プリンストンの戦 たたか い (プリンストンのたたかい、英 えい : Battle of Princeton )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 中 なか の1777年 ねん 1月 がつ 3日 にち に、ニュージャージー のプリンストン 近 ちか くで、大陸 たいりく 軍 ぐん とグレートブリテン王国 おうこく (イギリス)との間 あいだ に行 おこな われた戦闘 せんとう である。トレントンの戦 たたか い での勝利 しょうり に続 つづ いて、アッサンピンク・クリーク、プリンストンとわずか10日 とおか の間 あいだ の3度 ど の勝利 しょうり は、意気 いき 消沈 しょうちん していた大陸 たいりく 軍 ぐん の息 いき を吹 ふ き返 かえ させた。
1777年 ねん 1月 がつ 2日 にち 、大陸 たいりく 軍 ぐん の総 そう 司令 しれい 官 かん ジョージ・ワシントン はトレントン のアッサンピンク・クリークの戦 たたか いでイギリス軍 ぐん を撃退 げきたい した。その夜 よる 、ワシントンは陣地 じんち を引 ひ き払 はら って、チャールズ・コーンウォリス 将軍 しょうぐん が指揮 しき するイギリス軍 ぐん を回 まわ りこみ、プリンストン を守備 しゅび するイギリス部隊 ぶたい の攻撃 こうげき に向 む かった。大陸 たいりく 軍 ぐん のヒュー・マーサー 准 じゅん 将 しょう の部隊 ぶたい がイギリス軍 ぐん チャールズ・モーフード中佐 ちゅうさ の指揮 しき する2個 こ 連隊 れんたい と衝突 しょうとつ した。マーサーとその部隊 ぶたい が圧倒 あっとう されたので、ワシントンはジョン・キャドワラダー将軍 しょうぐん 指揮 しき する民兵 みんぺい 隊 たい を救援 きゅうえん に派遣 はけん した。この民兵 みんぺい 隊 たい はマーサー部隊 ぶたい が逃亡 とうぼう するのを見 み て、自分 じぶん 達 たち も逃 に げ始 はじ めた。ワシントンは援軍 えんぐん と共 とも に馬 うま で乗 の りつけ、逃 に げる民兵 みんぺい 達 たち を鼓舞 こぶ した。ワシントンは続 つづ いてモーフード隊 たい に対 たい する攻撃 こうげき を率 ひき い、敵 てき を駆逐 くちく した。モーフードが撤退 てったい 命令 めいれい を出 だ し、兵士 へいし の大半 たいはん はトレントンにいるコーンウォリス隊 たい の方向 ほうこう に逃 に げ出 だ した。
プリンストンの町 まち では、ジョン・サリバン 将軍 しょうぐん がナッソー・ホールに逃 に げ込 こ んでいたイギリス兵 へい を降伏 ごうぶく させ、戦闘 せんとう が終 お わった。この戦闘 せんとう 後 ご 、ワシントンはその部隊 ぶたい をニュージャージーのモリスタウン に移動 いどう させた。イギリス軍 ぐん は10日間 にちかん の間 あいだ に3度 ど の敗北 はいぼく を喫 きっ し、ニュージャージー南部 なんぶ を放棄 ほうき した。大陸 たいりく 軍 ぐん は兵士 へいし の士気 しき が上 あ がり、より多 おお くの者 もの が大陸 たいりく 軍 ぐん に入隊 にゅうたい するようになった。この戦闘 せんとう は冬季 とうき に行 おこな われたワシントンのニュージャージー方面 ほうめん 作戦 さくせん では最後 さいご の主要 しゅよう 戦闘 せんとう になった。
戦場 せんじょう 跡 あと は現在 げんざい プリンストン戦場 せんじょう 州立 しゅうりつ 公園 こうえん になっている。
トレントンでの勝利 しょうり [ 編集 へんしゅう ]
1776年 ねん 11月16日 にち にニューヨーク の最後 さいご の砦 とりで が陥落 かんらく し、ジョージ・ワシントンの率 ひき いる大陸 たいりく 軍 ぐん は、ニュージャージーからデラウェア川 がわ を越 こ えてペンシルベニア まで撤退 てったい していた。大陸 たいりく 軍 ぐん と大陸 たいりく 会議 かいぎ の間 あいだ で悲観 ひかん 的 てき な気分 きぶん が蔓延 まんえん する中 なか で、ワシントンは起死回生 きしかいせい の策 さく を立 た てた。12月25日 にち 、ワシントンは夜陰 やいん と嵐 あらし に紛 まぎ れて2,400名 めい の兵士 へいし を率 ひき いてデラウェア川 がわ を渡 わた った[8] 。9マイル (14 km) の行軍 こうぐん 後 ご に、ニュージャージーのトレントンに駐屯 ちゅうとん していたイギリス軍 ぐん のドイツ人 じん 傭兵 ようへい 部隊 ぶたい を急襲 きゅうしゅう し、100名 めい 以上 いじょう を戦死 せんし または負傷 ふしょう させ、900名 めい 以上 いじょう を捕虜 ほりょ にした。大陸 たいりく 軍 ぐん の間 あいだ にまだやれるという気持 きも ちが生 う まれたことで、この勝利 しょうり の意味 いみ は大 おお きかった。ワシントンはイギリス軍 ぐん の反攻 はんこう を恐 おそ れて、一旦 いったん デラウェア川 がわ を再度 さいど 渡 わた り、ペンシルベニアに撤退 てったい した[9] 。12月29日 にち 、ワシントンは再度 さいど 部隊 ぶたい を率 ひき いてデラウェア川 がわ を渡 わた り、トレントンで守備 しゅび 陣地 じんち を構築 こうちく した。12月31日 にち 、ワシントンは大晦日 おおみそか で徴兵 ちょうへい 期限 きげん の切 き れる兵士 へいし 達 たち に10ドルの追加 ついか 報奨 ほうしょう 金 きん であと6週間 しゅうかん 軍隊 ぐんたい に留 と まるよう訴 うった えた。この訴 うった えが功 こう を奏 そう し、大半 たいはん の兵士 へいし は留 と まることに合意 ごうい した[10] 。この日 ひ にはまた、大陸 たいりく 会議 かいぎ が独裁 どくさい 的 てき とも言 い われることの多 おお い幅広 はばひろ い権限 けんげん をワシントンに6ヶ月 かげつ 間 あいだ 与 あた える決議 けつぎ を行 おこな ったことをワシントンは知 し った[11] 。
アッサンピンク・クリークでの勝利 しょうり [ 編集 へんしゅう ]
イギリス軍 ぐん のニュージャージー方面 ほうめん 軍 ぐん を指揮 しき していたチャールズ・コーンウォリス将軍 しょうぐん は、ニューヨーク市 し を発 た って、ワシントン軍 ぐん に対抗 たいこう するためにニュージャージーのプリンストンに9,000名 めい 以上 いじょう の部隊 ぶたい を集結 しゅうけつ させた。コーンウォリスはプリンストンにチャールズ・モーフード中佐 ちゅうさ の指揮 しき で1,200名 めい のイギリス軍 ぐん 兵士 へいし を残 のこ し、ワシントン軍 ぐん 6,000名 めい に対抗 たいこう するために8,000名 めい を率 ひき いて1月 がつ 2日 にち に進発 しんぱつ した[2] [12] 。ワシントンは接近 せっきん するイギリス軍 ぐん の歩 あゆ みを遅 おく らせるために散 ち 兵 へい を派遣 はけん した。イギリス軍 ぐん がトレントンに到着 とうちゃく したのはほぼ日 ひ が暮 く れたときだった[13] 。コーンウォリス部隊 ぶたい はアメリカ大陸 あめりかたいりく 軍 ぐん が守 まも るアッサンピンク・クリークに架 か かる橋 はし を3度 ど 渡 わた ろうとして失敗 しっぱい し、翌日 よくじつ まで攻撃 こうげき を延期 えんき することにした[14] 。
その夜 よる 、ワシントン軍 ぐん は作戦 さくせん 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう し、士官 しかん 達 たち にそこに踏 ふ みとどまって戦 たたか うか、どこかで川 かわ を渡 わた るか、あるいは敵 てき の背後 はいご を取 と ってプリンストンを攻撃 こうげき するかを問 と うた[15] 。ワシントンは既 すで にそのアイディアを思 おも いついていたが、アーサー・セントクレア とジョン・キャドワラダーから、プリンストン攻撃 こうげき という作戦 さくせん が実際 じっさい に実行 じっこう 可能 かのう であるという意見 いけん が出 で た。士官 しかん 達 たち に諮 はか った後 のち で、プリンストン攻撃 こうげき が最善 さいぜん の選択肢 せんたくし であることで合意 ごうい した[16] 。
ワシントンは余分 よぶん な荷物 にもつ はバーリントンに持 も って行 い かせ、そこでペンシルベニアに送 おく られるよう命 めい じた[17] 。地面 じめん は凍 こお っており、大砲 たいほう の荷車 にぐるま を地面 じめん にめり込 こ まさないで動 うご かすことを可能 かのう にしていた。夜半 やはん までに作戦 さくせん は完成 かんせい し、荷物 にもつ はバーリントンに送 おく られ、大砲 たいほう は厚 あつ い布 ぬの でくるまれて音 おと を立 た てないようにし、大陸 たいりく 軍 ぐん の移動 いどう をイギリス軍 ぐん が気付 きづ かないように図 はか られた[17] 。ワシントンは500名 めい を2門 もん の大砲 たいほう と共 とも に偵察 ていさつ に残 のこ し、篝火 かがりび を焚 た いておいて、ピッケルやショベルを使 つか わせてイギリス軍 ぐん には穴 あな を掘 ほ っていると思 おも わせるようにした。この残留 ざんりゅう 部隊 ぶたい は夜明 よあ け前 まえ に本隊 ほんたい に合流 ごうりゅう した[17] 。
午前 ごぜん 2時 じ までに全 ぜん 軍 ぐん が行動 こうどう を開始 かいし し、兵士 へいし 達 たち は絶対 ぜったい 的 てき に沈黙 ちんもく を保 たも って行軍 こうぐん するよう命令 めいれい された[17] 。道中 どうちゅう で包囲 ほうい されているという噂 うわさ が広 ひろ まり、怯 おび えた民兵 みんぺい の中 なか にはフィラデルフィア に向 む かって逃亡 とうぼう する者 もの もいた。途中 とちゅう の道 みち は深 ふか い森 もり を抜 ぬ け、凍 こお っていたために馬 うま が滑 すべ り、兵士 へいし 達 たち が池 いけ に張 は った氷 こおり を割 わ ることもあったので行軍 こうぐん は難渋 なんじゅう を極 きわ めた[18] 。
攻撃 こうげき の作戦 さくせん [ 編集 へんしゅう ]
夜明 よあ けが近付 ちかづ いて、大陸 たいりく 軍 ぐん はストーニー・ブルックと呼 よ ばれる水路 すいろ に接近 せっきん した[19] 。ストーニー・ブルックを過 す ぎてさらに1マイル (1.6 km) 進 すす んだ道路 どうろ は、トレントンからプリンストンまでの郵便 ゆうびん 道路 どうろ との交差点 こうさてん まで続 つづ いていた。しかしこの道路 どうろ の右手 みぎて にはトマス・クラークの農場 のうじょう を横切 よこぎ る使用 しよう されていない道路 どうろ があった[19] 。この道路 どうろ は郵便 ゆうびん 道路 どうろ からは見 み えなかった。さらにイギリス軍 ぐん が守 まも っていないままにしていたので何処 どこ からでもプリンストンの町 まち に入 はい ることができる開 ひら かれた土地 とち を走 はし っていた[19] 。
しかし、ワシントンは夜明 よあ け前 まえ にイギリス軍 ぐん の前哨 ぜんしょう 基地 きち を攻撃 こうげき して占領 せんりょう し、その後 ご 直 す ぐに守備 しゅび 隊 たい を捕獲 ほかく する作戦 さくせん だったので、その予定 よてい より遅 おく れていた[19] 。夜明 よあ けが訪 おとず れた時 とき までに、まだプリンストンまでは2マイル (3 km) を残 のこ していた[19] 。ワシントンは、コーンウォリスがワシントン軍 ぐん の逃亡 とうぼう を見 み つけて追跡 ついせき させた場合 ばあい にその動 うご きを遅 おく らせるために、ヒュー・マーサーに350名 めい の兵士 へいし を付 つ けてストーニー・クリークに架 か かる橋 はし を破壊 はかい させた。午前 ごぜん 8時 じ になる少 すこ し前 まえ 、ワシントンはその他 た の兵士 へいし を右 みぎ 旋回 せんかい させて未 み 使用 しよう の道路 どうろ に入 はい らせた[20] 。その最初 さいしょ の隊列 たいれつ はアーサー・セントクレアとアイザック・シャーマンの旅団 りょだん からなるジョン・サリバンの師団 しだん だった。これに続 つづ くのがジョン・キャドワラダーとダニエル・ヒッチコックの旅団 りょだん だった[20] 。
コーンウォリスはモーフードに朝 あさ になれば第 だい 17および第 だい 55連隊 れんたい を連 つ れてきて自分 じぶん の軍隊 ぐんたい に合流 ごうりゅう するよう命令 めいれい を送 おく った。モーフードはこの命令 めいれい を果 は たすためにプリンストンを出 で て、ストーニー・ブルック南 みなみ の丘 おか に登 のぼ ったときに、大陸 たいりく 軍 ぐん 主力 しゅりょく を発見 はっけん した[20] 。そこは樹木 じゅもく の多 おお い丘 おか だったので大陸 たいりく 軍 ぐん の勢力 せいりょく を見極 みきわ めることができないままに、プリンストンに残 のこ してきた第 だい 40連隊 れんたい に警告 けいこく するために騎兵 きへい を派遣 はけん した。続 つづ いて第 だい 17および第 だい 55連隊 れんたい には回 まわ れ右 みぎ をさせてプリンストンに向 む かわせた。この日 ひ 、モーフードはワシントン軍 ぐん が接近 せっきん してきた地域 ちいき を偵察 ていさつ する偵察 ていさつ 隊 たい を取 と りやめさせていた[21] 。
マーサーはモーフードがその部隊 ぶたい に橋 はし を超 こ えさせプリンストンに戻 もど らせているという伝言 でんごん を受 う けた[21] 。マーサーはワシントンの命令 めいれい に従 したが って、イギリス隊 たい がワシントンの主力 しゅりょく と対峙 たいじ できる前 まえ にその部隊 ぶたい を叩 たた くために自 じ 隊 たい を右手 みぎて に移動 いどう させた[22] 。マーサーはモーフード隊 たい の後衛 こうえい に向 むか ったが、モーフード隊 たい を遮断 しゃだん できる時間 じかん がないと認識 にんしき したときに、サリバン隊 たい と合流 ごうりゅう することに決 き めた。モーフードはマーサ-隊 たい が後 うし ろにいてサリバン隊 たい と合流 ごうりゅう しようとしていることを認識 にんしき すると、街 まち 中 ちゅう で第 だい 40連隊 れんたい と合流 ごうりゅう させるべく第 だい 55連隊 れんたい の一部 いちぶ を派遣 はけん し、第 だい 55連隊 れんたい の残 のこ り、第 だい 17連隊 れんたい 、50名 めい の騎兵 きへい および大砲 たいほう 2門 もん でマーサー隊 たい の攻撃 こうげき に動 うご いた[23] 。
モーフード隊 たい がマーサー隊 たい を圧倒 あっとう [ 編集 へんしゅう ]
モーフードはその軽 けい 歩兵 ほへい にマーサー隊 たい の動 うご きを遅 おく らせるように命 めい ずる一方 いっぽう で、他 た の部隊 ぶたい を指揮 しき していた[23] 。イギリス隊 たい の軽 けい 歩兵 ほへい が現 あらわ れたとき、マーサー隊 たい はウィリアム・クラークの果樹 かじゅ 園 えん を歩 ある いていた。イギリス隊 たい 軽 けい 歩兵 ほへい の一斉 いっせい 射撃 しゃげき が効果 こうか を与 あた えられず、マーサーは自 じ 隊 たい を回 まわ して戦闘 せんとう 線 せん を敷 し かせる時間 じかん ができた。マーサー隊 たい が前進 ぜんしん してイギリス隊 たい 軽 けい 歩兵 ほへい を押 お し返 かえ した[24] 。大陸 たいりく 軍 ぐん は果樹 かじゅ 園 えん の上端 じょうたん にあった塀 へい の陰 かげ に陣地 じんち を占 し めた。しかし、モーフードはその歩兵 ほへい と砲兵 ほうへい 隊 たい を繰 く り出 だ した[24] 。大陸 たいりく 軍 ぐん の砲手 ほうしゅ がまず発砲 はっぽう し、それから約 やく 10分間 ふんかん 、勢力 せいりょく で勝 まさ る大陸 たいりく 軍 ぐん 歩兵 ほへい がイギリス兵 へい と銃火 じゅうか を交 か わした。しかし大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう の多 おお くはマスケット銃 じゅう よりも弾 たま 填 は めに時間 じかん の掛 か かるライフル銃 じゅう を持 も っていた[25] 。モーフードが銃剣 じゅうけん 突撃 とつげき を命 めい じ、大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう の多 おお くは銃剣 じゅうけん を装着 そうちゃく できないライフル銃 じゅう を持 も っていたために、圧倒 あっとう されてしまった[26] 。大陸 たいりく 軍 ぐん の大砲 たいほう 2門 もん が捕獲 ほかく され、イギリス隊 たい はそれを逃 に げる大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう に向 む け直 なお した[25] 。マーサーがイギリス兵 へい に包囲 ほうい され、イギリス兵 へい は「降伏 ごうぶく しろ、反乱 はんらん 者 しゃ のやつめ!」と叫 さけ んだ。イギリス兵 へい はワシントンを捕 つか まえたのだと考 かんが え、銃剣 じゅうけん でマーサーを突 つ き、マスケット銃 じゅう でその頭 あたま を殴 なぐ り、死 し にゆくままにさせた[25] 。マーサーの副 ふく 指揮 しき 官 かん だったジョン・ハスレット大佐 たいさ は頭 あたま を撃 う たれて戦死 せんし した[27] 。
キャドワラダー隊 たい の到着 とうちゃく [ 編集 へんしゅう ]
キャドワラダーの指揮 しき する1,100名 めい の民兵 みんぺい からなる新 あたら しい旅団 りょだん が登場 とうじょう した時 とき は、50名 めい の軽 けい 歩兵 ほへい がマーサー隊 たい を追撃 ついげき しているところだった[27] [28] 。モーフードは戦場 せんじょう に散 ち っていた自軍 じぐん の兵士 へいし を集 あつ め、横隊 おうたい に戦列 せんれつ を敷 し かせた。一方 いっぽう 、サリバンは第 だい 40連隊 れんたい を支援 しえん にきた第 だい 55連隊 れんたい の派遣 はけん 部隊 ぶたい とこう着 ちゃく 状態 じょうたい にあり、どちらもその側面 そくめん を曝 さら してまで主 しゅ 戦闘 せんとう の行 おこな われている方 ほう に動 うご こうとはしなかった[27] 。キャドワラダーは自 じ 隊 たい の兵士 へいし せに戦列 せんれつ を敷 じき かそうとしたが、彼 かれ らには戦闘 せんとう の経験 けいけん が無 な く、最 もっと も基本 きほん 的 てき な操 みさお 軍 ぐん すら知 し らなかった。兵士 へいし たちが丘 おか の頂上 ちょうじょう まで来 く ると、マーサー隊 たい の兵士 へいし がイギリス隊 たい から逃 に げてくるのを目 め にし、民兵 みんぺい の大半 たいはん は振 ふ り向 む いて丘 おか を駆 か け下 くだ った[29] 。
ワシントンの到着 とうちゃく [ 編集 へんしゅう ]
キャドワラダー隊 たい が逃 に げ始 はじ めると、大陸 たいりく 軍 ぐん の大砲 たいほう がイギリス軍 ぐん に向 むか って放 はな たれ、イギリス兵 へい は突撃 とつげき の準備 じゅんび をしていたが、砲撃 ほうげき で数 すう 分間 ふんかん その動 うご きを止 と められた[30] 。キャドワラダーは1個 いっこ 中隊 ちゅうたい を留 と めさせて一斉 いっせい 射撃 しゃげき をさせることはできたが、その中隊 ちゅうたい もその後 ご 直 す ぐに逃 に げ出 だ した。この時点 じてん でワシントンがバージニア大陸 たいりく 連隊 れんたい とエドワード・ハンドのライフル銃 じゅう 隊 たい を従 したが えて到着 とうちゃく した[31] 。ワシントンはライフル銃 じゅう 隊 たい とバージニア連隊 れんたい に丘 おか の右手 みぎて に陣 じん を構 かま えるよう命 めい じ、ワシントン自身 じしん は直 す ぐに馬 うま でキャドワラダーの逃 に げていく兵士 へいし 達 たち の間 あいだ に乗 の り入 い れた。ワシントンは「私 わたし の勇敢 ゆうかん な仲間 なかま よ、我 が に続 つづ け!そこに敵 てき はいるが大 たい したものではない。即座 そくざ に倒 たお せる」と叫 さけ んだ[32] 。キャドワラダーの兵士 へいし 達 たち はワシントンの指示 しじ で戦闘 せんとう 隊形 たいけい を作 つく った。ダニエル・ヒッチコックのニューイングランド大陸 たいりく 連隊 れんたい が到着 とうちゃく したとき、ワシントンはその隊 たい をライフル銃 じゅう 隊 たい とバージニア連隊 れんたい を置 お いておいた右手 みぎて に派遣 はけん した[31] 。
ワシントンはその帽子 ぼうし を手 て に持 も ち、馬 うま を進 すす めながら前線 ぜんせん の大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう の前 まえ に出 で て帽子 ぼうし を振 ふ った[31] 。この時点 じてん でモーフードは自 じ 隊 たい を少 すこ し左手 ひだりて に動 うご かし、大陸 たいりく 軍 ぐん の大砲 たいほう の射程 しゃてい を外 はず させた。ワシントンは合図 あいず を送 おく るまで大砲 たいほう を放 はな たないよう命令 めいれい し、30ヤード (27 m) の距離 きょり まで来 き た時 とき に、馬 うま を返 かえ して自 じ 隊 たい の兵 へい に向 む かい「止 と まれ」そして「放 はな て」と言 い った[33] 。この時 とき 、イギリス軍 ぐん も発砲 はっぽう したので、戦場 せんじょう は煙幕 えんまく に包 つつ まれた。ワシントンの士官 しかん の一人 ひとり は、ワシントンが両 りょう 軍 ぐん の前線 ぜんせん の間 あいだ におり、両側 りょうがわ からの銃撃 じゅうげき に曝 さら されたので死 し んだものと思 おも い、その帽子 ぼうし を目 め のところまで引 ひ き下 さ げたが、煙幕 えんまく が晴 は れるとワシントンが無傷 むきず で現 あらわ れ、部隊 ぶたい 兵 へい を鼓舞 こぶ していた[33] 。
イギリス隊 たい の崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
大陸 たいりく 軍 ぐん の右手 みぎて ではヒッチコックのニューイングランド連隊 れんたい が一斉 いっせい 射撃 しゃげき を放 はな って再度 さいど 前進 ぜんしん し、イギリス軍 ぐん の側面 そくめん に回 めぐ ろうと脅 おど かしていた[33] 。ライフル隊 たい は緩 ゆる りとイギリス兵 へい を狙 ねら い撃 う ちしており、一方 いっぽう 大 だい 陸軍 りくぐん 砲 ほう 兵隊 へいたい はイギリス軍 ぐん 前線 ぜんせん にブドウ弾 だん を放 はな っていた。この時点 じてん でヒッチコックが部隊 ぶたい 兵 へい に突撃 とつげき を命 めい じ、イギリス兵 へい が逃 に げ始 はじ めた[33] 。イギリス隊 たい はその大砲 たいほう を救 すく おうとしたが、民兵 みんぺい 隊 たい が突撃 とつげき してきたので、モーフードは退却 たいきゃく 命令 めいれい を出 だ した。イギリス隊 たい が郵便 ゆうびん 道路 どうろ の方 ほう に逃亡 とうぼう し、大陸 たいりく 軍 ぐん とワシントンがその後 ご を追 お った。ワシントンは「すばらしい狐 きつね 狩 か りだ、兵士 へいし 達 たち よ!」と叫 さけ んだ[33] 。大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう の幾 いく らかが橋 はし を越 こ えて逃 に げるイギリス兵 へい を遮 さえぎ るために郵便 ゆうびん 道路 どうろ に群 むら がったが、モーフードが銃剣 じゅうけん 突撃 とつげき を命 めい じ、大陸 たいりく 軍 ぐん の前線 ぜんせん を突破 とっぱ して橋 はし を渡 わた って逃亡 とうぼう した[34] 。大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう の幾 いく らか、中 なか でもハンドのライフル銃 じゅう 兵 へい がイギリス兵 へい の追撃 ついげき を続行 ぞっこう し、モーフードは竜騎兵 りゅうきへい にいくらか撤退 てったい のための時間 じかん を稼 かせ ぐよう命令 めいれい した。しかしその竜騎兵 りゅうきへい も押 お し返 かえ された。大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう は夜 よる が来 く るまでイギリス兵 へい の追撃 ついげき を続 つづ け、ある者 もの は殺 ころ し、ある者 もの は捕虜 ほりょ にした[34] 。幾 いく らか経 た つとワシントンは馬 うま を返 かえ してプリンストンに戻 もど った[34] 。
町 まち の外 はず れでは、第 だい 55連隊 れんたい がモーフードから退却 たいきゃく して第 だい 40連隊 れんたい と町 まち で合流 ごうりゅう するよう命令 めいれい を受 う けた[34] 。第 だい 40連隊 れんたい は町 まち の直 す ぐ外 がい の谷 たに の北側 きたがわ に陣地 じんち を構 かま えた。第 だい 55連隊 れんたい は第 だい 40連隊 れんたい の左手 ひだりて に陣 じん を布 し いた。第 だい 55連隊 れんたい は進行 しんこう して来 く る大陸 たいりく 軍 ぐん の側面 そくめん を衝 つ くために小隊 しょうたい を派遣 はけん したが、それは粉々 こなごな に打 う ち砕 くだ かれた[35] 。サリバンが数個 すうこ 連隊 れんたい を送 おく って谷 たに を一掃 いっそう させると、イギリス隊 たい は胸壁 きょうへき のところまで後退 こうたい した[35] [36] 。イギリス隊 たい は幾 いく らか抵抗 ていこう した後 のち で再度 さいど 後退 こうたい し、ある者 もの はプリンストンを離 はな れ、ある者 もの はナッソーホールに逃 に げ込 こ んだ[36] [37] 。アレクサンダー・ハミルトン が大砲 たいほう を数 すう 門 もん 運 はこ んできてその建物 たてもの を吹 ふ き飛 と ばさせた。続 つづ いて大陸 たいりく 軍兵 ぐんびょう が玄関 げんかん に突入 とつにゅう してドアを壊 こわ したので、イギリス兵 へい は窓 まど から白旗 はっき を掲 かか げた[36] 。イギリス兵 へい が建物 たてもの か歩 ある いて出 で てきて、その武器 ぶき を置 お いた[36] 。
プリンストンの戦 たたか い記念 きねん 碑 ひ
大陸 たいりく 軍 ぐん はプリンストンに入 はい った後 のち 、イギリス軍 ぐん が放棄 ほうき した物資 ぶっし 荷車 にぐるま と町 まち そのものを略奪 りゃくだつ した[38] 。コーンウォリスがプリンストンに接近 せっきん しているという報 しら せに接 せっ して、ワシントンはプリンストンを放棄 ほうき しなければならないと判断 はんだん した。ワシントンはニューブランズウィックに向 む かってイギリス軍 ぐん の軍資金 ぐんしきん 7万 まん ポンドを押収 おうしゅう しようと思 おも ったが、ヘンリー・ノックス とナサニエル・グリーン 各 かく 少将 しょうしょう が思 おも い留 と まらせた[39] 。その代 か わりにサマーセット・コートハウスに部隊 ぶたい を動 うご かし、翌日 よくじつ の1月 がつ 6日 にち 午後 ごご 5時 じ にはモリスタウンに移 うつ った[3] [39] 。この戦 たたか いの後 のち 、コーンウォリスはニュージャージーの拠点 きょてん の多 おお くを放棄 ほうき し、ニューブランズウィックに撤退 てったい するよう命 めい じた。
イギリス軍 ぐん ウィリアム・ハウ 将軍 しょうぐん によるプリンストンの戦 たたか いの公式 こうしき 報告 ほうこく 書 しょ では、戦死 せんし 18名 めい 、負傷 ふしょう 58名 めい 、不明 ふめい 200名 めい となっていた[5] 。マーク・ボートナーは、この戦 たたか いで大陸 たいりく 軍 ぐん が捕虜 ほりょ にしたのは194名 めい であり[7] 、その差 さ 6名 めい は殺 ころ された可能 かのう 性 せい があると言 い っている。文民 ぶんみん の証言 しょうげん 者 しゃ (『1776年 ねん から1777年 ねん のプリンストンでイギリス軍 ぐん とヘシアンの惨敗 ざんぱい に関 かん する簡単 かんたん な説明 せつめい 』の匿名 とくめい 著者 ちょしゃ )は、戦場 せんじょう で見 み つかったイギリス兵 へい の死者 ししゃ は24名 めい だったと記 しる した[40] 。ワシントンは、イギリス兵 へい の死者 ししゃ が100名 めい 以上 いじょう 、捕虜 ほりょ は300名 めい 以上 いじょう だったと主張 しゅちょう した[41] 。ウィリアム・S・ストライカーはワシントンの主張 しゅちょう に従 したが い、イギリス軍 ぐん の損失 そんしつ は戦死 せんし 100名 めい 、負傷 ふしょう 70名 めい 、捕虜 ほりょ 280名 めい だったと述 の べている[6] 。
ワシントンは大陸 たいりく 軍 ぐん の損失 そんしつ が6名 めい あるいは7名 めい の士官 しかん と25ないし30名 めい の兵士 へいし が戦死 せんし したとしているが、負傷 ふしょう 者 しゃ の数 かず は記 しる していない[42] 。リチャード・M・ケッチャムは大陸 たいりく 軍 ぐん が「兵士 へいし 30名 めい と士官 しかん 14名 めい が戦死 せんし 」とのべている[4] 。ヘンリー・B・ドーソンは、士官 しかん 10名 めい と兵士 へいし 30名 めい が戦死 せんし したと記 しる している[43] 。またエドワード・G・レンゲルは全体 ぜんたい で25名 めい が戦死 せんし し、40名 めい が負傷 ふしょう したとしている[3] 。ロイヤリスト の新聞 しんぶん 「ニューヨーク・ガゼット・アンド・ウィークリー・マーキュリー」は1777年 ねん 1月 がつ 17日 にち に、大陸 たいりく 軍 ぐん のプリンストンでの損失 そんしつ は400名 めい が戦死 せんし または負傷 ふしょう としていた[44] 。
イギリスはトレントンとプリンストンを小 ちい さな勝利 しょうり と見 み ていたが、これらの勝利 しょうり でアメリカは戦争 せんそう に勝 か てると考 かんが えた[39] 。アメリカの歴史 れきし 家 か 達 たち は、プリンストンの勝利 しょうり は大 おお きな勝利 しょうり であり、この後 のち でイギリス軍 ぐん がニュージャージーの大半 たいはん の支配 しはい を失 うしな ったことで、トレントンの戦 たたか いでの勝利 しょうり に匹敵 ひってき するものであると見 み なすことが多 おお い。またエドワード・レンゲルなど他 た の歴史 れきし 家 か たちはトレントンよりも意義 いぎ が深 ふか いものと考 かんが える者 もの がいる[3] 。1世紀 せいき 後 ご 、イギリスの歴史 れきし 家 か ジョージ・オットー・トラベリアンはアメリカ独立 どくりつ に関 かん する研究 けんきゅう の中 なか で、トレントンとプリンストンでの勝利 しょうり の影響 えいきょう に言及 げんきゅう する時 とき 、「これほど少数 しょうすう の兵士 へいし がこれほど短 みじか い時間 じかん に世界 せかい 史 し の中 なか でも大 おお きく永続 えいぞく する効果 こうか を上 あ げ得 え たかどうか疑 うたが われるかもしれない」と記 しる すことになった[45] 。
ワシントンD.C. のワシントン広場 ひろば にあるジョージ・ワシントンの騎馬 きば 像 ぞう はプリンストンの戦 たたか いでのワシントン将軍 しょうぐん の姿 すがた を表 あらわ している。彫刻 ちょうこく 家 か クラーク・ミルズは1860年 ねん 2月 がつ 22日 にち に行 おこな われたこの彫像 ちょうぞう の除幕 じょまく 式 しき における演説 えんぜつ で、「この彫像 ちょうぞう で表 あらわ すことになった事件 じけん はプリンストンの戦 たたか いである[46] 。その中 なか ではワシントンが何 なん 度 ど かその部隊 ぶたい を鼓舞 こぶ するのが成功 せいこう しなかった後 のち で、乗 の っている馬 うま が前 まえ に進 すす むのを拒否 きょひ したが、勇敢 ゆうかん な騎手 きしゅ が手綱 たづな を手 て に怯 ひる まずに騎乗 きじょう していた間 あいだ 、踏 ふ みとどまり身震 みぶる いしていたほど敵 てき の前線 ぜんせん に近付 ちかづ きすぎていた。その気高 けだか い馬 うま はかように恐怖 きょうふ に打 う たれていたが、怯 ひる むことを知 し らない英雄 えいゆう は冷静 れいせい で威厳 いげん があり、自分 じぶん が神 かみ の摂理 せつり の手 て の中 なか にあり、自由 じゆう に関 かん する大 おお きな問題 もんだい を解決 かいけつ しようとしていると信 しん じていた」と述 の べた[47] 。
古戦場 こせんじょう はプリンストンの南 みなみ にあり、プリンストン古戦場 こせんじょう 州立 しゅうりつ 公園 こうえん となっている。傷 きず ついたマーサー将軍 しょうぐん が戦場 せんじょう のオークの木 こ の下 した で休 やす んだという記述 きじゅつ もある。プリンストンを含 ふく むマーサー郡 ぐん が彼 かれ の名前 なまえ を取 と り、オークの木 き を紋章 もんしょう とした。その老木 ろうぼく は2000年 ねん に枯死 こし し、その実 み から育 そだ てた苗 なえ が植 う えられた。
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座標 ざひょう : 北緯 ほくい 40度 ど 19分 ふん 40秒 びょう 西経 せいけい 74度 ど 40分 ふん 24秒 びょう / 北緯 ほくい 40.32790度 ど 西経 せいけい 74.67339度 ど / 40.32790; -74.67339