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アレクサンドル・カレリン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・カレリン
Aleksandr Karelin
連邦れんぽうしゅう議会ぎかいにて(2018ねん9がつ
個人こじん情報じょうほう
フルネームアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・カレリン
Александр Александрович Карелин
愛称あいしょうThe Experiment
霊長れいちょうるい最強さいきょうおとこ
国籍こくせきロシアの旗 ロシア
生誕せいたん (1967-09-19) 1967ねん9月19にち(56さい
ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
ノヴォシビルスクしゅうノヴォシビルスク
身長しんちょう191 cm (6 ft 3 in)
体重たいじゅう130 kg (287 lb)
ウェブサイトkarelin.ru
スポーツ
競技きょうぎレスリング
種目しゅもくグレコローマンスタイル130 kgきゅう
クラブDynamo Novosibirsk
担当たんとうコーチViktor Kuznetsov
成績せいせき・タイトル
世界せかい選手権せんしゅけん 9
地域ちいき大会たいかい 12(欧州おうしゅう選手権せんしゅけん
五輪ごりん 3、 1
獲得かくとくメダル
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう EUNの旗 EUN ロシアの旗 ロシア
男子だんし レスリング・グレコローマン
オリンピック
きむ 1988 ソウル 130 kgきゅう
きむ 1992 バルセロナ 130 kgきゅう
きむ 1996 アトランタ 130 kgきゅう
ぎん 2000 シドニー 130 kgきゅう
レスリング世界せかい選手権せんしゅけん
きむ 1989 マルティニ 130 kgきゅう
きむ 1990 オスティア 130 kgきゅう
きむ 1991 ヴァルナ 130 kgきゅう
きむ 1993 ストックホルム 130 kgきゅう
きむ 1994 タンペレ 130 kgきゅう
きむ 1995 プラハ 130 kgきゅう
きむ 1997 ヴロツワフ 130 kgきゅう
きむ 1998 イェブレ 130 kgきゅう
きむ 1999 アテネ 130 kgきゅう
レスリングヨーロッパ選手権せんしゅけん
きむ 1988 コルボン 130 kgきゅう
きむ 1989 オウル 130 kgきゅう
きむ 1990 ポズナン 130 kgきゅう
きむ 1991 アシャッフェンブルク 130 kgきゅう
きむ 1992 コペンハーゲン 130 kgきゅう
きむ 1993 イスタンブール 130 kgきゅう
きむ 1994 アテネ 130 kgきゅう
きむ 1995 ブザンソン 130 kgきゅう
きむ 1996 ブダペスト 130 kgきゅう
きむ 1998 ミンスク 130 kgきゅう
きむ 1999 ソフィア 130 kgきゅう
きむ 2000 モスクワ 130 kgきゅう

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・カレリンロシア: Александр Александрович Карелин, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Aleksandr Aleksandrovich Karelin1967ねん9月19にち - )は、ソビエト連邦れんぽうロシアノヴォシビルスク出身しゅっしんグレコローマンレスリング選手せんしゅ政治せいじ身長しんちょう191 cm、体重たいじゅう130 kg。ソビエト連邦れんぽうきゅうソ連それん統一とういつチームロシア代表だいひょう選手せんしゅつとめた。

オリンピックにおいてグレコローマンレスリング130 kgきゅう1988ねん1992ねん1996ねんと3大会たいかい連続れんぞくきんメダルを獲得かくとく。その前人未到ぜんじんみとうともしょうされただい記録きろく圧倒的あっとうてきつよさから、海外かいがいマスメディアではThe Experiment日本にっぽんでは霊長れいちょうるい最強さいきょうおとこ異名いみょうられる。ロシア連邦れんぽう英雄えいゆう授与じゅよされている。べつ表記ひょうきアレクサンダー・カレリン

来歴らいれき[編集へんしゅう]

13さいときにレスリングをはじめ、積雪せきせつ30 cmのなかでのランニングや、ボートを3あいだ不休ふきゅうつづけるなどの過酷かこくなトレーニングで身体しんたい徹底的てっていてききたげた。その結果けっかカレリンはちょう人的じんてきとさえいえるパワーをけ、全盛期ぜんせいき背筋力はいきんりょくは400 kg以上いじょう、ベンチプレスは一説いっせつによれば704lb=やく319㎏(この記録きろくはパワーリフティングけい以外いがいのアスリートにおける史上しじょう最高さいこうクラスの記録きろくであり、NFL史上しじょう最強さいきょうのオフェンスラインマンの一人ひとりであるラリー・アレンつ705lb=やく320㎏にせま記録きろく。)にたっしたとのことだが、ごく少数しょうすう情報じょうほうげんからひろまった情報じょうほうであり、おなじグレコローマンレスリングでカレリンの五輪ごりん3連覇れんぱ上回うわまわり、五輪ごりん4連覇れんぱ達成たっせいしたミハイン・ロペス保持ほじするベンチプレスの自己じこ記録きろくは200㎏[1]であるなど、レスリングという競技きょうぎせい相俟あいまってベンチプレス319㎏はあやま情報じょうほうであるという見解けんかいおおい。

かれ怪力かいりきかんするエピソードとして、引越ひっこしのさいにアパートの1かいから8かい一説いっせつでは15かいとも)まで、たんすや冷蔵庫れいぞうこおもさ120 kg)を一人ひとりかついではこんだという逸話いつわがある。

1987ねんから2000ねんまで国際こくさい大会たいかいで13年間ねんかん無敗むはいほこり、大会たいかい76連勝れんしょう記録きろくつ。そのあいだ世界せかい選手権せんしゅけん9連覇れんぱ欧州おうしゅう選手権せんしゅけん10連覇れんぱ記録きろくし、公式こうしき試合しあいでの連勝れんしょう記録きろくは300までにおよんだ[2]

怪我けがやアクシデントにつよく、脳震盪のうしんとうこしたときも、肋骨あばらぼねれていたときも、むねすじだんきれにより片腕かたうで使つかえなかったときも、大会たいかい優勝ゆうしょうしたという[3]

25さい国内こくないぐん少佐しょうさごう授与じゅよされ、28さい税務ぜいむ警察けいさつきょく大佐たいさとなり、ロシア・レスリング協会きょうかいふく会長かいちょう兼務けんむ[2]

1999ねん2がつ21にちには、横浜よこはまアリーナ開催かいさいされたリングスにおいて、前田まえだ日明ひあがり引退いんたい試合しあい相手あいてつとめた。この試合しあいはカレリン唯一ゆいいつ他流たりゅう試合しあい(グレコローマン以外いがい試合しあい)でもある。前田まえだは「くびれる覚悟かくごをすること3かい」「ダンプカーが正面しょうめん衝突しょうとつしてくるようなちからだった」と試合しあいかえっている[4]

2000ねん9月26にちシドニーオリンピック決勝けっしょうのオリンピック4連覇れんぱけたルーロン・ガードナーとの試合しあいで、みずからのクラッチがはずれたことによりロストポイントをとられ、これがひびいて最終さいしゅうてきには判定はんていけ。

その外見がいけんはんして言動げんどう紳士しんしてきかつ知的ちてきであり、レスリング関係かんけいしゃのみならず、ひろくロシア国民こくみん尊敬そんけい対象たいしょうとなっている。1999ねん12月からはロシアの連邦れんぽう下院かいん議員ぎいんを1つとめた。

学位がくいロシア国立こくりつ体育たいいくアカデミー博士はかせごう愛読あいどくしょアレクサンドル・プーシキン著書ちょしょ哲学てつがくしょ

「カレリン基金ききんしゃ」という会社かいしゃ社長しゃちょうつとめる実業じつぎょうといういちめんもあり、その財力ざいりょくは「アラブの石油せきゆおう」と遜色そんしょくないほどわれる[2]

その戦績せんせきから「古代こだいオリンピックのレスリングをふくめて2000年間ねんかんなかでナンバーワンのレスラー[2]ひょうされる。

得意とくいわざ[編集へんしゅう]

カレリンのちょう人的じんてきつよさの象徴しょうちょうとして、カレリンズ・リフトというわざがある。これはパーテールポジションから相手あいて胴体どうたいをクラッチし、みずからの後方こうほう相手あいてがわかたげるというたわらかえし相当そうとうするもので、アマチュアレスリンググレコローマンスタイルではポピュラーなわざのひとつである。しかしそれはけいちゅうりょうきゅうにおけるはなしであり、カレリンが出場しゅつじょうしていた130 kgきゅうでは前代未聞ぜんだいみもん大技おおわざだった。カレリンがこのわざ使つかうまでは、130 kgきゅうにおいて相手あいてたわらかえしげるという概念がいねん自体じたい存在そんざいしなかったとされている。けるがわ当然とうぜんながら頸椎多大ただい荷重かじゅうがかかるため、カレリンにパーテールポジションをうばわれた相手あいてがこのわざおそれて、そのままフォールえらぶという場面ばめんがしばしば見受みうけられた[3]

前田まえだ日明ひあがりはカレリンとの対戦たいせんまえ「あれはレスリングのルールだから通用つうようするわざ自分じぶん絶対ぜったいらわない」と自信じしんのほどをかたっていたが、実際じっさい試合しあいでは2かいカレリンズ・リフトをけてしまった。前田まえだ引退いんたいリングのたましい』でかたったところによれば、カレリンのクラッチはあまりにも人間にんげんばなれした強固きょうこきわまるもので(前田まえだいわく「えっ、こんなクラッチあるの?とおもった」)、まった抵抗ていこうすることが出来できなかったという。

その[編集へんしゅう]

  • 身長しんちょう191 cm、体重たいじゅう130 kgの巨漢きょかんだったが、非常ひじょうにバランスがれた体格たいかくっていた。これについては前田まえだ日明ひあがりが『リングのたましいないくわしくかたっており、カレリンのからだ全身ぜんしん柔軟じゅうなんかつ重厚じゅうこう筋肉きんにくかたまりで「てつかたまり試合しあいしてるみたい」「競走きょうそうさわったことがあるんですけど、おなかんじの筋肉きんにく」だったという。また、前田まえだは「筋肉きんにくのつきかた軽量けいりょうきゅう選手せんしゅおなじなんですよ。ああいうからだってまれたものじゃないと、いくらきたえてもそうならないでしょうね」ともべている。
  • 1989ねんアントニオ猪木いのき窓口まどぐちとなってしん日本にっぽんプロレスショータ・チョチョシビリサルマン・ハシミコフらを、きょうさかえボクシングジムいさむとしアルバチャコフオルズベック・ナザロフらを招聘しょうへいしていったながれのなかで、カレリンもしん日本にっぽんプロレスと契約けいやくした、とプロレス雑誌ざっし報道ほうどうされたことがある。当時とうじ報道ほうどうでは、プロ転向てんこうというかたちではなく、しんにレスリング部門ぶもんつくり、そこにカレリンが所属しょぞくするかたちとされたが、そのなんうごきもなかった。カレリンが日本にっぽんではそれほど知名度ちめいどたかくなく反響はんきょうすくなかったこと、1989ねんまつにはしんにちないソ連それん軍団ぐんだん価値かちがったことがおおきかったが、実際じっさいはカレリンの社交しゃこう辞令じれいを、詳細しょうさいめずに猪木いのき過大かだい発表はっぴょうしたことによる。
  • 前田まえだとの試合しあいさい使用しようした入場にゅうじょうきょくオジー・オズボーンの『Perry Mason』。
  • プロレスラー・格闘かくとうアレクサンダー大塚おおつかは、尊敬そんけいするカレリンのみずからのリングネームに使用しようしている。
  • 出生しゅっしょう体重たいじゅうが6.8 kgもあった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 五輪ごりん連覇れんぱ怪物かいぶつミハイン・ロペス「おもりを使つかったトレーニングはきじゃない」 – 東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ”. ひがしスポWeb. 2022ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 公式こうしき試合しあい300連勝れんしょう! 「霊長れいちょうるい最強さいきょうおとこ」カレリンがのこした最強さいきょう伝説でんせつ(1/3ページ) exciteニュース 2016ねん8がつ24にち 06:02 (2021ねん7がつ29にち閲覧えつらん)
  3. ^ a b 公式こうしき試合しあい300連勝れんしょう! 「霊長れいちょうるい最強さいきょうおとこ」カレリンがのこした最強さいきょう伝説でんせつ(2/3ページ) exciteニュース 2016ねん8がつ24にち 06:02 (2021ねん7がつ29にち閲覧えつらん)
  4. ^ 公式こうしき試合しあい300連勝れんしょう! 「霊長れいちょうるい最強さいきょうおとこ」カレリンがのこした最強さいきょう伝説でんせつ(3/3ページ) exciteニュース 2016ねん8がつ24にち 06:02 (2021ねん7がつ29にち閲覧えつらん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]