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ウディ・ハーマン

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ウディ・ハーマン
Woody Herman
ウディ・ハーマン(1976ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Woodrow Charles Thomas Herman
生誕せいたん (1913-05-16) 1913ねん5月16にち
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 ウィスコンシンしゅうミルウォーキー
死没しぼつ 1987ねん10月29にち(1987-10-29)(74さいぼつ
ジャンル ビッグバンド・ジャズ
職業しょくぎょう 歌手かしゅ管楽器かんがっき奏者そうしゃ
担当たんとう楽器がっき クラリネット
サクソフォーン

ウディ・ハーマン (Woody Herman本名ほんみょうWoodrow Charles Thomas Herman1913ねん5月16にち - 1987ねん10月29にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくクラリネット奏者そうしゃサクソフォーン奏者そうしゃ歌手かしゅ

1930年代ねんだいから1940年代ねんだいにかけてビッグバンドバンドリーダーとしても活躍かつやくし、そのバンドは "The Herd" (ザ・ハード、"herd"は「(草食そうしょく動物どうぶつの)」の意味いみ)としょうされた。最盛さいせいのバンドからおおくのすぐれたジャズ・ミュージシャンを輩出はいしゅつした功績こうせき特筆とくひつされる。

略歴りゃくれき

[編集へんしゅう]

ウィスコンシンしゅうミルウォーキーまれ。おさなころヴォードヴィル舞台ぶたい歌手かしゅとしてち、15さいにははやくもサクソフォーンのプロ演奏えんそうとして活動かつどうはじめる。

1936ねん所属しょぞくしていたアイシャム・ジョーンズ (Isham Jones) のバンドをぎ、ウディ・ハーマン・オーケストラとして活動かつどうはじめる。当初とうしょデューク・エリントン楽団がくだんカウント・ベイシー楽団がくだん影響えいきょう色濃いろこ反映はんえいしており、スウィング・ジャズ基調きちょうとしたブルースきょくおおえんじていた。

アイシャム・ジョーンズ楽団がくだんのメンバーをそのままいだハーマンは、不安定ふあんていなビッグバンド「運営うんえい」に「経営けいえいてき手法しゅほうれて安定あんていさせることを目論もくろんだ。 かれは、ジャズ史上しじょうはじめて株式会社かぶしきがいしゃ組織そしきのビッグバンドを設立せつりつしたことでられる。さらに、れるバンド運営うんえいには大衆たいしゅうかせるバンド・カラーとしての突出とっしゅつしたコンセプトが必要ひつよう、とかんがえた。 当時とうじのアメリカ社会しゃかいでは、ベニー・グッドマン楽団がくだん商業しょうぎょうてきだい成功せいこうによる白人はくじんビッグバンドがだいブームとなりつつあったが、いずれの楽団がくだんもブルースをさかんに演奏えんそうしたり敬愛けいあいする偉大いだい黒人こくじん奏者そうしゃ招聘しょうへいしていながら、実際じっさい商業しょうぎょうてきレコード販売はんばい方針ほうしんおおやけのコンサート会場かいじょうでは黒人こくじん奏者そうしゃをやむなく排除はいじょしていた。 ハーマンはここに着目ちゃくもくして、オール白人はくじんバンドながら(当時とうじのアメリカ社会しゃかいではきたないものとして差別さべつされていた)黒人こくじんしょく意識いしきした露骨ろこつなブルースバンド、という(当時とうじとしては斬新ざんしんな)コンセプトをまとうことにより、きゅうアイシャム・ジョーンズ楽団がくだんそのままのメンバーで、新生しんせい株式会社かぶしきがいしゃウディ・ハーマン楽団がくだんを「れる楽団がくだん」になるよう経営けいえい改革かいかくしていった。 これがハーマン楽団がくだん旗揚はたあの、ブルースバンド時代じだいである。

この初期しょきから "The Herd" としての原型げんけいられたとする批評ひひょうもあるが、一般いっぱんには1944ねん以降いこうのコロンビア・レコードとの契約けいやく以後いご活動かつどうして "First Herd" (だい1ウディ・ハーマン楽団がくだん)とばれている。このころのウディ・ハーマン楽団がくだんスウィングのリズムにビバップわせたそのサウンドは賞賛しょうさんけた。ハーマンは指揮しき演奏えんそうかたわら、バンドのシンガーとしても活躍かつやくしている。1945ねん2がつにはのちウエストコースト・ジャズだたるプレーヤーとなる若手わかてミュージシャンたちがつどい、強力きょうりょく陣容じんようかためられた。1946ねんにはリズム・アンド・ブルースさかい人気にんき歌手かしゅであるルイ・ジョーダンむかえて「カルドニア (Caldonia)」をレコーディング。バンドマンとして絶頂ぜっちょうむかえる。

ハーマン楽団がくだんのトレードマークである「ハード("The Herd")」とは、直訳ちょくやくすると動物どうぶつれを意味いみする。 モダンジャズ以降いこう、ウディ・ハーマン楽団がくだんはメンバーえやバンドコンセプト変更へんこうともない、さまざまな名称めいしょうかんした「ハード」を名乗なのることになる。 ジャズてきには上述じょうじゅつとおり、ビ・バップコンセプトの「ファースト・ハード」とクール・ジャズコンセプトの「セカンド・ハード」がさい重要じゅうようとされる。 ジャズかい全体ぜんたい演奏えんそうコンセプトとしてバップがすっかり一般いっぱんしてしまった(ハード・バップ時代じだい突入とつにゅうした)1950年代ねんだいになると、ファースト・ハードとセカンド・ハードの楽曲がっきょく踏襲とうしゅうしつつ(ハーマン自身じしんとしては)しんコンセプトの「サード・ハード」までがハーマン楽団がくだん最盛さいせいとされる。それ以降いこう雷鳴らいめいごとくいきりったファースト・ハード時代じだい回顧かいこした「サンダリング・ハード」、若手わかてメンバーにそうえした「ヤング・サンダリング・ハード」など、様々さまざまな「ハード」の名称めいしょう転々てんてんとした。 その「ハード」改称かいしょうおおさはハーマン本人ほんにんいわく、「自分じぶんでも一体いったいいくつのハードがあったのか、わからない」と冗談じょうだんめかしてひとわらわせたほどであった。 日本にっぽんで、この「ハード」をバンドめいれたのが、宮間みやま利之としゆきとニューハード(げん宮間みやま利之としゆき&ニューハード)である。

だいいちバンドはウディのキャリアにおいて経営けいえいてきには唯一ゆいいつ成功せいこうしたとされているが、このとしつまアルコール依存いぞんしょう薬物やくぶつ依存いぞんしょうたいするケアに専念せんねんするために、バンドを解散かいさんせざるをなかった。このとき、かつてハンフリー・ボガートローレン・バコールんでいたハリウッドのいえうつんでいる。

1947ねん、"Second Herd" とばれるだい2ウディ・ハーマン楽団がくだん結成けっせい。このときのサックスセクション(ズート・シムズサージ・チャロフハービー・スチュワードスタン・ゲッツ)を全面ぜんめんてきにフィーチャーした「フォー・ブラザース (en:Four Brothers (jazz standard)、1947ねん12月27にち発表はっぴょう) のだいヒットにより、このときのバンドは別名べつめい「フォー・ブラザース・バンド」ともばれている。また、バンドのアレンジャーでピアニストでもあるラルフ・バーンズが作曲さっきょくした組曲くみきょく「サマー・シークエンス」ちゅういちきょくでゲッツのソロをフィーチャーしたバラード・ナンバー「アーリー・オータム」は、うつくしい曲調きょくちょうで1948ねんだいヒットし、「フォー・ブラザーズ」とならぶハーマン楽団がくだんセカンド・ハードの代表だいひょうきょくとなった。

1950年代ねんだい以後いご時流じりゅう変化へんかでビッグ・バンドの経営けいえい自体じたい困難こんなんになり、バンドの主力しゅりょくであった有力ゆうりょくミュージシャンのおおくがソロ活動かつどうのため独立どくりつしていったことや、またジャズかいでの主流しゅりゅうがスモールコンボに移行いこうしたために活動かつどうはやや低調ていちょうになっていくが、ウディはいくかの中断ちゅうだんながらもビッグ・バンドでの活動かつどう継続けいぞくはかった。このころ共演きょうえんしゃナット・アダレイエディ・コスタチャーリー・バードがいる。

1960年代ねんだいにはロック影響えいきょうけ、エレクトリックピアノエレクトリックベースをリズムセクションにくわえ、ブラス・ロックいろつよ作品さくひん発表はっぴょうほかにもファゴットオーボエフレンチホルンなど通常つうじょうジャズでもちいられない楽器がっきくわえた作品さくひん発表はっぴょうしている。過去かこかれ音楽おんがくせいかえると、めずらしい楽器がっき前面ぜんめん方針ほうしんは、もっと初期しょきのブルース・バンド時代じだいから萌芽ほうががみられ、1930年代ねんだいフリューゲルホルン奏者そうしゃ:ジョー・ビショップ)をさかんにフィーチャーしていた。また、「セカンド・ハード」旗揚はたあげのコンセプトは、ジャズのスタイルじょうは「クール」であるが、編曲へんきょく技術ぎじゅつてきにはテナー・サックスをリードとする(通常つうじょうはアルトがサックス・セクションのリードをるのが常道じょうどうだった)ことで斬新ざんしんめずらしいビッグバンドスタイル体現たいげんしていた。

1987ねん10がつ29にち死去しきょ晩年ばんねんは1960年代ねんだいつくってしまった税法ぜいほうじょう追徴金ついちょうきん返済へんさいのためにぎりぎりまで活動かつどうつづけていたという。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • ジャズ批評ひひょう編集へんしゅうへん へん『ジャズ管楽器かんがっき : バリトン・サックス/ソプラノ・サックス/クラリネット/フルート/トロンボーン松坂まつさか〈ジャズ批評ひひょうブックス〉、2002ねん、105ぺーじISBN 4-915557-12-X