イフニ戦争せんそう

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イフニ戦争せんそう
戦争せんそう:イフニ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ:1957ねん10がつ23にち – 1958ねん6がつ30にち
場所ばしょスペインりょうサハライフニモロッコ
結果けっかフランススペイン軍事ぐんじてき勝利しょうり最終さいしゅうてきにはモロッコの政治せいじてき勝利しょうり
アングラ・デ・シントラ条約じょうやく[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
スペインの旗スペイン
フランスの旗 フランス
モロッコの旗 モロッコ
 • モロッコ解放かいほうぐん
 • サハラぞく
指導しどうしゃ指揮しきかん
スペインの旗フランシスコ・フランコ
スペインの旗ホセ・マリア・バレンシア
フランスの旗 フランスルネ・コティ
ベン・ハム
戦力せんりょく
15,300にん
 • スペインへい10,300にん
 • フランスへい5,000にん
 • 航空機こうくうき150
30,000[2]
損害そんがい
死者ししゃ190めい
負傷ふしょうしゃ500めい
行方ゆくえ不明ふめいしゃ80めい[1]
死者ししゃ800-1000にん[1]
きたアフリカへのスペインの関与かんよしめ地図ちず

  イフニ戦争せんそう(イフニせんそう)は、スペインわすれられた戦争せんそう(la Guerra Olvidada)ともばれ、1957ねん10月にはじまったモロッコ反乱はんらんぐんによるスペイン西にしアフリカへの一連いちれん武力ぶりょく侵攻しんこうであり、シディ・イフニ英語えいごばん包囲ほうい失敗しっぱい最高潮さいこうちょうたっした。

この戦争せんそうは、20世紀せいき後半こうはんにアフリカを席巻せっけんしただつ植民しょくみんうごきの一部いちぶともいえるが、フランスとの対立たいりつしばられず、スペインからの独立どくりつおおきな資源しげん人員じんいん投入とうにゅうしたモロッコ解放かいほうぐん一部いちぶ中心ちゅうしんとなっておこなわれたものである。

原因げんいん[編集へんしゅう]

シディ・イフニ1860ねんスペイン帝国ていこく編入へんにゅうされた。そのすうじゅうねんにわたるフランスとスペインの協力きょうりょく関係かんけいにより、シディ・イフニの南側みなみがわにスペインの保護ほごりょう設立せつりつ拡大かくだいされ、1884ねんベルリン会議かいぎではスペインの影響えいきょうりょく国際こくさいてきみとめられました。1946ねん、この地域ちいき沿岸えんがん内陸ないりく植民しょくみんは、スペインりょう西にしアフリカとして統合とうごうされた。

1956ねんモロッコがフランスとスペインから独立どくりつすると、スペインがモロッコにのこした植民しょくみん歴史れきしてき地理ちりてきにすべてモロッコりょうであると主張しゅちょうし、つよ関心かんしんしめすようになった。スルタン・モハメッド5せいは、イフニをモロッコに返還へんかんするために、スペインじん、モロッコじん地元じもとベルベルじん反乱はんらんぐん個人こじんてき資金しきん提供ていきょうし、このさい奪取だっしゅ奨励しょうれいした。

勃発ぼっぱつ[編集へんしゅう]

1957ねん4がつ10日とおか、イフニでスペイン支配しはいたいするはげしいデモがこり、その内戦ないせんはじまり、スペインに忠誠ちゅうせいちか人々ひとびとひろ殺害さつがいされるようになった。これにたいしてフランコ将軍しょうぐんは、6がつにスペインの精鋭せいえい戦闘せんとう部隊ぶたいであるスペイン軍団ぐんだんの2大隊だいたいをサギア・エル・ハムラのエル・アアイウンに派遣はけんした。

スペインの軍事ぐんじ動員どういんにより、モロッコ王国おうこくぐんはイフニ近郊きんこう集結しゅうけつした。1957ねん10がつ23にち、シディ・イフニ郊外こうがいの2つのむら、グーリミンとブイザカルネが1500にんのモロッコへい(ムジャヒディン)に占領せんりょうされた。

イフニの包囲ほういは、イフニ戦争せんそうはじまりだ。敵対てきたい行為こういはじまるまえに、さらに2つの軍団ぐんだん大隊だいたいスペインのサハラ到着とうちゃくした。

イフニの襲撃しゅうげき[編集へんしゅう]

11月21にち、イフニにいたスペイン情報じょうほうは、タフラウトを拠点きょてんとするモロッコじんによる攻撃こうげきせまっていることを報告ほうこくした。2にち、スペインの通信つうしん回線かいせん切断せつだんされ、2000にんのモロッコじん部隊ぶたいがイフニとその周辺しゅうへんのスペインぐん守備しゅびたい武器ぶき襲撃しゅうげきした。

モロッコぐんのシディ・イフニへの侵攻しんこう容易ようい撃退げきたいされたが、ちかくの2つのスペイン拠点きょてんてき攻撃こうげきけて放棄ほうきされ、おおくの拠点きょてんきびしい包囲ほういかれたままであった。

ティルイン[編集へんしゅう]

ティリウインでは、60にんのティラドール・デ・イフニ(スペインじん将校しょうこう専門せんもんによる現地げんち採用さいよう歩兵ほへい)が、すうひゃくにんのモロッコじん部隊ぶたい阻止そしするのに苦労くろうしていた。11月25にち救援きゅうえんこころみが許可きょかされた。5CASA 2.111ばくげき(ハインケルHe111のスペインせい)がてき陣地じんち爆撃ばくげきし、同数どうすうCASA 352輸送ゆそう(ユンカースJu52/3mのスペインせい)が75にん空挺くうてい部隊ぶたい前哨ぜんしょう基地きち降下こうかさせたのである。

12月3にち、スペインぐんだい6大隊だいたい(VIバンデラ)の兵士へいし到着とうちゃくし、包囲ほうい突破とっぱして飛行場ひこうじょう奪還だっかんした。その、すべての軍人ぐんじん民間みんかんじん陸路りくろでシディ・イフニに避難ひなんさせられた。

テラタ[編集へんしゅう]

テラタ(Telata)の救援きゅうえんはあまりうまくいかなかった。11月24にちにシディ・イフニをふるいトラックすうだい出発しゅっぱつしたオルティス・デ・サラテ大尉たいいひきいるスペイン軍団ぐんだん空挺くうてい部隊ぶたいの1小隊しょうたいは、困難こんなん地形ちけいをゆっくりとすすんでいった。この問題もんだいはモロッコじん頻繁ひんぱんせによってさらに悪化あっかし、翌日よくじつにはすうにん負傷ふしょうし、スペインぐんみちからすことになった。11月26にち食料しょくりょうそこをついた。スペインぐん弾薬だんやくうしない、前進ぜんしん再開さいかいしたが、てき度重たびかさなる攻撃こうげきふたた往生おうじょうすることになった。

食糧しょくりょうそらから投下とうかされたが、スペインじん死傷ししょうしゃたない。死者ししゃ一人ひとりはオルティス・デ・サラテ大尉たいいであった。12月2にち歩兵ほへい隊列たいれつがモロッコの戦線せんせん突破とっぱし、そのなかにかつてのテラタの守備しゅびたいふくまれており、てきはらった。落下傘らっかさん部隊ぶたいのこりは、12月5にちふたたびシディ・イフニに到着とうちゃくした。中隊ちゅうたい死者ししゃ2めい負傷ふしょうしゃ14めいした。

シディ・イフニの包囲ほうい[編集へんしゅう]

モロッコの最初さいしょ攻撃こうげきはおおむね成功せいこうしていた。 2週間しゅうかんあいだに、モロッコじんとその部族ぶぞく同盟どうめいこくはイフニのだい部分ぶぶん支配しはいし、内陸ないりくのスペインぐんユニットを首都しゅとから隔離かくりした.スペインりょうサハラ全域ぜんいき同時どうじ攻撃こうげき開始かいしされ、守備しゅびたい制圧せいあつし、船団せんだんやパトロールをせした。

その結果けっか、モロッコぐん物資ぶっし補給ほきゅうして大幅おおはば強化きょうかし、シディ・イフニを包囲ほういして民衆みんしゅう反乱はんらん誘発ゆうはつしようとした。しかし、モロッコぐんはスペインの防衛ぼうえいりょくつよさを過小かしょう評価ひょうかしていた。スペイン海軍かいぐんうみから補給ほきゅうし、なんキロにもわたる塹壕ざんごう前線ぜんせん基地きちによってまもられたシディ・イフニは、12月9にちまでに7,500にん守備しゅびたいようして難攻不落なんこうふらく証明しょうめいした。1958ねん6がつまでつづいた包囲ほういせんは、スペインとモロッコがサハラ砂漠さはらさばくたたかいに資源しげん集中しゅうちゅうさせたため、何事なにごともなく比較的ひかくてき無血むけつ開城かいじょうとなった。

エドケラのたたか[編集へんしゅう]

1958ねん1がつ、モロッコは、スペイン領内りょうないぜんぐんを「サハラ砂漠さはらさばく解放かいほうぐん」としてさい編成へんせいし、スペイン作戦さくせんふたたりょくそそいだ。

1がつ12にちサハラ砂漠さはらさばく解放かいほうぐんいち師団しだんはエルアイアンのスペインぐん守備しゅびたい攻撃こうげきした。スペインぐん撃退げきたいされ、撤退てったい余儀よぎなくされたぐんは、南東なんとう努力どりょくかたむけた。翌日よくじつだい13軍団ぐんだん大隊だいたいの2中隊ちゅうたい偵察ていさつ任務にんむおこなっていたエドチェラで、またもやチャンスがおとずれた。スペインぐん陣地じんちちかくのおおきな砂丘さきゅう人知ひとしれずもぐみ、モロッコぐん発砲はっぽうした。

せされた軍団ぐんだんは、迫撃はくげきほう小銃しょうじゅう攻撃こうげき攻撃こうげきをしのぎながら、結束けっそくたもつのに苦労くろうした。だい1小隊しょうたいはモロッコぐんかたくなにこばつづけ、おおきな損害そんがい撤退てったい余儀よぎなくされた。みどろの攻撃こうげき日没にちぼつまでつづき、スペインぐんはげしく抵抗ていこうし、おおくの犠牲ぎせいした。日暮ひぐれまでにモロッコぐんりになり、兵力へいりょくきて攻撃こうげきつづけることができなくなり、暗闇くらやみなか退却たいきゃくしていった。

スペインりょうサハラのクリアランス[編集へんしゅう]

1958ねん2がつ、フランスとスペインの連合れんごうぐんモロッコ解放かいほうぐん解体かいたいするための攻勢こうせい開始かいしした。フランスとスペインは、150共同きょうどう航空こうくうたい展開てんかいした。スペインは9000にん、フランスは5000にんである。

最初さいしょ陥落かんらくしたのは、タンタンにあるモロッコの山岳さんがく要塞ようさいでした。上空じょうくうからのばくげきしたからのロケットだんにより、解放かいほうぐんは150めい死者ししゃし、陣地じんち放棄ほうきした。

2がつ10日とおか自動車じどうしゃされたグループに編成へんせいされただい4、だい9、およびだい13スペイン軍団ぐんだん大隊だいたいがモロッコじんをエドチェラからし、タフルダットとスマラ前進ぜんしんした。

エル アアイウンのスペインぐんグーローとりでのフランスぐん協力きょうりょくして 2 がつ 21 にちにモロッコぐん攻撃こうげきし、ビル ナザランとオーセルトのあいだ集中しゅうちゅうしていたサハラ解放かいほうぐん破壊はかいした。

結果けっか[編集へんしゅう]

1958ねん4がつ2にち、スペインとモロッコの政府せいふは、この地域ちいきおおきなわんにちなんで名付なづけられたアングラ・デ・シントラ条約じょうやく英語えいごばん署名しょめいした。

モロッコは、ドラーがわ緯度いど2740ぶんあいだにあるタルファヤとイフニ[3]地域ちいき獲得かくとくした(ただし、法的ほうてきには、モロッコはスペインりょうサハラの植民しょくみんのぞいて、1969ねん領土りょうど完全かんぜん支配しはいしたにすぎない)[4]

スペインは1969ねんまでイフニを領有りょうゆうつづけたが、国際こくさいてき圧力あつりょく(1965ねん国連こくれん決議けつぎ2072ごう)により、モロッコに返還へんかんした。スペインは1975ねんの「みどり行進こうしん」をきっかけにモロッコ、モーリタニアとマドリード協定きょうていむすぶまでスペインりょうサハラを支配しはいしていたが、1976ねん撤退てったいし、西にしサハラはモロッコとモーリタニアに分割ぶんかつされた。

国際こくさい連合れんごう
決議けつぎ
日付ひづけ 1965ねん
形式けいしき

投票とうひょう 賛成さんせい 反対はんたい 棄権きけん
投票とうひょう結果けっか

安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい(1965ねん時点じてん
常任じょうにん理事りじこく
中華民国の旗 中国ちゅうごく
フランスの旗 フランス
イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
常任じょうにん理事りじこく
ボリビアの旗 ボリビア
コートジボワールの旗 コートジボワール
ヨルダンの旗 ヨルダン
マレーシアの旗 マレーシア
オランダの旗 オランダ
ウルグアイの旗 ウルグアイ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • サンタマリア、ラミロ。 Ifni-Sahara, la guerra ignorada ("Ifni-Sahara, the Ignored War") ディルサ、マドリッド、1984ねん西にしサハラの専門せんもんジャーナリストがかたるイフニ戦争せんそう歴史れきし
  • カサス デ ラ ベガ、ラファエル。 La última guerra de Africa (「アフリカの最後さいご戦争せんそう」) Servicio de Publicaciones del Estado Mayor del Ejército、マドリッド、1985 ねん。スペインの将軍しょうぐんによる戦争せんそう軍事ぐんじ分析ぶんせき
  • マリニャス・ロメロ、ヘラルド。 「La Legión española en la guerra de Ifni-Sahara」 (「イフニ・サハラ戦争せんそうにおけるスペイン軍団ぐんだん」)。デフェンサ、nº 117 (1988)。イフニ戦争せんそうへのスペイン軍団ぐんだん介入かいにゅうかんする記事きじ
  • Belles Gasulla、ホセ。 Cabo Jubi-58。 Memorias de un teniente de Infantería en la campaña イフニ サハラ(「ケープ・ジュビ-58: イフニ・サハラ作戦さくせんにおける歩兵ほへい中尉ちゅうい回顧かいころく」) Servicio de Publicaciones del Estado Mayor del Ejército、マドリッド、1990 ねん。スペイン将校しょうこう証言しょうげん
  • ディエゴ・アギレ、ホセ・ラモン。 「イフニ、ラ ウルティマ ゲラ コロニアル エスパニョーラ」 (「イフニ、最後さいごのスペイン植民しょくみん戦争せんそう」)。ヒストリア 16 、nº 167 (1990)。公開こうかい文書ぶんしょによるイフニ戦争せんそう分析ぶんせき
  • ディエゴ・アギレ、ホセ・ラモン。 La última guerra Colonial de España: Ifni-Sahara, 1957–1958 (「スペインの最後さいご植民しょくみん戦争せんそう: Ifni-Sahara, 1957–1958」).アルガサラ、マラガ、1993ねんISBN 978-8487999178イフニ戦争せんそう歴史れきし
  • シモン・コントレラス、ミゲル。 「Ifni y Sahara, hoy」 (「イフニとサハラ、今日きょう」)。 Ejército 、nº 633 (1992)。スペインぐん将校しょうこう戦場せんじょう再訪さいほうします。
  • タンブリーニ、フランチェスコ。 "Ifni-Sahara, 1957–1958: una guerra coloniale dimenticata" ("Ifni-Sahara, 1957–1958: わすられた植民しょくみん戦争せんそう"). Eserciti e Storia 、いいえ。 42、a。 VII、2007 ねん 7 がつから 8 がつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Schwinghammer, Torsten (2018-04-24) (英語えいご). Warfare Since the Second World War. Routledge. ISBN 978-1-351-28970-2. https://books.google.com/books?id=XpRXDwAAQBAJ&dq=ifni+war+casualties&pg=PT260 
  2. ^ La Vanguardia, Sidi Ifni, la última guerra de Franco
  3. ^ Schwinghammer, Torsten (2018-04-24) (英語えいご). Warfare Since the Second World War. Routledge. ISBN 978-1-351-28970-2. https://books.google.com/books?id=XpRXDwAAQBAJ&dq=in+1958+spain+transfered+northern+zone+of+ifni+to+morocco&pg=PT260 
  4. ^ René Pélissier, "Spain's Discreet Decolonization", Foreign Affairs 43, 3 (1965), p. 523.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]