(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アラスの和約 (1435年) - Wikipedia コンテンツにスキップ

アラスのやく (1435ねん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アラスのやくフランス語ふらんすご: Traité d'Arras, 英語えいご: Treaty of Arras)は、ひゃくねん戦争せんそうなか1435ねん9月21にちフランスブルゴーニュむすんだ講和こうわ条約じょうやく。ブルゴーニュはそれまで同盟どうめいしていたイングランドがわから離脱りだつしてフランスと和睦わぼくひゃくねん戦争せんそう帰趨きすう決定けっていした。

やく締結ていけつされたフランス北部ほくぶまちアラスで、本来ほんらいイングランド・フランス・ブルゴーニュの和睦わぼく締結ていけつのため開催かいさいされたアラス会議かいぎフランス語ふらんすご: Congrès d'Arras)についても説明せつめいする。

経過けいか

[編集へんしゅう]

ブルゴーニュの和睦わぼく提案ていあん

[編集へんしゅう]

1429ねんジャンヌ・ダルクオルレアン包囲ほういせんパテーのたたかでイングランドに連勝れんしょう7がつ17にちランスだい聖堂せいどうでフランスおうシャルル7せい戴冠たいかんしきおこなわれると、イングランド優勢ゆうせいだった戦況せんきょう風向かざむきがわりはじめ、フランスとブルゴーニュこうフィリップ3せい善良ぜんりょうこう)のあいだ度々たびたび休戦きゅうせん協定きょうていわされ、ブルゴーニュが同盟どうめいこくイングランドにフランスとの和睦わぼく勧告かんこくするようになった[注釈ちゅうしゃく 1]。イングランドは戦況せんきょうがまだ自国じこく有利ゆうりであったためはなしおうじなかったが、ブルゴーニュは戦争せんそう負担ふたん増加ぞうか理由りゆう単独たんどく講和こうわ離脱りだつをほのめかし、徐々じょじょにフランスへかたむいていった[2]

ブルゴーニュとローマ教皇きょうこうちょう和睦わぼくはたらきかけると、でなかったイングランドも承諾しょうだくして、1435ねんにフィリップ善良ぜんりょうこう主催しゅさいするアラス会議かいぎひらかれた。しかし一方いっぽうで、ブルゴーニュとフランスは和睦わぼくけてイングランドきのはないを会議かいぎ開催かいさいまえからしており、1434ねん12月から1435ねん2がつにかけて善良ぜんりょうこうとシャルル7せい側近そっきんアルテュール・ド・リッシュモンヌヴェール会談かいだん和睦わぼく条件じょうけんめていた。これがアラスのやくもとになっていた[3][注釈ちゅうしゃく 2]

アラス会議かいぎ

[編集へんしゅう]

1435ねん7がつから8がつまで、アラスでフランス・イングランド・ブルゴーニュの3ヶ国かこくがそれぞれの代表だいひょう使節しせつだん派遣はけん仲介ちゅうかい目的もくてき教皇きょうこうちょう代表だいひょうとして教皇きょうこうエウゲニウス4せい名代なだいである教皇きょうこう使節しせつニッコロ・アルベルガティ英語えいごばん枢機卿すうききょうまじえた会議かいぎ8がつ5にちせいヴァースト修道院しゅうどういん英語えいごばんはじまった。当時とうじのアラスは家屋かおくかずが2,400とわれていたが、使節しせつだんは1,000にん随行ずいこうだんれ、それらの警護けいご商人しょうにんつどい、当時とうじのアラスは人口じんこうえる5,000にん以上いじょう人々ひとびとっていたとされる。

フランスはブルボンおおやけとリッシュモンなどがだい貴族きぞくかく都市とし代表だいひょうやシャルル7せい役人やくにんなど雑多ざった顔触かおぶれととも参加さんか、イングランドはヘンリー・ボーフォート枢機卿すうききょう首席しゅせき代表だいひょうとして参加さんか、ブルゴーニュはフィリップ善良ぜんりょうこう領内りょうない貴族きぞく都市とし代表だいひょうなどをれて参加さんかした。教会きょうかいがわぜん教皇きょうこうマルティヌス5せいだいから和睦わぼく交渉こうしょうたずさわっていたアルベルガティが参加さんかしたほかべつグループとしてスイスバーゼルおおやけ会議かいぎからも使節しせつ派遣はけんされている[5]

会議かいぎはイングランドとフランスの主張しゅちょうこうから対立たいりつした。イングランドがわはフランスおうはイングランドおうヘンリー6せいであり、シャルル7せいはあくまでその臣下しんかであるというトロワ条約わじょうやく内容ないようして主張しゅちょうたいするフランスがわはイングランドがフランス王位おうい放棄ほうきパリとその周辺しゅうへん地域ちいきわたせばきたノルマンディー西にしギュイエンヌ領有りょうゆうみとめるという、イングランドとは反対はんたい提案ていあんをした[注釈ちゅうしゃく 3]会議かいぎ平行へいこうせん辿たどり、9月6にちにイングランド使節しせつだんはアラスを退去たいきょした。それをっていたかのように、フランスとブルゴーニュあいだ交渉こうしょう活発かっぱつになり、ひょうではリッシュモンとフィリップ善良ぜんりょうこう交渉こうしょうわせ、うらではシャルル7せい役人やくにん善良ぜんりょうこう官僚かんりょうたち買収ばいしゅう、ヌヴェールでめた和睦わぼく条件じょうけん下地したじにして、より詳細しょうさいめていき、両国りょうこく会談かいだん短期間たんきかんすすめられていった。

そして9がつ21にち、フランスとブルゴーニュの和睦わぼく発表はっぴょうされアラスのやく締結ていけつされた。内容ないようつぎとおり。

  1. 1419ねんに、シャルル7せい支持しじしゃがフィリップ善良ぜんりょうこうちちジャン1せいこわおおやけ)を暗殺あんさつした事件じけんをシャルル7せい善良ぜんりょうこう謝罪しゃざいする。
  2. ペロンヌアミアンサン=カンタンなどいくつかの土地とちをシャルル7せい善良ぜんりょうこう譲渡じょうとする。
  3. 善良ぜんりょうこう1だいかぎりシャルル7せいへの臣従しんじゅう免除めんじょする。

やくはアルベルガティら教会きょうかいがわ保証ほしょうし、わせてイングランド・ブルゴーニュの同盟どうめいめたトロワ条約わじょうやく無効むこう宣言せんげん、フランスの主導しゅどうけんめぐあらそったアルマニャックブルゴーニュ和解わかいたされた。なお、締結ていけつまえ9月14にちにヘンリー6せい叔父おじ摂政せっしょうベッドフォードこうジョンルーアン急死きゅうししているが、その死因しいん交渉こうしょう失敗しっぱいによる心労しんろうとされている[7]

やく締結ていけつの3ヶ国かこく

[編集へんしゅう]

イングランドはフランス王権おうけんかたくなに放棄ほうきしなかったことと、ブルゴーニュとフランスの関係かんけい修復しゅうふく注意ちゅういはらわなかったことが原因げんいんで、ブルゴーニュをうしな失策しっさくおかした。一方いっぽうのフィリップ善良ぜんりょうこうはイングランドと戦争せんそうしないことをおくったが、いか心頭しんとうのイングランドはロンドン市内しないフランドル商人しょうにん血祭ちまつりにあげ、海上かいじょうでフランドルの商船しょうせん襲撃しゅうげきホラントなどフランドルしょ都市とし反乱はんらん扇動せんどうしてブルゴーニュとの戦争せんそう準備じゅんびすすめた。善良ぜんりょうこう対抗たいこう措置そちとしてイングランドりょうであったカレー包囲ほういしたが失敗しっぱいブリュージュヘントりょう都市とし反乱はんらんこして足元あしもとらいだ。善良ぜんりょうこうはイングランドとの貿易ぼうえき中断ちゅうだんされた状況じょうきょう危機ききかんいだき、1439ねん休戦きゅうせん協定きょうていむすばれ、1445ねん通商つうしょう協定きょうてい締結ていけつされたことでイングランド・ブルゴーニュの友好ゆうこう関係かんけい修復しゅうふくされた[8]

自由じゆう裁量さいりょうけんたフィリップ善良ぜんりょうこう関心かんしんネーデルラントけ、1443ねんルクセンブルク獲得かくとく反乱はんらんこした都市とし鎮圧ちんあつ成功せいこうして領内りょうない安全あんぜん確保かくほリエージュ司教しきょうりょうなどの干渉かんしょうおこなきた領土りょうどばしていった[9]。フランスはリッシュモンの指揮しきでイングランドからの領土りょうど奪還だっかんすすめ、1436ねんにパリをもどしたのを契機けいきにイングランドりょうしょ都市とし次々つぎつぎとしていき、1440ねん貴族きぞく反乱はんらんプラグリーのらん)も鎮圧ちんあつして軍事ぐんじ改革かいかく強化きょうかすすめていった。イングランドはフランスの反撃はんげき対抗たいこうできず、国内こくない派閥はばつ抗争こうそう長引ながびいたために内部ないぶ分裂ぶんれつこした。そのために有効ゆうこう対策たいさくてず、1450ねんフォルミニーのたたか大敗たいはいしてノルマンディーを喪失そうしつし、1453ねんカスティヨンのたたかにもやぶれ、ギュイエンヌもうばわれて敗戦はいせんむかえることになる[10]

アラスのやくはどのくにが1ばん利益りえきたか議論ぎろんされているが、ブルゴーニュの外交がいこう勝利しょうりとする意見いけんがあれば、ブルゴーニュをイングランドからはなしたフランスこそ勝者しょうしゃとする異論いろんされている。フィリップ善良ぜんりょうこう目的もくてきについても一致いっちせず、フランスの政治せいじてき立場たちば確保かくほしたいという解釈かいしゃくと、ネーデルラント進出しんしゅつ背後はいごかためるためフランスとのやくおうじたという解釈かいしゃく双方そうほうされており、研究けんきゅうしゃあいだ意見いけん対立たいりつしている[11]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ それでも1430ねんになるとブルゴーニュはイングランドの出兵しゅっぺいおうじ、1はフランスの休戦きゅうせんれたのをいいことにコンピエーニュ包囲ほういせんくわわったが、ジャンヌをらえたほか包囲ほうい失敗しっぱいわる、領地りょうちピカルディーがフランスにらされるなど損失そんしつほうおおきかった[1]
  2. ^ 会談かいだん内容ないようはフランス・ブルゴーニュあいだ和睦わぼく予備よび交渉こうしょうであり、そのために同席どうせきしたブルボンおおやけシャルル1せいとフィリップ善良ぜんりょうこう和睦わぼく成功せいこう和睦わぼく条件じょうけんおおまかな項目こうもくめられ進展しんてんしていった。また、フランスはイングランドの交渉こうしょうのぞまえに、交渉こうしょう決裂けつれつはブルゴーニュを交渉こうしょう相手あいて変更へんこうする予備よびあんかんがえ、イングランドよりブルゴーニュにけて準備じゅんびととのえていた[4]
  3. ^ ただ、両国りょうこく原則げんそくろん固執こしつしてばかりではなく、とししょさぐっていた。イングランドはフランスの土地とち割譲かつじょう政略せいりゃく結婚けっこん(ヘンリー6せいとシャルル7せいむすめ結婚けっこん)を提案ていあんしたが、一時いちじてき休戦きゅうせんもとめるイングランドの姿勢しせい見抜みぬいていたフランスは反対はんたい交渉こうしょう成立せいりつしなかった。フランスからもイングランドにらえられていたオルレアンこうシャルル釈放しゃくほう、ヘンリー6せいがシャルル7せい臣従しんじゅうするなら土地とち保有ほゆうみとめるあんされたが、いずれも実現じつげんせず交渉こうしょう決裂けつれつわった[6]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ 清水しみず、P225 - P227、P243 - P245、P250 - P258
  2. ^ エチュヴェリー、P184 - P200、清水しみず、P195 - P211、カルメット、P219 - P224、城戸きど、P211 - P214
  3. ^ エチュヴェリー、P211 - P213、城戸きど、P215 - P217
  4. ^ エチュヴェリー、P211、清水しみず、P354 - P355、カルメット、P226 - P227、城戸きど、P246 - P248
  5. ^ エチュヴェリー、P214、清水しみず、P357、カルメット、P228、城戸きど、P218 - P233
  6. ^ 城戸きど、P237 - P245
  7. ^ エチュヴェリー、P214 - P217、清水しみず、P357 - P359、カルメット、P228 - P231、城戸きど、P248 - P252
  8. ^ カルメット、P231 - P235、城戸きど、P287
  9. ^ カルメット、P235 - P245、城戸きど、P287
  10. ^ エチュヴェリー、P219 - P224、P241 - P245、清水しみず、P359 - P362、P365 - P372、城戸きど、P287 - P288
  11. ^ 城戸きど、P252 - P253

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]