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クリスティアン1せい (アンハルト=ベルンブルクこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
クリスティアン1せい
Christian I.
アンハルト=ベルンブルクほう
在位ざいい 1606ねん - 1630ねん

出生しゅっしょう (1568-05-11) 1568ねん5月11にち
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
アンハルトこうりょうベルンブルク
死去しきょ (1630-04-17) 1630ねん4がつ17にち(61さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 かみきよしマ帝国まていこく
アンハルト=ベルンブルクほうりょう、ベルンブルク
配偶はいぐうしゃ アンナ・フォン・ベントハイム=テクレンブルク
子女しじょ 一覧いちらん参照さんしょう
家名かめい アスカーニエン
父親ちちおや アンハルトこうヨアヒム・エルンスト
母親ははおや アグネス・フォン・バルビ=ミューリンゲン
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クリスティアン1せいChristian I. Fürst von Anhalt-Bernburg, 1568ねん5月11にち - 1630ねん4がつ17にち)は、ドイツアンハルト=ベルンブルクほう在位ざいい1606ねん - 1630ねん)。1610ねんよりプファルツせんみかどほうりょうだい法官ほうかんつとめ、1620ねん白山はくさんたたかではプロテスタントがわ最高さいこう司令しれいかんつとめた。

生涯しょうがい

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アンハルトこうヨアヒム・エルンストとその最初さいしょつまでバルビ=ミューリンゲンはくヴォルフガング1せいむすめであるアグネスのあいだあいだ次男じなんとしてまれた。1570ねんデッサウうつり、家庭かてい教師きょうしのカスパー・ゴットシャルク(Caspar Gottschalk)にラテン語らてんごイタリアフランス語ふらんすごまなんだ。おさなころよりイスタンブール宮廷きゅうていおとずれるなど様々さまざま外交がいこう交渉こうしょう参加さんかし、有能ゆうのう洗練せんれんされた外交がいこうかんそだった。

1586ねんよりすうねんあいだザクセンせんみかどほうりょう首都しゅとドレスデン滞在たいざいし、せんみかどこうクリスティアン1せい親友しんゆうとなり、せんみかどこうともカルヴァン教義きょうぎ共鳴きょうめいした。またドレスデン宮廷きゅうてい滞在たいざいちゅうアルコール使用しよう障害しょうがいくるしんだこともある。

その、クリスティアンはやはりカルヴァン信徒しんとのプファルツせんみかどこうフリードリヒ4せいつかえるようになり、1591ねんにはフランスおうアンリ4せい支援しえんすべく、プファルツの軍隊ぐんたいひきいてフランスにおもむいた。1592ねんブランデンブルクせんみかどほうりょうロレーヌ公国こうこくとのあいだストラスブール司教しきょうりょう領有りょうゆうけんをめぐる係争けいそうきたさいは、前者ぜんしゃ支持しじした。1595ねんにフリードリヒ4せいによってオーバープファルツ地方ちほう総督そうとく任命にんめいされ、アンベルク赴任ふにんした。

1586ねんちちともなって兄弟きょうだいともにアンハルトの所領しょりょう共同きょうどう相続そうぞくした。1603ねんあにヨハン・ゲオルク1せいと3にん異母弟いぼていアウグストルドルフルートヴィヒ1せい)とのあいだいえりょう分割ぶんかつ協定きょうていむすばれ、クリスティアンは1606ねんあによりベルンブルクとその付属ふぞくりょうゆずられた。1619ねんには、兄弟きょうだいたちとも貴族きぞく文芸ぶんげいサークル「みのりをむすかい」の会員かいいんとなった。

クリスティアンは外交がいこうかんとしての能力のうりょくかし、1608ねんプロテスタント同盟どうめい(ウニオン)の結成けっせい重要じゅうよう役割やくわりたした。1619ねん主君しゅくんせんみかどこうフリードリヒ5せい(フリードリヒ4せい息子むすこ)がボヘミア国王こくおう選出せんしゅつされると、フリードリヒ5せいによって神聖しんせいローマ皇帝こうていフェルディナント2せい侵略しんりゃくからボヘミアのプロテスタント勢力せいりょく防衛ぼうえいする司令しれいかん任命にんめいされている。1620ねん白山はくさんたたか指揮しきったが皇帝こうていぐん惨敗ざんぱいしたさいプラハのこって皇帝こうていむかとうとするフリードリヒ5せいげるよう説得せっとくした。

1621ねん、クリスティアンはプファルツせんみかどこうとの関係かんけい理由りゆう皇帝こうてい政府せいふより帝国ていこくアハトけいせられ、帝国ていこくないにおける法的ほうてき保護ほごおよびりょうたいする所有しょゆうけん剥奪はくだつされた。クリスティアンはまずスウェーデン亡命ぼうめいし、そのデンマークおうクリスチャン4せい宮廷きゅうてい賓客ひんきゃくとなった。皇帝こうていへの嘆願たんがんみのり、クリスティアンは1624ねんりょうへの帰還きかんゆるされ、1630ねん死去しきょ

子女しじょ

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1595ねん7がつ2にち、ベントハイム=テクレンブルクはくアルノルト3せいむすめアンナ(1579ねん - 1624ねん)と結婚けっこんした。夫妻ふさいあいだには16にん子女しじょがあった。

  • フリードリヒ・クリスティアン(1596ねん
  • アマーリエ・ユリアーネ(1597ねん - 1605ねん
  • クリスティアン2せい(1599ねん - 1656ねん) - アンハルト=ベルンブルクこう
  • エレオノーレ・マリー(1600ねん - 1657ねん) - 1626ねん、メクレンブルク=ギュストローこうヨハン・アルブレヒト2せい結婚けっこん
  • むすめ(1601ねん
  • ジビッレ・エリーザベト(1602ねん - 1648ねん
  • アンナ・マルガレーテ(1603ねん - 1611ねん
  • アンナ・ゾフィー(1604ねん - 1640ねん
  • ルイーゼ・アマーリエ(1606ねん - 1635ねん
  • エルンスト(1608ねん - 1632ねん
  • アメーナ・ユリアーネ(1609ねん - 1628ねん
  • アグネス・マグダレーネ(1612ねん - 1629ねん
  • フリードリヒ(1613ねん - 1670ねん) - アンハルト=ハルツゲローデこう
  • ゾフィー・マルガレーテ(1615ねん - 1673ねん) - 1651ねん、アンハルト=デッサウこうヨハン・カジミール結婚けっこん
  • ドロテア・マティルデ(1617ねん - 1656ねん
  • フリードリヒ・ルートヴィヒ(1619ねん - 1621ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Parker, Geoffrey (ed.) (1997): The Thirty Years' War: Second Edition. Routledge.
  • Pursell, Brennan C. The Winter King. Aldershot: Ashgate, 2003.
  • Yates, Frances. The Rosicrucian Enlightenment. London; New York: Routledge, 1972. ISBN 0-415-26769-2
先代せんだい
アンハルト=ベルンブルクこう
1606ねん - 1630ねん
次代じだい
クリスティアン2せい