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スペイン保護ほごりょうモロッコ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペイン保護ほごりょうモロッコ
Protectorado español de Marruecos
(スペイン
الحماية الإسبانية على المغرب
(アラビア
アラウィー朝
リーフ共和国
1912ねん - 1956ねん リーフ共和国
タンジェ国際管理地域
モロッコ
モロッコの国旗 モロッコの国章
商船しょうせん
(1937ねん - 1956ねん
くにあきら
国歌こっか: Marcha Real(スペイン
国王こくおう行進曲こうしんきょく
モロッコの位置
スペイン保護ほごりょうモロッコの位置いち
公用こうよう スペイン
言語げんご ベルベル
アラビア
テトゥアン・ラディーノ英語えいごばんまたはハケティア英語えいごばん
宗教しゅうきょう カトリック
ユダヤきょう
イスラム教いすらむきょう多数たすう
首都しゅと テトゥアン
スルタン
1912ねん - 1927ねん ムーレイ・ユースフ英語えいごばん
1927ねん - 1956ねんムハンマド5せい
高等こうとう弁務べんむかん英語えいごばん
1913ねん - 1913ねんフェリペ・アルファウ・メンドーサスペインばん
1951ねん - 1956ねんラファエル・ガルシア・ヴァリーノスペインばん
変遷へんせん
フランスとの条約じょうやく英語えいごばん 1912ねん11月27にち
モロッコにさい統合とうごう1956ねん4がつ7にち
通貨つうかペセタ
現在げんざいモロッコの旗 モロッコ

スペイン保護ほごりょうモロッコ(スペインほごりょうモロッコ、スペイン: Protectorado español de Marruecos[注釈ちゅうしゃく 1])は、モロッコにおけるスペイン保護ほごこくである。スペインりょうモロッコともばれる。1912ねん11月27にちに、フランスとの条約じょうやく[1]によりモロッコにおけるスペインの勢力せいりょくけん正式せいしき保護ほごりょうとなった。

スペイン保護ほごりょうは、地中海ちちゅうかいジブラルタル海峡かいきょう北部ほくぶ帯状おびじょう地域ちいきと、スペインりょうサハラ隣接りんせつするジュービみさき周辺しゅうへん南部なんぶ地域ちいき[2]構成こうせいされていた。このうち北部ほくぶ地域ちいきは、フランスが保護ほごりょう譲渡じょうとした直後ちょくごの1956ねん4がつ7にち独立どくりつしたモロッコの一部いちぶになった。スペインは、短期間たんきかんイフニ戦争せんそうのち、1958ねん4がつ1にちアングラ・デ・シントラ条約じょうやく英語えいごばんつうじて最終さいしゅうてき南部なんぶ地域ちいきゆずった[3]タンジェはスペインの保護ほごりょうから除外じょがいされ、タンジェ国際こくさい管理かんり地域ちいきとして、国際こくさいてき管理かんりされた特別とくべつ地位ちいた。

フランスはすでにくにだい部分ぶぶん保護ほごりょうとして保持ほじし、1912ねん3がつ30にち以来いらいモロッコの外交がいこう支配しはいしていたため、地域ちいきをスペインの保護ほご委任いにんする権限けんげん保持ほじしていた[4]地域ちいき面積めんせきやく20,948 km2 (8,088 sq mi)で、これは現代げんだいのモロッコの4.69%に相当そうとうした。

歴史れきし

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背景はいけい

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ほとんどのヨーロッパ諸国しょこく広大こうだい植民しょくみん帝国ていこくとして植民しょくみん獲得かくとくいそしんでいたころ、スペインは最後さいご植民しょくみんうしなってしまっていた。そして、1898ねん悲惨ひさんべい西にし戦争せんそうからすうねん以内いないに、スペインはヨーロッパの軍隊ぐんたいなかてき地位ちいであることをみとめることを余儀よぎなくされた。スペイン政府せいふは、モロッコ北部ほくぶでの領土りょうど拡大かくだい積極せっきょくてき関心かんしんがあることをしめ必要ひつようがあるとかんがえた。モロッコは、その地理ちりてき位置いちセウタメリリャ刑務所けいむしょ存在そんざいのためだけに、あたらしい植民しょくみん経営けいえいへの熱意ねついがないのにもかかわらず、スペインにとって無視むしすることができなかった。19世紀せいき最後さいごすうじゅう年間ねんかん、スペインはこの地域ちいきにおけるのヨーロッパ諸国しょこく影響えいきょうりょく増大ぞうだい懸念けねんして観察かんさつした。もっと首尾しゅび一貫いっかんして表明ひょうめいされた介入かいにゅう理由りゆうは、スペインの戦略せんりゃくてき安全あんぜんたいするおそれであった。とりわけ、リベラル指導しどうしゃモンテロ・リオス英語えいごばんは、モロッコ北西ほくせいがフランスの市民しみん保護ほごりょうまたは軍事ぐんじ保護ほごりょうはいると、スペインはフランスによって南北なんぼくから永久えいきゅう包囲ほういされるとべた。さらに、メリリャのちかくでの鉄鉱てっこうせき発見はっけんし、モロッコが莫大ばくだい鉱物こうぶつとみふくんでいることをおおくのひと確信かくしんした[5]

あまりこうにはべられていないが、介入かいにゅうおも動機どうきは、モロッコはスペインがヨーロッパの勢力せいりょく均衡きんこう世界せかいなかでその地位ちい維持いじする最後さいごのチャンスであるというかんがえであった。それは、ヨーロッパの大国たいこくかんしてある程度ていど外交がいこうりょくすのに十分じゅうぶん関心かんしん主張しゅちょうすることができた唯一ゆいいつ分野ぶんやだったからである。また、20世紀せいきわりには、のヨーロッパの諸国しょこく同様どうよう、スペインでも植民しょくみん所有しょゆう国家こっか名声めいせいたかめるというかんがえがひろまった。そのようなかんがえにより、スペインの政治せいじはモロッコにおいて積極せっきょくてき活動かつどうおこな政策せいさく採用さいようをよりれやすくなった[6]

形成けいせい

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1900ねん6がつ27にちけの条約じょうやくで、フランスとスペインはモロッコにおけるおたがいの勢力せいりょくけん承認しょうにんすることに合意ごういしたが、勢力せいりょくけん境界きょうかいせん定義ていぎされなかった。1902ねん、フランスはセブーがわ英語えいごばんきたスースがわ英語えいごばんみなみにあるモロッコ全土ぜんどをスペインに提供ていきょうしたが、スペインはそのような分割ぶんかつはイギリスをおこらせるとかんがえてことわった[7]。イギリスとフランスは、スペインの主張しゅちょうなしに、1904ねん4がつ8にちえいふつ協商きょうしょうだい8じょうで、モロッコにおけるスペインの勢力せいりょくけん権利けんりみとめた[7]

スペインにたいする誠実せいじつ友好ゆうこう関係かんけい触発しょくはつされたりょう政府せいふは、スペインが地理ちりてき位置いち地中海ちちゅうかいのムーア海岸かいがん領土りょうどから利益りえき特別とくべつ考慮こうりょおこなう。これらの利益りえきかんして、フランス政府せいふはスペイン政府せいふ合意ごういいたるようになるだろう。フランスとスペインのあいだでこのけんかんしてなされる可能かのうせいのある合意ごういは、イギリス政府せいふつたえられるものとする。

正確せいかくに「特別とくべつ考慮こうりょ」が意味いみすることは、秘密ひみつだい3じょうだい4じょうあつかわれ、スペインは条約じょうやくだい4じょうだい7じょう承認しょうにんする必要ひつようがあるが、希望きぼうすれば「特別とくべつ配慮はいりょ」を拒否きょひできると明記めいきされている。

りょう政府せいふは、メリリャ、セウタに隣接りんせつするいくらかのムーアじん領土りょうどは、スルタンがその権限けんげん行使こうしすることをやめるときはいつでも、スペインの勢力せいりょくけんはい必要ひつようがあり、メリリャからの海岸かいがん管理かんり同意どういする。セブーがわ右岸うがんたかさはスペインにゆだねられるものとするが、これはふくまれない。
きたアフリカのスペインりょう

フランスとのこれらの交渉こうしょうにおけるイギリスの目標もくひょうは、イギリスがモロッコでの影響えいきょうりょくをすべて放棄ほうきする見返みかえりに、フランスよりよわいスペインにジブラルタル反対はんたいがわ土地とち確保かくほさせることであった。フランスはすぐにスペインとの交渉こうしょう開始かいししたが、1902ねんもうはもはや検討けんとうがいであった。フランスは、1903ねんのイタリアとの協定きょうていオスマン帝国ていこくりょうリビア英語えいごばん獲得かくとく野望やぼうをあきらめたので、モロッコでよりおおきなシェアを権利けんりがあるとかんがえた。1904ねん10がつ3にち、フランスとスペインは正確せいかく勢力せいりょくけんさだめる条約じょうやく締結ていけつした[8]。スペインは、モロッコの領土りょうどのうち、きたみなみ帯状おびじょう地域ちいきから勢力せいりょくけん獲得かくとくした。北部ほくぶ地域ちいきフランスりょうアルジェリアとの国境こっきょうにはおよばず、そのすぐ国際こくさいされるタンジェふくまれていなかった。南部なんぶ地域ちいきは、ヨーロッパの大国たいこくによってみとめられたモロッコの最南端さいなんたんであった。そのみなみ領土りょうどであるサギア・エル・ハムラは、フランスによってスペインの独占どくせん地帯ちたいとしてみとめられていた。また、条約じょうやくではスペインのイフニみとめられ、その国境こっきょうさだめられた[9]

1905ねん3がつドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいがモロッコ北部ほくぶ国際こくさい都市としタンジェをおとずれた。かれはそこでモロッコにたいするドイツの経済けいざいてき利権りけん大々的だいだいてき宣伝せんでんし、モロッコの独立どくりつおびやかされた場合ばあいにはスルタンに財政ざいせい援助えんじょをすることを保証ほしょうした。ヴィルヘルム2せいすすめで、スルタンアブド・エル・アジズ英語えいごばん国際こくさい会議かいぎ召集しょうしゅうした。アルヘシラス会議かいぎ最終さいしゅう議定ぎていしょ(1906ねん4がつ7にち)では、モロッコ国立こくりつ銀行ぎんこう英語えいごばん創設そうせつ決定けっていし、出席しゅっせきこくがモロッコで同等どうとう商業しょうぎょうてき権利けんりゆうすることを保証ほしょうし、また、フランスとスペインの将校しょうこうひきいるモロッコ警察けいさつ創設そうせつ決定けっていした[10]

スペインの最終さいしゅうてき勢力せいりょくけんは、ジュビーみさき英語えいごばん中心ちゅうしんとしたきた帯状おびじょう地域ちいきみなみ帯状おびじょう地域ちいき構成こうせいされていた。1912ねんにスペインが南部なんぶ地域ちいき保護ほごりょう一部いちぶとしてみなしたことで、1950年代ねんだいにモロッコはその領土りょうどたいして確固かっこたる法的ほうてき主張しゅちょうをすることになった[2]人口じんこうすくないジュビーみさきスペインりょうサハラ単一たんいつ組織そしきとして管理かんりされていたが、北部ほくぶ地域ちいきは、首都しゅとテトゥアンにあるスペインの保護ほごりょうとして別々べつべつ管理かんりされていた。

保護ほごりょうは1912ねん設立せつりつされた。また、イスラムほう制度せいどであるカーディー正式せいしき維持いじされた。

リーフ戦争せんそう

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だいいち世界せかい大戦たいせん、ゲリラの指導しどうしゃアブド・エル・クリムひきいたリーフ共和きょうわこくは、1921ねんから1926ねんにかけてリーフ地方ちほう存在そんざいした分離ぶんり国家こっかであり、リーフ戦争せんそうちゅうアフリカのスペインぐん英語えいごばんとフランスぐん共同きょうどう遠征えんせいによって鎮圧ちんあつされ、解散かいさんした。

スペインは1921ねん7がつから8がつアンワールのたたかで13,000にん以上いじょう兵士へいしうしなった。戦争せんそう初期しょき行動こうどうをめぐるスペインでの論争ろんそうは、1936ねん-39ねんスペイン内戦ないせん前兆ぜんちょうとなった1923ねんミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍しょうぐんによる軍事ぐんじクーデターの原動力げんどうりょくでとなった[11]

1925ねんアルホセイマ上陸じょうりく作戦さくせん英語えいごばん成功せいこうしたのち、フランス・スペイン同盟どうめい勝利しょうりおさめ、戦争せんそうわらせた。

スペインだい共和きょうわせい

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1934ねん以前いぜん保護ほごりょう南部なんぶ(Tekna)[12]は、1912ねん以来いらいスペインりょう西にしアフリカ本拠地ほんきょちでもあったジュビーみさきおな南部なんぶおびない)から統治とうちされていた。その、1934ねん南部なんぶテトゥアン保護ほごりょう北部ほくぶ)から直接ちょくせつ管理かんりされはじめ、スペインりょう西にしアフリカの議席ぎせきは、ジュビーみさきからそのとしにスペインじんによって占領せんりょうされていたイフニ(保護ほごりょう一部いちぶではない)にうつされた[12]

スペイン内戦ないせん

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スペイン内戦ないせんは1936ねん共和きょうわこく政府せいふたいするクーデタが部分ぶぶんてき成功せいこうしたことからはじまった。このクーデタは、スペインりょうモロッコに駐留ちゅうりゅうしているアフリカのスペインぐん蜂起ほうきによってはじまったが、1にち以内いないにスペインでの蜂起ほうきこった。かなりのかずのモロッコぐん正規せいきぐん)をふくむこの部隊ぶたいは、フランシスコ・フランコ(モロッコでおおくの時間じかんごした)の指揮しきにあり、スペイン民族みんぞく主義しゅぎぐん英語えいごばん中核ちゅうかくとなった。スペイン共産党きょうさんとうマルクス主義まるくすしゅぎ統一とういつ労働ろうどうしゃとう(POUM)は、はん植民しょくみん政策せいさくとなえ、共和きょうわこく政府せいふにスペインりょうモロッコの独立どくりつ支持しじするよう圧力あつりょくをかけ、フランコののち反乱はんらんこし、かれのモロッコぐん不満ふまんこそうとした。モロッコのほか地域ちいき植民しょくみん支配しはいしゃであるフランスとの対立たいりつこる可能かのうせいがあったため、当時とうじスペイン社会労働党しゃかいろうどうとう(PSOE)がひきいた政府せいふはその行動こうどう方針ほうしん拒否きょひした[13]

モロッコでつのられたイスラム正規せいきぐんはフランコのおも軍隊ぐんたいの1つであったため、フランコの勝利しょうり保護ほごりょうにはフランコ体制たいせいのスペインよりも政治せいじてき自由じゆう自治じちあたえられた[14]。この地域ちいきには、競合きょうごうする政党せいとうとモロッコのナショナリスト報道ほうどう機関きかんがあり、スペイン政府せいふ批判ひはんすることがよくあった。

だい世界せかい大戦たいせん

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スペインぐんは、だい世界せかい大戦たいせんなかイタリア侵略しんりゃくせまっているとの口実こうじつタンジール暫定ざんていてき占領せんりょうした[15]

モロッコへの返還へんかん

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フランスがモロッコから撤退てったいした1956ねん、スペインは保護ほごりょう支配しはい終了しゅうりょうさせ、モロッコの植民しょくみん以前いぜんからスペインの一部いちぶであったプラサス・デ・ソベラニア、ジュービみさき、イフニ、そののモロッコ国外こくがい植民しょくみん(スペインりょうサハラなど)を保持ほじしながら、あらたに独立どくりつしたモロッコ王国おうこく領土りょうど返還へんかんした。しかしこれをれることをのぞまなかったモロッコ解放かいほうぐんは、スペインぐんたいして戦争せんそうおこなった。1958ねんシディ・イフニ英語えいごばんからリオ・デ・オロひろがったイフニ戦争せんそうで、モロッコはタルファヤ保護ほごりょう南部なんぶ)を獲得かくとく[16]、スペインはイフニの都市とし周辺しゅうへんのみを支配しはいした[17]。モロッコとスペインはイフニをめぐって1ねん以上いじょう交渉こうしょうした。モロッコはセウタとメリリャの返還へんかんのぞんでいたが、スペインはイフニのみの放棄ほうきのぞんだ[18]。1969ねん1がつ5にち両国りょうこくはスペインがイフニをモロッコに譲渡じょうとすることを約束やくそくした条約じょうやく署名しょめいした[19]

2022ねん時点じてんで、モロッコは依然いぜんとしてセウタメリリャくに不可欠ふかけつであると主張しゅちょうしており、それらの状態じょうたいジブラルタル状態じょうたいにたとえて、「外国がいこく占領せんりょうされたまち」となしている。セウタとメリリャはなに世紀せいきにもわたってスペインの領土りょうどであったため、スペインは両方りょうほう都市とし地理ちりてき必要ひつような、自国じこく固有こゆう領土りょうどなしている。

経済けいざい

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鉱山こうざん

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リーフのてつ鉱山こうざん収入しゅうにゅうげんの1つであった。これらの搾取さくしゅはメリリャの好景気こうけいきつながった。

輸送ゆそう

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モロッコ北部ほくぶがスペインの管理かんりかれた1906ねん4がつのアルヘシラス条約じょうやく調印ちょういんされたのち、スペインはこの鉱物こうぶつ豊富ほうふ地域ちいき開発かいはつ開始かいしし、多数たすう狭軌きょうき鉄道てつどう建設けんせつされた。

統治とうち

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保護ほごりょう統治とうち体制たいせい保護ほごこく概念がいねん由来ゆらいし、当局とうきょくには正式せいしきじゅうせいがあった。一方いっぽうでは、ハリファスペインばんスペイン: Jalifa)がひきいるモロッコ政府せいふがあり、スルタンの代表だいひょうだんによって、かれがダヒル(法令ほうれい)をつうじて行使こうししたすべての権限けんげんおも立法りっぽうけん行使こうしした。かれ最高さいこう宗教しゅうきょうてき権威けんいでもあった。ハリファがひきいるこの政府せいふはマクゼンの名前なまえり、だい宰相さいしょうによって調整ちょうせいされた、省庁しょうちょうのような部門ぶもん分割ぶんかつされた。大臣だいじんは、カーディー(裁判さいばんちょうまたは裁判官さいばんかん)、HabusのVizier(収入しゅうにゅう敬虔けいけんなまたは宗教しゅうきょうてき仕事しごとまたは機関きかんけられている不可侵ふかしん家系かけい)、amin al-amlakおよびaminal-umana(財務ざいむ大臣だいじん)であった。また、5つの地域ちいきそれぞれからえらばれた2人ふたり代表だいひょうしゃ構成こうせいされる諮問しもん委員いいんかいがあった。ハリファは、スペイン政府せいふによって提案ていあんされた二人ふたりからスルタンによってえらばれた。最初さいしょのハリファはモハメド・メヘディ・オールド・ベン・イシュマエルであった。イシュマエルはスルタンハサン1せい兄弟きょうだいであり、のちにスルタンハサン1せいは2番目ばんめのハリファの大叔父おおおじであった。最初さいしょのハリファは1913ねん4がつ27にちテトゥアン就任しゅうにんした。モロッコが独立どくりつするまで、Muleyel Mehdi(1913ねん - 1923ねん)とかれ息子むすこのMuleyel Hassánbinel Mehdi(13さい就任しゅうにん、1925ねん - 1941ねん、1945ねん - 1956ねん)の2人ふたりのハリファだけが就任しゅうにんした。

スペイン政権せいけんは、ハリファに正式せいしき認定にんていされた高等こうとう弁務べんむかんによってひきいられたが、実際じっさいには保護ほごりょう最高さいこう権威けんいであった。高等こうとう弁務べんむかん保護ほごりょうにおいてスペインの政治せいじてき行動こうどう指揮しきし、そこから命令めいれい指示しじはっせられた。高等こうとう弁務べんむかんは、さまざまな部門ぶもん先住民せんじゅうみんぞく開発かいはつおよび財務ざいむ)の支援しえんけた。かく地域ちいきには、先住民せんじゅうみんぞく代表だいひょうだん直接ちょくせつ代表だいひょうされる領土りょうど管理かんりしゃがいた。かれ従属じゅうぞくして、つぎのレベルがあり、地域ちいき監査かんさじん、そして最後さいご地方ちほう監査かんさじんがいた。秩序ちつじょ維持いじは、正規せいきぐん(「先住民せんじゅうみん」のリーフじんようするスペインぐん軍隊ぐんたい)と先住民せんじゅうみん警察けいさつ担当たんとうしていた。ぐんがわでは、高等こうとう弁務べんむかんは、セウタ、メリリャ、ララシュに拠点きょてんく3にん司令しれいかんによってサポートされた。

一般いっぱんてきなレベルで、行政ぎょうせい組織そしきはこのように配置はいちされた。高等こうとう弁務べんむかんは、地域ちいき全体ぜんたいでのスペインの行動こうどう指揮しき責任せきにんがあり、すべての当局とうきょく軍隊ぐんたいふくむ)はかれ従属じゅうぞくしていた。 その活動かつどうなかには、執政しっせいかん管制かんせいかんとして行動こうどうした都市とし政権せいけんであるハリファの行動こうどう介入かいにゅうし、一般いっぱんてき政策せいさく決定けっていし、必要ひつようおうじて軍事ぐんじ作戦さくせん承認しょうにんまたは指示しじすることがふくまれていた。先住民せんじゅうみんサービス部門ぶもんは、事務じむきょく委託いたくされ、カビールとの関係かんけい、イスラム司法しほう行政ぎょうせい検査けんさ先住民せんじゅうみん保護ほごのための領事りょうじ管轄かんかつとの関係かんけい、および不動産ふどうさん財産ざいさん証明しょうめい学校がっこうやヘルスケアセンターの検査けんさ教育きょういく活動かつどうにおけるスペインの使命しめい関連かんれんするすべての保安ほあんかんとの関係かんけいかんするすべての問題もんだいについて忠告ちゅうこくした。

モロッコでは、タンジェをのぞいて公衆こうしゅう衛生えいせい確保かくほするための事前じぜん組織そしきがなかった。スペインはこの欠陥けっかん改善かいぜんしようとし、1916ねん先住民せんじゅうみん局内きょくない健康けんこう検査官けんさかん創設そうせつした。スペインは、保護ほごこく名声めいせい貢献こうけんするだい規模きぼ予防よぼう接種せっしゅキャンペーンを実施じっしし、モロッコじんかれらの治療ちりょうしゃ家庭かてい療法りょうほうたいしてかんじた不信ふしん克服こくふくしなければならなかった。教育きょういく宗教しゅうきょう密接みっせつ関連かんれんしており、コーラン暗記あんきすることで構成こうせいされていたため、健康けんこう行動こうどうくわえて、文化ぶんかはモロッコじんにとってもう1つの保留ほりゅうちゅう主題しゅだいであった。スペインは、1913ねん4がつ3にち設立せつりつされた教育きょういく委員いいんかい従属じゅうぞくする先住民せんじゅうみん代表だいひょうだんに、人々ひとびと教育きょういくする任務にんむ委託いたくした。この委員いいんかいは、この任務にんむ専念せんねんする職員しょくいん訓練くんれんすることを目的もくてきとして、また地理ちり文学ぶんがく歴史れきし、およびモロッコの法律ほうりつについてまなぶための手段しゅだんとしてまれた。この目的もくてきのために、モロッコ研究けんきゅうセンターが自由じゆう外交がいこう領事館りょうじかん組織そしきされ、アラビアじんせきがいくつかのビジネススクールで設立せつりつされ、アラビアじん委員いいんかい研究けんきゅう拡大かくだい委員いいんかい設立せつりつされた。

その、メリリャとセウタに先住民せんじゅうみんぞく事務所じむしょ設立せつりつされ、占領せんりょう地域ちいき同様どうよう監視かんし機能きのう発揮はっきした。スペイン内戦ないせん只中ただなかの1937ねんに、スペインりょうモロッコの領土りょうど組織そしき領土りょうど高等こうとう弁務べんむかん民事みんじおよび軍事ぐんじ問題もんだい担当たんとうする中佐ちゅうさ担当たんとうした。

高等こうとう弁務べんむかんとハリファは、テトゥアンにある2つの隣接りんせつする宮殿きゅうでんにそれぞれ住居じゅうきょっていた。1956ねんにモロッコが独立どくりつしたのち、これらの宮殿きゅうでんは1つのふくあい施設しせつ統合とうごうされ、テトゥアン王宮おうきゅう英語えいごばんとしてさい利用りようされた[20]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アラビア: حماية إسبانيا في المغربḤimāyat Isbāniyā fi-l-Mağrib;スペイン: Protectorado español de Marruecos,スペイン発音はつおん[pɾo.tek̚.to.ˈɾa.ðo ɛs.pa.ˈɲol ðɛ ma.ˈrwe.kos] ( 音声おんせいファイル)

出典しゅってん

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  1. ^ “Treaty Between France and Spain Regarding Morocco”. The American Journal of International Law 7 (2 [Supplement: Official Documents]): 81–99. (1913). doi:10.2307/2212275. JSTOR 2212275. 
  2. ^ a b Vilar 2005, p. 143.
  3. ^ Gangas Geisse & Santis Arenas 2011, p. 3.
  4. ^ Woolman 1968, pp. 14–16.
  5. ^ James A. Chandler, Spain and Her Moroccan Protectorate 1898–1927, Journal of Contemporary History, Vol. 10, No. 2 (April 1975), p 301–302.
  6. ^ James A. Chandler, p. 302.
  7. ^ a b Woolman 1968, p. 7–8.
  8. ^ “Treaty Between France and Spain Concerning Morocco”. The American Journal of International Law 6 (2 [Supplement: Official Documents]): 116–20. (1912). doi:10.2307/2212123. JSTOR 2212123. 
  9. ^ Merry del Val 1920a, pp. 330–31.
  10. ^ Woolman 1968, p. 10–11.
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  19. ^ "Spain Returns Ifni to Morocco". United Press International. Wisconsin State Journal (Madison, Wisconsin). 5 January 1969. p. 7.
  20. ^ Juan Arrate (1948), “Las residencias de S.A.I. el Jalifa y S.E. el Alto Comisario en Tetuán”, Africa (Madrid: Consejo Superior de Investigaciones Científicas, Instituto de Estudios Africanos) 77-78, オリジナルの2022-02-19時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20220219231032/http://simurg.bibliotecas.csic.es/viewer/image/CSIC000102257_A1948_N77-78/21/ 2022ねん2がつ19にち閲覧えつらん