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アレバロ

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Arévalo

  


しゅう  カスティーリャ・イ・レオンしゅう
けん  アビラけん
面積めんせき 46.07 km²
標高ひょうこう 827m
人口じんこう 8,165 にん (2014ねん
人口じんこう密度みつど 177.23 にん/km²
住民じゅうみん呼称こしょう arevalenses
Arévaloの位置(スペイン内)
Arévalo
Arévalo
スペインないアレバロの位置いち
Arévaloの位置(アビラ県内)
Arévalo
Arévalo
アビラ県内けんないアレバロの位置いち

北緯ほくい413ふん35びょう 西経せいけい443ふん10びょう / 北緯ほくい41.05972 西経せいけい4.71944 / 41.05972; -4.71944座標ざひょう: 北緯ほくい413ふん35びょう 西経せいけい443ふん10びょう / 北緯ほくい41.05972 西経せいけい4.71944 / 41.05972; -4.71944

アレバロスペイン: Arévalo)は、スペインカスティーリャ・イ・レオンしゅうアビラけんムニシピオ基礎きそ自治体じちたい)。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

アレバロという地名ちめい語源ごげんは、イベリア半島はんとうケルトじん支配しはいしていた時代じだいさかのぼる。一部いちぶ記述きじゅつによれば、「かべとなり」を意味いみするare-valónからはっしたとされる。しかし、メセタんでいたケルティベリアじん一部いちぶぞくであるヴァッカエイぞくスペインばんからしょうじたとするせつもある。文献ぶんけんじょう名前なまえ登場とうじょうするのは11世紀せいきで、すでラテン語らてんごされたアレバロルム(Arevalorum)であった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

711ねんベルベルじん襲来しゅうらいしてアレバロを占領せんりょうした。それまでんでいた住民じゅうみんはイベリア半島はんとう北部ほくぶ避難ひなんし、わって入植にゅうしょくしたのはアラブ民族みんぞくであった。レコンキスタ進行しんこうした11世紀せいきカスティーリャ前線ぜんせんドゥエロがわ付近ふきんとし、すで人口じんこうがまばらであったアレバロ周辺しゅうへんさい入植にゅうしょく推進すいしんした。1135ねんアルフォンソ7せいアビラ教会きょうかいにアレバロを寄進きしんし、1140ねんローマ教皇きょうこうインノケンティウス2せいはアレバロをアビラ司教しきょう所有しょゆうみとめた。城壁じょうへきかこまれたアレバロの内部ないぶでは、さい植民しょくみんとともに教会きょうかい修道院しゅうどういんはし建設けんせつすすめられた。フエロ特権とっけん)がさづけられたのは13世紀せいきである。

14世紀せいきなかばのだいいちカスティーリャ継承けいしょう戦争せんそうあいだカスティーリャ王家おうけ忠実ちゅうじつであったアレバロは、トラスタマラあさはじまってから経済けいざい衰退すいたい顕著けんちょとなった。

フアン2せいの2度目どめ王妃おうひであったイサベル・デ・ポルトゥガルは、1454ねんおっと死別しべつすると庇護ひごうしない、継子けいしエンリケ4せい宮廷きゅうていから追放ついほうされアレバロじょう隠遁いんとんした。そのさい実子じっしであるイサベル(のちのイサベル1せい)とアルフォンソともなっていた。だいカスティーリャ継承けいしょう戦争せんそうスペインばん、イサベル1せい即位そくいしたのちも、おうははであるイサベルはアレバロにとどまり(精神せいしんんでいたためとされる)、1492ねんくなった。

18世紀せいきなかばから経済けいざい復興ふっこうし、人口じんこう増加ぞうかした。現在げんざい農業のうぎょう製材せいざいぎょう観光かんこうぎょう基盤きばんとしている。

1970ねん、12世紀せいきから16世紀せいきにかけてのロマネスク、ムデハルのかく様式ようしき建築けんちくぶつ保存ほぞんしていることから、スペイン歴史れきし遺産いさん指定していされた。

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]