい攻撃こうげきして、30にん以上いじょう捕虜ほりょ物資ぶっし捕獲ほかくしたが、ハスレットたいすうめい戦死せんしし、15めい負傷ふしょうした。これに反応はんのうしたハウは右翼うよく一部いちぶをママロネック占領せんりょううごかした[12]。10月22にち、ヴィルヘルム・フォン・クニプハンゼンが指揮しきするドイツじん傭兵ようへい部隊ぶたい8,000めいがニューロシェルに上陸じょうりくし、ハウぐん増強ぞうきょうされた[13]

ジョージ・ワシントンの司令しれいとして使つかわれたいえ

10月23にち、ワシントンはノースホワイト・プレインズにあるエリジャ・ミラーのいえ作戦さくせん本部ほんぶとし、2つの塹壕ざんごうせんまもられる防御ぼうぎょ陣地じんち構築こうちくした[14]。この塹壕ざんごう高台たかだい位置いちしており、右手みぎてはブロンクスがわちか湿地しっちまもられ、後方こうほう退路たいろはさらにけわしい丘陵きゅうりょうになっていた。大陸たいりくぐん前線ぜんせん全長ぜんちょう3マイル (4.8 km) にびていた。さらにその右手みぎてにはチャタートンのおかがあり、イギリスぐん前進ぜんしんしてくるはずの平原へいげん見下みおろしていた。このおか当初とうしょすうひゃくめい民兵みんぺいたい占拠せんきょしていた。このなかにはジョン・ブルックのマサチューセッツ民兵みんぺいたいふくまれていたとかんがえられている[15]

10月24にちと25にち、ハウぐんはニューロシェルかたスカースデイルまで移動いどうし、ブロンクスがわ東岸とうがん宿営しゅくえい構築こうちくした。このうごきはあきらかに大陸たいりくぐんチャールズ・リーたいつかまえようとしたものであり、リーたいはそれを回避かいひするためにホワイト・プレインズにかうみちえ、夜通よどおしの行軍こうぐんいられることになった[16]。ハウぐんはスカースデイルにとどまっていたが、10月28にちあさにホワイト・プレインズにけてうごはじめた。右翼うよくヘンリー・クリントン指揮しきするイギリス正規せいきぐんとフォン・ハイスター将軍しょうぐん指揮しきするドイツじん傭兵ようへい部隊ぶたい構成こうせいされた[17]

戦闘せんとう[編集へんしゅう]

ワシントンが自軍じぐん配置はいちするために最良さいりょう場所ばしょめようと地形ちけい査察ささつしているあいだに、伝令でんれいがイギリスぐん接近せっきんつたえてきた[18]。ワシントンは作戦さくせん本部ほんぶもどると、ジョセフ・スペンサーに1,500めい部隊ぶたいたせてイギリスぐん前進ぜんしんおくらせるよう命令めいれいし、ハスレットとだい1デラウェア連隊れんたい、およびアレクサンダー・マクドウガルの旅団りょだん(リッツェマのニューヨークだい3連隊れんたい、ウェブのコネチカット連隊れんたい、スモールウッドのメリーランド連隊れんたいおよびマクドウガル自身じしん連隊れんたい)を、チャタートンヒルを補強ほきょうするために派遣はけんした[19]

スペンサーの部隊ぶたいはブロンクスがわわたり、石壁いしかべ背後はいご陣地じんち構築こうちくし、イギリスぐん左翼さよく先頭せんとうっていたヨハン・ラール指揮しきするドイツじん傭兵ようへい部隊ぶたい交戦こうせんした。スペンサーたいはイギリスぐんクリントンの部隊ぶたい側面そくめんいてきたときに後退こうたいいられ、ブロンクスがわえて後退こうたいしたが、チャタートンヒルの部隊ぶたいがそのうごきを援護えんご射撃しゃげきした[17]。ラールの部隊ぶたいはそのおか占領せんりょうしようとしたがハスレットたい民兵みんぺいたい銃火じゅうか撃退げきたいされ[20]かわおながわにあるちかくのおかまで後退こうたいした。この協調きょうちょうのとれた防御ぼうぎょで、大陸たいりくぐん前線ぜんせん全体ぜんたい攻撃こうげきするかのようにみさおぐんしていたイギリスぐんぜんぐんうごきをめた[21]

ハウとその部下ぶか協議きょうぎしているあいだに、左翼さよくにいたドイツじん傭兵ようへい砲兵ほうへい部隊ぶたいおか頂上ちょうじょうへの砲撃ほうげきはじめ、民兵みんぺいたち恐慌きょうこう状態じょうたいおとしいれることに成功せいこうした。マクドウガルとその旅団りょだん到着とうちゃくして民兵みんぺいたち鼓舞こぶし、民兵みんぺいたい右翼うよくに、大陸たいりくぐん正規せいきぐんおか頂上ちょうじょうにそって防御ぼうぎょせんかれた[19]。ハウがつい攻撃こうげき命令めいれいし、その軍隊ぐんたい大半たいはん待機たいきしていたが、イギリスへいとドイツへい分遣ぶんけんたいがそのおか奪取だっしゅのためにおくられた[22]

イギリスぐん攻撃こうげき先導せんどうするドイツじん連隊れんたいとも組織そしきされていた。ラールたい大陸たいりくぐん右翼うよく攻撃こうげきし、ドノープのドイツへい大隊だいたい(リンシング、ミンゲローデ、レンゲレック、およびコッホラーのかく擲弾へい連隊れんたいとドノープのりょうへい連隊れんたい構成こうせい)が中央ちゅうおう攻撃こうげきした。レスリー将軍しょうぐんのイギリスへい部隊ぶたいだい5、だい28、だい35およびだい49歩兵ほへい連隊れんたい)が右翼うよく攻撃こうげきした。ドノープたいかわわた困難こんなんさがあったか、あるいはそれに躊躇ちゅうちょしたかであり、イギリスへい部隊ぶたい最初さいしょかわえた。ラールたい攻撃こうげき大陸たいりくぐん右翼うよく民兵みんぺいたいらし、イギリスぐん攻撃こうげき部隊ぶたいびせた銃火じゅうか一時いちじてきにイギリスぐん前進ぜんしんめていたメリーランド連隊れんたいとニューヨーク連隊れんたい側面そくめん防備ぼうびになった。その側面そくめんひらいたことでたたかいながらの後退こうたいはじめることになり、そのことでイギリスぐんほか部隊ぶたい交戦こうせんしていた大陸たいりくぐんほか部隊ぶたい徐々じょじょされて後退こうたいはじめた。大陸たいりくぐん左翼さよくさえていたハスレットのデラウェア連隊れんたい援護えんご射撃しゃげきをするあいだに、部隊ぶたいきた後退こうたいし、ハスレットたい最後さいごおかはなれた[23]。この戦闘せんとうはげしかったのでりょうぐんどもにかなりの損失そんしつしたが、大陸たいりくぐん規律きりつある撤退てったいおこなった[24]

損失そんしつ[編集へんしゅう]

ウィリアム・ハウ将軍しょうぐん、チャールズ・コーバット、1777ねんごろ
ホワイト・プレインズのたたか
たたかいから150周年しゅうねんにあたる1932ねん発行はっこうされた記念きねん切手きって

ジョン・フォーテスキューの「イギリスぐん歴史れきし」にると、ハウぐん損失そんしつはイギリスへい214めい、ドイツへい99めいとされている[25]。しかし、ロドニー・アットウッドはフォーテスキューのげた数字すうじには10月19にちから28にちまでにこうむったドイツへい損失そんしつふくまれており、実際じっさいにはこの戦闘せんとうだけでは53めいだけだったと指摘してきしている[26]。これによってイギリスへいとドイツへいあわせ、戦死せんし負傷ふしょうおよび不明ふめい総数そうすうは267めいとなる。一方いっぽうヘンリー・ドーソンはハウぐん損失そんしつが、戦死せんし47めい負傷ふしょう182めい不明ふめい4めいとしている。総計そうけいでは233めいとなる[4]

大陸たいりくぐん損失そんしつ不明ふめいである。セオドア・サバスとJ・デイビッド・ダメロンは戦死せんし負傷ふしょうおよび不明ふめい総数そうすうが150めいないし500めいとしている[27]。サミュエル・ローズは戦死せんし47めい負傷ふしょう70めいとしている[28]。ヘンリー・ドーソンは、マクドウガルとスペンサーの部隊ぶたい戦死せんし50めい負傷ふしょう150めい不明ふめい17めい推計すいけいしたが、ハスレットの連隊れんたいあるいはマサチューセッツ民兵みんぺいたい損失そんしつについては情報じょうほう[4]

たたかいののち[編集へんしゅう]

りょうぐんはそのも2日間にちかんそのまり、ハウはチャタートンヒルの陣地じんち強化きょうかさせ、ワシントンは自軍じぐん撤退てったい準備じゅんびをさせた。10月30にちにパーシーきょう指揮しきでドイツへいとワルデックの部隊ぶたい到着とうちゃくし、ハウは翌日よくじつ大陸たいりくぐん攻撃こうげき作戦さくせんてた。しかし、翌日よくじつ終日しゅうじつはげしいあめだった[29]。ハウぐんつい攻撃こうげき準備じゅんびができたとき、ワシントンぐん再度さいどその掌中しょうちゅうからのがれてしまったことにづいた[30]

ワシントンは10月31にちよる北方ほっぽう丘陵きゅうりょうまで自軍じぐん後退こうたいさせ、ノースキャッスルちかくで宿営しゅくえいきずいた[30]。ハウは追撃ついげきせずにワシントンぐんそうとしたが失敗しっぱいした[31]。11月5にち、ハウは自軍じぐんみなみかせマンハッタンとうから大陸たいりくぐん方向ほうこううごいた。その結果けっか、11月16にちワシントンとりでたたか目的もくてきたっした[32]

ワシントンは最後さいごはその軍隊ぐんたい大半たいはんひきいてピークスキルでハドソンがわわたり、のちには補給ほきゅう倉庫そうこ重要じゅうよう渡河とか地点ちてんまもらせるためにニューイングランド連隊れんたいのこした。そののイギリスぐん追跡ついせきにより、ワシントンぐんはニュージャージーをえてペンシルベニアまで移動いどうし、イギリスぐんはニュージャージーちゅう前哨ぜんしょう基地きちくさり構築こうちくした。ワシントンは自軍じぐん士気しきたかめるための勝利しょうり機会きかいさぐっており、12月28にちには突如とつじょデラウェアがわえて、トレントンのたたかいでラールの部隊ぶたい急襲きゅうしゅうした[33]

歴史れきしてき意義いぎ評価ひょうかなど[編集へんしゅう]

戦術せんじゅつてきには、ブロンクスがわ南側みなみがわ位置いちするチャタートン・ヒルの陣地じんちうばったイギリスぐん勝利しょうりとされる。しかしながら戦死せんし/負傷ふしょうしゃ単純たんじゅん計算けいさんでは、イギリスぐん犠牲ぎせいほうおおいという数少かずすくないたたかいでもある。戦略せんりゃくてき評価ひょうかかれる。ワシントンとりでは11月16にち孤立こりつして陥落かんらくし、イギリスぐんのマンハッタンとうおよびニューヨーク戦時せんじ支配しはいかたまったため、短期たんき戦略せんりゃくてき観点かんてんではイギリスぐん勝利しょうりえる。ただし、双方そうほうあわせて30,000をえる主力しゅりょくぐん同士どうし対峙たいじでありながら大陸たいりくぐんがわ決戦けっせんいることができず、ホワイト・プレインズを見下みおろすブロンクスがわ南側みなみがわおか占拠せんきょだけでイギリスぐん作戦さくせんわったことは、だい陸軍りくぐんがわのニューヨークのぞくニューヨークしゅう支配しはいかためることとなった。また、ニューイングランドにつうじるみち実効じっこう支配しはいできなかったため、陸路りくろよりイギリスぐんがニューイングランドに進撃しんげきすることはできなくなった。

べい陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうとしても有名ゆうめいウェストポイント要塞ようさいは、この時期じきにイギリスぐん陸軍りくぐんおよ海軍かいぐん北上ほくじょう阻止そしする拠点きょてんとして強化きょうかされた。

よく1777ねんサラトガのたたかによってカナダからの陸路りくろ侵攻しんこうみちたれると、植民しょくみんもろしゅうをニューヨークで分断ぶんだんするイギリスぐん当初とうしょ作戦さくせんはほとんど不可能ふかのうなものとなった。

また、のちにホワイト・プレインズがぐんとなるウエストチェスターぐんは、パリ条約じょうやく (1783ねん) までイギリスぐん大陸たいりくぐん勢力せいりょくけん緩衝かんしょう地帯ちたいとして存在そんざいした。

遺産いさん[編集へんしゅう]

護衛ごえい空母くうぼホワイト・プレインズ (CVE-66)

ホワイト・プレインズのたたかいがおこなわれたあるいはその前後ぜんごには毎年まいとし、ホワイト・プレインズ歴史れきし協会きょうかいがジェイコブ・パーディのいえ記念きねん行事ぎょうじおこなっている[34]

アメリカ海軍かいぐん歴史れきしではホワイト・プレインズとづけられた艦船かんせんが2せきある。太平洋戦争たいへいようせんそうどき米国べいこく海軍かいぐん護衛ごえい空母くうぼであるホワイト・プレインズ (CVE-66)が初代しょだいである。2代目だいめ戦闘せんとう護衛ごえいかんで1992ねんのタイフーン・オマールではなはだしい損傷そんしょうけたのち、1995ねん退役たいえきとなったAFS-4である[35][36]

現在げんざい慶応義塾けいおうぎじゅくニューヨーク学院がくいん敷地しきちないにこのたたかいで戦死せんしした英雄えいゆうたちねむっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Dawson, p. 269. No exact count is known for the Massachusetts militia.
  2. ^ British reports do not indicate exactly how many troops were engaged; most historians do not list specific values. Dawson estimates 7,500 (p. 269), more than one half of Howe's army. Alden estimates 4,000 (p. 273).
  3. ^ Dawson, p. 270. Numbers are minimum; casualties are not known for Haslet's regiment or the Massachusetts militia.
  4. ^ a b c d Dawson, p. 270
  5. ^ Schecter, pp. 85,97
  6. ^ Schecter, pp. 100, 118-127
  7. ^ McCullough, 1776, pp. 188-191
  8. ^ Schecter, pp. 179-230
  9. ^ a b Schecter, p. 232
  10. ^ Schecter, p. 233
  11. ^ a b Lengel, p. 161
  12. ^ Dawson, pp. 252-253
  13. ^ Schecter, p. 231
  14. ^ Greene, p. 52
  15. ^ Dawson, p. 261
  16. ^ Dawson, pp. 258-259
  17. ^ a b Dawson, p. 260
  18. ^ Lengel p.162
  19. ^ a b Dawson, p. 263
  20. ^ Schecter, p. 238
  21. ^ Dawson, pp. 262-263
  22. ^ Dawson, p. 264
  23. ^ Dawson, pp. 265-267
  24. ^ Schecter, p. 240
  25. ^ Boatner, p. 1201
  26. ^ Atwood, p. 75
  27. ^ Savas and Dameron, p. 80
  28. ^ Roads, Chapter VIII, p. 153
  29. ^ Schecter, p. 241
  30. ^ a b Schecter, p. 242
  31. ^ Dawson, pp. 274-276
  32. ^ Schecter, pp. 243-257
  33. ^ Schecter, pp. 255-267
  34. ^ White Plains Historical Society Event Calendar
  35. ^ Dictionary of American Naval Fighting Ships — White Plains, Naval History & Heritage Command
  36. ^ “AFTER THE STORM; Thousands on Guam Lose Homes in Typhoon”. New York Times. (1992ねん8がつ29にち). http://www.nytimes.com/1992/08/30/us/after-the-storm-thousands-on-guam-lose-homes-in-typhoon.html?pagewanted=1 2010ねん2がつ18にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Alden, John (1989). A History of the American Revolution. Da Capo Press. ISBN 9780306803666 
  • Atwood, Rodney (1980). The Hessians: Mercenaries from Hessen-Kassel in American Revolution. Cambridge University Press. ISBN 0806125306 
  • Dawson, Henry Barton (1886). Westchester County, New York in the American Revolution. Morrisania, New York: self-published. https://books.google.co.jp/books?id=nl4EAAAAYAAJ&dq=battle+of+white+plains+1776&lr=&pg=PA259&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=chatterton&f=false 
  • Boatner, Mark Mayo (1966). Cassell's Biographical Dictionary of the American War of Independence, 1763-1783. London: Cassell and Company, Ltd. 
  • Greene, Francis Vinton (1911). The Revolutionary War and the Military Policy of the United States. Charles Scribner's Sons. http://www.questia.com/PM.qst?a=o&d=6248065 
  • Lengel, Edward (2005). General George Washington. New York: Random House Paperbacks 
  • Roads, Samuel, Jr. (1880). The History and Traditions of Marblehead. Boston: Osgood 
  • Savas, Theodore P.; Dameron, J. David (2006). A Guide to the Battles of the American Revolution. New York and El Dorado Hills, CA: Savas Beattie LLC. ISBN 978-1932714128 
  • Schecter, Barton (2002). The Battle for New York. New York: Walker. ISBN 0802713742 
  • White Plains Historical Society Event Calendar”. White Plains Historical Society. 2009ねん12月17にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]