スペイン保護 ほご 領 りょう モロッコ
Protectorado español de Marruecos (スペイン語 ご ) الحماية الإسبانية على المغرب (アラビア語 ご )
(商船 しょうせん 旗 き ) (1937年 ねん - 1956年 ねん )
(国 くに 章 あきら )
国歌 こっか : Marcha Real (スペイン語 ご ) 国王 こくおう 行進曲 こうしんきょく スペイン保護 ほご 領 りょう モロッコの位置 いち
スペイン保護 ほご 領 りょう モロッコ (スペインほごりょうモロッコ、スペイン語 ご : Protectorado español de Marruecos [注釈 ちゅうしゃく 1] )は、モロッコにおけるスペイン の保護 ほご 国 こく である。スペイン領 りょう モロッコ とも呼 よ ばれる。1912年 ねん 11月27日 にち に、フランスとの条約 じょうやく [1] によりモロッコ におけるスペインの勢力 せいりょく 圏 けん が正式 せいしき に保護 ほご 領 りょう となった。
スペイン保護 ほご 領 りょう は、地中海 ちちゅうかい とジブラルタル海峡 かいきょう の北部 ほくぶ の帯状 おびじょう の地域 ちいき と、スペイン領 りょう サハラ に隣接 りんせつ するジュービ岬 みさき 周辺 しゅうへん の南部 なんぶ 地域 ちいき で構成 こうせい されていた。このうち北部 ほくぶ 地域 ちいき は、フランスが保護 ほご 領 りょう を譲渡 じょうと した直後 ちょくご の1956年 ねん 4月 がつ 7日 にち に独立 どくりつ したモロッコの一部 いちぶ になった。スペインは、短期間 たんきかん のイフニ戦争 せんそう の後 のち 、1958年 ねん 4月 がつ 1日 にち にアングラ・デ・シントラ条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を通 つう じて最終 さいしゅう 的 てき に南部 なんぶ 地域 ちいき を譲 ゆず った。タンジェ はスペインの保護 ほご 領 りょう から除外 じょがい され、タンジェ国際 こくさい 管理 かんり 地域 ちいき として、国際 こくさい 的 てき に管理 かんり された特別 とくべつ な地位 ちい を得 え た。
フランスはすでに国 くに の大 だい 部分 ぶぶん を保護 ほご 領 りょう として保持 ほじ し、1912年 ねん 3月 がつ 30日 にち 以来 いらい モロッコの外交 がいこう を支配 しはい していたため、地域 ちいき をスペインの保護 ほご に委任 いにん する権限 けんげん も保持 ほじ していた。地域 ちいき の面積 めんせき は約 やく 20,948 km2 (8,088 sq mi)で、これは現代 げんだい のモロッコの4.69%に相当 そうとう した。
ほとんどのヨーロッパ諸国 しょこく が広大 こうだい な植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく として植民 しょくみん 地 ち の獲得 かくとく に勤 いそ しんでいた頃 ころ 、スペインは最後 さいご の植民 しょくみん 地 ち を失 うしな ってしまっていた。そして、1898年 ねん の悲惨 ひさん な米 べい 西 にし 戦争 せんそう から数 すう 年 ねん 以内 いない に、スペインはヨーロッパの軍隊 ぐんたい の中 なか で二 に 次 じ 的 てき な地位 ちい であることを認 みと めることを余儀 よぎ なくされた。スペイン政府 せいふ は、モロッコ北部 ほくぶ での領土 りょうど の拡大 かくだい に積極 せっきょく 的 てき な関心 かんしん があることを示 しめ す必要 ひつよう があると考 かんが えた。モロッコは、その地理 ちり 的 てき 位置 いち とセウタ とメリリャ の刑務所 けいむしょ の存在 そんざい のためだけに、新 あたら しい植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい への熱意 ねつい がないのにもかかわらず、スペインにとって無視 むし することができなかった。19世紀 せいき の最後 さいご の数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん 、スペインはこの地域 ちいき における他 た のヨーロッパ諸国 しょこく の影響 えいきょう 力 りょく の増大 ぞうだい を懸念 けねん して観察 かんさつ した。最 もっと も首尾 しゅび 一貫 いっかん して表明 ひょうめい された介入 かいにゅう の理由 りゆう は、スペインの戦略 せんりゃく 的 てき 安全 あんぜん に対 たい する恐 おそ れであった。とりわけ、リベラル派 は の指導 しどう 者 しゃ モンテロ・リオス (英語 えいご 版 ばん ) は、モロッコ北西 ほくせい 部 ぶ がフランスの市民 しみん 保護 ほご 領 りょう または軍事 ぐんじ 保護 ほご 領 りょう に入 はい ると、スペインはフランスによって南北 なんぼく から永久 えいきゅう に包囲 ほうい されると述 の べた。さらに、メリリャの近 ちか くでの鉄鉱 てっこう 石 せき を発見 はっけん し、モロッコが莫大 ばくだい な鉱物 こうぶつ の富 とみ を含 ふく んでいることを多 おお くの人 ひと が確信 かくしん した[5] 。
あまり公 こう には述 の べられていないが、介入 かいにゅう の主 おも な動機 どうき は、モロッコはスペインがヨーロッパの勢力 せいりょく 均衡 きんこう 世界 せかい の中 なか でその地位 ちい を維持 いじ する最後 さいご のチャンスであるという考 かんが えであった。それは、ヨーロッパの大国 たいこく に関 かん してある程度 ていど の外交 がいこう 力 りょく を生 う み出 だ すのに十分 じゅうぶん な関心 かんしん を主張 しゅちょう することができた唯一 ゆいいつ の分野 ぶんや だったからである。また、20世紀 せいき の変 か わり目 め には、他 た のヨーロッパの諸国 しょこく と同様 どうよう 、スペインでも植民 しょくみん 地 ち の所有 しょゆう が国家 こっか の名声 めいせい を高 たか めるという考 かんが えが広 ひろ まった。そのような考 かんが えにより、スペインの政治 せいじ 家 か はモロッコにおいて積極 せっきょく 的 てき な活動 かつどう を行 おこな う政策 せいさく の採用 さいよう をより受 う け入 い れやすくなった[6] 。
1900年 ねん 6月 がつ 27日 にち 付 づ けの条約 じょうやく で、フランスとスペインはモロッコにおけるお互 たが いの勢力 せいりょく 圏 けん を承認 しょうにん することに合意 ごうい したが、勢力 せいりょく 圏 けん の境界 きょうかい 線 せん は定義 ていぎ されなかった。1902年 ねん 、フランスはセブー川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) の北 きた とスース川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) の南 みなみ にあるモロッコ全土 ぜんど をスペインに提供 ていきょう したが、スペインはそのような分割 ぶんかつ はイギリスを怒 おこ らせると考 かんが えて断 ことわ った。イギリスとフランスは、スペインの主張 しゅちょう なしに 、1904年 ねん 4月 がつ 8日 にち の英 えい 仏 ふつ 協商 きょうしょう の第 だい 8条 じょう で、モロッコにおけるスペインの勢力 せいりょく 圏 けん の権利 けんり を認 みと めた。
スペインに対 たい する誠実 せいじつ な友好 ゆうこう 関係 かんけい に触発 しょくはつ された両 りょう 政府 せいふ は、スペインが地理 ちり 的 てき 位置 いち と地中海 ちちゅうかい のムーア海岸 かいがん の領土 りょうど から得 え た利益 りえき に特別 とくべつ な考慮 こうりょ を行 おこな う。これらの利益 りえき に関 かん して、フランス政府 せいふ はスペイン政府 せいふ と合意 ごうい に至 いた るようになるだろう。フランスとスペインの間 あいだ でこの件 けん に関 かん してなされる可能 かのう 性 せい のある合意 ごうい は、イギリス政府 せいふ に伝 つた えられるものとする。
正確 せいかく に「特別 とくべつ な考慮 こうりょ 」が意味 いみ することは、秘密 ひみつ の第 だい 3条 じょう と第 だい 4条 じょう で扱 あつか われ、スペインは条約 じょうやく の第 だい 4条 じょう と第 だい 7条 じょう を承認 しょうにん する必要 ひつよう があるが、希望 きぼう すれば「特別 とくべつ な配慮 はいりょ 」を拒否 きょひ できると明記 めいき されている。
両 りょう 政府 せいふ は、メリリャ、セウタに隣接 りんせつ するいくらかのムーア人 じん の領土 りょうど は、スルタンがその権限 けんげん を行使 こうし することをやめるときはいつでも、スペインの勢力 せいりょく 圏 けん に入 はい る必要 ひつよう があり、メリリャからの海岸 かいがん の管理 かんり に同意 どうい する。セブー川 がわ の右岸 うがん の高 たか さはスペインに委 ゆだ ねられるものとするが、これは含 ふく まれない。
北 きた アフリカのスペイン領 りょう
フランスとのこれらの交渉 こうしょう におけるイギリスの目標 もくひょう は、イギリスがモロッコでの影響 えいきょう 力 りょく をすべて放棄 ほうき する見返 みかえ りに、フランスより弱 よわ いスペインにジブラルタル の反対 はんたい 側 がわ の土地 とち を確保 かくほ させることであった。フランスはすぐにスペインとの交渉 こうしょう を開始 かいし したが、1902年 ねん の申 もう し出 で はもはや検討 けんとう 外 がい であった。フランスは、1903年 ねん のイタリアとの協定 きょうてい でオスマン帝国 ていこく 領 りょう リビア (英語 えいご 版 ばん ) 獲得 かくとく の野望 やぼう をあきらめたので、モロッコでより大 おお きなシェアを得 え る権利 けんり があると考 かんが えた。1904年 ねん 10月 がつ 3日 にち 、フランスとスペインは正確 せいかく な勢力 せいりょく 圏 けん を定 さだ める条約 じょうやく を締結 ていけつ した[8] 。スペインは、モロッコの領土 りょうど のうち、北 きた と南 みなみ の帯状 おびじょう の地域 ちいき から成 な る勢力 せいりょく 圏 けん を獲得 かくとく した。北部 ほくぶ 地域 ちいき はフランス領 りょう アルジェリア との国境 こっきょう には及 およ ばず、その後 ご すぐ国際 こくさい 化 か されるタンジェ も含 ふく まれていなかった。南部 なんぶ 地域 ちいき は、ヨーロッパの大国 たいこく によって認 みと められたモロッコの最南端 さいなんたん であった。その南 みなみ の領土 りょうど であるサギア・エル・ハムラ は、フランスによってスペインの独占 どくせん 地帯 ちたい として認 みと められていた。また、条約 じょうやく ではスペインのイフニ の飛 と び地 ち が認 みと められ、その国境 こっきょう も定 さだ められた。
1905年 ねん 3月 がつ 、ドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい がモロッコ北部 ほくぶ の国際 こくさい 都市 とし タンジェを訪 おとず れた。彼 かれ はそこでモロッコに対 たい するドイツの経済 けいざい 的 てき 利権 りけん を大々的 だいだいてき に宣伝 せんでん し、モロッコの独立 どくりつ が脅 おびや かされた場合 ばあい にはスルタンに財政 ざいせい 援助 えんじょ をすることを保証 ほしょう した。ヴィルヘルム2世 せい の勧 すす めで、スルタンアブド・エル・アジズ (英語 えいご 版 ばん ) は国際 こくさい 会議 かいぎ を召集 しょうしゅう した。アルヘシラス会議 かいぎ の最終 さいしゅう 議定 ぎてい 書 しょ (1906年 ねん 4月 がつ 7日 にち )では、モロッコ国立 こくりつ 銀行 ぎんこう (英語 えいご 版 ばん ) の創設 そうせつ が決定 けってい し、出席 しゅっせき 国 こく がモロッコで同等 どうとう の商業 しょうぎょう 的 てき 権利 けんり を有 ゆう することを保証 ほしょう し、また、フランスとスペインの将校 しょうこう が率 ひき いるモロッコ警察 けいさつ の創設 そうせつ が決定 けってい した。
スペインの最終 さいしゅう 的 てき な勢力 せいりょく 圏 けん は、ジュビー岬 みさき (英語 えいご 版 ばん ) を中心 ちゅうしん とした北 きた の帯状 おびじょう 地域 ちいき と南 みなみ の帯状 おびじょう 地域 ちいき で構成 こうせい されていた。1912年 ねん にスペインが南部 なんぶ 地域 ちいき を保護 ほご 領 りょう の一部 いちぶ としてみなしたことで、1950年代 ねんだい にモロッコはその領土 りょうど に対 たい して確固 かっこ たる法的 ほうてき 主張 しゅちょう をすることになった。人口 じんこう の少 すく ないジュビー岬 みさき はスペイン領 りょう サハラ と単一 たんいつ の組織 そしき として管理 かんり されていたが、北部 ほくぶ 地域 ちいき は、首都 しゅと がテトゥアン にあるスペインの保護 ほご 領 りょう として別々 べつべつ に管理 かんり されていた。
保護 ほご 領 りょう は1912年 ねん に設立 せつりつ された。また、イスラム法 ほう 制度 せいど であるカーディー は正式 せいしき に維持 いじ された。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、ゲリラの指導 しどう 者 しゃ アブド・エル・クリム が率 ひき いたリーフ共和 きょうわ 国 こく は、1921年 ねん から1926年 ねん にかけてリーフ地方 ちほう に存在 そんざい した分離 ぶんり 国家 こっか であり、リーフ戦争 せんそう 中 ちゅう にアフリカのスペイン軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) とフランス軍 ぐん の共同 きょうどう 遠征 えんせい によって鎮圧 ちんあつ され、解散 かいさん した。
スペインは1921年 ねん 7月 がつ から8月 がつ のアンワールの戦 たたか い で13,000人 にん 以上 いじょう の兵士 へいし を失 うしな った。戦争 せんそう の初期 しょき の行動 こうどう をめぐるスペインでの論争 ろんそう は、1936年 ねん -39年 ねん のスペイン内戦 ないせん の前兆 ぜんちょう となった1923年 ねん のミゲル・プリモ・デ・リベラ 将軍 しょうぐん による軍事 ぐんじ クーデターの原動力 げんどうりょく でとなった[11] 。
1925年 ねん のアルホセイマ上陸 じょうりく 作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) が成功 せいこう した後 のち 、フランス・スペイン同盟 どうめい は勝利 しょうり を収 おさ め、戦争 せんそう を終 お わらせた。
1934年 ねん 以前 いぜん 、保護 ほご 領 りょう の南部 なんぶ (Tekna)は、1912年 ねん 以来 いらい 、スペイン領 りょう 西 にし アフリカ の本拠地 ほんきょち でもあったジュビー岬 みさき (同 おな じ南部 なんぶ の帯 おび 内 ない )から統治 とうち されていた。その後 ご 、1934年 ねん に南部 なんぶ はテトゥアン (保護 ほご 領 りょう の北部 ほくぶ )から直接 ちょくせつ 管理 かんり され始 はじ め、スペイン領 りょう 西 にし アフリカの議席 ぎせき は、ジュビー岬 みさき からその年 とし にスペイン人 じん によって占領 せんりょう されていたイフニ(保護 ほご 領 りょう の一部 いちぶ ではない)に移 うつ された。
スペイン内戦 ないせん は1936年 ねん に共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ に対 たい するクーデタが部分 ぶぶん 的 てき に成功 せいこう したことから始 はじ まった。このクーデタは、スペイン領 りょう モロッコに駐留 ちゅうりゅう しているアフリカのスペイン軍 ぐん の蜂起 ほうき によって始 はじ まったが、1日 にち 以内 いない にスペインでの蜂起 ほうき が起 お こった。かなりの数 かず のモロッコ軍 ぐん (正規 せいき 軍 ぐん )を含 ふく むこの部隊 ぶたい は、フランシスコ・フランコ (モロッコで多 おお くの時間 じかん を過 す ごした)の指揮 しき 下 か にあり、スペイン民族 みんぞく 主義 しゅぎ 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の中核 ちゅうかく となった。スペイン共産党 きょうさんとう とマルクス主義 まるくすしゅぎ 統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (POUM)は、反 はん 植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく を唱 とな え、共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ にスペイン領 りょう モロッコの独立 どくりつ を支持 しじ するよう圧力 あつりょく をかけ、フランコの後 のち に反乱 はんらん を起 お こし、彼 かれ のモロッコ軍 ぐん に不満 ふまん を引 ひ き起 お こそうとした。モロッコの他 ほか の地域 ちいき の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 者 しゃ であるフランスとの対立 たいりつ が起 お こる可能 かのう 性 せい があったため、当時 とうじ スペイン社会労働党 しゃかいろうどうとう (PSOE)が率 ひき いた政府 せいふ はその行動 こうどう 方針 ほうしん を拒否 きょひ した[13] 。
モロッコで募 つの られたイスラム正規 せいき 軍 ぐん はフランコの主 おも な軍隊 ぐんたい の1つであったため、フランコの勝利 しょうり 後 ご 、保護 ほご 領 りょう にはフランコ体制 たいせい 下 か のスペイン よりも政治 せいじ 的 てき 自由 じゆう と自治 じち が与 あた えられた[14] 。この地域 ちいき には、競合 きょうごう する政党 せいとう とモロッコのナショナリスト報道 ほうどう 機関 きかん があり、スペイン政府 せいふ を批判 ひはん することがよくあった。
スペイン軍 ぐん は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にイタリア の侵略 しんりゃく が差 さ し迫 せま っているとの口実 こうじつ でタンジール を暫定 ざんてい 的 てき に占領 せんりょう した。
フランスがモロッコから撤退 てったい した1956年 ねん 、スペインは保護 ほご 領 りょう 支配 しはい を終了 しゅうりょう させ、モロッコの植民 しょくみん 地 ち 化 か 以前 いぜん からスペインの一部 いちぶ であったプラサス・デ・ソベラニア 、ジュービ岬 みさき 、イフニ、その他 た のモロッコ国外 こくがい の植民 しょくみん 地 ち (スペイン領 りょう サハラなど)を保持 ほじ しながら、新 あら たに独立 どくりつ したモロッコ王国 おうこく に領土 りょうど を返還 へんかん した。しかしこれを受 う け入 い れることを望 のぞ まなかったモロッコ解放 かいほう 軍 ぐん は、スペイン軍 ぐん に対 たい して戦争 せんそう を行 おこな った。1958年 ねん にシディ・イフニ (英語 えいご 版 ばん ) からリオ・デ・オロ に広 ひろ がったイフニ戦争 せんそう で、モロッコはタルファヤ (保護 ほご 領 りょう の南部 なんぶ )を獲得 かくとく し[16] 、スペインはイフニの都市 とし 周辺 しゅうへん のみを支配 しはい した[17] 。モロッコとスペインはイフニをめぐって1年 ねん 以上 いじょう 交渉 こうしょう した。モロッコはセウタとメリリャの返還 へんかん も望 のぞ んでいたが、スペインはイフニのみの放棄 ほうき を望 のぞ んだ[18] 。1969年 ねん 1月 がつ 5日 にち 、両国 りょうこく はスペインがイフニをモロッコに譲渡 じょうと することを約束 やくそく した条約 じょうやく に署名 しょめい した[19] 。
2022年 ねん の時点 じてん で、モロッコは依然 いぜん としてセウタ とメリリャ が国 くに に不可欠 ふかけつ であると主張 しゅちょう しており、それらの状態 じょうたい をジブラルタル の状態 じょうたい にたとえて、「外国 がいこく に占領 せんりょう された町 まち 」と見 み なしている。セウタとメリリャは何 なに 世紀 せいき にもわたってスペインの領土 りょうど であったため、スペインは両方 りょうほう の都市 とし を地理 ちり 的 てき に必要 ひつよう な、自国 じこく 固有 こゆう の領土 りょうど と見 み なしている。
リーフの鉄 てつ 鉱山 こうざん は収入 しゅうにゅう 源 げん の1つであった。これらの搾取 さくしゅ はメリリャの好景気 こうけいき に繋 つな がった。
モロッコ北部 ほくぶ がスペインの管理 かんり 下 か に置 お かれた1906年 ねん 4月 がつ のアルヘシラス条約 じょうやく が調印 ちょういん された後 のち 、スペインはこの鉱物 こうぶつ が豊富 ほうふ な地域 ちいき の開発 かいはつ を開始 かいし し、多数 たすう の狭軌 きょうき 鉄道 てつどう が建設 けんせつ された。
保護 ほご 領 りょう の統治 とうち 体制 たいせい は保護 ほご 国 こく の概念 がいねん に由来 ゆらい し、当局 とうきょく には正式 せいしき に二 に 重 じゅう 性 せい があった。一方 いっぽう では、ハリファ (スペイン語 ご 版 ばん ) (スペイン語 ご : Jalifa )が率 ひき いるモロッコ政府 せいふ があり、スルタンの代表 だいひょう 団 だん によって、彼 かれ がダヒル(法令 ほうれい )を通 つう じて行使 こうし したすべての権限 けんげん 、主 おも に立法 りっぽう 権 けん を行使 こうし した。彼 かれ は最高 さいこう の宗教 しゅうきょう 的 てき 権威 けんい でもあった。ハリファが率 ひき いるこの政府 せいふ はマクゼンの名前 なまえ を受 う け取 と り、大 だい 宰相 さいしょう によって調整 ちょうせい された、省庁 しょうちょう のような部門 ぶもん に分割 ぶんかつ された。大臣 だいじん は、カーディー(裁判 さいばん 長 ちょう または裁判官 さいばんかん )、HabusのVizier(収入 しゅうにゅう が敬虔 けいけん なまたは宗教 しゅうきょう 的 てき な仕事 しごと または機関 きかん に向 む けられている不可侵 ふかしん の家系 かけい )、amin al-amlakおよびaminal-umana(財務 ざいむ 大臣 だいじん )であった。また、5つの地域 ちいき それぞれから選 えら ばれた2人 ふたり の代表 だいひょう 者 しゃ で構成 こうせい される諮問 しもん 委員 いいん 会 かい があった。ハリファは、スペイン政府 せいふ によって提案 ていあん された二人 ふたり からスルタンによって選 えら ばれた。最初 さいしょ のハリファはモハメド・メヘディ・オールド・ベン・イシュマエルであった。イシュマエルはスルタンハサン1世 せい の兄弟 きょうだい であり、後 のち にスルタンハサン1世 せい は2番目 ばんめ のハリファの大叔父 おおおじ であった。最初 さいしょ のハリファは1913年 ねん 4月 がつ 27日 にち にテトゥアン で就任 しゅうにん した。モロッコが独立 どくりつ するまで、Muleyel Mehdi(1913年 ねん - 1923年 ねん )と彼 かれ の息子 むすこ のMuleyel Hassánbinel Mehdi(13歳 さい で就任 しゅうにん 、1925年 ねん - 1941年 ねん 、1945年 ねん - 1956年 ねん )の2人 ふたり のハリファだけが就任 しゅうにん した。
スペイン政権 せいけん は、ハリファに正式 せいしき に認定 にんてい された高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん によって率 ひき いられたが、実際 じっさい には保護 ほご 領 りょう の最高 さいこう 権威 けんい であった。高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん は保護 ほご 領 りょう においてスペインの政治 せいじ 的 てき 行動 こうどう を指揮 しき し、そこから命令 めいれい と指示 しじ が発 はっ せられた。高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん は、さまざまな部門 ぶもん (先住民 せんじゅうみん 族 ぞく 開発 かいはつ および財務 ざいむ )の支援 しえん を受 う けた。各 かく 地域 ちいき には、先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の代表 だいひょう 団 だん に直接 ちょくせつ 代表 だいひょう される領土 りょうど 管理 かんり 者 しゃ がいた。彼 かれ に従属 じゅうぞく して、次 つぎ のレベルがあり、地域 ちいき の監査 かんさ 人 じん 、そして最後 さいご に地方 ちほう の監査 かんさ 人 じん がいた。秩序 ちつじょ の維持 いじ は、正規 せいき 軍 ぐん (「先住民 せんじゅうみん 」のリーフ人 じん を擁 よう するスペイン軍 ぐん の軍隊 ぐんたい )と先住民 せんじゅうみん 警察 けいさつ を担当 たんとう していた。軍 ぐん の側 がわ では、高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん は、セウタ、メリリャ、ララシュに拠点 きょてん を置 お く3人 にん の司令 しれい 官 かん によってサポートされた。
一般 いっぱん 的 てき なレベルで、行政 ぎょうせい 組織 そしき はこのように配置 はいち された。高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん は、地域 ちいき 全体 ぜんたい でのスペインの行動 こうどう の指揮 しき に責任 せきにん があり、すべての当局 とうきょく (軍隊 ぐんたい を含 ふく む)は彼 かれ に従属 じゅうぞく していた。 その活動 かつどう の中 なか には、執政 しっせい 官 かん が管制 かんせい 官 かん として行動 こうどう した都市 とし の政権 せいけん であるハリファの行動 こうどう に介入 かいにゅう し、一般 いっぱん 的 てき な政策 せいさく を決定 けってい し、必要 ひつよう に応 おう じて軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を承認 しょうにん または指示 しじ することが含 ふく まれていた。先住民 せんじゅうみん サービス部門 ぶもん は、事務 じむ 局 きょく に委託 いたく され、カビールとの関係 かんけい 、イスラム司法 しほう 行政 ぎょうせい の検査 けんさ 、先住民 せんじゅうみん の保護 ほご のための領事 りょうじ 管轄 かんかつ との関係 かんけい 、および不動産 ふどうさん と財産 ざいさん の証明 しょうめい 、学校 がっこう やヘルスケアセンターの検査 けんさ 、教育 きょういく 活動 かつどう におけるスペインの使命 しめい に関連 かんれん するすべての保安 ほあん 官 かん との関係 かんけい に関 かん するすべての問題 もんだい について忠告 ちゅうこく した。
モロッコでは、タンジェを除 のぞ いて公衆 こうしゅう 衛生 えいせい を確保 かくほ するための事前 じぜん の組織 そしき がなかった。スペインはこの欠陥 けっかん を改善 かいぜん しようとし、1916年 ねん に先住民 せんじゅうみん 局内 きょくない に健康 けんこう 検査官 けんさかん を創設 そうせつ した。スペインは、保護 ほご 国 こく の名声 めいせい に貢献 こうけん する大 だい 規模 きぼ な予防 よぼう 接種 せっしゅ キャンペーンを実施 じっし し、モロッコ人 じん が彼 かれ らの治療 ちりょう 者 しゃ と家庭 かてい 療法 りょうほう に対 たい して感 かん じた不信 ふしん を克服 こくふく しなければならなかった。教育 きょういく は宗教 しゅうきょう と密接 みっせつ に関連 かんれん しており、コーラン を暗記 あんき することで構成 こうせい されていたため、健康 けんこう 行動 こうどう に加 くわ えて、文化 ぶんか はモロッコ人 じん にとってもう1つの保留 ほりゅう 中 ちゅう の主題 しゅだい であった。スペインは、1913年 ねん 4月 がつ 3日 にち に設立 せつりつ された教育 きょういく 委員 いいん 会 かい に従属 じゅうぞく する先住民 せんじゅうみん の代表 だいひょう 団 だん に、人々 ひとびと を教育 きょういく する任務 にんむ を委託 いたく した。この委員 いいん 会 かい は、この任務 にんむ に専念 せんねん する職員 しょくいん を訓練 くんれん することを目的 もくてき として、また地理 ちり 、文学 ぶんがく 、歴史 れきし 、およびモロッコの法律 ほうりつ について学 まな ぶための手段 しゅだん として生 う まれた。この目的 もくてき のために、モロッコ研究 けんきゅう センターが自由 じゆう 外交 がいこう 領事館 りょうじかん で組織 そしき され、アラビア人 じん の席 せき がいくつかのビジネススクールで設立 せつりつ され、アラビア人 じん の委員 いいん 会 かい が研究 けんきゅう 拡大 かくだい 委員 いいん 会 かい で設立 せつりつ された。
その後 ご 、メリリャとセウタに先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の事務所 じむしょ が設立 せつりつ され、占領 せんりょう 地域 ちいき で同様 どうよう の監視 かんし 機能 きのう を発揮 はっき した。スペイン内戦 ないせん 真 ま っ只中 ただなか の1937年 ねん に、スペイン領 りょう モロッコの領土 りょうど 組織 そしき が領土 りょうど の高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん と民事 みんじ および軍事 ぐんじ 問題 もんだい を担当 たんとう する中佐 ちゅうさ を担当 たんとう した。
高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん とハリファは、テトゥアンにある2つの隣接 りんせつ する宮殿 きゅうでん にそれぞれ住居 じゅうきょ を持 も っていた。1956年 ねん にモロッコが独立 どくりつ した後 のち 、これらの宮殿 きゅうでん は1つの複 ふく 合 あい 施設 しせつ に統合 とうごう され、テトゥアン王宮 おうきゅう (英語 えいご 版 ばん ) として再 さい 利用 りよう された[20] 。
^ アラビア語 ご : حماية إسبانيا في المغرب Ḥimāyat Isbāniyā fi-l-Mağrib ;スペイン語 ご : Protectorado español de Marruecos ,スペイン語 ご 発音 はつおん : [pɾo.tek̚.to.ˈɾa.ðo ɛs.pa.ˈɲol ðɛ ma.ˈrwe.kos] ( 音声 おんせい ファイル )
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