エカテリノスラフけん

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エカテリノスラフけん
Екатеринославская губерния
基本きほん情報じょうほう
首都しゅと エカテリノスラフ
設置せっち期間きかん 1802ねん - 1925ねん
面積めんせき やく78,000km²
人口じんこう 211まんにん
1897ねん推計すいけい

エカテリノスラフけん(エカテリノスラフけん、ロシア:Екатеринославская губернияウクライナ:Катеринославська губернія)は、現在げんざいウクライナ南部なんぶ設置せっちされたロシア帝国ていこくけんグベールニヤ)の1つ。首都しゅとはエカテリノスラフ(現在げんざいドニプロペトロウシク)。

現在げんざいのウクライナのドニプロペトロウシクしゅうドネツィクしゅうザポリージャしゅう領域りょういき相当そうとうする。

19世紀せいき以降いこうけん東部とうぶドンバス地方ちほう中心ちゅうしん石炭せきたん採掘さいくつ冶金やきんぎょうさかえた。これらの地方ちほうは、現在げんざいでもウクライナの産業さんぎょう中心ちゅうしんとなっている。

行政ぎょうせい区分くぶん[編集へんしゅう]

エカチェリーナ2せい統治とうち1764ねんに、みなみウクライナ地方ちほうノヴォロシアけん設立せつりつされた。1775ねんザポロージエ・コサックがロシア帝国ていこく服属ふくぞくすると、その土地とちもノヴォロシアけん管轄かんかつまれた。

ノヴォロシアけんは、1783ねんエカテリノスラフ総督そうとく(ナメスニーチェストヴォ)に改称かいしょうされたが、1796ねんもと名称めいしょうもどされた。ノヴォロシアけんは、1802ねん新設しんせつのニコラエフけんヘルソンけん)、タヴリダけん、エカテリノスラフけん分割ぶんかつされた。

エカテリノスラフけんには、ドニエプルがわ東岸とうがんにエカテリノスラフぐん、ヴェルフノドニプロウスクぐんが、西岸せいがんにバフムトぐん、ノヴォモスコフスクぐん、アレクサンドロフスクぐん、パヴロフラドぐん、スロヴャノセルプスクぐん、ロストフ・ナ・ドヌぐん設置せっちされた。その1874ねんにロストフ・ナ・ドヌぐんからマリュポリぐん分離ぶんりし、1887ねんにはロストフ・ナ・ドヌぐんドンぐんかんしゅう再編さいへんされた。

ロシア革命かくめい1925ねんにエカテリノスラフけん廃止はいしされ、エカテリノスラフ管区かんく、アレクサンドロフスク管区かんく、ベルジャンスク管区かんく、ザポロジエ管区かんく、クリヴォイ・ログ管区かんくメリトポリ管区かんく、パヴログラド管区かんく設置せっちされた。

人口じんこう動態どうたい[編集へんしゅう]

1811ねん人口じんこう統計とうけいでは、エカテリノスラフけんそう人口じんこうやく66まんにんで、大半たいはん農民のうみんとされている。

その人口じんこう統計とうけいでは、1851ねんにはやく90まんにん1863ねんにはやく120まんにん1885ねんにはやく179まんにん1897ねんにはやく211まんにん1924ねんにはやく324まんにん見積みつもられている。

1897ねん統計とうけいでは、エカテリノスラフけん民族みんぞく構成こうせいは、ウクライナじんが69.5 %、ロシアじんが18.2 %、ユダヤじんが4.2 %、ドイツじんが4 %、ギリシアじんが2.3 %、タタールじんが1.1 %となっている。

1924ねん統計とうけいでは、そう人口じんこうめる都市とし住民じゅうみん比率ひりつは13.6%となっていた。都市とし住民じゅうみん過半かはんウクライナじんであり、都市とし人口じんこうの25%は労働ろうどうしゃ階級かいきゅうめた。