クルクズ

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クルクズとは、モンゴル帝国ていこくつかえたウイグルじん文官ぶんかん一人ひとりイラン方面ほうめんにおけるモンゴル帝国ていこく統治とうち機関きかん研究けんきゅうしゃによってイラン総督そうとく呼称こしょうする)のだい3だい長官ちょうかんとなった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

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クルクズは天山あまやま山脈さんみゃくひがしはしビシュバリクから4ファルサングはなれたバルリグという小村こむらまれた。おさなくしてちちをなくしたがウイグル文字もじ習得しゅうとくはげみ、やがてチンギス・カン長男ちょうなんジョチ家臣かしんつかえるようになった。ある、ジョチが巻狩まきがりおこなっているときにカアンからウイグルぶんみことのりれいとどいたが、ちかくにはだれめるものがいなかった。そこでクルクズがすすみことのりれいげたので、このいちけんでクルクズの能力のうりょくったジョチはクルクズを書記官しょきかんとしててるようになったという[1]。やがてチン・テムル主導しゅどうしたでイラン総督そうとく組織そしきされると、クルクズはジョチ権益けんえき代表だいひょうするものとしておくまれた[2]

イラン総督そうとく[編集へんしゅう]

1233ねんオゴデイより正式せいしきにイラン総督そうとく地位ちいみとめられたチン・テムルはクルクズとホラーサーン官僚かんりょうバハーウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニー(『世界せかい征服せいふくしゃ』の著者ちょしゃアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーちち)をクリルタイ開催かいさいにあわせてオゴデイのした派遣はけんし、オゴデイのした到着とうちゃくしたクルクズはその雄弁ゆうべんさによってオゴデイをよろこばせ、恩賜おんし(ソユルガル)をた。さらにオゴデイ直属ちょくぞく書記しょき官僚かんりょうチンカイ知遇ちぐうたバハーウッディーンはパイザみことのりれいジャルリグ)とともにサーヒブ・ディーワーンしょくさづけられた。

クルクズがイランに帰還きかんするとチン・テムルはすでくなっており、イラン総督そうとく地位ちい将軍しょうぐんのノサルがまましいだが、すでにかなりの高齢こうれいであったノサルに事務じむ処理しょり能力のうりょくはなく実権じっけんはクルクズにうつっていった[2]。ノサルが総督そうとく就任しゅうにんしたころ、マリク・バハーウッディーンが訴訟そしょうのためにカラコルムのオゴデイのしたおとずれていたが、イランにもどるにあたってクルクズのカラコルム召還しょうかん命令めいれいたずさえてきた。ノサルとクル・ボラトはクルクズの召還しょうかんよろこばなかったものの最終さいしゅうてきには同意どういし、クルクズはマリク・バハーウッディーンらホラーサーンの有力ゆうりょくしゃたちとともにカラコルムのオゴデイのしたおとずれた[3]

カラコルムでは財務ざいむ官僚かんりょうダーニシュマンド・ハージブがクルクズを罷免ひめんしてチン・テムルののエドグ・テムルをその後継こうけいしゃとせんと画策かくさくしていたが、一方いっぽうでクルクズに好意こういてきなチンカイが「ホラーサーンの有力ゆうりょくしゃたちはクルクズをのぞんでいる」とオゴデイに助言じょげんしていた。そこでオゴデイはふたたびクルクズをイランに派遣はけんして人口じんこう調査ちょうさおこなわせ、その仕事しごとぶりを見極みきわめるたうえ処遇しょぐうめる、と命令めいれいした。このみことのりれいけたクルクズはいそぎイランに帰国きこくするとオゴデイのかり任命にんめいしょをたてにノサル、クル・ボラトから実権じっけんうばってイラン経営けいえいんだ。このころのクルクズの業績ぎょうせきは 『世界せかい征服せいふくしゃ』に「みんあいだ正義せいぎ公正こうせいひろげた……しょ都市とし復興ふっこう希望きぼうあらわわとなった」としるされている[3]

一方いっぽう、チン・テムルの死亡しぼうとクルクズの抜擢ばってき不遇ふぐうかこっていたものたちがエドグ・テムルのしたあつまり、オゴデイのしたにトングズを派遣はけんしてクルクズを告発こくはつさせた。また、チンカイの敵対てきたい派閥はばつもこのうごきに協力きょうりょくしたため、あらためてアルグン・アカ、クルバカ、シャムス・ウッディーンの3めいがホラーサーンの実態じったい調査ちょうさのために派遣はけんされることになった。この反対はんたい運動うんどうったクルクズはバハーウッディーンをみずからの代理だいりとしてのこしていそぎカラコルムを目指めざしたが、道中どうちゅうでアルグンらと合流ごうりゅうしたクルクズはテムルチという使者ししゃをカラコルムに派遣はけんしてみずからはイランに帰還きかんした。このあいだ、エドグ・テムル一派いっぱ官舎かんしゃからクルクズ官僚かんりょうし、さらにクルクズがそれをさい奪還だっかんするなど混乱こんらんつづいたが、最終さいしゅうてきにはカラコルム からもどったテムルチが「関係かんけいしゃはカラコルムに出頭しゅっとうして裁定さいていけよ」というオゴデイからのみことのりれいをもたらした。カラコルムでおこなわれた裁判さいばんでも容易ようい決着けっちゃくはつかなかったが、最終さいしゅうてきにはオゴデイの命令めいれいによってクルクズの勝訴しょうそとなり、クルクズはあらためて総督そうとく任命にんめいみことのりれい[4]

カラコルムでの裁判さいばんえたクルクズはバトゥおとうとのタングートと面会めんかいしてホラズム経由けいゆでイランに1239ねんの11月-12月ごろ帰還きかんし、バハーウッディーンらの歓迎かんげいけた。どう時期じきにノサルは病死びょうしし、クル・ボラトも暗殺あんさつされたためもはやクルクズをさえぎものはなく、クルクズはイラン総督そうとく拠点きょてんトゥースうつしてイラン経営けいえい再開さいかいした[4]。また、このときオゴデイよりクルクズにあたえられたみことのりれいには「アムかわ以西いせい)、チョルマグンのぐん征服せいふくした全土ぜんどさづける」とあり[4]従来じゅうらいのホラーサーン、マーザンダラーンしゅうくわえてイラン西部せいぶからアナトリア半島はんとう東部とうぶいた広大こうだい地域ちいきがイラン総督そうとく管轄かんかつはいった。そこでクルクズはみずからの息子むすこたちをイラク、アッラーン、アゼルバイジャンに派遣はけんして現地げんち統治とうちゆだねている[5]

失脚しっきゃく[編集へんしゅう]

1241ねん、クルクズはふたたびカラコルムでオゴデイに面会めんかいすべくイランをったが、道中どうちゅうでクルクズはチャガタイの近侍きんじサルタクと口論こうろんになり、このいちけんけにチャガタイからクルクズは告発こくはつされるにいたった。一方いっぽう、クルクズの敵対てきたい派閥はばつであったシャラフ・ウッディーンはこのころアーザードヴァールで捕虜ほりょとなっていたが、そのつまによってもクルクズの告発こくはつがなされた。この 2けん告発こくはつ理由りゆうにアルグン、クルバカがふたたびクルクズ逮捕たいほのために派遣はけんされ、これに反発はんぱつしたクルクズはトゥースにてこもって抵抗ていこうしたが、最終さいしゅうてきにはノサルののトバダイにらえられた。らえられたクルクズはまずチャガタイ・ウルスにおくられてそこで裁判さいばんけたが、最終さいしゅう判決はんけつはカラコルムの中央ちゅうおう政府せいふゆだねられた。このころ、カラコルムではオゴデイの寡婦かふドレゲネ国政こくせい代行だいこうしていたが、シャラフ・ウッディーンがドレゲネの側近そっきんファーティマ・ハトゥンって政治せいじ工作こうさくした結果けっかクルクズはチャガタイ・ウルスにおくかえされ、そこでくちいしめられて処刑しょけいされた[6]

クルクズはチン・テムルがイラン総督そうとく創設そうせつにあたって登用とうようしていたホラズム官僚かんりょう対抗たいこうしてバハーウッディーンらホラーサーン有力ゆうりょくしゃ官僚かんりょうむすびつき、かれらの支持しじ背景はいけいにイラン総督そうとく地位ちいたもっていた。とくにバハーウッディーンは個人こじんてきにもクルクズとしたしく、クルクズの死後しごにカラコルムをたずねたおり、クルクズの出身しゅっしんおとずれていてもいる。クルクズのイラン総督そうとくとしての活動かつどうはホラーサーン官僚かんりょうとホラズム官僚かんりょう政争せいそう表裏一体ひょうりいったいであり、『世界せかい征服せいふくしゃ』もこのてんおおくの記述きじゅついている[7]

また、初代しょだい総督そうとくチン・テムル、2代目だいめ総督そうとくノサルはともにモンゴル伝統でんとうぶし移動いどうおこなっていたが、クルクズはトゥースへの移住いじゅう以降いこう本拠ほんきょうつさず、のトゥース繁栄はんえいいしずえつくったといえる[5]

イラン総督そうとく歴代れきだい総督そうとく[編集へんしゅう]

  1. チン・テムル
  2. ノサル
  3. クルクズ
  4. アルグン・アカ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 坂本さかもと1970,84-85ぺーじ
  2. ^ a b 本田ほんだ1991,110ぺーじ
  3. ^ a b 本田ほんだ1991,111ぺーじ
  4. ^ a b c 本田ほんだ1991,112ぺーじ
  5. ^ a b 本田ほんだ1991,116ぺーじ
  6. ^ 本田ほんだ1991,113ぺーじ
  7. ^ 本田ほんだ1991,114-115ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 坂本さかもとつとむ「モンゴル帝国ていこくにおける必闍あか=bitikci:けんそうメングの時代じだいまでを中心ちゅうしんとして」『史学しがくだい4ごう、1970ねん
  • 本田ほんだみのるしんじ『モンゴル時代じだい研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1991ねん