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アンワールのたたか

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アンワールのたたか
戦争せんそう:リーフ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1921ねん7がつ22にち
場所ばしょきたアフリカ・アンワール周辺しゅうへん
結果けっか:スペインぐん大敗たいはい、リーフぐん決定的けっていてき勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
スペインの旗 スペイン リーフ共和きょうわこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
アルフォンソ13せい
マヌエル・シルベストロ
フェリペ・ナバーロ
アブド・エル・クリム
戦力せんりょく
正規せいきへい18,011にん
民兵みんぺい4,653にん
民兵みんぺいやく3000めい
損害そんがい
13,363にん
機関きかんじゅう400ちょう
野戦やせんほう129もん
1000にん以下いか

アンワールのたたか(Desastre de Annual)は、だい3リーフ戦争せんそうにおいておこなわれたたたかいで、スペイン王国おうこくベルベルじん部族ぶぞく国家こっかリーフ共和きょうわこく大敗たいはいきっした。

アンワールのやくわざわいばれるこの敗北はいぼくは、近代きんだい後期こうきから衰退すいたいつづくスペインの威信いしんおおきく低下ていかさせ、スペイン内戦ないせんへとつながる国内こくない紛争ふんそうんだ。また植民しょくみん支配しはい方針ほうしん変更へんこうすること余儀よぎなくされ、すでだい部分ぶぶんうしないつつあった植民しょくみん最終さいしゅうてき喪失そうしつへとつながった。

背景はいけい[編集へんしゅう]

かつては植民しょくみん大国たいこくとしておおきな繁栄はんえいていたスペイン帝国ていこくであったが、すでに19世紀せいきから徐々じょじょ衰退すいたいしつつあり、20世紀せいき初頭しょとうには工業こうぎょう経済けいざい技術ぎじゅつ植民しょくみんなど様々さまざまめん欧州おうしゅうろく大国たいこくイギリスドイツフランスイタリアオーストリア=ハンガリーロシア)からのをスペインはけられていた。また地方ちほう対立たいりつはげしいイベリア半島はんとうではかく地方ちほう民族みんぞく運動うんどうはげしさをし、スペイン国民こくみん結束けっそくるぎはじめていた。こうしたなか強権きょうけんてき君主くんしゅとしてられたアルフォンソ13せいもと国威こくい発揚はつよう目指めざした対外たいがい進出しんしゅつはかられた。

アルフォンソ13せいはなさきにあるきたアフリカスペインりょうモロッコ地方ちほう支配しはい強化きょうかをその第一歩だいいっぽさだめ、反乱はんらんつづけていたベルベルじん部族ぶぞくリーフじんへの攻撃こうげき開始かいしした。

戦況せんきょう[編集へんしゅう]

戦場せんじょう地図ちず

進軍しんぐん敗北はいぼく[編集へんしゅう]

1921ねん前半ぜんはんスペインぐん以前いぜんたたかいで占拠せんきょした沿岸えんがん拠点きょてんからモロッコ北東ほくとう攻撃こうげきはじめた。司令しれいかんマヌエル・フェルナンデス・シルベストロ物資ぶっし食料しょくりょう補給ほきゅうせん十分じゅうぶん考慮こうりょせず、また占領せんりょう十分じゅうぶん確保かくほおこなわずに進軍しんぐん開始かいしした。

ほどなくアンワール近辺きんぺん進出しんしゅつした2まんにんスペイン陸軍りくぐんはリーフぞく民兵みんぺいたい包囲ほういされ、補給ほきゅう物資ぶっしは5日間にちかん枯渇こかつした。つづいておこなわれた族長ぞくちょうアブド・アルカリームひきいる民兵みんぺいたいそう攻撃こうげきなか、シルベストロ将軍しょうぐん失踪しっそうしたこと混乱こんらん頂点ちょうてんたっした。スペインぐんはモロッコ保護ほごりょう時代じだいからたくわえられた兵力へいりょくによるすうてき優位ゆういかかわらずベルベルへいやぶられ、ぐん士気しき崩壊ほうかいおちいって敗走はいそう開始かいしした。

リーフぐん追撃ついげき[編集へんしゅう]

らされたスペインへいうち幸運こううんものフランスりょうモロッコ海軍かいぐん輸送ゆそうかんのがれること出来できた。しかしだい部分ぶぶん敗残はいざんへい現地げんち植民しょくみんしゃれてふく司令しれいかんフェリペ・ナバーロ将軍しょうぐん命令めいれいでモンテ・アルチへと退却たいきゃくし、そこで進撃しんげきしてたリーフぐんふたた包囲ほういされた。フェリペ将軍しょうぐんはモロッコ総督そうとく降伏ごうぶく許可きょかもとめ、スペイン政府せいふやめくこれをみとめたがリーフぐんはスペインぐん降伏ごうぶくれずに攻撃こうげきつづけた。抗戦こうせん意思いし喪失そうしつしていたにもかかわらずおおくのスペインへい民間みんかんじんころされ、フェリペ将軍しょうぐんも600めい兵士へいしともらえられた。

モロッコ保護ほごりょう首都しゅとにあたるメリリャ後方こうほう司令しれい遠征えんせいぐんたいするなん援助えんじょおこなわなかった。それどころか防戦ぼうせん準備じゅんびすらできておらず、もし隣接りんせつする部族ぶぞくりょう住民じゅうみんがリーフぐん加勢かせいしていたなら、メリリャ陥落かんらくしていた可能かのうせいたかい。

遠征えんせいぐん殲滅せんめつしたリーフぐんはメリリャへのぎゃく侵攻しんこう開始かいししたが、メリリャ周辺しゅうへん部族ぶぞく協力きょうりょくられなかったためたたかいは長期ちょうきした。後方こうほう展開てんかいしていたスペイン陸軍りくぐん外人がいじん部隊ぶたい南米なんべい出身しゅっしんしゃ多数たすうめる)が到着とうちゃく、またリーフぞく対立たいりつするベルベルじん部族ぶぞく傭兵ようへいとして雇用こようし、スペインじん兵士へいしわって前線ぜんせんでリーフぐんとの戦闘せんとう担当たんとうした。かれらの活躍かつやくもあってメリリャ陥落かんらくふせがれたが、最終さいしゅうてきに2まんにん以上いじょうのスペインへい戦死せんし降伏ごうぶく失踪しっそうなどでうしなわれた。また2まんちょう以上いじょうのライフルと400ちょう機関きかんじゅう、129もん野戦やせんほううしなわれるか鹵獲ろかくされた。たいするリーフ共和きょうわこくがわは1000にん前後ぜんこう戦死せんしもしくは負傷ふしょうしたとられる。

戦後せんご、スペインの政治せいじインダレシオ・プリエト議会ぎかいで「スペインじん退廃たいはいきわみにたっした。アフリカでの戦争せんそう大敗たいはいわり、ぐん醜態しゅうたいには弁護べんご余地よちい」と痛烈つうれつ批判ひはんしている。

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

国防こくぼう大臣だいじん敗戦はいせん責任せきにん調しらべる調査ちょうさ委員いいんかい設立せつりつ戦争せんそうのこりであったファン・ピカソ・ゴンサーレス将軍しょうぐん画家がかパブロ・ピカソ叔父おじにあたる)を委員いいんちょう抜擢ばってきした。かれぐんおおくの失敗しっぱいおこなっていたことをレポートにまとめて公表こうひょうしたが、政治せいじ裁判官さいばんかんなどのあつりょくによってぐん責任せきにん追及ついきゅうされなかった。またシルベストレ将軍しょうぐんぐん進軍しんぐん開始かいしするまえ後方こうほう予備よび部隊ぶたい駐屯ちゅうとんさせることおこたったことを、国王こくおうアルフォンソ13せい事前じぜんっていたうえ進軍しんぐん奨励しょうれいしていたこと発覚はっかくし、国王こくおうへの民衆みんしゅう不信ふしんたかまった。

上記じょうきよう歯切はぎれのわる戦後せんご処理しょり敗北はいぼくのショックとあいまって国内こくない意見いけんはげしい対立たいりつみ、最終さいしゅうてき王制おうせい廃止はいし内戦ないせんへとつながっていく。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]