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エロル・ガーナー

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エロル・ガーナー
1940年代ねんだい撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい エロル・ルイ・ガーナー
生誕せいたん
死没しぼつ
ジャンル
職業しょくぎょう
担当たんとう楽器がっき ピアノ
活動かつどう期間きかん 1944ねん - 1974ねん
レーベル

エロル・ルイ・ガーナーErroll Louis Garner1921ねん6月15にち - 1977ねん1がつ2にち)はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうピッツバーグ出身しゅっしんジャズピアニスト作曲さっきょくエロール・ガーナーとも。あにのリントン・ガーナー(Linton Garner1915ねん - 2003ねん)もまたジャズピアニストであった。かれ独創どくそうてきで、うつくしい旋律せんりつ演奏えんそう技法ぎほうおおくの観衆かんしゅう同僚どうりょうのジャズミュージシャンから称賛しょうさんびた。生涯しょうがい楽譜がくふまっためず、また左利ひだりき[2]であった。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

エロル・ガーナーは1921ねんにペンシルベニアしゅうのピッツバーグでまれ、音楽おんがくきの両親りょうしん影響えいきょうで3さいよりピアノはじめる。かれはこのころより、ジャズやクラシックレコード手当てあてたり次第しだいくなどして、ピアノの演奏えんそうほう独学どくがく習得しゅうとくしていく。この独学どくがく、そして上記じょうきのように楽譜がくふめなかったことや左利ひだりききだったことがかれ独特どくとく音楽おんがくてき感性かんせい技術ぎじゅつそだてていくこととなる。

1944ねんニューヨークわたり、1947ねんには当時とうじ全盛ぜんせいほこったサクソフォーン奏者そうしゃチャーリー・パーカーとの共演きょうえんたしている。

1954ねんには「ミスティ」(Misty)を発表はっぴょう評判ひょうばんになる。のち作詞さくしのジョニー・バーク (Johnny Burke) により歌詞かしがつけられ、1959ねんジョニー・マティスによってうたわれだいヒット。その何人なんにんもの歌手かしゅによってカバーされるなど、ジャズのバラードにおけるスタンダードナンバーとなるほどのだい成功せいこうをおさめた。

よく1955ねんにはカリフォルニアしゅうカーメルでのライブ音源おんげんとしたアルバム、「コンサート・バイ・ザ・シー(Concert by the Sea)」や「コントラスツ(Contrasts)」を発表はっぴょうだいヒットを記録きろくかれ才能さいのう証明しょうめいされるとともに、後世こうせいのジャズピアニストにも影響えいきょうあたえる作品さくひんとなった。

かれ世界せかいてき名声めいせい各国かっこく都市とし演奏えんそう披露ひろうするとともに、多大ただい作品さくひん創作そうさくつづけた。

1977ねん1がつ2にち55さい死去しきょ

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

なんれたように、ガーナーは「ピアノの演奏えんそう独学どくがく習得しゅうとく」し、音楽おんがくてきめぐまれた環境かんきょうそだったにもかかわらず「楽譜がくふめず」、「左利ひだりき」であった。しかしこのことが独創どくそうせいのある表現ひょうげんにつながっていく。独学どくがくであったこと、そして楽譜がくふめなかったことでどのピアニストともていないかれ固有こゆうのサウンドがされ、演奏えんそう自由じゆう表現ひょうげんりょくゆたかなものになった。また、左利ひだりききであったことで演奏えんそうにおいては左手ひだりて強烈きょうれつビートリズム)をきざむことができたが、右手みぎてメロディ若干じゃっかんおくれてていた。しかし、そのことがかれ独自どくじ雰囲気ふんいきスウィングかんかもすことにつながった。次第しだいにその演出えんしゅつは 「ビハインド・ザ・ビート」とばれることとなり、かれのトリッキーなサウンドの代名詞だいめいしともいえるようになった。

かれだい人数にんずうでの演奏えんそうかたくなにきらっており、ソロしょう人数にんずうでの演奏えんそうコンボおもトリオ)にてっしていた。 

演奏えんそうちゅうはそれ自体じたいたのしむようにユーモラスな表情ひょうじょうせ、時折ときおりピアノをきながらも観客かんきゃく笑顔えがおりまいてよろこばせていた。

演奏えんそうちゅうにぶつぶつとなにっているが、これは楽譜がくふめないかれ音階おんかい記憶きおく一部いちぶくちしてそれを自身じしんいて確認かくにんしたりおもしていたためである。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

これだけのたか評価ひょうかているガーナーだが、自称じしょうコアなジャズファンやビバップいろつよいジャズミュージシャンからの評価ひょうかおおむたかくない。これはかれ演奏えんそう作品さくひん独特どくとくではあるものの、比較的ひかくてきポピュラーきなものであったからだといわれる。

また、上記じょうきの「ビハインド・ザ・ビート[3]」をこのむか、そうでないかによって当然とうぜん評価ひょうかわってくる。

ちなみに日本にっぽん音楽おんがく評論ひょうろんなどもあまり評価ひょうかをしない傾向けいこうがあり、かれ実績じっせきからすれば日本にっぽんでの知名度ちめいど過去かこから現在げんざいにわたっておおむひくいといえよう。

しかしながら、いずれにしてもかれ音色ねいろ世界せかいてき評価ひょうかている。

エピソード[編集へんしゅう]

エロル・ガーナーが楽譜がくふめないのは父親ちちおや影響えいきょうだとわれている。父親ちちおやのアーネストのそだった音楽おんがくてき環境かんきょうもエロル同様どうようめぐまれたものであったが、兄弟きょうだいのなかで唯一ゆいいつ独学どくがく自己流じこりゅうのピアノの演奏えんそうほうにつけたのがそのアーネストであった。エロルの天才てんさいてき音感おんかんづいた母親ははおやは、正式せいしきなピアノ教師きょうしまねいたが、父親ちちおやのことをってからずかかれ楽譜がくふにはもくれず、基礎きそてき知識ちしきについてもみみさず、勝手かってコードち、メロディ創作そうさくにしか興味きょうみたないかれ教師きょうし閉口へいこうしてしたそうである。

ガーナーは楽譜がくふめないかわりに驚異きょうい音感おんかん記憶きおくぬしであり、おもれいとしてはソ連それんのピアニストであるエミール・ギレリスのコンサートにおもむいたかれは、ギレリスの演奏えんそうしているきょく自分じぶん演奏えんそうしてみたくなり、わったのち自分じぶん部屋へやもど記憶きおくだけをたよりにそのきょくだい部分ぶぶんをこなしてしまった。ほかにも、「ミスティ」の旋律せんりつあたまかんだときかれ飛行機ひこうきなかにいたのだが、ができないかれ仕方しかたなくシカゴホテルまでメロディを記憶きおくし、いたとたんにすぐ演奏えんそうしてきょりたテープ録音ろくおんすることでなんのがれたなどということがあった。

かれ小柄こがらで5フィート2インチやく158cm)しかなく、よく電話でんわちょうたばうえすわってピアノをいていた。

日本人にっぽんじんジャズピアニストの上原うえはらひろみ小学生しょうがくせいのころからオスカー・ピーターソンとともにガーナーに熱中ねっちゅうしていた[4]

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

  • Serenade To Laura (1945)
  • Giants of the Piano (back to back with Art Tatum) (1947 Hollywood recordings with Red Callender and Hal West) Vogue LP LAE 12209
  • Early in Paris (1948) Blue Music Group
  • Penthouse Serenade (1949)
  • Erroll Garner (August 1949) Los Angeles recordings with John Simmons, Alvin Stoller (2 Vols Joker LP BM 3718-3719)
  • Erroll Garner (no date, circa 1951) with Wyatt Ruther and Fats Heard Philips B 07015 L
  • Erroll Garner plays for dancing (no date, circa 1951) Philips B 07622 R
  • Solo flight (no date, circa 1951) Philips B 07602 R
  • Erroll Garner at the Piano (1951-3 material) with Wyatt Ruther and Fats Heard, CBS reissue LP 62311
  • Mambo Moves Garner (1954) Mercury MG20055
  • Plays Misty (1954) Mercury SR60662
  • Gems (1954) Columbia CL583
  • Music for Tired Lovers, with Woody Herman singing (!) (1954) Columbia CL651
  • Concert by the Sea (1955) Columbia CL535
  • Contrasts (1955)
  • Solitaire (1955)
  • Afternoon of an Elf (1955) Mercury MG20090
  • The One and Only Erroll Garner (1956)
  • The Most Happy Piano (1956) Columbia CL939
  • He's Here! He's Gone! He's Garner! (1956)
  • Other Voices, with orchestra (1957) Columbia CL1014
  • Soliloquy (1957) Columbia CL1060
  • Paris Impressions (1958) Columbia #1216, double album
  • Informal Piano Improvisations (1962) Baronet B-109
  • Erroll Garner Amsterdam Concert (Concert 7 November 1964) Philips LP BL7717/632 204 BL
  • Erroll Garner Plays (1965) Ember LP FA 2011
  • Campus Concert (1966) MGM SE-4361
  • That's my Kick (1967) MGM SE-4463
  • Up in Erroll's room - featuring the Brass Bed (1968) Vanguard NSLP 28123
  • Feeling is Believing (1970) Mercury SR61308
  • Gemini (1972) London Records XPS617
  • Magician (1974) London Records APS640
  • Play it Again Erroll ( Reissued 1974) Columbia CL33424 double album
  • The Elf-The Savoy Sessions (1976) Savoy SJL 2207 double album
  • Long Ago and Far Away (1987)
  • Body and Soul (1991) Columbia CK47035

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Yanow, Scott. Erroll Garner Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2022ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ 左利ひだりききだったエロール・ガーナーのフレージング”. webcache.googleusercontent.com. www.hmv.co.jp. 2024ねん1がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  3. ^ WEEKEND JAZZ ~週末しゅうまつジャズめいばん探訪たんぼう Vol.34”. webcache.googleusercontent.com. tower.jp (2019ねん7がつ12にち). 2024ねん1がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん
  4. ^ Webおんゆうじん(みゅーじん). “エロル・ガーナーの『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』ですね”. webcache.googleusercontent.com. jp.yamaha.com. 2024ねん1がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『エロール・ガーナー』ジェームス・A・ドラン。