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プリンストンのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
プリンストンのたたか

プリンストンでのマーサー将軍しょうぐん戦死せんし
ジョン・トランブル
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1777ねん1がつ3にち
場所ばしょプリンストン
結果けっか大陸たいりくぐん勝利しょうり[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大陸たいりくぐん グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・ワシントン
アメリカ合衆国の旗 ヒュー・マーサー
アメリカ合衆国の旗 ジョン・ハスレット
アメリカ合衆国の旗 ナサニエル・グリーン
アメリカ合衆国の旗 サミュエル・ニコラス
グレートブリテン王国の旗 チャールズ・コーンウォリス
グレートブリテン王国の旗 チャールズ・モーフード
戦力せんりょく
4,500
大砲たいほう35もん[2]
1,200
大砲たいほう6?9もん[2]
損害そんがい
死者ししゃ25-44、傷者しょうしゃ40[3][4] 死者ししゃ18-100、傷者しょうしゃ58-70、捕虜ほりょ194-280[5][6][7]
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

プリンストンのたたか(プリンストンのたたかい、えい: Battle of Princeton )は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうなか1777ねん1がつ3にちに、ニュージャージープリンストンちかくで、大陸たいりくぐんグレートブリテン王国おうこく(イギリス)とのあいだおこなわれた戦闘せんとうである。トレントンのたたかでの勝利しょうりつづいて、アッサンピンク・クリーク、プリンストンとわずか10日とおかあいだの3勝利しょうりは、意気いき消沈しょうちんしていた大陸たいりくぐんいきかえさせた。

1777ねん1がつ2にち大陸たいりくぐんそう司令しれいかんジョージ・ワシントントレントンのアッサンピンク・クリークのたたかいでイギリスぐん撃退げきたいした。そのよる、ワシントンは陣地じんちはらって、チャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐん指揮しきするイギリスぐんまわりこみ、プリンストン守備しゅびするイギリス部隊ぶたい攻撃こうげきかった。大陸たいりくぐんヒュー・マーサーじゅんしょう部隊ぶたいがイギリスぐんチャールズ・モーフード中佐ちゅうさ指揮しきする2連隊れんたい衝突しょうとつした。マーサーとその部隊ぶたい圧倒あっとうされたので、ワシントンはジョン・キャドワラダー将軍しょうぐん指揮しきする民兵みんぺいたい救援きゅうえん派遣はけんした。この民兵みんぺいたいはマーサー部隊ぶたい逃亡とうぼうするのをて、自分じぶんたちはじめた。ワシントンは援軍えんぐんともうまりつけ、げる民兵みんぺいたち鼓舞こぶした。ワシントンはつづいてモーフードたいたいする攻撃こうげきひきい、てき駆逐くちくした。モーフードが撤退てったい命令めいれいし、兵士へいし大半たいはんはトレントンにいるコーンウォリスたい方向ほうこうした。

プリンストンのまちでは、ジョン・サリバン将軍しょうぐんがナッソー・ホールにんでいたイギリスへい降伏ごうぶくさせ、戦闘せんとうわった。この戦闘せんとう、ワシントンはその部隊ぶたいをニュージャージーのモリスタウン移動いどうさせた。イギリスぐんは10日間にちかんあいだに3敗北はいぼくきっし、ニュージャージー南部なんぶ放棄ほうきした。大陸たいりくぐん兵士へいし士気しきがり、よりおおくのもの大陸たいりくぐん入隊にゅうたいするようになった。この戦闘せんとう冬季とうきおこなわれたワシントンのニュージャージー方面ほうめん作戦さくせんでは最後さいご主要しゅよう戦闘せんとうになった。

戦場せんじょうあと現在げんざいプリンストン戦場せんじょう州立しゅうりつ公園こうえんになっている。

背景はいけい[編集へんしゅう]

トレントンでの勝利しょうり[編集へんしゅう]

1776ねん11月16にちニューヨーク最後さいごとりで陥落かんらくし、ジョージ・ワシントンのひきいる大陸たいりくぐんは、ニュージャージーからデラウェアがわえてペンシルベニアまで撤退てったいしていた。大陸たいりくぐん大陸たいりく会議かいぎあいだ悲観ひかんてき気分きぶん蔓延まんえんするなかで、ワシントンは起死回生きしかいせいさくてた。12月25にち、ワシントンは夜陰やいんあらしまぎれて2,400めい兵士へいしひきいてデラウェアがわわたった[8]。9マイル (14 km) の行軍こうぐんに、ニュージャージーのトレントンに駐屯ちゅうとんしていたイギリスぐんのドイツじん傭兵ようへい部隊ぶたい急襲きゅうしゅうし、100めい以上いじょう戦死せんしまたは負傷ふしょうさせ、900めい以上いじょう捕虜ほりょにした。大陸たいりくぐんあいだにまだやれるという気持きもちがまれたことで、この勝利しょうり意味いみおおきかった。ワシントンはイギリスぐん反攻はんこうおそれて、一旦いったんデラウェアがわ再度さいどわたり、ペンシルベニアに撤退てったいした[9]12月29にち、ワシントンは再度さいど部隊ぶたいひきいてデラウェアがわわたり、トレントンで守備しゅび陣地じんち構築こうちくした。12月31にち、ワシントンは大晦日おおみそか徴兵ちょうへい期限きげんれる兵士へいしたちに10ドルの追加ついか報奨ほうしょうきんであと6週間しゅうかん軍隊ぐんたいまるよううったえた。このうったえがこうそうし、大半たいはん兵士へいしまることに合意ごういした[10]。このにはまた、大陸たいりく会議かいぎ独裁どくさいてきともわれることのおお幅広はばひろ権限けんげんをワシントンに6ヶ月かげつあいだあたえる決議けつぎおこなったことをワシントンはった[11]

アッサンピンク・クリークでの勝利しょうり[編集へんしゅう]

イギリスぐんのニュージャージー方面ほうめんぐん指揮しきしていたチャールズ・コーンウォリス将軍しょうぐんは、ニューヨークって、ワシントンぐん対抗たいこうするためにニュージャージーのプリンストンに9,000めい以上いじょう部隊ぶたい集結しゅうけつさせた。コーンウォリスはプリンストンにチャールズ・モーフード中佐ちゅうさ指揮しきで1,200めいのイギリスぐん兵士へいしのこし、ワシントンぐん6,000めい対抗たいこうするために8,000めいひきいて1がつ2にち進発しんぱつした[2][12]。ワシントンは接近せっきんするイギリスぐんあゆみをおくらせるためにへい派遣はけんした。イギリスぐんがトレントンに到着とうちゃくしたのはほぼれたときだった[13]。コーンウォリス部隊ぶたいアメリカ大陸あめりかたいりくぐんまもるアッサンピンク・クリークにかるはしを3わたろうとして失敗しっぱいし、翌日よくじつまで攻撃こうげき延期えんきすることにした[14]

脱出だっしゅつ[編集へんしゅう]

そのよる、ワシントンぐん作戦さくせん会議かいぎ招集しょうしゅうし、士官しかんたちにそこにみとどまってたたかうか、どこかでかわわたるか、あるいはてき背後はいごってプリンストンを攻撃こうげきするかをうた[15]。ワシントンはすでにそのアイディアをおもいついていたが、アーサー・セントクレアとジョン・キャドワラダーから、プリンストン攻撃こうげきという作戦さくせん実際じっさい実行じっこう可能かのうであるという意見いけんた。士官しかんたちはかったのちで、プリンストン攻撃こうげき最善さいぜん選択肢せんたくしであることで合意ごういした[16]

ワシントンは余分よぶん荷物にもつはバーリントンにってかせ、そこでペンシルベニアにおくられるようめいじた[17]地面じめんこおっており、大砲たいほう荷車にぐるま地面じめんにめりまさないでうごかすことを可能かのうにしていた。夜半やはんまでに作戦さくせん完成かんせいし、荷物にもつはバーリントンにおくられ、大砲たいほうあつぬのでくるまれておとてないようにし、大陸たいりくぐん移動いどうをイギリスぐん気付きづかないようにはかられた[17]。ワシントンは500めいを2もん大砲たいほうとも偵察ていさつのこし、篝火かがりびいておいて、ピッケルやショベルを使つかわせてイギリスぐんにはあなっているとおもわせるようにした。この残留ざんりゅう部隊ぶたい夜明よあまえ本隊ほんたい合流ごうりゅうした[17]

午前ごぜん2までにぜんぐん行動こうどう開始かいしし、兵士へいしたち絶対ぜったいてき沈黙ちんもくたもって行軍こうぐんするよう命令めいれいされた[17]道中どうちゅう包囲ほういされているといううわさひろまり、おびえた民兵みんぺいなかにはフィラデルフィアかって逃亡とうぼうするものもいた。途中とちゅうみちふかもりけ、こおっていたためにうますべり、兵士へいしたちいけったこおりることもあったので行軍こうぐん難渋なんじゅうきわめた[18]

攻撃こうげき作戦さくせん[編集へんしゅう]

夜明よあけが近付ちかづいて、大陸たいりくぐんはストーニー・ブルックとばれる水路すいろ接近せっきんした[19]。ストーニー・ブルックをぎてさらに1マイル (1.6 km) すすんだ道路どうろは、トレントンからプリンストンまでの郵便ゆうびん道路どうろとの交差点こうさてんまでつづいていた。しかしこの道路どうろ右手みぎてにはトマス・クラークの農場のうじょう横切よこぎ使用しようされていない道路どうろがあった[19]。この道路どうろ郵便ゆうびん道路どうろからはえなかった。さらにイギリスぐんまもっていないままにしていたので何処どこからでもプリンストンのまちはいることができるひらかれた土地とちはしっていた[19]

しかし、ワシントンは夜明よあまえにイギリスぐん前哨ぜんしょう基地きち攻撃こうげきして占領せんりょうし、そのぐに守備しゅびたい捕獲ほかくする作戦さくせんだったので、その予定よていよりおくれていた[19]夜明よあけがおとずれたときまでに、まだプリンストンまでは2マイル (3 km) をのこしていた[19]。ワシントンは、コーンウォリスがワシントンぐん逃亡とうぼうつけて追跡ついせきさせた場合ばあいにそのうごきをおくらせるために、ヒュー・マーサーに350めい兵士へいしけてストーニー・クリークにかるはし破壊はかいさせた。午前ごぜん8になるすこまえ、ワシントンはその兵士へいしみぎ旋回せんかいさせて使用しよう道路どうろはいらせた[20]。その最初さいしょ隊列たいれつはアーサー・セントクレアとアイザック・シャーマンの旅団りょだんからなるジョン・サリバンの師団しだんだった。これにつづくのがジョン・キャドワラダーとダニエル・ヒッチコックの旅団りょだんだった[20]

モーフードの反応はんのう[編集へんしゅう]

コーンウォリスはモーフードにあさになればだい17およびだい55連隊れんたいれてきて自分じぶん軍隊ぐんたい合流ごうりゅうするよう命令めいれいおくった。モーフードはこの命令めいれいたすためにプリンストンをて、ストーニー・ブルックみなみおかのぼったときに、大陸たいりくぐん主力しゅりょく発見はっけんした[20]。そこは樹木じゅもくおおおかだったので大陸たいりくぐん勢力せいりょく見極みきわめることができないままに、プリンストンにのこしてきただい40連隊れんたい警告けいこくするために騎兵きへい派遣はけんした。つづいてだい17およびだい55連隊れんたいにはまわみぎをさせてプリンストンにかわせた。この、モーフードはワシントンぐん接近せっきんしてきた地域ちいき偵察ていさつする偵察ていさつたいりやめさせていた[21]

マーサーはモーフードがその部隊ぶたいはしえさせプリンストンにもどらせているという伝言でんごんけた[21]。マーサーはワシントンの命令めいれいしたがって、イギリスたいがワシントンの主力しゅりょく対峙たいじできるまえにその部隊ぶたいたたくためにたい右手みぎて移動いどうさせた[22]。マーサーはモーフードたい後衛こうえいむかったが、モーフードたい遮断しゃだんできる時間じかんがないと認識にんしきしたときに、サリバンたい合流ごうりゅうすることにめた。モーフードはマーサ-たいうしろにいてサリバンたい合流ごうりゅうしようとしていることを認識にんしきすると、まちちゅうだい40連隊れんたい合流ごうりゅうさせるべくだい55連隊れんたい一部いちぶ派遣はけんし、だい55連隊れんたいのこり、だい17連隊れんたい、50めい騎兵きへいおよび大砲たいほう2もんでマーサーたい攻撃こうげきうごいた[23]

プリンストンのたたか[編集へんしゅう]

モーフードたいがマーサーたい圧倒あっとう[編集へんしゅう]

モーフードはそのけい歩兵ほへいにマーサーたいうごきをおくらせるようにめいずる一方いっぽうで、部隊ぶたい指揮しきしていた[23]。イギリスたいけい歩兵ほへいあらわれたとき、マーサーたいはウィリアム・クラークの果樹かじゅえんあるいていた。イギリスたいけい歩兵ほへい一斉いっせい射撃しゃげき効果こうかあたえられず、マーサーはたいまわして戦闘せんとうせんかせる時間じかんができた。マーサーたい前進ぜんしんしてイギリスたいけい歩兵ほへいかえした[24]大陸たいりくぐん果樹かじゅえん上端じょうたんにあったへいかげ陣地じんちめた。しかし、モーフードはその歩兵ほへい砲兵ほうへいたいした[24]大陸たいりくぐん砲手ほうしゅがまず発砲はっぽうし、それからやく10分間ふんかん勢力せいりょくまさ大陸たいりくぐん歩兵ほへいがイギリスへい銃火じゅうかわした。しかし大陸たいりく軍兵ぐんびょうおおくはマスケットじゅうよりもたまめに時間じかんかるライフルじゅうっていた[25]。モーフードが銃剣じゅうけん突撃とつげきめいじ、大陸たいりく軍兵ぐんびょうおおくは銃剣じゅうけん装着そうちゃくできないライフルじゅうっていたために、圧倒あっとうされてしまった[26]大陸たいりくぐん大砲たいほう2もん捕獲ほかくされ、イギリスたいはそれをげる大陸たいりく軍兵ぐんびょうなおした[25]。マーサーがイギリスへい包囲ほういされ、イギリスへいは「降伏ごうぶくしろ、反乱はんらんしゃのやつめ!」とさけんだ。イギリスへいはワシントンをつかまえたのだとかんがえ、銃剣じゅうけんでマーサーをき、マスケットじゅうでそのあたまなぐり、にゆくままにさせた[25]。マーサーのふく指揮しきかんだったジョン・ハスレット大佐たいさあたまたれて戦死せんしした[27]

キャドワラダーたい到着とうちゃく[編集へんしゅう]

キャドワラダーの指揮しきする1,100めい民兵みんぺいからなるあたらしい旅団りょだん登場とうじょうしたときは、50めいけい歩兵ほへいがマーサーたい追撃ついげきしているところだった[27][28]。モーフードは戦場せんじょうっていた自軍じぐん兵士へいしあつめ、横隊おうたい戦列せんれつかせた。一方いっぽう、サリバンはだい40連隊れんたい支援しえんにきただい55連隊れんたい派遣はけん部隊ぶたいとこうちゃく状態じょうたいにあり、どちらもその側面そくめんさらしてまでしゅ戦闘せんとうおこなわれているほううごこうとはしなかった[27]。キャドワラダーはたい兵士へいしせに戦列せんれつじきかそうとしたが、かれらには戦闘せんとう経験けいけんく、もっと基本きほんてきみさおぐんすららなかった。兵士へいしたちがおか頂上ちょうじょうまでると、マーサーたい兵士へいしがイギリスたいからげてくるのをにし、民兵みんぺい大半たいはんいておかくだった[29]

ワシントンの到着とうちゃく[編集へんしゅう]

キャドワラダーたいはじめると、大陸たいりくぐん大砲たいほうがイギリスぐんむかってはなたれ、イギリスへい突撃とつげき準備じゅんびをしていたが、砲撃ほうげきすう分間ふんかんそのうごきをめられた[30]。キャドワラダーは1個いっこ中隊ちゅうたいめさせて一斉いっせい射撃しゃげきをさせることはできたが、その中隊ちゅうたいもそのぐにした。この時点じてんでワシントンがバージニア大陸たいりく連隊れんたいとエドワード・ハンドのライフルじゅうたいしたがえて到着とうちゃくした[31]。ワシントンはライフルじゅうたいとバージニア連隊れんたいおか右手みぎてじんかまえるようめいじ、ワシントン自身じしんぐにうまでキャドワラダーのげていく兵士へいしたちあいだれた。ワシントンは「わたし勇敢ゆうかん仲間なかまよ、つづけ!そこにてきはいるがたいしたものではない。即座そくざたおせる」とさけんだ[32]。キャドワラダーの兵士へいしたちはワシントンの指示しじ戦闘せんとう隊形たいけいつくった。ダニエル・ヒッチコックのニューイングランド大陸たいりく連隊れんたい到着とうちゃくしたとき、ワシントンはそのたいをライフルじゅうたいとバージニア連隊れんたいいておいた右手みぎて派遣はけんした[31]

ワシントンはその帽子ぼうしち、うますすめながら前線ぜんせん大陸たいりく軍兵ぐんびょうまえ帽子ぼうしった[31]。この時点じてんでモーフードはたいすこ左手ひだりてうごかし、大陸たいりくぐん大砲たいほう射程しゃていはずさせた。ワシントンは合図あいずおくるまで大砲たいほうはなたないよう命令めいれいし、30ヤード (27 m) の距離きょりまでときに、うまかえしてたいへいかい「まれ」そして「はなて」とった[33]。このとき、イギリスぐん発砲はっぽうしたので、戦場せんじょう煙幕えんまくつつまれた。ワシントンの士官しかん一人ひとりは、ワシントンがりょうぐん前線ぜんせんあいだにおり、両側りょうがわからの銃撃じゅうげきさらされたのでんだものとおもい、その帽子ぼうしのところまでげたが、煙幕えんまくれるとワシントンが無傷むきずあらわれ、部隊ぶたいへい鼓舞こぶしていた[33]

イギリスたい崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

大陸たいりくぐん右手みぎてではヒッチコックのニューイングランド連隊れんたい一斉いっせい射撃しゃげきはなって再度さいど前進ぜんしんし、イギリスぐん側面そくめんめぐろうとおどかしていた[33]。ライフルたいゆるりとイギリスへいねらちしており、一方いっぽうだい陸軍りくぐんほう兵隊へいたいはイギリスぐん前線ぜんせんにブドウだんはなっていた。この時点じてんでヒッチコックが部隊ぶたいへい突撃とつげきめいじ、イギリスへいはじめた[33]。イギリスたいはその大砲たいほうすくおうとしたが、民兵みんぺいたい突撃とつげきしてきたので、モーフードは退却たいきゃく命令めいれいした。イギリスたい郵便ゆうびん道路どうろほう逃亡とうぼうし、大陸たいりくぐんとワシントンがそのった。ワシントンは「すばらしいきつねりだ、兵士へいしたちよ!」とさけんだ[33]大陸たいりく軍兵ぐんびょういくらかがはしえてげるイギリスへいさえぎるために郵便ゆうびん道路どうろむらがったが、モーフードが銃剣じゅうけん突撃とつげきめいじ、大陸たいりくぐん前線ぜんせん突破とっぱしてはしわたって逃亡とうぼうした[34]大陸たいりく軍兵ぐんびょういくらか、なかでもハンドのライフルじゅうへいがイギリスへい追撃ついげき続行ぞっこうし、モーフードは竜騎兵りゅうきへいにいくらか撤退てったいのための時間じかんかせぐよう命令めいれいした。しかしその竜騎兵りゅうきへいかえされた。大陸たいりく軍兵ぐんびょうよるるまでイギリスへい追撃ついげきつづけ、あるものころし、あるもの捕虜ほりょにした[34]いくらかつとワシントンはうまかえしてプリンストンにもどった[34]

まちはずれでは、だい55連隊れんたいがモーフードから退却たいきゃくしてだい40連隊れんたいまち合流ごうりゅうするよう命令めいれいけた[34]だい40連隊れんたいまちがいたに北側きたがわ陣地じんちかまえた。だい55連隊れんたいだい40連隊れんたい左手ひだりてじんいた。だい55連隊れんたい進行しんこうして大陸たいりくぐん側面そくめんくために小隊しょうたい派遣はけんしたが、それは粉々こなごなくだかれた[35]。サリバンが数個すうこ連隊れんたいおくってたに一掃いっそうさせると、イギリスたい胸壁きょうへきのところまで後退こうたいした[35][36]。イギリスたいいくらか抵抗ていこうしたのち再度さいど後退こうたいし、あるものはプリンストンをはなれ、あるものはナッソーホールにんだ[36][37]アレクサンダー・ハミルトン大砲たいほうすうもんはこんできてその建物たてものばさせた。つづいて大陸たいりく軍兵ぐんびょう玄関げんかん突入とつにゅうしてドアをこわしたので、イギリスへいまどから白旗はっきかかげた[36]。イギリスへい建物たてものあるいててきて、その武器ぶきいた[36]

たたかいののち[編集へんしゅう]

プリンストンのたたか記念きねん

大陸たいりくぐんはプリンストンにはいったのち、イギリスぐん放棄ほうきした物資ぶっし荷車にぐるままちそのものを略奪りゃくだつした[38]。コーンウォリスがプリンストンに接近せっきんしているというしらせにせっして、ワシントンはプリンストンを放棄ほうきしなければならないと判断はんだんした。ワシントンはニューブランズウィックにかってイギリスぐん軍資金ぐんしきん7まんポンドを押収おうしゅうしようとおもったが、ヘンリー・ノックスナサニエル・グリーンかく少将しょうしょうおもまらせた[39]。そのわりにサマーセット・コートハウスに部隊ぶたいうごかし、翌日よくじつの1がつ6にち午後ごご5にはモリスタウンにうつった[3][39]。このたたかいののち、コーンウォリスはニュージャージーの拠点きょてんおおくを放棄ほうきし、ニューブランズウィックに撤退てったいするようめいじた。

損失そんしつ[編集へんしゅう]

イギリスぐんウィリアム・ハウ将軍しょうぐんによるプリンストンのたたかいの公式こうしき報告ほうこくしょでは、戦死せんし18めい負傷ふしょう58めい不明ふめい200めいとなっていた[5]。マーク・ボートナーは、このたたかいで大陸たいりくぐん捕虜ほりょにしたのは194めいであり[7]、その6めいころされた可能かのうせいがあるとっている。文民ぶんみん証言しょうげんしゃ(『1776ねんから1777ねんのプリンストンでイギリスぐんとヘシアンの惨敗ざんぱいかんする簡単かんたん説明せつめい』の匿名とくめい著者ちょしゃ)は、戦場せんじょうつかったイギリスへい死者ししゃは24めいだったとしるした[40]。ワシントンは、イギリスへい死者ししゃが100めい以上いじょう捕虜ほりょは300めい以上いじょうだったと主張しゅちょうした[41]。ウィリアム・S・ストライカーはワシントンの主張しゅちょうしたがい、イギリスぐん損失そんしつ戦死せんし100めい負傷ふしょう70めい捕虜ほりょ280めいだったとべている[6]

ワシントンは大陸たいりくぐん損失そんしつが6めいあるいは7めい士官しかんと25ないし30めい兵士へいし戦死せんししたとしているが、負傷ふしょうしゃかずしるしていない[42]。リチャード・M・ケッチャムは大陸たいりくぐんが「兵士へいし30めい士官しかん14めい戦死せんし」とのべている[4]。ヘンリー・B・ドーソンは、士官しかん10めい兵士へいし30めい戦死せんししたとしるしている[43]。またエドワード・G・レンゲルは全体ぜんたいで25めい戦死せんしし、40めい負傷ふしょうしたとしている[3]ロイヤリスト新聞しんぶん「ニューヨーク・ガゼット・アンド・ウィークリー・マーキュリー」は1777ねん1がつ17にちに、大陸たいりくぐんのプリンストンでの損失そんしつは400めい戦死せんしまたは負傷ふしょうとしていた[44]

結果けっか[編集へんしゅう]

イギリスはトレントンとプリンストンをちいさな勝利しょうりていたが、これらの勝利しょうりでアメリカは戦争せんそうてるとかんがえた[39]。アメリカの歴史れきしたちは、プリンストンの勝利しょうりおおきな勝利しょうりであり、こののちでイギリスぐんがニュージャージーの大半たいはん支配しはいうしなったことで、トレントンのたたかいでの勝利しょうり匹敵ひってきするものであるとなすことがおおい。またエドワード・レンゲルなど歴史れきしたちはトレントンよりも意義いぎふかいものとかんがえるものがいる[3]。1世紀せいき、イギリスの歴史れきしジョージ・オットー・トラベリアンはアメリカ独立どくりつかんする研究けんきゅうなかで、トレントンとプリンストンでの勝利しょうり影響えいきょう言及げんきゅうするとき、「これほど少数しょうすう兵士へいしがこれほどみじか時間じかん世界せかいなかでもおおきく永続えいぞくする効果こうかたかどうかうたがわれるかもしれない」としるすことになった[45]

遺産いさん[編集へんしゅう]

ワシントンD.C.のワシントン広場ひろばにあるジョージ・ワシントンの騎馬きばぞうはプリンストンのたたかいでのワシントン将軍しょうぐん姿すがたあらわしている。彫刻ちょうこくクラーク・ミルズは1860ねん2がつ22にちおこなわれたこの彫像ちょうぞう除幕じょまくしきにおける演説えんぜつで、「この彫像ちょうぞうあらわすことになった事件じけんはプリンストンのたたかいである[46]。そのなかではワシントンがなんかその部隊ぶたい鼓舞こぶするのが成功せいこうしなかったのちで、っているうままえすすむのを拒否きょひしたが、勇敢ゆうかん騎手きしゅ手綱たづなひるまずに騎乗きじょうしていたあいだみとどまり身震みぶるいしていたほどてき前線ぜんせん近付ちかづきすぎていた。その気高けだかうまはかように恐怖きょうふたれていたが、ひるむことをらない英雄えいゆう冷静れいせい威厳いげんがあり、自分じぶんかみ摂理せつりなかにあり、自由じゆうかんするおおきな問題もんだい解決かいけつしようとしているとしんじていた」とべた[47]

古戦場こせんじょうはプリンストンのみなみにあり、プリンストン古戦場こせんじょう州立しゅうりつ公園こうえんとなっている。きずついたマーサー将軍しょうぐん戦場せんじょうのオークのしたやすんだという記述きじゅつもある。プリンストンをふくマーサーぐんかれ名前なまえり、オークの紋章もんしょうとした。その老木ろうぼくは2000ねん枯死こしし、そのからそだてたなええられた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Lengel p.205
  2. ^ a b c Fischer p.404
  3. ^ a b c d Lengel p.208
  4. ^ a b Ketchum, p. 373
  5. ^ a b History.Net.Com Battle of Princeton
  6. ^ a b Stryker p.308-309
  7. ^ a b Boatner p.893
  8. ^ McCullough p.276
  9. ^ McCullough p.281
  10. ^ Ketchum p.278
  11. ^ McCullough p.286
  12. ^ Lengel p.199
  13. ^ Lengel p.200
  14. ^ Lengel p.201
  15. ^ Ketchum p.293
  16. ^ Ketchum p.294
  17. ^ a b c d Ketchum p.295
  18. ^ Ketchum p.296
  19. ^ a b c d e Ketchum p.297
  20. ^ a b c Ketchum p.298
  21. ^ a b Ketchum p.299
  22. ^ Lengel p.202
  23. ^ a b Ketchum p.300
  24. ^ a b Ketchum p.301
  25. ^ a b c Ketchum p.303
  26. ^ Fischer p.332
  27. ^ a b c Ketchum p.304
  28. ^ Lengel p.204
  29. ^ Ketchum p.305
  30. ^ Ketchum p.306
  31. ^ a b c Ketchum p.307
  32. ^ McCullough p.289
  33. ^ a b c d e Ketchum p.308
  34. ^ a b c d Ketchum p.309
  35. ^ a b Fischer p.338
  36. ^ a b c d Ketchum p.310
  37. ^ Fischer p.339
  38. ^ Lengel p.206
  39. ^ a b c McCullough p.290
  40. ^ Collins, p. 33
  41. ^ Collins, p. 34
  42. ^ Freeman, p. 360
  43. ^ Dawson,Volume I, p.208
  44. ^ Collins, p. 19
  45. ^ McCullough p.291
  46. ^ The life of General Washington, first president of the United States,p.213
  47. ^ "The Concluding Scenes of the 22d," The Evening Star (Washington, D.C.), February 22, 1860, p. 3.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Boatner, Mark Mayo (1966). Cassell's Biographical Dictionary of the American War of Independence 1763-1783. London: Cassell. ISBN 0 304 29296 6 
  • Collins (editor), Varnum Lansing (1968). A Brief Narrative of the Ravages of the British and Hessians at Princeton in 1776-1777. New York: The New York Times and Arno Press 
  • Fischer, David Hackett (2006). Washington's Crossing. Oxford University Press. ISBN 019518159-X 
  • Freeman, Douglas Southall (1951). George Washington: A Biography. Volume Four: Leader of the Revolution. London: Eyre & Spottiswood 
  • Ketchum, Richard (1999). The Winter Soldiers: The Battles for Trenton and Princeton. Holt Paperbacks; 1st Owl books ed edition. ISBN 0805060987 
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  • Stryker, William S. (1898). The Battles of Trenton and Princeton. Boston: Houghton, Mifflin and Company 
  • Bonk,David Trenton and Princeton 1777-1776 ,Osprey Publishing,2009
  • Dawson, Henry B. (1860). Battles of the United States by Sea and Land. New York: Johnson, Fry and Company 
  • History.Net.Com Battle of Princeton

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい4019ふん40びょう 西経せいけい7440ふん24びょう / 北緯ほくい40.32790 西経せいけい74.67339 / 40.32790; -74.67339