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エド・ウッド

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エド・ウッド
Ed Wood
Ed Wood
グレンとグレンダ』(1953ねんないでのエド・ウッド
本名ほんみょう Edward Davis Wood Jr.
べつ名義めいぎ ダニエル・デイヴィス
生年月日せいねんがっぴ (1924-10-10) 1924ねん10がつ10日とおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1978-12-10) 1978ねん12月10にち(54さいぼつ
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨークしゅうポキプシー
死没しぼつ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく カリフォルニアしゅうロサンゼルス
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく映画えいがプロデューサー脚本きゃくほん俳優はいゆう
活動かつどう期間きかん 1947ねん - 1978ねん
配偶はいぐうしゃ ノーマ・マッカーティ(1955ねん-1956ねん
キャシー・オハラ(1959ねん-1978ねん
著名ちょめい家族かぞく キャスリーン・エミリー・ウッド(むすめ
おも作品さくひん
グレンとグレンダ
怪物かいぶつ花嫁はなよめ
プラン9・フロム・アウタースペース
死霊しりょう盆踊ぼんおど
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エド・ウッド(Ed Wood)としてられるエドワード・デイヴィス・ウッド・ジュニア(Edward Davis Wood Jr.、1924ねん10がつ10日とおか - 1978ねん12月10にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく映画えいが監督かんとく映画えいがプロデューサー脚本きゃくほん俳優はいゆうもすべてつとめた。

みずからが製作せいさくした映画えいががすべて興行こうぎょうてき失敗しっぱいしたため、「アメリカで最低さいてい映画えいが監督かんとく」とばれ、つね赤貧せきひんにあえぎ、貧困ひんこんのうちにぼっした。死因しいんアルコール中毒ちゅうどく

人物じんぶつ・エピソード

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没後ぼつごはしばらくわすれられていたが、映画えいが上映じょうえいけんやすたたかれた結果けっか深夜しんやテレビの映画えいがわくかえ放送ほうそうされることになった『プラン9・フロム・アウタースペース』が一部いちぶカルトてき人気にんき映画えいが評論ひょうろんまり、1980ねんに「ゴールデンターキーしょう」というほんにおいて「歴代れきだい最低さいてい映画えいが」として紹介しょうかいされ、「さい評価ひょうか」がはじまった。

かれ映画えいが出来できが、一義的いちぎてきには「最低さいてい最悪さいあく」であることに異論いろんをはさむものはすくない。かれさい評価ひょうかされたのは、最低さいてい最悪さいあく出来でき映画えいがばかりつくり、評価ひょうか最悪さいあくでありつづけた(というよりも評価ひょうか対象たいしょう以前いぜんだった)にもかかわらず、それでもなお映画えいが制作せいさくたいする熱意ねついや、ほとばしる情熱じょうねつ最後さいごまでうしなわなかったためである。これをもって「ハリウッドはん天才てんさい」「芸術げいじゅつ突然変異とつぜんへんい」との称号しょうごう(?)でしょうされることもある。

映画えいがづくりへのつよ情熱じょうねつっていたものの、まわりの環境かんきょうめぐまれることはなかった。自身じしん最高さいこう傑作けっさくしんじた『プラン9・フロム・アウタースペース』にまったかず、それどころかフィルムの営業えいぎょうをしていたプロデューサーが疲労ひろう絶望ぜつぼうのうちにくなってしまう。この事態じたいには、さすがのエド・ウッドもちひしがれ、アルコール依存いぞん酒浸さけびたりの生活せいかつおくるようになった。また、しつわる映画えいが常連じょうれんでありながらも圧倒的あっとうてき演技えんぎりょくでメリハリをつくっていたベラ・ルゴシ死去しきょするなど、精神せいしんてき負担ふたんおおきくなる出来事できごとつづけにきた。一般いっぱんかれ映画えいがのうち「評価ひょうか」される(つまりかれ個性こせい作風さくふう映画えいがづくりにたいする意欲いよくなどを明確めいかくかんじられる)のは『プラン9』以前いぜんさんほんまでで、以降いこうはただたん退屈たいくつなだけの映画えいが認知にんちされている。晩年ばんねんは、旺盛おうせいであった映画えいがづくりにたいする意欲いよくすらうしなわれ、てい予算よさん映画えいが脚本きゃくほんやポルノ小説しょうせつ執筆しっぴつ糊口ここうしのいでいたとわれる。

かれのファンといわれる映画えいが監督かんとくにはティム・バートンジョン・ウォーターズデヴィッド・リンチサム・ライミクエンティン・タランティーノなど。

ウッド自身じしん人物じんぶつぞう生涯しょうがいは、ジョニー・デップ主演しゅえん映画えいがされた『エド・ウッド』で垣間見かいまみることができる。そのほか関連かんれん資料しりょう映画えいが秘宝ひほう エド・ウッドとサイテー映画えいが世界せかい』と伝記でんき『エド・ウッド 史上しじょう最低さいてい映画えいが監督かんとく』に詳細しょうさい掲載けいさいされている。

2011ねんもと恋人こいびと作曲さっきょくドロレス・フラー英語えいごばん、2015ねん3がつグレゴリー・ウォルコット、そして2017ねん12月にコンラッド・ブルックス英語えいごばん死去しきょしたことで、エド・ウッド映画えいが出演しゅつえんしていた役者やくしゃ全員ぜんいん鬼籍きせきはいることとなった。

ぐんれき

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ウッドは1942ねん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのちアメリカ海兵かいへいたい入隊にゅうたいだい2防衛ぼうえい大隊だいたい英語えいごばん配属はいぞくされ伍長ごちょうとなり、タラワのたたか参加さんかした。かれ日本にっぽんへい銃床じゅうしょう殴打おうだされ前歯まえば2ほんうしない、また機関きかんじゅう攻撃こうげきによってあしすうかいたれている。

女装じょそうへきがあり、だい世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんしたさい上陸じょうりく作戦さくせんちゅうにブラジャーとパンツを軍服ぐんぷくした着込きこんでいた。かれは「ころされるよりも、負傷ふしょうして軍医ぐんいにばれることをおそれた」と主張しゅちょうした。

フィルモグラフィー

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このうち、『クレイジー・ナッツ』はエド・ウッドの遺稿いこう忠実ちゅうじつ映画えいがしたもので、脚本きゃくほんにセリフがかれていなかったためいっさいセリフのない実験じっけん映画えいがとなっている。出演しゅつえんしゃらもつまキャシー・ウッドをふく非常ひじょう豪華ごうか面々めんめんであり映画えいがじんのエド・ウッドへの愛慕あいぼしめ好例こうれいである。

また、このほかおおくのポルノ作品さくひん監督かんとくしている。

関連かんれん資料しりょう伝記でんき

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脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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